Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索 引 2010年3月

2010-03-31 | Weblog-Index



はじめて身体に感じる夏の時差 2010-03-31 | 生活 TB0,COM0
復古調の嘆き節の野暮ったさ 2010-03-30 | 文化一般 TB0,COM0
自転車操業中の聖週間のお慰み 2010-03-29 | 料理 TB0,COM0
いつまでも懲りない受難の人達 2010-03-28 | 生活 TB0,COM0
経費を削減して業績回復となるか 2010-03-27 | 雑感 TB0,COM0
麗しのブルゴーニュ、待っててよ! 2010-03-26 | ワイン TB0,COM2
蛙の繁殖行為と自覚の無い加齢 2010-03-25 | 雑感 TB0,COM0
多極主義的な議論の必要性を説く 2010-03-24 | 女 TB0,COM0
抑止力の世界観が呼び起こす祈り 2010-03-23 | 雑感 TB0,COM0
今は昔の歴史と共に死す 2010-03-22 | 雑感 TB0,COM4
外国語が出来る人、出来ない人 2010-03-22 | 女 TB0,COM4
6.99ユーロの赤い覇権の攻防 2010-03-21 | ワイン TB0,COM2
半ドンでお腹を減らしふらふら 2010-03-20 | アウトドーア・環境 TB0,COM0
若手女教授の老人へのマカーブル 2010-03-19 | 音 TB0,COM2
災い転じて福となったろうか 2010-03-18 | 雑感 TB0,COM0
柔らかい緑のなかで始まる一日 2010-03-17 | アウトドーア・環境 TB0,COM2
ブレーキの効く両輪に身を任せよう 2010-03-16 | 雑感 TB0,COM0
寿司飯上のノルウェー産サーモン 2010-03-15 | 料理 TB0,COM0
期待をさせる今は昔の新商品 2010-03-14 | 試飲百景 TB0,COM0
節操の無い金の亡者の商品 2010-03-13 | 料理 TB0,COM0
新たな社会規範とは処罰の規範 2010-03-12 | 歴史・時事 TB0,COM0
白樺に倒壊を招いた宿木 2010-03-11 | アウトドーア・環境 TB0,COM0
なんだかんだいってもはじまらない 2010-03-10 | 文化一般 TB0,COM0
半移住へと弾みの語学練習 2010-03-09 | 雑感 TB0,COM6
葉緑素味の2009年産との出会い 2010-03-08 | ワイン TB0,COM0
腹筋による整腸作用を求めて 2010-03-07 | 生活 TB0,COM2
またまたゴムの圧力に魘される 2010-03-06 | 暦 TB0,COM0
飲んで義務を忘れ訴えを曲げる博士 2010-03-05 | 女 TB0,COM0
蛙飛び練習で腹筋を使う 2010-03-04 | 生活 TB0,COM0
初夏の夕餉を思い浮かべながら 2010-03-03 | ワイン TB0,COM0
急に春らしくなった今日 2010-03-02 | 暦 TB0,COM0
春一番の地響きのような音 2010-03-01 | 暦 TB0,COM6
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はじめて身体に感じる夏の時差

2010-03-31 | 生活
夏時間が始ってから夜中に眼が覚めるようになった。やはり健康に与える影響が大きい。

今までそれほど感じたことがないのだが、今年は天候と相俟ってあまり気持ち良く無い。

時差と同じで、時計が進められる時の感じそのものである。なるほど英国に頻繁に渡っていた頃は同じような経験をした。

それでも夏時間移行でそれを感じるのは初めてである。
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復古調の嘆き節の野暮ったさ

2010-03-30 | 文化一般
注文したCDが両方とも在庫になっている。遅くとも水曜日までには手元に届くだろう。

その前に聖週間に纏わる既に購入したまだゆっくり聞いていない録音を 鳴らしている。一つは、数年前に記念年を終えたバッハの手本であったブクステーデ作の受難曲「我らがイエスの御体」BuxWV75で七部構成のカンタータ集である。一つは、スペインのヴィクトリア作曲「聖週間の聖務日課」から四声のレスポンソリウム「あまねく暗くなりて」六曲である。

ブクステーデの方にはその先輩に当たるハインリッヒ・シュッツ作曲「イエス、処女マリアの息子」がコンパレーションされているが、双方ともクレヴォーの聖ベルナールの詞を用いている事から分かるように、新教の楽曲の中に旧教のミスティックな雰囲気を活かした ― ルター派の中にテンペル騎士団をみる ― 復古的な作品群である。

それとは全く異なってハプスブルク家の砦スペインから現れた作曲家が宗教改革の波の中でイタリアに学び保守的であろうとするばかりに余計に意識的な作風となっているのが四声のその曲で、洗足木曜日の夜曲、なんと聖金曜日のそれから聖土曜日のそれへと続いている。つまり1585年作曲とあるが、1962年の公会議までは六本の蝋燭を祭壇に立て、更に十五本の蝋燭が一本づつ消されていく題名の通り前日の夕暮れの行事として催されたからである。

ヴェクトルの向きが異なる一世紀ほどのエポックの相違がある全く異なる楽曲であるかと思い気や、意外に歩み寄った形になっていて面白い。要するに、相方とも聖週間の文化的な枠組みの中で創作されているに違いなく、一種の嘆き節が共通している。それは意識しているものが似通っているからに違いない。

CDが到着するのを待って、再びバッハの受難曲を見て行くのだが、その芸術がこうした新教の流れからも飛躍して、それがある意味旧教的な普遍性へと達する意味合いがここに明確なように思われる。

先日から少し話題となっていたミュンヘンの交響楽団のティーレマンの後任にロリン・マゼールが就任すると報道されている。題して最も高価な指揮者と呼ばれている。一晩あたりのギャラが昔から高かったのは想像出来るが、病身のクラウディオ・アバドよりも遥かに高いのだろう。それでも先日のヴィーナーフィルハーモニカーを指揮した「春の祭典」とブルックナーの三番の交響曲のプログラムの芸術的評価は思わしくなかった。特に前者の作られた野蛮では、現在においてあまり効果をもたないということだろう。後者もヴァーグナー的な響きとなるとあまり受け入れられる素地は無いかも知れない。そうした事をミュンヘンの野暮ったい交響楽団でやっても前前任者のジェームス・レヴァイン以上に成功するとは限らないだろう。



参照:
実感出来る資本主義の味 2008-07-14 | 文学・思想
自転車操業中の聖週間のお慰み 2010-03-29 | 料理
先月に続いて送料無料の販促 2010-02-13 | 生活
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自転車操業中の聖週間のお慰み

2010-03-29 | 料理
ワイン試飲の金曜日の一日については述べる事が多過ぎて纏めるのに時間が掛かる。朝十時前から夕方五時まで、昼食時を除いて飲み続けた。昼アルコールを飲まなかったので車の運転にも支障は出なかった。更に昼休みが効いて、吸収状況が良かったのかアセトアブデビトの生成もなく血中濃度も落ち着いていたようだ。その分、肝臓は疲れたようで、明くる日は運動後のように爽快に近い疲れを感じた。ここまで行くと飲酒もスポーツの一部のように感じる。いつもは問題となる腸にも負担が掛からず至極調子の良い試飲の一日であった。

手元不如意のため、その前日まで注文を控えていたCDも売り切れずにあったので、月末までの自動者クラブの6ユーロの割引で、五枚二種類のバッハの録音が24ユーロで入手出来そうである。生では何回も体験しているマタイ受難曲の録音がカセットテープでしかないと気がついて、CDでも三枚組みになるそれを注文したのである。入荷出来れば来週の聖金曜日までに手もとに届くかも知れ無い。同じコンツェルト・ヴォカールの演奏を2002年に続き昨晩聞いて来たので、こうした音源で予習することはあっても普通はそうした生の感興を大切にしたいのでなかなか同様の1990年代の演奏実践の録音を聞きたいとは思わないのが人情ではないだろうか。

しかし、今回は演奏実践の特徴以上に、楽曲の細かなところを詳しく研究できるのが嬉しく、実演でピックアップした点だけでも大変に知的好奇心旺盛である。いかにこのマタイ受難曲というものがバッハの楽曲創造の中でも異色なものかが良く分かったので、その一端だけでも垣間見てみたい。聖週間中の「慰み」に間に合うだろうか?更に、もしそのCDが入手困難となっても少なくとも送料無料で二枚組みの聖霊降臨祭関連のカンタータが七ユーロちょっとで入手出来るのも有り難い。そしてお支払いは一月先である。

それにしても、こうしたメディア業界は、昔日本の方々に在ったような廃れた市場のようにまるで互助会のようにな有様になって来ている。

お支払いは先送りになる例では昼食に停めておいた時に屋根瓦が落ちて後部のガラスびついた傷だろうか。深くは割れていないから温熱曇り止め電熱を使う内に拡がってくるかもしれない。トランクルームの蓋に瓦の大きめのかけらが乗っていたので驚いたが、保険を使えば不幸中の幸いといえるかも知れない。もちろん保険会社が保障を家の持ち主に求めれば自己負担分も回収できるかもしれない。急いで直す積りはないが、一度序でに見せに行こう。

その昼食には、昨年の秋に歩きに出かけた池でとれた鯉の大きな切り身のフライを食した。小骨が少し邪魔であったがお味はなかなか良くて、自宅では絶対食さないだろうが、臭みもなくて精がついた。



参照:
久 しぶりの喰った鱒料理 2009-09-22 | 料理
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いつまでも懲りない受難の人達

2010-03-28 | 生活
昨日はけったいな人々を見かけた。必ずしも春の寒戻りのせいとは言えない。寧ろ此方が関わり安そうな雰囲気を醸し出しているのかも知れないが、話掛けられて興味深い話もなくはなかった。

先ずは、ガソリンスタンドでのことである。迷彩服のようなおかしな服を来た小柄のインディオ風の男二人がジープに乗ってきてうろうろしている。英語を解さなさそうなので昔良く見かけた米軍でもなさそうだが、暫らく見ていると液体ガスを入れたいようだ。

相変わらずドイツ人の親仁達が車が並んでいるのを知ってながらももさもさとして動作が遅く好き勝手にやっているのを見ると呆れるのだが、こうしたおかしな連中が出没するとまたそれはそれで警笛を鳴らして圧力を掛けようとする。

先日見かけたように奥さんに金を払わしておいて運転手が車の中で待っているぐらいなら場所を空ければ良いのだが、日本人の友人が必ずしていたそういう行為を一切しない。車を一旦動かしてしまうと面倒なこともありえるのでそれはその状況で判断すれば良いが、ドイツ人と日本人のこの対比は極端である。そこに両民族の社会性が明確に占めされている。

さて、問題の車はどこに車を停めればガスを入れられるかを確認して、一人の男がそこに立ち、所定の位置へと列を後ろへとつまり私の後ろへとついた。そこのガス注入場所は丁度真ん中にあるので、何時かは、先頭車両に待っていて貰って敢えて逆走して所定の位置へと車を持ってきた例も見た。要するに三台の真ん中に位置していないと同時に用を足せ無いようになっている少々不便な構造になっている。

此方は先頭で給油しなければいけないので、出来る限り前に車を停める。すると足場も無いほどくっつけてそのジープが所定の位置に車を停めた。それはまあ良いのだが、此方が給油を終えて支払いをしていると、件の男が入ってきての「ノン、コムプレタ」とかなんとか言うのである。それを受けてレジの小母さんは、「クノッペンジーンスタート、ゾンストゲーツニクス」とか言うのである。すると男は此方の顔を覗きこむが、なるほど言葉の通じない者にそのような言い方をしても始らない。典型的なこの手の対応の仕方で、教えると言うことが自覚出来ていないから仕方ない。

全く理解していないと思ったので、車に帰る時ちっらと見るとやはり事が進んでいないようである。緑と赤いボタンがあるので使った事はないが、「ボタンを押せ」と教えてやったが、また赤いボタンを押していたのでその後どうなった事やら。

さて、燃料を半分ほどいれて夜はマタイ受難曲を聞きに出かけたが、またここで様々な人に出会ったり話掛けられたりしたが、極めつけの滑稽な御仁に出会った。我々二人の定期会員の間に挟まるように座っていた男が眼鏡を拭いたり、眼鏡を外してオペラグラスを覗いている様子を見てこれは厄介と思って席を空けて座わり直したのであるが、それでも結局距離が足りなかった。

総譜を捲っていると、ど近視のように眼鏡をくっ付けてプログラムの歌詞を貪っていた男が此方を拝むような顔で覗きこむのである。おかしな人間だなと思ったが、そのアジア人らしき顔を見て、これは韓国のルター教会の狂信的な信者かと思って、なるほど捲る音が邪魔になったのだと気がついた。この手の被害妄想の韓国人の特殊さは良く知っているので少々気をつけて一部を終えて休憩となった。

其の侭知らぬ顔で何処かに行くかと思っていたら声を掛けてきて、「シュプッレッヘンジードイチュ」とか「パピアー」とか首を傾げながら仰る。これは面倒だなと思って「邪魔になりましたか?」と適当に納めとこうと思うと、此方は昼に散々「行者大蒜」を食べてきて匂わしているのにも拘らず「日本人と確信されて」今度は日本語で語りはじめて「数が多い」とか「誰もそんな人は他にいない」とか、またこれは「マナーとかのたまう小日本人特有の正当化」の社会性を主張される。「珍しい御仁ですね」と笑って流していると、「私は場所をかわりますけどと言いながら」まだ文句を言う。

日本でこうした催しに十年以上数多く通った経験もあるが、なるほどBLOGなどで殆ど殴りあいになる状況があると読んでいたが、あの独特の雰囲気を思い出した。その社会学的な文化的考察に関しては改めて述べるとして、やはりこちらはその影の薄い奥さんらしきを余所に座らして入場していた親仁の事に興味が移った。此方には二三年の滞在している感じなのであるが、どうみても会社勤めの社交性が見られず、すし屋の職人や音楽関係にしては体の動きにシャープさが無い。残るは、エンジニアリング関係のエンジニアやメカニカーかとも考えるが、そのような自然化学に少しでも興味のあるものはもう少し客観性と成り行きに興味があるので、おそらくあういう入り方はしないだろう。

自分で問題を指摘しながらその正当性に疑いを持っている混乱も見かけられた。此方が反論するまでも無い論点の無い事象であるから当然である。その辺りの思考の傾向から、所謂クラシックオタクの空港のケータリングのコックか、昔の田舎侍のような顔もしているので短期遊学の教育学ぐらいの教師の可能性が高い。年齢は五十歳台なのだろうが、当方もあまり最近は健康そうとも言えないが比較するまでも無く、肝臓か腎臓でも逝かれているように大変顔色が悪い。あまり、受難を背負っているような御仁をこれ以上攻めるわけにはいかないが、お気の毒に余程音楽に集中出来なかったと思われる。それは、私のせいでは決して無いのである。それは詳しく書き連ねなければいけない興味深い話題なのである。
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経費を削減して業績回復となるか

2010-03-27 | 雑感
昨日はタイヤ交換にダイムラー社の支店に出かけた。新たなボックスストップシステムを試していて、二十分以内で完了させた。生憎カメラは持っていなかったので写せなかったが、経費削減と同時にこうした整備からの重要な増収を図っているのは十分に見て取れた。

車の整備等は、こうした自動車会社において新車販売が不調なときほど重要な意味を持つ。その売り上げの比率は調べてみないといけないが、新車直売網と密接に関連しており、個人顧客のみならず大手の法人顧客もこうした支店網でバックアップされるシステムとなっている。要するに、警察・緊急車両だけを考えても迅速で合理的な整備が要求される。

そのような理由で、マイスターなどの人員整理が若干行なわれたかどうかは判らなかったが、経営の合理化が要求されている企業としては出来るだけのことをしているに違いない。

さてタイヤ交換においては、実際のところ近所のガソリンスタンドでも安くタイヤも購入でき二十ユーロもせずに交換して貰える訳で、態々支店に車を持ち込む必要は無く、それなりの付加価値が要求される。

その意味から、見習いらしきかなり安く働いていそうな若もの四人がかりで一挙にタイヤを交換させて、まともな四十五分の労賃を取ることで既に利益が上がっている。その間、預けてあったタイヤの検査は済んでいるので、親方による目視チェックや液体の比重チェックなどが同時進行する。昨年ガラスを踏んでいたのでそれの認知だけが行なわれて、冬タイヤももう一シーズン使えそうなことも確認したので、請求書が来るのを待たねばいけないが、まずまずの満足度だろうか。

ポルシェやBMWと比較すると車両価格は同じようであっても、メルセデスはその使用方法の違いもあって維持費は半分以下である。その点が最大の魅力であり、それゆえかクライスラーとの合弁失敗後の株価の低迷に響いている。

ルノー・日産との合弁の第一報が流れているが、株主総会までに十分な説明がなされると思う。今や一般株主もネットでオンタイムで採決に参加できるので、かなりの浮動票がそこで左右される。少なくとも、千株でまともな車を買えないような株価では困るのであり、合弁となると急速な株価の復帰か、五年以内の還元を要求するのは当然であろう。今年の総会は間違いなく多くの一般の小株主がコムピューターの前で権利を行使すると思われる。
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麗しのブルゴーニュ、待っててよ!

2010-03-26 | ワイン
スーパーの奉仕品であるピノノワールをゆっくり試した。2007年産のブルゴーニュのアペラシオン・コントロールであるからそれなりに期待した。

一般的にACブルゴーニュのピノノワールの価格帯は5ユーロから13ユーロぐらいまでのようで、ブルゴーニュ通であるVDP会長のクリストマン氏がVDP加盟醸造所に6ユーロ以下のグーツヴァインを販売させないとする戦略はこの価格帯から来ていると想像される。同じフランスのボルドーがリッター2ユーロの攻防をしている事からすると三倍の価格である。

さて飲んだ印象は、そのこのヴィンテージ特有の色の薄さを裏切らず、殆どボージュレーヌーボーと変わりなかった。タンニンが全く感じられないのは敢えてそうしたワインとして仕上げているとしてもまるでガメー種のような押しの強さが感じられて驚いた。その意味ではテロアールがあまり美しくないかたちで反映されているのは間違いない。

香りや味自体は軽いフットワークでその辺りの上滑り的な印象は、まさにフランス音楽そのものなのだが、アルコール12.5%がそうした押しの強さに結びついているようで解せなかった。明くる日は甘みが出て仕舞い食事にも不味かったが、初日は食事を流しこむワインとして、豚フィレをジャガイモで捲いてある食事にはなかなか良い相性を見せた。

結論からすると、このワインに九ユーロ近く払うワイン通は皆無だと思われる。なるほど、その価格でドイツのシュペートレーゼの良いものを見つけるのは困難であるが、先日購入したゼーガーのそれなどは7ユーロで遥かに上質の本格的なピノノワールであった事を考えると、この手のブルゴーニュワインの価格は正当ではないことが知れる。

ボルドーの三流のシャトーワインの方が価格が高いのは当然で、それよりは大分安い分フランスでもこうしたACブルゴーニュの市場はあるのは間違いない。しかし、ドイツにおいて八ユーロも出せばそこそこの赤ワインがあり、高級リースリングには事欠かないことから、こうしたブルゴーニュの市場は殆どないであろう。寧ろ安いボルドーは価格でやはり市場競争力がある。

これも産地による差はあるのは間違いない。ボーニュ周辺のピノノワールは様々飲んでいるので良く知っているつもりだが、なるほどこのクラスとは比較出来ないとしても基本的にはあまり大したピノノワールは無いと承知している。ACブルゴーニュにおいてももう少しましな土地のものならば楽しめるのかも知れないが、10ユーロ近くも出すならば、ドイツのシュペートブルグンダーでもその市場は厚くなってくるので競争力はあまりないかも知れない。少なくとも価格が下がらない限りこのクラスのブルゴーニュにはあまり食指が動かない。なるほど、手摘みのグーツリースリングの質は、好き嫌いは別にしてアルコールとして比較出来ないほど上質である。



参照:
6.99 ユーロの赤い覇権の攻防 2010-03-21 | ワイン
griotteさんとヘレンベルガー・ホーフ試飲会へ (新・緑家のリースリング日記)
ポール・ペルノ ピュリニー モンラッシェ 2007 (ワイン大好き~ラブワインな日々~)
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蛙の繁殖行為と自覚の無い加齢

2010-03-25 | 雑感
先の日曜日の事件を書き留めておこう。一つはハイキング途中で見かけた蛙の死亡交通事故である。驚くほどに繁殖力ありそうな緑の蛙が活発にしているゆえか、池からハイキング道にまでどんどん出てきていた。外も朝方強い雨が降ったので十分に湿り気があり、空気は蒸し暑いほどに温度が上がり掛けていたので当然と言えば当然であろうか。我々も注意して歩かないと草叢で踏んづけてしまうどころであったが、マウンテンバイクとなると避けようがない。こうした季節はマウンテンバイクの通行止めも止むを得ないだろう。

そのようなぬかるみを行進して、昼時にアルコールが入ったかどうかは知らないが、一人の親仁が膝を逝かして仕舞った。痛み止めの薬を持っているので服用したが、そんなもので歩けるようにはならない。通りかかった狩人のジープに乗せて貰って下りて行った。驚いたことに、終了点の駅につくとその親仁が駅のレストランで待っているのである。これには呆れる者が多かった。

歩けないから乗り換えに我々の力を借りて地元まで帰って来たが、大変な足手纏いとなっていた。どうせ休日待機の医者にいかなければいけないので、「私なら息子を車で呼び寄せる」と訝る者がいた。年寄りが多い社会になるとこのようなことが頻繁に起こるのだろう。

前から気になっていた一本杖の親仁がまた来ていたので意を決して尋ねた。「あんたはストックを一本失くしたのか?」と、すると「殆ど使う事がないんだよ」と言いながらしっかりついて歩いている。

これは思っていたよりも奥が深いと思って、「もう一本はどうしたのと?」と執拗に聞くと、「家に置いてある」と仰る。

「そりゃ、一本づつ使えばちびらなくて寿命は二倍になるわさ」とからかったが、これも老人性の拘りや思い込みなどがあるに違いない。

件のポンプエンジニアーに冬の間の健康管理を尋ねると、昔はしたが今はアルペンスキーもしないのだという。歳とってからの怪我が怖いという理由である。

もう一人の遥かに若いリーダーの男に同じことを聞くと、雪の中を膝まで潜りながらハイキングをしたと語る。「少し太ったのと違う」と聞くと「元々デブだから」と答える。実は、観察しているとその体のキレの悪さと、一年振りで彼を駅で見かけたときに「小さくなった」と感じたからであって、明らかに年寄り化しているのであった。昨年は担いでいた大きなリュックサックが今年は私と同じぐらいの小さなものになっていた。

この冬の雪の多さの話を聞いたら、19歳の1968年の冬に経験した以来だと語るので年齢が分かった。あのいろいろあった年かといっても、全くアカデミックな人間ではないのではじまらない。しかし、同じ年齢になった時に自分が彼のように自覚がないような事はないと思うのだがどうだろう。

一年間ほどでのこれほどの印象の変化は肉体的な急激な変化を示しているに違いないが、本人は自覚していないことでありそれ以上は言える間柄でもないので示唆しただけなのである。そうした複合的な自覚の無い加齢は対症の仕方がないように思われる。



参照:
認知年齢の大差は何処に 2009-09-04 | 生活
多極主義的な議論の必要性を説く 2010-03-24 | 女
王女とカエル王子 2006-07-08 | マスメディア批評
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多極主義的な議論の必要性を説く

2010-03-24 | 
日曜日に話していたメールが入っていた。アルペン協会の会員だがハイキングで一緒になるぐらいで、それ以上の山では同行したことがない定年後の女性である。聞いてみるとクレッターシュタイクは好きだと言うが、団体の中で迷惑をかけるのは嫌だとあまり参加しないらしい。子供さんから手が離れて、新しい恋人といつも行動を共にしている銀行勤めをしていた女性である。

すしや情報や日本週間の情報を知らせる事になっていたので電子メールを送ってきた。まだ日曜日の疲れは残っているかも知れないが元気である。コメルツバンクでもそれようのソフトウェアーを使っていたので最近購入したノートブックが最初のPCで新しくネット契約をしたようである。ウインドーにも慣れていないので、何時になることかと思っていたら、昨晩の内に入信していた。流石に、一流銀行に勤めていた女性だけに仕事は早い。

今回の日本週間は、姉妹都市関係も岩手の葛巻町と全く想像もつかない姉妹関係しかないような小さな町バートデュルクハイムでのそれなので大きな関心を集めるには不十分である。鯉の業者がいて、弓道の道場があって、日本旅行案内情報があると言うがなんら意味があるようには思えない。市内には日系家族は二つしかない筈である。

そのような理由でお二人を是非お誘いした。旦那の方はミュンヘンの工科大卒のポンプのエンジニアーである。シュツッツガルトで同窓会がある頻繁に出かけているがその割にはあまり海外との関係が薄そうで結構無垢な一世代前のエンジニアーである。

ご本人もシュトッツガルトのギャラリーに出かけたようだが、興味があるのは数少なかった印象派とかレンブラントとかで、中世やルネッサンスとなるとあまり興味がないらしい。それでもボイスの兎のものは面白かったと話していた。あとで音楽の話になって、ベートヴェンとかチャイコフスキーとかが出てきたので、「そんな事は絵の話を聞いていれば分かった」と笑った。

当然ながら日本への知識も芸者から入っているのだが、最近は緑茶などのこともあるので、今回のカイザースラウテルンまでの ― 此方は文京区との姉妹関係である ― プログラムに強い興味を持ったのは間違いない。薄茶と濃茶の相違は知る良しはないが、煎茶と抹茶の違いを知っていれば十分であろう。

件の日本庭園にも一度は訪れたことがあるようで、家屋の中には入れなかったようだが今回は十分な経験が出来るだろうと話した。芸術でもワインでもなにでもそうだが極一般的な印象や受け止め方を知るのは特別参考になる。所謂オタクとか業界とかに属すると、それも何十年も半世紀もそれに親しんでいると、部外者の立場というものが全く分からなくなってしまうことがあるからで、それの最たるものが自らが育った特有のネイティヴな文化と呼ばれるものだろう。

例えば、ルネッサンス音楽のどうやって説明するかとなると、ヴィヴァルディやコレルリやバッハのバロック以前はグレゴリアン聖歌を思い浮かべてしまう層には、「多声でカノンすればどこかで調和して対位法が生まれるでしょう」と説明するしかないのだ。同じように、茶道は、弓道はとの問いかけに既知のものから認識出来る方策を取らなければいけないのである。もちろん、社会学的な説明や歴史観の中でそれを再構成vし想像することも大切であるが、こちらは「芸者趣味は女性向きの話題」であるから未だに人気が衰えないと言うことも習うのである。



参照:
反照に浮かび上る世界観 2008-12-21 | 歴史・時事
女子供文化の先祖帰り 2008-04-20 | 文化一般
反面教師にみる立ち位置 2008-02-13 | 歴史・時事
教義化された聖痕の治癒 2007-03-25 | 文化一般
絵に画いた牡丹餅 2007-03-18 | BLOG研究
フリーセックスのモナーキ 2006-11-15 | マスメディア批評
活字文化の東方見聞録 2006-05-12 | マスメディア批評
イリアスの発想の転換 2009-05-03 | 文学・思想
メロウブーケの試飲会レポートとともに (ヨーロッパ、ドイツワインについてのいろんなこと)
『フィガロの結婚』をつまみ聴き 文化の相互理解について (日々雑録 または 魔法の竪琴)
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抑止力の世界観が呼び起こす祈り

2010-03-23 | 雑感
1990年までこの森に化学兵器が貯蓄されて、長く百万人もの人々を脅かしていたのでした。

感謝致します、それが一度も使用されることなく廃棄のために1990年の夏に搬出されたことを!

神、命の友よ、有難うございます。あなたの創造物の破壊から私達を護りたまえ!


日曜日に森の中を二十キロ近く行進した。そのフランス国境に近いプファルツの森にはABCの兵器が貯蔵されていた。冷戦の前線でも無いドイツ連邦共和国の奥深くにこうして隠されていたものである。もし有事があり、なにかが起こったらと思うと恐ろしいばかりの現実であった。

これをして殆ど祈りに近い形でこうした記念碑を築く気持ちは素直に理解出来よう。むしろ、ここに刻まれている言葉には、脅かされていた百万人の思いだけでは如何にしようも無い世界の現実が示されている。

そうした現実を、ある世界観を通して謙虚に見つめるところから全てがはじまる。言い方を替えれば、ある確固とした世界観が無い所では、こうした恐ろしい終末へとブラックホールのような大きな口を開ける世界も覗き込むことなどは出来まい。

東西ドイツに代表される冷戦構造や南北朝鮮の臨戦体勢に代表される社会を実感することなしに、もしくは無差別空襲や原爆などを自ら経験しない限り、民族間・内の紛争や利害関係による紛争に対する徴兵とか軍備とかを考察しても、こうした世界観を通した視座はなかなか生じないに違いない。



参照:
国家、国籍、参政権をめぐる問題 (作雨作晴)
世界のさくらが一斉に散るとき 2010-02-08 | 音
権謀術数議会制民主主義の自覚 2010-01-09 | 歴史・時事
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今は昔の歴史と共に死す

2010-03-22 | 雑感
ピアノ名人のフランツ・リストの曾孫であり、リヒャルト・ヴァーグナーの孫であるヴォルフガング・ヴァーグナーが九十歳で昨晩亡くなったと未明に発表があった。世継ぎ問題で政治問題化していたが、昨年解決済みで思いを成し遂げたのだろう。

早世した兄のヴィーラントとは比較出来ないほど演出家としては凡才であったが、半世紀に渡ってヴァーグナー音楽祭の監督として君臨した。

しかしその反面アーティストプロデューサーとしての功績として、将来に渡って語り継がれるものに、パトリック・シェロー演出の四部作「指輪」、ゲッツ・フリードリッヒの「タンホイザー」、ハイナー・ミュラーの「トリスタン」、そしてシュリンゲンジーフの「パルシファル」などが挙げられる。

特に、ピエール・ブレーズ指揮とシェローのフランスチームでのそれは大事件となりながらも、その読み替えは音楽舞台上演の世界に大きな影響を与えた。

ヴォルフガンク・ヴァーグナー博士は自書で当時のことを振り返っていた。監督夫妻に脅迫状が届き警察の護衛が必要となり、劇場では女性の衣服が引きちぎられ、ピアスが平手打ちで耳朶を引きちぎる騒ぎとなった。

日本で云えば、靖国問題に躍起となるようなヤクザな国粋主義者が騒ぐの全く同じような、馬鹿騒ぎが繰り広げられたのは1976年から1980年のことであった。現在から考えると、1968年から僅か八年しか経っていなくて、その後のEUの進展も迫っていた時期だと分かる。今は昔のお話であった。



参照:
Wolfgang Wagner ist tot,
家系図 (SPIEGEL ONLINE)
迫る清金曜日の音楽 2008-08-27 | 文化一般
オーラを創造する子供達 2007-09-24 | 文化一般
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外国語が出来る人、出来ない人

2010-03-22 | 
人の名前とその人の実像が重ならないことが良くある。周りの知り合いでもそうなのだが、特に有名人となると名前を耳にすることも多くともそれ以上に関心を持たない人となれば尚更、その名前や露出だけが記憶に残っていてその実像には迫れずに時が進む。

そうした一人にヴァイオリニストのヒラリー・ハーンなどを挙げることが出来る。名前をBLOGに書いたことからサーチエンジンにその名前をいれて驚いた。元々家族はバート・デュルクハイムの人だったようで、今でもまたまた従姉妹が住んでいすようだ。恐らく、家族でドイツ語が分かるのは本人だけというから祖父の時代に移住したのだろう。日本語が出来るのは鈴木メソッドの影響か? ― 復活祭以降の四月十一日から当地で日本週間が開かれる。そうした関係があってか、2001年冬には町のプロテスタント教会でチャリティーコンサートが催されている。何かその時のポスターなど印象にあるようなのだが思い出せ無い。しかし徐々にその当時のことを数珠繋ぎに、九月十一日を挟んで思い起こす。

フランス語の勉強は早くも茨の道に差し掛かって仕舞って、歩みが急に遅くなった。覚えることが積み重なったこともあるが、そもそも正確に話せることなどが出来る筈がないのである。先日、沖縄にいた女子高生が喋る日本語に助詞がかける事を日本語教師が直していたが、日本人でも正確に使うのは難しいがなにかをつけるだけなのである。同じようにドイツ語の格変化も正確には付けられなくても正しい間違い方が出来るのも実力なのである。

胸突き八丁でいつも止めていたのでは結局いつまで経っても駄目なのである。なんとかここが頑張りところである。



参照:
若手女教授の老人へのマカーブル 2010-03-19 | 音
半移住へと弾みの語学練習 2010-03-09 | 雑感
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6.99ユーロの赤い覇権の攻防

2010-03-21 | ワイン
行きつけのスーパーのレジからワイン奉仕品リストを持ち帰った。先に紹介した物とその価格帯は殆ど変りないが、大分地域的に拡張されて、期間限定であるためか質は上がって、ちょっと良さそうなものもあるのだ。

先ずは地元からは日本でも有名なフォルマーの量産ヴァイスブルグンダーとリースリングQbAで二割引で3.99のスリークウァーター瓶となっている。要するにリッタで5.32であるから、フォルストのゲオルク・モスバッハーで買うリッターリースリングと同じ価格である。説明を読むとその地所の土壌の重さの味が説明されていて、迷うことなくモスバッハーのそれの方が遥かに優れていることは判る。

同じように日本でも有名そうなラインヘッセンの赤ワインは「赤頭巾ちゃん」と名付けられていて、ドルンフェルダーからシュペートレーゼ、白ワインのミュラートュルガウやリースリングまでがロゼ作りになっている代物のようで、悪酔いしそうな2.99ユーロである。

ラインガウからは、ヴィラフランツとか言う半辛口や辛口のリースリングが4.99ユーロで放出されていて、安くはないが年度も書いていない所謂工場生産品である。こんなものを飲むぐらいならリッター瓶の方が安くて安全である。

モーゼルからはモーゼルラントと呼ばれる代物が放出されていて、酸と甘みが上手く付けてあるのだろう。2.99は料理ワインには高過ぎる。

バーデンからはハインリッヒ・ハインツ・ヤコブと言う銘柄のピノグリッジョ、リッター瓶3.79で放出されているが、味が重そうだからなかなか飲みきれそうに無い。

白ワインではコルシカ島からのキュヴェー、同じようなものがヴェネツィアから、もしくは南アフリカのケープタウンからテュー・オーシアンという商品、後はイタリアのプロセコ、少し高くなって4.99ユーロでブルートダルジャンと呼ばれるフランスで人気の大衆発砲ワイン、更に高価になって5.99ユーロのプロセッコ、最高峰はドイツのゼクトゲルダーマンと呼ばれる醸造所からシャンパーニュ式で九か月寝かせたカルテ・ブランシェの商品名のゼクトで7.99ユーロ。

さて赤ワインに目を移すと、ヴュルテンベルクのトロリンガーやレムベルガーを混ぜたものが、17%引きでリッター瓶3.99ユーロ 、その横には赤ワインで有名なアール地方からそこの農協のシュペートブルグンダーが、4.99ユーロ、シチリア島の赤ワインや高価になる6.49ユーロのキャンティに挟まれる様に、南チロルのケルテラーゼーが並ぶ。

同じ南国ワインスペインからはバイオワインが、2.22ユーロ、ヴァレンチィア地方の白・赤ワインに混じってリオハが流石に4.99ユーロの堂々とした価格で売られている。

新世界のオーストラリアのイェローテイルと呼ばれるカンガルーワイン、キャリフォルニアのカベルネ・ソーヴィニオンやチィンファンデルが4.99ユーロ。シラーは更に高価で5.49ユーロ。

さて今回のディスカウントの中でゼクトについで最高価格は、ブルゴーニュのACピノノワール。日本でも有名な大手メゾン・ジョセフ・ドルーアンのドメーヌのそれであるからコート・ド・ボーヌかコート・ド・ヌイのものであろう。これが今回は標準価格から二ユーロも安くなって6.99ユーロ。標準価格では、先日購入したゼーガーのシュペートブルグンダーQbAよりも高価で、今回はそれよりも安くなる。高ければ買わないかも知れないが、この価格ではまともな赤ワインは少ない。それも2007年産と来たら試してみない手は無い。さてどちらに軍配が挙がるか?

少量生産のシュペートブルグンダーか、名門大手のピノノワールか?



参照:
産地におけるベストセラーワイン 2010-02-20 | ワイン
ハイデルベルクの親方の地所 2010-02-01 | 試飲百景
鹿肉を食らって朝の二時まで遊ぶ 2010-01-30 | 料理
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半ドンでお腹を減らしふらふら

2010-03-20 | アウトドーア・環境
今日は半ドンで、天気が良かったので八キロコースを彷徨した。結局は、正規ルートを確認出来なかったのだが、他には可能性の無いことも確認した。

そのお蔭で少なくとも往復三キロ以上は余分に歩いた。車に戻ってきた時は既に二時間半近く経過していた。昼飯を抜いて十分に歩いたので流石にふらふらした。

車の室外温度計は摂氏17度を越えていて、完全に夏タイヤの季節になって来ている。復活祭に春スキーに行く予定もなく、もうこの辺りでは本格的な積雪はないと思うが、万が一と思うとタイヤを替えれない。

来週ぐらいの様子をみて決めようと思っている。なぜかつい先日冬タイヤへの同じような記事を書いたような気がするが気のせいだろうか。
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若手女教授の老人へのマカーブル

2010-03-19 | 
君、今日のパフォーマンスには満足かね?

この初老の定年エリートサラリーマン風の親仁が休憩時に漏らす言葉に全てが表れているような気がした。

ユリア・フィッシャーのバッハ無伴奏ツィクルス初日でのことだ。正直、ヒラリー・ハーンとこのフランクフルトの若い教授と殆ど同じような程度にしか考えていなかった者には、片や現代の名人であるアメリカ人と同じようにこの若いスロヴェキア人とのハーフのこのドイツ女性のバッハ演奏は予想以上に面白かった。

第一夜ではソナタを順番にト短調、イ短調、休憩を挟んでハ長調と順番に弾いて行ったのであるが最初の一曲から他のこのクラスの楽器奏者では無いことが良く判った。会場の入りもあまり良くなかったので最上段の我が指定席は閉鎖されて二階の十列目の真ん中の席で聴けたのは、そうした若い弦楽奏者のそれではなくて今日の若いプロの音楽家が何をなせるかというものであった。

比較するのが悪いのだがリフェレンス録音としてヨゼフ・シゲティのそれやヘンリク・シェリングのそれを思い起こす者としては、いささかか細くあまりにも女性的でと感じる反面、チェロのマイスキーほどの精妙さをも求めるべくもなくと、どちらつかずのパフォーマンスと言えるものである。さらに、その楽器から明らかにギドン・グレメルのガダニーニから奏される調べを思い起こすが、その芸の高さを求められる筈も無い。

しかしである、彼女の奏でるバッハの調べは、そうした手本に比べても決して趣味も悪くなく、昨今の古楽器演奏の実践を良く研究しながらの弓運びなど、非常に良い中庸を勝ち得ていた。感情的な機微の表現にしても非常に音楽的であり、嘗て会に招聘された師匠のチュマチェンコ女史と四重奏団を組む名人コイレーン婦人のそれよりも良いのである。要するに並々ならぬ音楽性と呼んでも差し支え無いだろう。

そうした演奏形態から組み出されるフーガは、あっちへこっちへと大きな広がりを見せる音楽であり、ベートヴェンが成し遂げた形式としてのフーガ以前のそれである音響を示してくれたのは最大の喜びであった。

そうした演奏解釈が、有名なシチリアの章ではメロディーラインにアクセントを与える重音がやすやすと速やかに発声されるので、不満が漏らされるかと思いながらも、それは後に解決されることにもなったのであった。

少々不安定さも窺えた不満も抱えたままのパフォーマンスから、二曲目のグラーヴェにおいては彫塑に富んだアーティクレーションの妙味を示し、充実するフーガにおいても重音の音程とかキレの良さ以上に一種のドローン風に音楽のしなやかさと解放された音響を表現するが、同時にその楽器からのシェップスのマイクロフォンに乗るような引っかかりの抵抗感が適度に音響として乗せられて来る所に、なぜこの若い女性が世界の第一線に居るかを証明しはじめた。要するに、現代の弦楽器奏者として決して音の粒立ちを磨くことが音楽の表現とはならない事の自覚を、ギドン・クレメルが裏返しに強調するのとは違って、順当に音楽表現とする弦楽奏者となっているのである。

一度そうした音響表現を表明することで ― それは比較的要所を絞ったダイナミックのつけ方にも並々ならぬセンスが表れている、アンダンテの対位法にどれほどの深みを加えるかは想像に容易いだろう。

そこで休憩となるが、一人のご婦人と立食テーブルを共にしてお互い小用をしていたのだが、彼女とは何処かで会っていることもあとで思い出した。但し、同じ会員というのではなく、音楽関係の方のようであり、ちょっとした用事でお会いしたようだった。今でも特定できない先方は気がつかれていたようだった。

そうしたロビーで見かける会員を主体とした聴衆であるが、殆どが失礼ながら先の無い方々で、こうした若い地元の女性教授の演奏会としては驚くほど若い音楽学生もおらず、所謂西洋近代音楽などというものが今や末期にあることがここにも顕著に表れていた。救いようの無いこうした形式での集まりなのである。

まさにそうした状況を反映してか、休憩後のバッハには、オランダのコープマンなどが表現する茶かし白けたそれでもなく、かといってシゲティのそれに代表されるような強いアクセントをつけてそのメリハリの中の構築感に無理遣りにでも重音を発声させようとするでもない、折衷な弓使いと細かな指使いから生じる必要不可欠な発声法は見事な解決法であって、まさに現在のバッハの音楽芸術が置かれている状況を素直に体現したものであった。

上記した不満は表現術としてアダージョの長く弓をタップリと使った小節などに解決され、あくまでも拡がるゆったりとしたフーガを挟んで、色彩の妙から、そして決して運弓法を強調し無い音楽的なアレグロアッサイの終曲へと運び、抽象的音楽効果とはもう一つ別層の表現意思へと聴衆を覚醒させ、唸らせるのである。

言い換えると、大バッハの音楽に希求されるような人間性を越えるような偉大な摂理観などはあくまでもそうした意思として存在していたことを示唆するだけで、そうした高踏的な意思の表示は、それを受け止め実践することすらあまりに理に適ったことではないと言うことをその音楽実践で示しているに他ならないのである。

つまり、冒頭の教養も教育も決して欠けている訳ではなさそうな老紳士が、パフォーマンスと安物の英語の言葉を敢えて使って言わんとすることは、「そうしたバッハの音楽の意思を我々は教養として知っているが、そうした意思を直截的に表出することよりも、その意思への認識こそが教養でありライフスタイルだ」と言う冷笑の意味合いをそこに含ませていたということだろう。二十七歳の国立音楽学校の女教授が芸術家として表現し得るものはそうした「現代」でしかないのである。老人達に囲まれて死の舞踊のアンコールピースを以って自嘲的にお開きにするバッハツィクルスの第一夜であったのだ。


アンコール:Eugene Ysaye Sonate für Violine solo op. 27 Nr. 2 a-moll - 1. Obsession: Prélude Poco vivace



参照:
モーツァルト『フィガロの結婚』をつまみ聴き (日々雑録 または 魔法の竪琴)
好きな音楽が途中でとぎれる(中断する)ことを惜しむ気持ち (電網郊外散歩道)
激しい対照をなす侘びの数寄者 2010-02-21 | 文化一般
瞳孔を開いて行間を読む 2006-10-22 | 音
権威とはなんでもありの権力か 2010-02-25 | 女
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