Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2018年9月

2018-09-30 | Weblog-Index


記念劇場見学の日 2018-09-30 | 雑感
至宝維納舞踏管弦楽 2018-09-29 | 音
晩夏日和の忙しさ 2018-09-28 | 暦
サイモン・ラトルの貢献 2018-09-27 | 文化一般
カメラに譲った座席 2018-09-26 | 生活
古工場の中の演奏会場 2018-09-25 | 文化一般
贖罪のカタリシスヘ 2018-09-24 | 文学・思想
オーヴンのガラスが再脱落 2018-09-23 | 生活
トーンハレの代替ホール 2018-09-22 | 文化一般
杖無しに立たせる指揮棒 2018-09-21 | 音
しぶいゼクトを購入 2018-09-20 | 試飲百景
騙された心算で行こう 2018-09-19 | 音
杖の無い爺に導かれる 2018-09-18 | 文化一般
一先ず清濁併せ呑もう  2018-09-17 | 音
少しだけでも良い明日に! 2018-09-16 | 文化一般
飛んで火にいる夏の虫 2018-09-16 | 雑感
末恐ろしい顛末 2018-09-15 | 雑感
解klassisch gegen rechts 2018-09-14 | マスメディア批評
保険金豪遊の皮算用 2018-09-13 | 雑感
「軍隊は殺人者」の罪 2018-09-12 | 歴史・時事
平和、寛容への合同演奏 2018-09-11 | 歴史・時事
ヘーゲル的対立と止揚 2018-09-11 | 文化一般
ホールの長短を聞き取る 2018-09-10 | マスメディア批評
初心に帰る爽快さ 2018-09-09 | 文化一般
蒼空のグラデーション 2018-09-08 | 音
南プファルツでの事件 2018-09-07 | 歴史・時事
走馬灯のような時間 2018-09-06 | 生活
歴史的独楽器配置の箱 2018-09-05 | 文化一般
19世紀管弦楽の芸術 2018-09-04 | マスメディア批評
ずぶ濡れの野良犬の様 2018-09-03 | 音
芸術を感じる管弦楽の響き 2018-09-02 | 音
独墺音楽のコムパクト 2018-09-01 | マスメディア批評
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記念劇場見学の日

2018-09-30 | 雑感
一杯引っ掛けて眠たくなってきた。それでも見学の内容をざっと纏めておこう。各々の組が順路を変えて一通り回ってきて、最後に平土間に集まって、舞台を見て解散というものだった。歴史的な流れを各場面として劇や歌で綴って行くというオリジナル演出で、それほど学術的でも技術的でもなかった。いかにも劇場的というのが正しいのだろう。そもそもそれほど劇場好きでもない私にとっては全体の価値は一泊するほどの価値があったかどうかといった感じだ。それでも幾つかの点は今後役に立つかもしれない。

それ以前に劇場の裏側の位置関係がよく分かった。特にデアグローセオパーのフィルムを見た者は、あの場面のあれはどこそこが分かる。驚いたのは、便所の男女の間から練習室への通路が開いていて、そこから本舞台に簡単に降りていけた。それほど大きな部屋でもなかった。本舞台では客席にいる合唱を聞いたりと、音響的にも悪くない舞台であることも分かっった。奈落は閉まっていたが、そこからロージェなどの角度や視認度もよく分かった。照明もあるが、コンサート会場などよりも近い感じでよく分かる。

底を抜けて行くと、フィルムにあったように、キリル・ペトレンコが楽譜を抱えてくる練習室が並んでいた。そこは見せてくれなかったので残念であったが、フィルムで合唱団が座って練習していたところを見せて貰った。そして上部へと移動して天井裏のバレーの練習室へと向かった。そこの横に支配人室などがあって、下って連絡橋を渡って道を向かい側の前売り券売り場の上部へと入った。そこでオパーフュアレの映像を観た。

そして本館に戻って平土間6列目で40番に座って、二台の四手で、また子どもたちの合唱などを聞いた。平土間は初めてだったのでとても参考になった。たしかに歌手は近いが、言葉も前に出てこないとそれほど聞こえないと思った。最前列もあれなら上から降ってくる感じで良くない。奈落のオケは指揮者の背中が見えるだけで、奈落から天井に跳ね返った音だけだろう。今晩のバルコンと比較してみたいと思うが比較対象にならないと予想した。

それにしてもコッホのキャンセルからフォレが出て、中継が取り止めになるとは。コッホ氏の問題よりも頭に浮かぶのは2016年の初放映の中止だった。あの時は直前にミュンヘン郊外のマクドナルドで射殺事件が起こり、その少年が自射して死んだ。丁度この演出のベックメッサーと同じような顛末だった。だからパブリックヴューイングも中止になった。日本流に言えば完全に呪われた演出と上演なのだ。だからベスト配役による映像は存在しない。そして今回も流れた。恐らく歴史に残る映像となった筈だったが流れた。さて配役変更をどのようにものにするのか、果たして出来るのか、全く観劇気分でない批判的な観劇となる。



参照:
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至宝維納舞踏管弦楽

2018-09-29 | 
ヴィーナーフィルハーモニカーは、ただのドサ廻りの座付き管弦楽団ではなかった、維納舞踏曲管弦楽団であった。今でこそべルリナーフィルハーモニカーが最も聞いているマイオーケストラかもしれないが、数年前までは最も生で聞いた回数が多い管弦楽団こそがヴィーナーフィルハーモニカーだった。だから、なんだかんだ言いながら半生の間ファンでもあったことになる。そして91歳になるヘルベルト・ブロムシュテット指揮でのこの楽団の演奏会は今まで数限りなく聞いたオペラ上演や管弦楽演奏会の中で最悪だった。日曜日の生中継でも可成り危ぶまれたが、八月のベルリナーフィルハーモニカーも生でなければ分からないことがあったことに衝撃を受けていたので、今回もそれを期待した。

演奏精度もキリル・ペトレンコ指揮のようにその都度直していくようなことも叶う訳も無く、そもそも練習をしない出来ない座付き管弦楽団に向上などを求める方が間違っている。それどころか二三日の旅行で疲れが出ているのではないかと思わせた。ガイダンスでは私の予想が外れてベアヴァルト作交響曲について面白い話が聞けた。

一楽章でのダイナミックスと管弦楽法に依る視覚的な遠近感の面白さ、システム間の空間での楽器の受け渡し、二楽章での典型的なロマンティックなメロディーの不明瞭な起承転結、風景画的な音の描写、三楽章超絶リズムの主題などどこをとっても独創性に優れた卓越した交響楽作曲家とされた。

このガイダンス以外の視点や若しくは反する視点があったとしても、そのどの点を取っても当日の演奏は程遠いものだった。ガイダンスにおいても指揮技術が要求される点に言及されたが、あの若い時から棒を持たないしかし当然ながらブーレーズのようなリズムを繰り出せる訳でもないこの老指揮者から何を期待できよう。期待されたのはその恐らく世界一この曲を振っている指揮者からのなにかであったが、全く聞こえてくるものは無かった。

同じようにドヴォルジャークの動機が信号的に各システム間で組み合わされるその音楽がどうして演奏できよう。そもそもチェコフィルによる野卑な演奏が苦手なドヴォルジャークの交響曲であるが、それに代わるだけのヴィーン的な洗練を響かそうと思えばそれだけ精妙なアンサムブルが欠かせない。かといって、一気呵成の民族的な演奏も出来ないとなれば、この定期公演からツアーへのプログラミングの心は、「ただ単に似た楽器編成の曲を合わせました」でしかない。

今更ブロムシュテット爺の指揮に関して文句をつけても始まらないが、あの指揮なら精々教会の合唱団を指揮していればよいのである。しかし、昨年のゲヴァントハウス管弦楽団も名演だったのは、やはり彼らが話していたように「ブロムシュテットの指揮は分かっている」という言葉にある。要するに指揮者シャイ―によって交響楽団として鍛えられた彼らの技量があってこその演奏水準だったのだ。それでもその前のヴィーナーフィルハーモニカーを指揮してのブルックナーの交響曲四番は決して悪くは無かった。するとその差異の理由は、今回のツアーの面子が二軍でしかなかったという事になる。

先ずはコンツェルトマイスターリンが酷かった。写真で見てその女性が率いることで不安があったが、あの人では精々フィリプ・ジョルダンのオペラ公演しか務まらない。ヴィーナフィルハーモニカーは首ではなかろうか。そもそも今回弦楽だけに限っても、態々ドイツ配置にして何のつもりだと言いたい。指揮者の指示かもしれないが人を馬鹿にするにも程がある。下手な楽団ならばもっと弾きやすい配置にしなさい。座付き楽団にコムパクトな演奏までを求めはしないが、それを思うとどうしても嘗てのヘッツェル氏の事故死が悔やまれる。若く優秀なキュッヒル氏が率いるようになってからは全くその世界から離れてしまったのである。

それどころか金管も軒並み村の民謡吹奏楽団のような音をぶち鳴らし、木管も精々二人の女性のフルートとファゴットはやろうとしたいことが分かった程度だ。それでもファゴット奏者のあれでは弱過ぎる。なにもフィラデルフィアのマツカワと比べようとは思わないが、せめてもう少しと思う。この窮状を救えるのは指揮者アンドリス・ネルソンズでしかないと確信しているが、ジョルダンが振るようになれば万事休すだろう。

それにしてもその歩みや指揮ぶりからすれば益々お盛んな老指揮者であったが、遠目に観察していて難聴になっているのではないかなと思ったぐらいである。その指揮ぶりとは反対にこの一年での変化は大きく、完全に逝かれていた。勿論楽団は分かっているのだろうが、それをカヴァー出来るほどにはブロムシュテット指揮を知らない。更に都合の悪いことに若返りが進んでいるのでヘボな指揮者を補佐出来ないのだろう。

なるほど会場の入りの悪さは、その程度の悪さを反映していた。それはパリでラトル指揮ベルリナーフィルハーモニカーが入らないのと同じで、市場というのは神の手が働くのだ。この老指揮者と座付き管弦楽団ではティーレマン指揮シュターツカペレぐらいにしか入らないのである。その芸術程度も変わらない。それでも歓声を上げる如何にも何も分らないような、私と同じく99ユーロの席に忍び込んだおっさんたちがいる。

そしてハープ奏者が出て来て座る。ブロムシュテット爺が客席を振り返って「あんたがたにプレゼントだよ」と聴衆の反応を待ってから始まった。「南国のバラ」だ、最初の小節から引き付けられた。そして最後の小節の最後の音符の残響まで魅了され続けた。私の顔がその驚きと緊張で引きつるのが分かった。ヴィーナーフィルハーモニカーでヴァルツァーなどは聞いたことがあると思う。ベーム指揮の「青きドナウ」かも知れない。しかしこれに比較するようなものは聞いた覚えが無い。そもそもヨハン・シュトラウスの楽譜があのように鳴るなんて全く想像もつかなかった。毎年のようにその中継の音響や過去の録音を聞いてもこの生のそれとは別物だった。なによりも音色が違い、その精緻な演奏には度肝抜かれた。その録音と生の違いという事では八月のキリル・ペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカーの演奏に匹敵するかもしれない。そして一体何だこの浮遊するような音響空間は?薫り高いを超えて完全に浮遊している。しかし、このように精密にはノイヤースコンツェルトで演奏されていないのは分かっている。

またブロムシュテット爺の好きなようにやらせる大雑把な指揮ぶりは、あの故プレートル指揮の瀟洒とは異なるが、恐らく振ったかどうかは知らないがブルーノ・ヴァルターのそれを想起させるようなその高踏なまでのヒューマニズムに、その気宇壮大さに打たれる。これでノイヤースコンツェルトをブロムシュテット爺がスケデュールを入れていることは分かった。しかし満92歳になってのカレンダーだろうか?来る年末年始のティーレマンの降板でも決まっているのだろうか、一刻も早く降ろして欲しい。

ブラームスか誰かが言ったかどうかは知らないが、その晩の響きなら私は臨終の席で聞いていたいと思った。彼らの賞賛ぶりが初めて分かった。このような音楽は他にはない。そしてこのような演奏が可能なヴィーナーヴァルツャーオーケストラこそは唯一無二の存在である。人類の宝である。
Saisoneröffnung - Festspielhaus Baden-Baden




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晩夏日和の忙しさ 2018-09-28 | 暦
カメラに譲った座席 2018-09-26 | 生活
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晩夏日和の忙しさ

2018-09-28 | 
月末に三日も出かけるとなると大変だ。ある程度は覚悟していたが、ものの軽重で優先順を付けて行くしかない。結局優先順の低いとされた仕事は後回しになり、どこかでシワ寄せがくる。

バーデンバーデンは20時始まりで、終演が22時15分前であるから、帰宅は23時前である。これは助かる。先ずは大人の時間の始まりなので、その前のガイダンスが19時見当、その前に入場券を取りに行く。18時30分に付くためには、17時前にワイン街道を出ればよい。フランスでの買い物も30分以上は欲しいところだ。

金曜日は「マイスタージンガー」のお勉強に時間を割きたい。初日の2016年と比較すると一幕を通しただけで随分と自身の譜面の読みが変わっているのに気が付いた。ペトレンコ先生のお陰で、大分読み込めるようになってきた。だから参考資料にしている初日の録音の問題点と逆によく出来ているところが分って来た。一番最後まで問題が残っていたのが一幕であり、それは単にその楽曲構造が複雑なのにある。同時にオーボエなど木管楽器の妙技が要求されていて、これはしっかり吹き通すのはなかなか難しいと思った。要するに音色的にも精妙な色付けがなされている。今回の聴き所の一つで、思っていたようにフィナーレを待つまでも無く、とんでもない精妙さが要求される楽譜となっている。これは流石にペトレンコでも簡単には解決出来なかった筈だ。

だからと言ってベルリンのフィルハーモニカーと簡単に実現できるとも思わない。なぜならばやはりコートナーやフォーゲルゲザンクまでの脇のアンサムブルも重要で、レパートリー劇場で繰り返して上演していないととんでもなく難しいと思う。なるほどその録音のベックメッサーのマルコス・アイへの声は若干弱いかもしれない。しかし今回はポークナーにツェッペンフェルトが歌うとなるともうここだけで充分に満足してしまいそうだ。またデーフィットの配役も変わっているので、これも重要になると思う。とても難しいだけでなく重要な役割だ。女性二人はそれほど心配しないが、この親方たちとBMWディーラーの親仁はこの一幕の出来を左右する。勿論管弦楽が名演を繰り広げる前提でもってである。

前奏曲も良く見ると精妙な演奏が求められていて、今までは如何に勢いだけで進むような演奏に慣れて来ていたのかと思うほどで、ここでの対位法的な扱いや各動機群がしっかりと提示されていないことには、御多分に漏れずその幕開きの教会のオルガンなどの響きまで違和感を齎すことになる。フォンカラヤンがドレスデンで録音したものなどもそうした典型例ではなかろうか。

さてもう少し時間があればドヴォルジャークの七番交響曲を調べたいが、何処まで時間があるだろうか。バーデンバーデンの祝祭劇場のネット配信には前半のベアヴァルトの交響曲のガイダンスがアップロードされている。四度の動機の扱いも然ることながら、三楽章の心のざわめきのような管弦楽法などに言及されていて、まさしく私が指摘した素朴の中の聴き所なのだ。そしてまず聞いてみなければというのも全く私と同じだ。という事はコンサート前に七番のお話しか?
Franz Berwald Sinfonie singulière C-Dur - Klassik in drei Minuten


先ずは軽く走っておいた。週末は時間が無い。イザール河畔を走る元気なども無い。それでも久しぶりにあまりに陽射しが気持ち良いので、バルコンでのブランチとした。前回は何時だろうか?八月だろう。所謂晩夏日和である。



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画像の質も生と比べると 2018-07-19 | 雑感
カメラに譲った座席 2018-09-26 | 生活
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サイモン・ラトルの貢献

2018-09-27 | 文化一般
日本ではロンドン交響楽団のツアーが話題になっている。そのツアー前の一連の新聞評なども目にするが、なによりもプログラムが味噌だ。シーズン初日では毎年英国音楽特集をやるというから、まさしくこれこそがベルリンでは出来なかったことだ。その毎年の選択を子供が駄菓子を選ぶように楽しんでいるというから、流石に還暦過ぎか。それでも先日も書いたようにこちらも同じようにサイモン・ラトルの若い頃の感興がフラッシュバックしてとても嬉しい。

そこに関係するが、ルツェルンからのアンケートに答えた。一言書き加えようと思って、忘れていたら催促が来た。これは本気で参考にするつもりだなと思って、早速答えた。なにを書こうかは決めていなかったが、直にこの夏のルツェルンの音楽祭での一つのハイライトを思い出した。前プログラムのプロジェクト「40min」無料小コンサートシリーズである。これを先ず称えた。これは手間でも自信を以って続けて欲しい。最初はフェスティヴァルのアカデミー連動企画でしかなかったのかもしれないが、ラトルが出て来ることでその意味が変わったのではないか。勿論その知名度や集客力更にモデレーターとしての巧さは絶品だからである。だから日本でマーラーなどを振らせておくのは勿体無いのだ。要するにキリル・ペトレンコ以上にサイモン・ラトルで商売をしようと思っても更にこの指揮者の本望からはどんどん遠ざかっていくと思う。

だから、その前プログラムプロジェクトと、毎年同じように訪れるであろうロンドン交響楽団のプログラムをタイアップさせることを要望した。上の英国音楽プログラムでも態々ベルリンからガボ・タークヴィとフィリップ・コッブの二人のトラムペット奏者をロンドンに呼び寄せていて、流石に頂点に居た人のその動員力を示していたようだが、ラトルの一声で大きなプロジェクトが動くことは、ロンドンで移民などの背景のある若者を集めて交響楽団がアカデミーを開いたことなど、今後そうした社会的な活躍がとても期待されている。ベルリンにおいても「春の祭典」のプロジェクトなどは最も大きな足跡となっているので、幅広い層に20世紀後半の音楽を広めて欲しい。そのレパートリーこそがサイモン・ラトルの貢献が必要なのだ。無料の前プログラムの素晴らしさは、まさにそこで、誰も金を払っていないからその創作に文句を言う人も居ないのだが、その音楽に素直に魅了される人々も少なくないのである。まさしくこの人たちへの働きかけこそに大きな価値がある。

ロンドン交響楽団の音がシャープだとか、指揮者との間に親密さが見られるだとか、色々と綴られているが、結局そこで語られていないことがベルリンのフィルハーモニカーの実力であった訳で、そこにこそ超一流の意味があったのだ ― 一例をラトル時代に挙げればブルックナー演奏におけるコムパクトな音楽運びなどに尽きるだろうか。なるほど未だに「揃うの揃わない」のとか書くジャーナリストがその上の超一流の極意というのは言葉で表現出来ないのは分からないでもない。吉田秀和の文章などを含めて「その違いが判るところ」を日本語で読んだことが無いのは当然なのだろう ― その割にその人たちはアメリカの超一流管弦楽団の抜きんでたその芸術性を語らない。

日本人が日本文化でこうしたことは外人に分からないだろうなと思うようなところが、同じように欧州文化にもあるのであって、私が推奨を受けていてもキリル・ペトレンコやらのユダヤ系ロシア人などのドイツ音楽などは眉唾物だった理由はそこにある。彼が本当に偉いのは、その天与の音楽性ではなくて、謂わんとするハイカルチャーの神髄としての音楽芸術にしっかりと対峙したことにある。あれほどの才能と機会を受けた人物ならば、なにもドイツ音楽の神髄など無関係で世界中を回って仕事が出来た筈なのだが、それどころか現在よりも稼いでいたに違いない。しかしそこはやはり父親の苦労を傍で見ていたことが大きな教えになったのだろうと今は想像する。



参照:
初心に帰る爽快さ 2018-09-09 | 文化一般
19世紀管弦楽の芸術 2018-09-04 | マスメディア批評
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カメラに譲った座席

2018-09-26 | 生活
ミュンヘンの劇場から電話があった。先日からあの辺りからの番号で電話が掛かったので不思議に思っていた。携帯電話と両方鳴る場合は関係者だ。そのまま放っておいたら再び二回鳴ったので出た。要するにレジデンスとかの場所であるから公館からの電話だと分かっていたが、なにもバイエルン州で悪いことをした覚えが無いと考えていたのだ。小心者であるからどうしてもまた訴訟とか金でも請求されるのかとびくびくする。

劇場がフォークトが歌う歌わないで電話を寄こすことは無いと思った。そもそもメールが分っているのだから予定変更などはそれで連絡が来る。だから不思議に思っていた。見学にも申し込んでいるので何か特別な用件があるのかなとも一瞬思ったが、カメラが入るという事で、なるほどカメラに映るから注意しろということかなと早合点していると、どうも私が邪魔になるという事だった。それぐらいいい席を与えてくれていたのである。つまりそのカメラから映るのは私が観る筈だった光景だ。これは仕方が無い。向こうが選んでくれた席であり、最上の席を選んで呉れていたのだが、カメラに譲れと言われれば、記念映像が残ることであり私が独り占めするよりも公共的な歴史的な芸術価値が高い。私には観た光景を文章にする力も無い。そこで代替は、どこがいいかとなったので勿論そのままバルコンである。方向が少し変わり、フォークトの表情は見難くなるがコッホの表情は指揮者と同じように観れるようになる。そして音響的にはよくなる筈だ。「他にも電話しなければいけないから」と言っていたから、大分大掛かりな撮影になるようだ。兎に角、まだここ二三年は集中的なお付き合いが続くので、幾らかは貸しを作っておくぐらいでいたい。まだまだ、ここぞという時が訪れる筈だ。

こうして日曜日の公演のことを具体的に頭に描くと興奮して来た。仕事が手に付かなくなる。それでも楽譜を見て行く時間も無いので、先ずは木曜日のベアヴァルトの交響曲を開いた。思っていたよりもへんてこな交響曲だった。60回も指揮しているブロムシュテットはシューマンとは違うと比較しているが、あの如何にも素人臭い綴り方はブルックナーとシューベルトの間のようでもあるが、しかしその素朴の中に耳を傾けるものもある。これはどうも生演奏を聴かなければ始まらない。後半のドヴォルジャークの方はバーデンバーデンのYouTubeに既にガイダンスが流れていた。ブラームスが珍しく賞賛していた作曲家であり、その三楽章の旋回の動機を扱っていて、そのブラームスの三番にもあるそれは糸を紡ぐの歯車ということだ。勿論動機をそのメカニックな動きと対置することは良いのだが、そこには和声のシステムがあることを無視してしまえない。この辺りが造形美術の分析と異なる音響の物理現象だ。
Antonín Dvořák Sinfonie Nr. 7 d-Moll op. 70 - Klassik in drei Minuten


中秋の名月という事で窓を開けて例年のように撮影した。早めの時は雲の後ろで見えなかったが、上空は晴れていた。今年はとりわけ寒い。翌朝も森の中を走っていると日陰が続いて凍りそうになった。まだまだ外気温は摂氏数度あるが、今年は寒い。九月は私が知る限り最も暖かい九月となった。この夏は乾燥していて陽射しを避けている限りとても過ごしやすかった。この乾燥が続くととんでもなく冷えるかもしれない。アイスヴァイン収穫も早いと思う。

木曜日から週末への服装を考える。折角洗濯を急がせた夏用のピピンのシャツは要らなさそうだ。冬のシャツを考えていなかったので、慌てている。これは新しいシャツを下ろすべきかと思う。週末はカメラも入るのでおかしなように目立ちたくはないので少し考えている。とは言っても初日でもないので黒蝶タイをするまでの必要も無い。まだ冬服という訳ではなく、本来ならば最も融通が利く筈なのだが、この夏一番の薄着で出掛けたのが先週だから、衣替えが必要になった。



参照:
予想を裏切って呉れる 2018-07-12 | 文化一般
再びマイスタージンガー 2018-06-22 | 生活
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古工場の中の演奏会場

2018-09-25 | 文化一般
承前)トーンハレマーグについて書いておかなければいけない。特にその設置環境である。これは如何にもスイスらしさもあるかもしれない。なるほどドイツにおいても嘗ての駅舎や工場跡などは新ホール開設などの時にはどこでもまず候補に挙がる。それほど空間も余っており、土地も有効利用されていない場合が多いからである。そのような中でもスイスの場合はそもそも市場も小さいので会場も小振りである。だから駅舎などでも新しい芸術のメッカとなっている場合が少なくない。それ以外にもそうした想像に係るようなアトリエなどが多くの工業団地の空きスペースに入っていることも少なくない。スイスの工場などは一部の例外を除くと小さいからである。
Tonhalle-Orchester Zürich in Zürich-West


このハーグのトーンハレは2020年の改装までの借り住まいなのも特徴的である。本来のトーンハレの方は銀行街にも近い湖畔の市街地区にあって世界一の音楽会場とも言われているが、私自身は用事があって楽屋口からしか会場に入っていないので、何が素晴らしいのかは知らない。音響は悪くはないが、開場の1895年当時の底に重いような鈍った響きが特徴だ。だからジムメン指揮の録音など聞く気もしないのである。但し楽屋は指揮者室も含めて惨憺たるもので、如何にもスイスにある埃被った古い建造物でしかなかった。恐らく、会場だけでなく、バックステージを補強するのは当然だろう。まともな指揮者は来ない。という事で若杉なども一時いたようだが、短期間で皆交代していた。
Einblicke in die Tonhalle in Zürich


そうした湖畔の空気を喜ぶ定期会員などは新しい会場の三年間はお休みする人も居るようで、なるほどあの雰囲気では本当に音楽を愛する人しか来ない。そして響きは今までこの管弦楽団からは聞けなかったような繊細な響きが楽しめる筈だ。創立150年の管弦楽団である。一部には若い人が増えるだろうという話しもあったが、なるほどその会場環境から服装コードなども気楽になり、音響も軽みがあって、新たなレパートリーに向いている。パーヴォ・ヤルヴィにも期待されるところである。

チューリッヒは一時毎日通ったこともあり、街はよく知っていたが、この工場団地のところはいつもMIGROSを右に見て、通り過ぎていたところである。だから小さな高層ビルも初めて気が付いた。だから地図を調べていても駐車場への道を何度か間違った。最初は嘗てのルツェルンへと抜ける交差を上がってしまい、無理して橋の上で転回、その次は会場の前に出たが駐車場に入れず、その次で漸く道標識を発見すると同時に車庫入れとなった。あの手の工業地の特徴で、道が建物の中を通ったり、ラインがハッキリしていなくて慣れないと気持ち悪い。だから今後は簡単に出掛けられる。往復で、670㎞ほどしかなかったので、燃料費も大して掛からない。最後のチューリッヒ前に事故渋滞で一時間ほどサーヴィスの駐車場で休んだのだけが予定外だった。今年は日程的に難しいかもしれないが再び訪ねてみたいと思う。まだ2020年まで時間はある。その間にヤルヴィが大きな成果を上げるかどうかは分からないが、ホールが良いので沢山の事が可能となる。恐らく今までのホールでは叶わなかった精妙な仕事が可能となるだろう。管弦楽団の世界的グレードアップが叶うか?

帰宅は、引けたのがスタンディングオヴェーションのお陰で21時30分過ぎてていた。幹線道路脇の駐車場からの車庫出し、左折一回の信号だけで、高速に入る。それでも午前一時前の帰宅は厳しいと思ったが、ラインフェルデンでの国境超えも、すんなりと行った。アウトバーンも飛ばせたが、やはり眠くなってきた。エスプレッソを飲み、更にワイン街道アウトバーンで一休みして、結局自宅まで信号も無く、帰宅した。自宅から何処へでも信号が無いのが一番早い。燃料費は高かったが、駐車料金が10フランケンで、高騰分はこれで大分助かった。バーでのコーヒーも良心的な価格4.50フランケンで、プログラムも無料だった。(終わり)

写真:右の雨除けがついているところが正面入り口。



参照:
ホールの長短を聞き取る 2018-09-10 | マスメディア批評
歴史的独楽器配置の箱 2018-09-05 | 文化一般
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贖罪のカタリシスヘ

2018-09-24 | 文学・思想
久しぶりにとても怖い夢を見た。今まで記憶にある中でその怖さが特異だった。前後の関係はあまり分からなかったのだが、食事の席に合席する人が主役だった。殆ど水木しげるの世界だった。水木の妖怪辞典のフランス語版は購入したが、それ以上のオタクではない。しかしそのアニメ感などはまさにその世界だった。なぜ今頃そんなものを見るのかは分らなかった。しかしその背後への世界観は可成り社会学的なもので、これまた自分自身がそんなことも考えているのかと思って驚いた。

何気なく簡単な恐らく温泉宿のようなところで同席する人と色々と話しているうちに、こちらが加害者側の社会に属していて、途中からとても心苦しくなるというものだ。どうもここ最近の沖縄問題などが脳裏にあったようだ。そして息苦しくなって来て、首筋を掻き毟るようになって、ひょっと向かい側に座るその人を見ると、顔色から血の気が失せていてこの世の人ではなくなっているのだ。ここがそのもの鬼太郎のアニメに近い。すると更にそこに並んで同じ被害側にいた血の気の無い人達が勢揃いして対面している。ここがまた怖かった。

しかしそれだけでなく、次から次へと食卓の向こう側に座る人の民族やらがこちら側との関係の相違によってどんどんと変わってくる。勿論個人的な関係で対面する人も現われる。要するに私が加害者で、対面するのは皆被害者という関係になる。これは可成り恐ろしく、その都度私は胸を引きちがれるような苦しみを味わうのだが、その都度対面する人たちが苦悩を超えて血の気の失せた形相となる。

しかしそれがどうだろうこちら側の罪のような意識が芽生えると、その人々の群れが霧散していくのである。それは贖罪のようであり、ニルヴァーナのようであり、文化的な背景よりも社会学的な背景に興味が向かった。要するに被害者側の問題であるよりも加害者側の問題であり、それは個人の枠を超えて社会的な枠組みを意味した。夢物語であるからどうしてもスヴェーデンボリを想起するが、ベルイマンの映画も思い出す。

朝は霧雨の一歩手前といった感じだったが、パン屋のあと峠を攻めに行った。外気温は摂氏11度であるがそれ程冷やりとはしていない。峠から降りて来るといつものようなところでライヴァルの婆さんに出合った。今日は森の中に私たちだけだよと言われた。なるほどいつもの息子も着いて来ていない。午後から悪天候と予想されているから態々出かける人はもの好きである。

帰って来てからヴィーンからの生中継を聞いた。なんといってもベアヴァルトの交響曲が面白かった。これは少し調べてみても良いと思った。楽譜もDL出来たので、後半のドヴォルザークよりもこちらをお勉強しようかと思った。それほど後半は眠ったような演奏で ― ダイナミックスなども逆さになっていたから指揮におかしな動きがあったのだろうか ―、演奏旅行に出れば流石にもう少しまともに演奏するものと想定する。あのままでは二度とお座敷が掛からない。しかしどうしてもまたあのいつもの拍節のボケたような演奏でも差が出るのだろうか。まあ、どちらでもよいようなブリュッセルからルクセムブルクを経て、バーデンバーデンへと徐々に良くなってくるだろう。

来週の「マイスタージンガー」のネットストリームもオンデマンドでも流すようなので、帰宅後に直ぐ落としておけば少なくとも記録としては使えるだろう。一般的には生を聞いた後ではMP4などは当分聞く気にはならない。いい演奏になれば記念上演フィルムとしてまたどこかで編集後中継されるだろう。劇場が使っている写真が私が切り取ったところよりも悪い。なぜならば今回はデーフィットの役も配役が変わっているので、おかしいのだ。

ダブルブッキングになるもう一件のアウグスブルクの宿も今日明日のうちにキャンセルしておかないと忙しいと忘れて仕舞う。出来ればもう少しミュンヘン市内から近い都合のよい宿が見つかるとよいと思うが、さてどうなるか。



参照:
コン・リピエーノの世界観 2005-12-15 | 音
杖の無い爺に導かれる 2018-09-18 | 文化一般
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オーヴンのガラスが再脱落

2018-09-23 | 生活
オーヴンの掃除の準備をした。前夜から液剤を塗布しておいた。それがパーソナルの都合で成らなかったので、使うために仮に拭き取っていたら、四年前に貼り付けた二重窓のガラスが脱落した。苦労して初めて使う高温用シリコンで接着したのだが、もう一つ着き方が悪く、下が当たって無理もあった。だから脱落した。再度接着である。前回二度挑戦したのは、一度目はシリコンを押し出すピストルが無かったからだ。

今回は前回使ったシリコンがまだ使えるかどうか調べることから始まった。しかしどこにしまい込んだか思い出せずに数時間探した。そして見つけて指で押して、足で踏むと蓋が開いて、まだ使えそうな雰囲気であることを確認した。ピストルは再び借りなければいけないが、先ずヘラで試してみようと思った。

二回試しているので、問題点は分かっている。先ずはヒンジ金具に油を差して動きをなだらかにする。そして、赤いシリコンを除去する。今回は車のために各種紙やすりがあるので、前回以上に塗布面を完璧に整えられる。それから取り付け金具がぐらぐらしていて、最終的に貼ったグラスが枠に当たることになって脱落の原因になる。これをもう一度ネジを締めあげて、更に瞬間接着剤で固定するように試みる。

そこで初めて古いカードか何かをこてにして万遍無く分厚さを整えて、塗布する。5㎜で二日の乾燥時間とあって、一週間ほど乾くのを待つことになっているので、出来るだけ薄く3㎜程度までに抑えたい。既に二度試しているので、今度は上手く行くのではないかなと期待しているがどうだろう。大抵このような仕事は準備とその計画で殆どその出来が決まりそうだ。

さてこの週末は、試飲会以外には、上の修理と、「マイスタージンガー」のお勉強、それに来週のヴィーナーフィルハーモニカー公演のドヴォルジャークの七番交響曲のお勉強と録音だ。ベルヴァルトはヴィーンからの生中継聞くのが一番だろう。ドヴォールジャークもLPぐらいでしか聞いたことが無い曲である。



参照:
ピストルを入手して初めて 2014-11-22 | 生活
新たなファン層を開拓する齢 2017-05-14 | 音

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トーンハレの代替ホール

2018-09-22 | 文化一般
承前)チューリッヒから戻ってくると二時を過ぎていた。途中で眠くなって30分以上二回も休んでいたからだ。スタンディンオヴェーションになってから舞台の下でハイティンク氏が佇んでいたが、あれは望外に上手く行ったので楽団員を迎えるようでもあり、そのあとまた呼び出されるつもりだったのか、実際そちらの方に駆け寄るおっさんもいたが、こちらも帰りを急ぐ身でありどうなったかは知らない。私自身ミュンヘンのオペラでも最後まで居残るようになったのは「タンホイザー」ぐらいからでありそれ以前はそれほどの必然性を感じていなかった。やはりあれはアウトグラムを貰うとか話しかけるとかとは違って、よほどの賞賛の意思が無いと暇潰しでは出来ない。

今回の旅の目的は当初から、トーンハレの代替であるマーグのホール見学にあった。勿論そこで音を聞かないといけないのでパーヴォ・ヤルヴィの演奏会を探していたら、先ずここ二年ほど聞いてみたいと思っていたハイティンク指揮の会があるので一番安い席を購入した。そのハイティンクは周知のようにMeToo騒動で代わりとして急遽ルツェルンで振ることになって一足先にマーラーの交響曲で聞いたのだった。それでも会場と共に、今回出掛けた甲斐があった。

なんといってもこの会場は今一番評判のいい会場でエルブのように初期修正する必要も無く、ズルヒャー湖畔トーンハレが改修されれば解体が決まっている。そして既にシナからは解体したそのままの買い付けオファーが出ている。それを知った指揮者ヴェルサー・メストは「これは百年に一回の幸運で、解体などあり得ない」とその会場の価値を表現している。実際1200席しかないのでどの管弦楽団が弾いても贅沢で、更に音が飽和しない。一人頭の容量が充分にあると見える。
TONHALLE MAAG l KLANGKUNST

Shostakovich Viola Sonata Op. 147 arr. Viola & Orchestra


最初に入った時に何人かの楽員が思い思いに音出しをしていたので、色々な場所から聞かせて貰った。小さな割には癖が無く、なにか上等の音楽室を大きくした感じだ。左右の壁を傾斜させているだけで、それほどの特徴は無いシューボックス型で、天井の反射板を含めて全てがモミの木だからIKEA素材ホールと言われている。それどころか外壁も同じだから、鉄筋に板を張り付けたような構造だ。それが視覚だけでなくとても素直な音になっている。簡単に説明すると空いた工場の中にプレハブで中に巨大な音楽室のホールを造ったようなものだ。つまり雨漏りなどの外壁処理はIKEA素材に必要ない。それでも一番交通の多いストップアンドゴーを繰り返すハルトブリュッケの脇にあるが、意外に騒音を感じなかった。なぜだろう。
Tonhalle Maag in 7 Monaten in 4 Minuten


最も安い席30フランケンだったので、前から三列目の一番端でバルコンの下だった。私のような最初に購入した人にこの配券は失礼だと思うが、後半は五列目が空いたので、その真ん中側の庇の無いところに出た。調べると80フランケンの席だった。それでも全奏でも決しておかしな反響や残響や共振が無かったからやはり奇跡的だと思った。同じ素材の台のような舞台も低くはないがそれ程高くは無いので、特に横から指揮者とヴァイオリン群を代わる代わる見るには都合が良かった。なによりも近いので細かな表情とかが分る。お互い様である。なるほど大きな管弦楽で全体像が見えないとか楽器への見通しが効かないとかいうのはあるが、楽譜をある程度調べているなら大丈夫である。平土間で遠くで視界が効かないよりも良いかもしれない。久方ぶりの被り付きだった。

バックステージは最低限しかないようで、直前になってから客席を通って着替えて楽器を持ってくる楽員が多かった。ロビーは工場の一部といった感じで、スイスなどにもよくある剥き出し感を使っている ― それどころか私の知っている日本でも公演しているスイス人音楽家などはそのような印刷工場跡地のようながらんどうの下に布団をひいて暮らしていた。あれで落ち着く人が居るのも不思議だ。その手のバー宜しく飲食物も出は悪くは無さそうだった。但し初日はガイダンスが無かったので知らないが、別の部屋を使わないと落ち着いて聞いていられない。ヘルメットを被っての工場見学ではないのだから。(続く



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ホールの長短を聞き取る 2018-09-10 | マスメディア批評
管弦楽への圧倒的熱狂 2018-06-08 | 文化一般
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杖無しに立たせる指揮棒

2018-09-21 | 
とても良かった。昨年のゲヴァントハウス管弦楽団の完成度やブロムシュテットの読み込みの明晰さは無いが、チューリッヒのトーンハーレ管弦楽団の演奏もハイテインクの指揮もブルックナーのある面をしっかりと聞かせてくれた。どちらかと言えばメローな歌い口と美しい和声を聞かせるのがこの指揮者の本望だが、マーラーの創作とは違い飽く迄もそのロマンの和声からの枠組みが聞かせ所だ ― その対極にあったのが12音語法的なブルックナー九番を聞かせたギーレン指揮とかだろうが、何度も書いているように作曲家の居た環境からその創造を追体験する方が創作の真に迫れる。

前半のモーツァルトは指揮もピアノも程度が低かった。ハイティンク指揮の悪い面が強調されたような大雑把さとメローさが目立って、なによりもピアニストのティル・フェルナーはチューリッヒで教えているようだが、如何にも教授程度で、クララハスキルコンクールの優勝者という事で、その程度が知れる。タッチもモーツァルトを弾くにはあまりにも雑で、ブレンデルの名前を出されて迷惑に思う。そして指揮もその程度で、仕方ないなと思い始めた。

ブルックナー七番の一番長い主題へのそのトレモロの冒頭からなかなか聞かせた。それは会場のアーコースティックが大きく貢献しているが、管弦楽団というのは入れ物あってのものである。まさにこの臨時の会場こそが今回の訪問の主目的だった。その主題の歌わせ方もヴァークナーの上昇旋律を想起させるような歌い口であり、その後の主題の特徴付け方も周知のようにこの指揮者では最小のコントラストしか付けられない。しかしそのお陰で見え聞こえるものが中々精妙であったり、ブルックナーの創作の本質でもあり得るのだ。そうしたブルックナー解釈であり、そのような指揮を観察した。

若干メローな歌い口もセンチメンタルとはならない節度と大雑把さが混ざり合っているようなところがあり、丁度宇野功芳の謂わんとする「森羅万象」や「寂寥感」には事欠かない。それが逆に上手いこと流れる。しかしカラヤン指揮のような流麗さで流されることはなかった。一つには管弦楽団がそれほど手馴れてはおらず、あの如何にも不親切そうな弦のポジション取りなどがとてもいい感じでコントラストを与えていた。一楽章のコーダはその特徴が良く表れており、アラブラーヴェの「落ち着いて始まり」が本当に落ち着いている。これがブロムシュテットの「滑走路待機でそろそろ離陸ですよ」の感じと違い、最後まであまり早くもならないのに典型的に表れている。そもそもここでテイクオフすべきかどうかは解釈の問題ではなかろうか。二楽章の第二主題や、三楽章主題また三十二分音の連桁などの扱いが四楽章最後まで活きる ― これも到底ヴィーナーフィルハーモニカーなどでは聞けなかったものだ。これらだけで適当な主題間の対峙が導かれ、勿論その和声的な緊張感は各システム間で対位法的な鋭さとして表れる。これは見事であり、この響きが表現されないことには精々「ジークフリート」や「神々の黄昏」の亜流でしかない。その意味からその大きな枠組みを超える緊張も十分に表現されていた。

勿論被り付きに座ったのだからそうした表現をどのようにあの指揮で引き出すのかを注視していた。やはり永い間の指揮技術の熟練と凝縮は私にも判ったが ― 特に棒のはねの使い方が面白かった ―、必ずしもヴィーナーフィルハーモニカーを振っては、こうした結果にはならないのは、コンセルトヘボーを振っても同じだろう。あまりに手慣れた管弦楽団であるとそのリズムとテムポを与えるだけでしかない、するとある種のぎこちなさから生まれる主題間の対立が生じないのだ。この指揮者はああした超一流の管弦楽団を振る人ではないのだろう。そしてブルックナーの楽譜はそうしたものが内包されているという事なのだ。それが最大の功績だった。昨年の七番と甲乙つけがたい価値があった。

トーンハーレはスイスを代表する管弦楽団であるが、管などは事故の起きやすい管弦楽団でそれほどの名手が集まっている訳ではなさそうで、弦の精度もN饗などの方が上なのかも知れない。それでも若い人も多く、ゴリゴリ弾けるだけの弦楽奏者を採用していて、恐らく日本などの奏法とは違う ― 昔からこの楽団やミュンヘンフィルなどにブルックナーの名演奏録音が多いのは偶然ではないだろう。例えば次期監督パーヴォ・ヤルヴィのHRなどの方が弱々しい。管楽器奏者は凸凹だが、やはり座付きの楽団とは違う。なによりもいいホールで合わせていればいいアンサムブルになるだろう。先月もNZZの人が「ベルリンのように古典的ドイツ配置だったらな」という意味もなんとなく分かった。そうした個性が出来ればもう一つ格が上がるだろうが、ヤルヴィ監督ではそれは難しいだろう。

クライマックスの後盛んな拍手の後で舞台の奥から立ちだした。結局いつものようにスタンディングオヴェーションになったが、今回は一切杖を突いていなかった。手にしていたのは指揮棒だけだった。それだけでも誉めてあげたい。結局年寄りも自宅から出てくれば元気という事ではないのだろうか。(続く



参照:
いぶし銀のブルックナー音響 2017-10-31 | 音
騙された心算で行こう 2018-09-19 | 音
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しぶいゼクトを購入

2018-09-20 | 試飲百景
朝の車中のラディオや夕刻のそれは可成りの時間を割いて、日本人の月旅行とその背景などを報道解説していた。なによりも興味を持ったのは芸術家を四人招待というところで、どのような人が応募するのだろうか。旅の危険性だけでなく、準備に体を動かさないといけないことなので、それだけで限られてくるのではなかろうか。昔から王侯貴族に旅行に連れられて行った芸術家が、どのような作品を後世に残しているのか知りたいと思う。

次の試飲会の前に防備録。ナーへでは、例年のように先ずはデーノッフ醸造所で予約していたワインを回収した。予約と言っても試飲会に行けなかったので予約できなかった。その分残り物を少し押さえておいたのを回収した。ベーシックのグーツリースリングも残っていたので三本ぐらい足した。それほど良くは無いのだが、数が少な過ぎるので買い足したことになる。お目当てはその上のシーファー土壌のトンシーファーと称するリースルリングで幾つかの土壌のものを集めているのでそれほど個性は強くないが、2017年産は酸が効いていてよかったのだ。例年は重すぎる傾向がある。グローセスゲヴェックスの代わりとはならないが、足しにはなる。

さて本年は遅くならないように時間的余裕を以って出掛けたが、結局二件目の更に山奥のシェンレーバー醸造所に着いた時には既に試飲会は始まっていた。こちらは2017年は初めてグローセスゲヴェックスをケース買いした。昨年は仮注文をしていなかったので入手できず、この春に一つのグランクリュ地所「フリューリングスプレッツヒュヘン」の出来を確認していたからだ。逆にもう一つの青シーファーのヘレンベルクは問題があった。春の時に確かめたそれが再び閉じていたのは、樽試飲と最終のビン詰めとの違いだ、つまり時間が経って瓶熟成するとどうなるかが分っている。とてもクリアーで私好みなのだ。

その話しをザールからの夫婦と話をしていた。地元であるからファンフォルクセム醸造所も良く知っていたが、彼らは昔の濁りのあった時の方が食事に合ったと全く反対な意見だった。これはどうも何とも言えないが少なくともそこの醸造所のワインがここ暫くで変わってきたことはこれでハッキリと証明された。醸造所自身が認めていなくて、ある意味認めたくない理由があるという事だ。

その他では、2015年産のリースリングが詰められたシャンパーニュ風ゼクトが良かった。ブルートで数年前に購入したものよりも良い。トロッケンの方が誰にも勧められるが、自分で飲むならこっちと言われて、なるほどあの渋みのある感じがシャンパーニュの近い。今まで飲んだ中で最も良いリースリングゼクトの一つだと思う。それも2015年の葡萄の出来の良さが裏打ちしていた。

結局普通のリースリングは買えなかったが、下のフリュータウも悪くは無かった。但しデンノッフの同クラスのものと比較すると少し落ちる。最初の日だけのお目当てはなんといっても垂直試飲だ。特に最も健康な葡萄となった2012年産の「フリューリングスプレッツヘン」を2010年とも比較したが、それほど優れてはいなかった。若干ペトロ―ル香があって、これならばそろそろ開けた方が良いのではないかとも思った。逆にもう少し熟れてしまう方がいいのかなとも思った。それに比較すると2010年の方がしっかりしていた感じだった。



参照:
習うより慣れた判断 2018-05-11 | 試飲百景
二日間の試飲の旅 2018-05-08 | 試飲百景

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騙された心算で行こう

2018-09-19 | 
承前)モーツァルトのK482のヴィデオを観直した。また自身の書いたものによれば私の聞いた日は更に良かったようだ。今回改めて確認するとこの内田光子にラトルが付けた演奏は可成りの程度で、私が知る限りモーツァルトの協奏曲の演奏としてトップクラスであった。なによりも内田のピアノもこの分野においては明らかに彼女が尊敬するブレンデルを凌駕していて、その弾きこみ方が全く違う。モーツァルトのピアノ曲に掛けてはこの人以上にその内容を引き出せた人はいないと思う。他の追従を許さない。そこにこの全く単純ではない音楽でアインザッツを揃える点描的な指揮のラトルの演奏以上の伴奏は考えられない。ハイドンに関しては当代随一だとされるがモーツァルトも決して悪くは無かった。パウとオテンザムマーが並んで吹くのもいいが、これだけの演奏はロンドンでは到底不可能だろう。そこでどうしても考えてしまうのはペトレンコは自らもモーツァルト指揮者ではないと語るが、内田が今後登場するとしたら合わせることがあるのだろうかと興味深い。内田の伴奏は弾き振りもあるように結構いい加減な演奏も少なくないが、これだけ立派な演奏をやってしまうとどうしても比較になる。この演奏をチューリッヒへの道すがら聞いていくと、どうしても待たれる実演の分が悪い。指揮者ハイティンクがそれほどアーノンクール以降の奏法を取り入れているとは思わないが、その正確さでどうしても不安になる。ネヴィル・マリナーよりはマシだろうが、コリン・デーヴィス程度の指揮は可能なのだろうか。

もう一つのブルックナーの第七交響曲はチェリビダッケ指揮ミュンヘンの交響楽団の東京公演を二楽章まで観た。この指揮者は立派な演奏をすることがあるがこれは自身が他者を罵っていたように己がペテン師丸出しの演奏だ。大体後年のミュンヘン時代は評価はそれほど高くは無く、政治的に利用され、それに乗って丸々と豚になってガールフレンドと楽しくやっていたと聞く。まさしくそのような演奏で、交響楽団も二流だが、東京の聴衆がバカにされているようなものだ。あの静的なリズム運びは認めるとしても、あれでは全体像が一向に浮かび上がらず、交響曲の演奏ではありえない。精々「展覧会の絵」位を振っておけばよい指揮芸術である。
Bruckner Symphony No 7 Celibidache Münchner Philharmoniker Live Tokyo 18 Oct 1990


流石に続きを流す暇人ではないので、ハイティンク指揮のヴィーナーフィルハーモニカー東京公演を改めて参考資料にした。先ず三楽章を流す。フィルハーモニカーのアンサムブルに乗っかっているようではあるが、これが私の知っているハイティンク指揮のブルックナーである。同僚のブロムシュテットのそれと比較すると、やはりどうしても流線型に流す傾向が強く、一般受けはするだろうが、音楽の核心的なところが流れてしまう。だからと言ってそれほどいい加減さも感じなく、その分ブロムシュテット指揮にあるようなぎこちなさは隠される、一長一短ではなかろうか。

更に通して観てほぼ分かった。なるほどハイティンクの大雑把な指揮はマーラーよりはブルックナーに適当なのは間違いなさそうだが、主題と副主題や若しくは対旋律などとの緊張関係も何も読み込まれていないので退屈しやすい。指揮者の読譜が、ブロムシュテットのように各システムが歌い込まれていない。そして何よりも細かな音形を軽視しているので、ブルックナーの起承転結がハッキリしない。ヴァークナーの管弦楽か何かをBGMにしているような感じになる。勿論それなりのフィナーレも展開もあるのだが、その主題の性質や展開や扱いが分かり易いように奏されないので、のっぺらぼうな感じになる ― 典型的なカラヤン世代である。それにここでは慣れ切った管弦楽団がルーティンで弾いているので余計に悪い ― チェリビダッケのペテンとはまた違う意味でまるでサントリーホールの客をバカにしたような演奏が繰り広げられている。
Bruckner: Symphony No.7 + Encore / Haitink Wiener Philharmoniker (1997 Movie Live)


ブロムシュテット指揮のブルックナーの一番優れているところは、如何にも無理な動機は角が落とされずそのままに弾かれることで、ぎこちないように聞こえるのだが、その主題の意味を把握しやすく、奏者もそれなりに意味を掴む。そこを狙う筈のチェリビダッケ指揮が晩年にはあまりにも実った果実からの利だけを求めるようになっていて上手く捗っていないのとは対照的だ。

出掛ける前からあまりにも期待の出来ないこととなったが、初めての管弦楽団であり、意外に手慣れずに苦労して弾いてくれれば面白い ― しかし残念ながら評判は正反対で上手過ぎて適当にこなしてくると聞いている。出掛ける目的は実はほかのところにもあり、先ずは騙されたつもりで車を走らせる心算である。ブルックナーなどは生の音を聞かないと判断出来かねるところも多い。



参照:
蒼空のグラデーション 2018-09-08 | 音
陰謀論を憚らない人々 2016-03-29 | 暦
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杖の無い爺に導かれる

2018-09-18 | 文化一般
水曜日の準備である。先ずはダウンロードしたモーツァルトのK.482を開いて、あれっと思った。そして、適当な音源としてブレンデル演奏の古い録音の方を流した。なにか不思議な感じがする。伴奏のマリナー指揮の幾らかのいい加減さに違和感があるのではなくピアノにも違和感がある。そして気が付いた。二年前に内田光子の演奏でバーデンバーデンで聞いたものだ。勿論伴奏はサイモン・ラトル指揮のベルリナーフィルハーモニカーだった。違和感は、楽譜面に覚えが無いことと、その演奏の両方だった。つまり二年前に楽譜を見ないで若しくは頭に入らずに出かけていたことになる。そう言えば後半の初めての第九交響曲の楽譜面もあまり記憶に無い。いい加減にしか聞いていなかったことになるが、内田光子の方が少なくともこの曲に関してブレンデルよりも良いと気が付いたのは今回が初めてだ。そして水曜日にはブレンデルのお弟子さんと言われる若手がピアノを受け持つ。それにしてもこの曲は思っていたよりも出来が良さそうで、ハイティンクの指揮が一寸心配になる。

同じように心配になる指揮者ブロムシュテットのコンサートも予定が分らなかったので購入していなかったが、決断した。まさか三回も出かける指揮者とは思っていなかったのだが、抗し難かった。先週のインタヴュー記事によると、再びトスカニーニとフルトヴェングラーを並べて、そこにお手本となるブルーノ・ヴァルターについて語っている。その理由は、双方と同じぐらいに良い指揮者で尚且つ自己抑制の出来る人物となる。爺に言わせると、なにもバーンスタインを挙げるまでも無く音楽家などは作曲家でも自己抑制が効かない人物が多いが、その中でヴァルターにはそれが可能で、それでこそ管弦楽団を指揮できるのだという。まさしくマネージメント能力である。逆が真かどうかは敢えてここでは問わない。 

もう一つ、今回のツアーの目玉である作曲家ベルヴァルトについて語っている。ドイツ系の音楽家系でありながら直接の影響をメンデルスゾーンからもシューマンから受けていないという。アイヴスのように独自の語法を持ったアマチュア―作曲家で、所有する木挽水車やガラス工場で生計を立てていて、ベルリンでは整体の研究所を作って、今でもその一部の技術は使われているらしい。だからベルリンでの未知の作曲家の演奏会では地元民が驚いたようだが、2000年まで所属していたゲヴァントハウスの楽員がこの家系の人だったようだ。

更に初耳は、ブロムシュテットと同国人のイングマール・ベルイマンとの一寸した関係で、リハーサルに楽譜を持って来ていたのがベルイマン監督だったようだ。特に映画愛好家ではないらしいが、その細やかな精神生活の描写の一寸したニュアンスに傷心を感じ、お気に入りのようだ。当然のことながらそこに共通する北欧プロテスタンティズムの心情を我々は感じる。そういう音楽なら聞きたいなと思うが、さてどうだろうか。

私自身、ベルイマンやその心情などを思う事があっても、どこかでイライラしてしまう。爺に言わせると自己抑制がならない人間となり、まさしく人種が違うのだ。それ故に余計にこうしたことが語られるととても気になる。特にヴァルターの音楽に関してはそのヒューマニズムが話題にはなっても、自己抑制というのは考えたことも無かった。なるほど、そうした抑制があってこその持ち味なのだろう。それにしてもあのほとんど日が射さないようなところで農業などをしている人はそれぐらいの抑制が無いと暮らしていけないに違いない。ブロムシュテットは殆ど禅坊主のようにしか思えないが、なるほどその禁欲的な生活は自己抑制の延長線上にしかないのだと思うようになってきた。

それにしてもインタヴューアに、「毎年付き合いのある12までの管弦楽団を指揮して回るだけで、更に増やすことは不可能」と答えるこの老人は昨年より益々元気そうで、最早呆れるしかない。それにしてもこの爺は、モーゼの杖が無くても、人を導くだけの力のある人だと思った。そしてバーデンバーデンへと導かれる。元々日程的に厳しいと思っていた訳だが、何とかなると思って、寄付ぐらいのつもりで22ユーロの席を購入した ― 本音は直前になって安い席が発売中止になると手が出なくなることを恐れた。楽友協会での二日目のマティネーはラディオ中継がある。その後ツアーに出て、ベルギー、ルクセムブルクを回ってバーデンバーデンだ。小さなツアーと本人が言う通り、彼にとって何でもないことは最早こちらが分っている。問題は、気力が続くか、私の方である。



参照:
Herbert Blomstedt im Interview „Es ist wichtig, dass wir Farbe bekennen“ (Leipziger Volkszeitung)
一先ず清濁併せ呑もう  2018-09-17 | 音
少しだけでも良い明日に! 2018-09-16 | 文化一般
いぶし銀のブルックナー音響 2017-10-31 | 音
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一先ず清濁併せ呑もう

2018-09-17 | 
昨晩のコンサートのことを思いながら走った。峠攻めで週終りだ。先週一回少なかった分を取り返したのでオーヴァーワーク気味になった。月、水、木、土、日であるから週五日走った。自己記録ではなかろうか。その間の金曜日に10㎞舗装道を歩いているので充分だ。腰が張ってもおかしくないが、何処も悪くは無い。少しはダイエットになったか?来週ぐらい記録を狙えるか?

既に第一報は書いているので、俯瞰的なことを思う。このコンサートの目的であるアピールは、とても考慮した形で発せられた。例えばアジア系の楽員やいつもいい味を出している二番フルートの女性などは弄らずに、寧ろ奥に隠す形で、外国人として挙げられたのもスイス人やフランス人やイタリア人だった。これは、如何にその他の外国人が危険に曝される可能性があるとかという危機感の裏返しで、事の深刻さを強調していた。また少なくともオーボエのフランス女性も乗っていなかったので、ドレスデンではどうなるか知らないが、この企画のあり方が知れる事象だった。当初から伝えられていたように、楽員内ではこのアピールに関しての抵抗は想定していたよりも薄くて、あっても少数派であったのではないかと感じた。これは印象である。

ブロムシュテット爺の講話の内容とプログラム選択への説明は想定内であったが、この人が麻薬の話しをするとどうしてもバーンスタインについて語った内容も思い出す。バーンスタインの全てを受け入れての発言だった訳で、逆にこの人のその禁欲的な人間性が浮かび上がる。そのベルリオーズの幻想交響曲の内容と同時に作曲家の所感を扱った当晩のプログラムの内容に交えて、簡易ながらもベートーヴェン若しくはメンデルスゾーンと対比させることでの古典からロマン派への流れ、もう一つそこにトスカニーニとフルトヴェングラーを対比させていて、この指揮者のその見解がそこからも見える。音楽学者志向だったこの指揮者の本望であり、それがこのコンサートのアピールとして出された事になる。

つまり、モットー自体は「今日よりも少しでも先に進む明日へ」の進歩主義がそこにあるのだが、このキリスト者はそれを錦の御旗とはしない。伝道師にありがちな押し付けがましさをそこに感じさせない。それどころか、異質なものまでを受け入れる清濁併せ呑むの度量を示している。これこそ当該の社会事象を解決する唯一の選択なのである。深読みすれば、あのAfDの連中に踊らされている良心的な市民はその寛容性に欠けていると言っている。ここで第二回のドレスデンでのブラームスのプログラムとその第二回講話の内容が推測可能となる。

折角ゲヴァントハウスとベルリンの両方で振ったフルトヴェングラーへの言及があったので、その響きなど音楽オタク話題にも触れよう。ブロムシュテットは、予てからそれをして全てがロマン的な響きを求めることにあったとそのフルトヴェングラーの音響重視を示唆しているが、この夏以降演奏界のトレンドな話題となったのがまさしくその響きの意味を再考することにあった。もう一つ挙げられたコムパクトな響きは、残念ながらブロムシュテット指揮には求められないが、それが出来ていた指揮者は意外に少ないことにも気が付く。ベームの後の世代ではシュタインとかザヴァリッシュとかはどうだろうか。最近ではラトルが意外に出来ていたのではなかろうか、ここでもそれに対するようにフルトヴェングラーのロマンの響きが挙がるのかも知れない。ヨアヒム・カイザー教授が言っていたように、戦後のフルトヴェングラーにおいては緩む時があったとするのはまさにこれが上手く行ったり行かなかったりの事に相当するだろう。後年まで「指輪」を苦手としていたのにも関係するかもしれない。ある意味古典的若しくは新古典的な音楽語法にも関連するだろうか。

要するにペトレンコ指揮の新生べルリナーフィルハーモニカーに求められているのはこの両面である。そのコムパクトさに関しては問題は少ないが、如何にドイツのサウンドを確立して行くかにある。それで思い出したが、ライプチッヒの会場のプレス席には、「ペトレンコはユダヤの小さなグノーム如きで、アルベリヒのようだ」と罵ったヴェルト新聞のヘイトバカ男がいた。そして喝采していた。まさにあの男こそが反ユダヤ主義の人種主義者だ。あの会場のスタンディングオヴェーションには偽善がありその濁が混ざっていて如何に蒸留水ではないかが証明されている。一先ず清濁併せ呑んでおこう。



参照:
Konzert für ein friedliches Miteinander (Arte)
少しだけでも良い明日に! 2018-09-16 | 文化一般
コールタールピッチ 2004-12-29 | 歴史・時事
ふれなければいけない話題 2015-06-29 | マスメディア批評
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