Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2005年3月 

2005-03-31 | Weblog-Index


古代戦争遺跡の山麓から [ ワイン ] / 2005-03-31 COM0, TB0
朕強クリースリングヲ欲シ [ 歴史・時事 ] / 2005-03-30 COM3, TB1
アルペンスキー小史 [ アウトドーア・環境 ] / 2005-03-29 COM8, TB2
リスト更新と過去リストの保存 [ Weblog ] / 2005-03-28 COM0, TB0
汗と涙のチーズ味 [ 料理 ] / 2005-03-27 COM0, TB0
楽のないマルコ受難曲評 IV(15.14-15.47)[ 生活・暦 ] / 2005-03-26 COM0, TB0
楽のないマルコ受難曲評 III(14.45-14.72)[ 生活・暦 ] / 2005-03-25 COM0, TB0
楽のないマルコ受難曲評 II(14.18-14.44)[ 生活・暦 ] / 2005-03-24 COM0, TB0
影に潜む複製芸術のオーラ [ 文学・思想 ] / 2005-03-23 COM11, TB4
楽のないマルコ受難曲評 I(14.1-14.11)[ 生活・暦 ] / 2005-03-22 COM14, TB2
旬のフェンネル [ 料理 ] / 2005-03-21 COM4, TB0
ヘンデルの収支決算 [ 歴史・時事 ] / 2005-03-20 COM3, TB0
門前の小僧、高級ワインを語る [ ワイン ] / 2005-03-19 COM2, TB0
水車小屋の娘の陽気な鱒 [ 生活・暦 ] / 2005-03-18 COM0, TB0
序 トロージャンの不思議 [ 数学・自然科学 ] / 2005-03-17 COM6, TB2
ベッティーナ-七人の子供の母 [ 女 ] / 2005-03-16 COM8, TB0
お宝は流れ流れて [ 文学・思想 ] / 2005-03-15 COM8, TB2
ドイツ鯉に説教すると [ 文学・思想 ] / 2005-03-14 COM9, TB1
飛び地に生きるロマンシュ語 [ 生活・暦 ] / 2005-03-13 COM0, TB0
アマデウス君への反対尋問 [ 文化一般 ] / 2005-03-12 COM9, TB3
Fontina Val d'Aosta [ 料理 ] / 2005-03-11 COM2, TB0
滑稽な独善と白けの感性 [ 歴史・時事 ] / 2005-03-10 COM8, TB2
高みからの眺望 [ 文学・思想 ] / 2005-03-09 COM6, TB2
ワイン三昧 第三話 2005年版 [ ワイン ] / 2005-03-08 COM0, TB0
ワイン三昧 第一話 2005年版 [ ワイン ] / 2005-03-07 COM0, TB0
ドイツワイン三昧 第一話 [ ワイン ] / 2005-03-07 COM0, TB0
われらが神はかたき砦 [ 文学・思想 ] / 2005-03-04 COM4, TB2
マルティン・ルターのグロテスク [ 文学・思想 ] / 2005-03-03 COM2, TB3
試飲百景-深い香りの中で [ ワイン ] / 2005-03-02 2005-03-01 COM3, TB1
新しいぶどう酒を - 断食についての問答から [ ワイン ] / 2005-03-01 COM6, TB0

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古代戦争遺跡の山麓から

2005-03-31 | ワイン
ギリシャの赤ワインを飲む事が出来た。アテネの西側に位置する更に大きい半島ペロポネゼの東側に位置するネメア産の2000年ワインである。海抜200メートルから800メートルにワイン畑が広がる。この山がアトス山である。ここの山腹のその中でも450メートルから600メートルの間に育つワインが好いらしい。何故ならば、低地は温度が高すぎて葡萄の糖価が高すぎで、高地は酸が強すぎるからだ。

ワインの種を、アイオルィティコとかセント・ジョージとも呼び、カベルネ・ソーヴェニオンとミックスしているようだ。だから色合いは濃いパープル・ルビー色系だが、香りは寧ろブルゴーニュに近い。味は、陽が強くとも繊細さを残すプロヴァンス産からピエモンテ産に似ているが、料理に負けない強さがある。後味などもレマン湖周辺のワインのように広がらず集中している。全体に固さはないが、卵臭さが少しあり透明感を薄めた。しかし質は非常に高い。

これに合わせて、食事はギリシャ風肉の煮込みスティファドを準備した。特に子牛肉を使ったので、ハンガリーのグーラッシュとは違い重量感が無くて上品である。ブルゴーニュ料理の鳥のワイン煮よりも繊細かも知れない。予め、ロリエやシナモンを赤ワインに入れて肉を付け置いたので、オリーブオイルの香りと合わさって、このワインに好ましいアクセントを与えた。
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朕強クリースリングヲ欲シ

2005-03-30 | 歴史・時事
パリでリースリングが最高の評価を受けたようだ。フランスで最も権威のある二人のワインジャーナリスト、ミシェル・バターニュとティリー・デスーヴの両名は、外国産ワインとして2002年モーゼルのワインを、国内産として2003年シャトー・ラトューとシャトー・ディケームを2005年の世界最高ワインとして選んだ。この選に漏れたのは、イタリア、南アフリカ、カリフォルニア、スペイン、イタリア産の殆んど礼賛されているワインである。

ドイツワインのフランスにおける冷遇は、世界市場でのそれに影響している。ここに、政治文化的な独仏関係が影を落とす。これは、ボルドーなどで訊ねたワイン関係者も同様なことを口にする。特にドイツのリースリングやワイン栽培に詳しい者は、「私は、ワインに関しては愛国者だ」とはっきりと言う。彼女が言いたい事を代弁すると、「リースリングが特別な白ワインだと承知しているが、アルザスのリースリングもある訳で、何もドイツのリースリングを貴重がることは無い」と言う事になりそうだ。

実際、アルザス産リースリングもパリにはあまり出荷されないという。ピノ・グリやゲヴュルツトラミナーを出荷すれば事足りるからという。フランスの白ワインも勿論優れたものは多いが、このリースリング種の強い個性を敬遠する心理が何処かに働いているようである。そして、モーゼルだけでなく中部ラインやプァルツのライン渓谷の土壌、風土や歴史的関係を無視する事は出来ない。歴史を手短に覘いて見る。

プァルツ伯フリードリッヒ五世は、自治が進んだプロテスタント側の首領としてプラハへ兵を送りボヘミア戦争を引き起こす。これが欧州を広範囲に戦場化した三十年戦争(1618-1648)の幕開けである。彼のハイデルベルグ城の庭は、観光ガイドから説明を受ける様に、彼が妻のエリザベト・スチュワート-英国の芝居等で最も有名なマリア・スチュワートの孫-のために改造したものである。この二人の間に生を享けたカール・ルートヴィッヒは、戦後にヴェストフェーリアの講和によってプァルツ選帝侯に復帰して領地を立て直す。しかし彼は戦略長けすぎて、娘シャルロッテを、太陽王ルイ14世の弟、オルレアン公と結婚させる。この事が裏目に出て1685年の選帝侯の死後、様々な圧力を受けてプァルツ継承戦争へと繋がっていく。

太陽王ルイ14世は、既に神聖ローマ帝國からアルザスやロレーヌでの覇権を獲得しているので、ライン河西岸の地域に興味を持った。そうして「リースリングワインの産地を手に入れよう」とプァルツに兵を進める。これはどの歴史書にも見付からないかもしれないが、これには 不 確 か な 根拠がある。それは、ハンガリーのトカイワインを絶賛したという王の嗜好だけでなく、アルザス・ロレーヌ地域における淡水魚の広大な養殖池などの整備や大西洋の経済領海権問題に見る食料生産のルイ14世もしくは宰相コルベール(1619-1683)の政策である。土地を征服する時に、戦略以外に経済を考えたのは当然であろう。しかし実際は、「Brulez le Palatinat/プァルツを焼き尽くせ」とフランス軍将軍マラックが言ったように三十年戦争でも温存されたワイン栽培を含めてプァルツは焦土化*した。こうして重要な側近が居なくなった後、反仏大同盟となった諸国と向かい合い戦う膨張政策が財政難を招いた事は教科書に書いてある通りである。

ワインは、歴史の中でもその土地や風土と結びついて文化となっている。独仏におけるワイン競争は、現在でもその守っていかねばならない文化と同一市場での自由競争という相反する要素の相克でしかない。



* 1689年5月31日、城壁の町フラインスハイム外れから、マンハイム、ハイデルベルク方面を望む。左よりベルクシュトラーゼのオッペンハイム、荘園の町ヴォルムス、神聖ローマ皇帝ドームのズパイヤーに煙柱が昇る。この町も四ヵ月後に壊滅する。近隣の多くの町の住人は、近くの砦に逃げて篭ったという。
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アルペンスキー小史

2005-03-29 | アウトドーア・環境
冬季スキーシーズンの終了を期して、アルペンスキー・アールベルク・テクニックの祖ハーネス・シュナイダー氏のことを調べると、面白い事が出てきた。

先ずは、1880年にノルディックスキーを使ってノルウェーのカイザーパスが英国人ウィルアム・セシル・シングビーによって越えられている事。その後ドイツ人パウルッケによって、ベルナーオーバーランドがノルディックスキーで縦断される。一方グリーンランド探検などに続いて、欧米ではスキー技術が軍事的な興味も持たれるようになる。同時にスキー・ツーリズムの幕開けである。1890年代にはミュンヘンなどにスキークラブが出来て、1894年にはオーストリーの最高峰グロースグロックナーに近いゾンブリック(海抜3103メートル)がスキーで登られている。

1903年には、ベルナーオーバーランドのアーデル・ボーデンで初めてのスキーパック旅行がサー・ヘンリー・ランの下に企画されている。アルペンスキーの大きなレースは、1911年にシオンの谷のクランモンタナで、カンダハー伯の主催で開かれている。これが有名なカンダハーの滑降レースとなる。それは1922年の初のスラロームレースへと引き継がれていく。

因みに愛称ボブスを持つロバーツ オブ カンダハー伯(1832-1914)は、イートン出身の軍人で長くアフガニスタン、インド、南アフリカに駐屯しており、ここからアフガニスタンの土地の名の伯号を授かった。有名なザンクト・アントンのカンダハーのコースはここから名付けられた。これで、アフガニスタンとアルペンスキーの奇妙な関係が解明出来た。

そしていよいよ1928年には、ハーネス・シュナイダーによって滑降とスラロームの統合が図られたとある。つまり、滑降技術と回転技術の統合が試みられ複合競技が開催されたと考えてよいだろう。その技術は、シュテムターンとジャンピングターンである。そこでは深い姿勢でのシュテムクリスチャニアが最終的な目標となっていた。

ハーネス・シュナイダーは、ファルガの頂上から真っ直ぐに長い谷を下った西側の小さな村ステューベンに1890年に生まれ、1900年ごろからスキーを初め、1905年には土地のスキー学校の共同経営者になっている。その後、アーノルド・ファンク博士の映画で見事なスキー技術のみならず登山技術を披露して、レニー・リーフェンシュタール等と度々共演している。

1930年には、玉川、成城学園の招きで日本でデモンストレーションを行っている。その年に「白い雪煙」が撮影されているので、帰国後に撮影したのだろうか。何れにせよ、積雪期であり登山技術のデモンストレーションは行われていない。彼が華麗なアイゼン技術を伝える環境は無かったと言える。1938年に家族揃って米国に招かれ、ニュウハンプシャーでスキー学校を開き、1955年の4月に心筋梗塞で世を去っている。時代背景もあろうが、その後のオーストリー・アルペンの大スター、トニー・ザイラー氏やカール・シュランツ氏が其々故郷キッツ・ビューエルでスキー学校を、ザンクト・アントンでホテルを経営しているのと対照的である。

アルペンスキーの技術は、数年前まで大なり小なり彼のテクニックが基本になっていたのだが、カーヴィングスキーが登場してからはそれが不要になってきた。ここ数年の内に、その技術を一切教わらなかったスキーヤーが大半を占めてくると思われる。この間80年の年月が経過した。体が忘れないうちに不完全に習得したその古い技術から新しいカーヴィン技術への移行を体で反復練習しなければならない。畳の上の水練ならず、壁引っ張り内足過重をする今日この頃である。


参照:
汗と涙のチーズ味 [ 料理 ] / 2005-03-27
映画監督アーノルド・ファンク [ 文化一般 ] / 2004-11-23
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リスト更新と過去リストの保存

2005-03-28 | SNS・BLOG研究
常連コメンテーターリストを更新した。さらに過去分完全リストを、フルタイトル且つサブタイトルを付けて記録する事が出来た。アクチュアルなリストでは、フルタイトルが掲載出来なかったお詫びとして理解して頂けると思う。過去分の記録保存と掲載によって、リストの更改が未練無く出来るようになったのも付随効果だ。

今回の対象期間は2005年1月から3月までである。前回と同様に複数回のコメント投稿を第一の基準に、先方で交流が有った場合等も補填算入した。当然の事ながら新たなコメンテーターの掲載は、何よりも喜ばしい。それに劣らず継続した交流を確認出来たのも嬉しかった。そのような交流の続いているリンク先も、基準を前提に一部を入れ替えた。過去リストにこうして蓄積させて行きたいとの考えと、出来るだけ多くのサイトをリンクしたいとの意図からである。こうして、タイトル名称変更も含めると全体の三分の一の11件が新掲載となる。

過去リストは、常連コメンテーター(歴代完全リスト)をクリックすると開く。今回の作業で、全てのサイトはリンク切れで出ない事も確認した。そのような無礼の申し訳として、前回のご挨拶をここに繰り返す。

この間の訪問と支援に改めて御礼申し上げます。そしてこのようなリストアップが全てのブロガーさんにとって心理的圧力にならない事を希望します。ブログにおいては新たな遭遇は、継続的な交流以上に重要と考えるからです。掲載方法もしくは採択等に不都合があればご指摘ください。
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汗と涙のチーズ味

2005-03-27 | 料理
フォア・アールベルク地方のチーズ、ベルク・ケーゼを試す。フォア・アールベルクは、オーストリー連邦の最も西に位置する州である。チロル地方とはアールベルクと云う山塊を挟んで峠越えを余儀なくされるので、言語文化的に西に開くボーデン湖に面するスイスやドイツに近いといわれる。アルマン語に含まれる。

アールベルク山塊は、アルペンスキーヤーのメッカ、ザンクト・アントンなどを有する。ここのスキー学校は、山の中腹にあるザンクト・クリストフの連邦スキー指導者養成所と並んで世界中から求道者が集まる。このスキー学校アールベルクは、近代スキーの祖ハーネス・シュナイダー氏によって1921年に開校された。初心者から深雪フリークのオールランダーまでがここで技を磨く。特にボーデン湖の水気をたっぷり含んだ重く分厚い深雪と、トリッキーな斜面は変化に富んでいて腕自慢たちを飽きさせない。毎朝九時過ぎに行われるクラス分けテストでの教師の見極めも流石で、的確な指導が受けられる。ドイツ語圏だけでなく世界中から集まる老若男女の生徒が繰り広げる、雪上の切磋琢磨と人間模様はお楽しみである。何日か同じ顔ぶれで滑ると、何時の間にか旅行同行者の存在を忘れて授業に興じてしまう。昨日の筋肉痛を気にしながらのバスや徒歩での毎朝の通学風景と新入学テスト風景は圧巻である。

空いている時期には、指導者養成所の名人が滑っているのを見かける。ファルガ頂上直下の岩に囲まれた細い樋を、ヴィデオ等で見かける有名デモンストレーターなどが見事に滑っている。そこから最も下の谷の町へと一気に降りるピステは、結構長く地形が素直でない。雪面の状態によっては手応えがある。頂上岩壁を回りこんで、春先のオフピステの重い雪を滑っていくのも骨が折れる。いたるところ癖のある斜面は、冬でも実力を如実に映し出して誤魔化しが利かない。

町へ至る峠の道や、トンネルの入り口でチェーンを着脱する風景や、夜の雪景色、吹雪の中の授業、和気合い合いの昼食風景が思い浮かぶ。青春時代の回顧の様である。その麓のチーズの方は、ベルク・ケーゼにしては油性勝ちで柔らかく、少しアッペンツェーラのように周りのカビが匂う。それを齧りながら、何度も通ったフォア・アールベルク地方の日々を懐かしむ。汗と涙のスキー学校の味である。今日も多くの新入生達が集っているだろう。
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楽のないマルコ受難曲評IV(15.14-15.47)

2005-03-26 | 
次節からマルコスの福音では15章、マテウスの福音では27章へと入っていき、愈々復活を待つのみとなる。マテウスでは、「私のイエスを返せ」、コラール「汝の道を、主の導きにゆだねよ」(パウル・ゲオハルト詞、ハンス・レオ・ハスラー曲)、「これはなんという不思議な罰か」(へールマン詞、ヨハン・クリューゲル曲)、アリア「愛ゆえにわが救い主はしにたもう」、レチタティーヴォ「なんという不憫な」、アリア「私の頬の涙が」、コラール「血潮したたる主のみかしら」(パウル・ゲオハルト詞、ハンス・レオ・ハスラー曲)、レチタティーヴォ「もちろん私たちの肉体と血潮も」、アリア「来たれ、甘い十字架よ」、レチタティーヴォ「ああ、ゴルゴタよ」、アリア「見よ、イエスは御手を」、コラール「わたしがいつかこの世を去るとき」(パウル・ゲオハルト詞、ハンス・レオ・ハスラー曲)、レチタティーヴォ「ゆうべ、涼しくなって」、アリア「わが心よ、汝を清めよ」、レチタティーヴォ「いま主は憩いにつかれた」、終合唱「われらは涙ながらここにひざまずき」となる。

寄り道はこの辺りにして、正しき道「マルコスの福音による受難オラトリオ」に戻ろう。

15章14 民衆がヒステリックに泥棒のバルバラを恩赦にして、イエススの方を十字に架けろと叫ぶ。「何と言う気持ちの良い雄叫びよ。イエススは十字架で死ぬのだ。これでわたしは堕落から救われて、呪わしさからも解放される。十字架と苦悩を平静に喜んで忍ぼう。」。ここへ来て、殆んど皮肉は逆説へと至る。嘲笑も暴力も全てはカタルシスへの前章となる。

15章19 兵士はイエススに紫の服を着せ、茨で編んだ冠をかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたいたりした。「あなたを厳しく崇め、嘲笑した。茨の冠、何があなたをこのようにした?私に名誉の戴冠をして、私を喜ばせたもう。何度も何度もありがとう。愛しい、イエスス。」。ルサンチマンの発露と言いたいのだろうか。ここで何かが開放されていることは確かである。深読みしたくなる。原曲:エルンスト・C・ホムブルク(1605-81) 詞、ダルムシャタット聖歌集1687。

15章23 イエススをゴルゴタの丘に引きつれ、ぶどう酒を飲ませようとしたが、受け付けなかった。それから十字架につけ、イエススの服を分け合った。「彼らが放った言葉は、礼を示すものではない。私たちは予定通りに進む。霊と恩恵を持って、わたしたちから彼の肉体を奪い取る。良いも、若きも、進もう。彼らは何一つ得ることなく、天の国は我々の所に定まる。」。深読み序でに、奪い取ったのは肉体だけでないようだ。すると、わたしたちのところに残るものは?

15章34 イエススは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのでしょうか。」と大声で叫ぶ。「神は、信じるものは誰をも見放さない。神を呪う者には同情は起きない。神は、彼を護り最後に取上げる。神は、何処そこで必要なものを給う。」。ここでも福音の最後の言葉の翻訳に直接答えて、厭世観を戒める。信仰が残るようだ。原曲:ヨハン・クリューゲル詞、BWV 369。

15章37 イエススは大声を出して息を引き取った。「天地は、イエススが大声で叫ぶのを聞いた。全ての罪を告知した、全ては為された。我々が失ったエデンを打ち立てた。」。わたしたちは聞いた。耳をふさぐ事も目を背ける事も出来ない。為されたことを有りの侭に受け入れなければならない。そして今も何処にもエデンの園が現存しないこと知る。

15章45 イエススの遺体をヨセフに引き取らせる。「イエスス、あなたは私の助けで安らぎです。涙ながらお願いします。墓場まであなたをお慕い出来るようにお助け願えることを。」。涙を流してカタルシスは為され、平安な精神は永遠の安寧を求める。原曲:ヨハン・リスト(1607-1667)詞。

15章47 墓の入り口には石を転がしておいた。マグダラのマリアとヨセフの母マリアとは、イエススの遺体を納めた場所を見つめていた。「あなたの墓と石に私はあなたを偲びたい。あなたの受けた苦悩への心から喜びと感謝の気持ちです。見て御覧なさい。これがあなたが持つべき石碑です。ここに、あなたが私の中に埋葬した私の罪と苦難を示します。」。ここまでの過程を踏まえて終曲合唱は、内面を意識させる事で再び懐深く問うて来る。個人の良心に直接に働きかけ、当然の事ながら善悪入り交ざった様相を意識下へと引き出す。

以上、試みたテキストへのコメントは不完全なものであるが、併記したマタイ受難曲との比較などに少し手間を厭わなければ、マルコ受難曲の面白さを理解出来ると思う。想像されるバッハのオリジナルの作曲は、決してマタイのような大曲ではなかったようで、多くが以前の作曲のパロディーとなっていただろうという。コラールが多いのも特徴で、始めに示したように両現存の受難曲とは全然違う使用方法が試みられていた筈だ。コラールの使い方は、福音の内容と進行から見ると自ずと定まってくる。さらにそれとは別に、現存するヨハネ受難曲における16分音符の同一音形での統一や、マタイ受難曲における二群の合唱の利用などと同様の新機軸が施されていただろう。現存する二曲の、前者では相続保管した前古典派の次男カール・フィリップ・エマニュエルの痕跡を完全に取り除く事は難しいようで、また後者の蘇生の大成功は19・20世紀の解釈を付け加えた。それからするとマルコ受難曲で行われているような復元なども実際に響く音楽としては然したる問題はないと考える事が出来る。何よりも現代的な感覚でバッハに接する事に意味があると思う。

始めに申し上げたように、学が無いので極力宗教的な解釈に抵触しないように留意したがコラールでの聖歌の引用やパロディーが多く些か荷が重すぎた。それどころかその一部の歌詞は、今日神学上議論されている事を知る。向こう見ずな試みであったが、予てから気になっていたコラールの原曲を併記する事が出来て、いよいよプロテスタント音楽のバロックからルネッサンスへの渡しが見えてきた。

聖金曜日の今日は、雲が高みに静止して時間が止まったような薄曇であった。


参照:滑稽な独善と白けの感性 [ 歴史・時事 ] / 2005-03-10
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楽のないマルコ受難曲評III(14.45-14.72)

2005-03-25 | 
さあ、更に先へ行こう。その前に、冒頭のコーラスからしてマテウスと大きく違うことだけでも注意を促したい。俯瞰して分かるのは、声の扱いである。二律背反を内抱してモノドラマを生むマテウスに比して、マルコスでは自己矛盾を既知としてそれを放置する。そこには前者で見られるような厳しい自己葛藤は存在しない、そこには有りの侭を受け入れて率直に表現するおおらかさがある。だから張り裂けような心情を吐露するマドリガルのアリアも明らかに少ない。その深刻さから開放される分、至るところで皮肉に満ちた警句が鋭く覚醒を促す。

14章45 ユダスは、逮捕の合図にイエススに先生と二度呼びかけ接吻をする。アリア「偽りの世界。うわべだけの接吻。敬虔な精神の毒である。お前の舌は、突き刺さる。語った事は全て唆しだ。」。辛辣な責めではあるが、その偽りの世界こそが我々の住む世界であると言われると苦笑せざる得ない。胸に棘が突き刺さる。

14章49 イエススは逮捕劇に遭遇して、これは聖書の言葉が実現するためであると言う。「イエススは罪状無くして、楽園においでになる。悪を敵とする時にはあなたと確り結びつこう。罪を背負って、友として傍にいて頂ければ、きっと糸口は見付かろう。」。贖罪の使命を得たことで、友人としてそしてその結びつきで、楽園をも現出させると言うのだが。前節で刺さった棘がここへ来てずきんずきんと熱を持って疼き出す。本当に糸口はあるのだろうか?

14章52 素肌に亜麻布をまとってイエススについて来ていた若い男は、捕まりそうになると裸で逃げ出してしまう。「お気持ちが散り散りになろうが、お顔が蒼白となろうが、私はお傍にいます。どうか置いて行かないで下さい。最後の磔の一突きまで胸に抱きかかえていとう御座います。」。不信だといっても裸になって逃げて行く所も無い。ならば、最後の一突きまでつきあうぞという覚悟である。肝が据わると、随分と落ち着いてくるものなのだ。原曲:パウル・ゲルハルト(1607-1676)詞、ハンス・レオ・ハスラー(1564-1612)曲。

説教: バイロイトの教会から独TV第一放送が、プロテスタントの聖金曜日の礼拝を中継した。病むものや津波やテロ等のカタストロフ被害者への配慮とともに、強調されていたのはイエススの死との一体感を持って、その復活で恐らく得られるであろうものである。パウルスの恐怖心を与えない配慮ある言及や教会にある洗礼台や秘宝に纏わる話などを交えて進める。進行に合わせて、福音教会の賛美歌が歌われるが、カンタータからと二曲取上げられたバッハの曲とは音楽的に一線を隔していた。特に、マルコスによる福音朗読に続いて歌われた、有名なハスラーの聖歌はバッハのマルコ受難曲として扱われ、第二節まで歌われていた。

ダカーポ・アリア。「私の慰めはもうない。イエスス、あなたを失わなければいけなかったのか。没落を見て、没落へと導く為に?苦しみだ。穢れのない無実の子羊は、正しからざる教義に、死刑を言い渡されて。」。不条理な世界を現出させる事によって、実存しない条理を描くと言う否定的弁証法の叙述法が使われる。

14章56 多くの者がイエススに対して偽証をしたが全ては食い違っていた。「人の力や警句が辿り着くものには、ちっとも驚かない。彼らがそれに賢明に取り掛かるとき、最高に位置に座する者は、その決断を掘り起こす。そのようにして神は、御心に従って違う方へと進まれる。」。勿論ここではユダヤ法定を扱っていたが、法学の素養のある若きピカンデル君は法律論を考えていたようである。更に恐ろしい事に、ここまで綴ってきた自己のテキストにも再び懐疑を向ける。それを受ける読み手の反応も読み込み済みである。裁かれる所に正義あり?

14章61 大司祭はイエススに証言の信憑性を訊ねるが、イエススは答えなかった。「あなたは、心から苦しむあなたの道を歩みます。最も誠実な御心は、天を導き、雲に、大気に、風に、道を与え、連なり、筋をつける。あなたが歩いていくところに、道を見出します。」。自らへの疑心をも超越して、道が開いて行く。少なくともこの軌跡が何となく確からしいという様子である。原曲:パウル・ゲルハルト(1607-1676)詞、ハンス・レオ・ハスラー(1564-1612)曲である。マタイにおいて15、17番のコラールで使われているものである。

14章65 民衆は、イエススを死刑にすべきと、目隠しをして、唾を吐き、殴りつけ、嘲笑する。「直面している、高貴なあなたは、驚き、恐れる。偉大な法廷で唾をかけられ顔色も無い。あなたの比較を超える眼光をだれが持っているだろう、誰がこの冒涜に値するというのだ?」。裁かれるものを裁く。誰が裁くに値するのか?これも、ハスラーの上の曲で歌われる。原曲:パウル・ゲルハルト(1607-1676)詞、ハンス・レオ・ハスラー(1564-1612)曲。

14章72 弟子ペトロスが、鳥が二度無く前にイエススを三度知らないと言ったことに気がついて、わっと泣き出した。「主よ、間違いを犯しました。罪は私に重く圧し掛かります。私はあなたが示した道を誤りました。そして、恐れを持ってあなたの怒りから隠れたく思います。」。私達は誰かを裁く必要すらないのである。間違いを犯したことのない者、道を間違えた事のない者、一体何処にいるのだろう。原曲:ヨハン・フランク(1618-1677)詞、ヨハン・クリューゲル(1598-1662)曲。

マルコスの福音14章45節から最終節までに当たるのが、マテウスの福音26章49節から最終節である。この間歌われるのは以下のようなテキストである。アリア「かくして、わがイエスは捕われたもう」、コラール「おお人よ、汝の大いなる罪に泣け」(シュトラスブールの聖歌、ゼーバルト・ハイデン曲)、アリア「ああ、イエスは連れて行かれる」、コラール「この世は私に偽りの裁きを課した」(アダム・ロイズナー詞、ゼテイウス・カルヴィシウス曲)、レチタティーヴォ「わがイエスは不実の証言に黙したもう」、アリア「ただ耐え忍べ」、コラール「だれがあなたをそのように打ちすえたのか」(パウル・ゲルハルト詞、ハインリッヒ・イザーク曲)、「憐れみたまえ、わが神よ」、コラール「たとえいちどはあなたから離れても」(ヨハン・リスト詞、ヨハン・ショップ曲)。(IV へ続く)

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楽のないマルコ受難曲評II (14.18-14.44)

2005-03-24 | 
マタイオスによる福音の方では、26章1節に始まって16節までに相当する。そこでは、冒頭の二群合唱に始まり、コラール「心から愛するイエスよ、あなたは何を犯されたのか」(へールマン詞、ヨハン・クリューゲル曲)、レチタティーヴォ「愛する救い主よ」、アリア「悔いと悩みが」が歌われる。

さて、マルコスに戻って先に進もう。

14章18、19 イエススが都で弟子たちと食事を摂っている時、この中の一人が裏切ると言うと、弟子達は銘々、私ではありませんねと言う。「私、私の罪、海の砂の如く、この小粒の砂があなたを困窮に追いやり、それが贖罪のあなたを悲しくさせます。」。私、そうあなたですと言われると、やすやすと否定出来ない。千丈の堤も蟻の一穴。ヨハネ受難曲の11番コラール「だれがかくもあなたを打ったのかと」の第二節の歌詞である。

14章25 イエススは、神の国で新しいものを飲むまでは葡萄の実で作ったものを飲むことは決してないだろうと言う。ダカーポアリアで、「主よ、忘れません。心に刻みます。私は、あなたの体と血を享受して、その慰めはあなたに向けられます。」。微かな記憶に呼びかける。体のどこかで覚えているあの懐かしい何か?世界との繋がり、パンの香ばしさワインの芳香。だから全ての慰めは感謝となる。

14章27、28 イエススは、お前達弟子は離れていく、「私は羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう。」と書いてあるからだ。しかし復活後にはガリラヤにはお前たちより先に行くと言う。「人類よ。目覚めよ。罪深い眠りから。元気を出せ。喪失の羊。改心せよ。時は来た。永遠の時が、あなたへの褒美として。今日が最後の日かもしれない。死がどのように訪れるか誰が知ろう。」。日常の生活からの覚醒を迫る。言えば、健康体であろうとも誰もが、突然訪れる死への恐れをもって生活しているわけだ。通勤中に、ルーティン化した生活の中ではたとそれに気つく。さてその意識がどちらへと向けられるのだろう。

14章34 イエススは、「私は死ぬほど悲しい。ここにいて、目を覚ましていなさい。」と言うと、「悲しい心は、未来に希望がある。あなたは、少しも怯まない。あなたの磔も苦難も嘆きも、全ては間もなく明らかな喜びに変わるのです。それを間近に控えています。」と歌う。死を恐れ悩みつつの行動は人に確信を与えるのか?復活を知っているからなのか、天上の喜びか?確信をもって励ましを語るものは、何を知っているというのか?ただ、私たちが知っているのは間もなくやって来る時である。

14章36 イエススは、「しかし、私が望むことでなく、お望みになることが行われますようにと」祈ると、「神よ、私ともども御心のなすままに、苦しむ私をお助け下さい。願う限りは叶わぬ事はありません。もし私の心が離れるならば、どうかお好きなように。終わりよければ、全て良し。」。分からないから、身を投げ出してみる。あるがままに受け入れられれば終わりが良いのか、終わりが良いから苦悩から開放されるのか?

14章42 イエススの「私を裏切る者がやって来た。」に対して、「来た。そこだ。イエススよ、追手は迫っている、逃げろ。そしてあなたの代わりに、一網打尽にしておくれ。」。気を揉んで逃げろと促すのは良いが、身代わりになろうというのは本当だろうか。どうも歯切れが悪い。

ここまでが、マタイオスの福音によると26章46節までである。マテウス受難オラトリオでは、アリア「血を吐く思いを心に噛みしめよ」、コラール「罪を償うべき者は、この私」(パウル・ゲオハルト詞、ハインリッヒ・イザーク曲)、レチタティーヴォ「わたしの心は涙にむせんでも」、アリア「私の心を主に捧げよう」、コラール「私を認めたまえ、わが守護者よ」(パウル・ゲオハルト詞、ハンス・レオ・ハスラー曲)、「わたしはここで、あなたのそばにとどまる」(パウル・ゲオハルト詞、ハンス・レオ・ハスラー曲)、レチタティーヴォ「ああ、なんという痛み。もだえる心は、ここにおののく」、アリア「わたしは、わがいえすのそばで目をさましていましょう」、レチタティーヴォ「救い主は、御父の前にひざまずきたもう」、アリア「喜んで、わたしは覚悟しよう」、コラール「神の御旨が、つねに成就せんことを」(ヨアッヒゥ・マグデブルク詞)となる。(IIIへ続く)

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影に潜む複製芸術のオーラ

2005-03-23 | 文学・思想
レコードプレーヤーを買う羽目になった。10年ほど前にリゾースを生かすために購入したプレーヤーが故障したからだ。時間があれば直してみるが、修理しても更にこの先10年間安心して使える代物ではない。最後のプレーヤーと思っていたが、そうはならなかった。

実はその後もLPレコードを新中古市場で入手した。特別の興味は無かったのだが、序でがあれば立ち寄って漁った。ある店で自分の選んだ分を横に置いて確保していると、今は亡き名ピアニストらしきが孫娘を連れて来て漁りだした。嘗ての共演者や同僚のものを選んでいたと思う。あまりに大物過ぎて楽器屋の店の者も気がつかなかったようで、本人にも尋ね辛らかった。そのヴィーン訛りが今も耳に残っているが未だに半信半疑である。店を一歩外へ出ると、玉ねぎ双頭の塔がくっきりと静かな影を投げかけ、広場はひんやりとしていた、ある夏の午前中であった。

そのような趣味の世界は過去のものであるが、以前に上手く鳴らなかったLPについ針を下ろしてしまう。つまり様々な編成の優れた録音内容を、白昼の下に 曝 し た い のである。そして気がついたのは、この新しいプレーヤーはそのような場合にありがちな摘み聞きを許さない。例えばピアノのタッチが活き活きして来て急に音楽的に鳴ってしまう。オーディオ機器でオルガンを鳴らすことも難しいのだが、柔らかなペダルや楽器のレジスターを可笑しな程に生々しく再現する。生の奥ゆかしさがある。だから内容を聞いてしまう。つまらない内容のものは、直ぐに弾きだされる。

往時のオーディオ雑誌を模倣すれば、ターンテーブルやトーンアームや箱の共振が再生周波数に肯定的に働き音楽的な表現を可能にするのだろう。中音域成分が幾分増強されていると予想するのだが、現在までの使用では然したる色づけは感じられない。全ての弦楽器があえて言えば、ガット弦になったような傾向があり、実際よりも磨きがかかり過ぎている。通信販売で購入したのだが、これを理由にクーリング・オフする人があるだろうか。

しかし他の機器が決してハイエンド商品ではないので、これに文句をつける必然はない。未だに生産販売している事も驚きだが、20世紀を通して培われた、恐らく耳で鑑定したノウハウの蓄積に驚きを禁じえない。さてこの商品は、スイスのトーレンス社の中級品である。最高機種は、現在も放送局のスタジオでテクニクス社のものと業務市場を分けている。現在の一般市場に€50からある商品の中では随分と高価で懐が痛い。しかし以前使っていた英国レガ社の同価格帯のものと較べると廉価に入手出来て遥かに価値がある。

こうして汎用デジタル機器と違いこれを趣味とする人がいる理由を改めて確認した。こうなると、オーディオにおける聴空間と複製芸術の哲学に触れないわけにはいかない。要するにヴァルター・ベンヤミンが定義したオーラと云うものである。彼自身による最後の定義を出来る限り即物的に訳すと、「ある夏の午後、地平線の山脈をもしくは木の梢を、ゆったりと追いかけている。そこにその影が静かに投げかかっている。そこで知覚されるものがその山と梢のオーラである。」となる。現代におけるオーラの腐朽をこの定義を基に論じ、テオドール・アドルノとの間で芸術論議となっていく。その影に静かに佇む人は、何も哲学論議を待たなくとも、帰納法を使ってオーラを認知出来る。これをもってデジタル解析のオーラ不在をも証明出来たのではないだろうか?


参照: 
究極のデジタル化 [ テクニック ] / 2004-11-29
マイン河畔の知識人の20世紀 [ 文学・思想 ] / 2005-02-04
ワイン商の倅&ワイン酒場で [ 文学・思想 ] / 2005-02-04
映画監督アーノルド・ファンク [ 文化一般 ] / 2004-11-23
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楽のないマルコ受難曲評 I (14.1-14.11)

2005-03-22 | 
ここで試みるのは紛失したヨハン・セバスチャン・バッハ作曲マルコスによる福音のための受難オラトリオに使われた、通称ピカンデルことクリスチャン・フリードリッヒ・ヘンリチ(1700-1764)のテキストの考察である。1731年の脱稿である。1731年3月23日にバッハがヨハン受難曲、マタイ受難曲に続いてトーマス教会で初演している。

復活祭を前にした聖週間に、こうして受難オラトリオを辿って行く作業は楽しいのみならず喜びである。それは待降節の暗黒に一条の光が射す如くの心温まる雰囲気とは違うが、暗い冬を抜けて心改まる光り輝く春の風情そのものである。通常は資料不足を口実に控えている楽曲分析も、ここでは復刻補筆なので端から音楽に触れずに扱う事が出来る。楽が無くても良い。ピカンデルのテキスト自体が聖句との関わりがあることは致し方がないが、少なくとも福音の聖書のテキストには触れない。学が無くても良い。

恐らく作曲が残っていれば、現存するマテウスともヨハンによるものとも全く違う方法で福音の違いを音楽的に解決していたことは明らかである。それはこの現存する二つのオラトリオを較べてみれば一目瞭然である。観念的な描き分けこそが、この作曲家の持ち味であり効果は二の次となる。同僚ヘンデルと対照させると興味尽きない。それでは矢張りピカンデルが創作したマテウスとマルコスはどのように違うのだろうか。受難オラトリオの進展を追って見ていこう。

楽曲は、マルコスによる福音の14章から始まり15章を通して終わる。過ぎ越し祭の二日前である。ユダヤの祭司長が律法学者たちとイエスス殺害の計画を練っている。伝承される冒頭の合唱は、ザクセン選定后妃の為の葬送歌BWV198もしくはケーテンの葬送曲BWV244aがパロディーとして使われる。そしてここでは、唐突にも優しくイエススを送り出すのだが、然るべき作曲は手が込んだ対位法を使っての複雑な心理の発露となるのだろうか。既に清濁併せ飲みの按配である。「あなたに慰められるその時までは、悲しみ続けます。あなたが飾り立てられ悪態づかれてようとも、そうしてその時再び慰められる、どうか宜しく」と。

14章5 皆が香油をかける女を咎めると。「異邦人のように我々を待ち伏せして、血を求め、キリスト者を語る者よ。神のみぞ知る、信ずる神こそが彼らの気まぐれを抑える。覚ざめておくれ。」と歌う。偽善と独善への批判でもあるが、そこには止揚はないと早々問題提議をする。ユステュス・ヨーナス(1493-1555)詩篇124 cf.カンタータBWV178。

14章10 ユダスがイエススの引渡しの計略を考えると、合唱は歌う。「世の中、まやかしと嘘の詩で惑わしだらけよ。罠も網も張り巡らされて。この危機に真実を、そして悪意から護っておくれ。」。計略渦巻く世界を嘆きつつ、この言葉にさえ疑問を呈する。啓蒙思想の批判的変相と見る事が出来ようか。原曲:アダム・ロイスナー (1496-1675)詞、ゼテュウス・カルヴィウス(1556-1615)曲。(IIへ続く)


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旬のフェンネル

2005-03-21 | 料理
イタリア料理屋で魚のグリルと付け合わされたフェンネルとレティチィオのグリル焼きが気に入ったので、自分でもこれを試してみる。特にフェンネルは、カロチン、カリウム、カルシウム含有量が多い。乳酸菌増殖因子であるビタミンB複合体の高濃度の葉酸を有する。

以前に紹介したフェンネルの煮物と比べ、油を使う分旨味は出るが独特の味が薄れ万人向けの味覚となる。勿論カロリーは高くなる。白ワインへの相性は、煮物の方が広い。地中海料理なのでオリーブオイルをタップリ使って炒めてから、焦げ目をつけて白ワインやブイヨンなどを入れ蒸し焼き状態で柔らかくなるまで火を掛ける。レティチィオともども20分程である。香辛料も地中海料理風でよいが、ニンニクなどの強い味付けをするとつまらない。何れトマトなどとの相性も試してみたいが、ワインを考えると無駄だろう。

10月から5月が旬と言う。魚料理が好まれるこの時期に有難い。


参照:
逃げた魚は大きいか [ アウトドーア・環境 ] / 2005-02-28
ライキョウ‐白ワインのご相伴 [ 料理 ] / 2005-02-26
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ヘンデルの収支決算

2005-03-20 | 歴史・時事
作曲家ヘンデルの資産運用に関して、昨年の11月にハリス女史の著書が刊行されていようだ。それによると、1710年以降市民権を得てからの資産状況が出納帳などに依って詳細に分かる。早くから証券への投資をしている他に、1720年の相場の暴落の前に素早く回収している。このあたりの見通しの良さこそが、我々が想像するヘンデルである。

つまり1715年に500ポンドを売る。当時の作曲家は、1712年までのハノーバーからの給与に変わって翌年からアン皇女から200ポンドの終身年金を授かり、1723年からはハノーバー出身のジョージ一世によってそれが400ポンドと倍増する。しかしその間オペラ上演の投資に続き、1719年には145ポンドの利鞘を持って全証券を処分する。皇太子の音楽教師料として年間200ポンドの副収入を得る一方、1728年には以前の銀行での定率利子での借款と同時に他の銀行で再び証券に乗り出す。1732年からは預貯金も始める。この間の投資法は不明であるが、前年の王の死が関係するのだろうか。1728年に彼のオペラ団ロイヤルアカデミーを閉鎖するが経済状態は特別悪くなく、700ポンドの借款に加えて1200ポンドの財源を保有する。1732年の2300ポンドの資金で100%の利鞘を目指したとある。その後、対抗オペラ座との競争に浪費して1743年に全てが解約されて底をつく。

この間の事情は、対抗オペラ団のカストラート、通称ファリネリとヘンデルのセネシーノとの競演として有名である。しかし1742年には既にオラトリオ「メサイア」のダブリン初演が行われているので、作曲家は強気であったと思われる。その成功裡に終えた初演は、編成規模が合唱、楽団を合わせて優に500人を越える大事業であった。聴衆は、600人の会場に700人が立錐の余地無く詰掛け、その売り上げから400ポンドが慈善目的に使われた。その後6月3日に再演されるなど、作曲家は都合8ヶ月以上同地に滞在したと云う。こうして、アイルランドならず英国でも名声と富を得る基盤が出来た。

三部に分かれている「メサイア」は、キリストの生誕から受難を経て復活を英国教会のグレート・バイブルのテキストで、両テスタメントを織り交ぜて描く。その二部の終曲、有名なハレルヤコーラスは殊に有名である。しかし初演の状況を知ると、それによってのみ大成功したのではない事が良く分かる。例えば非常に短い第一曲シンフォニーに続き、第二曲アコンパニー、第三曲アリアで、リラックスした中に現地ダブリン人との融和が図られる。そして同じくイザヤ書からの第四曲では、神の姿の視認の合一が謳われる。オペラでは出来ない構成で思慮深く効果を挙げる。当日の聴衆は、恐らくここで既に完璧に魅了された事であろう。この創作と成功を境に56歳の作曲家は、生活の安定と向上を得ると、一段と大きな風格を持ってオラトリオを量産していく。こうして音楽的に後期バロックから抜け出して次世代を準備した。バッハにおいて後期バロックの完成をみたのと対照的に、ヘンデルにおいては長寿を全うした人間的安定と円熟がこの事を可能にしたとみえる。

今週偶々車中で聞いたラジオで、今日のヘンデル演奏のアーティキュレーションと30年前の演奏様式の雲泥の差を語っていたが、現在でも当時のような「メサイア」のパラダイス的な表現は難しい。それは表記法の不備や改訂、装飾等の再現や編成規模の問題よりも、この思慮深い導入と君主ジョージ二世が立ち上がったと云う堂々としたハレルヤから第三部の復活の確信を両立させる事が難しいからである。19世紀を通して培われてきた伝統は、近代社会の発展の経過そのものでありその決算は今でも先送りとなっている。

作曲家は、オペラから費用の掛からないオラトリオに転向して、半年も経たないうちに直ぐにまた1600ポンドの預貯金を保有する。1737年からは券を前売り制度としたので尚の事懐は潤い、1749年からは年間収支1000ポンドから2000ポンドの黒字となり財は増える。病気勝ちとなってからは、預貯金を整理して年間2500ポンドの年金とした。死を迎えた1759年の4月14日には17500ポンドの借款と2000ポンドの収入が記載されている。ウエストミンスター・アベーでの自己記念碑設立への指示以外は、親戚や仕事仲間への謝礼が遺言となっている。因みに当時のポンド・スターリングは、現在の100ポンドに当たるという。


参照:
微睡の楽園の響き [ 文学・思想 ] / 2005-02-22
バロックオペラのジェンダー [ 音 ] / 2005-02-20
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門前の小僧、高級ワインを語る

2005-03-19 | ワイン
名前が示すようにフランスのローヌからプロヴァンスへ抜けた所にあるのが、ポルテ・デュ・ラ・メデイタランというプロヴァンスでもコテ・ダアクサン・プロヴァンスでもないワイン生産地域である。料理用ワインに€1,99で購入した2004年のシャドネーなので、何一つ文句は言えないがこれほど仏頂面なワインも珍しい。香りは悪くないのだが12.5%のアルコールの味以外には少しシャドネー臭さが後に残るだけだ。ソアベなどの方がミネラル風味があるので素直でよい。それでも葡萄の熟成がこの地方の特徴を示していて参考になる。目隠しテストなどでは素性の分かりにくいワインに属すると思う。

つまらないワインを飲んだためか、腹の調子が悪くなった。昨晩もお呼ばれで、久しぶりに廉価ワインを味見させて貰う。あるワイン農家協同組合の価格票を見て、1リッター€3,00が殆んどで驚いた。なるほどマルク時代は、これが普通であった。マルク時代には、中心商品価格帯であった一本€4,00~€6,00のワインが少なくなって、一方では高級化が進んだことを改めて実感する。

ここからが真面目な商品比較である。上の価格を普通の0.75リッター瓶に換算すると、€1,75~€2,25となる。これは丁度キッチンワインとしてスーパーで出る最低価格帯である。市場価格に嘘はない。

さて、これを先ず最高級のモルトウィスキーなどと較べると、一定量のアルコール当たり四分の一の価格となり、遥かに廉い。スコッチ一本の値段で、16本ほど購入出来る。その時摂取したアルコール量は、スコッチ4本分に相当する。この比率は、高級ワインとの値段比に相当する。つまり、ワインとスコッチの値段はアルコール量当たり変らない。

要するに高級ワインの価格帯は、高級スコッチやブランディーの価格帯から始まるといえる。逆に廉価ワインは、ビールとの価格競争となる。ビール党は廉くて美味い健康飲料ビールを、ワイン党は好みのワインを選別してという事になるのだろうか。
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水車小屋の娘の陽気な鱒

2005-03-18 | 生活
忘れぬうちに昨晩の鱒食の事を記しておこう。思えば一昨週末に氷点下20度の町に滞在して、昨秋末には春の積雪をみて、昨日は22度の温かさに体が弾けた。睡眠に支障をきたす人も多いようだ。春分を週末に控えて、来週は復活祭となる。

暑くはないので温かいのは構わないのだが、突然の気候変化は服装に困る。会合があったが厚手のセーターを着ていくのも憚れ、ジャケットを着て襟を正して行くのも面倒なのでお休みにした。そのかわり郊外に食事に出かける事にした。日差しが強く夜は冷えそうなので、コートを置いて結局は風引き防止に厚手のセーターを着て出かける。流石にTシャツの者と並ぶとお互いに違和感がある。

谷状になったワイン畑の斜面の下に小さな池がある。池畔のレストランでは、ガーデンの机を片付けている。夕方でも明るい戸外に、さぞかし快適だった昼の憩いの余韻が残る。窓際に陣取り、午後の日差しに砂利道を挟んで弓形にせり上がる斜面を眺める。その上の縁は、葡萄の枝と下草の緑が稜線を作って、青空に綺麗にシルエットが浮かび上がる。

丸侭の鱒に粉をつけて薄く剃ったアーモンドで香味をつけてソテーした「水車小屋の娘風」を楽しむ。魚は新鮮でなければいけない。大きめの一匹であったが、身も適当にしまっていて良かった。身離れが良いので小骨が全く気にならない。ビールで咽喉を潤した後は、2003年アルテン・フォルストの辛口のリースリングを取る。銅メダル受賞なだけあって、食事の邪魔をしない素朴なリースリングである。何を隠そう今目前の斜面のワインである。

同伴者は、煮鱒を食べて実が柔らかすぎるという。これほどに気温が高いと、もし端の方に在って陽にでも当たれば直ぐに鮮度は落ちる。それを見越して注文した手前の魚は、今にも皿から跳ねて飛び出しそうな陽気であった。
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