Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

怖気づいた伊人の実力

2019-03-16 | 
デンマークからの放送のストリーミングはとても音質が良い。そして評判の演奏は最初の「仮面舞踏会」序曲から程度が低かった。少なくとも私が長く所持している全曲盤の程度に遠く及ばない。制作と生の違いではなく所謂アインストュディールングが成っておらず、指揮者が何も分かっていない。今調べるとブロムシュテットが指揮していた楽団と同じようだ。つまり指揮者が悪いということになる。

指揮者は私自身スイスの作曲家から推薦されて初めて知ったファビオ・ルイージという名のイタリア人であって、二月始めに初めてそのオペラ指揮を聞く予定にしていた。しかし、指揮者のキャンセルで叶わなかった。昨今は、自分のために誰それが指揮してくれると確信している人がいるが、私がチューリッヒのオペラの初日に出かけると知って、どうもこの指揮者が怖気づいたようだ。そう信じて疑いが無いが、そもそもイタリア人指揮者などを信じるのがいけない。しかしまだファビオから取り繕うメールは入っていない。

それにしてもネットでの反響からしてこの程度の放送管弦楽団よりもN響の弦が冴えないとすると、明らかに二流以下である。その元首席指揮者ブロムシュテットのキャリアが示すように、大体バムベルクなどと同程度の実力であることは三小節も聞けば玄人なら直ぐに分かる。なるほど日本ではミュンヘンの放送交響楽団が世界屈指の楽団のように扱われている意味がこれで分かる。要するにマナスルどころか、六千メートル級の無名峰でも麓から見ればチョモランマと変わらないように高く見えるという状況らしい。感動する聴衆には何も罪は無いのであって、いけないのはジャーナリズム不在である。

それにしてもルイージという指揮者は思っていたよりも程度が低い。これならブロムシュテット指揮の方が嬉しい。間違いなくフィリップ・ジョルダンの方がまともにコンサートを振れると思う。その通り、そのキャリアの地位でもう完全に追い抜いている。あれほど才能の無い指揮者と思ってもやはりルイージよりは良いだろう。昨年ルイージを聞きに行くと言ったら「全然駄目」と吐き捨てた彼の指揮をよく知っている友人に来月再会することになっているが、これはその話で大変盛り上がりそうだ。

勿論ジャーナリスムと言ってもこのように単刀直入に元も子もないことを書くと誰も特に感動したがりのターゲット聴衆には全く届かない。しかし、先日のランランの新譜発表を受けてのFAZマガジンのようにあまりにも鋭く真実を書いてしまうと誰も反論できなくなる。つまり、その新アルバムはピアノを習い始めたシナの四千万人の若者のための曲集で、その中で最も難易度の高いメンデルスゾーンの「糸紡ぎ」の曲でも、才能の無いピアノの学生でも弾け、嘗てのようなアクロバチックなピアノを弾かないようになったとだけ客観的な事象を書けば全て事足りる。一体ものを書いて糊代を稼いでいる者がその程度の綴り方も出来ないでどうしようというのだ。それにしてもデンマーク語の子音の朝鮮語のような音やシナ語のようなイントネーションはなんだろう。スェーデン語の方がもう少し深く発音してこのような弾く子音は少ないように思うのだが、馴染めないと思った。

木曜日の文化欄にベートーヴェンフェストのニケ・ヴァークナーの発言が載っている。ミュンヘンの音楽大学長だったジークルリート・モイザーに関しての発言で、一度は学内での女性暴行で有罪が確定したピアニストにフェストに参加を計画したが、市民の反対に合って取り止めたことについてである。それどころか新聞に「職業女性は天使ではいられない」とMeToo運動を真っ向から否定するような発言をしていて、それについては撤回しない一方、フェスティヴァルのことを考えてもうこれ以上は発言しないとしている。要するにお友達のモイザーを擁護しているのだろうが、この優柔不断な態度は全くよくなかった。音楽関係でも歌手のエリザベート・クールマンなどは、指揮者のグスタフ・クーンの復帰を強く糾弾している。そしてドレスデンのシュターツカペレにはガッティ―が登場する。

ヴァークナー博士のような見識があっても、やはりキャリアーなどとは全く関係の無い女性たちと同じで、また「使われるものの悲哀」などは全く分からない人なのだなと思う。MeToo的なポピュリズムとは異なるコンテクストで事象が見れないとすると、もうそれは仕方がない。ボンでの経営収支も悪くなっていて、何処となく黄昏感が靡く。そのように思うともう一人のパスキエ女史が昨年の「ヴァルキューレ」で最後まで拍手していたのにも拘らずもう一つ冴えなかった表情を思い出す。何か不満でもあったのだろうか?



参照:
都市文化を再考する 2019-02-04 | 文化一般
いつも同じことの繰り返し 2017-12-07 | マスメディア批評
放送管弦楽団あれこれ 2019-02-09 | 雑感
私にとって、それは神だ 2017-11-27 | アウトドーア・環境
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陽の当る女、影の無い男

2019-03-13 | 
週末はストリーミングで多くを経験した。日本語SNSに目を通すと、「CDでなければ判断しない」という極論まであって驚いた。確かに半世紀前の日本ならばLPで云々謂う人はあったかもしれない。そしてレコード芸術という名の雑誌まである国でどうしてこうした言説が今でも生じるのか?実は私自身も知らぬうちに囚われていて、音楽家のメインレパートリーという表現をキリル・ペトレンコにも容易に使っていた。これも良く考えると、メディア産業がカタログのレパートリーからこの人にはこれというような区分を付けていたころから生じた概念だと気が付いた。なるほど苦手な作曲家やエピックがあるとペトレンコ自身も語るように、またロシアものをという必然性はあっても、例えばシェーンベルクをメインにするとかいうようなカテゴリー付けはカタログ分類だと気が付いた。レパートリーと芸術的な活動は密接な繋がりがあっても、そこから発生する活動の広がりこそが重要なので、一枚のディスクに収まるようなものではないということだ。

「レコード芸術」という言葉がある通り、それは独立した芸術であって、必ずしも音楽家の芸術的な活動とは一致しないということが半世紀前から常識として認識されておらず、今こうしたストリーミングでそうした再現芸術からまた切り離したところでのライヴ感を居ながらにして味わうことが可能となっている。嘗てのラディオ中継とも変わらないところもあり異なるところもある。しかしここではそれ以前に芸術的音楽的活動をどのように捉えるかという更なる根本へと遡る。

日曜日は半分忘れかけていたハイティンク指揮のブルックナーの四番交響曲の生放送を見た。前回はガーディナー指揮で情けない放送になっていたロンドン交響楽団の演奏会だ。なんといっても第一ホルンを吹き切った若いケティ・ウーレィーがアンサムブルを支えていて、先日のベルリンでのデングラーに続いて管弦楽の芯を作るホルンの技を堪能した。全くその年齢も性別も経験も異なり音楽性が違うが両者ともゲストの立場でとても大きな影響を与えていた。重なる音程関係の基礎になるという意味では、ベルリンで有名なドールなどが浮いてしまいかねないのだが、特にこの若い女流のそれはこの交響楽団の演奏法に合わせているような器用そうなところを聴かせていた。基本は独特の弦合奏にあると思うが、面白いことにハイティンクがここでは独伝統配置で演奏させていた。益々、コンセルトトヘボーやトーンハレやBRでは曲にもよるかもしれないがより安易な楽器配置をさせているのだろうかと思った。見事な弦合奏にミュンヘンのコンクールから出てきたこれまた女流のコッホのオーボエなどが綺麗に合奏して、上手に合わせるそれがまた聴きものだった。
Bruckner Symphony No 4, 'Romantic', mvt 1 // London Symphony Orchestra & Bernard Haitink

Bruckner Symphony No 4, 'Romantic', mvt 2 // London Symphony Orchestra & Bernard Haitink


前半のモーツァルトの協奏曲はベルリナーフィルハーモニカーの小編成に適わなく、交響曲四楽章ではそこ時からと音響の広がりがブロムシュテットのヴィーナフィルハーモニカーや自身の振ったトーンハレの鳴りには適わなかったが、それ以上に美しい緩徐楽章があった。この管弦楽団の美点はいたるところに輝く。チェリビダッケ指揮以降聴いていなかったが、今年はチャンスがあると思う。ドイツでの公演回数も多くて売れっ子楽団であるが今まではそのプログラムなどで食指が動かなかった。
Mozart Piano Concerto No 22, K482 // London Symphony Orchestra & Bernard Haitink, Till Fellner


件のウーレィはコンセルトヘボーの首席に決まっているようで写真は見たことがあったが、ロンドン交響楽団で吹くとは思っていなかった。コンセルトヘボーに行けば行ったでそれに合した音を出せそうで、深い音も出していたので、若干細い感じはしたが、芯がある音であれだけ吹かせれるならば、より合わせた音を出したとしても問題は無く吹けるのではなかろうか。
Bruckner Symphony No 4, 'Romantic', mvt 3 // London Symphony Orchestra & Bernard Haitink

Bruckner Symphony No 4, 'Romantic', mvt 4 // London Symphony Orchestra & Bernard Haitink


ここでどうしても考えてしまうのが、試験で本番にアムステルダムでも何回か乗っていた筈だが、その時はあのMeTooのガッティ指揮だったのだろう。いづれにしても彼女があれだけ吹ければ、コンセルトヘボーが契約するのは全く不思議でもなく、上手く採れたなと思う。

ドレスデンからのシュターツカペレドレスデンのプログラム発表中継を見た。最初から場所もVWの車両引き取り社屋で、口上で多様性を強調され、真ん中に陣取る音楽監督は檻に入れられた飼い猫のようだった。メストがツアー同行など完全に断ったようだが ― 何か一悶着あったか? ―、あれだけ包囲網があれば本人の自爆を待つだけだ。「グレの歌」の20人を18人に減らされてとか愚痴っていればよいだろう。その男がシューマン交響曲全集などをソニーから出すといい、如何にも今更のようなことを口に出し3Bとか幾ら話しても影が薄い。まさしく去勢されたような「影の無い男」だ。



参照:
運命が拓かれるとき 2019-03-11 | 文化一般
杖無しに立たせる指揮棒 2018-09-21 | 音
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謎多い麗女が決めるもの

2019-02-26 | 
ネットを見ていると、アカデミー賞の話題のようだ。関心が無いので流していたら、バーデンバーデンでデズデモーナを歌うソニア・ヤンツェヴァが何かを呟いている。どうもアカデミー賞でベストドレッサー賞を貰ったようだ。映画女優でもないのでオスカーとか意味が分からないが、先日来復活祭のマガジンを見て、メトからの声を聞いて、どうなんだろうと思った。音楽の世界もやくざだが更にやくざな映画界となるとなんでもありなのかどうか?

ブルガリヤの人で個人的には彼女より幾らでも綺麗な女性を知っているが、15歳でモーツァルトのオペラに出合って、ピアノを普通に弾いていた少女がオペラに目覚めたという。それを母親が直ぐに全面協力したという馬鹿話が大きな実を結んだようで世の中分からない。ノルマとかとても厳しい声の役柄をこなしていて、自然にそれが出来ているというのが金の取れるオペラ歌手のようだ。そこに天性の直感で役作りをしてしまうというぐらいでないと、あれだけ若くして世界の頂点には立てないのだろう。

デズデモーナの役作りで、「オテロなんてか弱いよそ者よ」となる。これまた自己決定の強過ぎる女を歌うようだ。相手役のスケルトンの性格の弱さからすると完全に女性上位の舞台で、そのような音楽をメータが指揮することになる。そして、「68年後のフリーセックスから現在のMeTooを通して、謎の多い魅力的な女性が征服されたいのかそうではないのかを自己決定するもの」と言われればご尤もとなるとインタヴューは締めくくっている。

ユロウスキ―指揮のベルリン放送交響楽団の演奏会があった。初日は放送されたがアルペン交響曲の頂上で中断した。放送局の言い訳のアナウンスが如何にもドイツの小役人らしい。なんと「デジタルの時間を調整していなかったので、その通り予定の次の番組へ」とぬかした。あれは放送事故扱いにならずに、つまり予定通りの生中継だったのか?そもそも新曲が18分と長く続き、そのあとも無理に日本公演の準備に押し込んだモーツァルトの協奏曲が演奏された。休憩を入れて優に2時間15分程の演奏会となった。ジャンダルムマルクトの会場にいた人はお得だったに違いない。

次期ミュンヘンの監督になるオペラ指揮者として頂点を目指せる指揮者の日本公演が成功してくれることを望むが、日曜日の諏訪内が弾く実況録音の放送日程までが変わったことで、そこに何か疑惑を抱かせるようなことになってとても残念である。

日本公演のプログラムに関しては既に言及して、足代顎代節約のためにアルペン交響曲を持っていけないのは分かるが、更に日本で人気のありそうなアンスネスと称するピアニストを込みで売り込むのが徒になりそうだ。初日のその演奏が肝心の放送交響楽団までの足を引っ張っていそうである。実際に放送を聞くとまるで顔面を蒼白にして演奏しているようで、二種類の評が書く通り気持ち悪い感じが強い。アンコールのモンポーで何とかの意見もあるが、それもおかしな演奏だ。一寸同じ国出身の頭の悪そうなフォークトという人にも似ていて北欧風なのだろうか。繕うためにメディアはきっとお門違いのレパートリーでの出演だったのだろうと口をそろえて言う。しかしこれではランランより悪い ― 聞くところによると故障上がりという、全く同じだ。そしてこの曲を持って日本へと向かうということだから、プログラム変更のようだ。この演奏ではミュンヘンの放送交響楽団を凌駕するところではないのは明らかだ。



参照:
一流の催し物の周辺 2019-02-10 | SNS・BLOG研究
入場券を追加購入する 2018-01-18 | 生活
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「私のこと考えてくれて」

2019-02-25 | 
三月のベルリナーフィルハーモニカーの放送予定が出ている。シェーンベルクの協奏曲のプログラムで場合によっては大きな話題になるに違いない。先ずは3月7日(木)初日にラディオ生放送である。金曜日を空けて再び最終日の土曜日に今度はDCHで放映となる。ラディオ放送があるので無理して生で見る必要はないのだが、アップロードされる時期などが確実でないと資料にならないことがある。やはり一週間券をそこで購入しよう。その一週間前のメータ指揮コンサートはその次の週ぐらいにアップされるだろうか。そろそろ復活祭の準備である。ベートーヴェンも考え直し、後期の作品群へと同時に目を向けさせてくれるのも指揮者のキリル・ペトレンコのお蔭だ。

ペトレンコの場合、それをプロジェクトとして差し出すことは無いのだが、オペラも含めて絶えず関心の矛先が明確にあって、私のように並行してお勉強するものには僅かばかりでもその環境に触れることが出来る。嘗て小澤征爾がどこかでオペラを取り上げる前に態々日本語で日本で上演していたのとは一寸違うプロセスだ。とても音楽芸術的に核心を垣間見ることになる。しかしそこに夏のプログラムのルル組曲がどのように係ってくるかはまだ分からない。またトリノで指揮する「英雄の生涯」はこのところのロート指揮のそれやユロウスキー指揮の「アルペン交響曲」のように明らかにリヒャルト・シュトラウスの作品が今漸くやっと本格的に理解されるようになってきた。ユロウスキー指揮の演奏は残念ながら中断されてしまったが、頂上前まででも多くの示唆を与えるもので、指揮者が語っていた本来のニッツェ交響曲的様相は確認できた。時間が空いた時にもう一度の放送までに楽譜を片手に詳しく検証するに値する演奏だった。

ブロムシュッテット指揮のクリーヴランドでの演奏会ライヴを録音した。なぜかスコットランド交響曲のコーダで落ちてしまっていた。余分な繰り返してもしたのだろうか?それは冗談として、その前のメトからの「ファルスタッフ」も録音失敗したので注意していたが原因は分からない。そこでロールデビューするゴルダ・シュルツ嬢は私のことを覚えてくれていたようで、寝起きに一言呉れた。どういう関係にしても「私のこと考えてくれてありがとう」と若い女性に書かれると内心穏やかではいられなくなる。スケベ心で男は皆、「俺に気があるのかな」とかいい加減なことを考えるのだ。なにも舞台で目線を貰う必要などは無い。

結構彼女のこと呟いているのだが普通のあの年代の女性として、おっさんらしきが書いたものなどには興味が無い。それでも昨年彼女が出演していたBRクラシックの番組に呟いて、ホストのノイホッフ氏が反応したことがある。あれは彼女にとっては記憶に残るに十分だったと思う。やはりファンがいて番組に反応するというのは鼻が高く、局にも大きな顔をできる。その二週間後ぐらいに今度はロート氏が出ると呟いていたが、私は放置しておいた。実際番組も聞かなかった。理由はハッキリしていて、ロート氏のドイツ語ならあまり聞いて楽しいとは思わなかったり、一部で囁かれるように「出来る係長のオヤジ」には興味が無い。そもそも人の関心を引こうとしてSNS活動をしていない。兎に角贔屓目なしに彼女の出た番組は良かった。

そのようなことで私が放送を録音して何かに気が付けばコメントするべきだと思っていたのだ。そして何かを書き込む限りは、私の沽券もあり、彼女に為になることを書かなければいけなかった ― また来週二度目のチャンスがありそうだ。しかしそこまでいくとSNS活動も無料の範囲を超える。それでなくても「所属タレント」を多く抱えると彼ら彼女らを追うだけで大変なのだ。それはフィンレー氏やロート氏のように頻繁に反応してくるのは当然で、ペトレンコは隠れているだけで、とても大きなヴォランティア活動になっている。それも私などのように業界の動きが分かっていると、何が不足して何が効果があるか分かっているので無料でこうした人が助けてくれればタレントはとても助かる。所謂ファンクラブのお遊びや自己満足とは異なるところなのである。

それにしてもSNS活動は顔が見えないだけで、場合によっては結構な影響がある。一寸何かが変わったかなと思うのは、ザルツブルク復活祭への書き込みで、あれは結構業界では話題になっているのではないかと思う。初めは一般の反応が大きいかと思ったが誰も興味を以って独英の二面のサイトを見ていない。二か月経過時点で英語サイト700回で独語サイト1400回超え程度である。ざっと見積もって数百人が新演出の「マイスタージンガー」に興味を持ったぐらいである。そして三分の一ぐらいは業界人ではなかろうかと思う。ティーレマン本人の目にも入っただろう。勿論次期の支配人バッハラーも見ている。話題にならない筈がない。匿名とは言いながら、不都合なことも増えるのであまり旗色を明白にしたくはないのだが致し方が無い。



参照:
「ラインの黄金」のお勉強 2018-01-11 | 文化一般
大蝦米とは何のこと? 2018-06-05 | 雑感
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「平和を」の心は如何に?

2019-02-22 | 
「ミサソレムニス」最終日を聴いた。ガイダンスにオペラでもないのにも拘らず多くの人が集まった。比較的若い人もいた。私などが感じるのは、ミュンヘンであるから、そのミサ典礼文には馴染んでいてラテン語の知識も教育の高い人ならば楽聖以上に持っていると思う、それでもこれだけの人が何かを聞こうとしている。

音楽会について先ず手短に報告しておこう。先ず管弦楽の編成の大きさと合唱団が全員揃っていることは、情報を聞いており、更に今回の企画からして予想していた。コントラバスを並べて、大合唱団のバスを支えていた。そして歌手陣で驚かされたのはオッカ・フォン・デア・ダメロウで、最初に聞いたのがバイロイトのぶっといヴァルキューレであったが、その後重用されていて、メトでも活躍している。要するに便利ないい脇役さんぐらいにしか認識していなかった。それがどうだろう、コンサートであれだけの声量で、あれだけ細やかな歌を聞かせてくれるとは思わなかった。この分野では今トップクラスの人であると確信した。あの見映えで損をしているだけで、歌唱の実力は素晴らしい。ベルリンでも今後まだ引っ張られると思う。

ペーターセンの歌は難しい歌をこなしていて、重要な切っ掛けを作っていたが声の調子としてはもう一つではなかったか。マイスタージンガーでのダフィート役しか知らなかったブルンズも全然悪く無く、ナズミの低音も良く効いていた。

合唱は、なるほどソプラノの声質が十分に磨かれていなくて、歌劇場ではそれで通るが、大人数の合唱となると厳しいのだと分かった。考えれば分かるように殆どのオペラのソプラノは少人数の合唱が多く、ソプラノ歌手を差し置いて前に出てくることがそれほど多くは無い。その分、中域が確りしている方がいい。「タンホイザー」日本公演でも批判があったが、それはコンサート合唱団と比較すれば当然で、私がレフェレンス録音としているヘルヴェッヘ指揮のゲントの合唱団などのような特別な合唱団と比較すべきものではない。

その通り私がいつも言っているように管弦楽団も座付であれば、合唱団もアインザッツも更に遅い座付なのだ。どうしてもベルリナーフィルハーモニカーが弾いたらとか、第九はどうなるのかを考えながら聴くのだが、キリエにおいてもトレモロと対照的に必要なところはヴィヴラートを押さえ透明な響きを下敷きにして、クレドにおける情景の色付けやベネディクスなどの歌劇のようになるとこの表情が素晴らしく、あれは座付にしか出ないと思った。反面同じクレドにおいてのキリル・ペトレンコの指揮は遥かに厳しいもので、同時にそこにフォルハーモニカ―の響きを聴くと、とても物足りなかった。合唱もフーガをよくさらっていたが、歯切れのよい管弦楽にはスーパーな合唱団が必要となる。改めてペトレンコの音楽は劇場向きではないと思った。最後のアニュスディにおけるテムピのフィナーレの作り方も本格的な成果はフィルハーモニカ―との演奏を待つことになるだろう。

さてここからが本題である。そもそもこの曲を聞きに行くのに演奏者がどうだこうだという議論自体が誤りではないかという疑問がある。尤もな懐疑であるが、これは楽聖の音楽を考えるときの重要な議論となる。このミサソレムニスにおける完成までの経緯を考えれば見えてくるものがあり、予め言及していたこのミサ曲の形をとった創作が一体どのような作品であろうかという回答にも代わる。

ミサ曲として依頼を受けて、構想を練っているうちにとんでもなく規模が大きくなっていく、その創作の背景を見ていくと、例の第九の殆ど破廉恥な四楽章の意味も見えてくる。それどころかこの曲ではアニュスディに軍楽が出てきて更に平和を祈る。その意味の解説があった。それは一般的な社会情景の紹介つまりナポレオン戦争が欧州に落とした厭戦感でもある。丁度第二次大戦後の世界に似ていたという。大規模な破壊と犠牲者が出て、市民たちはもう二度とと思った社会情景である。

そこまでの説明であると、楽聖が「平和を」と書いた音楽が平和主義者のイデオロギーのための音楽としか考えられない。それならばあの唐突な感じの軍楽はあまりに幼稚ではないかとも思われかねない。第九のそれに負けないほどの馬鹿らしさになる。私はそこまで考えてヘルヴェッへ指揮の全曲を往路何回か聞いて、漸くこの曲の全体のプロポーションとその効果を把握できるようになった。正直ほっとした。つまり楽聖がここでこのような音楽をどのように挟んで次はどう、そして最後はこうといった設計図を作りながら細部の叙述法を確認していくということになる。それを裏付けするような逸話がガイダンスで出たのであった。(続く



参照:
腰を抜かすような響き 2018-12-30 | ワイン
やくざでぶよぶよの太もも 2014-07-29 | 音
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決定過程を明白にする

2019-02-21 | 
高速ネットが復旧した。電話を掛けてから数時間である。大組織もやればできるではないか。クレームの状況説明中に電話が途中で切れたものだからどうするだろうと思ったら調べてくれたらしい。先ずは助かる。こうなるとミュンヘンから午前様で帰宅しても早朝五時にはモニターの前に座って録画準備しなければいけない。それを切っ掛けで苦情したのだ。

その映像で私自身はどうかなと思ったがカメラの視角には入ってなかった。少なくともユジャワンの出番の時にはである。肝心なのは並びに座っていたフライイング拍手につられた時だが、その音は入っているに違いない。その時のペトレンコの表情は如何に。このコンサートの全編はラペリとフランツシュミットの曲で可成り芸術的価値は高い。是非全編を聴く若しくは観てみたい。

恒例のようにミュンヘン行の準備をした。先ずはヴィデオ資料と楽譜をタブレットにDLした。移動中に何回聴けるだろうか。燃料は127セントでそれほど安くはなかったが、よし。エンジンオイルも250㏄ほど足しておいた。今回のミュンヘン行で冬の市内への走行は終わり、次回は七月である。距離もあるために先ずは何とか無事に往復したい。余談だが、ルクセムブルクの帰りの記念撮影は未処理になったようだ。駐車中の車からの撮影であり、あまり綺麗に映っていな可能性が高い。数週間経ているので先ずは解決だろう。減点にはならないがブレーキの掛かりが悪かっただけで、何十ユーロか取られるだけでも腹立たしい。

今回はコンサートなので始まるのは20時だが、ガイダンスがあるので、結局早めに車庫入れする。18時から価格は夜間料金なので、そこに合わせる。そこから買い物も済まして、駐車料金も払ってから、劇場である。終演後21時半に車を出せるかどうかだ。その時間ならばなんとか居眠りにならない。

出かけるのが13時過ぎになるので、午前中は仕事も出来る。ゆっくりブランチを摂れる。問題は曲をもう一度通してみる時間があるかどうかだ。そのためには、お弁当もある程度準備しておきたい。肉屋で調達するか、さてどうしよう。

その「ミサソレムニス」の二日目にはマイクが入っていたようだ。恐らくバイエルン放送協会で批評をしていた人が確認したということで録音に踏み切ったのだろう。独立放送局といえども公的機関であり公的な資金を使うには役所的な決定過程がはっきりしていなければいけない。そもそものこのコンサートが放送対象になっていなかったのは放送楽団付の合唱団が存在するからで、なぜ他所の合唱団の演奏をとなる。だからその芸術的な価値を判断した上でしか決定できなかったのだろう。三日目も同じように録音すれば編集も可能であり、貴重な記録となる。決定過程さえ明白ならば評議委員のAfDの政治家が何と言っても問題とならない。ドイツの放送局の決定は全てそのような各政党の代表者が視聴者の代表として評議をする。

前回ミュンヘンへの途上ヴンダーリッヒの娘さんの声を車中のラディオで聞いた。彼女にお会いしたのは十五年ほど前のことだから、ピンと来なかったが、声の感じが確かにそうだった。但しあのころは娘さんで、流石に今は声が落ち着いていた。名前を聞いて気が付いたのも、フリッツ・ヴンダーリッヒ共演の録音も出てきていたからだが、番組自体はスイス出身のリサデラカーザの記念番組だった。そもそも名歌手の名前からスイスのチーズで有名なエムメンタール地域の出身とは気が付かなかった。リヒャルト・シュトラウスに直接見出されたのも知らなかった。アラベラの声はリサデラカーザだということになるらしい。ヴンダーリッヒの娘さんとお会いして話が出来たのもそもそものお里がプファルツであったことからで、確か当時はミュンヘン在住だったと思うが話しのネタがあったからだった。



参照:
ヴンダーリッヒ嬢/Frau Wunderlich 2004-11-25 | 女
指揮芸術とはこれいかに 2019-01-08 | 音

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ハムブルクの夜の事

2019-01-30 | 
久しぶりに峠まで走って下りてきた。先週末に為せなかったから日にちが開いた。開くと不安になる。寒さが緩んだが、それでも山道は薄く白いものが残ったままだ。峠に近づくと雪の上を走った。それでも気温が摂氏二度まで程で低い方で安定しているため凍っていないのがよかった。ゆっくりしか走れなかったが、下りてきたら汗を掻いていた。先ずはそれでよい。週末土曜日は外出でまた走れなくなるので、その分まで走ろうと思えば毎日休みなく走ることになる。無理をする必要はないが、気持ちが上向くかどうかだけである。

先日注文したジーンズと靴ベラをようやく開けた。一週間ほどおいていた。開けてみるとネットの写真よりも青かった。返品しようかどうか考えている。中々ネットの写真と実際の色が合わない。もう一度陽の下で見てから判断しよう。

靴ベラは今までは航空会社のおまけについていたプラスティックを使っていたが、先日無理に捻じ曲げて折ってしまった。家には金物の長いものを置いてあるが車に一つ置いておかないと不便なことが多い。そのために購入した。こちらは思ったよりも大振りだったが使いやすそうだ。

先日ミュンヘンの帰りには、行きに見当をつけていた道路の名前をナヴィに入れると行きと帰りを同じ経路で街を出入りできた。具体的にはアウトバーン八号から旧市街への経路である。旧市街へは、道標もあり、問題ないのだが、帰りはいつも迂回をさせられる傾向にある。過去から何十回と旧市街に出入りしているが今回のように全く問題なく脱出出来たのははじめてだ。その道路名もヴェルディシュトラーセでピッピングシュトラーセとの交差点を目指せばそのようにナヴィが導いてくれた。まだ何回も往復しないといけないので少しでも短絡出来るのは嬉しい。

ハムブルクの夜の事を書き忘れていた。劇場に入る前から気にしていたのは食事のことだ。初日はエルプフィルハーモニーのホテル内で済ませた。二日目の劇場は、街中なのだが、引けるのが遅い。これはこれでと探してもいたが、実際に下見をしてみると適当なところが見つからなかった。そこで劇場の案内のお姉さんに聞いてみた。というのはプログラムにイタリア料理が宣伝してあってその名もフォアデアオパーとかだったので、いいのかなと思ったからだ。そして聞いてみると、イタリアならば他にも横の筋を入って行けばあるよと教えてくれた。実際に探してみると中々開いているところがなかったのだが、駐車場の方に近いところにあった。

何を食したかはなぜかもう覚えていないが、そんなに悪いものではなかった。きっとサラダ類だったと思う。ビールを飲んだ覚えがある。記憶が不鮮明になるほど飲んだわけではないが、なによりも印象に残ったのは隣の机の若い女性だったからだ。それでもオペラ公演のことを忘れていないのはメモをしていたからに他ならない。しかし帰りには僅かなアルコールゆえかホテルへの道を間違って二十分ほど余分に走ったかもしれない。

何がそんなに興奮させたかというと、隣のテーブルでこちら側を向いて座っている彼女には直ぐに気が向いた。向かい側にこちら側に背を向けて座っている女性と喋っていたのはロシア語だとは分かるのだが、ウクライナ語との差は分からない。サンクトペテルスブルクのロシア女性とは暫く一緒に行動していたことがあるので何となく感じが分かり、またウクライナ女性も現に口説いているので、なんとなくその感じの違いを推測する。

そんなことでちらちらと彼女の表情を見ていたら、彼女がこちらのことを顎で指して、背中を向けている女性に伝える。一寸こちらを向いてというのがあって、更に耳を澄ませているとドイツ男性はという愚痴になってきた。そうだろうなと思って聞いていたら、店の者に「上に行くから」と言い出した。これは余程嫌われたかなと思って、凝りもせずに「上の方が気持ちいいかな」と立ちかける彼女に声を掛けたら、「どう、あなたもいらしゃいよ」と誘われた。

そう来るとは思ってなかったので「イヤー、それはありがとう」と重い腰を上げなかった。正直上の雰囲気も分からないので躊躇した。そして階段を上っていく彼女のお足もとを下から見るとなんとあの寒いのにミニスカートなのだ。これは気が付かなかった。最初からおみ足に気が付いていたら自制心無しに着いていくところだった。なにもチャラチャラした女性ではなく、ウクライナ女性に比較的あるような一寸知的な表情のある女性だった。横に掛けてあった彼女のコートも極真っ当な感じの学生のような装いだった。そして上階も出がけに見ると、彼女が階段の上でこちらに背を向けているのは、なんでもない健康なスペースだった。急に僅かなアルコールが回ったのを感じて店を出た。



参照:
歌劇とはこうしたもの 2019-01-12 | 文化一般
ナイスプロポーション! 2016-06-06 | 女
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冷え性にならないように

2019-01-06 | 
燃料を入れた。満タンではないが、45L入れたので余裕でルクセムブルクを往復可能。喜ばしいことに、前回のミュンヘン往復に比較するとリッターあたり二割程安い。実は価格を見ながら週明けでの月曜日でもよいかと勘違いした。ハムブルク行ばかり気になっているからだ。その前の日曜日の往復に必要だ。月曜日は満タンにしても往復不可である。それどころか移動を考えると二度の満タンが空になるかもしれない。結構な額である。それにホテル二泊。まだ食事のことは考えていない。

夜になってから切符を売ったおばさんからメールが入っていた。それによると、「売ってもらう公演は18時始まりだが、受け渡しのあなたが行く公演は19時始まり、早過ぎないでしょうか、取りに行くのはいつでもいいからどうでしょう」と書いてよこした。これを読んでお会いするのは若い娘ではないと確信した。だからこちらももう少し打ち合わせを書きたいと思っていたが先ず返事に「ご心配なく、大抵地下駐車場に早めに入れて、ガイダンスを聞きに行くことがあります。数日前にリメインのメールを貰えば、お互いに足元が冷えないように携帯番号をお知らせします。」と書いた。

恐らく、日時の誤解がないかとか、色々心配になったのだろう。こちらも当日に売り渡せないとただで放出してしまう可能性すらあるので確実に受け渡すことが肝心だ。冷え性にならないようにで笑いが取れたか?お互いにその気になれば確実にと心配になるのは当然なのかもしれない。勿論同じように都合するならそうした人に売る方が嬉しい。実際、ポータルの決まりがあって、「額面と証明の可能な手数料を加えて売却」とあったから、その購入確認メールを転送しておいた。それで十分だろう。未知の人と売り買いするのに不明確さがあってはいけないが、手渡しするのに細かな手数料2ユーロとかどちらでもよい、そんな話しではないと思う。

旅行の準備だ。先ずは、日曜日のためにクラフトのティムパニ協奏曲と自作自演のウェストサイドストーリーダンスズの音源を落とす。更に「春の祭典」のハムブルクでの録音と「影の無い女」を加えてタブレットにコピーする。また翌週に備えて帰路に車中で聞くベートーヴェンのハ長調交響曲をブレーメンでの演奏から、それにモーツァルトのヴァイオリン協奏曲イ長調、まだまだ道中は長いのでメシアンではなく「フィデリオ」全曲を加える。最後のはベーム指揮のドイツェオパーでのフィルム。楽譜は「影の無い女」、ベートーヴェン二曲、モーツァルトをタブレットに、「春の祭典」は手持ち。

日曜日もパン屋がないのでブランチから夕飯までを計画しておかなければいけない。つまりお弁当である。現状況からすると握り飯になるか。帰宅は11時半ごろか?ヌードルでも食して、翌月曜日に備える。週明けに肉屋が開くので、それも考慮して、燃料を満タンにする。ハムブルク行はルクセムブルクから帰宅してからの事になる。



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売り時にオファーした 2019-01-05 | 生活
マグナカルタの民主主義 2019-01-04 | 歴史・時事
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血圧急上昇の晩夏

2018-08-21 | 
胸が少しパクパクしている。最近は、この季節の変わり目の為が、心臓に負担が掛かるような気持がするのだ。そこにどうしても血圧に影響する新事実を知る。口説こうとしていた女性が、大学生でなく、ギムナジウムの生徒だと分かって血圧が上がった。なにも急いでどうこうの心算は無かったのだが、年齢からすると大学生の筈なのだが、まさかと思った。流石に年齢までは質せなかったが、あとで考えるとドキドキした。流石にギムナジウムの娘を口説こうとは思わないが、実際にそうだったのだ。二十歳前後だとみていたので、そろそろバッチュラーを終えて、グラデュエートにでも進むのかなと勘違いしていたのだ。いい機会を見据えようと思っていたら、少なくともアビトユーアまで一年あることになる。アビテューアのお手伝いぐらいならばできそうだが、ギムナジウムの女生徒はクライミング位でしか付き合ったことは無い。これは困った、想定外である。

夜中にシカゴからの放送を録音しておいた。偶々、アンネ・ゾフィー・ムターのチャイコフスキーの協奏曲演奏だった。最初からストラディヴァリウスの芯の通った最高級ボルドーのような美音が満開だ。そして進むと明らかに遣り過ぎの歌い口が耳に付く、印象させるのはフォンカラヤンなどのチャイコフスキー演奏で、それほど変わらないと思う。キリル・ペトレンコなどが指す「西欧のチャイコフスキー」であろう。フルトヴァングラ―の「悲愴」など歴史的に定着したものであろうが、今こうしてムターの演奏とムーティの伴奏を聞くと我々が期待するようなシカゴの機能的な響きよりも、如何にも脂ぎっていて、フレンチロココへの飛翔が全く期待出来ない。ムターの技術とその音量と貫禄は否定しようがないが、高い金を払って態々聴こうとは思わない。失望まではしないまでもこのようなチャイコフスキーならば御免だ。リサ・バテュアシュヴィリのグァルネリ・デルジェスよりも素晴らしいストラドサウンドで弾いてくれる人はいるかもしれないが、チャイコフスキーが少しでも分かってくるとそのハードルは高くなる。ハイフェッツなども生で聴けばよかったのかもしれない。

ミュンヘンの「マイスタージンガー」三日目が最上席3席を入れて残り17席になった。あとは視界が効かない席だ。サイドのバルコンは出るかどうか知らないが、多くの人は理想的な配役となりそうな舞台上の芝居もしっかりと生で観たいだろう。最上席も中々平土間前方が出なかったのはあのタッパのある舞台を知っているからで、視角を重要視したと思われる。だから「金に糸目を付けぬ、熱心な」私には中継の日のバルコン席の配券となったのだった。

ベルリンでのリハーサルが始まる。私は昨年台湾での第七番イ長調の練習風景を振り返る。ヴィーンで出会いのあった作曲家の述べるコンサート評も交えると、一楽章序奏と主題部のテムピの対比はメトロノーム指定に近いようで、序奏から八分の六ヴィヴァーチェに移りゆくところは最初の聴き所だろう。ヴィデオに残っているのは第二主題へと移るところの舞踏的な経過区だ。キリル・ペトレンコのベートーヴェンはこうした移り変わりの妙が味噌になりそうである。第二楽章のテムポも早く感じられたというので、メトロノーム記号に近いと思う。粘度を下げたボーイングで同時に持続性と軽さを増した演奏とある。この点から更に後半を大胆予想してみたい。
佩特連科與巴伐利亞國立歌劇院管弦樂團 9/8彩排


またまた興奮して来た。体調が心配だ。夏の終わりは毎年胃癌症状で体調を壊すが今年は一寸違う。冷たいものの摂取量は減ったが、水分補給量は増えて胃液も薄くなって気分も悪くなった。更に夜中の気温変化から血圧も上がり気味で、とても怖い。



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謝謝指揮大師佩特連科! 2017-09-12 | 文化一般
グァルネリ・デルジェスの音 2018-08-20 | 女
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グァルネリ・デルジェスの音

2018-08-20 | 
土曜日は結局「ポッペア」生放送を途中で切り上げて、3satの「西東詩集」管弦楽団演奏会を観てしまった。「ポッペア」の方の音楽は順調に進んでいて問題になっていた件のバイエルン放送協会の放送障害も無かったのだが、モーツァルトザールの収録がいま一つ冴えなかった。そして映像で観なければいけない気持ちになった。それ以上に「西東詩集」の方の呟きの反響をじわじわと感じていたので、そちらへと移ったのだ。そして、ヴァイオリンのリサ・バテュアシュヴィリの演奏に興奮してしまった。その演奏に熱が入って行くにつれて、途中からどんどんと私の呟きがリツィートされて行く、最終的にはフォローワー数を超えていた。

この女流は、アルフレード・ブレンデルの一押し演奏家という触れ込みだったが、2016年のバーデンバーデンでのドヴォルジャークの演奏ではそれほどの確信は持てなかった。後ほど調べてみると恐らく楽器もグァルネリのデルジェスで同じだと思うが、ラトル指揮の伴奏では十分に弾き切れていなかったようだ。
Dvořák: Violin Concerto / Batiashvili · Rattle · Berliner Philharmoniker

Dvořák: Violin Concerto / Batiashvili · Nézet-Séguin · Berliner Philharmoniker


今回のチャイコフスキーの演奏はこの曲への認識を新たにしてくれるほどの名演奏だった。そのヴァイオンリンの技巧と響きの細やかなコントロールを聴けば、ガダニーニのクレメルもストラデヴァリウスのムターも要らない。若干想像させたのはオイストラフだが、分らない。本人はミュンヘンでツュマチェンコに14歳からついているので、流派としてはどうなのか。正直これだけのヴァイオリンの音を聴いたのは久しぶりで、恐らく女流では今一番本格的ではないかと思う ― 少なくともムターよりも若く彼女の柔軟性が嬉しい。
Lisa Batiashvili & Daniel Barenboim - Tchaikovsky/Sibelius - Violin Concertos (Trailer)

Salzburger Festspiele 2018 - Orquesta West-Eastern Divan y Daniel Barenboim (17.08.2018)


一楽章でもしっかりと管弦楽に耳を傾けていて、バレンボイムの独自のリズムの下でのイスラエル・パレスティナの彼女彼らの音楽への共感のような音色をヴァイオリンで綴っていくのだ。ジャズで言うところの即興のようにそこに流れ込んでいく音楽性と技術の確かさは、恐らくムターを始めとするヴェテラン女流には求められない柔軟性で、こうした大曲でそれをやってのける室内楽奏者的な技量に驚いた。それこそがツュマチェンコ教授の下でティーンエイジャーとして身に着けたものではないかと思う。同じミュンヘンのユリア・フィッシャーとの比較は今は敢えてしないが、ブレンデルが認めたその才能を漸く見極められたことが先ずは嬉しい。私が会場に居たならば皆以上に一楽章から大拍手を送っていたのは間違いない。それほどに素晴らしい。

どのような世界でも変わらないが、柔軟に対応可能というのは、最たる技能であり、経験のなせる業でもある。それを支える天分でしかないと思う。こうした芸術の世界ではそれが舞台の上で芸として示され、その芸をなんだかんだと楽しめることほどの愉楽は他に一寸無いのではなかろうか。クラシック音楽の場合は、ジャズにおけるほど即興的な面白さは無い訳だが、協奏曲の場合はどこまで行っても指揮者とソリストの間の齟齬はあるので、まさしくその呼吸が楽しめる。

今回の指揮者バレンボイムの場合はピアニスト出身としての経歴から、室内楽奏者としてまでは行かなくても少なくとも日常の音楽劇場や協奏曲などの合わせものの方法を完成させている ― バテュアシュヴィリはバレンボイムの音楽が呼吸をしているといった。この協奏曲を聴いていて、その独自のリズム感とそこの関係が良く分かった。管弦楽団の演奏者の方も、特になにもマイスターのヴァイオリンの息子バレンボイムだけでなく弦楽陣は直接にヴァイオリンにも反応していて、とても良かった。

協奏曲が終わってもリツィートの波はあったが、そのほどんどのドイツ語圏の感想などを見ると、やはり素朴なこの故サイードのアイデアの活動への共感以上には、芸術的な感応にまでは至らないのが殆どかもしれない。作業中に誤って元の呟きを消してしまって不愉快な印象を与えたかもしれないが、それはやってしまったので仕方がない。飽く迄も重要なのは芸術的な共感であるというのは、政治家ではなく、自らのイスラエル国籍を恥じるバレンボイムの本心であることも詳しく彼のインタヴューを読まなくとも理解している心算だ。

日本からは3satは観れないのかもしれないが、ヴァイオリン好きには見逃せない。オンデマンドはVPNを挟めば問題なく落とせるだろう。中途半端なヴァイオリニストの演奏を聴くぐらいならばそれだけの価値があるだろう。



参照:
Daniel Barenboim und das West-Eastern Divan Orchestra (3sat)
「ヤルヴィは一つの現象」 2018-05-13 | 文化一般
絶頂の響きの経済性 2015-02-27 | 文化一般
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語る価値のあるもの

2018-08-02 | 
ドミンゴ指揮の「ヴァルキューレ」については語る価値が無い。それでも休憩時間のアニャ・カムペの話しは面白かった。面白いのは彼女が完全にゲラ症状を示していたからではない ― 暑さのためか、緊張と緩和で完全に交感神経が逝かれてしまっていたのかは分らないが、その谷間でそのようになる傾向のある人のようだ。役者なんてそうした空気抜きが付いていないとやれない仕事なのだろう。しかし笑い上戸の酔っぱらいでないので、話の内容は情報的だった。一つは、ドミンゴによって相手役のジークリンデとしてメト登場の機会を与えられたことで、キャリアのブレークスルーとなったこと、そしてその恩返しで今回もお手伝いをしたことが語られた。その前の他の歌手の話しにもあったが、リハーサルでもボロボロになっていたようで、何とか本番では破綻を生じないという援護体制だったのだろう。

だから、一緒に歌う歌手仲間との舞台上でのあんうんの呼吸の話しも中心となっていた。それでも有名なプロ野球選手の言葉ではないが「ベンチがアホやから野球できへん」ならず「指揮者があれでは舞台が崩壊する」のを避けるための協調作業にも限界がある。それでも管弦楽ですら如何に指揮者無しでは合わせられないかが良く分かる放送だった。更にあの特殊な蓋付きのピットと舞台の関係を考えるまでも無く、先週ミュンヘンで目撃した指揮者の役割は途轍もなく大きい。だからその指揮棒に合わせるしか大事故を避ける方法は無い。それはただ単に職人的な現場の技術の問題だと無視などできないのが音楽劇場の現実である。

もう一つ、ミュンヘンのオペルンフェストシュピーレでの反響の話題を振られていたが、まさしくそのことが語られた。その賞賛に対して、「実際には至る所に傷があったのだが、それは平素とは異なり、練習を重ねるのが難しいというこのフェストシュピーレの特徴」と明言していた。これも興味深い。ネットでの「ヴァルキューレ」への反響を見ても一月の出来とは明らかに違ったことは分かっていたが、それ程傷があったとは思わなかった。

それにも関係するもう一人のヴォータンのルンデゥグレンがコッホのそれとの差異を語っていた。つまり二人の歌手としてのキャラクターの相違であり、声質がヘルデンか、リリックか、という事になる。確かに彼の言葉を待つまでも無くヴォータンはこの人の方が良かったのだろう、一方でコッホのさすらい人はハマり役だと今回再確認した。

オペルンフェストシュピーレが火曜日で終了した。最後の様子が報じられているが、その興行成績と共に素晴らしい。「パルシファル」で華やかに開催を飾り最後を締めた。その様子が公式ヴィデオで流れている。ピットから楽員一人一人が花を投げ込む様子だ。まるで夏休みを前にするセメスター終了の趣で、練習時間の制約のある過密スケデュールの中でよくやったなという感じがする。以前から「ペトレンコの棒の下では楽員が何とか意志に適うような演奏をしたいという気持ちになる」と語っていたが、終りが見えてくるようになって、それとは変わって得られるものを出来るだけ得たいというような貪欲な気持ちが各々の楽員に見えるようになってきた。それは技術的なものだけではなく、ムジツィーレンの喜びのような音楽的能力のある人がプロの音楽家を目指す根源的な欲求に近いものだろう。それを引き継ぐとすれば、次期音楽監督がとても通常の能力の持ち主では勤まらない所以だ。

この夏初めて蒸し暑い夜中を越した。バルコンで裸で寝転んでいる方が気持ちよさそうだったが、流石にそれでは風邪をひくので布団で寝たが布団を掛けると少し汗ばんだ。それでも暑い夏と比べると過ごしやすく、ここ数日だけだろう。来週になるとまたカラッとして放射冷却で夜が冷える。湿度が高いと言ってもシャワーの上の温度計で28度、40%程度だから知れている。それでも早く雷雨がやってきて欲しい。

コンセルトヘボーからのお知らせに2011年にブーレーズが振ったマーラーの七番があった。残念ながらMP4でAACの128kBtなので音響は期待できない。監督のガッティーのMeToo問題が出たところであり、さて収まるのだろうか?ガッティーに何かあると来年のバーデンバーデンの「オテロ」指揮が変わる。変わるとなると俄然興味が出て来る。



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就寝不可能な昂り 2018-07-26 | 女
入念な指揮指導の大成果 2018-07-27 | 音
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就寝不可能な昂り

2018-07-26 | 
ミュンヘン近郊の氷河湖地域から帰ってきた。九月の宿のこともあるので、敢えて遠回りのメミンゲン経由で帰ってきた。つまりアルゴイ経由という事だ。渋滞を避けて上手く行った心算が最後の最後で、丁度先日スピード違反で撮影された区間で大事故が起こって閉鎖されていた。二十分ほど前のことだったろうか?救急車も聞かなかったがヘリコプターが着陸していた。一キロほどに三十分近く掛かって、遠回りして帰ってきた。バイロイト音楽祭の「ロ-エングリン」の本中継に間に合った。

泊まった宿は民宿のようなとこで、何一つ外に案内が出ていなかった。おばさんが一人でやっていて、掃除も自分でしているので、靴を脱がされた。他所の家に伺うようなものだった。帰りが遅くなって、ベットに入ったのは一時過ぎだった。夜食のところに四人組が遣って来て、顔を見上げるとアニヤ・カムペと目が合って、彼女も驚いたような顔をしていた。反対側のロージェにはいなかったが、何処にいたのだろうか? ー 彼女に面が割れていることは無いが、流石にペトレンコ本人には熱心な人と認識されてきているかも知れない、今回も杉良の流し目ではないが二度も上目遣いされたが、その心理を「アンタも好きね」と読んだ。日曜日に仕事は終わっていることは知っていたので、一寸意外で驚いた。その驚きが彼女にも波及したのだろう。二人の男性の一人は入って来て後姿がヴォルフガンク・コッホだったので確認できた。その奥さんらしきもずっとこちらに顔を向けていた。もう一人の男性は比較的細身で、コッホの作業着とは違いしっかり着ていたので誰か分からなかった。最初は北欧の二人のどちらかとも思ったが比較的優男で、Rがバイエルン方言のようにも聞こえたが、確認できなかった。但しワインのテースティングもコッホよりも慣れているようで、赤ワインのコルクも取り替えさせていた。

しかしコッホだけがしっかり食べていたので、やはり歌手ではないのかもしれない。但しマネージャーでもなくカムペの新しい恋人でもなさそうだった。結局カムペは白ワインに留まるとしてお代わりを飲んでいた。二人とも映像やオフィシャルで知っているの通りの雰囲気で、カムペはドイツ女性としては十分にフェミニンで、コッホもあの通りの朴訥な感じで、仕事に満足した感じでとてもリラックスした感じで楽しそうに食事をしてそれほど声を張り上げずに話していた。二人とも通常のドイツ人に比べると、やはり言葉静かに話すタイプで、決して悪い感じはしない。

その様子を見ながらへレスのお代わりをしていたら遅くなってしまったのだ。一寸飲み過ぎで、車の運転は初めてのところなので、何事も無く戻れてよかった。勿論宿に帰っても興奮状態で充分に眠れなかった。だから帰路は夜中と同じように眠くて辛かった。特に渋滞では停まってブレーキを踏みながら何回も居眠りをしていた。



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宮廷歌手アニヤ・カムペ 2018-01-22 | 女
再びマイスタージンガー 2018-06-22 | 生活
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鋭い視線を浴びせる

2018-07-16 | 
先ず断っておかないといけない。今回のプッチーニ「三部作」公演は初日シリーズとは違って木管などはエキストラが殆どで、それも昔この楽団で吹いていた奏者ばかりだった。例えばオーボエは辞めたらしい山賊兄さんで如何にも座付きらしいあまり繊細でない分厚そうなリードを吹き、クラリネットには「ティートスの寛容」でバセットホルンを吹いていた人が入っていた。要するにフェスティヴァルの陣容である。そして女性陣の弦ではなくお兄さんのコンサートマスターとアルメニア人など、あの女性だけの陣容を惜しんだ。それでも中々弾いていて感心した。

キリル・ペトレンコは、その晩も一幕の前にひっそりとピットに入って、ヴィオラと話しをしながら、右手首を振っていた。首だけでなくて手首も疲れる仕事なのだなと改めて思った。いつものように譜面台の楽譜の横にハンカチを縦に二つ折りにして置いてハンカチ王子の準備をしていた ― その後の写真を見ると山賊お兄さんの視線に睨まれていた。指揮者の背後のサイドにあるミニキューブみたいなのはヴェンチレーターのようで結構パウゼに強さを調整していた。

先ずは、一部「外套」で一番問題だったジョルジェッタを歌うヴェストブロックだが大分考慮して来ていた。ピアノで歌えないので、ジークフリートのヴィーンケのようにもう一度ボイストレーニングから遣り直す必要があるが、少なくともバカ声は大分無くなっていた。これならばヤルヴィと共演してももう少し上手く行ったはずだ。なによりもリズム的なパッセージもしっくりして来て、如何にもオランダ女らしいフガフガの口元を大分締めて歌っていた。すると母音も明確に出て来て、小さな声でも深くからの母音と一緒に音が伸びて来る。既にトレーニングを受けているのかもしれない。その証拠にヤホに負けないほど強くペトレンコを強く抱きかかえていたのにその気持ちが良く表れていたと思う。だから余計に今度はリーのバカ声を必死で押さえる指揮者の指示がしきりに出されるのだが、この韓国人には三つのフォルテと二つのピアノの間には何もないらしい。芸術的に程度が低い。どうでもよいが最後に挨拶で両手を頭の上で掲げるのはあれは韓国の儒教のそれなのだろうか、そうしたところにも如何にも朝鮮人の執念深い拘りを感じる。

そのような訳で、コッホとのデュオは見違えるように素晴らしく、押さえた声で高度な音楽的表現に至っていた。脇役で評判の良かったマーンケへの指示の細やかさも、管弦楽の鳴らし方で強調されたリズム打ちが無くなって、そのリズムの行間が更にドラマを語るようになって来ていた。しかし何といってもコッホの最高音でのベルカントの響きは、その管弦楽の筆致に揃って ― 最高音域でのその様々な工夫はプッチーニのベルカントへの一つの回答だと思う ―、まさしくベルカントの、オペラ芸術の頂点がここにあることを示す箇所だった。
IL TRITTICO: Clip (Il Tabarro)


二部「修道女アンジェリカ」のヤホのアンジェリカでの歌唱は期待通りで、残念ながら殆ど舞台を見ていなかった分余計にその声の音程など楽譜が手に取るように分かった。またペトレンコの指揮は大分更に進化していたと感じた。テムピがより遅く感じたが、実際にはホリが深くなったからだと思う。若しくは音符の一つ一つがより正確に精妙に演奏されて歌われることで印象は大分変わった。

私が経験した初演シリーズ二日目のようにヤホの声が出ていなかった時とは違って、無理して間奏を強奏することも無く、必要な点描的なサポートをしていた ー 座付き楽団の見事さよ。だからこれ見よがしのppp弱音とかの強調が無かったのは一部ともよく似ている。私などはこういう技術的な聴き方をしていたのでヤホの芸がどこまで泣かせたのかは分らなかったが、最後に錚々たるメンツの中で一人だけ圧倒的な大向こうの支持を受けていたのに効果が証明されていた。中継映像にもあったようにその時「本当?」という表情をしていたが、今度はその真意が良く分かった。

それは指揮から目を離さずに声の出方を聞いていたからだ。その要求が高いのは歌手陣が真剣に指揮を見ているのでも分かっていたが、あそこまで振り別けているとは思わなかった。だからレパートリーを十八番とするような歌手とのリハーサルが辛酸を極めるのは、卒倒してしまったらしいマルリス・ペーターセンの話でも分かっていたが、ヤホの歌がもはや初日の新派からギリシャ悲劇へと変わるかのような、音楽的に磨きに磨かれたものになっていたことと、それと同時に観客がより以上に喝采を浴びせることで、本人には分らないぐらいの完成度を確認したからだと思う。それもキリル・ペトレンコとの共演があってこそで、指揮者パパーノとのそれで満足していたならば全くこの境地には至らなかったと今度は気が付いたと思う。序ながら、初日シリーズで圧倒的な歌声で最も喝采受けたシュスターは調子が今一つだったのかそれとも芸術的配慮から押さえられていたのかそれほどまでには目立たなかった。そのせいかヤホの祝福への視線が役の悪おばさんのように鋭かった。
IL TRITTICO: Ermonela Jaho sings the final scene (Suor Angelica)


三部「ジャンニ・スキッキ」でもヴィオラが重要な働きをするところが出て来る。始まる前にヴィオラのトップと指揮者がなにやら話をしていたが、熱心なのは奏者の方で課題を持っているように見えた。実際に一部での箇所もヴィオラがもう少しアンサムブルで中核に入ると、こうした書法の場合は繋がりが良くなり、ゲヴァントハウスのような若しくはシュターツカペレのように音色が磨かれるのだろう。確かにここでハッキリするのはスキッキが出て来る前から、ヴァイオリンが高音部へと移るのにつれて中声部が支えるところが出て来る。特に若い二人の最初のデュオなどは典型的で、例えば放映された日の演奏と比較すると顕著だ ― 当日はリヌッチョの代役が袖から歌う事となって難しい状況だったのだが、またそれとは異なるだろう。今回はそこが見事に決まって、最後のデュオへと繋がった。放映の日は気の毒にお相手のロレッタを歌ったローザ・フィオーラが割を食ったが、やはりこの歌手は天下を取る人だとこの日も感じた。高音での管弦楽との輝かしいDesへの階段はここだけで称賛に価した。勿論のこと主役のマエストーリの声の至芸は指揮者も握りこぶしを回して楽しむかのように「やってくれ」の指示が出ていた。最後の大団円での風格も素晴らしく欠かせない大役だった。
IL TRITTICO: Clip (Gianni Schicchi)


しかし今回の公演は、初日シリーズ二回目で彼が胴を取ったのとは違って、本当のベルカント、声の芸術まるでギリシャ彫刻のようにそれが彫塑されることで、歌っている肉体からその歌声が飛翔して、その通りそうした声の存在こそが天恵であるのだが、まさしく天使の歌声とされるような託宣であることを実感させる芸術の極致の表現であった。それに比べれば如何にヴァークナーの世界がつまらなく ― 無神論者なら当然なのかもしれないが -、まさにそこでのベルカントの必要性を更に裏打ちすることとなっていた。そしてこれ以上のプッチーニ上演には当分出合わないことも確かだ。




参照:
写真を撮り撮られする 2018-07-15 | 文化一般
ペトレンコ劇場のエポック 2017-12-22 | 音
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LadyBird、天道虫の歌

2018-07-01 | 
疲れが残った。金曜日は殆ど仕事にならなかった。初日のメモを見乍ら忘れないうちに早目に纏めておきたいが、録音があることで安心して仕舞っている。それ以上に少しパンク状態かも知れない。最近のペトレンコ指揮の演奏は、あまりにも新機軸が多過ぎて、それを聴衆が消化するのに時間が掛かる傾向がある。四月のフランツ・シュミットの四番然り、オペラ上演然りで、こちらが咀嚼して想いを新たにする頃にはご本人は先を行っている。その意味からベルリンのフィルハーモニカーで二つの目のプログラムを時間をおいて繰り返すのは聴衆にとってだけでなく、演奏者にとってもとても教育効果が高い。週末に纏めたい。でないとストリーミングの次放送が近づいてしまう。

ストリーミングまでにPCの容量を開けるべく外付けのHDDを発注した。なんと3TBである。最初に買ったのが750MGぐらいで、二つ目からは東芝の1TB、2TBと増えて行った。価格も90ユーロほどまで落ちていたので買い時だ。古いデーターは何重にも記録されているので安全で、そこに新しい分も二重に記録すると、PCのDディレクトリーのここ一年半ほどのものをばっさりと消去可能だ。

英国からお知らせメールが入っていて、サマーセ-ル商品を発注した。来年はもう税金が掛かるかもしれないので、そろそろ買い溜めしておかないと行けないかもしれない。昨年はピンクを購入したので、三割引きで淡いブルーのシャツを発注した。先に欲しかったのはあんちょこバタフライで、上手くシャツなどが合えば二週間後にミュンヘンで使いたい。テントウムシの意匠である。暑くなる可能性が高いから棒タイよりは幾らか涼しい。送料を15ポンド取られるので、小さなものだけでは勘定が合わない。

その時に座る劇場のロージュの舞台脇のところを見ていたら、許可を受けないと入れないようになっていた。反対側は楽屋に通じているから当然なのかもしれないが、舞台の向こう側とこっち側の中間なのだなと改めて思う。音響に関しては決して良くは無いことは今回も分かった。見通しもそれほど良くないだろうが、今回の価格とは大分違うので、どうだろう。指揮に関しては今回も足元まで見えて、それは更に前から見る形で近くなる。

オペルンフェストの初日は初めてだったが、可成りいい席がぽつぽつと空いていた。平常の初日にはないことで、やはりフェスト期間中は企業の招待や世界からの訪問者などが多いのだろう。かなりもったいない。

ゴルダ・シュルツ出演のBRクラシックの番組はとても良かった。ゲストがお気に入りの録音を持ち込むという番組だ。その一時間足らずの番組構成で、インタヴューアのノイホッフ氏がいい感じでシュルツ嬢に絡んでいた。先ず一曲目の「フィガロの結婚」の序曲から始まって、その一日の始まりの素晴らしさの表現を、お勧めのネゼセガン指揮で流す。仕事をしてみたい指揮者という事で、今後のメトでの仕事の時には当然だろう。そのキャラクターも確かに合いそうで、彼女のプロフィールの話しとなる。ジャーナリスト志望の秘書職への道を歩んでいたことは知っていたが、父親は数学の教授で母親も看護師で、理論と実践の家庭だったという。そして子供は芸術家。なるほどと思ったが、楽器を片っ端から習っていて、父親の助言もあって楽士さんへの道は諦めていたらしい。ジャーナリスト志望とは文化波のBRのようなところでの仕事のことだったようだ。

現在はアウグスブルクへと引っ越したという事で、内向的な沈思黙考の生活がしたいという事で笑わせるが、とても嬉しい路上で声を掛けられるミュンヘンの街中の生活だけでは無くてという事らしい。正直には家賃が安くてという理由を明かす。

声楽も20歳からで28歳になってオペラを始めるのは女性では遅過ぎで、その声の形成からキャリア的に厳しいとされたが、ジュリアード終了時にロンドン等で面接で落ちて、三度目に初めてバハラー支配人に採用されたという。

三年先の計画を立ててレパートリーを確立していく世界だが、実際には月々の請求書を払う生活という。そもそもヴァークナーは遅咲きには難しいようだが、叫び続けなくてもよいので「黄昏」のフローラなどは容易で好きな役で、今回の華の娘も合うという。そして目を瞑らないでカウフマンとの絡みもしっかり眼を開いて観て呉れと、演出の不評を覆すかのような話をする。

途中、大人になってから知ったマーラーの作曲とそのアバド指揮の涙が毀れる二番などに挟まれて、二曲ほどポップスが流されて、マイルス・デーヴィスが何であんなにトラムペットが上手いのだろうと発言。最後に自身の歌うスザンナの夜の歌をメスト指揮で締める。素晴らしく構成された放送だった。



参照:
Golda Schultz@SchultzGolda
大蝦米とは何のこと? 2018-06-05 | 雑感
Crazy soprano!!! 2018-01-13 | 女
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そのものと見かけの緊張

2018-06-19 | 
マルリス・ペーターセンのハナはとても見ものだった。歌は音域として下が低過ぎると語っていたが、全く無理は感じさせなかった。上も精妙さで聞かせ、踊って芝居しての全てが揃っていた。ダニーロのサモイロフも立派でもう一つのペアーも申し分なかったが、主役が無くてはやはり成り立たない舞台だったと思う。新聞には、言葉がハッキリしない歌の中で彼女だけが留意をしていて、劇中劇構造の中でハナのドイツ語とマルリスのドイツ語を別けるなどの完璧さも指摘されていた。厳密にやればやるほど大変な事になるのだが、その微妙さがこの大ヒット作にそもそも隠されていたようだ ― 大ヒットするには中々分析不可能なものが隠されているとみるのは科学的だろう。

数か月後にニュルンベルクの音楽監督に就任するヨアナ・マルヴィッツの柔軟乍ら運動性の高い音楽には満足したが、その指揮技術以前に、今回のレハールの音楽をとても直截に聞かせてくれた。そもそも今回の演出の最初と最後は「ばらの騎士」のそれに相当するのだが、まさしくその響きは音楽的な複雑さではなくて、その時代の意匠をしっかりと羽織っていて ― プッチーニとはまたジャスカンデュプレとも共通する本歌取りの効果もあり ―、彼女が語るようにシムプル乍らとてもダイレクトでパワフルな効果が素晴らしかった ― 秋には「オネーギン」でミュンヘンデビューを果たす。

その一方、ミュンヘンへ通うともはや通常の座付き管弦楽団は我慢出来なくなる。なるほどマンハイムなどとは違って丁寧であるが、管楽器などは座付きでしかない。女流がオボーエを吹くと、その太っく鳴る、趣の無い音を奏でられ、ホルンも制御出来た音ではない。勿論田舎の劇場とは違って、外したりバラバラに鳴ったりはしないのだが、そこの音楽監督の腕の程度が分る。そのヴァイケル氏は日本で上から二番目の交響楽団の監督になるというが、オペラ指揮者に一体何を期待しているのかとも思う。二十年近く前に三島の作品を聞いた時にはもう少しヘンツェの音楽が綺麗に鳴っていたと思うのだが、こちらの要求が高くなっただけだろうか?少なくとも会場はミュンヘンの三分の一ぐらいの空間しかなく、その点では表現の幅も可成りありそうなのだが。

例えば「ヴィルヤの歌」のアテムポのところでもしっかりと言葉を置きながらの歌唱だったのだが、管弦楽団はそこまで音を落とせなかった。典型的な超一流との差で、音は大きくするよりも通る音を抑える方が管弦楽団にははるかに難しい。改めてミュンヘンの力を思い直させると同時に、オーボエの辞めた人などは丁度上で触れた女流のように強くブーブーと吹くことでオペラを支えていて、もし同じような音の出し方でコントラバスなどと合わせるとジンタになるのである。まさしくそれこそが繊細さに欠ける座付き管弦楽団の骨頂である ― そこからキリル・ペトレンコがやっていることの意味が分かる筈だ。やはりこの辺りの一流の歌手になると超一流の劇場で歌わなければ中々力を出し切れない。

当日のプログラムを読んでいると、シェーンベルクのレハールを絶賛する言葉とアドルノの「オペレッタのアラベスク」が度々引用されていて、まさしくこのレハールの巧妙でよく練られた音楽へと関心が集まる。レハールの家に行った時のこと思い出すが、あの室内の華美と瀟洒の混ぜ合わさったような独特の繊細は印象に残った。まさしく彼の音楽そのものである。それはドイツ語で言うところのSein, Scheinつまりそのものと見かけの緊張を並行して見ることの面白さで、そのもの劇場空間ではなかろうか。先日言及した開かれた作品としてのバーンスタインの作品の価値もそこにあるかもしれない。今回は特に劇中劇としたことで余計にその効果が高まった。キリル・ペトレンコも「微笑みの国」をベルリンで上演していてヴィデオも手元にあるが、あれなどは当地でのもっとも代表的な成果ではなかったのだろうか。
Das Land des Lächelns · Aria Sou Chong

Stephan Rügamer - Land des Lächelns

Liebe besiegt

Regie: Peter Konwitschny
Director: Kirill Petrenko

なるほどフランスでのオフェンバックの上演などのような薫り高いレヴュー感覚も悪くはないのかもしれないが、税金で上演される音楽劇場でオペレッタを上演して唸らせるのにはこうした上演形態しかないとさえ思わせた。
Franz Lehár: DIE LUSTIGE WITWE




参照:
「彼女のためなら…」 2018-03-20 | 雑感
恥知らずの東京の連中 2018-05-18 | 文化一般
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