Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

教皇無用論のアカデミスト

2007-05-10 | マスメディア批評
読まなければいけない本がまた増えている。期限があるものは積読している余裕が無い。何れはここで紹介するが、一気に読めるものであるから、それほど気にならない。せいぜい、支払いを振り込むまでには読み始めよう。

さて、先日の書「ナザレのイエス」の新たな批評を目にした。評者のカール・ハインツ・オーリック教授は、イスラムの歴史の研究家でもあるカトリック神学者で、そこではムハメッドとはもともとイエス・キリストを指して、三位一体を否定したアラブの運動を示したとする。この神学者は、また「ムハメッドの言葉自体は、預言者に対して既に使われていた用語」としている。

さらに、この教授は進化論と創世説を融合する理論を掲げているようで、ビックバンを神の徴としているところが、先日死去したフォン・ヴァイツゼッカー教授の現代物理信仰と一対をなしているようで面白い。

予想通り、この評者は、この新著「ナザレのイエス」をその 教 授 の 科 学 ― 子供の科学ではない ― から批判する。冗談はさておき、オーリックはラッツィンガーが宣言した「正典解析」の米国風パズルの矛盾を突く。何よりも、第一章の「イエスの洗礼」に、未だに執筆されていない第二部の内容が表明されているとする。

つまり、ラッツィンガーは、十字架のキリストを以って成就して救済されるとする「ラテン神学者」であるにも拘らずその視点は後年のものであると指摘する。そして、キリストの死後40年から60年後に書かれたとする共観福音書が書かれた時代や由来や寄せ集め編纂過程の歴史的事実を挙げて、旧約聖書申命記にまで遡るパズルが成立する神学的根拠が無いとする。つまり、中世におけるアレゴリーを先取りした解釈を指摘する一方、ヨハネ福音書や手紙に見る、解釈学的にヘレニズムの影響を受けた解釈との矛盾を挙げる。

その視点こそが、まさにレーゲンスブルクでの問題講演の内容であると評者は指摘するが、我々読者はこの宗教者のその「今日の視点」が無ければ、このような「宗教的視点」にはそもそも興味が無いのである。この評者が、如何に我々の視点とは違うアカデミニズムに立脚しているかがこれで知れる。

さらに、文化化した神学の行く先が、それがシリア化にしろ、アフリカ化にしろ、インド化にしろ、とどのつまり科学的歴史的なイエス像に回答を出さないと、否定的な弁証法を採って、「ラッツィンガーは因果関係を無視している」と批判する。そして、歴史とその源泉の状況を調べるのは、ただ科学の仕事であって、もしその成果である歴史にたとえ誤りがあろうが、必ずや科学的証明可能な修正を通して、可能となるべきと主張する。ウイキには、この教授をしてマルクス主義的神学者とあったが、そのもの昨今流行の修正史観主義者の言動のようで可笑しい。

もう一つ反論として挙がるのが、共観福音書の編集者やその共同体、また何百年もの後も地中海からインドにかけてのキリスト教においては、イエスは神に選ばれた人間として観られていて、三位一体や二位自然重体のドグマは無かったとすることから、初めてイエス像への畏敬の念が歴史的にも源泉として形作けられるとする。

そしてそのような歴史的なイエスが何を齎したかを考えると、今日も成就されない世界平和を願うラッツィンガーの希望を持った意図をそこに見て、それは科学では到底致しかたがない事象としてこの批評を結ぶ。

我々読者が興味を持つのは、その事象の解析と定義でしかないのである。



参照:因子分析による共観福音書問題の解析(PDF)、統計数理研究所

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