オルエットの方へDu côté d'Orouët
1969−71フランス
監督・脚本:ジャック・ロジエ
編集:ジャック・ロジエ、オディール・ファイヨ
音楽:ゴング/デイヴィッド・アレン、ジリ・スマイス
出演:ベルナール・メネズ(ジルベール)、ダニエル・クロワジ(ジョエル)、フランソワーズ・ゲガン(カリーン)、キャロリーヌ・カルティエ(キャロリーヌ)他
ユーロスペースで観てきましたよ。
ジャック・ロジエ
ほとんど事前に得た先入観を裏切らず、
パリで働く都会の3人娘が海辺でまったりすごすバカンスを
ただ追っただけ・・・という、なんとも朗らかで甘酸っぱい映画です。
事件性のあることはなにも起こらず、
箸が転がってもきゃっきゃと笑う3人+2人のヤサオトコの行状をひたすら追うこの作品は、まず間違いなくある人々には、中身のない映画だな〜という感想をもたらすことでしょう。
観終わって劇場を出るお客さんの中にも、「長過ぎる!w」とつぶやいている人もおりましたし(笑)。
実際のところ、バカンス風景としてはそれでもかなりはしょっていて、
きゃっきゃと騒いでいるなあと思ったら、いきなり「9月17日」とかテロップ出て次の日になり、またきゃっきゃと騒ぐというような、スピード感wはありますのよ。
この映画に抱いた最大の感想は、退屈な(語弊アリ?)被写体のくせに、すごい臨場感があるんだよ〜ってことですね。まるで3人にくっついて自分もあの海辺の(おかしな形をした)別荘で過ごしているような錯覚におちいるのです。極度に。
いっしょになってうなぎだかアナゴだかを満載のバケツをひっくりかえしてぎゃーぎゃー大騒ぎをしているような気分になるのです。
これは題材が日常的なものだからこその臨場感なのでしょうね。『アバター』のリアリズム的別世界には、どんなに形式がリアルであってもここまでの臨場感は実はない。
キャメラを持って街へ出るというロッセリーニ的精神の継承が、ある時期の(あるいはある側面での)ヌーヴェルヴァーグだとするならば、これはその精神の純粋な達成だったのかもなと思ったりするわけで。
(映し出す事柄の特権性を決定的に捨て、街へ出るという精神だけを純粋にじっこうしているかのような)
なんてことは実はどおでもよく?と思ってしまうほどに、このプライヴェートなバカンス感覚にどっぷり浸ってほんわか気分なんですよね〜
***
カメラワークや編集は実はけっこう凝っていて、例えばヨットで大騒ぎのシークエンスなんかも、ボート上のカメラ(それも複数の視点からの)、ボートをすこし離れたところから撮るカメラ(そのときボート上にカメラはいない)、海辺からとおく観るカメラ・・とかなり複雑な設計がされている、とか。ヨットのシーンは複数のセッションを行っているはずで、それらを上手く繋ぎあわせて1回のセッションに仕立てているのですね。
あるいは、釣ってきたでかい魚を料理するところも。狭いキッチンのなかをたくさんの視点からのカメラを仕込んで、カットとつなぎは凝りに凝っています。(でもひたすらご飯つくってるだけ〜)
そういう用意周到かつ量力をつぎ込んで、それであの他愛ない映画ができてしまう、そのことに不覚にも深くw感動してしまうのでした。実に素晴らしい。
そいから、ふとこれはヌーヴェルヴァーグ版『ぼくの伯父さんの休暇』かなあとか思い。ヌーヴェルヴァーグなのであからさまなギャグはやらないし、内容は全然違うんだけど、ひとつのバカンスの高揚と終わりの物淋しさを通じてなんか納得しちゃう気分を描くというところが似ている。
彼女たちの泊まる別荘がへんてこなところはタチ的だし、一日の終わりにその別荘の夜のシルエットがうかび、室内灯がふっと消えたりするところも、なんとなくタチ的。
もちろん作者はそんな意図はないだろうと、これは想像。
音楽のクレジットに、GONGとデイヴィッド・アレンがあり。
某所でDavidと書いたら、彼の綴りはDaevidだ、とおしかりをウケてしまった。
でも映画ではDavidだったと思う(負け惜しみ)、が、それも定かではない。
もしかしたらワタシが見間違えているのかもしれない。
今回上映の3長編+短編をひとまとめにしたパンフを販売しているが、ここに掲載されている山田宏一氏のエッセイが大変面白く、というか、なんでここまで事情通なんでしょうねえ??というくらいにいろいろなエピソードを披瀝する。
そのなかで、氏による「ゴダール、わがアンナ・カリーナ時代」という本が近刊とあるので、これも楽しみです。
『メーヌ・オセアン』も観て、そちらも大変に面白かったのですが、それはまた後日・・
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