Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2019年6月

2019-06-30 | Weblog-Index


一点一画の微に至る凄み 2019-06-29 | マスメディア批評
今晩はどのようになるか 2019-06-28 | 音
水分補給を忘れずに 2019-06-27 | 生活
早起きのお得な朝 2019-06-26 | 生活
書き止める符に胸詰まる 2019-06-25 | 音
週明けの高温に備える 2019-06-24 | アウトドーア・環境
高位な座席からの風景 2019-06-23 | 暦
焼き魚の骨を箸で解す 2019-06-22 | 音
想定より急がされた決断 2019-06-21 | 雑感
高くて旨いのは当たり前 2019-06-20 | 生活
見かけとその裏 2019-06-19 | 音
さて来年はどうなるか 2019-06-18 | 暦
交響曲四番の真価 2019-06-17 | 音
黒い森近道の成果 2019-06-16 | 生活
三人指揮者の交響楽 2019-06-15 | 雑感
ヒューマニズムへと 2019-06-14 | 文化一般 TB0,COM6
LINUXでペアーリング 2019-06-13 | テクニック
グラデーションの綾 2019-06-12 | 音
光と影のミスティック劇 2019-06-11 | 文化一般
フランクフルトのオペラ 2019-06-10 | 文化一般
いざ「ロデリンダ」 2019-06-08 | 生活
フランクフルトのお題二つ 2019-06-07 | 文化一般
眠れなくなる射幸心 2019-06-06 | 試飲百景
満ち溢れる愛の聖霊 2019-06-05 | マスメディア批評
アスパラガスも終わり 2019-06-04 | 料理
心安らかに眠りに就く時 2019-06-03 | 雑感
分かるようになる話 2019-06-02 | 試飲百景
遠くになりにけり 2019-06-01 | マスメディア批評
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一点一画の微に至る凄み

2019-06-29 | マスメディア批評
ミュンヘンからの生放送を聴いた。とても素晴らしかった。冒頭からのテムピやその運びはこの天才指揮者しかできない見事さで、作曲家のシュトラウスはどこまで出来ていたのだろうと思わせる。言葉の端々が綺麗に浮かび、先月初日のあったヴィーンでの「影の無い女」で不満だった点がここでは聴かせる。楽譜のテムピ指定はドイツ語で書いてあるのでとても感覚的に分かり易い。時代の変化はあるだろうが、それをペトレンコは忠実にやっている。

すると懸案の細かな音形が誤魔化しなく正しく発音されることになって、そのもの言葉のアーティキュレーションにも結び付いていたり、またそこから外れていたりと、後に「アリアドネ」から「カプリツォ」等で主題になっている言葉と音楽の関係が明らかになってくる。

実際に昨今のシュトラウス解釈は初期の交響詩等と後年の楽劇の作品群を時系軸を横断して同時に観察していく解釈が取られている。興味深いのは、先月のティーレマン指揮の「影の無い女」がそこでは時代錯誤に陥って風呂場の鼻歌状態が更に強調されていたことと ー 「サロメ」に当てはめるとオペラ座でのスタンダードレパートリーとしての通俗化 ー、今回の「サロメ」が間違い無く初演後初めてその全容を表したこととの差異は大きい。

それにしても年明けから四種類の管弦楽団でキリル・ペトレンコの指揮を聴いてきているが、やはり何か変わってきた感じがする。今回も実際に見て確認したいが、少なくとも曲も短く短期間に纏めてきたと思うのだが、初日から出来が良くて、ストリーミングの日を待たずして完成させてきている。前回の「オテロ」においても初日とストリーミングの日の差は少なくなってきていて、初日からその録音は永久保存版になってきていたが、同じシュトラウスの「影の無い女」2013年11月の初日シリーズの質とも大分異なる。その後それは再演で聴いているが、無駄のとことんそぎ落とされたようなシュトラウス演奏へと明らかに進化していて、その指揮の進化無しには考えられない。比較できるのはやはりムラヴィンスキーのそれぐらいしか思い浮かばなく、今回も新聞評では膝をやらさないかと心配だとあるが、そのような外見以上に恐らく振りは鋭くなっているに違いない。

今回の演出ではマーラーの録音が流れたが、まさしく「千人の交響曲」で指揮芸術のある種頂点を示したことから考えると、シュトラウスのこの曲に於いてのシステム間の緊張関係を最大限に導き出したのは当然ともいえる。こちらの認識も、ケントナガノの「あまりにも神経質」とまで言われるそれを見たりして、高まってきていることは間違いないのだが、それが引き出す音楽の厳しさを見るともはや指揮芸術という事ではもう殆ど完成してしまっているのではないかと思う。それ以前にはその才能に隠されて気が付かなかっただけでしかない一点一画も揺るがせにしない芸術を新たに感じるようになった。要するに凄みが備わってきている。

歌手陣についてもまだ様々な評は出るだろうが、あまりにもクール過ぎるとされるサロメもまさしく狙った通りリリックで、その同時にドラマティックなペーターセンの歌唱も初日を聴いた「ルル」時よりも進化している。ヘロデのアプリンガーシュヴェアッケもミーメ役の時よりいい。シュスターのヘロデアスも余裕の歌声が新たな個性を役に添えている。ベルスレクの歌も余りに贅沢過ぎるほどの個性付けだ。そして心配されたヨハナーンのコッホだが、成功作「影の無い女」の染物屋以上の出来で、声もバイロイトでのヴォ―タン以上に出ていた。更なる十八番になりそうな出来だ。

しかし放送でこれほど満足してしまうと実演では演出以外に何を期待すればいいのだろうと思わないではない。今回は劇場の十八番であり、謂わば音楽監督として先へと繋ぐための一里塚とした公演だと思うので、我々は思い掛けない出来だと思っているが、昨年の時点でペトレンコが語っていたその通りになっている。

ハムブルクは夏休みに入るようで、その前に予約したティケットが届いた。オペラやその他を含めて最も高価な業務活動以外での入場券だと思う。マルクにすれば500近くになり、嘗てのザルツブルクでの直前に購入したオペラでも3500シリングはしていなかった。しかし今回のようなペトレンコ指揮の音楽を聴くとそれはそれでその価値のある芸術だとも言える。



参照:
ドライさとかカンタービレが 2018-11-25 | 音
宇宙の力の葛藤 2019-05-20 | 音
ペトレンコ教授のナクソス島 2015-10-22 | 音
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今晩はどのようになるか

2019-06-28 | 
ベーム指揮「サロメ」を通した。演出はそれほど観ていないが、音楽は良かった。LPでカラヤン指揮のものを持っていて、ベーム指揮のそれは知らなかった。1974年のウニテルの制作だ。なによりも若いテレサストラータスが歌っていて、映像を見ても顔がよく分からない。演技は流石に上手い。歌は声が意外にルル程には合っていない。指揮者との相性もあるかもしれない。
Richard Strauss: Salome (magyar felirattal)


音楽は、カラヤンの録音を何回聴いていても分からないところが沢山ある。それでもヴィーナーフィルハーモニカーがお家芸の誤魔化しで上手く奏するものだから、たとえベーム博士が振っているとしても音符が錯綜するところはそれで流れてしまう。冒頭のクラリネットの細やかなパッセージや風の音の部分ではなく音楽的に重要なところも出てくるので、ペトレンコ指揮では徹底的に音化されるだろう。ベーム指揮の楽劇を聴くと分かってくるのは、効果のためと主題動機からの重要なアンサムブルの両方があって、そうした重要なところでも振り切れていないところがあることだ。但し楽曲自体が最終的に収斂するところが決まっていて、どのような劇場でその長さからも比較的上演可能となっているのであろう。

兎に角、初日の生中継を聴いてみるしか、何とも言いようがない。録音の技術的なチェックを兼ねて昨年の「オテロ」初日の録音を流してみる。復活祭でメータ指揮で聴いた耳からすればいくら頑張っても劇場では管弦楽のやれる限度は明らかだ。そしてメータ指揮のヴェルディもミュンヘンでやった時とは桁違いによかった、そしてその「オテロ」はバーデンバーデンの上演の方が優れているところが幾つもある。それは昨年の「パルシファル」でも同じで管弦楽の表現としては到底ベルリナーフィルハーモニカーの演奏には及ばない。しかし歌手陣やそのアンサムブルではやはりミュンヘンでの上演は程度が高い。

何時もの様にキリル・ペトレンコが劇場でどんなに完璧な音化を目指しても限界があって詮無いことだと思う反面、歌手や合唱そして演出を含めた総合的な表現としての完成度に繋がる行為としてはやはりああしたオペラ上演実践となるのだろう。それは必ずしもキャスティングの問題ではなくて、各歌手にとことん厳しい反面最高のパフォーマンスを引き出す指揮者の能力によるようだ。奈落からの音が団子となって、適当に歌手が合わせる時点で表現の可能性が無くなる楽曲は少なくない。

今回の新制作のキャストは主役のサロメだけでなくて、ヘロデ王、ヘロデアスのシュスター、ナラボートのブレスリックなど、上の映像よりもいい配役になっている。先ず初日の中継は映像が無くとも可成りいい演奏になりそうだ。始めてミュンヘンの劇場で体験したのが、デュビリー指揮の「サロメ」でその演出も良く覚えていない。今後もメインレパートリーになる今回の制作の成功を期待したい。

お昼ごろにサイトを覗くと八枚以上残席が放出されていた。一時間ほどで殆ど売れた。平土間真ん中の11列の最上席は二人組であってもプレス席とか劇場の持っていた席だろう。流石に初日だけあって、ロージェやバルコンの最上席は出ていない。当日のお知らせで出かけようと思えばミュンヘン近郊在住者ぐらいでないと難しい。

朝、寝過ごしてしまった。バルコンで横になったら深く眠入ってしまい、零時過ぎに気が付いたからだ。そこからふらふらしながら、翌朝のクヴァークの準備をしてお茶をリットル冷やしておいた。二リットル以上飲んでも足りなかった。夜中にトイレに立ったかどうか、それほど排出の必要はなかった。森の中も涼しくは無かったが、風が吹いて、陽射しもそれほど暑くはなかった。徐々に盛夏を超えていく感じがした。今晩は夕食に火を使えるだろうか。



参照:
水分補給を忘れずに 2019-06-27 | 生活
早起きのお得な朝 2019-06-26 | 生活
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水分補給を忘れずに

2019-06-27 | 生活
予定通り午前中に外出を済ませた。燃料を足しておいたので、早朝の移動で出来る限り処理するようにする。スーパーに立ち寄って、果物を中心に蓄えの準備だ。勿論ビールを忘れてはいない。昨晩も就寝時刻になっても涼しくは無かった。21時過ぎて30度を下回った。窓を開け放って寝た。そして本日は、22時まで30度を超えている。更に涼しくならない予報だ。注目したいのは夏至に近いこともあっての夜分の高い気温で、八月の空気と熱帯夜とは大分異なる。しかし金曜日になれば再び20度を下回る予報だ。

普段は摂らない昼食をこってりと摂った。肉屋のスープでのラーメンで、小腹が空いて、暑くなかったので先に食してしまおうと思った。夜分の暑さの方が堪えるからで、就寝前には冷たいものしか摂らずに、翌朝に備える方がいいと思った。日本では北海道人しか食さないクヴァークを準備しておいて、朝食のパンは冷たいそれで食する。バルコンで朝食が可能だろう。朝の数時間が一番気持ちがよいからだ。

夜分に食するのはメロンだろうか?あとはガツンと冷やしたヴァイツェンになにかちょこちょことあればよい。兎に角、涼しいのがよい。オリーヴの実はあるが、ビールが主体である。火を使う気もしなくなる。

夕方は、翌日に備えて「サロメ」のお勉強である。放送を聞くまでの最後のチャンスを活かして、あれやこれやと楽曲について精査してみたい。一般的には、楽劇「エレクトラ」で最も時代の先端へと行く作品を残し、「サロメ」はそこへの道程の中にあるとされているが、一体この曲をどの視点から見るかという事になるのではないか?そこまで考えれば自身の目の付け所が定まって来る。とても興味が湧いてくる。



参照:
心安らかに眠りに就く時 2019-06-03 | 雑感
猛暑が予想される今日この頃 2015-07-01 | 暦
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早起きのお得な朝

2019-06-26 | 生活
朝一番でパン屋に向かった。暑さを避けて一っ走りして汗を流しておくためだ。前夜早めに床に就いたが、やはり目覚めは早過ぎた。それでもベットで暫し過ごしておく方が心臓にいいだろう。誰もいなかったが、森は既に摂氏20度を超えていた。前夜は洗濯物の都合もあって裸で窓を閉めて寝ていたが、それぐらいで良かった。直射日光に痛められることなく、やはり気持ちよく早めに走れた。それだけでも朝起きは得である。

暑さはまだこれからだが、来週の衣裳は大体考えた。シャツはチュリッヒに着ていったものが綺麗なのでそのまま使う。首元はまだ考えていないが、気温にもよるだろう。明け方に誰かが紹介した来シーズンのベルリナーフィルハーモニカーの予定にエルフィーやルツェルンやバーデンバーデンが出てくるとぞくぞくとする。ルツェルンでは客席が映っていたが自分らしきを確認できなかった。画質が落としてあった。記録に残るのでどうしても衣裳を考えてしまうのだ。ルツェルンと言えば、宿を二種類予約しておいたが気になっていて、二月前になったので決断した。断った方は湖の端の方で価格も高く距離も遠いので断るつもりだったが、近辺の安いところが本当にいいのかどうか自信が無かった。もう一度調べると50ユーロ少しだが、機能的な宿泊施設なので、調理こそできないが買い出ししておけばコンサート後の夜食と飲み物ぐらいはどうにかなると思った。冷やさないでもいいスイスの赤ワインでも買えばよいかもしれない。朝食も有料であるが、昼食をしっかり摂れば買い置きで良いかもしれない。三泊四日で何回の会に行くかだけが問題だ。

懸案になっていた遠隔操作のVNCの問題点を走りながら考えていた。テストに先ずはPC側のビューワーにレアルVNCをインストールして使ってみることにした。小さなプログラムなので邪魔にならない。実際に使ってみると、やはり上手く入れなかった。そこでWLANのアドレスがNASと葛藤していることに気が付いた。つまりラズベリーパイとNASがしばしば同じアドレスに割り当てられる傾向がある。そこで消去しながら一つづつ固定していった。NASに.109を割り当てた。NASを導入してから自動的に割り当てられていた番号をその儘にしておいたが、初めて変えることになる。こちらの方は有線なのだが番号は同じである。それゆえにあまりシステムに関係の無いタブレットの方では入れて、SAMBA接続になっているPCでは駄目だったのかもしれない。

これでバルコンの温度を室内から監視可能となった。怪我の功名かNASの伝送の感じが少し変わった気がする。安定感が出てきたようだ。これは助かる。週末に録音したクリーヴランドからの演奏会の生放送中継前半の音を流した。最初のコンセルトヘボーと同じ曲の初演はこちらの方が上手く行っていた。ブラームスの交響曲四番の冒頭を素材にしている。それよりも驚くほど良かったのは二曲目のラベック姉妹と演奏したブルッフの二台のピアノのための協奏曲である。初めて聞いたがこれは見つけものだった。

木曜日に新制作「サロメ」の初日が迫った。その前に名録音を聞いておかないともう聞く機会が無くなる。手元にはカラヤン指揮のLPがあるが音楽的な参考にはならないので、YouTubeでベーム指揮か何かを見つけておこう。既に総稽古後の情報がちらほら出ているが、演出はいつものヴァリコフスキーの映画の断章を使う方法で「愛の嵐」らしい。それ以上に1940年代のナチに脅えるユダヤ人家庭を舞台にしたという事である程度成功するのではなかろうか?マルリス・ペーターセンの声も思春期の娘の歌声には合っているだろうから心配は要らない。気になるのは首を切られる預言者ヨハナーンのコッホの歌だけだ。どこまで持ってこれるのだろうか。

SSDからNASへとシステムを改良してから最初の夏である。締め切った部屋の中では下手をすると扇風機の様にファンが回っていたが、流石に静かになった。合わせて六個ほどのCPUが稼働していてファンが回りっ放しであるが、精々静かな扇風機を静かに回している程度の音も出ていない。音楽を流しても喧しく感じない。なんとも嬉しいことである。



参照:
弁証法的な辛い生活 2016-12-10 | テクニック
書き止める符に胸詰まる 2019-06-25 | 音
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書き止める符に胸詰まる

2019-06-25 | 
バルコンの外気温をモニターしようと思った。そしてラズベリーパイを設置しようとしたら面倒なことになってしまった。先ずは新しいWLANにログインしていなかったので、そこから弄ろうとしたら、嵌ってしまった。いつものように躓いたのはVNC接続で、PCから制御したいからだ。タブレットでは使い難くい。

以前は問題が無かった筈だが、ラズベリーで使っているリアルVNCサーヴァーとPCで使っているウルトラVNCヴューワーの相性が悪いらしい。ネットでも報告されている。なぜこのような設置になっているのかは自分でも忘れてしまっているので記録を読み返さなければいけないが、弄ると初めから全てやり直しで面倒で仕方がない。なんとか誤魔化して使える方法を探っている。要するに端的に言えばネット内での相互リモートコントロールのネッツワークだ。

日曜日の音楽聴視計画を時刻表にしてこなした。チューリッヒからの中継はまだオンデマンド化されていないがそれをダウンロードすれば十分だ。保存すべきものかどうかも画像を流している限り分からなかった。午後のアムステルダムからの中継と夜分のクリーヴランドからの中継のプログラムが重なっていた。指揮者がビシュコフで、アメリカでは奥さんのラベック姉妹が出るというものだ。生中継の録音をしくじっていたので後半だけで良かったのだが、同じ我が祖国からの選集を両管弦楽団で比較することになった。コンセルトヘボーも現在調子が悪く、クリーヴランドもコンサートマスターがMeTooで居なくなって大変具合が悪くなった。

結論からするとコンセルトヘボーの寄り切りである。名指揮者が振ってもそれ以上には弦楽器も弾けてはいなかったが、昨年のクリスマスでも見せた慣れがあるようで、音楽的に良く馴染んでいた。クリーヴランドの方はやはりチグハグしていて、現在の状況は世界の頂点からは大分遠い。弦楽が締まらないと急に管のアンサムブルもしっくりこないようになっている。再来シーズンに欧州ツアーがあると聞くが今の二人のコンサートマイスターでは止めた方がいいぐらいである。失望するぐらいならば行きたくない。

その前に放送されたフィラデルフィアからのマーラーの九番は聞きごたえがあった。弦楽のしなやかさはどうだろう。そこに網の目の様に対位法の木管、金管が絡む綾は、到底昔のカラヤン指揮の録音などとは比較にならないほどの精妙さだ。現在この組み合わせに対抗するだけの細やかな表現が出来るのはペトレンコ指揮ダイシン率いるベルリナーフィルハーモニカーしか存在しない。因みにペトレンコがこの曲に取り組むのは再来年シーズンである。

そのマーラーサウンドを聞いていて思い出したのはやはりこの楽団をMeTooのレヴァインが振った録音である。それにしても流れてしまわないネゼセガンの指揮もセンシティブ且つ立派だ。流石に終楽章はもう少し凄みがあっても良かったと思うが、生中継前に舞台袖で話している通りの最後の音符をそっと置いて書き止める感はとても出ていたと思う。それが音楽性なのだが、情感豊かな表現の活きる指揮者であるが、あの嘆きの動機の歌わせ方は最初から胸が詰まる。まさにこれが音楽でありその芸術性なのだ。ハイティンクが最後にもう一度と指揮棒を握って、コンセルトヘボー管弦楽団が幾らまじめに演奏してもその露ほども音に出来ないのが音楽なのである。二楽章の最後のファゴットのなんと素晴らしいフーモア!今こうやってあのバーンスタイン指揮演奏を一つづつ乗り越えていけることの素晴らしさ。

もう一つ明け方にロスアンジェルスからの放送を録音しておいた。予想以上にサロネン指揮が好演していたが、やはり「春の祭典」になると厳しい。到底メータの指揮には及ばない。それでも楽団も欧州の二流所とは異なり明白に発音するので、最近のお衰えを上手く隠している。嘗ての欧州ツアーでの成功を少しだけでも彷彿させた。やはりこの指揮者は西海岸で活躍すべき人だと思った。楽団はある程度やれることは分かっているので、再放送シリーズの七月末のメータ指揮から九月のバレンボイム指揮辺りまでの今シーズンの演奏会再放送が待ち遠しくなった。

今週は流石に暑いのでワインも進まないだろう。先日空けたような泡ものでも駄目だろう。先ずは涼しい内に陽が陰ってからリースリングでも飲んでおこう。食事も煮豚とジャガイモで食い貯めだ。



参照:
蒼空のグラデーション 2018-09-08 | 音
沸々と、ああ諸行無常 2019-05-25 | 音
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週明けの高温に備える

2019-06-24 | アウトドーア・環境
週明けから水曜日に掛けて高気温が予報されている。水曜日に摂氏40度が出されている地域が広がっている。最低気温も20度を超えるので夜中に窓を閉められなくなる。先ずは週明けに外出仕事を済ませて、水曜日にはじっと自宅待機、木曜日にはミュンヘンからの初日中継と準備したい。

兎に角、本日から朝早いうちに冷たい飲み物を用意してという日々が始まる。ここの所ふらふらしたり、心臓辺りが重かったのは慢性の水分不足でなかったかと思う。やはりビールを少々飲むだけではいけないのだ。そして冬ほどにお茶を煎れてという気にはならない。冷やすのがとても面倒であるが健康の為に、一リットル、二リットルと毎朝準備をしよう。

夜中に目が覚めたので朝の出が遅くなって、陽が燦燦と輝いていたが、森の中は、予想外に影が多く、涼しかった。それでもこちらの身体もついて行かないので、ひたすら完走だけを目指して峠を往復してきた。流石に汗ぐっしょりになった。週明けは早朝の涼しいうちに走ってその足でパン屋に行くしか方法は無い。とは言ってもそれほど早め早起きが出来るのではないので、パン屋が開いてから走るようになるのだろう。

帰って来てからニューヨークフィルハーモニーの放送を聞くと、バーンスタイン指揮コープランド作曲「コノテーションズ」初演の録音にサ―ノイズが大分聞こえた。1962年の録音なのでCBSのLPの録音とはまた異なるのだろうか。少なくともその後DGでのデジタル録音とは全く違う。それに続いてメーター指揮のコリアーノ作曲クラリネット協奏曲、ブーレーズ指揮のカーター作曲「三つの管弦楽団のための交響曲」などとても面白いプログラムが流れた。最後のはCBS録音もあり、その前のはニューワールドレコーズの音源もあるが、これら全て態々CD化されたものを探してというものではないアナログ録音なので、とても助かる。なによりも初演時と言うのが貴重である。そう言えばボストン交響楽団の放送でも小澤征爾指揮のニューワールドレコーズ録音に言及されていて、結構そこに重要な録音があるのではないかと気が付いた。

先週バーンスタイン指揮の第八交響曲一部のライヴが流れていたので目を離せなくなったが、こうしたアーカイヴもとても興味深い。土曜日には発注していたメータ指揮「春の祭典」のCDを流したが、とんでもない音が入っていた。演奏もこれが彼のニューヨークフィルのサウンドかと思うものを自由自在に操るメータ指揮で、イスラエルフィルでの指揮しか印象に残っていなくて、この復活祭で漸くその指揮を改めて見直す者からすると、やはり強烈な印象があった。如何にバーンスタイン指揮のニューヨークフィルと言うのが特殊なサウンドで鳴っていたかを確認した。メータの指揮は、これでもかというぐらいに吹いて重ねてくる楽器陣を発散且つ制御する。十八番だけにそのテムポ運びの配合は見事で、やはりこの指揮者はこれと言った曲をまた管弦楽団をとことん自家薬籠中のものとしてしまう芸がある人だと思った。面白おかしくとか批評されるのもそれがあまりに決まってしまうからである。

それにしても来年四半世紀ぶりにニューヨークフィルを聞くチャンスに恵まれそうで、興味津々である。こちらの興味はビッグファイヴとベルリナーフィルハーモニカーの比較という事なのだが、一昨年あたりから、シカゴ、クリーヴランド、フィラデルフィアと生で聞いてきて、更に来年シカゴ、ニューヨークと聞けば、放送を補うだけで完璧に批評可能となる。

実際にはベルリンのフィルハーモニカーは、ボストンとシカゴの交響楽団創立年度中間ぐらいでシカゴとはここ半世紀でも頂点を争ってきた。そして、最も老舗のニューヨークのそれに耳を向けるとやはり興味深い。少なくともメータ時代のニューヨークはマッチョなイメージが強く実際には弦の男女比などは分からないが、それほど羨ましいとは思わないのだが、ある意味ベルリンの高弦の鋼のような音色をどこに落ち着けるかという事ではやはりとても参考になるのではなかろうか?これでもかこれでもかと前へ出てくるところは若干共通性もある。一種の押しつけがましさだが、それをベルリンではダイシンの力で細やかな繊細な表現へと変えたが、管楽器などの問題を含めてまだまだ解決すべきことがまだある。やはり、バーンスタインにしてもブーレーズ、メータとも名白楽だったというのがここで証明されている。

昨晩は窓を閉めて就寝可能だったが、今晩からは開けっ放しで、昼間は締め切らないといけないだろう。精々涼しい風を今のうちに浴びておこう。



参照:
さて来年はどうなるか 2019-06-18 | 暦
身構えてしまう猛暑の前に 2015-08-06 | 生活
指揮芸術とはこれいかに 2019-01-08 | 音
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高位な座席からの風景

2019-06-23 | 
聖体の祝日の木曜日、ハムブルクのエルブフィルハーモニーの来シーズンのティケット発売だった。北ドイツは平日で、カトリック圏を中心に南ドイツは祝日だったので、八時間近くそれで時間を費やした人も少なくないと思う。

成果は、紆余曲折があったが、十分だった。前日からあれやこれやと調べていたのだが、予想通り結局思うようにはならず、電話で以って早めに解決とはならなかった。兎に角一斉発売なので、対象数が多過ぎて、そもそも電話で対応する気があったのかどうかも分からなかった。其々の電話で直ぐに録音に回された。

既に書いたようにケルンの方へと向きを変えかけたが、辛抱して18時のオンライン解除まで我慢し続けた。ケルンでも一つだけは所望の席が余っていたからで、それが売れないかと心配だった。しかしその甲斐があって思いがけず売れ残っていて、それも第一希望のブロックから決して悪く無い席が一つだけ残っていた。欲を言えばもう一つ前の列ならばそれ以上望ことは無かった。それでも3Dの座席からの光景を見ると、先ずはこのホールの批評をするのにも使えそうな席で、逆にその席で不満があればもはやこの会場は駄目である。

ベルリナーフィルハーモニカーのエルフィーでの公演は数晩目になると思うが、指揮者がサイモン・ラトルでもなかったので即完売とはならなかったのだろう。その証拠に翌日、翌々日のロンドン交響楽団は二晩とも完売までに時間が掛からなかった。言い換えると、如何にキリル・ペトレンコが前任者とは異なって知名度も人気も無いかという事になる。既に、ミュンヘンの座付と一回、ユース管弦楽団と一回登場していて、直ぐに完売にならないという事は、精々前者の聴衆の半分と後者の四分の一ぐらいしか再訪しないという事ではなかろうか。それ以上に人気がなさそうなのはフランクフルトのアルテオパー公演で散々な売れ行きだ。理由はその超格安の料金で分かるようにアルテオパーが主催しているので定期会員が入っていないので本当の一般発売になって、バルコンの第一列が空いていることからドイツェバンクも招待客をベルリンに集めただろうことなどが想像される。

更に、客の入りが悪いのは明らかにプログラムゆえにだろう。音楽ファンからすればとてもバランスが取れたストラヴィンスキーからピアノを使いながらのツィムマーマン、そしてラフマニノフへの魅力的なプログラムであるが、エルフィーの聴衆の多くにとっては「無名の指揮者による訳の分からないプログラム」となるのだろう。やはりあそこの聴衆の質が平均すると低い、ケルンとは一ランク下だと思われる。

そうなると、プログラム一曲目のストラヴィンスキーをブラームスに替えさせたフランクフルトはどうなっているのだとなる ― 今確認するとプログラム変更でブラームスが無くなっている、初めからそうならハムブルクに行っていなかったが、まあ地元だから仕方がない。最終的には埋まると思うが前代未聞だ。146ユーロから37ユーロまでの価格帯はとても良心的で、これがヴィーナーだとしても価値がある。そして音響はシューボックスという事ではエルフィーよりも優れていて、間接音の割合の好みに応じて座席を距離によって選べる。若干長めに後を引く傾向はあるのだが混濁は無く美しい。嘗ての大阪のフェスティヴァルホールよりも、ザルツブルクよりも綺麗である。エルフィーの裏側に190ユーロとか154ユーロ出すぐらいなら、アルテオパーの最高席146ユーロの方が音響的には完全に上である。身体が複数あったらバルコンの最前列を買いたいぐらいだ。勿論私は37ユーロでとっておきの場所を四月に購入していた。

早速宿を予約しておいた。年始は二泊して翌日劇場にも出かけたが、前夜も劇場も興味なく、安い席を翌日にも取り損なったので、今回一泊のみで、一直線で出来る限りハノーヴァーに近い宿を中継地とした。77㎞、一時間の距離だけでもハムブルクから離れることで、帰宅に若しくはチェックインに早く着ければ楽だと思った。ホテルまで自宅から520㎞、5時間の道程となる。予約した宿は60ユーロしないので、車中のランチボックスなどを充分に整えれば、あとは駐車場の高額料金だけで済む。このままならば同じプログラムを聞くためにケルンに寄ることも無いと思う。



参照:
想定より急がされた決断 2019-06-21 | 雑感
エルブフィルハーモニ訪問 2019-01-11 | 文化一般
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焼き魚の骨を箸で解す

2019-06-22 | 
承前)アイヴスの交響曲体験は素晴らしかった。意識を変えさせるに十分な要素はその管弦楽の鳴りに関するもので、ここでまたあまりにも鋭い不協和を聞けたのはとても良かった。協和音に関する含蓄は嫌と言うほど聞かさせるが、不協和に関するものはまた異なる。四分音やその繋がりを幾ら幾つもの平均律を並べて試奏やまたはハースの作品に芸術化してもやはりこうした不協和の体験にまでは至らない。あまりにもラフな形を以ってこうして響かされると全く異なる意味を持つ。要するに無調とかの語法とは異なる響きとなる。

ケントナガノの指揮が偶々そのように魅力的な響きを引き出したとかではないが、とても現在の管弦楽のもう一つの響きを示唆していてとても興味深かった。如何にこうした鋭い響きを芸術的に鳴らせるかという事でもある。

所謂ロシアのモダニズムやまた騒音音楽、若しくはショスタコーヴィッチなどにも繋がる無調では、不協和音とでもいえる系譜にもう一つはヴァーレーズを代表とするような扱い方がある。実際には機械文明の音化などからブルックナーの交響曲なども一つの源泉とするのかもしれないが ― こちらの方はギーレンの指揮によらないまでも12音技法へと連なる。丁度上のハースにおける四分音の創作へと流れる。

そもそもアイヴスの交響曲の調性が逆にこの曲を粥の様にしているのであるが、それはケントナガノまでに今まで誰もここまで振っていなかったからではないかとも思う。なるほどマイクを通した響きではその実態が捉えきれないところもあるのだが、副指揮者陣と共に見事な音響としていた。

ケントナガノの指揮に改めて感心したのは、ピンチャーの点描風の音楽においてもテムポの運び様が見事で、勿論キリル・ペトレンコのその天才的な腕前とは全く異なるものなのだが、ここまで職人芸的にまるで焼き魚の骨を箸で解していくような妙技は中々の見世物だった。

その指揮は、一月にハムブルクの劇場でも見たのだが、やはり今回の方が見せ場が多かった。その前に見たのはベルリンのフィルハーモニーでシュトックハウゼンを振った時だった。印象からするとその時よりも大分無駄が無くなってきているのではないかと感じたが、思い過ごしだろうか?

現任との年齢は大分異なるが、当時のザルツブルクでの議論からすれば、バイエルンの放送局の次の指揮者はこの人しかいないのではないかと感じるようになった。そもそも放送交響楽団であるからメインレパートリーもピンチャーのような曲であり、アイヴスなどをしっかり振って、その他のヴァークナーやベートーヴェンなど幾らでもゲストで振る指揮者がいる。そんなものは振らないでいい。

当日のガイダンスでは、ピンチャーのコントラクラリネット曲に続いて、アイヴスとレオン・テレミンの繋がりをお孫さんが実演を兼ねて話していた。招聘などを執り成しをしていたのは指揮者のストコフスキーだと理解した。左手を上下させて音量、右手で音程やその表情を反映するというシムプルな楽器だが、名人に掛かれば表現力は現在のシンセサイザーなどよりも遥かに高いところもある。まさにこのアメリカの作曲家の立ち位置が分かるような話しとなった。

7月11日に前日初日の演奏会の実況録音が放送されるので、それを待ちたいと思う。また異なることにも気が付くかもしれない。(終わり)



参照:
エポックメーキングなこと 2017-12-02 | 文化一般
三人指揮者の交響楽 2019-06-15 | 雑感
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想定より急がされた決断

2019-06-21 | 雑感
来年出かけるケルンのフィルハーモニーについて調べた。重要な音響についてである。最も問題になっているのは遮音性であると書いてあった。街の中にあり、交通規制が必要になると書いてある。実際にはスケードボードとかスチュワーデスバックの転がる音がホール内に響くと俄かに信じられない事が書いてある。地盤の作りの問題と思っても、車とか地下鉄なら分かるが、一体何だ?釣り天上で上が落ち着かないというのなら分かるのだがどうも違うようだ。少なくとも通行制限で処理されていると書いてある。

放送ではお馴染で最も印象に残っている中継は小澤征爾指揮のヴィーナーフィルハーモニカ―だった。「プルチネッラ」は録画していると思うがとても印象深かった。

会場の大きさも2000人と比較的小振りで、ワインヤードでなくコロシアム型になっている。しかし、舞台の背後は扇の要になっていて、160席ぐらいしかない。車いす席などを取ればシューボックスにおける合唱席とそれほど変わらない。更に舞台の後ろが結構高い反射板の壁になっている。興味深いのは半円形舞台で楽器配置もそれに準ずるようになる。

今回考慮したのはワインヤード型のエルプフィルハーモニーとの音響的な相違である。演奏曲によっても優劣は変わるかもしれない。放送での印象からするとよく鳴るホールでありながら濁り感は全くないのがケルンで、寧ろ綺麗に響き過ぎる感じがある。近いところでは天上の反射板からの跳ね返りがありそうで、視覚的にも上から来る。舞台上のひな壇からのカメラで見ると、最高額席の最後列ぐらいの高さが丁度だが、そこでは左右から棚の壁が張り出してくる。吊り下げマイクで録られた拍手の音は可成りしっかりしていて、ファンダメンタルがあるのも特徴だ。個人的には大管弦楽は一望したいので、ある程度距離を置きたい。もう一つは距離感の問題で、コロシアムの後方になると棚を含めて急激に上昇している。要するに視界はとても効くようになるが、今度は天井との距離が問題になってくる。エルブフルハーモニーでは最上階席の庇を除くと問題にならない条件がここでは出てくる。それでも舞台との距離感や視界がよいとそれ程残響が間延びした感じはしない筈だ。典型的な例はアルテオパーの舞台から遠い席の距離感と残響感がとてもマッチしていて視界程に遠く感じさせない。

エルプフィルハーモニーの特上席を狙った。しかし価格225ユーロを確認したら出足が鈍った。ルツェルンの最高金額320フランには至らないが、ここからの足代は更にかさむ。そもそもそのプログラムのスターターの一曲「三章の交響曲」だけがお目当てなので、宿泊代を計算してと思っていたら、出遅れた。そして結論は、やはり最高額の数少ない良い場所を狙うか、一番安いところを狙うしかないとなった。しかし予想通り電話は繋がらない。完全に最上額席が入らないことがはっきりすれば方針転換する心算で電話をかけ続ける。

10時発売開始の30分以内で繋がらなければ最低額席は難しい。一時間以内でいい席があるかどうかだろうか。ネット販売開始は八時間後で、別枠でおいてある可能性は無いので、直ぐに入れても殆ど残っていないと想像する。そもそも中途半端価格帯は希望していなかったので、確認するだけの作業になりそうだ。

さて、これで決心がついたか?なんと一日仕事になってしまった。しかし思いがけなく違う方向へと打開策が表れてそれも直ぐに決断すべきと分かったので大変だった。要するに秋に購入すればよかったケルンでの券がもう既に大分出ていることが分かってしまった。これ以上待っていても入手の可能性すら危うくなる。すると高価でもハムブルクに出かけなければいけない。しかしその券が入手が難しいとなるともはや選択の余地が無くなった。三回券の定期で手を打たなければならない。単独券ならば更に高価な席を狙ったが、三回券で二回ぐらいしか行けないとなると、一枚は売ってもどうしても無駄が出る。

そしてエルブフィルハーモニーの入場券ネット解禁の18時、なんと残っていた!やはり価格がネックになっていて、背後の席を中心に残っていた。これならば年始のユース管弦楽団よりも残っている。説明はつかないが、この価格になると冷やかしが消えるという事だろう。それどころか殆ど私の理想としていた席があった。それをクリックも椅子取りゲームになる筈がならなかった。不思議でたまらない。

そして支払おうと思うとログインできない。焦る、そのまま名前等を入れると支払いまで行った。カードで払うと、携帯電話が必要になった。ガレージに走った。口がカラカラになった。15分の持ち時間に焦った。支払額229ユーロでケルンにもし三回券で支払っていたよりも10ユーロだけ上乗せされた。先ずはこれでいいのだ。文字通りプラチナティケットである。



参照:
エルブフィルハーモニ訪問 2019-01-11 | 文化一般
高くて旨いのは当たり前 2019-06-20 | 生活
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高くて旨いのは当たり前

2019-06-20 | 生活
ハムブルク市の文化大臣がエルブフィルハーモニーについてインタヴューを受けている。ハムブルクにドイツが誇る観光名所として、ノイシュヴァンシュタイン城、ケルンの大聖堂、ブランデンブルク門と並ぶ港に立つフィルハーモニーになったという。文化担当なので通常の政治家とは異なり全くはったりの無い控えめな言い方なのだが、その年間の入場者数もホール入場者数の五倍になる見物客を入れた訪問客数がエンパイヤステートビルと同規模の観光対象となっているとする。しかし最初なので今後は分からないとしてる。

予想以上の賑わいの中での肝心のホール入場者の質も問題になっている点に関して、休憩後に席が空くのはどこでもあって、シューボックスの暗闇では目立たないだけだという。博士論文ではっきりさせて欲しいというが、ハムブルクの規模にしては選ばれた聴衆でない人が沢山入っているのは間違いないであろう。そしてそうした聴衆の中の二割も再び戻って来れば御の字だがそんなことはあり得まい。要するにその手のポピュラーコンサートなんてそれほど意味が無いのと同じである。

音響の議論に関しては、なんとしても陥れようとする声もあるとして釘を刺している。またカウフマン事件の日にもバーゼルからのお客さんと会場に居て、しっかり歌声も聞こえていたという。しかし、管弦楽団には歌手の配置について会場から特に注意を出すようにしたという事だ。また個人的には金管の上には座りたくなくて、やはり全体像を聞こえる場所がいいとしている。だから特にいい席が買えなくても階上でも音響のミキシングが素晴らしいと勧める。

勿論シューボックス型とワインヤード型のタイプの相違や特徴などが議論されることは歓迎だとしている。それほどエルブのホールがタイプの典型化されるという事であるからだ。

上海、東京へのゲヴァントハウス公演への同行記事が新聞に載っている。興味を持ったのはシナにおける変化に関する言及で、今は表示に注意書きとして飲食禁止、歩き回り禁止、お喋り禁止などがあって、それらが無くなるどころか、とても特記されることになっている。

ショスタコーヴィッチでは最初の低弦で黙らせろと指示した通り、ヴァイオリンが始まるまでに集中した会場となり、チャイコフスキー五番でネルソンズがリハーサルで特に指示した暗いニ長調に静まり返ったという。初めての経験をネルソンズが語っている。そうした上海とは違って売れ残りが出ていたような東京に関しては、その聴衆は十五年以上平均年齢が上で今迄85回も公演している都市はライプチッヒ以外にはないとしている。そして既に伝えられているようにブルックナーの音楽で開放される「日本人の畏敬の念」に関して、そもそもアーノンクールがヴィーンで指揮した時には「オーバーオーストライヒのメランコリーで」と特に指示しなければいけなかったものが、どうして日本でとなっている。

今日は暑くなることが予想されていて、木曜日は祝日なので、早めに外出を済ませておいた。昨晩のケルンのフィルハーモニーからのライヴ中継にリンクを張ると、指揮者控室か練習前かのロート氏が数分以内にリツイートしてきた。あれだけYouTube放送していて視聴者数が限られているに違いない。仕方ないので録画もしてしっかり観た。新曲世界初演も数をこなしているうちに手慣れた指揮者は再演の可能性のあるものも出てこようと言う按配で、それはSWRでも経験豊富な筈だ。指揮には色々と気が付くことも無い事は無いが、それ以上に「出来る係長」と呼ばれるスーツ姿にその赤いタイを押さえる癖までに気が付いて、不必要な些細な事までが気になる。しかし、座付楽団である前提において、なるほどミュンヘンの方が出来ていることもあって、結局個人の実力の差もよく分かったが、ただ感心したのは演奏している楽団の姿勢である。先日チューリッヒでトーンハレを見てきたのでその差は大きいと思った。自身の管弦楽団をここまでやらせるのはやはり得難い実力だと思う。

このギュルツェニッヒ管弦楽団の来年度の券も近く発売される。旅行するなら押さえておかないといけない。価格は最高額43ユーロまでで、もし流すとしてもそれほど問題にはならない。カメラの位置などを研究していると、それでもお得そうなフィルハーモニーでの位置も見えてくる。すると更に安くなる。なにも高い席だけが満足度が高くないといういい例にも思える - 大阪のものの言い草の「高くて美味いのは当たり前」には何時もの様にそこに反語の意味が込められている。兎に角、なんの心配無しに一枚買えそうだ。



参照:
, Hamburgs Kultursenetor Carsten Brosda, FAZ vom 14.6.2019
"Offenbarung am Fuji", Jan Brachmann, FAZ vom 14.7.2019
黒い森近道の成果 2019-06-16 | 生活
エルブフィルハーモニ訪問 2019-01-11 | 文化一般
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見かけとその裏

2019-06-19 | 
承前)ヘンデル作曲「ロデリンダ」はこの作曲家のオペラ最高傑作の一つであると思われる。しかし上演される機会は少ないという。理由は、その内容からして華麗なバロックオペラからもオペラセリアの枠からも逸脱した複雑さがあるからだろう。台本の内容的には、もはやモーツァルトを思い浮かべてしまう。そのような演出をしたのがクラウス・グートだった。その意味からこれほど後を引くヘンデルのオペラもあまりないと思う。反面、それがどこまで音楽化されていたかと言うと疑問だと書いた。

この共同制作は、マドリッド、バロセロナ、リヨンの三件との制作であって、演奏者が各々異なるので、何とも言えない。印象からするとマドリッドの演奏ぐらいが上手く行っていたのではないかと思う。どちらかと言えば古典派に近い方の上演の方が成功すると思うからだ。折角フランクフルトの座付楽団が汗を掻いてもプロジェクトが間違っていたなら上手く行かない。

新聞評にあったように、やり過ぎ複雑過ぎの批判はそもそもこの手のバロック物の登場人物の描き方にもあって、名前の紛らわしい登場人物を如何に音楽的に特徴づけるかではないのか?この演出企画の中心に据えた歌わない子供の視線は、演出家自身の言葉を借りれば「いかにも表向きの」大人の姿を浮き彫りにして、やはり歌に於ける情動的なそれがとても重要になる。フランクフルトでの指揮者マルコンの音楽がまさしくその外面をするっと示すことでの効果を誘うもので二重三重にお面の上のお面になってしまった。それは一番の問題だった。

舞台設定を作曲時に合わせて屋敷を丁度ヘンデルと同時にニーダーザクセンからやって来た英国王室の様式に合わせるのは、演出の手法に違いない。そしてヘンデルにとっての現代劇性を表現したことになる。

なるほど劇というのは、その演者とその舞台と見かけの意味とその裏を読み解く作業の連続でしかない。昨年の「メリーウィドー」の演出においてもそこを強調したのがグートの演出だった。そして主役のマルリス・ペーターセンの歌も演技もそこに重点が置かれていて、歌に於いて心情が吐露されるというのが普通である。しかしバロックに於いては叙唱を含めてそれほど容易には分類されない。否、指揮者がそこをしっかりと歌手と合わせていないと不確かさが発生する。指揮者に不備があったとすればそこに尽きるのではないか?やはりオペラ経験の豊かな指揮者が必要になるところである。

来年の「フィデリオ」への一つの参考となり、そしてフランクフルトの劇場を一杯にした大成功やその喝采を見ていると、これまた公的音楽劇場のその意味を考えない訳にはいかなかった。州立ではなくて市立である劇場であるが、伝統のあるマンハイムとはやはりその芸術水準が全く異なる。なにもマンハイムの住人がフランクフルトよりも知的程度が低い訳ではないが、100㎞も離れていない街の文化程度がこれだけ違うのである。(終わり)



参照:
そのものと見かけの緊張 2018-06-19 | 女
フランクフルトのオペラ 2019-06-10 | 文化一般

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さて来年はどうなるか

2019-06-18 | 
ワイン祭りが終わった。次は来年である。統括すれば、三泊のみ外泊だけだったが、自宅に居てもノイズキャンセリングを使うほどのことは無かった。確かに日中は気温が上昇したが夜は窓を閉めれた。実際には最終日は開いていた。フィラデルフィアからの放送を大音量で流していたので外の音楽も気にならなかった。土曜日はベルリンからの中継を観ながら食事の用意をしていたので苦にならなかった。それ以上に金曜日に出かけて、日曜日早朝に走ったのでアルコールと疲れで直ぐに眠れた。

それでも日曜日早朝の放送でシカゴ交響楽団の放送を録音して、走っている間にニューヨークフィルも録音しておいた。何度も放送されているようなレリ・グリストを中心としたバーンスタイン指揮のアーカイヴなのだが、「千人の交響曲」第一部は拍手が入っていてライヴ録音だった。それを流してみると、いつものバーンスタイン節なのだが、動機毎の表情が明白に描けていない。改めてブレゲンツでの録音を聞くと超一流の管弦楽団に決して負けない表現を二流交響楽団が聞かせている。まさしく指揮者の差でしかないのだが、キリル・ペトレンコがマーラールネッサンスのレナード・バーンスタインなどに比較しても「世紀の指揮者」であるという事があまりにも明白になる証拠でしかない。本当に素晴らしい世紀の演奏であった。素晴らしく底鳴りしてくるような録音を聞く度に新たな感動が湧き起るが、来年は更にどんなに素晴らしい演奏が繰り広げられるのだろうか。

その他フィラデルフィアからの生中継も録音した。外が喧しくて生ではゆっくり聞けなかったが繰り返し聴きたい。一曲は先日のカーネギーホール公演でのラフマニノフ一番で、何よりも入力を最大で録音したので歪無しのもの凄い録音になった。やはり何回か演奏していて可成りの程度になっている。前半のモーツァルトのコンツェタントも昨年引退したオーボエのリチャード・ウッダムスが演奏していた。正直昨年の最後の海外ツアー同行の節はそれほど聞こえなかった。引退間近で旅行中だから仕方がないだろうか。そして今回モラーレス、マツカワ、モンターンを率いて何回も演奏していてと、なるほどと思う演奏だった。お互いに手の内をよく知っているので逆に聞いて出方を待つ感じがありありで、逆に細かな傷を作ってもいたようだが、やはり音程も美しく、オルガンのようにハモル唯一の木管群だと思う。同じようにソリスツに合わせるためにいつもの耐え切れずのスイングのような指揮になっていたのがネゼセガンである。この指揮者の最大の弱点である。しかし世界の頂点でも中々上手く行かない指揮とは大変なものだと思う。

今晩は21時からベルリンでのユロウスキー指揮のアンサムブルユナイテッドベルリンの録音が流される。リゲティ―のピアノ協奏曲などもあり楽しみである。

さてそろそろ楽劇「サロメ」の準備かと思うと、送料無料サーヴィスでCDを二枚ほど見つけた。一枚は、先ほどズビン・メータが「春の祭典」を振ったとあったが、ニューヨークでの二回目の録音を見つけた。今更とも思うが知らない録音であり、ミリオンセラーのロスでの録音は1969年で、ニューヨークで一回目が1978年、そしてこの二回目が1990年になっている。全く関心が無かった時期なので記憶も全くない、評判もあまり良くないが、デジタルで録り直したのだろう。ブーレーズに続いて首席指揮者になっているので悪くは無いと思うがどうだろう。来年久しぶりにこの管弦楽団を聞く予定なので様子を見てみたい。更にカップリングに来年聞く予定の「三楽章の交響曲」が入っている。

こうやってメータ指揮の録音を見てくると、なんでも振っていたようでありながら特別な楽曲への集中した取り組みがあって、まさしくマイフェーブリーツスを繰り返し取り上げている。「オテロ」の指揮でも感じたが、自家薬篭中のものと言った感じで、その音楽運びが本当に上手い。あれをして嘗ては面白おかしくなどとか非難されたのだが、彼の十八番に文句をつける人は最早居ないのではなかろうか。その意味からも聞いてみたくなった録音である。あの指揮振りと共に至芸だと思わせる芸術だ。幾ら齢を重ねても殆どの指揮者はあそこまでに至らない。

その6ユーロ。また前々から気になっていたウィリアム・クリスティーの自主レーベルからの詰め合わせアルバム「ラモーさんの庭」が八割引き4ユーロなので発注しておいた。場所を取ると言っても10ユーロならば配給業者応援のために役立てれば嬉しい。

週末に帰宅してPCを上げると、画像が乱れた。幸い再起動すると元に戻ったが、そろそろモニターカードが逝かれてきたのかもしれない。完全に壊れるまでに次に乗り換えたい。現在のものを音楽LINUXのPCとして改造可能のうちにという事になる。新たなPCもそれほど強いものは要らない。WIN10が搭載されていても御座なりで使うだけで、どちらでもよい。最早オペレションシステムなどには関心が無くなった。最終的にLINUXとして転用するだけだからである。



参照:
宇宙の力の葛藤 2019-05-20 | 音
METを超えたオペラ 2019-04-17 | 音
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交響曲四番の真価

2019-06-17 | 
チューリッヒに出かけてよかった。その価値のその一はなによりもアイヴスのその曲を体験したことである。昔からブルックナーやマーラーなどの巨大編成曲は到底オーディオでは体験できないとされていたが、その双方ともある程度経験を積めばHiFiでも想像はつくようになる。それでもこのアイヴス交響曲4番はやはり経験しないとその価値が読めなかった。理由はハッキリしていて、何よりも楽器の定位感が無いと曲の構造も分からなくなるという事でしかない。遠近感表現でもブロムシュテット指揮ヴィーナーフィルハーモニカー演奏のベアヴァルトの交響曲の実演ではフィラデルフィアからの放送程にも効果が出ていなかったが - そもそも座付楽団にそれを表現できるだけの腕が無い -、流石にケントナガノの棒でのスイス最高の交響楽団は少し違った。

第一楽章の室内楽バンドを合唱席の讃美歌コーラスの下手に置いて弾かしていた。この時に第二指揮者のイツェン・リは舞台で挨拶してから急いで上に駆け上って指揮をするとガイダンスで話していた通り、その時には上に居た。急いで入るものだから、心拍数が上がらないかと気になったが、ドアの締まる音が笑いを誘い、その指揮振りも良く見えて、とてもその後の展開の参考になった。つまり第一指揮者のテムポに合わせて自分のリズムを刻むというそのやり方である。ガイダンスでのインタヴューでそのドイツ語もこなれていて驚いたが、同楽団で第一ヴァイオリンを後ろの方で弾いているとは思えないほどの能力は明らかだ。

そのあと再び舞台に下りてきて、ケントナガノの左横で第二指揮者を務める。こちらは最前列の齧り付きからはあまり良く見えなかった ― そもそも前三列が継ぎ足して延長した舞台のために潰されてしまっていた。席が空いていたので真ん中に移動しても良かったが、出来れば同時に見たいとかの色気もあって、横から見ていた。大きく振る所だけは見えたのだが、女流としてはとても叩きがよくて感心した。ヴィーンで習っている筈だが誰の弟子とも書いていない。既にSWRでもデビューしていて、パルマでオペラも振っている。嘗てバーンスタインのところで同曲を振っていたようなティルソントーマスなんかよりも出来そうである。

楽団の方は、一曲目のピンチャーの1997年にザルツブルクで委嘱初演した「五つの管弦楽曲」スイス初演だったが、そこでも気が付いたが弦楽の後ろまでが超一流楽団のように合わせられない。スイスであるからある程度の力の者が集まるにしても、更に個々に力があるベルリンのフィルハーモニカーのように合奏の神経が最後まで通ると最早追いつきようがない。特に特殊奏法などでの遊んでいるようだとお話しにならない。それでも顔ぶれも比較的若く、いい指揮者がアンサムブルを作ればよくなる。しかし現在のパーヴォ・ヤルヴィではあまり期待出来ないかもしれない。ヴァイオリンがN響に劣ると言われれば、そうですかと言うしかないのである。

予想よりもよかったのは、二曲目のラヴェルの「シェーラザード」を歌ったパトリシア・プティボンという歌手で、これは儲けものだった。昨年ラトル指揮でガランチャのそれを聴いていたものだから期待していなかった。しかし会場の大きさが違うと言ってもニュアンスの豊かさではこちらの方が上で、ラトルとナガノの合わせ方の上手さの相違も影響したと思う。反面、ナガノの指揮でここというときの表現を思いとどまる寸止め感がこの曲では感じられて、小澤などとは違うまたもう一つの遠慮深さを感じた。

それでもピンチャー曲でのケントナガノの指揮は見事に尽きると思う。その分余計にここ一つの表現があればと、要するに指揮台上でのカリスマ性の欠如を感じた。特に客演などではプルトの最後まで神経が張り詰めるぐらいでないといい演奏は出来ないだろう。どうしても後任者のペトレンコと比較になるので気の毒なのだが、まさしくそこが最大の弱点で、さもなければ顔色のおかしな写真を使わせないと思う。マネージメントの問題であると共に、やはりあれだけの実力者であるから本人が周りを変えれた筈だ。その指揮振りを見ていても、とても知的な冴えがあって、技術的な洗練が、ややもすると学者風になってしまって、余計にカリスマ性から遠ざかる。ミュンヘンでも人気が落ちていたのは事実だろうが、バッハラーと本気で戦えなかったのがいけなかった。

そうした愚痴が出るほどに、アイヴスでの指揮は見事だった。生で少しだけでも第二指揮者の指揮を見ると ― 第三指揮者はパーカッション付きで全く見えなかった -、この曲の構造がとても分かる。どんなに立派なHiFiを使ってもステレオ再生ではその表現に限界がある。確かに「千人の交響曲」においても発声源の奥行きが深まると各楽譜システムごとの差異が手に取るようにわかるようになるが、ここではパラレルで進む遠近感が、所謂オペラでバンダとされるものとは大違いの空間を生じさせるために不可欠な表現となる。合唱も思ったよりも小振りであったが、差異は良く出ていた。(続く)



参照:
一級のオペラ指揮者の仕事 2019-01-14 | 音
新支配人選出の政治 2018-11-13 | マスメディア批評

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黒い森近道の成果

2019-06-16 | 生活
一時避難のチューリッヒから帰ってきた。まるでリヒャルト・ヴァークナーのようだ。ホテルも周りにのお城まで寄り道して、帰路も最短ではないところを通ったが、燃料も50数リットルしか使っていないので満足だ。更に帰路フランスで買い物もできた。

また良かったのは、宿も涼しく、帰路の森の中は摂氏17度ぐらいで寒いほどだった。黒い森には詳しいが最後まで行かずに残っていた一角の一つかもしれない。対岸のミュールホーゼまで広がる山並みも美しく、向こう側がロレーヌ地方であり、また左の谷をブルゴーニュへと遡るとボーヌへと抜ける。我々が南仏へと車を走らせる経路である。

往路で助かったのは検問を受けなかったことで、高速道料金を先に払っておいた価値があった。なにも面倒なものは持っていないが止まられると今の車では面倒なことになりかねない。早く廃車にしてと思うがまだ発注もできていない。それでも宿の女将のようにいい車だ好きだと言われると逃げて帰りたくなる。なんとなく黒い森の人たちの車への特別な意識は友人のところでもあるのでそうなのかと思う。要するにそうした経済とは関係ない世界があそこには残っているということだろう。

それにしても高台の雰囲気は可也いい感じだ。宿の女将にも話したのだが、丁度短絡ルートに当たるので今後も使いたい。なるほど走行時間的には何ら得はないが、高低差も許容領域で、走りやすさもそれほど悪くはない。気持ちよく感じるぐらいだから、丁度いいのだ。泊まらなくてもいいところを途中で泊まるとすれば気持ちよいところに限る。

しかし来年以降どれほどチューリッヒへと通うかはなんとも未定であり、以前のように毎日通うなんてことは全く分からない。この近道はチューッリヒへ行くときにのみ有効で精々ヴィンターテュールへ向かう時ぐらいだろうか。もしくはグラウブンデン方面へは使える。しかし大抵は最後の二時間ぐらいは走りきってしまうのが普通だ。もしくはチューッリヒに毎日そこから通うとすれば検問に目をつけられて面倒である。因みにルツェルンやゴッタルダ方面へ向かうときにはバーゼル経由となるので、そこは通らない。

帰りに寄ったスーパーでワインも購入した。ブルゴーニュはサン・ジョルジュで2014年ものだ。棚には価格が書いていなかったので取られても仕方ないと思ってカゴに入れた。もう一本は夏用にオックのロゼである。今確認するとアルコール12%の2018年産だから楽しめると思う。因みにブルゴーニュは15ユーロ、ロゼがも3ユーロしなかった。前者は知っていたらもう一本買っても良かった。



参照:
日中気温が上がって来て 2015-02-11 | 暦
黒い森の新旧エコシステム 2012-02-15 | 料理

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