Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2007年08月

2007-08-31 | Weblog-Index



愛しくなる経過の存在 [ 暦 ] / 2007-08-31 TB0,COM0
ものの言いよう、言い訳 [ 生活 ] / 2007-08-30 TB0,COM0
姥捨てて、楽になる? [ 雑感 ] / 2007-08-29 TB0,COM2
極東旅行を前にした自信 [ 女 ] / 2007-08-28 TB0,COM0
ヴィンテージ大胆予想 [ ワイン ] / 2007-08-27 TB0,COM4
二十一年、青い靴履いて [ 生活 ] / 2007-08-26 TB0,COM0
民主主義レギムへの抵抗 [ 文化一般 ] / 2007-08-25 TB0,COM0
古典的医学研究の知 [ 数学・自然科学 ] / 2007-08-24 TB0,COM0
属性の認知とその美学 [ 文化一般 ] / 2007-08-23 TB0,COM0
兄弟の弁証法的反定立 [ マスメディア批評 ] / 2007-08-22 TB0,COM0
時を隔てた趣向の方向 [ 試飲百景 ] / 2007-08-21 TB0,COM2
兵役任意制度の存続論 [ 生活 ] / 2007-08-20 TB1,COM2
木洩れ日の中の研修所 [ 生活 ] / 2007-08-19 TB0,COM0
オカルト団ミュンヘン宇宙 [ 文化一般 ] / 2007-08-18 TB0,COM0
雲にも舞い上がる想像力 [ 雑感 ] / 2007-08-17 TB0,COM0
東京でのヒトラーの遣い [ 文化一般 ] / 2007-08-16 TB0,COM0
葡萄の味を自主研究  [ ワイン ] / 2007-08-15 TB0,COM2
豚とソクラテス、無知の知 [ マスメディア批評 ] / 2007-08-14 TB0,COM0
気付薬は廉い方が良い? [ ワイン ] / 2007-08-13 TB0,COM2
日常消費ワインの夏越し [ ワイン ] / 2007-08-12 TB0,COM4
素朴に宿る内面の浄化 [ 文学・思想 ] / 2007-08-11 TB0,COM2
ズタズタにされた光景 [ 音 ] / 2007-08-10 TB0,COM0
どこかで聞いたような話 [ 文学・思想 ] / 2007-08-09 TB0,COM2
暑気を忘れて漆黒の闇へ [ アウトドーア・環境 ] / 2007-08-08 TB0,COM2
差異と感受性を見逃す [ 雑感 ] / 2007-08-07 TB0,COM0
ケロイドの皮膚感を覚える [ 暦 ] / 2007-08-06 TB1,COM2
ハイデルベアーの味覚 [ 暦 ] / 2007-08-05 TB0,COM0
河口から世界に向けて [ 雑感 ] / 2007-08-04 TB0,COM4
一晩どころか半時経つと [ 暦 ] / 2007-08-03 TB0,COM2
巨大イワシの出所は? [ 料理 ] / 2007-08-02 TB0,COM2
保護観察下にある休耕地 [ マスメディア批評 ] / 2007-08-01 TB0,COM2
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愛しくなる経過の存在

2007-08-31 | 
マンハイムに買物に出かけると疲れる。距離を歩いた訳ではないが、買物は疲れる。買物リストのものは悉く手に入れた。中には優れ物もあったが、略予算どおりの買物であった。その優れ方に関しては改めて書こう。

昨日もワイン地所ウンゲホイヤーからヘアゴットザッカー辺りを散歩した。どうも隣あったような地所に関わらず醸造所によって、葡萄の育ち方が異なるのが判るようになった。特に今年の場合は、夏の剪定以上に熟成の仕方に違いが出ているようで、手をかけている醸造所の葡萄はそうでない大手の醸造所の葡萄に比べると、健康で新鮮な様子が伺える。当然、出来上がるワインの差は明らかなのである。本日は曇り空でお湿りが来そうであるが、なんとか崩れずにいて貰いたい。

こうなれば、醸造蔵の中での仕事以前に、畑仕事の重要さが判るのである。特に大手となれば、手配する労働者の質や量の差として表れるのである。端的に言えば、大手の醸造所で最高質のものを目指して醸造していないかぎり、限りなくワインは腐るのである。

セガンティーニの遺作「アルプスの三部作」を再び顧みる。現地で並べて見た筈だが、印象は偏っている。それについては一度ここにて述べた。薄い空気の世界の中での「生成」、「存在」、「消滅」は、そのままドイツ語タイトルに従うと「経過」を描いているのである。

一枚目はマロヤパスからシオラ岩峰群を背景に、前面の夕方の影の中に赤ん坊が抱かれている。ボンド峠の氷河とボンドスカ氷河の白さと子供の背後の白い羊が視覚的に結ばれる。

二枚目はポントレジーナのシャーフベルクからのベルニナ山群を含むパノラマである。三枚目の遺作は、やはり一枚目と同じくマロヤの谷の風景を描いている。

さて、今年のナンバーワン日常ワインの経過は、瓶詰め後最初の4月は酸が強く柑橘系風味であったのが、徐々に他の要素が出てきた。そして、5月から本格的に飲み出したのである。6月にはその酸と他のミネラル風味などが最高潮のバランスを迎えたかにみえた。既に7月には早くもミネラル風味が前面に出るようになって、これで坂を一気に下る感があった。そして、今はじめて奥に秘められていた蜂蜜系のお花畑の香りが出てきたのである。そのせいか再び酸が前面に表れるように感じられて、花が開ききった様子である。流石に、上のクラスのワインとは異なり、味自体に深みはないのだが、香りなどは同等のものが楽しめるのである。

比較的単純なリースリングとは言いながら、このようになってくるとがぶがぶと飲むのが惜しく感じられて、愛しくなるのである。



参照:
おかしな暗雲の風景 [ アウトドーア・環境 ] / 2006-04-12
高みからの眺望 [ 文学・思想 ] / 2005-03-09
コールタールピッチ [ 歴史・時事 ] / 2004-12-29
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ものの言いよう、言い訳

2007-08-30 | 生活
アンゲラ・メルケルの北京での中華人民共和国の温首相との会話が面白い。前任者のシュレーダーの単文ポピュリズムとは異なり、複文を使っての表現力が優れている。

温首相が、原稿読みとは違う単刀直入な会話のスタイルを褒め称えたのに対して、後退でなく前進の中でのより一層の関係改善と変化の方向を「強化する関係の中に向けたい」として、旅行の主旨を「皆にゲームのルールが守られてこそ、絶えず共に成長して行く世界を進展させていくことが出来るのだ」と端的に中国問題を表明する。

そして、「お互いを尊重して、知的創造物の保護は見逃す訳には行かない」と釘を刺す。それに対して温は、政府は関心を持ってこの問題を扱っているとして、「これに付いてドイツ政府と強調して行くつもりがあり、ハッカー攻撃を実質的に止める手立てを決定した」と嘯く。

更に、「あなた方には特別の待遇をしたいと思っているのですよ」と、同行の経済界の面々を見据える。

G8の会頭として温暖化問題にメルケルがふれると、「青い空と緑の山、清らかな水は国民の願いであった」と温はしながら、「中国の工業に国際的上限を敷く事」を改めて拒否、中国の自己規制を自己弁護して「シナにはシナの責務がある」と問題を相対化する。

2010年までの年二パーセントの排出削減目標に、メルケルは、「どの国も同じチャンスを得るべきで、そのための共同のルールが地下資源の保有に対してもあるべきだ」と切り替えした。

なかなか、面白いデュアローグである。直前のベルリン首相官邸への赤軍のトロージャン攻撃の大々的発表など、政治的な背後は厳しいものが見て取れる。その一方、中国品やオリンピックのボイコットなどへの世論の慎重な反応は、このトップ会談の政治的対話に凝縮されている。

先週、床屋を訪れたときも大将と「中国人が乳製品を消費するようになった」ので乳製品の価格が上がると言う話題を、日本の捨てられる牛乳の話を交えて四方山話をした。それにしても、様々な言い訳があるものだ。しかし、床屋の親仁でさえそんなことを容易に信じていない。
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姥捨てて、楽になる?

2007-08-29 | 雑感
リュックザックを購入した。45L 以上のキャパシティーのある大きい物では、これまた三十年振りである。前回のものは、フランス・ラフマ社の当時盛んであった大岩壁登攀用のもので、延長すると寝袋にもなる機能性の高いものであった。しかし当初から、そのシンプルで軽い自重に比べて、荷物も詰めにくく、担ぎ辛かった。

昨年もこれを二度ほど使ったが、重荷に肩が凝り、綿生地の背中はグッショリと汗で濡れて重くなり、谷に辿り着いた時は荷物に振られてふらふらになってしまった。腰紐も付いてはいるが、幅が二センチもなくて〆込むほど食い込むだけのもので、肩紐も健康骨に食い込んだ。

何よりも、上部へ延長出来るスペースがあるだけに、背中の長さに対して背負う面が長過ぎて、腰から背中へと、腰の曲がったおばあさんに背中にしがみ付かれた様になってしまっていた。

故に、腰紐を縫い付ければ改良出来る可能性もあるのだが、先ずは裁断が優れていて、背中の担ぐ長さをつまり、背負い紐の付け根の高さが合うものを探した。調整出来るものが流通しているらしく、自重が軽いことを条件に店頭で探させた。

メーカーとしては、スイスのヴァウデ(ファウド)社製米ダウター(ドイター)社のものを薦められた。前者は、自重も重くシックリと来なかったが、何よりもダミーの重しを7KGを入れると重心が遠い。後者は、登山家ケルターブルン嬢をアドヴァイザーに登攀向きに拵えていた。

横に置いてあるロウアルパイン社の新製品に目が行く。売り手にとっては岩雪壁用ではない理由で第三候補であったようだ。これは形状がコンパクトで手に取っても背負っても重心が良かった。二重底になっているためか重心を高くし易いのが特徴である。

最終的にダウター社とロウアルパイン社のものが比較されたが、明らかにコンセプトが異なる。前者は、重心を低く取り、分厚いヒップベルトで押さえ込んで、加重が腰の内側に入るようになっている。後者は、重心が高い反面挙動性に優れていて、細かく背負い丈を調整出来るようになっている。そして、何よりも体の当たりが、フレームや裁断によって絶妙に調整されている。前者をメルセデスとすると、後者はBMWのようだ。

前者は上部を延長して40Lを越えるぐらいの小振り(これの45L容量品の背負い丈調整が可能であったならこちらを選んだ可能性が強い)であるが、自重は数百グラムも後者と異ならない。背中の通気は良くしてあるが、後者のもの程ではない。

後者は、アルミフレームが骨太に入っている。フランスのミレー社で初の?プラスチックのフレームを入れたものをその昔購入したが、その背負い丈の短さと底広がりの形状の悪さで、直に仲間の者に譲った。その後も、背負子を除いてフレーム付きのものは敬遠していたが、快適さに今回はフレーム付を30年振りぐらいに購入したことになる。

荷物を絞った岩登りの場合の二キロの自重が気になるが、登山靴を担ぐとなるとそのコンパクトさは何よりも珍重される。何れにせよ荷物は軽くなければいけない。

そして山小屋から山小屋への移動は、快適さが何よりも求められて、最新のバックパッキング技術が活かされればと期待する。この辺りにも、現代のレジャーアルプス登山の変容が表れるようで、目的地を目指して脇目も振れず一直線と言う態度こそが時代遅れになって来ていることを知るのである。

何はともあれ最新の製品は、荷物を担いで使い込んで見なければその価値は判らない。特に背負い丈の調整も、一般に言われるように担ぐ人の体に合わせて一度固定されればその後は要らないと言われるのとは違い、様々な使い方も可能ではないかと考えている。兎に角、細かく調整出来るのは良い。

追記:先日購入した山靴を試走した。最新のジョギングシューズがそうではないかと思うほど、地面からの振動を吸収すると同時に、脚の蹴りが弾むように繋がり、飛ぶように早く歩ける。特に下りなどは前傾になって脚で斜面を蹴れるので膝を使わずに驚くほど早く駆け下りるのでブレーキが要るほどである。それでも新しいゴムが地面をしっかりと捉えて足元が不安になることはない。ゴムの組み合わせが効果を出している。二十年以上前の山靴を持っている者は、一度最新の高級品を試してみるが良い。
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極東旅行を前にした自信

2007-08-28 | 
アンゲラ・メルケル首相が北京・東京への旅へと向った。それを前にして、首相官邸や連邦政府の建物などの公開日があり今年も賑わったようである。その極東旅行を前に、人民服のような井出達で、独第二放送のインタヴューに答えた。

何よりも法人税の減税と消費税の3%の引き上げの効果が話題となった。既に承知のように、連邦・州・地方自治・社会保険のすべてにおいて東西統一後初の財政黒字を成し遂げた成果は、大連合首班の自信に繋がっている。

特に消費税による増収は上手く通貨変動のインフレ懸念を押さえており、法人税の減税は景気拡大の自然増収へと導いた。その財源によって、養育援助資金財源へとまわされることで、2010年までの更に 減 税 無 き 財政再建を視野に入れている。

ドレスデンなどの財政再建に関わらず、東ドイツへの補助打ち切りもまだ考慮には入れていないとして、大連立解散後の政局を睨む。それは、第二党の社会民主党にとっても同じことで、連邦政府の財源を確保しておく事が実現可能な政策提示となるのである。

一方、市民の生活は物価高の圧力から、引き続き倹約生活を推し進めることになる。しかし、こうした生活感と質実剛健な消費感覚はドイツ文化の一つであり、あまり問題を感じさせない。

社会主義的政策が色濃く出ていると言われるメルケル政権であるが、穏やかな経済成長と財政再建が可能となれば、無駄な消費を避ける経済を非難する者はいまい。
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ヴィンテージ大胆予想

2007-08-27 | ワイン
2007年産ワインの新情報が続々と流れている。先日、日常消費ワインを取りに行った時に聞いた情報と一致する。

四月からの陽気は成長を早まらせ、三週間早く収穫されることは良く語られているが、強い日差しの焼け現象に加えて、先日の試食で示した過熟が問題となる。素人感覚では、果皮は充分に育っていると思えるが、これから収穫までの三週間が勝負と言われる。

つまり、現時点で既に正しい熟成へと向っているが、この時点で雨が降ると一挙に熟成しているものから腐ってしまうようだ。収穫までの日差しは充分だが、このまま推移して欲しいということになるようである。

確かに良く熟成しているのは、グランクリュのそれも糖比重の高い葡萄が収穫されるところなので、それらが最も心配だろう。逆に熟成の悪い地所からの単純なワインは、もう少し晴れが続くと素晴らしいワインとなりそうである。

すると来年早々から、廉くて美味いリッターヴァインが期待出来る筈である。反対に、高級リースリングは重くてますますなかなか手が出なくなるなるかもしれない。赤ワインは期待出来る。

しかし、ここで雨が来るとカタストロフとなる。ここ数日は、残暑であるが、もう暫らく雨の降らないことを祈りたい。

用事があってライシュタットの赤ワインやケーニクスバッハのオェルベルクを床屋に行くついでに散歩した。双方とも赤ワインが殆どの地所である。その中でも先日試したような高級のシュペートブルグンダーには網がかけてある。場所によるとその一角を囲むようになっている。一体、鳥が外敵なのが、腹の減った小動物なのか欲の張った人間が外敵なのか良く判らない。
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二十一年、青い靴履いて

2007-08-26 | 生活
昨年のクライミングシューズに続いて、今年は山靴を購入した。アイゼンを付けれるような本格的な山靴のことである。良く考えてみると、旅行の途上立ち寄ったツェルマットでマッターホルンにはじめて登ったときに、町の中の運動店で買って以来である。かれこれ二十一年前の事である。

そのとき購入したライケル社の革靴は今でも愛用しているが、昨年辺りからその靴の決して軽くない自重(1330G)と共に、その製造コンセプトが現在のアルプスでは時代遅れになっている事に気がついた。

同じマッターホルンを登るにしても、現在ではより軽量の装備で、アイゼンでの歩行にさえ慣れていたならば、あまり山登りに慣れていなくても容易に快適に行なえるようになっている。今回購入の靴は、まさにこうした用途に、運動靴で頂上まで上がるような軽快さを与えてくれるものなのである。

更に、素材のゴアテックスは通気性も良いので、ある程度の快適さは保障されるだろう。一日中靴を履いていての足の疲れが軽減される筈なのである。勿論、岩場での韋駄天歩きは、軽い靴の方が楽なのは言うまでもない。

しかし、ある程度の荷物を背負って長い距離を歩くとなるとどうしても、くるぶしまで包みこんでくれて捻挫などをしない靴が必要となる。嘗ては、日本からアルプスへ来た登山者は運動靴で何処でも登る(シェルパは供給された靴を履かずに裸足?)と笑われたものであるが、そうした軽快さが加わったことになる。

特に、クレッターシュタイグと呼ばれるようなワイヤー等で整備された登路を登るとなると、梯子段などでは荷物を担ぐと底の柔らかい運動靴でも重厚な登山靴でも駄目なのである。軽快に運動出来且つ運動に耐えるだけの堅牢性が必要なのである。

現在のアルプスでの登山レクレーション活動を考えると、嘗てのようにビックウァールを狙う少数派を除けば、殆どの登山者がハイキング道を目的地を目指して歩く行程と氷壁や岩壁もしくは険しい尾根筋を頂上へと辿る行程に別けていて、各々の行程で特別に拵えたそれようの靴を使って楽しむのが一般的となって来ている。

そのような理由から、今回購入した靴は、約片足700グラムの自重で簡単にリュックサックに収容出来る利点を備えている。そして通常の一般ルートや氷河遡行ならば、これで荷物を背負って行動するに充分であるのが購入動機であった。

そして、何よりも重い荷物を背負いながらストックでバランスを取りながら重い足を持ち上げる必要がなくなった事が大きい。その昔、重い荷物には重い靴でバランスを取って歩くとエネルギー消費が押さえられると言われたものだが、それは主に整備された山道があってのものだったに違いない。

そう言えば、大きいことは良いことだと思い、特売で買った特大のサンダルを使っている。誰が見ても大きくて驚くようだ。笑わせるつもりで買ったのではないが、なぜか笑いを提供する。山靴はスキー靴と同じで、余裕を持たせた内容積よりも嵩が大きくなるのが普通であると言えば、この逆転現象の面白さが判って頂けるだろうか?

小さな山靴と大きな草履。



参照:
Backcountry.com
Trailspace.com
Zappos.com
About.com
Outdoorsmagic.com
Bergshop.com
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民主主義レギムへの抵抗

2007-08-25 | 文化一般
ベートーヴェンの第九交響曲特別な交響曲である。それにしても、ナチ政権下であれほどに「抱き合う兄弟の愛」が作曲家のヒューマニズムと作詞のシラーの美学と共に謳い上げられた不思議は、如何せん払拭できない。

シュテファン・ゲオルゲの伝記を読むと、先日暗示された同性愛の繋がりを、異なる文脈で同志愛や兄弟愛として捉える必要が示されている。つまり、この詩人やグループ内の少年愛への性向は、必ずしも同性愛として捉えるのは誤りで、詩人にとっての肉体は飽く迄も形而上の 対 象 であったと言うことである。女性との恋に落ちた嘗ての美青年グンドルフとはハイデルベルクのシュロースベルクでの出会いから58歳と46歳の男の別れまでの間、「エロス無い所に教育無し、教育無い所にエロス無し」と、強い師弟関係をも意味した。

その思想の背景には、ヴァイマールの進んだ民主主義システムにおける普通選挙の女性解放などがあるようで、詩人は「女性はそれ自体神秘的な存在」で健康な繁殖のためにそのように教育される必要があり「汝の種を担う価値がある」として、「五十年後には俺は女性のヒーローになっているかもしれない」と嘯いている。

そうした進んだ民主主義システムを毛嫌いした保守的知識層は多いようだが、戦後レジーム下においてさえも、ナチがそうしたようにヴァイマールの社会をシステムと呼んだのが指揮者のフルトヴェングラーである。戦後の態度は、多くの転向した同僚を横目に、むしろ保守化して、「十二音技法は人種的な主張」と断定してばからなかった不器用さを、この人気指揮者の「録音では判らない実演」を体験したノスタルジーの世代を自ら代表して庇うのは音楽評論家ヨアヒム・カイザー教授である。

そして、第三帝国の体制内で最後まで戦いながらも利用された大指揮者は、その歴史的汚点を咎めることなく今後とも世界で生き延びていくと、あきらかに「世代の異なる見解」を述べている。しかし、我々は今ネットにおいても手軽に、そのナチレジームにて芸術行為をしている映像をみるにつけ、あの数々の録音の記録を前に目隠しさせられた20世紀後半の購買者とその配給者の野心に目を光らせるべきなのである。

ゲッベルス博士に並ぶヒムラー夫妻の顔をみるが良い。アウシュヴィッツを見学しに行き、何気ない顔で茹でた野菜を食する好々爺に、芸術を披露して、後に芸術信条から仲違いするゲッベルス博士と握手する人気指揮者の姿を見るが良い。

シラーの美学は、ベートーヴェンの美学は、戦後1951年のバイロイト祝祭劇場の再開の時まで愚弄されていたのではないか?カイザー教授は言う。音楽の意味するものを、あの敗戦を予感する戦時下の聴衆に感ずるとして、その記録を熟聴して、フルトヴェングラーの言葉を挙げる。

「私はドイツ人で、キリスト教徒です。それ故に全てには限界があるのです。そしてそれが私の運命なのです。そして私はそれを限界を越えるようにする積りはありません。なぜならば、運命こそが私への課題だからです。その限界を越えたところから、モダーンな芸術の宿命が始まるのです。余分なものの災いです。芸術をやりたいなら、才能ではなく運命が必要なのです。その他全ては、何にもなりません、言うだけ無駄です。スポーツでも戦争でも、政治でも何でもやりなさい。」

1930年にトスカニーニを批判して、イタリア人はドイツ音楽の核心であるソナタ形式の本質と精神が判っていないと、イタリア人の属性を指摘する国粋主義者であったには違いない。ただ、第三帝国では反主流派だったのである。むしろ芸術的には、カール・ベーム指揮によるノイエ・ザッハリッヒカイトに属するマイスタージンガーの演奏こそが最も国家社会主義の芸術に相応しかったのだろう。そして、承知のように、これが戦後の音楽演奏の主流となる。

フルトヴェングラーと同世代の保守主義者トーマス・マン作「魔の山」にて教養の無い女性として描かれているモデルが、実はご主人のヌード写真のモデルとなっていたことが最近判明した。そうした人の属性は、あるイデオロギーの目で以って観察すると必ずしも正しく評価されないことが多いようである。

こうしたイデオロギーの芸術にも、片目を瞑って純粋に共感できるというのか?その何処にも理想主義のパシフィズムの属性もヒューマニズムも属性も見つからない。



参照:
"Was mir wichtig ist" von Joachim Kaiser
でも、それ折らないでよ [ 文学・思想 ] / 2007-01-26
名指揮者の晩年の肉声 [ 音 ] / 2006-05-17
オペラの小恥ずかしさ [ 音 ] / 2005-12-09
死んだマンと近代文明 [ 文学・思想 ] / 2005-08-14
「聖なる朝の夢」の採点簿 [ 文化一般 ] / 2005-06-26
乾いた汗の週末 [ アウトドーア・環境 ] / 2005-06-20
因習となる規範 [ 文化一般 ] / 2004-12-01
本当に一番大切なもの? [ 文学・思想 ] / 2006-02-04
半世紀の時の進み方 [ 文化一般 ] / 2006-02-19

追記:ハンス・クナッパーツブッシュのロマン主義は、殆どナチにとっては使いものにならなかったのではないか?フルトヴェングラーのAED工場でのプロパガンダフィルムは典型的なナチの芸術である。しかし、この指揮者の演奏解釈世界観は、象徴主義表現主義で自ら国家主義者であるとすると、徒弟の扱い方が異なるような気がする。シュトラウスの作品をして、「快活な外面とその解放は同じで、解放されたものは語るに値しない。その解放は、月並みと言う代償を支払い、もしくは月並みがあってこそはじめて快活が得られている」と表している。これをしてその焦点を知ることが出来よう。
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古典的医学研究の知

2007-08-24 | 数学・自然科学
心臓の鼓動が乱れる。心筋に異常をきたす。冠動脈が硬化し、血流に障害をきたし、虚血性の細胞壊死を起す心筋梗塞などが、我々素人には後天性の心臓病の代表格である。

そうした心臓病に対して、カテーテルを血管内に入れ、そこから造影剤を注入して、検査をして、更にその詰まった血管部分を風船で膨らまして、血流を回復させて、部分的な電位差や磁気差を生じさせたり、足場のようなものを設置して、再び梗塞しないようにする処置などがとられるようである。またその足場の中から、梗塞を防ぐ抗がん剤をおき抽出をさせるなどとあり、さらに効果的な特製の薬品がないのかなと詮索する。

大鉈を振るう処置として、閉じた血管にバイパスを通して、処置するバイパス手術が頻繁に行なわれていることも良く耳にする。その手術の意味の大きさは、誰でも判るのだが、その潜在的危険性とは別に、その処置の必要性が限られる事もなんとなく想像出来るのである。

最新の医学誌「THE LANCET」には、そのバイパス手術において、面白い現象が確認されたとする論文が発表されているらしい。ロンドンのロイヤル・ブロンプトン病院のヘンリー・パーセル医師の報告である。それは、手術前に腕の血流を何回も少なくとも30分間遮断することで手術による避けられない心臓の細胞の壊死を和らげることが出来ると言うものである。

ロンドン大学の薬理学者デーレック・イエーロンの報告は、60歳前後の男女の上腕を、手術直前に帯で〆ると、その試験者の半数は数分間の間隔をおいて、三回強くポンピングすることが見られ、その他半数は反応しなかったとされる。

トロピニンTと呼ばれる蛋白質の血液内濃度が、心臓内細胞の崩壊を示すようだが、術前と術後6から72時間のその濃度が測られる。そして、この腕の止血と言う変わった処方の比較研究報告が上記雑誌370号に掲載されていると言う。その処方による数値の上昇は通常の略半数以下とされているが、検査期間が短いので臨床上の経過としての観察結果とはなっていない。

そこでなんらかの反応が、その予め血流の中断と言う危険を知らせる信号から表れると予測されているが、それがどのような物質でどのようなメカニズムで発信されるかは判っていないと言う。恐らく、ホルモンに類したものとされるが、純粋に古典的な医学研究のように聞こえるので面白い。

同時にこうした生反応を聞いて、そのようなことならあり得そうだと思う者も少なくないかもしれない。そうした認識の方法は、グノーシス的かも道教的かも知れないが、「未知の知」はこうした古典的医学研究にもまだまだありそうだ。
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属性の認知とその美学

2007-08-23 | 文化一般
先の新聞音楽評で、「戦後から今までザッハリッヒな第九の演奏解釈が続いた」とあった。このザッハリッヒとは、美学的な表現でもあるが、必ずしもそれに限らず哲学的な表現と考えても良いのだろう。

音と光と言語の認知学的な観察を発端として、認知論的な考察に発展した。様々な議論を呼ぶ可能性があり、様々な考え方があるのだろうが、少なくとも我々人類が、辛うじて懐き得る空間や時間のイメージからそれらを分析しても限界があるような気がするのである。

本年冒頭の話題を「肉体と精神」としたが、そうした認知科学は、その双方を一体化することでその双方に寄りかかる形となって、結局は人工知能信仰に繋がっていると思われる。

音や光がなんらかの意味を持ち、言語的に解釈されるのは、文化的な行為であり、その中に自然科学をも含めれば良いかもしれない。その文化が、過去においては地域や民族的な属性を持っていたのが、歴史を通してグローバル化から人類共通の文化となって来ていることには異論はないだろう。しかし、こうした文化の同一化が、何れは肉体と精神の統一化となって、進化論的に人類のゾンビ化が予想されている。

しかし、そうした人工知能信仰よりも、自らの認知の壁を破るような、未知との遭遇と飽く迄も抽象的な思考態度こそが発展や創造と呼ばれるものであるとするのは正しいだろう。

我々人類がなんらかの信号を外部から受ける場合、それを処理する属性があるのみで、その行程を分析するのは只の文化でしかないことを肝に銘じて措く必要があるのだ。そして、そうした人類の属性の中にも個人の属性が存在して、空間把握や時間把握のみならず、言語把握にも大きな差異があることを前提としなければいけない。言語把握の限界こそが、抽象世界への入口である。

そのように考えると、要するに人工知能信仰は、ある時はグノーシス的な思考態度に還元されて、ある時は道教的な思考態度に還元されるようである。

当然のことながら、「肉体と精神」の問題は哲学者デカルトやまたその二元論に意義を唱えたスピノザによって、ザッハリッヒな思考態度へと導かれたのも事実である。



参照:
漂白したような肌艶 [ 暦 ] / 2007-04-02
皮膚感覚のフマニタス [ 雑感 ] / 2006-11-29
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兄弟の弁証法的反定立

2007-08-22 | マスメディア批評
電話の向こうでマーラーの節まわしが聞こえる。遠くてあまり聞こえないが交響曲三番の終楽章アダージョと判った。誰の演奏かは想像つかないが、なかなか良いと言うので、TVをつけるとルツェルンからの中継であった。

クラウディオ・アバドの表情が大きく映る。あまり定期的には見ていないが、病後の一時のやつれよりも枯れた感が強い。最後の一節が済んで、改装前の会場でロス・フィルの演奏した同じ曲の演奏会を思い出した。月並みなTVナレーションは「瞑想」と評していたが、会場の雰囲気は当時の異なる演奏のような静まりの深さはなかったように思う。

これは指揮者の音楽的個性にもよるが、昔から近所のイタリア人のおじさんのようにユースオーケストラの若者に慕われる親しみ良さがこの演奏解釈にも出ていたようである。一体誰がこの楽団にいるかと観ていると、ザビーネ・マイヤーが真ん中に座っていた。

趣味のおじさんが昔取った杵柄で余生に音楽を楽しんでいるような雰囲気が良い。改装なったこの会場にも何回か足を運びマーラーの交響曲を幾つか聞いた。車で二時間半ほどしかかからない最も近い伝統的大音楽祭であるが、ここ数年はご無沙汰している。

ザルツブルク音楽祭での第九の演奏が稀にみるユートピア表現として絶賛されている。記事をさらっと読んでもその良さは不明だが、マリス・ヤンソンス指揮のバイエルンの放送交響楽団と知って、ある程度想像がついた。その場合、休憩前に演奏されたオネゲルの交響曲「典礼風」の録音よりもショスタコーヴィッチのそれも二番とか三番のプロレタリアのためのプロパガンタ音楽の彼らの秀逸な演奏録音を思い浮かべる。

公平に判断するとこの目前にする新聞評は、旅先の部屋で適当に書き込んだ程度で全く良くない。しかし、フルトヴェングラーのバイロイト祝祭劇場再開の歴史的演奏を比較対照して、国家社会主義における度重なる祝祭的演奏においてその指揮者がなんら、その野蛮を目前にしても、ベートーヴェンのヒューマニズムの効果への信仰をなんら押さえることが出来なかった矛盾を、トーマス・マンが「ファウストス博士」にてその効果を 撤 回 していることを強調する。

それが、今回の演奏のこの破天荒な合唱楽章の示すその時間と空間の摂理が齎す幻影を、多元の視角から見るシュールレアリズムとしての交響作家チャールズ・アイヴスの音響空間のように形成していたとすれば、弁証法的対峙に他ならない。そしてシューマン的トリオと三楽章のマーラー的警告、舞台奥に並べられたトランペットなどを示す事によってのみ、この演奏の新奇を表わしている。

ベートーヴェンにおける弁証法をその芸術的機軸としたフルトヴェングラーが、1930年までに書かれたショスタコーヴィッチの作品が体現するボルシェヴィズムへのアンチテーゼとしての芸術的信念を、国家社会主義の中で飛翔させて、さらに1951年の冷戦構造の中で復帰させた事象をどうしても無視出来ないのではないだろうか。



参照:
"Komm ins Freie" von Julia Spinola, FAZ vom 20.8.07
管弦のリアルな黄昏の音 [ 音 ] / 2006-09-26
勇気と不信の交響楽 [ 文化一般 ] / 2006-01-06
シラーの歓喜に寄せて [ 文学・思想 ] / 2005-12-18
考えろ、それから書け [ 音 ] / 2005-12-19
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時を隔てた趣向の方向

2007-08-21 | 試飲百景
夏の終わりにソーヴィニオン・ブランを開けた。しかし、少し遅すぎたきらいがある。確かに、西洋酸塊の味は残っているが、土壌の味が前へと出てきて、清涼感は弱っている。瓶詰めから二月内が最も美味いときだったのだろう。

それで思い出したのは、五月の日本から来たお客さんとの試飲の風景である。何よりも、辛口リースリングにかける意気込みとその選択に興味があった。そして、何よりも気がついたのは、その酸味に対する評価で、量だけでなくその質までに触れる関心を示した事である。

「これはどうですか?」

「酸がよく効いてます」

「これは効いてますかね?」

「いい酸ですね」

こうした具合に、強い弱いの他に、酸の良し悪しについて評価が下された。そして、当方が最も関心を持っていたのは、日本食に対する相性とその環境での辛口リースリングワインの需要であった。

2006年産のリースリングの酸がヘタレ気味であることは、冬場の早い試飲からいくらか気がついていたが、夏になってその傾向は顕著に出てきて、確信を持った。

また試飲の機会以前に、ミネラル風味の苦味についての日本からの感想を頻繁に読み、、なぜなのか今ひとつ判らなかったのだが、いまリースリング種以外のワインを飲むことでなにかが掴めた。

どうしても瓶詰めから日が経ったリースリングワインの場合は、当初の新鮮さが薄れて、その搬送過程も手伝ってか、抜けた感じになることは何度か経験している。それが、どうしても酸への拘りとなり、ミネラル成分の突出で苦味として表れることが、ソーヴィニオン・ブランの落ちた酸味から感じられるものと、嘗て日本の友人の家で飲ませてもらった辛口リースリングの印象に似ていると感じた。

つまり、強い酸への希求は、新鮮な時点では自然なバランスを採っていればあまり起こらないのだろうが、どうしてもその変化を鑑みると必要な要素となるのかも知れない。また、その時点では、ミネラル成分は、瑞々しさを与える要素であって、苦味に通じる気配が少ない。

こうしたことから、必ずしも食生活や気候だけが趣向に影響を与えるとは限らないのではないかと考える。
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兵役任意制度の存続論

2007-08-20 | 生活
社会民主党は大変な支持率の低下が危惧されている。先日の結果では、小さな市民にとっての政党は左翼党と並んで社会民主党が挙げられるのみで、政権与党第二党は全く支持されていない。

そのような背景もあってか、2005年に既に試みられた兵役制度の問題が十月の党大会で議論されると言う。

現行の兵役義務を、兵力が充分な限り社会奉仕精神に基づく任意のものにすると言う意見である。

そうした貢献をする者には、その兵役期間に相当する教育の場所を優先的に与える事などの特典が与えられると言う案らしい。

しかし、こうした考え方は国防の兵役制度には似あわないことも確かである。それでも兵役制度を職業軍人と別に徴集することで、市民と国会の軍へのシヴィリアンコントロールを弱めないとする意志が働いている。

勿論兵役は本土防衛のみにあるべきで、職業国防軍の海外派遣も任意のものに限るべきものである。

スイスのように特殊なアルプスと言う防御壁があることから国民皆兵が実施されている国と同じように市民の手に国防力を握る処置としての兵役義務が必要なのだろうが、自由党の主張のように、必要ないならば廃止するのも案には違いない。

何れにせよ、兵役反対は社会民主党の若い議員に多く、嬉しくない兵役の対象となる若者の支持を受けており、信条に基づく徴兵拒否者や兵役入隊の必要のない年配者にはどちらでも良いのかもしれない。



参照:
疑似体験のセーラー服 [ 歴史・時事 ] / 2005-06-1
似て非なるもの [ 雑感 ] / 2006-08-14
吉兆とヨハニの乱痴気 [ ワールドカップ06 ] / 2006-06-24
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木洩れ日の中の研修所

2007-08-19 | 生活
トレーニングのために雑食砂岩を登ってきた。そのついでに同行の現職警察官がやっているロープの庭を見学した。

家族づれなどで賑わっていたが、思っていたよりも遥かに規模が大きい。ホームページで観た時は、てっきり裏庭の一部に軍事教習所が小学校の校庭のように並べられているようなものと想像した。

しかし実際に現地を見学すると林の一斜面がスキーピステのように全て上から下まで使われていて、高い木の上から下まで経路が木漏れ日の中に隠されていた。

まるでターザンの世界だ。子供たちは楽しいだろう。企業のグループ研修や学校の体育の授業などにも使われるようである。詳しくは改めて本人に聞いてみたいが、思いのほかであった。
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オカルト団ミュンヘン宇宙

2007-08-18 | 文化一般
新聞連載「シュテファン・ゲオルゲ」を読んでいる。一ダースの続きが区切れる所で、一通りのゲオルゲ派の中心人物が顔を揃えたかに見える。その中身については一向に知識がないが、そうした印象を与える連載となっている。その一派の活動内容を示すかのように、その出会いなどにいつも形而上で「何かが起こる」進行が面白い。

同じビンゲンのカール・ヴォルフスケールは、ダルムシュタット生まれのヘッセン人で、ユダヤ人銀行家の宮廷ユダヤ人家系であり、12世紀にマインツにやってきた血筋は、ローマ・ユダヤ・ドイツを体現していると1933年の亡命以後も変わらなかったと言う。兎に角、門徒には似つかわしくない190CMの大柄な髭面は、ミュンヘンの「シュヴァビングのゼウス」と呼ばれた男で、そこでゲオルゲに出会い、人生をかえる。難しい作家ゲオルゲには故意に距離を置き、その作品から真価を読み取ろうとする姿勢をとる。その姿勢が逆に、作家の世俗的な像をタブー化して神格化していくと言うのが面白い。

そこから紹介されて1899年8月バード・ホムブルクからビンゲンにやってくる若い少年がフリードリッヒ・グンドルフで、背が高く細身の体に揺する肩に美しい童顔の頭が乗る男は、ゲオルゲの理想の少年像に適った。深く光り輝き愛に満ちる彼を喜び、そして期待するとして直ぐにミュンヘンのサロンにてお披露目をしている。こうして高等専門学校の数学教授の息子は、ゲオルゲに熱狂して、「私は、なんと深く、暫し我々が導くドイツと欧州のそれとなるゲオルゲの罪なのだ」と、この 大 人 物 を称え、ゲオルゲをカエサルとした。ニッチェの現在から見る歴史の立場にいた詩人の方は、歴史哲学的な扱いに関心を抱かなかったようだが、それは19世紀を通したヘーゲルの歴史感にも影響されていることになる。

運命的な出会いはヴォルフスケールにも起こったのだが、あくまでも権威ある教養である詩をザッハリッヒに扱う彼とは別に、ミュンヘンで身近にいたテオドール・レッシングは、ゲオルゲを指して「亡命中の憂鬱な王子」と呼んで様式的な情念は決して悪い芝居ではないとしている。

1897年11月にデン・ハーグなどに続き、ベルリンのシャルロッテンブルクのレプシニス邸ではゲオルゲの朗読会が開かれ、ニッチェの女友達ルー・サロメなどを集めている。高名な指揮者の母親フルトヴェングラー博士夫人は、独特の雰囲気に痺れを切らし、腰を浮かしそわそわして、それを批判するグンドルフの一方、詩人に気を使い取巻くヴォルフスケールを冷や冷やさせた。

朗読会の様子を伝えるオスカー・シュニッツは、「当時非常に変わった風評が乱れ飛んでいた」と回想して、その「裸のエフェーブ像に包まれた象牙の椅子に腰を降ろし朗読する奇妙な様子」を伝えている。

マインツ生まれのアルフレッド・シューラーは、薄っすらと若ハゲした小太りの男の一人であり、二重顎の太った顔に幾らか斜視気味の大きな青い目をもっていた。一生涯を通して、熱狂とみすぼらしさの間を泳いだこの男は、ヴァルター・ベンヤミンに「極度に好奇心に満ちた人物像」と呼ばれている。その「死の世界」の講義に感動した詩人リルケは、1923年のその早い死を受けて、これをして最も生涯価値ある影響と呼んでいる。後の鍵十字となる、当時はスカンジナヴィアなどの一部でしか知られていなかった、古いをエロスと組み合わせることで広く普及させ、「性行為の幾何学」を世に拡げた。そこでは、合一と血こそが全ての源となり、同性愛の交わりに大きな意味を持たせる。グノーシスでもあってドイツ最後のカター教徒と呼ばれる。

その血に対するアンチテーゼが、ルートヴィク・クラーゲスの言う精神である。ラッシングの友人でもある「生の哲学」者として知られているが、「啓蒙の弁証法」や「ロゴツェントリズム」などは彼の創作語である。理性と進歩、資本主義と文明、血を越えたユダの勝利と生を越えたエホバの勝利を同じく精神とする。上シューラーの世界を論理的に整理して自らの業績としたことで、「知的泥棒」と罵られて、ゲオルゲもそれに近い判断を下していたとされる。

これらをして一派とするばかりか、ミュンヘンの「光る血」の威力を中心に添えた「宇宙」と言われるオカルトグループの中心人物とすることが出来るようだ。

一先ず、これで登場人物は揃った。



参照:
Thomas Karlauf "Stefan George"(Die Entdeckung des Charisma)1-12
どこかで聞いたような話 [ 文学・思想 ] / 2007-08-09
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