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Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2006年01月

2006-01-31 | Weblog-Index



桃源郷の豚の胃詰め [ 料理 ] / 2006-01-30 TB0, COM4
生誕おめでとうかい? [ 生活・暦 ] / 2006-01-29 TB0, COM2
木を見て森を見ず  [ アウトドーア・環境 ] / 2006-01-28 TB0, COM0
凍て付く散歩の夢の抄 [ 生活・暦 ] / 2006-01-27 TB0, COM0
利のある円錐形状 [ 料理 ] / 2006-01-26 TB0, COM4
不可逆な一度限りの決断 [ 女 ] / 2006-01-25 TB0, COM2
フレンチチーズのお姿 [ 料理 ] / 2006-01-24 TB0, COM8
リースリングに現を抜かす [ ワイン ] / 2006-01-23 TB0, COM0
煙と何かは高い所へ昇る [ 文学・思想 ] / 2006-01-22 TB0, COM0
葡萄の地所の名前 [ ワイン ] / 2006-01-21 TB0, COM0
そこの国境を越えると[ 生活・暦 ] / 2006-01-20 TB0, COM0
テューン湖畔の薫煙 [ 文学・思想 ] / 2006-01-19 TB0, COM0
生気漲るカーヴィンスキー[ アウトドーア・環境 ] / 2006-01-18 TB0, COM0
一口グラスで飲む葡萄酒 [ ワイン ] / 2006-01-17 TB0, COM5
熱いイェーガーテェー [ その他アルコール ] / 2006-01-16 TB0, COM6
上がったり、下がったり[ 生活・暦 ] / 2006-01-15 TB0, COM0
ラジオに耳を傾けて [ 生活・暦 ] / 2006-01-14 TB1, COM8
脳に刺激を与えるお話 [ 雑感 ] / 2006-01-12 TB0, COM0
シャローンの種 [ 歴史・時事 ] / 2006-01-11 TB0, COM2
スクリーンの中の史実 [ 文化一般 ] / 2006-01-10 TB0, COM2
ライ麦控えめ穀物パン[ 料理 ] / 2006-01-09 TB0, COM8
嫌悪されている女 [ 女 ] / 2006-01-08 TB0, COM2
レーマーグラスのワイン [ ワイン ] / 2006-01-07 TB0, COM2
勇気と不信の交響楽 [ 文化一般 ] / 2006-01-06 TB0, COM2
意志に支配される形態 [ 音 ] / 2006-01-05 TB0, COM0
ある靴職人の殺人事件 [ 文学・思想 ] / 2006-01-04 TB1, COM2
ワイン耕作地に積もる雪 [ アウトドーア・環境 ] / 2006-01-03 TB0, COM7
朝だか夜だか判らない [ 音 ] / 2006-01-02 TB1, COM2
2006-01-01 00:07 [ 生活・暦 ] / 2006-01-01 TB2, COM7
文化的回顧と展望 [ 生活・暦 ] / 2006-01-01 TB1, COM4
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桃源郷の豚の胃詰め

2006-01-30 | 料理

ザウマーゲンに拘る。終に念願の煮ザウマーゲンを食する機会にありつけた。近所のワイン酒場でも人数が集まらないと食べる事は出来ない。大きさによって違うらしいが、二時間から二時間半掛けてゆっくりと暖めなければいけない。ヴィーナーやフランクフルター腸詰類同様、皮が弾けない様にひたひたと沸かしたお湯を保つのだ。今回入手したのは、932グラムの小型だったので、親仁は75分の茹で時間を薦めた。




火が通って来ると、周りの皮が張りつめて膨らんでくる。これを、一センチ程の円盤状に丸切りにする。付け合わせにはザウワークラウトやロートクラウト、若しくはマッシュポテトなどが推奨されるが、温野菜を付け合せてみた。白菜と椎茸を煮汁で暖めた。




初めての煮ザウマーゲンは、センセーショナルな味であった。世界にこれほど繊細な味覚がどれだけ存在するのだろう。塩コショウを主体とした味付けであるが、コリアンダーなどの他の香辛料がそれとは気付かせずに、絶妙の味の深みへと誘う。高級リースリングに対抗出来る、この味の構築は他にはなかなか無い。兎に角、焼くと強調される胡椒の味さえが、具の合間にひっそりとして収まる奥ゆかしさは、味の洗練の極みであろうか。

こうして書きながらも、何故に元旅行肉屋の親仁の処方による土地の料理がこれほどまでの洗練に到達しているのかが理解出来ない。効能書きを読むと、残りを暖める時には、通常の場合のようにフライパンで炒めると記されているが、そこには幾つかのヒントも見付かる。皮の縮みを避けるための二三のスリットを入れろにはなるほどと思いつつ、バターで炒めて表面をカリカリとさせろとあり、食の極みである食感にさえ至っている。

それにしても、この偉大なる地方の味がワインの伝統から導かれてきたのかどうかは分からぬが、こういう文化的洗練が地元でも余り充分には知られずに存在すると言うのは、地域の伝承を容易く扱わないで保護しようと言う意志が働いているからだろう。FAZ紙の伝えるところによると、お得意のお客さんもここへ取りにこなければいけないと言う(冬季は郵送もするようだが)。食文化に限らず、「一番良い物はそう簡単に、余所者には見せないぞ」と言う反グロバリズムが何処かに潜んでいる。そうやって守らなければいけない秘儀が此処にもあるのだ。

こういう物は祝い事に食したり、病気の時に良く噛み味わって食べるのが良いのかもしれない、5%以下の油脂で、新鮮な豚肉を湯に通しただけの、ジャガイモの入ったこの料理は健康食そのものである。名料理人ポールボキューズもこれを食したらしいが、湯がいたままを食べたのだろうか?ブッシュ・ジュニアは父親とは違いこれのご相伴には与っていない。世界の指導者であろうが、こうして金だけで買えない物が存在するのが、パラダイスへの第一歩なのである。行きつけの床屋の親仁は、知らぬ間にこんなに美味い物を食べていたのだ。



参照:
典型的なザウマーゲン [ 料理 ] / 2005-12-27
利のある円錐形状 [ 料理 ] / 2006-01-26
そして鼻の穴が残った [ 料理 ] / 2005-08-04
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生誕おめでとうかい?

2006-01-29 | 生活
フランクフルトでの誕生日会に出席した。途上のラジオで、現代におけるモーツァルトを討論していたが、若い大学教授の話が全く良くなかった。今更、モーツァルトの神懸かりの作曲の否定が常識になっていると、断定的に視聴者に宣言しても一体何になるのか?誰に何を言いたいのだろう。

なるほど、大ホールに多く見かけたのは当日のドイツ人娘のヴァイオリン演奏を聞きに来たらしい音楽教室の親同伴の子供達であった。通常は、ポピュラーコンサートのプログラムに態々足を運ぶことは無いので、久しくこのような聴衆と空間を同じくすることは無かった。その様子からして、この親御さんたちにとって、芸術とは、ある種のドリームを意味するようだ。神童・天才・名声・金満・上昇・手職・階級と言うようなキーワーズを併記すれば良いだろう。ドリームは、現実が全く見えないからこそ夢なのである。

割に合わない、非経済的な営みは、それらの夢が喩え叶ったとしても、そこに付き纏う「芸人の悲哀」もモーツァルトの世界の一部でもある。初期の交響曲とドイツ舞曲、それにト長調のヴァイオリン協奏曲をバッハ親子の二曲に挟んで250回目のお誕生日を祝った。プラハの室内オーケストラとドイツ人の指揮者による祝辞は散々な結果で、空き席も比較的多いのは事情通の聴衆はこの結果を予想していたかのようだった。このようなプログラムと演奏者で、費用を安くして、営業して行くのは興業師の腕の見せどころなのだろう。その練習量の大小が如実に表れ、その舞台裏事情に自ずと注意を引く。この現在のドイツ演奏界で最も責任の重いドイツ人指揮者は、数年前にプラハで問題を起こして、一時は外交問題となっていた。その時にはこの指揮者の肩を一方的に持っていたのだが、こうしてその仕事振りを目の辺りにすると、真実の事情が勘繰られる。建設的な批判など出来ないので、指揮者やソリストや楽団の技術的問題には一切触れないで措こう。

一部の例外を除くと東欧の音楽事情を西欧と比較するのがそもそも間違いで、プラハでモーツァルトの曲が初演されたとか言っても、嘗てはハプスブルクのボヘミアのドイツ文化の影響があっただけではないのだろうか。スラヴ文化圏の音楽の核は、全く西欧のそれの対照として存在した訳で、だからこそお互いに影響を受けた・与えた。文化的洗練の問題である。それは本質的に現在でも音楽だけでなく、其々の文化圏に存在するもので、その間には歴然とした断層が存在する。

しかしこのような機会を経ると、モーツァルトの曲の一部は既にお払い箱で、今日の視点から見て充分な芸術的価値を持っているとは言い難い。この程度の曲ならば当時の才能ある無名の作曲家も作曲していたと言っても過言ではない。バッハの最後の息子の「疾風怒涛」の試みと創造的飛翔の無い音楽も困りものだが、BGMにしかならない交響曲とは一体如何したものか?すると、ハイドンの交響曲や疾風怒涛の芸術思潮のこの神童への影響を改めて考えさせられる。

上述の教授が粋がって、お誕生日に作曲家の現在に於ける文化的な価値を敢えて批判的に扱っていた。どうせならば、BGMも文化の一部として、動物や植物がモーツァルトを聞いて生産が盛んになる事も広義の実用音楽なのかと問題提議でもして欲しかった。またラジオでは、一週間を通して所縁の地を結ぶ特番が続き、当日もベルリンからの実況がメインイヴェントとなっていた。しかし、翌日知った情報によると、指揮とピアノのダニエル・バレンボイムが倒れて急遽病院に運ばれ、代行が指揮に当たったらしい。生命の危険は無いと言うが、外見も急に老け込んでいたので健康に問題があったのだろうとは想像出来る。

誕生日は同時にユダヤ人の解放記念日である。日系アメリカ人の志願部隊はイタリア攻撃で有名だが、ミュンヘンのダッハウか何処かの強制収容所の解放も彼らが為したと言う事で、毎年のように生き残りとヴェテランが集うらしい。この二つの記念日の両方に掛けて、モーツァルトの主題による創作のあった作曲家ヴィクトール・ウルマンの話題を取り上げていた。昨今のモーツァルトを軸としたラッヘンマンやリームの作曲ついては改めて考えてみる。



参照:
勇気と不信の交響楽 [ 文化一般 ] / 2006-01-06
朝だか夜だか判らない [ 音 ] / 2006-01-02
文化的回顧と展望 [ 生活・暦 ] / 2006-01-01
観想するベテラン芸術家 [ 文化一般 ] / 2005-11-16
経済成長神話の要塞 [ 文化一般 ] / 2005-10-13
アマデウス君への反対尋問 [ 文化一般 ] / 2005-03-12
達人アマデウスの肖像 [ 音 ] / 2005-01-19
冬の夕焼けは珍しいか? [ 文学・思想 ] / 2005-01-12
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木を見て森を見ず

2006-01-28 | アウトドーア・環境


BELVEDERE 
モニカ・キス・ホルヴァート 
2004年制作






美学と生態学を足して、何もこれはボードレールやベンヤミンの専売特許で無く、散策学として扱われるらしい。ヨゼフ・ボイスがカッセル市で制作した作品「カッセルの行政」と言うのがあるらしい。「森の代名詞として七千本の木を見る事が出来るか」と言う命題である。ボイスは、7000本の玄武岩のプレートを各々の木の横に一本つつ植えて行く。その最初に全ての玄武岩を町の中央の広場に積み重ねた。当然の事ながら、町中の物が皆其々の近所でこの玄武岩のプレートを発見して、こうした木が七千本ある事を知る。つまり、森の無い町中にも森があることを発見するのである。

このような知的で芸術的な考え方が現代の都会の森とするならば、一体自然の光景とは何なのであろうかと問う。18世紀の英国の資本家やルソーが将来に見たものは、ギリシャ神話やローマの牧童たちがまどろむ川辺の日陰でも無く、またしてもそこの奴隷たちの働く生産の園でも無かった。承知の通り、現代のツーリストが描く絵葉書通りの光景は、またそれとは違う。

このような喩えは、オランダの巨匠達が見て描いた光景は、我々がその絵画に見て取る光景とも違うという考えにも当て嵌まる。巨大な風車は、決して長閑で素朴な光景ではありえなくて、現代の原発の水蒸気塔にも当たるのかも知れない。

アルプスに目を向けるならば、フェルディナンド・ホドラーなどの「特別な目」を持った画家のみならず、ウイリアム・ターナーやぺーター・ブリューゲル、ジョヴァンニ・セガンティーニ、オスカー・ココシュカなど各々が個性的な視点を持っている訳で、それらの絵画の風景と絵葉書の風景の差異は明白である。

ツーリズムが求める典型的なアルプスの風景は、アルムの生活が含まれている場合もあり、発達した観光産業が写し込まれている場合もある。何れの場合も、地方行政はそれを観光行政として、自然景観を人工的に整備する。こうした風景が絵葉書の風景と定義出来るであろう。

ある直木賞作家が初めてアルプスを訪れて、「鋭いシルエットや威圧的な形状は、人を撥ね付けるようで…山は麓から見るに限る」と言う結論に達して、当時の日本の山岳雑誌などで反響があった覚えがある。これなども、特定の風土を舞台に独自の固定された文化の中で人間模様を描いて来た大衆小説作家がその絵葉書的な風景の「自然」に当惑して、なんとか自己の認識内でその主観との接点を求めようとする作業と見て取れる。勿論ここでは、麓の現在の生活などが目に入る余裕も理解出来る柔軟性も無かったのであろう。その一方、飽く迄もアルピニズムの幻想を追う当時の雑誌読者は、人工的な自然の風景などは目に入らずに、山岳ツーリズムなどを認める事すら出来なかったのだ。

これは散策における観察や感想が何らの意味を為さない良い例でもある。木を見て、頭上に降りかかる幹や梢を見る事が出来る。森から離れて、広がる木立を眺める事は出来る。それでも森の奥行きや大きさは一向に分からない。これを地図で以って確認したり、上空から一望する事は出来るかもしれない?

そのような一定しない風景を思い描いて見る。ウイリアムテルの舞台であるフィーアヴァルトシュテッター湖畔の町ベッケンリードに木枠に包まれたアクリルの鏡が設置されている。上の写真では対岸のゲルザウワーシュトックが黒く光を反射している。これが気に入ったのでその写真のコピーを作者から貰って来た。この写真を見た時は、何故かターナーの絵画をイメージした。コンスタンスブルでも無く、何故そう思ったのか。エンゲルベルクの谷に近いので、次回は是非自分でその日の風景を写して来たいと思っている。晴天であろうが、雪模様であろうが。



参照:
街の半影を彷徨して [ アウトドーア・環境 ] / 2005-12-11
デューラーの兎とボイスの兎 [ 文化一般 ] / 2004-12-03
開かれた平凡な日常に [ 文学・思想 ] / 2005-12-30
タウヌスの芸術家植民地 [ 文化一般 ] / 2006-02-01
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凍て付く散歩の夢の抄

2006-01-27 | 生活
本日は偶々休肝日であるから、幾分健康的な雑感を。月曜日から水曜日までは快晴で、氷点下を上回る事が無かった。両日とも午後三時過ぎの時間をワイン地所を散歩する事が出来た。本格的に長い距離を歩くのは好きだが、短い時間の散歩は苦手である。それでも30分も歩くと良い運動量になると言う事を聞いて、車の生活で殆んど歩く事が無いばかりか、座り切りの生活をしていて体に良くないので、天気の良い時ぐらいは歩く心算である。

その途中でワインを試飲して、ニ三本持ち帰って来るという密かな楽しみも実は隠されている。残念ながらその機会はまた得ていないので、今後とも試してみる。それにしても氷点下の乾いた土地は、カチコチに固まっているが、湿気が少ないので霜柱とはならず、地面が凍り付いているだけである。日陰に行くと、昨年の雪が微かに残っている。

最近は、こうして歩いていると、考え事が吹っ飛ぶようになったのも不思議で、以前は絶えず考え事をしながら歩いていたのとは大違いである。如何も、この違いが散歩の基礎のようで、この技術を会得出来ないと散歩は面白くないらしい。一人で散歩して、気分転換するには精神的な修行が必要なのである。

それでも前日に魘されて叩き起こされた悪夢を、その途上思い起こして仕舞った。二日続けて夢に叩き起こされた。後の方は、従来から時々遭遇するホーンティングもので、建築空間と関係する。他の専門用語?で「呪縛霊」ものと言うものかもしれない。その土地で無く、建物に潜む「霊」なのである。幼少体験から原体験までの、何らかの思い当たりはあるのだが、これが数年に一度位は形を変えて登場する。通常は暗闇に潜む得体の知れぬ何かなのだが、今回のはハリウッド映画の脚本にそのまま使えそうに大層派手であった。思いあたる事もはっきりあって、考えると可笑しいのだが、顔を洗っても戦慄が走る。

見覚えのある室内で休んでいると、その「霊」は初めから幾らか悪さをして、壁や鍵穴や額縁の裏からポップアート調の原色の絵の具を、少しずつゴホ・ゴホと吐いて、周りを汚す。仕方ないと思いつつ、部屋を綺麗に掃除をして、終わったと思った瞬間、今度はドアの上の方の何も無い所から一斉に絵の具をドバッと一斉に大放出し始める。この時の驚きと恐怖は簡単には言い尽くせない。思わず目が醒める。これほどにスプラスティックな色合いを持った悪夢を見たのは初めてである。夢を見た赤ん坊のように動揺して仕舞う。その前日の郷愁編とこのホーンティング編の共通点や物語も探れるようだが、ある程度現実との関連が分かっていても、この夢自体が恐ろしい。

ハリウッド映画にも英国の土地の昔話にもホーンティングものが多い。メタ超心理学として研究される向きもあるようだが、そのような興味の原動力の源の方が面白そうだ。友人のある外科医教授が「アウトバーンで、時速200KM以上出してダンプカーを抜くときは、そのダンプが時速100KMで逆送してくるのを止まって見ているのと同じで、怖いよ」と面白い冗談を言ったが、この意外性が笑いと恐怖心のボーダーに存在する。言い変えると、認知出来る事象の限界が、其々千差万別に存在して、その限界点との距離が反応を左右しているようである。つまり、文化的に如何にも起こりそうな事象と如何に観察していても変化すら気が付かない事象が存在するということでもある。すると、上の悪夢の意外性の特徴も探る事が出来る。

そんな事を考えながら、街道筋まで戻ってくると、旅籠の親仁が出て来て挨拶した。毛糸の帽子で完全武装しているので「散歩かい」と尋ねると、「いやいや、停めてある車を仕舞うだけよ」と答える。誰が落として言ったか知らないが、氷の破片が数日間路上に転がり続けている「歴史的保存物のプレート」の架かる家屋の前に戻ると、外出してから既に45分ほども時間が過ぎていた。
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利のある円錐形状

2006-01-26 | 料理
元祖ザウマーゲンを一昨日、再び食した。前回の端の部分とは違い、それより内側なので胃の皮の部分は少なかったが、それでもど真中の一番大きなスライスと比べると、如何しても円錐形を輪切りにした皮の帯に包まれた感じになる。つまり、皮自体の内法と外法の長さが違う。これをフライパンに掛けると、皮は熱によって縮むので、如何しても内法が激しく縮み上がる。内法が激しく縮み上がると言う事は、その皮に包まれる肉の部分が、コーン型になって行く。これは、勿論見た目こそは良くはないが、フライパンで焼く時に片方の面は縁だけがフライパンに接して、裏返して焼くとコーンの先っぽがフライパンに接する事になる。つまり、通常のザウマーゲンのジャガイモがフライパンにくっ付いてしまうような事故が減り、また皮が縮み上がって中の肉を全体に羽交い絞めにして、ジャガイモの脱落を防いでくれる。

ザウマーゲンのフライパン上での物理的問題をこうして解決してくれるので、通常の偽物ザウマーゲンのソーセージ状の円柱形とは比較出来ない。物理的問題のみならず、箍が締められた肉は、肉汁を失う事が少ないのでこれまた素晴らしい。それでも肉身が堅くなると言うような事は決して無いのである。名物料理は本物を食うべしである。

リースリングワインをレーマーグラスに注いで、ローマ皇帝気分である。因みに写真は初回の節から、より鋭い円錐部分の調理例である。



参照:典型的なザウマーゲン [ 料理 ] / 2005-12-27
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不可逆な一度限りの決断

2006-01-25 | 
パトリス・シェローの十三本目の映画「ガブリエル」が話題になっている。青年シェローは、バイロイトのヴァーグナーフェスティヴァルでの楽劇「リング」の演出でスキャンダルとなり世界的に有名となった。現在も超一流舞台芸術家として活躍中で、当時オペラ界では奇才とされた演出も、数年前のザルツブルクでの公演を見るとどちらかと言えば精緻で音楽的内容との同調が魅力となっている。ある種の人気オペラ演出家よりも音楽的かもしれない。

さて、今回の作品は、監督の存在に負けず劣らず、初顔合わせのイザベル・ユペールが四つに組んだと話題になっている。目下フランスでの大売れっ子で、評価も高く、最も仕事量の多い実力派の女優である。今回の映画に於いても新聞出版者の奥様役の演技が、その繊細さで絶賛されている。新聞評によると、ジョセフ・コンラードの原作が1912年のパリに舞台を移されている。主人は、毎週木曜日のサロンが開かれる自宅で、鏡の前に残された妻の別れの手紙を見付け、それを読んでコニャックのデキャンタとグラスを下に落とす。そして初めて、最初の序幕の11分間に続いて、一度出て行った妻が直ぐに帰還して登場。二つ並べ称される、夫婦の深い亀裂と将来への亀裂が、非現実的なオーラの中で破局へと向う。木曜の夜から金曜日の朝にかけてのインテルメッツォに続いて、生活の延長の中でのテロが今日も何時もの如く繰り返される。

数多の夫婦破局物とは多いに異なるとあり、是非観てみたい大人の映画である。インタヴューで監督は、雪溶けまでに日数を要したと言う女優との共同作業を振り返り、単純な俳優さんに利点は無いと、この女優を根底から揺り動かして反発してくるのを待ったと語る。一方、女優の方は元々映画は、クライミングのような劇場活動に比べれば、和気藹々とした散歩のようだとしながらも、この監督は人間を良く知っているので、その理に適った要求に抵抗があった訳がなく、劇場を知っている優秀な監督が手抜きをせずに推し進めた成果と回想する。

殆んど主演の80回に及ぶ映画出演の連戦練磨で見事に訓練されたこの女優は、三島由紀夫原作の映画「肉体の学校」でも大変存在感ある演技を見せていた。しかしその映画も残念ながら映画館での上映は配送が遅れて観れなくて、TVの吹き替えを観ただけである。1998年カンヌ映画際参加のこの作品は、大賞を受賞するには画像など今ひとつであったが、原作の華族出身のモードデザイナー妙子はパリで四十歳代の一流デザイナー・ドミニックと移しかえられて、若い野性的なバーテンダーのカンターンを引っかける。恋人との教育的な逢引を重ねるうちに、独占慾から何時しか自らの許に住まわせ、母親のように世話をしだす。そして愛の鞘当ての後、原作では女は勝負を賭けて熱海へと連れ出すが、この映画ではモロッコ旅行となり、若い恋人はパリの自分のブティックの顧客の娘と知り合う事になる。若き裕次郎風のヴィンセント・マルティネのカンターン役も良かったが、年増女のイザベル・ユペールの表情やら仕草は非常に良かった。面の造作が大まかでないので、大変細かな表情に見えて、原作を読むと如何してもこの手の表情を思い起こして仕舞う。

未だ観ぬ新作映画の新聞評を今暫し読み返すと、コンラードの原作の甘酸っぱいモラルを、肉体の色付けを好むシェローはこれを「愛の悲劇」にして、イザベル・ユペールが肉体付けしたとされる。一旦屋敷を後にして、その日の内に戻って来た妻は、最後に主人に有りの侭の姿を見せる、その時の精神の色相が、青く白ずんだ血の引けた皮膚によって、黴生して行く様な映像だけでも、この映画を観る価値があると言う。

映像表現も創る者が作ると、舞台表現に劣らないほどの、示唆に富んだスリリングな表現が可能のようだ。この新しい映画の「新聞出版者のご主人の上流模倣癖」は、なぜか上流模倣癖をふんだんに散りばめた三島の小説に於ける、妙子が千吉を誘った旅行先に熱海を選んだ理由を思い起こさせる。真っ黒な田舎の夜よりもネオンサインの夜を求める若い男を評して、「上流模倣癖がまるきり無いせいだ」と考えて中庸な候補地の選択をする。

インタヴューで、イザベル・ユペールは、「ガブリエルを遥かに攻撃的な女性として描く事が出来たろうが、私達はむしろ彼女の眼の力を持って夫を真綿で〆るとする表現へと傾いた。これは差し詰め、この女性が語る容赦ない過酷そのものであり、通常はこれもひっそりと内に秘める方が強力なのである。しかし、ガブリエルに於いてはそれを示す事を第一義にしているのだ。」と締めくくっている。

こうして、ミニマリスムと称されるこの一人の女優が描いた二人の女性の、不可逆な時間の流れの中での、撤回不可の一回限りの決断が示される。



参照:
スクリーンの中の史実 [ 文化一般 ] / 2006-01-10
経済成長神話の要塞 [ 文化一般 ] / 2005-10-13
多感な若い才女を娶ると [ 女 ] / 2005-08-22
デジャブからカタストロフへ [ アウトドーア・環境 ] / 2005-02-19
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フレンチチーズのお姿

2006-01-24 | 料理
チーズの世界は奥深い。調べても分からないチーズが大変美味かった。petite tomme du papeと言うからには、有名なプロヴァンス地方のローヌワインchâteauneuf du papeを想像して仕舞う。tomme de savoieの特徴と似ていて、45%の油性がコッテリする以上に、周りの黴の緑かかった色といい、粉の吹き方といい、素朴な感じが気に入った。

特売品であるがそれでもかなりお買い特商品なので、元々高価ではないのだろう。それにしては、素晴らしく美味い。それほどのチーズ愛好家と言うわけではないが、見た目からして魅力的なチーズがフランスには多い。しかし、これはそれほど目立つことも無く、それでも良く観察すると一目惚れをして仕舞いそうなチーズである。

付け合わせのワインも簡単なローヌのワインで充分だ。言えば、このチーズは簡単な普段着に映える麗しき美女である。素朴でありながら垢抜けしていて、肉感的でありながら清楚な感じである。そして、赤ワインに白ワインに、朝食に夜食に、そのままでも料理にも使っても良しの柔軟性には、心を奪われて仕舞った。
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リースリングに現を抜かす

2006-01-23 | ワイン
2005年のワインを探して、もう一つの名門に試飲に出かけた。久しぶりに伺ったのだが、先ずはこうして狙いを定めた。予想通り、未だリースリングは出ていなかったが、ヴァイスブルグンダーを飲む事が出来た。

世間話の後、お目当てのものを試して、肯定的な印象を持ったので、違うものを試した。2004年の唯一売り切れていないリースリング辛口、ダイデスハイマー・キーセルベルクを試す。青草と言うか藁の味が結構強く出していて、以前の工業的な味よりも面白かった。再び注目して見たいと思った。その反面、日本を初めとする海外に輸出しているリースリングは、糖が醸造後にジュースで加糖した時のように分かれていて、到底価格だけの価値は無かった。更に、これを典型的なリースリングとして奨めるようなマニュアルは、心あるリースリング愛好家を失望させるだろう。スキヤキ・リースリングなどは、名門醸造所のエチケットにはそぐわない。

ここのオーナーは、指揮者のツ・グッテンベルクでミュンヘンを中心に活動している。専ら、地元では「金があると音楽に現を抜かすのが世の常」と言われるのだが。しかし、父親のカール・テオドール伯爵は、キリスト教社会同盟の創始者の一人で、同名の孫も現在代議士の様である。元々フランケン地方の名門で、曾祖父は保守派として1933年の「ナチのレームの革命」に関わっており逮捕されて、釈放後にはヒットラーの怒りを避けてハンガリーに身を隠している。その様な事もあって、息子には情操教育を施したとある。またシュタウフェンブルク家のようにヒットラー暗殺で処刑された者もいる。そのような事から、当然の如く明仁天皇にベルリンの晩餐会でここのワインが振る舞わられた。これまた裕福な音楽家フェリックス・メンデルスゾーンが自らダイデスハイムを訪れ、1842年にここのワイン醸造所の事を友人書き記していると言う。

2005年のヴァイスブルグンダーと2004年のリースリングのリッターワインなどを試飲した。前者は、香りも良かったがその値段だけの価値があるかどうかは疑問であった。後者は、果汁風味と強い酸味が素晴らしい。後味がビタミンレモンの飴を食べて、舌が黄色くなったような感じである。甘味が無くて宜しい。三日目でも楽しめたが、風味が落ちる分、この味が強く出過ぎる。

単純なリースリングは瓶詰めが完了していて、直に発売される。その他高級リースリングは、4月初めと言う事で比較的早い方か。他の醸造所では、現在高級ワインは澱引き中である。
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煙と何かは高い所へ昇る

2006-01-22 | 文学・思想
十歳になるかどうかの時分から、アルピニズムを意識していた。それにも拘らず、熱狂的な一時期を除いて、山岳文学と言われるものからは縁遠い。理由は、どうもそのアルピニズムと言うものが、その当時既に終焉を迎えていた事によるらしい。幸か不幸かこうして、ネットの世界を知り得るまで生き存えている。

そのような背景があって、実働日数は少ないながらも、経験年数だけは大ベテランの域に入っている。我が所属のドイツ・アルパイン協会のセクションの年間スケジュール発表会が一週間前の土曜日に開かれた。200人近くが集まっただろうか。如何せん、アルプスから遠い地域であるので、ミュンヘン支部のような、毎年海外遠征するようなセミプロも居なければ、毎週アルプスの壁やスキーやパラグライダー、マウンテンバイクを組み合わせるような兵も居ない。大半は、毎月の地元の山歩きを楽しみにしている人達である。熱心なフリークライマーは、他の組織に所属していたり無所属であったりするので、地元の砂岩のフリークライミングの中心メンバーが多く含まれて居るとも言えない。

それでも誰か熱心なメンバーを中心に、ある方向へと活動が盛んになる時がある。本年度は、例年の飲んだ呉れの三千メートル級ピークハントに加わって、ドロミテ等でのクライミング山行が組まれており、ここ数年の継続的な教育的活動が成果を挙げて来ている。このような事象は、何処にもある事で今まで自ら何度か経験して来ている。また急激な進展は、事故によって終焉を迎える事があるのも良く見聞きしたものである。

アルプスのクラッシックルートの踏破を通して、何らかの時代精神を体験したいと思っている。これは、アルプス・ツーリズムそのものである事は否定出来ないが、少なくとも消え行くアルピニズムに心躍らせた者が冷静さを持っての客観認識でもある。それにしても、この動機付けを持った衝動には、我ながら驚く。

嘗て、「ラインホルト・メスナーを哲学する」で、一度アルピニズムを取り上げたが、具体的な話題から改めて考えて行きたい。主要な関心は、「近代主義のアルピニズム」、「アルピニズムとツーリズム」、「環境問題としてのアルプスのローカリティー」、「レジャー・ツーリズム」、「アルピニズムの形態と素材の美学」などが容易に列挙出来る。

これらの思考は、ジャーナリズムを含む文学や芸術一般に措いて、繰り返し扱ってこられたテーマでもあるが、アルピズムの終焉と共にあまり顧みられなくなった。またその昔試みられたような、社会科学的な切り口は、唯心論的な切り口と同じように、当初から全くの役立たずであって、現時点からの再考察が必要になってきた事は言うまでもない。当然の事ながら、文化批評的にこの用語「アルピニズム」が他の用語と同義性を持っているのは容易に想像出来る。

アルピニズムス考察:
涅槃への道 [ 文学・思想 ] / 2004-11-23
慣れた無意識の運動 [ 雑感 ] / 2006-03-07
名文引用選集の引用評 [ 文学・思想 ] / 2006-04-02
木を見て森を見ず [ アウトドーア・環境 ] / 2006-01-28



参照:涅槃への道 [ 文学・思想 ] / 2004-11-23
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葡萄の地所の名前

2006-01-21 | ワイン
ヘッセン州の知事ローランド・コッホは、有力政治家であり、表向きはアンゲラ・メルケル首相の後見人となっている。今週もシュプレンガー出版の独禁法違反メディア吸収合併に支持を表明している。保守政党の闇献金疑惑やスイスやルクセンブルクでのマネーロンダリングへの関与に拘らず、その政治力は衰えず今もってポスト・メルケル候補でもある。

その政治姿勢は、ご多聞に漏れず青年保守政治出身そのもので民営化と市場原理の導入を掲げたものである。ヘッセン州議会選挙を前にして、幾らか話題になっているのが有名な州立ワイン醸造所の民営化である。この醸造所は、ショーン・コネリー主演の「薔薇の名前」のロケの場所となったエバーバッハ修道院で有名である。19世紀の初めの世俗化に伴いナッサウ家の手に渡り更にプロイセン王家に渡っている地所など、またヘッセン・ダルムシュタット公爵の所持から州の所持へと移行された地所など、その歴史的に高名なワイン地所の数々はリューデスハイムからマイン河のホッホハイム、ダルムシュタットとハイデルベルクの間に位置するベルクシュトラーセのベンツハイムまで広がり、全て合わせてドイツで最大200ヘクタール規模の地所である。

さて、現知事が公爵気分でいるかどうかは判らないが、完全民営化する気持ちは無いようで、様々な改革を奨めている。その一つに現在のライン河畔の町エルトヴィッレの本醸造蔵が老朽化しており、エバーバッハ修道院に近い名ワイン地所のシュタインベルクの斜面の地下に近代的な醸造設備を完備させようとするものである。これは、トスカーナ地方でよく行われているような方式らしいが、ドイツでは殆んど見かけないだけでなく、環境面での憂慮がされている。しかし、反対する地元のワイン農家等の団体の本音は州の醸造所の近代化による競争力の相対的な変化にあるようで、利害関係が真っ向から衝突する事になるので容易に解決されない問題であろう。

全体の状況は皆目分からないのであるが、このような州立の機関の合理化は何よりも必要であるが、それでも公の機関として効率的なワイン生産が可能とは思われない。こうした公の仕事から、ラウエンタールやエバーバッハやアママンハウゼン等の歴史的に最も重要なワイン地所であっても、必ずしも最も素晴らしいワインが生産されるとは言い難い。よって、自らは出来る限り生産規模を抑えながら、一等の地所を管理して、力のある生産者へと地所を貸与して行く事が重要であろうか。

年間五十万から百二十万ユーロの赤字額は尋常ではない。それが、2001年からの組織の民営化で解決されるものではなく、積極的な近代化による市場への参入を通して解決しようとしている。しかし、ワイン作りは決して工業製品ではないので、設備投資と原料の厳選だけでは解決出来ない多くの問題がある。つまり、現在考えられているような方策では、尚の事質の低下を招く恐れがあり、商業的にも厳しくなるのではないだろうか?先ず何よりも徹底した合理化を自らの組織に施して行くべきで、真実の民営化の道を歩んで貰いたい。

その規模や地所からして、ドイツワインの将来への影響は大きく、その利害関係も絡まって地方選挙戦に大きく影響する話題となりそうである。
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そこの国境を越えると

2006-01-20 | 生活
気候が激しく変わる国境線は、欧州の自然国境にはそれほど多くは無いようだ。中欧においてはアルプスの南北面が最も大きな分断であろうが、これを国境線としているのは、オーストリーとイタリーの間に跨るブレンナー峠やイタリアへ抜けるシャモニトンネルとスイス南面のヴァリスアルプスの山脈であろうか。前者は、南北チロルとしての文化的統一性を有していて、後者はアオスタ渓谷の独特な文化とスイスの深い渓谷へと連なる。しかし気候上の大きな分断は余り存在しない。

現在中欧に措いて、国境でのチェックを行う箇所は限られて来ている。EUとスイスとの国境も貨物輸送以外はフリーパスになる傾向にある。それでも、スイス国境はマネーロンダリングや密輸入の関係もあってまだ厳しい。チューリッヒに住む知人に受け渡すものを運んでいて、税金を徴収されそうになった事もある。その時は、流石に理不尽であるので、入国を拒否して再びドイツへと戻させて貰った。国境警備隊の言うのが可笑しかった。「チューリッヒでのアポイントメントに遅れない様にね」と言って、違う国境からの入国を示唆したのであった。勿論、二回目の国境通過トライは通過御免となった。

先日はバーゼルに措いて給油しなければいけなかったので、それを済ましてエンジンを掛けると、ライト故障の警報がディスプレーに浮かんだ。これは電装系の不具合で比較的良くある事で、最後の交差点にてエンジンを掛けなおすが警報は消えない。仕方なく高速道路へと入り国境へと進む。その時点で、数多い経験から様々なケースを考えていた。次に停車可能の場所で、つまり車を一旦国境を越えた所で駐車して点検することである。アウトバーンのサーヴィスを持つその大駐車場では、嘗てバッテリーの弱っていた乗用車を二輪車レーサーのように一人で押し駆した経験がある。また、その時に脳裏に浮かんだのは、嘗てスキー帰りの助手席で寝込んでいた同乗者を国境前で起こすと、急に不自然な態度でごそごそしだした時の事である。お陰で、その時は珍しく停車を命じられて身分証明書を提示させられた。

そのような事をあれやこれやと思いながら、何ともそわそわしてくる。既に思いはここにあらずで、暗い大駐車場でのライトの点検に行って仕舞っている。予想通りにその前に国境で停止を求められた。なるほど、国境警備隊の直感は想定内のことである。早速、車を路肩に寄せて、下車して、テールランプ等を点検した。警備隊のお兄さんにブレーキランプのチェックを手伝って貰う。明るい所で点検する事が出来て、異常が無い事を確認する。ご協力ご苦労様と心から礼を言って、国境を家路へと颯爽と走り去った。
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テューン湖畔の薫煙

2006-01-19 | 文学・思想
作曲家ブラームスが再び夏の保養に出かけたのは、スイスのテューン湖と接するブリエンツ湖畔のホッフシュテテンである。ここに1886年から1889年の夏を過ごし、第四交響曲に続く有名な室内楽三曲等と最後の管弦楽曲「チェロとヴィオラの為の二重協奏曲」作品102を完成させている。

室内楽の方は、チェロとピアノの為のソナタヘ長調作品99、ヴァイオリンとピアノの為のソナタイ長調作品100とニ短調作品108の二曲のことを指す。イ長調のヴァイオリンソナタは、友人のビルロート博士とここの夏を過ごした、老作曲家お気に入りの若いアルト歌手の為の歌曲作品105-1の引用などが顕著で、同時に冒頭の主題と「マイスタージンガーのシュトルツィングの歌」との類似性も指摘される。またアンダンテの中に組み込まれたスケルツォなどと、文学的音楽解釈を許す素地が多くある。1888年に完成されたニ短調のヴァイオリンソナタは、それすらなかなか許さない密な書法で書かれているので、かえって作曲の過程の雰囲気と言うか、印象主義といっても良いような創造の光景が浮かぶ音楽となっている。

実は、ブラームスが滞在した町の風光は、隣のテューン湖の風景とは比較出来ない。現在でも湖水面の美しさは格別で、木々の緑と高嶺の白い雪はそれほど広く無い谷に囲まれて、何処までも続く青い空へと抜け渡る。そこの風景自体が、ヴァーグナーが亡命地として力を蓄えた、ルツェルン近郊トリップヒェンの自宅のある湖や、そこを訪れたニッツェやフォィエルバッハやルートヴィッヒ二世の存在とは、ビュルンニ峠の向こう側とこちら側で粗二十年の歳月を経てその世界を隔てている。これは名曲探訪の類の話しでは決して無くて、言うなれば、形而上での芸術創造の認知に関係していて、その意味合いを知りたければ通常の音楽分析では事足りない。

テューン湖畔にある漁師の館に灯火が月の薄明かりの中に燈るのを見ていて、エーテルのように真空の中に詰まる何かに気が付く。それは芸術に措いて、形態を以って繰り広げられる表現でしかない。それは、センチメンタリズムでも刹那な印象の詰め合わせでも無い。既に18時を廻っていて、湖の果ての山波に西の空が映る。湖畔の漁師の許を訪ねたが、遠の昔に店仕舞いをしていたようで、燻製の魚を所望するどころか、見る事すら出来なかった。

しかしこれで幾らか事情は呑み込めたので、次回を楽しみにしたい。ブラームスが作曲の筆を折ろうとした意思と晩年の作品、そして上に挙げた作品群、更に以前の作曲などを捉えるには、その充満した空気感こそが大切であって、これは燻製された魚が吸い込んだ煙にも通じるものである。



参照:
求めなさい、探しなさい [ 文化一般 ] / 2005-11-27
BLOG版「伝言ゲーム」 [ 雑感 ] / 2005-11-25
ベッティーナ-七人の子供の母 [ 女 ] / 2005-03-16
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生気漲るカーヴィンスキー

2006-01-18 | アウトドーア・環境
カーヴィンスキーによって、アルペンスキーは変わった。しかし欧州のスキー場での観察からすると、そのカーヴィングへの技術移行は道具の移行ほどに急激に進んでいない。今回も一本のスキーを脱いで、片足で練習をするグループが居た。これなどは、従来のアルペンスキーをこなして来たスキーヤーのリフレッシュの意思と見る事が出来る。若いスキーヤー層は、スノーボードやカーヴィンスキーが発達して大分に年数が過ぎたので、カーヴィンスキーで始めた層が主体となって来ているのは当然である。その反面、従来のアルペンスキーをある程度身に付けたベテランスキーヤーは、自らの滑りが時代遅れになるのを危惧しながらも、本格的なカーヴィング技術の習得には余り積極的で無いかもしれない。

今回の自らの体験を顧みると、先シーズン最終日に続いて内足過重で、二日間滑りを通す事が出来た。寧ろ前回よりも苦にならなかったのは、殆んどしなかったとは言え、イメージトレーニングが出来ていたお陰であろうか。内足過重に安定したスキー靴があれば更に楽に出来ると確信する。充分に内足の小指方向に乗り切れては居ないが、様々な斜面や距離を滑っても違和感は無くなって来た。最も大きな成果は、少々の荒地ならば、カーヴィングで乗り切って仕舞える事に気が付いた事である。つまり、どの様な斜面に置いても、このように雪面を切って行ける滑りが可能ならば、従来のベテランスキーヤーが崖の上で魅せる、落としながら降りてくる含蓄に満ちたスキーは余り必要で無くなる。

さてここで考えて措きたいのは、そのカーヴィンスキーの容易さであって、言えばスポーツとして体に身に付けると、比較的斜面状況に捕われずに切っていける用具の秀逸と技術の洗練である。従来アルペンスキーに措いて、斜面を見てルート取りなどを心に描いて居た者が、何も考えずに雪面を切ってテンポ良く降りてしまえる事は全く以って素晴らしい。スノーボードに近づいてかつ、それよりも速度が断然速い。初心者がスキーを習得するのも容易になって、アルペンスキーのように修行の年月が必要なくなった。その反面、スキーの原点であるテレマークスキーが近頃盛んになっている事を顧みると、修行によって摑んだ経験は一体何であったのだろうかと疑問が沸く。

その疑問は、経験の不足した者が深雪の斜面を滑り雪崩を引き起こしたり、ターンでスピードの落ちない高速カーヴィングで自他共に怪我をしたりと言う事にも繋がる。しかし、漫然と感じる疑問は、それとは違う次元で、このような物質的な恩恵が無ければ、更に多くの時間を有したであろう「憧れ」に容易に到達して仕舞った不安感でもある。パラグライダーの時にも感じたような容易さは何らかの不安にも繋がる。

とは言いながらも、カーヴィング技術を洗練させて行くのは課題である。初めは橇スタイルで内足に乗っていたが、急斜面では乗り切れない事に気が付いて、カーヴの内心を確りと絶えず頭に描くようにして、その内側へと体を倒して行くイメージを持つと、内エッジが切れ出して来る。兎に角、日頃の運動不足が祟って、高所の薄い空気で息が上がり、スピードを出せば咽喉の奥は凍り、ゼイゼイといわせねばならない。それも休憩後は落ち着くが、そのころには昨日の疲れが足に出てくる。そして驚くべき事に、寒冷下に係わらず筋肉痛が数時間後に出て、6日以内には殆んど引いている。運動の質によるのか、このところ新陳代謝が何かによって促進されているのか判らないが、生気が漲る思いである。
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一口グラスで飲む葡萄酒

2006-01-17 | ワイン
テューン湖畔のに、月夜に凍りついた路肩が白く浮かぶ。強烈な光の帯が、ガラス張りの引き戸から小路に投げ掛かる。唯一つの公衆電話では誰かが話しこんでいる。店の玄関口に車を乗り入れると、小さな女の子がヘッドライトに眩しそうな表情をしながら、ガラス窓に顔をつけて、本日最後のお客さんの様子を窺う。

その子供のお母さんらしきミニスーパーの奥さんに、ご近所の情報を尋ねる目的もあったのだが、折り良くシャセラ種葡萄のワイン・ファンダンを古びた木の棚に見つける。ファンダンは、前日の夜にホテルで注文したのだが、何たることか普通の格好の良いワイングラスを添えて出されていた。これは、グット冷やしたものを一口グラスでグイッと遣らなければ美味くないのだ。呆れ果ててものが言えない。シオンの谷にあるマッタータールへの入り口の町ヴィスプの名物で、スポーツの後の咽喉を潤すのに最高のワインである。これをカンカンに冷やして、一風呂浴びた後に引っかけたならば、直ぐにヒートダウンが出来る。勿論チーズフォンデューをこれで遣ると、火照りが冷めて、食が進む。

スイスのワインは、貴重なのでこっそりと家に持ち帰り楽しむが、如何も現地で飲むほど美味くない。
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