Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2008年12月

2008-12-31 | Weblog-Index



正夢と幻想の束の間 [ アウトドーア・環境 ] / 2008-12-31 TB0,COM0
春へと向う陽射しの中で [ 女 ] / 2008-12-30 TB0,COM2
今年度の消費とその番付< [ ワイン ] / 2008-12-29 TB0,COM2
放射冷却の夜の寒暖計 [ 生活 ] / 2008-12-28 TB0,COM0
初夢お買物ウィシュリスト [ 生活 ] / 2008-12-27 TB0,COM0
懐かしい暴飲暴食の味覚 [ 料理 ] / 2008-12-26 TB0,COM6
カテキン豊富に大満足 [ 試飲百景 ] / 2008-12-25 TB0,COM0
零八憲章刺す天叢雲剣 [ 歴史・時事 ] / 2008-12-24 TB0,COM4
量から質向上への経済 [ マスメディア批評 ] / 2008-12-23 TB0,COM0
若くて良し、熟して良し [ 試飲百景 ] / 2008-12-22 TB0,COM0
反照に浮かび上る世界観 [ 歴史・時事 ] / 2008-12-21 TB0,COM2
なぜ頭巾先生は駄目? [ 文学・思想 ] / 2008-12-20 TB0,COM0
とても攻撃的な話題 [ 雑感 ] / 2008-12-19 TB0,COM4
大衆文化に混ざるもの [ 文化一般 ] / 2008-12-18 TB0,COM3
節穴が開いてしまうと [ 生活 ] / 2008-12-17 TB0,COM0
「おれを信じなさい!」 [ 生活 ] / 2008-12-16 TB0,COM2
温かみある地所の名前 [ ワイン ] / 2008-12-15 TB0,COM4
挟まっていませんか? [ 女 ] / 2008-12-14 TB0,COM0
カード枚数分だけの信用 [ 生活 ] / 2008-12-13 TB0,COM0
あまりにも短い一生涯 [ ワイン ] / 2008-12-12 TB0,COM2
引渡されるネットの反映 [ 音 ] /2008-12-11 TB0,COM0
半袖の神々の冬越し [ 暦 ] / 2008-12-10 TB1,COM4
決して民衆的でない音楽 [ 歴史・時事 ] / 2008-12-09 TB0,COM0
生半可にいかない響き [ 音 ] / 2008-12-08 TB0,COM2
生理学的に完熟するとは [ 暦 ] / 2008-12-07 TB0,COM2
発動技術的連鎖反応 [ 歴史・時事 ] / 2008-12-06 TB0,COM0
稚拙な大衆文化の品格 [ アウトドーア・環境 ] / 2008-12-05 TB0,COM0
個性としての訛り方 [ 音 ] / 2008-12-04 TB0,COM11
つまらないことはない [ ワイン ] / 2008-12-03 TB0,COM2
本当に力が漲るとは [ ワイン ] / 2008-12-02 TB0,COM4
偽装消費を鼓舞するな [ ワイン ] / 2008-12-01 TB0,COM19
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正夢と幻想の束の間

2008-12-31 | アウトドーア・環境
年末年始の準備は整った。とは言っても、ワインの計画に従って食料を買いこんだだけである。その内容は改めて記すとして、方々で良いお年をと告げる声が響いて、クリマスほどではないにしても盛況である。以外に魚売り場に並ぶ人が居て驚いた。

帰り道にそのまま散歩に出かけたが、陽射しは本日のほうが強かった。色々と難しい考え事もあったのだが、またもや体が温まってくるとついつい惚けて仕舞う。

迎えから来るおばさんが昨日の娘さんに似ているかと思って挨拶をすると、記憶や印象が大変怪しくなってきた。これだけ歩き回っていても未だに通っていない道があるのも驚きで、地所パラディースガルテンのエヴァ像を遠くからは予てから拝まして貰っているのだが、初めて足元へと向った。

そこには、ゴルバチョフ、サッチャー、メージャー、ヴァイツゼッカーなどの葡萄の木が植えられているのである。それにしても下から写真を取り、態々顔を見に行って失望してしまった。遠くから眺めておくべきであったと後悔しても始まらない。

先日見た夢はまた不思議でその分析すら出来ないでいる。現在使っているレコードプレーヤーが主役であった。そのアーム部分に発光ダイオードか何かが埋め込んであるのだが、それは恐らく演奏の最後になるとスイッチが切れる機構のパイロットランプとなっているらしい。その光の反射がしばしば気になることもあるのだがそれがどうも夢のきっかけになっている。

レコードプレーヤーにLP載せて廻していると突然その光の当たりから火花を発し出すのである、驚いて慌てふためいていると、益々その火花は激しくなり燃焼し出すのであった。不快で焦る夢のないようだったのだが、それ以上には大きな恐怖感や破局へとは至らなかった。

なるほど最近は、アナログ録音のCDまで鳴らす事になっていて、LPを廻す機会が減っているのも事実である。一月ほどそれを使っていない。レコード針がちびる事もないのでそれはそれで良いのであるが、どうしてこのような不安な夢を見たのだろう。

八百屋で支払った額18ユーロ、魚屋で買った燻製鮭の残り全部のサーヴィス、改めてじっとレシートを眺めるのであった。



参照:
ガラード401のアイドラー修理 デジタルタブローとは。
春へと向う陽射しの中で [ 女 ] / 2008-12-30
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春へと向う陽射しの中で

2008-12-30 | 
天気予報どおりに、やっと本格的な霜が降りて総てが凍てついた。陽射しが強いので、早速買物帰りに散歩に出かける。

出来る限り日向を選んで進むのだが、段々畑の上の斜面はやはり都合が良かった。そこから谷影などを進む人影を上から見ていると何とも気持ち良い優越感に浸れるのである。

高みから降りて行くと、健康そうな娘さんと擦れ違った。先日も他の場所へと足を伸ばした際に、向こうからやって来るブロンドの若い女性を見かけて、期待せずに擦れ違い様の挨拶がてらに身近で見るととても美しい表情の女性で驚いた。意外にブロンドの美女は少ないのである。

クリスマス直前であったが、今時分は学生や若い人たちが親元に戻って来ているので、普段見かけない若い女性達をワイン地所で見かける。特に冬のワイン地所をうろうろしている連中は、ジョギングの親仁さんか、老人の健康管理か、犬の散歩か、ワイン農家従事者しかいないのである。

今日見かけた女性も、地元風の娘であったが、ぴちぴちとしていて、如何にワイン街道には平時そのような女性が少ないかを改めて思い知らされるのだった。

更に靴を履き替えて、車で家へと向うと、やはり毛糸の帽子などを被った若い女性達三人組など、このあたりでは見かけない新鮮な人たちを見かけるのであった。

葡萄の芽が息吹くにはまだまだであるが、陽射しがあると、もはや春へと向かっていることを感じさせる風景である。
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今年度の消費とその番付

2008-12-29 | ワイン
今年飲んだワインの量をざっと概算してみた。平均して二日で一本空けている事から年間を通して170本近くは消費している。本年の休肝日は合わせて二週間と少々だろうか。

そこには試飲やレストランなどで飲んでいる量は、何ともいえないが。種類としては、百種類ほどだろうか。量は、ざっと三十本ほどだろう。

今年は、一年前に比べて在庫が寝かせて置く高価なグランクリュワインを中心に三十本ほど増えているので、自己消費用の購入量は約二百本ほどだろう。その平均の単価が約10ユーロとすると、二千ユーロほど支出した事になる。消費はその半分ぐらいだろう。多いか少ないか判らないが、年間の食費はその三分の二ぐらいだろうか。

本年度のワイン番付を試みる。

購入した最も高価なワイン:
ビュルックリン・ヴォルフ醸造所 2001年ウンゲホイヤー グランクリュ 約42ユーロ

購入した最も廉価なワイン(調理用を除く):
ゲオルク・モスバッハー醸造所 2007年ミュラーテュルガウ リッター瓶 4ユーロ

量を消費したワイン:
ゲオルク・モスバッハー醸造所 2007年 グーツリースリング 12本
ミュラーカトワール醸造所 2007年 MCリースリング  18本
A・クリストマン醸造所 2007年 リッターリースリング 

初めて訪問した醸造所:
レープホルツ
キュンストラー
ヘッセン州立 ベルクシュトラーセ
シュロース・ザールシュタイン(出張試飲会)

最も回数多く試飲した醸造所:
バッサーマン・ヨルダン

印象に残る新鮮な2007年産ワイン:
フォン・ブール醸造所 ヘアゴットザッカー キャビネット

印象に残った古いワイン:
A・クリストマン醸造所 イーディック リースリング並びにシュペートブルグンダー

今年飲み頃だったワイン:
フォン・ジメルン醸造所 2006年 バイケン キャビネット

幾らでも飲みたいと思ったワイン:
フォン・バッサーマン醸造所 2007年 キーセルベルク キャビネット

最も複雑で興味深いワイン:
ビュルックリン・ヴォルフ醸造所 2006年 ランゲンモルゲン プリミエクリュ

最も個性があったキャビネット:
レープホルツ醸造所 2007年 リースリング ブンテザントシュタイン

予想外に美味く仕上がっていた2007年産ワイン:
フォン・ブール醸造所 キーセルベルク キャビネット

予想外に上出来だったグランクリュ:
ゲオルク・モスバッハー 2007年 フロイントシュトュック

予想外に良かった醸造所のワイン:
ケラー醸造所 2004年 フバッカー グランクリュ(日本にて)

試飲後に購入して失望したワイン:
ロベルト・ヴァイル醸造所 2007年 シャルタ リースリング

買い置きして悪くなったワイン:
ミュラー・カトワール醸造所 2006年 ビュルガーガルテン シュペートレーゼ

買いそびれて残念なワイン:
フォン・ジメルン醸造所 2007年 バイケン キャビネット

飲み頃に抜栓して大満足であったワイン:
フォン・バッサーマン醸造所 2004年 ウンゲホイヤー シュペートレーゼ(日本にて)
フォン・ジメルン醸造所 2005年 バイケン シュペートレーゼ
ロベルト・ヴァイル醸造所 2005年 グレーフェンベルク グランクリュ
フォン・ブール醸造所 2005年 イエズィーテンガルテン グランクリュ

人に強く推薦したワイン:
フォン・ブール醸造所 2007年 キルヘンシュテュック グランクリュ

再会出来た素晴らしいワイン:
ヴァルナー醸造所 2007年 ドムネシャナイ グランクリュ

新鮮さを楽しんだグランクリュ:
ビュルックリン・ヴォルフ醸造所 2006年 カルクオーフェン グランクリュ

将来性が高いと感じたワイン:
フォン・バッサーマン醸造所 2007年 ペッヒシュタイン
ビュルックリン・ヴォルフ醸造所 2007年 ペッヒシュタイン

二年後に飲んでみたいグランクリュ:
フォン・バッサーマン醸造所 2007年 ホーヘンモルゲン

置いて忘れて仕舞いたいグランクリュ:
フォン・バッサーマン醸造所 2007年 イエズイーテンガルテン

買い置いて忘れて仕舞うワイン:
シュロース・ザールシュタイン 2007年 ファインヘルブ

余力があれば買って確保しておきたいグランクリュ:
ビュルックリン・ヴォルフ醸造所 2007年 ホーヘンモルゲン

現在、開け時を窺っているワイン:
レープホルツ醸造所 2007年 ブントザントシュタイン シュペートレーゼ
ゲオルク・モスバッハー醸造所 2006年 バサルト リースリング

購入した古いヴィンテージ:
ビュルックリン・ヴォルフ醸造所 2001年 ウンゲホイヤー グランクリュ
ビュルックリン・ヴォルフ醸造所 2001年 ペッヒシュタイン グランクリュ


今年はブルゴーニュでもシャルドネなどを試飲購入した。色々なものを試飲会で摘んだ。プファルツの百周年記念は大成功裏に終了する。2008年産も決して悪くはないので、来年の春がまた楽しみである。2007年産は予想通りなかなか休肝日を与えて呉れなかったが、来年もつまらないワインを飲んでいる余裕はとてもなさそうである。
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放射冷却の夜の寒暖計

2008-12-28 | 生活
昨晩は暗くなりかけで散歩に出かけた。今日から気温が下がる事が判っていたので、出来るだけ暖かい内に出かけたのである。それでも水溜りは総て凍結していて、乾いていて逆に歩きやすかった。

バルコンの寒暖計は、本日午前中も夕方現在も摂氏プラス三度を指している。底冷えがするので、天気予想通りの感じはするが、寒暖計が壊れているのだろうか。常温の水を汲んで外に置いておこう。生憎くウイスキーを切らしている。

毎年同じような事をしているようでも、ちょっとした事の記憶を辿って行くとやはり大分違う。進化してもいないが退化している様子もない。

新聞の新刊案内の大部の批評頁は、いつも後でじっくり読もうと思って除けて置いてあるのだが、それを取捨選択していると、昨年は暮れにはそれをやっていない事に気がついた。

大きな相違は、選択して棄てる時期の違いでもあり、それ以前ではクリスマスに向けて本の選択までしていた時期もあった事を思い出す。クリスマス前後の休日のあり方が移動することも影響しているかも知れないが、今年は比較的買物も都合よく済ませる事が出来て時間の余裕が少しあるようで過ごし易い。毎年同じように過ごしていると退屈するに違いない。

今現在水が凍り出す様子はないので、どうも寒暖計は壊れていないようだ。どうも放射冷却の傾向が強いらしい。
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初夢お買物ウィシュリスト

2008-12-27 | 生活
本日は天気が良く強い日差しが指していたが、明日は摂氏マイナス三度以上とはならないようである。

年が明けてからの初買いの購入希望リストを考える。冬物バーゲンだけでなくて、ポンド安を有効に使いたいものである。考えた挙句、今回は五月ぐらいまで使える冬春物に限って、夏ものは半年後に考えれば良いと結論した。

先ずはカラーシャツであるが、現在来ているものがささくれだって来ているので、普段着に下ろすのもそう遠くない。というか普段着がなくなって来ている。現在来ているものがブルーの縞なので他の色となる。白いシャツはまだ余分があるのでまだ今回は良いだろう。首周りのサイズは二種あるが、どちらでも使えない事はない。半インチ一センチメートルの差なので、少し苦しいか、一寸締りが悪いかの差である。恐らく後者の方が、洗濯後に引っ張って使わないだけ長持ちするだろう。

もう一つは、万年セーターの呪いから脱するために、冬物セーターの一つも欲しいところだ。

春ものというか、夏場まで使える薄てのウールのセーターも一つ欲しい。Vネックで良いだろう。今ある茶のものでは秋は良いが春に使い難い。

オーヴァーはあるのだが、今使っている半コートが流石に襤褸になって来ている。車に乗る時に便利であるので普段に着古した。十五年以上前のアウトレット商品である。その昔、冬の欧州を旅した者が「欧州では皆襤褸を纏っている」といったが、今やその状態である。

それでも衣食住で言えば、ドイツ人が世界で一番「衣」に金を掛けて、「食」はフランス人、「住」はドイツ人となっている。

棒タイがやはり古くなって来ていて、古い物では流行が完全に一回り以上しているかも知れない。どこかズレて来ているのを自覚するようになった。紺の縞のスーツに合わせてエレガントなものが一本あれば良いだろう。

英国となれば、やはり紅茶をそこに添えたい。エールグレーの特製ミックスに、やはりダージリンは欠かせない。最近はコーヒー党になったので先ずは500グラムもあれば良いだろうか。

なんとか予算内に収まるか?
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懐かしい暴飲暴食の味覚

2008-12-26 | 料理
耳の奥かとくとくする。暴飲暴食で血圧が上がったようだ。クリスマスの食事には何を開けるかに頭を痛めた先酔いもあったが、それに比べると随分とすっきりと酔えた。

イヴには、魚のテリ-ヌが三種類用意してあったので、フォルストの三大地所からのワインを混ぜたフォン・バッサ-マン醸造所のキュヴェー「プローブス」を添える。現時点では些か閉じてしまっていて、ステンレス醸造で残った薄い炭酸が気になるが、相手がウナギであろうとサケであろうと負けずに楽しめた。なによりもヴァイツェン麦のパンが美味くて食が進む。

クリスマス初日の食事は、初ものの丸ごとザウマーゲンの栗入りとあって、ワイン選びにも気合が入る。地元のリースリングから2005年産フォン・ブール醸造所イエズイーテンガルテンのグランクリュを試す。2005年産の大物リースリングはラインガウをはじめ夏以降いつも当たりが良くて、その構造的なワインを合わせてみたくなったのである。飲み頃のグランクリュの在庫は限られているので、あまりにも早すぎるかと悩んだが、その結果は予想以上であった。

売れ残りを購入したのは既に一年以上前であるが、試飲の評価とは全く矛盾しなかった。しかし、この醸造所の最近の変化からすると、この辺りでその始まりを試して先に期待したい気持ちもあり、その土壌の力強さと糖の高さからまだ酸が生きている内に開けてみたくなったのである。そしてなによりも地所の名前が良い。ノイシュタットの幾つかのイエズイーテン修道会のワイン地所であった。

温度は高めにコルクを抜くと少々元気過ぎる印象があり、グラスに何度かついでいる内に極小のグラスの底に張り付く気泡が確認出来た。ステンレス樽での熟成だろう。現在の商品は木樽となっているが新しいそれを購入する前の行程だろうか。

そのような感じで少しオイリーな杏風味も比較的早めに開き出して、デキャンタする必要は殆ど感じない。また、初めからほんの微かに熟成香を感じたのには驚いた。なんといっても予想に反して、重くないのである。重かったらグラスが進まずに困るなとの思いは危惧に終り、瓶の裏のアルコール度の表示を見て合点がいった。なんと13%を切って12.5%しかないのである。しかし試飲したときには酸が弱く早飲みである事には気がついていたが、その軽さには気がついていなかった。

いずれにしても執拗なイエズイーテン修道僧の攻撃をクリスマスから受けることもない、落ち着いて楽しめるワインで、あと数年もすれば完全に枯れてしまうのが予想出来て、本格的グランクリュというにはあまりにおとなし過ぎるリースリングである。

こうなれば、食前のレヴァーのテリーヌとの相性も完璧で、食事前にグラス二杯は平らげてしまった。そして食事にも栗の甘さを消す事もない。なるほど辛ささえなければ中華料理にも楽しめるだろう。しかしチーズ類には負けてしまいそうである。それ相応のミネラル味はあるのだが、この土壌の正確は纏まった味としての印象が強く嘗ては多くの甘口ワインとして醸造されていた事を髣髴させる。

個人的には、この土壌のリースリングを開けることはめったになく、嘗て飲んでいた甘口のイエズイーテンガルテンのリースリングそのものを思い出させた。当時は日本でスキヤキなどに、ブュルックリン・ヴォルフかバッサーマン・ヨルダンのそれを開けていたような気がする。今では敵のように醤油料理に文句を付けるが、何の事は無いその昔はそのようなリースリングの楽しみ方をしていたのだ。

栗の胃袋詰めも期待以上に素晴らしく、これほどに繊細な肉料理はこの世に存在し無いだろうと思わせる。なにも入っていないスタンダードなそれに比べるとなぜか豚の臭みが消えていて、これならばより広くの人に受け入れられるだろうと考える。ナイフを入れると、胃袋の皮だけが薄く剥がれていく。どうもその臭みと皮をどうしても食べさせようとしない作り方が微妙に関連しているようだ。今後、愛好家としてはその辺りに研究の余地がある。

繰り返すが、このワインとこの食事の質の高さは、なるほどフランスの一部には比較できるものがあったにしても世界で最も素晴らしい食であると確信するに十分だ。お蔭で自らの胃袋がザウマーゲン状態になって、飲み易いと思って殆ど開けてしまったワインの酸で胸焼けする。久しぶりで動けなくなるほど飲食した。
参照:
特産品を特別に吟味する [ 試飲百景 ] / 2008-03-03
買えるときに買う投資 [ 雑感 ] / 2008-09-04
賞味保障、期限2025年 [ 試飲百景 ] / 2008-10-19
女性的エレガンスを求む [ 試飲百景 ] / 2008-11-17
桜は咲いたか未だかいな [ 試飲百景 ] / 2007-11-30
インサイダー情報の価値 [ 試飲百景 ] / 2007-03-30
タールの石切り場訪問 [ アウトドーア・環境 ] / 2007-03-28
偉大なグランクリュを評価 [ 試飲百景 ] / 2007-03-14
ドイツワイン三昧 第一話 2005年版 [ ワイン ] / 2005-03-07
ドイツワイン三昧 I 2006年 [ ワイン ] / 2007-03-07
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カテキン豊富に大満足

2008-12-25 | 試飲百景
バッサーマン・ヨルダン醸造所に買い忘れていたワインを調達に行った。今年は十分に販売をお手伝いさせて貰った。三桁の瓶の数は手伝っただろうか。

それでいながら自らの消費量は三十本に至らないと思う。種類は、十種類ほど購入しただろう。それでも買い忘れているワインがあって、2007年最高の辛口リースリングに選ばれた事から売り切れが心配になりながらもなにせ29ユーロと高価なワインなのでなかなか購入出来なかった。

出荷量の多い2007年産のお蔭で、九月の試飲時にはフェノール量が多く苦味がこれだけ気になっていて購買を諦めていたグランクリュのホーヘンモルゲンを手に入れた。

先ずは、まだ瓶詰め3週間のシャルドネのバリック樽仕立てを試すが、まだまだ若い木の味が強く、お屠蘇にはよいかと思うが悪酔い間違い無しである。これならばブルゴーニュで買ってきたものの方がまだ現時点では飲み易い。

その次に人には奨めながらもまだ家でゆっくりと飲んでいないプローブスと呼ばれる三つのグランクリュの地所で採れた葡萄を混ぜた醸造したリースリングを試飲した。

11月にも10月にも人に奨めたときに感じ取れたキルヘンシュトュックの味覚が今一つ感じ取れ無いので、改めて新しい瓶を開けさせる。その差は、ハッキリしているが今一つ求めているものが浮かび上がって来ないのは所謂ワインの成長が谷に入っている証拠であろう。それでも、クリスマスから新年に掛けてどうしても魚類に合わせるリースリングを試して見たいのである。

お目当てのホーヘンモルゲンは、だんだんと飲み心地が良くなって来ている。ミネラル成分の嫌味がなく、更にフローラルなので個人的にはミネラル風味の強いものと此方の両方を対照させる事でどのようなお客さんにも楽しんでもらえると思っている。その上二年も待てばある程度楽しめる開かれた性格が好ましい。己が捻くれた人間であるとこうした好みが発達するらしい。

色々な情報から推測すると、結局2007年産のリースリングには比較的多くの日本で人気のカテキンが含まれているということだろう。そうなるともっと買ってぐいぐいと飲むべきだろうか?

その後、最高に人気のあったペッヒシュタインを奨められて試飲する。なかなかミネラル成分の口当たりが良く繊細なので飲み心地が良いのだが、これの真価を知って貰うには二年でも足り無い。四年以上待って欲しいワインであるから、なかなかグランクリュ普及運動も楽では無い。今年からの新人の売り子にその辺りの念を押しておく。これからは販促に加えて教育係手当てを貰わなければいけない。

そしてまだ試飲していないシュペートブルグンダーへと進むのだが、これもバリック仕立てであってなかなかオェールベルク特有風味などで悪くは無いのだが要らぬものは元々購入の予定は無い。念のためにこの風味は何というのだと質問するとネルケンと答えが返ってきた。

順番を間違えたが最後に単純な買い付け葡萄を混ぜて醸造したシュペートブルグンダーを試していると、一人の少年が入ってきて尋ねるのである。

「瓶のバラ売りをしてますか?」

「勿論ですよ」とおばさんがその予算などを聞いて奥の掘り出し物の方へと案内していく。

ミドルティーンの少年は15ユーロでクリスマスプレゼントにこの名門の醸造所を自転車で訪れたようだ。一歩間違えばクレーマーに早代わりする試飲に飲むだけ飲んで気炎を上げるヤクザなお客さんよりも例え小額でもこうしたお客さんは大事である。

流石に少年にこれを飲めやとワインを奨めることも出来ず店のものにはなれなかったが、背後でこのワインジャムなどはお母さんにどうとか奨めるほほえましい声が気になるのだ。そして財布を除く少年におばさんは聞くのだ。

「お金足りる?」

此方は、ドイツのピノノワールとしては珍しい獣臭みを売り子に説明するのに苦労しているのだが、実際なかなか面白かった。売り子もなんとか毛皮臭さが決して否定的な意味合いで無い事を理解してさせた。
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零八憲章刺す天叢雲剣

2008-12-24 | 歴史・時事
12月9日付けの中華連邦共和国宣言の303人の署名が発表された。チャルタ08としてFAZ新聞全二面に原語とルートヴィヒスハーフェンの東アジア研究所のルドルフ教授の注釈と独訳がついている。

呼びかけ人は既に北京のアパートで逮捕された嘗ての天安門広場の学生リーダーに一人刘晓波である。303人の呼びかけ人に対して5000人を越える署名が集まっていて、事態を重く見た共産党はネットからそれらの情報を一掃しようとしているらしい。

「プラハの春」から十年後のチャルタ77で有名な後にチェコ大統領となったハーヴェル氏も賛同人となっている。さてそれをざっと流し読んで見ると中国の知識人が何を考えているかが良く知れる。

その宣言の内容自体は、西洋自由民主主義の基本憲章の内容となんら変わらないが、中共政府にとっては民主主義革命でしかない。

しかしなによりも不細工なのは、近代社会を是とした主義主張で、歴史的に最も古い極東の共和国としながらも、その後の抗日戦争で民主主義の土台が破壊され、国民党に優った共産主義の台頭でますます民主主義から遠ざかっていく状況が描かれていることであろう。

結局、ここでもマルク・ジーモンスの報告シリーズを取り上げてきたが、文革を零年とするポストモダーンの民主革命はこの文面からは読み取れないのみならず、せめても一党独裁を打倒してまともな民主主義社会を構築することが先決だと読み取れるに留まっている。

正直な感想は、社会の近代化を西洋的な価値基準においていて、信教の自由やその他の西洋スタンダードをこれによって獲得しようとしているが、共産主義が教育や実権から遠ざかり普通選挙や地方自治が正しく行なわれ、自由競争の経済秩序と私有資産の保障がされたとしても、1919年5月4日から再び自由化への道を時間と共に取り返して立派な連邦共和国には容易にはならないことは周知という事である。

ワルシャワパケットからEUへと組み入れられた国々やロシアや、紆余曲折はありながらも百年以上も絶えず近代化社会を構築しようとし続けていた日本の政治風景をみただけでも、この宣言にある綱領だけで百年やそこらで容易に西洋化した社会が完成するのでは無い事は確かである。

この宣言に偉大な思想を感じない。ヴェルサイユ条約に反応した1919年5月4日の運動から始まる「新文化運動」と呼び、これを思想における欧州化もしくは近代化を評価している。その後の動きを上のラストエンペラーの清の滅亡と共和制樹立とともに内外からの干渉としてその運動への障害として一気に扱い、日本の侵略時代を終えて、その後の粛正と引き締めを通して一党独裁体制が強化され、やっと20世紀の終りへと、毛の完全な全体主義と貧困から抜けて、やっと人権の世界条約の枠組みの中で再び復帰しつつあるとしている。

前記五四運動を原点として入る事から、これが連邦共和国宣言となっているのは当然で、さらに帝国主義的つまり君主制を絶対否定して、国民の自意識確立の時代としている。ここで誰もが感じるのは、中華思想の放棄とIDの喪失を伴った既に百年以上も葛藤しているとされる近代化意識ではなかろうか。

常任理事国としての一種の国連主義をとったこの宣言のその底の浅さをこの辺りに見て、りんりん、らんらん、と幼児言葉を好んで操るシナ文化の程度を見てしまうと言えば、シナ人にお叱りを受けるかもしれない。

私の名は「ミミ」とはこの22日に生誕百五十年が祝われた作曲家プッチーニのオペラ「ボエーム」であるが、その遺作「トューランドット」の中国の役人は各々「ピン」、「パン」、「ポン」と名付けられている。こんな低脳な文化もなかろう。

その点、日本文化が少しは賢そうに見えるのは私だけであろうか?いつものように少し古くはなっているが丸山真男の「日本の思想」から引用したい。

― 歴史主義といわれる思想は、やはり直接には絶対精神の自己実現(発展)として歴史をとらえる汎合理主義対する反動として生まれ、あらゆる時代はそれぞれ神につながる(ランケ)という主張で、逆に歴史的個性を絶対化したところに特徴づけられる。

ところが日本では歴史的見方とか歴史意識という際にはヘーゲルの絶対精神を物質的生産力に、「理性の狡智」を階級闘争の論理に置きかえたマルクス主義の歴史観がやはり代表している。 ―

こうした現在の修正主義者が採用する思考法でもなく、同じようにマルキズムを標榜するでもない、歴史を扱えないジャーナリズムは無用である。

ポストモダーンの現代において、共産主義から連邦共和制へと向おうとするシナに比べて、日本はやはり大きな利点を持っている。それは三島由紀夫ではないが皇室というジョーカーに違いない。

問題は、八咫鏡という優れた「お宝」を持ちながらそれを社会を映す鏡と出来ない、もしくは弄れない程度の低い日本のジャーナリズムでしかないのである。明仁天皇の社会を体現するようなまるで尊い一片の歌が詠まれているような発言もしくは宮内庁の意味深く高度な施策に対して、議論を通して十分な対応が出来ない自意識に目覚めない国民であるから、未だにどうしてもシナ人と比較したくなるのである。



参照:
DAS DOKUMENT, Die Charta 08, Dr. Jürgen-M. Rudolf, FAZ vom 22.12.08
天皇陛下の誕生日 (作雨作晴)
反照に浮かび上る世界観 [ 歴史・時事 ] / 2008-12-21
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量から質向上への経済

2008-12-23 | マスメディア批評
消費などは求められていない。真っ赤な嘘である。個人にとって大切なのは購買力でなくて、生活の質の向上への意志でしかないのである。そのためには、なにが求められるか。

出来る限り短い時間を働いて、必要最小限の収入を得て暮せる社会秩序なのである。そのためには、先ずは大量消費を控えなければいけない。

消費の量と質が混同して考えられているのが問題なのである。そして、不要不急の消費を止め、大量消費品は生活必需の消費に限り支出を圧縮する一方、質の向上に投資すべきなのである。その投資先は、人によって千差万別である筈だ。だから、大量消費ではなく少量生産の高品質のものが適価で購入出来る市場が成立する。

そうした実例を様々な欧州の日用品や高級品に見て来たが、また一つ面白い例が確認された。殆どを輸出向けに生産している甘口ドイツ最高級ワインである。なるほど同じ商品名で、様々な仕様の商品が市場に溢れているのはこうした高級品の大量消費の供給体制の典型的な例であって、衣料や家庭用品などにも例を挙げれば限が無い。広告と呼ばれるマスメディアやマスイヴェントに踊らされて大量消費へと扇動されている大衆に本物の高級品の質など判る訳が無い。

今回確認された高級リースリングの場合は、その商品コンセプトは知らないが、樽毎によって大分商品が異なるにも拘らず普通一般にはその中身の差が判らなくなっていて、消費者の選択の可能性を奪っているようだ。もともと売り手市場である事から、生産コストがかなり違うものも同じように市場に流せるだけの需要過多の市場は、まさに高級ブランドとか呼ばれるものの市場である。

世界的に有名な高級ブランドの商品が、それが向けられる市場によって差異が付けられているといっても知らない者はそれを信じない。要するにその差異が判らないものには、高級な商品などを流すのは無駄でしかないのである。そして、そうした判らない者達こそが大量消費をして大衆市場を形成している。

そうした無駄な消費に関与することなく消費の質を上げようとするならば、大量消費されているものに手を出さないことに限るのである。そもそも質の良いものは市場に数は出ない。どんな馬鹿者でもそんな事ぐらいは理解出来る。

生活の質を向上させるには、先ずは各々が支出を切り詰めて反大量消費を明確にして、大量消費市場を圧迫していくべきである。市場は淘汰されて、最終的には質の良い商品だけが支持されて質の良い市場だけが発展する。

経済規模は個人消費の低下に伴って縮小となるが、国の財政を切り詰めて小さな政府を目指すならばなぜ小さな個人消費と市場を目指さないのか。消費の質もしくは生活の質の向上の為には、税を含めた支出だけでなく収入の量を抑え、そこに厳選され縮小された意志を明確にしていく事が重要である。

立派な製品は清貧こそが生み出すものなのである。



参照:
華のないエゴン・ミュラー (新・緑家のリースリング日記)
We do not sell wine..... [ マスメディア批評 ] / 2008-10-08
人のためになる経済 [ 文学・思想 ] / 2005-04-11
脱資本主義へのモラール [ マスメディア批評 ] / 2006-05-16
無成長経済は可能か? [ マスメディア批評 ] / 2008-11-11
日曜の静謐を護る [ 生活 ] / 2006-11-11
キルヒホッフ税制の法則 [ マスメディア批評 ] / 2006-12-24
製品への拘りと愛着 [ 生活 ] / 2006-12-30
エロ化した愛の衝動 [ マスメディア批評 ] / 2007-01-04
緑のシンプルライフ推奨 [ 女 ] / 2007-03-04
絵に画いた牡丹餅 [ BLOG研究 ] / 2007-03-18
芸能人の高額報酬を叱責 [ マスメディア批評 ] / 2007-12-28
ケーラー連邦大統領の目 [ マスメディア批評 ] / 2008-01-02
神の手に手を出すな! [ 生活 ] / 2008-11-19
偽装消費を鼓舞するな [ ワイン ] / 2008-12-01
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若くて良し、熟して良し

2008-12-22 | 試飲百景
先日奨めて貰ったグランクリュワインの報告と、年違いのワインを買いに行った。なんと言っても、女性向けグローセスゲヴェックスという印象を持たされてしまうと男は弱い。

クリーミーな2004年産に対して2007年産は更に良くなるだろうと感じたのを語ったのだが、同意は得られなくともその印象は決して新鮮なワインを試しての印象だけではないと考えている。

なによりも「ミカンの皮の味」は、七味唐辛子にも入っていて、手洗いの除臭剤代わりにも使われているのみならず、この「クリスマスの季節の香り」がするのである。もう一度それを試させて貰うが、考えていた以上に今消費しても決して悪くはない。まだあまりワインらしさはないが、それでもキャラメル詰め合わせの白いオレンジ味のヌガーのように楽しめる。

「魚にもなかなかいけるよ」と、食事との合わせ方もその印象ほどに難しくない。難しくないミネラル風味が纏まった感じでしかでないのがどうもフロインドシュトックの特徴のようで、石灰のするっとした感じと雑食砂岩の味わいが上手く丸く纏まっているのだ。同時に程度な酸と糖分が女性らしさというか、毳々しくないこが小顔の女性の纏まりを感じさせる。

そのような造作のおとなしい美人ワインで男好きさせる派手さがないが、それが余計に女性の受けを容易にする良い点のようだ。だから、香りも仄かで同じ2007年産のウンゲホイヤーに比べるとぐっとおとなしい。

そうした美徳を確認する前に、先ずは奨められたキャビネット類から試飲する。ヘアゴットザッカー、そしてシュペートレーゼのムーゼンハング、ヘアゴットザッカー、ラインヘーレ。最初のものの元気のなさと、二つ目の酸の良さと、三つ目の過熟成葡萄の強さを確認していると、親仁なお客さんが入ってきた。

初めからグランクリュのペッヒシュタインを探していると言う。生憎売れ切れであるが、どこの醸造所にあるか下調べして知っているようであった。こうした状況になると、此方は直ぐに醸造所側の人間になってしまうのである。結果的には、先に出てきたのでその成果はわからなかったがなんらかの効果を与えただろうか。

それで、キーセルベルク、フロインドシュトュック、ウンゲホイヤーの土壌のグランクリュワイン一通りをご相伴する事になった。先週試飲した時よりも、態々倉庫に取りに行って開けたキーセルベルクは酸が効いていて好印象を与えた。と言う事は、キーセルベルクは早飲みである事をも証明していた。

営業妨害にもならない範囲で、「早飲みで、後になると砂の味になりまっせ」と親仁にも忠告しておいた。

ウンゲホイヤーの香りを、「幅広い香り」と表現した親仁に、「しかし、あまり寝かせると独特のスパイシーが目だって苦味になる事がありますよね」と言うと、「古いのに飲みなれていないとね」と反論された。人によって灰汁に強い者と弱い者がいるのでこれはなんとも言えまい。

親仁のペッヒシュタイン愛好は、やはり単独でも飲むか魚料理と合わせることにあるようで料理法を尋ねると、「ブイヤベース風に煮込む」ようであり、トマトでなく上手く香辛料を組み合わせればなるほど玄武岩のミネラル風味に良いだろう。

どうしても魚料理となると焼くか、テリーヌか、燻製か、ソースを付けて楽しむ事しか考えないので、ペッヒシュタインとは別に後半に挙げた魚料理になると上のようなフロインドシュトュックが悪くないと宣言しておいた。

兎に角クリスマスプレゼントにはなんか良い感じなのである。鯉に煮込みなどにはどうか判らないが、上手くソースに合わせたいものだ。自分用にも買い置きするが、丁度若旦那が入ってきたので、これを褒めておいた。

売り子の力もあるが、やはり2007年産は醸造所にとっても飛躍の年となるだろうか。「少なくとも二年」というように、もう少しワインらしくなるのを待って楽しみたいと思っている。

若くて良し、熟して良しの美しい女性のようなグランクリュワインである。



参照:
温かみある地所の名前 [ ワイン ] / 2008-12-15
研ぎ澄まされた辛口 (新・緑家のリースリング日記)
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反照に浮かび上る世界観

2008-12-21 | 歴史・時事
承前)グロバリゼーションの世界で市民の生活心情が保持されてつつ徐々に変化して行く社会の構造作りとはいかなるものであろう。将来の連邦共和国における宗教のあり方を考えれば自ずとそこから世界観が浮かび上がる。

宗教政策は、キリスト教社会の中での文化的加護政策である反面それと同時に国の積極的価値基準の指導的で前衛的な役割を担うとあり、そこでは嘗てはなかったイスラムとの論争が、社会政治的な従来の壁を打ち破る可能性が指摘される。

ドイツのキリスト教社会の共同体としてのボトムアップの社会形態は、民主主義社会の基盤であると共に特にプロテスタンティズムにおける社会での役割分担にまで及んでいて、個人と国の関係はその前史における部族性が宗教的なそれとなり、近代においては啓蒙思想がその核となっていたのを振り返る。

つまり、1800年ごろは最も現世に於ける価値基準が定まっていて、その教育的価値が臣下である市民の「エチケット」や「精神的拠り所」となっていたように、既に宗教告白的な価値観からは解き放たれていたと言うのである。

国の中立性は、そのプロジェクトが座礁してしまった歴史的事実から帰納して、国の理論面を考える。中立でなく名目上の信仰告白的な側面を保持して、その法律から演繹される世界観を国が持つならば、なによりも独善的な硬直を避けなければいけないと警告する。

先ずは、歴史的な意味合いを持つキリスト教への優先権を与える代わり、官僚主義的な束縛に対処できる法的機構としてそれを保障して、尚且つイスラムを排他しないことを奨めている。それによって、一神教内で各々が独自性を保ちながら論争を通して、個人の自由、公平、寛容、ヒューマニズムに至る新たな源泉とする事が可能だと主張する。

そこでは、ニクラス・ルーマンの主張していた「市民宗教」としての概念が、今や何一つ凌駕するもののない宗教的な価値感の中で確立されると言う意味で、また誰もが世俗的な主観を越えた理性の中で生活している現代において、どうしても届かない「聖的な対話」が存在し続けることを示唆している。

それが、宗教から解き放たれることのない国そのものであり、政治は「性事」であることを示していて、愛とか信仰などがそこに含めれるのである。

要するに、多文化主義であろうがなかろうが、多極主義的な議論が公になされることが最も肝心であると、フランスにおけるそれとは真っ向から相反する方向の処方箋がそこに提出されている。

しかし、ここに至って最初の疑問である、精神科学やそれに類する話題自体がこうした知識人の間では日常茶飯に扱われているとしても、日常生活から高等教育から職業生活の思考態度にまでプロテスタンティズム思考以外になに一つない一般大衆ドイツ人にとってはなかなか困難な思考態度であるに違いない。

連邦政府や連邦州に於けるモスリムテストと呼ばれる移民ために施行されている世界観や価値観の設定を誰もが不思議に思う感覚こそが、そうしたルーティン化した自らの思考態度に気がついて啓蒙されるときなのである。

そうした反照を称して、この書評は最後に頭巾闘争の第二段階として「啓蒙された女性達は、今度は生徒達にそれを禁じる、あらゆる信仰の最初にはきっと恥があるのをまだ覚えているだろうか?」と書いている。(終わり)



参照:
Udo Di Fabio: "Gewissen, Glaube, Religion", von Patrick Bahners, FAZ vom 15.10.2008
死んだ方が良い法秩序 [ 歴史・時事 ] / 2007-11-21
痴漢といふ愛国行為 [ 雑感 ] / 2007-11-26
人命より尊いものは? [ 生活 ] / 2007-12-06
脱構造の日の丸の紅色 [ マスメディア批評 ] / 2007-12-12
大衆文化に混ざるもの [ 文化一般 ] / 2008-12-18
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なぜ頭巾先生は駄目?

2008-12-20 | 文学・思想
承前)不信も強い連邦共和国の政教分離の特徴とは一体なになのか?それはEU連邦化に向けて、各々のお国の特殊事情に赤信号が灯り、画一的で事務的なスタンダード化が加速している時、失われるかもしれない危機に瀕しているのだろうか?

歴史的な各々の政体やその特にモナヒーにおける宗教的正当性に比べると、信教の自由を掲げた法的な調和への移行はあまり大きな問題とはならないとされる。それは歴史的経験によって積み重ねられた解決法が存在しているからなのである。当然の事ながらここでドイツにおける新旧両宗派の軋轢と共存の歴史を思い出しても見当違いではないだろう。

最高裁判事ウド・ディ・ファビオの話は宗教的な中立性へと及ぶ。つまり、それは民主主義的官僚主義と結びつく、公平の論理としての大衆文化的な偏見であると、先の社会民主主義的ツィプリース女史の「国が受身であったも良いのだろうか」との懐疑的意見を非難する。中立的なライシテを不注意に掲げる事で、その無差別性から宗教的な精神生活の崩壊へと政治を推し進める事になる恐れが強く、反宗教的な政治は、信仰告白に対して厳しい国政への同化を強いる事になり、理性的な世俗の構築の国策を教育課題としてしまうと指摘する ― なんとかアニマルと呼ばれるような極端な扇動に騒状態ある官僚主義的な社会組織をそこに見れるだろう。

要するに「宗教はもはや人々の生活を完全に強制的に規約出来ない」とする、全く個人的な信仰とは相容れない対宗教観がここで非難されていて、この社会主義者の女性法務大臣が基本法の制御の効かない解釈に陥っていると言うのである。

その倫理に従えば、少女の「処女喪失」は、信仰の自由の保護を根拠として、裁判所で議論されるべきであろうか?ハッシシの使用をその問題とするべきか?と決して空想的な極論ではない合衆国におけるインディアンが刑務所で許されたぺヨーテの使用が挙げられる。

そして、自らが下した頭巾裁判の見解を説明している。信仰の自由の名の下に相反する制限として、宗教の戒律の遵守によって俗世界での可能性が制限され、更にそうした傾向を示すことで宗教的蒙昧が疑われ、その自らの政治的動機を否定する者が宗教的な妄想に冒されていると診断させるかも知れないと言うのである。

視点を変えれば、今日的な国による宗教的解釈強化への道は、内部的には特にエルンスト=ヴォルフガング・ベッケンフェルデの定めた中立な国の経典解釈の歴史学的批判の対象になる。

カール・シュミット学派が、その理想主義的な方法によって、中立性の意味を近代的な国のあり方として過大評価して、憲法歴史研究の「前近代的通常国は信仰告白的であった」とする調査結果に陥っていた疑惑を挙げる ― これを読んで例のどこかの修正主義者の主張などを思い浮かべない読者は少ないであろう。(続く



参照:
キッパ坊やとヒジャブ嬢ちゃん [ 歴史・時事 ] / 2004-11-06
リベラリズムの暴力と無力 [ 歴史・時事 ] / 2004-11-06
キルケゴールの考え方 [ 雑感 ] / 2005-11-07
まだ言論の自由がある? [ BLOG研究 ] / 2006-02-17
政教分離の無為と有為 [ ワールドカップ06 ] / 2006-07-10
イドメネオ検閲の生贄 [ 音 ] / 2006-09-29
止揚もない否定的弁証 [ 歴史・時事 ] / 2006-10-07
フリーセックスのモナーキ [ マスメディア批評 ] / 2006-11-15
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とても攻撃的な話題

2008-12-19 | 雑感
人はなぜ根源的な事に言及されるとそれを攻撃的と感じるのだろう。その顕著な例が、思想的な学問であり、宗教的な話題に違いない。当然の事ながら自然科学も何一つ変わらないのだが、その遥かな抽象性にまで迫れる学徒が少ないだけなのである。

その点から一年前にフンボルト大学で行なわれた最高裁判事ウド・ディ・ファビオの講演会とそこでの社会民主党の法務大臣ツィプリース女史の発言は、ショイブレ内務大臣などが奨めようとしたキリスト教に優先権を与えるドイツの基本文化政策議論や続発したイスラム問題に答えるのみならず、ハーグの国際裁判所のあり方やEU連邦への論議への一つの道筋を示す非常に 攻 撃 的 な話題となっている。

有り体に言えば政教分離について法的な考え方を俎上に上げている。先頃、その一連の内容が書籍化されたようなのでそれを書評として読んでみた。

ドイツ連邦の政教分離は、個人的な感覚からすればフランスのそれには遥かに及ばず、また英国の王室の元での自由に比較すると些か窮屈な感じが強い。そこで、英国事情を観察するためチャールズ皇太子の考え方が引用されていて、必ずしもDEFENDER OF FAITHにもともとのラテン語から冠詞がついていない事から、ポストモダーンの融合主義を採ってプロテスタント聖公会の王室の元に護られるヒンズーやイスラムどころか無神論者の保護 ― ダーウィンのようにドーキンス博士は公職追放されていない ― を打ち出したその意味合いと、同時に対カトリック教会である英国の基本存在意義をそこに改めて確認する。

更に歴史的にみるその王権の肯定性を除外出来ない残滓として、世継ぎとして継承され選ばれざる存在が、広く忠実な臣下を保護するのである。何を保護するかというと、それは「信仰の自由」と呼ばれる「お互いに制限することない共存」を、国が市民の信仰を尊重して実現する契約なのである。

こうして王位そのものが、特に現代において変化と改革が求められる政治の無常性に対応する教会によって執り行われるとどのつまり個人の問題である恒常性へと補われる「希望」が、その象徴的に偶然の祝福に保障されて、監視し体現しているのであろう。

つまり、その肯定性は、初期近代のそれとは異なり、もはやその無効性では無いと言うのだ。つまり、チャールズは、国内のモスリムにもヒンズーにもましてや無宗教者にも変わり隔て無く、大司教から授かったその王権によって信教上の庇護を与える。

そうした名誉職(パトロン)的な立場の上院における宗教者は、だから聖公会としての派閥を代弁しているのではなく、バイオポリティックな議論において、黄泉の文化的相違を示す具象化した体をなしている。

そこで労働党のトニー・ブレアー首相が採った教育政策上の配慮や自らの退陣後のカソリックへの改宗が顧みられるとき、その機構化した伝統の後遺症が脈略ない転向の形としてレトーリックとして受け取られたのは、開かれた民主主義として至極当然だったのだと言う。

ドイツ連邦共和国へと目を移す前にもう一度、理想的とも思える政教分離をなしているフランスの例を挙げると、伝統と機構に抗する総てを明らかにする啓蒙思想のパイオニアとしてのそれに対して、エドモンド・バークを引用しながら、「フランス人の失われた騎士道精神は、嘗ての国の誇りであり、モラルの前提に有ったもので、封建的なエトースは市民社会に受け継がれ、それが国の力となった」と、反照されない啓蒙主義思想が国のイデオロギーとして採択される危険性をそこに見ている。

余談ながら、リベラルに他ならないオバマ次期大統領が、死刑の是非や自らの宗教心についてのコメントに一流の法律家としてのその緻密な配慮とレトリックが、なにも極端に前任者と比較する必要もなく、そこに見えると思うのは強ち間違いではなかろう。

また英国との対比ではオランダのあまりに信仰告白における誤った寛容が、共存を危うくして座礁し掛かっていことに誰も疑いを抱かない。(続く



参照:
政教分離に無頓着なドイツ人 (クラシックおっかけ日記)
サルが人間にならない日
イスラームと西洋 (かわうそ亭)
国家による失業、貧困からの解放 (作雨作晴)
新自由主義的「司法改革(法科大学院・裁判員制度等)」による司法 (『toxandoria の日記、アートと社会』)
LGBTクラブとお別れ・・・ (虹コンのサウダージ日記)
ついでに。 (たるブログ)
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大衆文化に混ざるもの

2008-12-18 | 文化一般
シャワーのカーテンを吊るプラスチックの止め具を購入した。カーテンを洗うときに壊したものが四つを越えていたので残りの八個で吊るしていた。少なくとも十年以上はそのような感じで使っていた。早速古いのと混ぜて使ってみるが流石にぴっしりと吊れて気持ちが良い。

会合で可笑しな話を聞いた。私の愛好するSWRのラジオ文化波を攻撃的だと非難しているのだ。どうも話を聞くと文化波であっても精神文化的な話題へと振って欲しくないようだ。「精神的なのがドイツ文化だから」と断わったが、やはり教養の問題に違いない。

正直、エンジニアリングや専門学校の教育を受けただけではドイツ文化の深層にまで辿り付けないばかりか、教養の欠損を生み出す。結局は、高等教育が大衆化した分、その質が低下して来ていて、大学校で学位を採ろうがなかなか教養には結びつかないという世界共通の問題に連邦共和国も陥っているに違いない ― 東独の博士号を持ったああした女性が首相である事も嘆かわしい。

プロテスタンティズムから啓蒙思想へと進んだ自らの文化を正面からまともに受け止められないような柔な精神構造になっているからこそ、教育が連邦共和国の最も重要な問題となっているのである。

日本のロボット信仰と同じぐらい、ドイツ社会におけるこうした大衆文化化に大きく失望する。やはり社会民主主義者が国民政党を担っていたような国は駄目である。
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