Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2006年02月

2006-02-28 | Weblog-Index



終わり良ければ全て… [ アウトドーア・環境 ] / 2006-02-27 TB0, COM0
趣味や自尊心を穿つ [ 生活・暦 ] / 2006-02-26 TB0, COM0
複雑な香辛料の味覚 [ ワイン ] / 2006-02-25 TB0, COM0
マイン河を徒然と溯る [ 生活・暦 ] / 2006-02-24 TB0, COM2
アッペルレバパステーテ [ 料理 ] / 2006-02-23 TB0, COM0
大バッハを凌駕して踏襲 [ 音 ] / 2006-02-22 TB2, COM2
肉体ケーキのデザート [ 料理 ] / 2006-02-21 TB0, COM6
どれ程の贅沢が可能か [ ワイン ] / 2006-02-20 TB0, COM0
半世紀の時の進み方 [ 文化一般 ] / 2006-02-19 TB0, COM2
肉屋の小母さんの躊躇 [ 料理 ] / 2006-02-18 TB0, COM2
まだ言論の自由がある? [ BLOG研究 ] / 2006-02-17 TB4, COM4
充血腸詰めがつるっと [ 料理 ] / 2006-02-16 TB1, COM9
何処へ向って滑り降りる [ アウトドーア・環境 ] / 2006-02-15 TB0, COM0
向上に相応しい動機付け [ 雑感 ] / 2006-02-14 TB0, COM0
力を籠めて足掻く [ 雑感 ] / 2006-02-13 TB0, COM3
ピエモントの谷を遡ると [ ワイン ] / 2006-02-12 TB0, COM2
吹き荒ぶから紫煙漂うへ [ その他アルコール ] / 2006-02-11 TB0, COM3
固定観念を越えた感応 [ 文化一般 ] / 2006-02-10 TB0, COM2
瑞西の交通規制行動 [ アウトドーア・環境 ] / 2006-02-09 TB2, COM2
猪の思い出あれこれ [ 雑感 ] / 2006-02-08 TB0, COM6
BLOG研究の方針 [ BLOG研究 ] / 2006-02-07 TB0, COM2
地所の名前で真剣勝負 [ ワイン ] / 2006-02-06 TB0, COM0
本当に一番大切なもの? [ 文学・思想 ] / 2006-02-04 TB0, COM2
並行した空間からの響き [ 音 ] / 2006-02-03 TB1, COM6
クロンベルクの皇后陛下 [ 女 ] / 2006-02-02 TB0, COM0
タウヌスの芸術家植民地 [ 文化一般 ] / 2006-02-01 TB0, COM2
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終わり良ければ全て…

2006-02-27 | アウトドーア・環境
アルペン競技は前日のスラロームで全て終了した。ベンヤミン・ライヒを初めとするオースリアチームは、アルペン王国振りを久しぶりに示した。そして実力者が勝った。特に一本目を終えてべンヤミンは、容易そうに見える斜面の思いがけない変化のある雪面の難しさを説明していた。温度が高い中、女子のピステの上にコンクリート状に固めた所に更に新雪が乗った事が余談を許さない状況を招いた様である。こういう悪雪になるとそのような気象条件や環境を持つ東部アルプスをホームゲレンデとするスキーヤーが強い。

日本の皆川選手は、ショートカーヴィン導入の当初からアルペン競技内で新星と騒がれていた。ここの斜面で毎年行われる夜間の競技会でもお馴染みである。二本目も力みさえ抜けていたらトップに躍り出ていたかもと言われている。しかしそれが出来ているならば普段の連戦で何度も優勝していたであろう。とにかく、今回のオリンピックを通して日本のマスメディアのはしゃぎぶりが、度々伝えられる。アルペン競技に関しても通常は、スキー人口の減少からか、経済効果が小さいとしてスポンサーもマスメディアも全く関心を示さないのが当然である。だから余計に、毎シーズンの欧州を主とする世界中の連戦で普段見かけない顔ぶれが引き起こす雪上での悪乗りは著しく滑稽である。先に書いたビュンニク女史が東京で強調した強力なマスメディアのグロテスクさを此処に認め、ノーベル文学賞のグラス氏の言う「表現の自由への意見」を思い起こす。

反対にドイツのアルペン競技の不振には、上の様な状況は当てはまらない。スノーボードを含めて、アルペンスキーは、ノルディックスキーと並んでアルプスでの冬の休暇の中心に置かれるスポーツである。例えば保守政治家がアルプスの宿に滞在してと言うのは、未だに引き継がれている。決してカリブ海やトルコやフロリダなどで休暇を過ごさないで、アルプスのスキー宿に過ごす。そのような背景があって、一般のスキー人口は特別に多くてその裾野は広い反面、本格的に雪に親しみ選手を排出するのはアルプスに近い地域に限られる。またノルディックスキーで強豪が揃うのは、その普及度からすると当然でもある。

ある意味、そのような基盤のない所から入賞するだけで充分過ぎるのではあるが、ライフスタイルや経済モデルの有無が競技力に如実に現れているに過ぎない。

閉会式当日は、世界中はカーニヴァルの雰囲気に包まれていた。閉会式でのカーニヴァルも一部にはトスカーナの特別な意匠などがあった。何よりも開会式からバロックの雰囲気の中で進めたアイデアはこうしてカーニヴァルの伝統に繋がる。世界中の多くの地方で当日繰り広げられた生活感とリンクさせる。タロカードやその他のマスゲームもカナダのサーカスに混じって 適 当 に 合 わ せ て いて自然で楽しそうで非常に好感が持てる。ボードをつけた見事な空中姿勢や歌や踊りも花火などに合わせて、更に食事時にいつも遣ってくる赤い薔薇の花売りをコメディアデラルテの狂言廻しとして全体を巧く演出していた。

聖火の消灯で登場したアルペンの超一流選手イゾルデ・コストナーが妊娠で急遽参加をとり止めた事は知らなかった。新教徒ならば不慮の事態を避けなかった事を馬鹿と言うかも知れないが、旧教徒?らしい自然な判断がイタリアでは大きな共感を集めるのだろう。「成果よりも自然な生活」と言う個人的な決断は、イタリアのラテン的信条に於いては特別大切なものと思われる。しかし、消灯の遠隔操作の動作は小さ過ぎて、リピート再生でも分かり難かった。そのような人間味がユーモアとしても随所に示されている。

盲目の歌手ボッティチェッリやヴァンクーバー市長の車椅子などこれから開かれるパラオリンピックへの喚起を促す。それにしてもボブスレーで横倒しのまま滑り続けたブラジル選手の折れた左手の包帯と笑顔は、主要カットとして編集される大事そうに金メダルを示し携える荒川静香の姿と共に、なかなかの見せ物となった。また環境保護活動家がマイクを圧し折って行ったりと、恐らくセストエール周辺の不必要な開発への批判もあり、「終わり良ければ全て良し」のイタリアンライフをなんとか最後まで満喫させた。



参照:
何処へ向って滑り降りる [ アウトドーア・環境 ] / 2006-02-15
向上に相応しい動機付け [ 雑感 ] / 2006-02-14
非俗物たちのマスケラーデ [ 文学・思想 ] / 2005-02-08
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趣味や自尊心を穿つ

2006-02-26 | 生活
自らを穿つ躊躇いにも鉄の意志を以って遣り通して、そのセンシビリティーを内に隠すでも無く、ファンタジーをも疎かにしなかった。:エレガント・慎み深く・そしてなによりも美しい。-

これは女子フュギアスケート金メダリストへの讃辞であるが、オリンピックTV観戦をしながら、また昨日や本日付けのFAZ紙のそれ以外の文化記事を捲りながら、このセンシビリティー(Sensibility)を引き続き考えてみる。

先ずは、中国人ピアニストのフランクフルトでの演奏会評を読む。此れほどまでに跡形も無く叩き潰す評は今まで読んだ事がない。そして、「何故此処までに書かなければいけなかったのか?」、「この評論家の使命感」はと落ち着いて考えた。ドイツツアー中のリサイタルで、「神童」はモーツァルトからショパン、シューマン、ラフマニノフやリストを弾いた様で、「何を弾いても如何でも良いのではないか」と糾弾している。

ユリア・スピノラ女史が書き通したように、逐一とその理由と証明を挙げて行く作業はいかにも苦しい。何故ならばこの批評は恐らくドイツ語を解さないピアニストに読まれるとは想定されていないからだ。処刑の執行権が評論家にあるかどうかは知らないが、罪を悔いて改める事などは期待されていない訴追である。批評は、恐らく著名な演奏家達が登場する「豪華な美食定期演奏会」を訪れて一杯引っかけながら「高尚な音楽を享受」する高級新聞を捲る理知に富んだ聴衆一人一人に向けられている。もちろん、この天才少年を 発 掘 してCDを売り込むレコード会社も矛先となり、「モーツァルトやシューマンを篭り歌として、ハンガリアンラププソディーとの出会いで二歳からピアニストを志した少年」が「トムとジェリーを愛し、その音楽と育ったとして、親しみ易い普通の子のイメージを天才スターに加味するのは業界・興行界の常套手段だ。」とする。

月並みなステレオタイプ、ジャスチャー、限界、カーニヴァルのお菓子投げ、指の練習、ペダルに頼る、表情記号の無視、同じテンポの主副主題、空虚な贅沢三昧、息を詰めた、三文判の千歳飴、空虚、雑、嬉しそうに、カンズメのピラミッド崩し、深刻ぶったカンタービレと細かく叙述して、「全ては歪んだ像で、グロテスクでいやらしいく響き、素晴らしい叙述法で書かれている文章が何も分からなくて疑心暗鬼にとにかく試しているよう。」と切り捨てる。

CD好評発売中の「子供の情景」の「異国人」の演奏を乞われる子供は、モノトーンで表現力皆無と評価。これ以上述べる必要はないであろう。しかし、この 叙 述 法 には関心があるが、ここまで拘って読者若しくは聴衆に語りたいのは並々ならぬ危機感を持っているからなのだろう。批評を受けるための批評かもしれない?しかしその内容自体は、ここのBLOGで書いている事と本質的になんら変わらない。

次にビュンニク女史のシュトッツガルト歌劇場の東京引越公演からコンヴィチニー演出の「魔笛」についての批評を読む。この演出は、エジプト考古学者でフリーメーソン研究家のヤン・アシュマンの分析から、理知・叡智・自然を別けているが、典礼的な動きを一切排して恰もそこで万華鏡から感情が生まれたばかりの様に動かせて幾らかは効果を挙げていたとする。「魔笛やグロッケンにのって踊る集団交尾の動物達とタミーノがパミーナに向う情景でどっと笑いが溢れ、明らかに初めはポカンとしていた観衆もやっと解れた」と、「それにしても日本人は商店でも決して笑わないのにましてやオペラハウスでとは」と驚く。

招聘元の八百二十七万部の発行部数を誇る朝日新聞は、ヴァーグナーの「四部作」を予定していたが 商 業 予 測 から「魔笛」へと変更して、ダイムラー・クライスラー社が実験劇場よりもドレスデンのゼンパーオパー援助を選び、ポルシャ社が初めて今回後援者となった事を敢えて挙げる。企業の「文化政策」は、観客層を選ぶと言う事が良く分かる。叡智はどの車を選んで、理知はどの車を選ぶのか?国民大新聞社は、大興行師なのか第四の権力なのか?

趣味の問題である。それは、叡智でも理知でもなくて、自然を洞察するセンシビリティーかもしれない。そこでは、先ず自尊心であって、人間性が問題なのである。もしそのような感受性が疎かになるとしたら、もしそのような自尊心が未発達とすると、その趣味は自己欺瞞に満ちる。前者は、上述の演奏会評で聴衆に求められているもので、後者は演奏者に求められているものだろう。

表現には趣味が重要である。趣味を磨くのは難しい。表現の自由で、その量は保証されているが、質は保証されていない。感受性を保ちながら自尊心を維持する為には、 横 柄 で 傲 慢 なほどでなければならないと言う叡智が働く。石をも穿つような高度な商業主義の大河を臨んで、凛と自尊心を保つ事が如何に難しいか。金メダリストを取り上げるジャーナリズムの趣味の悪いアングルの写真等を見ながらそのような事を考えた。



参照:
向上に相応しい動機付け [ 雑感 ] / 2006-02-14
勇気と不信の交響楽 [ 文化一般 ] / 2006-01-06
本当に一番大切なもの? [ 文学・思想 ] / 2006-02-04
開かれた平凡な日常に [ 文学・思想 ] / 2005-12-30
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複雑な香辛料の味覚

2006-02-25 | 試飲百景
マイン流域には、二つのワイン産地がある。一つは上流のヴュルツブルク周辺に拡がるフランケンヴァインの産地。もう一つがライン河に注ぐ直前のホッホイムのワインである。以前にアッペルヴァインなどについて調べた時に、フランクフルト周辺は元々ワイン産地だったようだが十四世紀頃の冷害で全て遣られて仕舞ったという。その続きの下流に一箇所だけ残ったのがホッホハイムかもしれない。

詳しくは分からないが、此処のワインは香りが高いと言う事で英国などではホックなどと呼ばれているが、その実態は「本物」とは限らない様である。ここのワインも十年以上前から馴染んでいる。ラインガウとも違う香りと味が此処の特徴である。

その中でも一際有名な地所が、ドムデカナイやキルヘンシュトックやヘーレなどで、フランクフルト界隈で最も渋滞の酷いホッホハイマートライエッケからのNOxが此処の斜面に漂よおうが、これら伝統的な地所には文句のつけようが無い。もちろん最初のものはグランクリュに指定されている。ここのワインとの出会いもそのドムデカナイのもので、今でも辛口でありながら酸を感じさせないミネラル分に富んだ味と甘みのない豊かな香りが思い出される。

今回久方振りに訪問すると、以前はドイツワイン協会役員として世界中を駆け廻って居られたご主人が腰を落ち着けて醸造所を管理されていた。早速、売り切れが多いリストで品定めをする。2005年産のワインは、予想通り未だ出ていなかったが、その代わり以前には全く興味の無かった単純なワインに焦点をあてる。この志向の変遷を語ると、ご主人は「ワインは、特別な時に飲み楽しむだけでなくて、日々享受出来る物だ。」と、いつぞや日本の雑誌にインタヴューで語っていたような主張を、改めて表明する。全くその通りで、「ビールや強い酒を飲むより、ワインを飲みたくなった。」旨を伝え、「高級ワインを、日頃の食事の例えばザウマーゲ…」と言って気がついて、「ザウワークラウトを食べながら、飲むのは惜しい。」と言い直した。自らローカルなお家事情を曝け出す様羞恥を感じて、改めてここはヘッセン州なのだと気が付く。

「当日催されていた試飲で瓶が空いているから試飲したら」と言われたが「フランクフルトでの用事がある」と、断腸の思いで甘い誘惑を固辞して、ワインを選択する。リストを見ると、2004年産の軽めのキャビネット類は早くに売り切れていて、シュペートレーゼ類からアウスレーゼに属するグランクリュ類が残っていた。反面、2003年産の単純なワインが売れ残っていて、2004年産の昔風の味のバランスに配慮した-近隣のラインガウではチャルタワインと称する-「クラッシックワイン」を持ち帰る。前者は、酒石が溜まって入るぐらいに充分に練れていて、糖の後口が悪い。後者の方は香りが良く、香料のような味が良かったが、6グラム相当の糖は些かその酸に比べて多すぎる。糖と酸の化学分析値の質問からある程度想像していた通りである。それでも後者のワインで気が付いた様に、過去に愛飲したキャビネットワインで素晴らしかった「胡椒のような味付け」がより複雑な香辛料になっているとすると、五月に発売される2005年度産のキャビネット類を試飲出来るのが楽しみである。なるほどご主人も、この十年間の傾向は大分変わって来ていると言う事を認めていた。(試飲百景)



参照:
マイン河を徒然と溯る [ 生活・暦 ] / 2006-02-24
大バッハを凌駕して踏襲 [ 音 ] / 2006-02-22
拘りのアッペルヴァイン [ 料理 ] / 2005-12-14
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マイン河を徒然と溯る

2006-02-24 | 生活
フランクフルトは、マイン河畔にある。AM MAINと態々付けるのは、ポーランドとの国境とされるオーダー河畔にもフランクフルトがあるからだ。現在のブランデンブルク州のフランクフルトは、大プロイセン盛んな時期に交通の要所として大変繁栄していた様である。しかし、飛行場としても、欧州銀行の所在地としても、ドイツ革命の歴史的場所としてもヘッセン州のフランクフルトは遥かに有名である。

先日、フランクフルトのアルテオパーを訪れる前に、ワイン産地として有名なホッホハイムのワイン醸造所を訪ねた。マイン河とライン河は、ホッホハイムを過ぎると間もなく交わる。対岸のオペルのあるリュッセルハイムからはマイン河に橋が掛かる。川下のヴィースバーデンは、ライン河を挟んでマインツと向かい合っている。

ホッホハイムからフランクフルトまでは、30KM 程しかないので、高速道路に乗らずに銀行の都市を目指す。マイン渓谷の丘の上の町から川沿いに上って行くと何時の間にか、川向こうの南側に出ていて、12キロ程車を走らせると、大きな森が右側に張り出して来る。川を離れる前に、マイン河を覗く。向こう岸には小さな工場があったりして、殺伐とした光景である。ここからフランクフルトの町まで川岸を歩く事も出来る様で道標などが見かけられる。

此処の光景で思い出したのがセーヌ河の上流となるオルリー空港の近くのイブリー周辺で、先ほどのフランスの暴動騒ぎの時も注目された地域である。そう言えばヒースローに近いテームズ河を溯ったウィンザー・キャッスルのフィッシュレストラン周辺の光景も此れに何所となく似ていた。しかしこのフランクフルト周辺は更に田舎であって、その地理的な都市圏規模からしてもパリやロンドンとは比較出来ない。

そこから、川を離れて森の中の道を行くと直ぐにケルスターバッハの飛行場の防護壁へと行き当たる。二十メートルほど高さの鉄筋で出来た巨大な防護壁は、ジャンボの激突にも問題なく堪えそうである。外側には、ロギスティック関係の保税庫や会社などが立ち並ぶ。防御壁がところどころ切れる門には、カーゴセンターや空港の税関、ルフトハンザの施設などが並び、空港のお勝手口となっている。

そこから、フランクフルトの町へは対岸のヘキストの町を過ぎて、10キロほどである。フランクフルトからは、路上電車がヴィースバーデンへと伸びている事などは知識としては知っていたが、何時も渋滞の多い高速道路を走っていると、この距離感は今までなかなか得られなかった。

こうして、マイン平野の北側のタウナスに比べて余り美しくないイメージのある南側をドライヴして、フランフルトの駅前の横断歩道を過ぎると、世界中から遣ってきたカバンを持った旅行者や忙しそうな通勤者で賑わう。この町がインターナショナル姿を見せ始める。

夜間料金になった駐車場に車を停めてから、一寸した買い物をするために、地下鉄のターミナルとなって入る一駅先のハウプトヴァッヘへと歩く。途中、ソファーの置いてあるコーヒー店を見つけて、BLOGで知ったスターバックとか言うコーヒーチェーンと判り、しげしげと店の中を覗き込む。椅子の割りに狭苦しい感じで、昔からの名曲喫茶の現代版の様な感じである。BGM無しで静かなのだろうか?

百貨店につくと、19時に大手百貨店が店じまいするワイン街道と比べて、この時間でも未だ入り時で驚く。此処までの間にあった幾つかのデリカテッセンの店も大層良さそうであったが、地下の食料品売り場には寿司バーだけで無く、魚やらなにやらお惣菜形の物もあり、外国人の多い客層と相まって別世界である。

買い物を済ませても未だ時間が有ったので、立ち読みに何時もの本屋へと立ち寄る。あれやこれやと覗きながら、英書コーナーでソファーに腰掛けてカズオ・イシグロの本を捲り、BLOGでの紹介や現地取材とかコメントで語られたヴィンフリード・G・ゼーバルトの著作を探す。アルゴイ生まれで英国へ移住して、そこで亡くなった作家であったので、英語原文とも考えていたが、コーナーからコーナーへと行ったり来たりしているうちに、ドイツ語のオリジナルが何冊もの文庫本になっているのを見付ける。確か『目眩まし』の裏表紙を見ていて先日「ヴォイツェック」で出て来たカール・エミール・フランツォーズが取り上げられていると知り、なるほどと思って、選択購入前にもう一度ネットで各著作について調べて見なければいけないと店を出る。



参照:
タウヌスの芸術家植民地 [ 文化一般 ] / 2006-02-01
再生旧市街地の意義 [ アウトドーア・環境 ] / 2005-11-20
ゆく河の流れは絶えずして [ 音 ] / 2005-08-01
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アッペルレバパステーテ

2006-02-23 | 料理
林檎入りのレバーパテである。パンに塗ったりして食べるが、レバーパテに林檎が混じっているので通常の苦味が和らいでより食べ易い。

蔕の余っている所を、約四割引で、肉屋で分けて貰う。一ユーロで三回ほどは楽しめる。
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大バッハを凌駕して踏襲

2006-02-22 | 
ブックステーデの音楽に触れる事が出来て幸福であった。勿論そのオルガン曲やカンタータや名声は、資料や楽譜や録音などからも知らないわけではなかったが、こうして鳴らされる空間とその影響を感じ取るのは別である。それは、フランドルのルネッサンス画家達が描いた様な民衆のいる風景であった。

一般的には、あの大バッハが三百キロも歩いてブクステーデの弾くシュニットガー作のオルガンを聞きに行った事は若きバッハのエピソードとして最も有名である。ディートリッヒ(若しくはディーテリッヒ)・ブクステーデは、1637年オルガニストの息子として、デンマークのオルデソールかハムレットの城で有名なヘルシンボウに生まれて、地元でオルガンを弾いた後に、リューベックで元々は出納や管理のキャリアを積んで、その後1673年から「夕べの祷り」の前の「夕べの音楽会」を催すようになる。此れは、この種の会の始まりの様で大きな反響を呼んだとあり、青年バッハもアルンシュタットから教えを請いに態々やって来て、師の前でのBACH(変ロ、イ、ハ、ロ)の主題による即興演奏の課題を弾かされた事情が知れる。

そのように100曲を越えるカンタータや室内音楽を残しながらもどうしても北ドイツオルガン流派の中で位置付けられる事が多く、そのイメージがその名前の響きと共に幾らか無骨に定まって仕舞っている。因みに北ドイツオルガン流派は、地理的にエルベとヴェーザーに挟まれた、ブレーメン・クックスハーフェン・ハンブルクの三角地点とアープ・シュニットガー作オルガンのある教会などを指す様だ。しかしこれに関する楽譜等は、まるで上述の帳簿同様に簡単に破棄されていた様だ。先日フライブルクのコンラード・キュスター教授がクックスハーフェンで発見した1560年に死去したパウル・ルスマンの手書きの指示書が最古の物と言い、このオルガン流派に関する発掘調査プロジェクトは現在も続行中である。

こうした研究から当時の教会の式次第も分かってくると言うが、プログラム二曲目として今回演奏されたカンタータ「主、汝まことの神よ、我らから取り去りたまえ」BuxWV78などを聞くと、当時の精神的な背景のみならず、演奏風景が手に取るように体験出来る。ある種の「ぼやき節」の感覚と言い、その心情告白の直截は、当時の会堂に集まった庶民の慰め以外の何ものでも無かったであろう。飾らない庶民的な情緒は、チェロを外したオルガンとファゴットの通奏低音が対旋律として奏でる半音階移行の動きに感情的な比重を保って、またそれに乗って く る く る とした節回しをもって歌われる。まさにバッハの叔父さんなどの世代の音楽的特徴で、「如何に音楽で素朴な宗教的心情を表現出来るか」と言う歌謡の原点が試みられる。こうした 世 俗 的、 感 覚 的 と言う点では、遥かに大バッハの音楽を凌駕していて、音楽需要の対象としてはこちらの方が遥かにポピュラリティーが高くても良い筈である。

しかし、同時代の人気や名声は別として、このプログラムの最後に演奏された同じ題名のBWV101番は、現在に於いて比較出来ないほどバッハの曲が受容されている理由を示している。通奏低音などは此処では重く既に鈍調となっている反面、それを補うように遥か高みではオブリガート風に主旋律が奔り動く。トーマスカントライに充てて、殆んどブランデンブルク協奏曲を思わせる音楽を奏でさせて、過去のバロックの成果をコラージュの如く融合させる。この極めて 思 弁 的 な作曲家は、それに当たってポリフォニックな構築やコラールによるハーモニーの動きを効果良く引き出して、さらに踏襲された馴染みある旋律等を交えてそれを楽曲の中で音楽芸術としている。

そこで思い出すのが二十世紀の作曲家アントン・ヴェーベルンの代表的な後期の合唱作品である。ここでオーストリアの後輩が中部ドイツの先輩の多声音楽構造から和声音楽構造、和声から多声への時代の組み合わせを踏襲したのには違いない。しかしバッハの創作自体が過去の集大成と同化にあった事を考えると、容易に未来から過去への一方的な「影響のベクトル」を牽く事は出来ない。このような不思議を示したのはフィリップ・ヘレヴェッヘ指導のコレギウム・ヴォカーレ・ゲントであった。今回は主役の16人の合唱団以上に重点のあった20人規模の管弦楽団は、シカゴシンフォニーさながらに丁寧に調弦をして、その器楽的技術やアンサンブルのアインザッツの精緻さ以上の力点をここに表明していた。実際、多声音楽構造と和声音楽構造間の両方向への転換に於いて、和声的律動に力点を置いても、対位法の流れに力点を置いても丁度良い立ち位置とはならない。

それでも合唱も含めて、「フランドルのバッハ像」は、フランクフルトのバッハ会定期聴衆にとっては違和感があるのも事実で、寧ろブクステーデの演奏に支持が集まった。またバッハのカンターターへの一般的な期待はそれほど高くはないのであろうか、入りも同じメンバーの大ホールが満員となる受難オラトリオ演奏会などに比べると二割ほど少ない。これらを関連付けると、このような演奏スタイルは、「現代の癒やしのバッハ」などではなくて、「現代に於けるバッハの受容」を特徴付けていて、時期が来ればきっとヴェーベルンの後期の「眼の光」やカンタータ二曲の大作の方がバッハの音楽よりも受容されるようになることを示唆している。



参照:
番外 ヘンデル 対 バッハ [ 文化一般 ] / 2005-06-13
楽のないマルコ受難曲評 I (14.1-14.11)[ 生活・暦 ] / 2005-03-22
楽のないマルコ受難曲評IV(15.14-15.47)[ 生活・暦 ] / 2005-03-26
滑稽な独善と白けの感性 [ 歴史・時事 ] / 2005-03-10
われらが神はかたき砦 [ 文学・思想 ] / 2005-03-04
賢明で理知的なもの?! [ 歴史・時事 ] / 2005-02-25
音楽愛好家結社 [ 音 ] / 2005-12-12
非日常の実用音楽 [ 音 ] / 2005-12-10
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肉体ケーキのデザート

2006-02-21 | 料理
独日協会の忘年会と新年会で、其々マフィンとレェープクーへンを焼いて頂き、食べさせて頂いた。マフィンは英国の物と思うが、ロンドンのリッツホテルの物が映画などでも有名だ。一度そこで試した事があるが、紅茶との取り合わせが悪くは無かったと思う。オーストリアならばザッハートルテにヴィーナーカフェーと言うところだろう。

さて、レェープクーヒェンは元々クリスマスの付き物で、中部ドイツのシュトーレンなどに相当する。蜂蜜を使ったクッキーの一種ではあるが、ライプの名前からしてキリストの肉体のパンに近い。カトリックの聖体のプロテスタントに於ける変容と見ても強ち間違いでは無いであろう。しかし、ニュルンベルクやウルム、バーゼル、ケルンにある伝統は、フランケンの修道女のデザートが始まりと言うから、この推測とは矛盾する。

何れにせよ、クリスマスだけで無くイースターにも食べられる習慣がある。また、その断食中のビールとも食べられたと言う。

今やシュトーレンは、何所でも買えるので知らない人は少ないかもしれないが、元来は此れに代わって其々の地域に其々の 付 き 物 が存在する。こうした事を専門的にフィールドワークで研究している方も居る位で、家庭でのケーキ作りや名物の在り様は一筋縄では行かないようだ。

今回の物は二種類のレシピーを使って、アーモンドやチョコーレートを塗したと言う事であるが、チェッカー盤の様な写真のアーモンドの方をレープクーヒェンと見做す人は少ない。此方のレシピーの方が砂糖が多く甘かった。結局、お土産で持ち帰り、冷蔵庫で冷やしてから、赤ワインと食すとこの甘い菓子の方がワインに合って結構心地良かった。



参照:
強精ビールとチョコレート [ 料理 ] / 2005-02-12
不可逆な一度限りの決断 [ 女 ] / 2006-01-25
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どれ程の贅沢が可能か

2006-02-20 | 試飲百景
新たに2005年産のリースリングを試した。先日の2004年産の後釜である。どうも新年度産の販売時点で前年度の商品は棚卸で専買するお得意さんがいるらしい。先日、旧年度産の試飲記を纏めておいて良かった。比較すると酸味が強く出ているようだが、後味の薬臭さが無い。より単純な醸造をしていると想像する。何故ならば一般的に2004年の方が酸の出方が苦味が出たりして難しかったからである。

リッターワインであるので、2005年産も期待された構築感などは無いが、風味がある。リッターワインとしては素晴らしいのではなかろうか。此れだけを飲むとすると、この酸味が幾分きついかもしれないが、食事には丁度良い。甘味も少ないだけカロリーも少ないだろう。しかし、アルコールは12%あるので強さも充分である。先日試したラインガウの物と比べると、柔らかみがあるが薄っぺらい感じがして、土壌の違いが如実にでている。一リッター5,60ユーロは、他の対抗馬の甘みのあるリッターキャビネット6,80ユーロと比べても、CPはかなり高い。

リッターワインでは、惚れ込むほどのワインは決して見付からない。つまり美味くても欠点があってそこに目を瞑るか、不味くは無いが甲も不可も無いと言うワインである。経済性にも増して、日常のワイン消費(日々の運動量が落ちてまた強いアルコールを必要としなくなったので、ビールや蒸留酒よりワインの水和量が快くなった)では、高級ワインを味わう精神的時間的余裕が無くて惜しいので、リッターワインを本年度から本格的に吟味している。こうしたワインを基準にする事で、余計に素晴らしいワインを時々楽しめる。特別な機会にはそれよりも良い特別なワインを開けるのが至福の喜びとなる。

普段から惚れ込んだワインを飲みつけていると、「いづれそれにも飽きて来る」と、昨年2003年産の恋人ワインを見つけたが早い時期に倦怠を一旦経験した。その恋人と一時ご無沙汰して、改めて此れを試すと今でも出会った時の喜びに再会出来る。そして再会した時に、一目惚れとは違う「熟れた良さ」をさえ発見出来る。もちろんワインの経年は避けがたい事実で「良くも悪くも、あの日と同じ時は二度と戻って来ない」と認識を強くする。

何故またこのような小学生の作文のようなものを書くかと言えば、一体、高級とか贅沢とか言う基準が何処にあるのか?その価値はどの様に市場経済で認定されているのか?言い変えると、対価を支払えばどれ程の贅沢が可能なのか?と言う素朴な疑問をワインを通して感じたからである。

此処で記しているリッターワインの半額のドイツワインも存在する。それらとの品質の違いも改めて点検してみないといけないが、判定の基準は変わり無くて、価格は品質と比例しているべきであり、通常はそのように厳密に機能している。

2005年産の特徴を探りながら、またその水準を探りながら、此れから瓶詰めされて発売される高級なワインを判定する事が出来るならば、お気に入りのワインに出会う可能性が一段と高くなる。反対に、こうした判定の基準が定まってくれば、「お金を積むようなワインは存在しない」と言う摂理が分かる。言い方を変えると、芸術品であれ嗜好品であれ工業生産品であれ、審美眼があれば価格の上限は自ずと定まり、自由市場価格には無限と言うような数学的概念は存在しない。それを逸脱する価格設定は、需要と供給から導かれる骨董希少価格や投機価格を示すのだろうか?

ワインにおいては、ネゴシアンと言うような中間業者が介在しない限り、価格は手間に相当する人件費で一次的に定まり、天候などに左右される供給量は材料費・設備投資や維持経費等と並んで二次的な要素でしかない。もちろん農作物である果物の葡萄との間に市場と言う意味で大きな相違がある。これを需要と供給関係の市場秩序に原理原則を持って組み入れたのが、ユダヤ人達が構築した歴史的なネゴシアン組織ではないのだろうか。そして実際の個人需要は、質と価格の設定に敏感に影響される。実際、数年前までは直接買い付けをする個人消費者は、当たり年の高級ワインを選んで買い込んで置くと、外れ年には試飲しても購買欲が刺激されなかった。何故このような現象が起きるかと言うと、ワインはアルコール需要としては大変割高で、特別な愛好家以外には「興味の湧かない飲料」だからである。また、美味いワインは探し求めなければ得られない事実とその味覚自体が個人差の大きい嗜好に依存してだけで無く、個体差が大きい事など、大量消費需要を妨げる要素が元々存在するからであろう。(試飲百景)



参照:
リースリングに現を抜かす [ ワイン ] / 2006-01-23
採れ取れリースリング [ ワイン ] / 2005-12-20
レーマーグラスのワイン[ ワイン ] / 2006-01-07
地所の名前で真剣勝負 [ ワイン ] / 2006-02-06
化け物葡萄の工業発酵 [ ワイン ] / 2005-12-23
本当に一番大切なもの? [ 文学・思想 ] / 2006-02-04
多声音楽の金子織り [ 音 ] / 2005-10-20
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半世紀の時の進み方

2006-02-19 | 文化一般
有名なジッドの小説ではないがベートーヴェンの田園交響曲に注目している。理由は、ルソーの啓蒙主義によらず、広義の環境と言う事で興味を持ったからである。生の演奏を聞いた経験は、カール・ベーム指揮のヴィーナー・フィルハーモニカーの演奏ぐらいであろうか。録音もそれほど所持している訳ではないが、それでもかなりの種類の演奏を耳にしている。

手元にあるLPが最も古くから所持しているの物の一つで、フォン・カラヤンとベルリナー・フィルハーモニカーの最初のベートーヴェン交響曲全集である。この録音とは、満八歳ぐらいからの付き合いであろうか。今回鳴らしてみて大変面白かった。この録音でこの曲の真価を知る事は困難だが、その演奏された時代を知る意味で何時までも顧みられるかもしれない。その後の再三の録音やそれ以前のフィルハーモニア・オーケストラなどとの録音を聞かずともこの前代未聞の指揮者の全ディスコグラフィーがこれで充分想像出来る。それにしても作曲家の描いた心象風景は、ここでは当時の重量級の最新型メルセデスでアウトバーンを走るように、スイスイと通り過ぎて行く車窓の景色になっている。合理的な構造は至極上手に処理されて、そのような環境を知らない世界中の人達が恰も見知らぬ土地の絵葉書でも見るかのように音の風景に吸い込まれる。細部をルーペで拡大しようとしても、目から離して一望しようとしても、その雰囲気や実感は摑めないどころか、景色はじっと凝視されるのすら拒んでどんどんと先へと早い速度で流れて行く。

その後の精緻さを増した、千年天国を目指して繰り返された再録音への意思を指して、1994年に評論家のヨアヒム・カイザー教授は、「この帝王と交響楽団は、末期にはご乱心していた」としている。それは、「作品や思想の仲介や、専門的な隠語など無関係な者達への豊かなQOLの仲介と、軽薄な売れた舞台芸人との間の見えない境界を越えて仕舞ったからであり、エンタテーナーとしての自己実現や金儲けが、対象への興味を越えて仕舞ったから」であるとしている。

ここで、槍玉に上がっているのは当時スキャンダルとなっていたユスティス・フランツの新帝王への試みでもある。「忙しいピアニストでも、充分に指揮の能力がないので、若い純な見習い音楽家達に反乱を起こされ、バーンスタインやチェリビダッケを引き出した」この監督ばかりか、それが率いる「シュレスヴィック・ホルシュタイン音楽祭に美味しい蜜を求めて遣って来るぺテルスブルクの指揮者やアルバン・ベルクカルテットの連中も(取り巻きにチヤホヤトされて持上げられた)同じ穴の貉であるかどうかはどちらでも良いが」と、今読んでも手厳しい論評をしている。前者に関しては東欧経済援助の一環に乗って、また当時参加した若い音楽家などへ与えた心理(此処で扱われている栄光とみすぼらしさ)を利用して、その後の世界をまたにかけたドサマワリ商売へと繋がっている。後者については平均率的な演奏で従来の室内楽を越境して大ホールに進出したアンサンブルを今更思い起こす必要は無かろう。

カイザー教授は、マクベス、ナポレオン、ヒットラーを比較に出して、エンタティナーのポピュラリティがセクトの傲慢なポピュリストになる時点を解析して、稀にみるキャリアーへと至った自己への熱狂と往々にして芸術に欠かせない事象への熱狂が消滅して行くその時と、それを定義している。そして、誰が何処に含まれるかを示す為にこそ専門家が必要なのだと自己宣伝をする。

一体、誰が誰を必要とするのか?先日、パリのゲーテ・インシュティツートでオペラ座のモルティエー博士と演出家のシュリンゲンジッフ氏の対談の会が開かれたようだ。テーマは、「高度な文化と通俗な文化」であって各々が其々を代弁する形式となっているが、「今晩此処で傲慢なエリート文化と呼ばれる高度な文化は、ただたんに庶民文化の基礎なのか、どうかは不明です」とオペラ座支配人が溢すと、「その無知の主体は、誰なのでしょう?」とこの勇敢な若者が突っ込んだのが唯一の意見の相違点であったという。

どうしようもない「蝶々さん」の三幕に日々七百枚のチケットが売れているのに、ピーター・セラーズ演出カイヤ・ザリアホの新作「アドリアナ・マテール」には四日間で三十三枚のチケットしか売れなかったと、そしてこのままのルーティンの仕事なら税金の無駄使いで、オペラ座など直ぐに閉めた方が良いと憤る。それに対して、大胆不敵な演出家は、終始「減速」をこの日のキーワードとして、壁時計と腕時計の針の進み方の速度の違いを、些か自信無げに示したと言う。そうして、パルシファルのアムフォルタスとアンゲラ・メルケル若しくはジャック・シラクはたまたサダム・フセインなどの権力者の影に潜むのものは全て同じだと洞察力豊かに示唆を与え、自らの即答の間違いに気づくと素直に言い直しをする演出家に、聴衆は沸き、一気に盛り上がったらしい。

無思考の聴衆と戦う監督と様々な評論家と戦う演出家は、素早い反応と示唆に富んだ知的で楽しい会話を舞台上で繰り広げたと伝えられている。前述の憂う老評論家とこの跳ね返りの若き演出家の間には半世紀ほどの時が流れている。前者の言うようなビジネスモデルは既に過去のものとなり、精々文化の辺境にしか存在しない。後者の言うような通俗な文化が洗練されて、本当に高度な文化へと進んで行くのだろうか?前者の定義する権威者こそ、後者の示唆した主体なのであろう。



参照:
本当に一番大切なもの? [ 文学・思想 ] / 2006-02-04
吐き気を催させる教養と常識 [ 文化一般 ] / 2005-08-18
伝統という古着と素材の肌触り [ 文化一般 ] / 2004-12-03
デューラーの兎とボイスの兎 [ 文化一般 ] / 2004-12-03
公共放送の義務と主張 [ 生活・暦 ] / 2005-12-24
御奉仕が座右の銘の女 [ 女 ] / 2005-07-26
文化的回顧と展望 [ 生活・暦 ] / 2006-01-01
文化の「博物館化」[ 文化一般 ] / 2004-11-13
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肉屋の小母さんの躊躇

2006-02-18 | 料理
シュヴールテンマーゲンは、此処でもお馴染みである。しかしザウマーゲンの専門店の胃の形の儘のもの試すのは初めてである。

肉屋の小母さんに切り方なども教えてもらう。焼ジャガイモに付けたいと言うと、横に置くだけで火にかけては溶かしてはいかんと当然の事を強調した。確かに食して見ると、ゼラチン質が少なく、このような食べ方を余り薦めなかった理由が分かった。

プファルツの名物シュヴァールテンマーゲンを、バイエルンの煮凝りのように焼ジャガイモと食すというのは邪道と言う事が知れた。

地方によって代替出来る物もあるが、好みとか食環境が違うので、必ずしもそれらがしっくり来るとは限らない。同じような材料でありながら何故そのような差異が生まれてくるのかは大変興味ある民族学となるのだろう。ビールとワインの生産供給需要の違いだけは、重要なファクターとして既に認知している。



参照:
厚切り咬筋と薄切り肝臓 [ 料理 ] / 2005-12-01
夏の森の薬草と珍味 [料理] / 2005-06-28
夏の惣菜 [ 料理 ] / 2005-07-21
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まだ言論の自由がある?

2006-02-17 | BLOG研究
デンマークに端を発したモハメッドの漫画騒動から、一つのBLOGサイトを覘いた。サイト運営者のクレッチマーさんは、ドイツ連邦議会での平静な議論への提議とドイツ国内のイスラム団体への評価を支持している。そして、左翼から右翼までまたは自然環境団体やパキスタンが暴力的な行為に出て居ない事を茶化しながら賞賛して、報道や教会や政治が傲慢な議論をしていなければこれも賞賛するのだがと皮肉る。特に、西側の常識-特に報道の自由-を、言論の自由を、男女平等を議論無しとしている事を挙げて、ここで息子ツ・グッテンベルク代議士の強硬な態度にリンクを張っている。そして、同じ目の高さで価値基準を語れることを肝要として、このような状況では布教は難しいと言うイスラム教代表のコメントを引用する。最後に予期に違わずネオ・マルキストのアドルノを引用するとはと自嘲して、「狩人に突然射撃されて、気を失い倒れる二頭の兎が、はたと我に返り逃げて失せる」童謡を譬えた名著「ミニマ・モラリア」の「退化の章」からの「理性の一節」で筆を置く。

先日のFAZ記事では、スエーデンの同化政策が扱われている。隣合わせのスカンジナヴィアの王国間でも事情が異なる。1971年に纏められたスヴェーデン語の冊子が紹介されている。社会システムを簡易に紹介して自国民にも勉強になる内容そうだ。TVシリーズと並行した政治学者トーマス・ハマールの企画の様で、基本的情報だけでなく、現在から見ても厳しいところを突いて来ていると言う。

「女性は、男性と同様の権利を有する。家庭の経済や子育てや自らの生活に於いても」とあり、「男性は女性の主人ではない」と否定法で叙述している。なかなかユーモアにも富んでいて上出来のようで、このような読本を求めているドイツの政治家は多いと紹介している。

しかし、今回の騒動を今更価値観の闘争として見ても致し方ないので、余り事件に関心を持たずに居たのだが、こうした意見を読むと、それはそれで考える事はあるものと気が付く。例えば、モスリムの人口学的なダイナミックがその価値観に先ずは影響を与えないとしながらも、現在最も重要な劇作家ボート・シュトラウスはシュピーゲル誌で、「ムスリムの同化力がまたそれ以外のムスリムとの同化に依存しているので、これは我々が其々の家庭によりも我々の社会に多くを依存しているのと同じであり、学ぶ事が多い。」と語る。

つまり、ここでは複数の並行した社会が存在していて、人口学的な変動が問題となっている。「大多数とは何か」と言う問いは、移民政策の場合だけで無く世代交代やマクロな世界的な社会システムを考える場合に重要であろう。具体的に、世界第二位の規模を持つイスラム教のみならず中国の拡張主義を考えれば分かり易いだろうか。欧州の主義主張を堅持して影響を与えて行く上で、これは無視出来ない学習であろう。

同時に取り上げられた視点として、ギュンター・グラスがスペインの大新聞エル・パイス紙に答えて、今回の事件を「野蛮と強制的な報道自粛の戦い」として、「メディアは大企業の一部であり、公共の主張を牛耳っている。我々が言論の自由を求めるという権利すら失われている。」と大胆に述べている。

社会主義化するEUにおいて、今回の事件の発端となった保守的なデンマークや進歩的なオランダなどが大多数派のなかで、何らかの立場を示して将来的なシステム作りに貢献するのだろう。価値基準は一体誰のものなのか?その時に其々の文化的な水準が高いところから低い所へと流れるように影響を与えて行くのか、それとも平均化ではない高い水準での価値基準が設定出来るのか。

「世界の流れは狂っている。それに注意深く寄り添い付和雷同する者は、狂人の一部となるのである」と、アドルノは「山と深い谷の間に生きる兎」の譬えで、「やっとこさ極端な者が気を持ち堪えて、気がふれた者は一体化して判断停止をする」と対置する。さらに、外観上の不幸即ち絶望の無効を以って初めて、兎は自らがただ「まだ生きている」のかではなくて「まだ命がある」のを悟るのであるとする。気を失った兎の悪知恵は、罪をくすねてやった猟師から自らを解き放つと結ぶ。



参照:
リベラリズムの暴力と無力 [ 歴史・時事 ] / 2004-11-06
キッパ坊やとヒジャブ嬢ちゃん [ 歴史・時事 ] / 2004-11-06
平均化とエリートの逆襲 [ 文学・思想 ] / 2005-11-06
固定観念を越えた感応 [ 文化一般 ] / 2006-02-10
「証拠を示せ」と迫られて [ 文学・思想 ] / 2005-06-08
デューラーの兎とボイスの兎 [ 文化一般 ] / 2004-12-03
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充血腸詰めがつるっと

2006-02-16 | 料理
ブルート・ヴルストは、豚の血と膏身に香辛料を入れて煉ったソーセージである。世界的に最も古いソーセージ類と言う。ローマ人の戦勝のお祝いの食事であった。そのような謂われがあるからか、ローマ人の町ケルンでは、特産のケルチュ・ビーアにこれを食すと言う。

旧約聖書の教えからユダヤ教では血の入った食事はご法度だが、中世初期にはキリスト教もこれを異教徒の食物として禁止しようとしたと言う。民衆の強い反感を買って、血のソーセージの食文化は廃れなかった。

このように欧州各国にこのソーセージは各種あるようだ。現在、中世風として食べる方法が、マッシュポテトにこれを炒めて付け合せる方法である。そのままを食べる方法もあるので、干し加減なども様々であって、目的にあったブルート・ヴルストを入手しなければいけない。

柔らかいブルート・ヴルストをこうして焼いたが、フライパンから下ろす最後の一瞬に一本の皮がつるっと完全に剥けてしまいショックであった。ジャガイモを潰して混ぜ合わせるには、手間が省けたのであるのだが。

血を使う名物料理は地元にあるので、これも改めて詳しく紹介しなければいけない。



参照:
固いものと柔らかいもの [ 文学・思想 ] / 2005-07-27
蛇が逃れる所-モーゼとアロン(2)[ 音 ] / 2005-05-03
そして鼻の穴が残った [ 料理 ] / 2005-08-04
不可逆な一度限りの決断 [ 女 ] / 2006-01-25
意志に支配される形態 [ 音 ] / 2006-01-05
北の地で血を吸った大斧 [ 文化一般 ] / 2005-10-27
交差する実験予測と命題 [ 数学・自然科学 ] / 2005-08-13
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何処へ向って滑り降りる

2006-02-15 | アウトドーア・環境
アルペン・スキー複合競技をTV観戦する。この競技は、最近再びその価値が見直されている。男子滑降を冬のオリンピックのアルペンの王者とすると、滑降一本、スラローム一本若しくは二本の複合競技若しくはスーパー複合は、差し詰め皇帝であろうか。今回の滑降コースは、斜面がなだらかなのでコンクリート化されて、コース採りやエッジの掛け方の加減が結果を左右しているようだ。素人にも、巡航する事の難しさが良く分かる。三十五歳のノルウェーのキュースなどの体重移動やオーストリーの歌手スキーヤー・シェーンフェルダーの細やかなエッジ制御などに魅了されるだけでなく、素人にもトップスキーヤーの意識が手に取るように分かる。半分の速度でも充分な遠心力と戦わなければいけないので、足腰の強さだけでも凄い。

この大きな斜面の無いイタリア側から反対側に滑り降りればフランスで、二つのそれほど大きくは無いスキー場は繋がっている。峠を越えてグルノーブルの方へと下って行くと、19世紀からスキー開発されたイゼーレとなる。此処には2200メートル以上の高度差を一気にオフピステで真っ直ぐ降下できる斜面があったりで、態々出かける価値がある。新雪が乗って豪快極まりないスキーが楽しめる欧州でも数少ない機会を得る。その時、天候が崩れてロープウェーが止まったりしたので、此処から日帰りでイタリア国境のセストリーエへと遠足したのであった。

セストリーエの印象は、標高も低く雨交じりであったので、こじんまりとしたシーズン終了の町は、嘗てのフィアット王国の田舎の部落という感じであった。元々イタリア料理を摂る事が目的だったが、春の霧の中を仲間とチケットを交換しながらも半分づつ幾らか滑った。そこのFIS公認のアルベルト・トンバのホームゲレンデであるスラロームのぐさぐさの雪の斜面も滑った。夜間照明のある斜面で、三段ほどに別れている素直な斜面であった。

今回のオリンピックの複合スラロームでは、内側から水を注入してアイスにしてアイスバーン以上に固めてあり、失格者が多く出る短い旗門と完全アイスの斜面は、通常の夜間での試合よりも堅そうに見える。シーズン中の自宅であるキャンピングカーで着替えを済ました米国人ボディ・ミラーは、滑降に続いて一本目でトップに立ったが、オーストリーTVチームの分析用のカメラで旗門不通過が判明、失格。オーストリーの実力者ベンヤミン・ライヒが首位に立ち、三位の米国人テッド・レギティーとの勝負となった。結局、二本目に旗門不通過の前者が失格して、生まれ故郷の深雪の斜面の中から発掘されたと言うスキーレーサーとしては新米の後者が、短い角付けを駆使して皇帝となった。

こうして競技を観終わって改めて感ずるのは、アルペン・スポーツ競技が山間の村の生活に密着している事であり、超一流選手の用具メーカーと契約金の収入などの重要な経済はマクロな視点ではそれを補っているに過ぎない事でもある。その経済構造の基礎は、裾野の広いスポーツ愛好者層があって、用具の売り上げだけで無く、観光客をひきつけるなどの経済効果を挙げることでもある。競技によっては、このような経済構造のタイプが存在しない。それでも今回のオリンピック中継を観ていて強調されているのは、「ポップスターのように持て囃されるそこそこの選手」と超一流スケート選手のアニー・フリジンガーの旦那のような「メダル獲得後は、自分の牧場で働く素朴な農民」の対照である。

プロ・スポーツ選手の経済については今更繰り返す事も無いが、ジャーナリズムが絶えず基本的なスポーツ精神を顧みて批判的に扱って行く事が健全なスポーツ振興・経済を保つ必要条件であると語っている。公共福祉である体育施設などの整備は営利企業では出来ない国民経済の基本でもあり、これがあってこそ天賦と適正のある選手層と幅広い購買層を形成出来るという基礎構造が浮かび上がる。



参照:
向上に相応しい動機付け [ 雑感 ] / 2006-02-14
上がったり、下がったり [ 生活・暦 ] / 2006-01-15
アルペンスキー小史 [ アウトドーア・環境 ] / 2005-03-29
黒い森のスキーサーカス [ アウトドーア・環境 ] / 2005-02-06
アルペンスキー競技の乖離 [ アウトドーア・環境 ] / 2004-12-18
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向上に相応しい動機付け

2006-02-14 | 雑感
オリンピックのアルペンスキー競技は、フランス・サヴォアとの国境いセストリエーで催されている。残念ながら男子滑降競技をTVライヴ観戦出来なかったが、フランス人の優勝は想定内での番狂わせであった。オーストリーのシュトロープが二連覇を注目されていたようだが、スイスのケルネンやノルウェーのベテランオールラウンダー、オーモットや米国のミラーなどの上位に立ったのはオーストリーのヴァルヒホファーとオーサヴォア出身のアントワン・デュネリアであった。

この競技での何時もの通り予想が外れるには理由がありそうで、あのマイヤーでさえフランス人に金メダルを譲っている。連戦のワールドカップの滑降競技でそれほど活躍しないでも、此処一番で勝つフランススキーの成果は、その西部アルプスの斜面の広大さから導かれた実力の現われと何時も思う。

今回の滑降コースで、有力選手がそれほどタイムが伸びなかった一方で、練習時から一人走り、本番で二位以下に一秒の差をつけたというのは尋常ではない。子供の時から高速で滑り慣れているとやはり違うのだろうか。その辺の感覚は、技術とか体力だけでない、底知れぬ強さに繋がるのだろう。猪谷千春選手はスタート地点でびびっていたと言うライヴァル金メダル選手の証言は、これを証明している。

女子の滑降コースで試走があって、転倒が続出した。議論されていたように、凍ったカーヴやハーフパイプ場のコースでトリッキーな作りが、あまり豪快さの無いコースを大変難しくしている様である。時速100キロメートルを越えての事故では、何人もの犠牲者が出ており、今回も一人は重傷でありそうだ。スキーだけでなく高速運動での女子選手の事故が目立つ。

年齢差はそれ以上に大きく、言われるところの「短い足」飛行隊の大スター原田の失格は、世界のメディアの折角の話題作りを潰したようだ。東ドイツの旧ライヴァル、ヴァイスフルックへのエールも空しく、オリンピックドラマのフィナーレを飾れなかった。この選手については、オーストリーのザンクト・アントンのスキー学校で同級であったフィンランドの16歳のスキー教師の娘から、この選手の「名誉挽回の心意気に感激した」と聞かされた事がある。雪国に育ち、雪に馴染んだ世界中の人達に通じる心理やスポーツドラマがあるのだろう。

そうかと思えば、ドイツのフィギアスケートの女性などは、「これで初めてのオリンピックの華やかな舞台で選手引退が出来た」と喜び、「今後は何よりも大事な商業科を学ぶ」と言う。「スポーツはそれほど重要ではないから」と聞いて、ドイツ・女子アルペンスキーの大スター、カチア・ザイチンガーを思い出した。あれ程の歴史的業績を残しながら、父親の工場の跡取りとしての義務を最優先させた見識には恐れ入る。また今回のフィギュアスケートの違うペアーなどは、ウクライナから遣って来てつい4週間前に国籍を取得したばかりで、コーチは東独のスパイ組織の方棒として現在訴追されている。

選手が全てを大舞台に賭けるのは当然だろうが、運動競技に於いて健康を失うのは間違っていないだろうか。結果を見ていると、金銭慾を動機付けとした人類の運動力の向上には限度があるようで、動機は尊い方が向上に相応しい。金銭慾の為の競技大会とするとオリンピックが一転して人類の最低の祭典のように映るから不思議である。ショートトラックのTV観戦に興奮した韓国人の雄叫びが女性の悲鳴と間違えられて通報されたとか、個人の金銭欲よりも性質の悪い動機付けも存在するのだろう。



参照:
何処へ向って滑り降りる [ アウトドーア・環境 ] / 2006-02-15
本当に一番大切なもの? [ 文学・思想 ] / 2006-02-04
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