Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2011年4月

2011-04-30 | Weblog-Index


それでも収束に向かわなかった 2011-04-30 | テクニック TB0,COM0
高まらない緑の運動の背景 2011-04-28 | マスメディア批評 TB0,COM0
生の流れに流されたのか 2011-04-28 | 雑感 TB0,COM0
原発銀座で息を吸えるその幸福 2011-04-26 | アウトドーア・環境 TB0,COM0
物乞いとしての福島の被害者 2011-04-26 | 文化一般 TB0,COM0
フランスにおける福島の影 2011-04-24 | マスメディア批評 TB0,COM0
復活に関しての二種類の証言 2011-04-22 | 暦 TB0,COM0
受難報告における言葉 2011-04-21 | 暦 TB0,COM0
最高評議会にての事前審議 2011-04-20 | 暦 TB0,COM0
オリーヴ山へ出かける 2011-04-19 | 暦 TB0,COM0
大司祭の祈りの背景 2011-04-18 | 暦 TB0,COM0
イエスの終末論的説話 2011-04-17 | 暦 TB0,COM0
エルサレムへの入城 2011-04-16 | 暦 TB0,COM0
死ぬも地獄、生きるも地獄 2011-04-16 | 文学・思想 TB0,COM0
敗者に裁かれる特攻隊崩れ 2011-04-15 | マスメディア批評 TB0,COM0
なぜ今頃の感の疑心暗鬼 2011-04-13 | 雑感 TB0,COM0
福島なんて取るに足りない事故 2011-04-12 | アウトドーア・環境 TB0,COM0
計画通りにならない核分裂 2011-04-11 | 雑感 TB0,COM0
原発廃止後のエネルギー貯蓄 2011-04-10 | テクニック TB0,COM0
原発の水蒸気塔の見える町 2011-04-09 | アウトドーア・環境 TB0,COM2
予測可能な環境の修辞法 2011-04-08 | マスメディア批評 TB0,COM0
天皇陛下!万歳!万万歳! 2011-04-06 | 雑感 TB0,COM0
倫理委員会初会合の召集 2011-04-05 | 文化一般 TB0,COM4
備えあれば憂いなしとは 2011-04-05 | 歴史・時事 TB0,COM0
収容所送りとなる人たち 2011-04-04 | 雑感 TB0,COM2
前近代に生きる日本の自己欺瞞 2011-04-03 | 文化一般 TB0,COM8
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それでも収束に向かわなかった

2011-04-30 | テクニック
結局ワークステーションのグラフィックカードはソフトへの手入れでは収束に向かわなかった。新しいものを注文した。十年も前のものなので、タイプがAGPと呼ばれるもので制限があったが、何とか新しいものを購入出来る。

それにしても壊れたのには前兆があったのだ。焦げ臭い匂いがしていたのを思い出した。カードの扇風機が壊れていて、直したが、音も大きく、焼けた回路は戻りそうにない。なぜ壊れたかと言うと、塵取りに強力な掃除機で吸い上げていたから羽がぐらぐらになっていたからのようだ。最後に吸い上げたのは冬前になるかもしれないが、冬季はそれ程温度が上がらなかったので焼けるまでには至らなかったのだろう。更に生中継を点けっぱなしにしていたので、気温の上昇とともに四月の第三週ぐらいに焼けてしまったのだった。

なかなか結論が出なかったのには、オーディオの問題などが絡んでいて、なぜかバイオスが書き換えられていたからだが、理由は分からない。いづれにしても、焼けたカードクバドロ4は最高級のものでCADに使えるものだったのだが、結局十分にそれを使い切ることはなかった。可也高価なものだった筈だ。

今回購入したのは対抗会社のもので、同じように電源を取る必要がないことから使い易そうで、一度試してみたいと思った。価格も十分の一以下でも性能も同じような感じだろうか。兎に角、ワークステーションの方はあと十年ほどは使わないことには元が取れないので、性能そこそこに騙し騙し使っていく心算である。

この文字を打っているノートブックも壊れ掛けていて、最新のものを近々購入する必要がある。旅行用のものと、日常用のものとの二種類をそろえる必要があるので、これも物入りである。

ここまで行き着くの一月ほど経過したが、ウインドーズもXPで終わりにしても良いなという感が強くなった。やはり故障とか何とかの場合はDOSが容易に使えた95などのシステムの方が直し易い。月曜日に届くLINUXを上手く使いこなせれば、ウインドーズと徐々に距離をおくことが出来そうで、新しいものを購入する場合ウインドーズ7がついていないでも良いかと思う。
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高まらない緑の運動の背景

2011-04-28 | マスメディア批評
資料・データーとかを並べても部分的なことしかわからない。全体的にものを見れる者は歯車として働いている技術者や科学者の中にもほとんど居ない。常識のほうが重要である。だから、市民はそのような学術的な見解など気にせずに運動をしなければいけないのだ。そのような大切なことを教えずに、うまく飼いならすような教育が明治以降もしくは寺子屋時代から日本では推進されてきた。

一号機だろうかドライの気圧が一気圧以下になろうかとしている状況は常識的に、溜まっている水の吸引力でしかない。水棺などとあまりに水を入れ過ぎたものだから、いよいよ水漏れが激しくなったのだろう。そうなると窒素を注入するよりも酸素が入り込む量の方が増えて、所期の目的どころか、いよいよゴールデンウィークあたりに、もっとも恐れられている決壊となる事象も近いかもしれない。水が貯められなくなれば、冷却どころか壊れた燃料が一挙に飛び出てしまう。

FAZ新聞のクロンコ女史が東京から伝えている。反原発運動が大きく盛り上がらず、緑の運動として国政を左右しないその日本の構造を説明している。実際には多くの活動家がいて各地で反原発運動が繰り広げられているのだがあまりにも欧米のそれから比べると微小でしかないその背景である。

日本人の特性とかそうしたもの以外にも、行動的な活動家が少ないのは、通常の活動は労働団体が主体となって組織されているので人数が集まり大規模になるというのだ。しかし、民主党の支持母体である連合は、経営者側以上に原発推進派であって、地元の未組織労働者を含む地元民は原発に経済的に依存していることが指摘されている。貧しい地域に喜ばれて原発が誘致されたその社会背景が改めて浮き彫りにされている。まさに嘗ての自民党政治のやり方であり、日本の官僚主義はもしくは江戸幕府以来こうした民を育んできた。そしてその頂点に将軍もしくは近代的天皇が座したのである。

FAZ新聞は、だから少々の規模のデモンストレーションが各地で行われたとしても大スポンサーである電力会社の前にマスメディアのみならず地元のメディアでさえ地元民にインタヴューをしておきながら放映されることはないというのである。

こうした社会体制を崩壊させるには、直感で、地元エゴで、そしてそうした卑怯な地盤の上に過ごす生活を変えようとする大規模な活動しかないだろう。今回の福島を受けて、そのような国民運動が高まらない限り、経済的にも社会的にも日本には将来はないとみる。

一言触れておきたいが、極東に長く住みながらいつまでも欧州中心の左右が尻下がりにひん曲がった地図を見て、「西」を「南」と表現するな。もう少し地理を勉強しなさい。



参照:
Vom zähen Kampf gegen ein Tabu, Petra Klonko, FAZ vom 26.4.2011
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生の流れに流されたのか

2011-04-28 | 雑感
ここしばらくはPCが大分やられていた。まるで福島の設備の様にである。しかし人に迷惑はかけていない。

原因を考えると生放送のUストリーム経由でやられたようで、ワークステーションなどはBIOSまでが書き換えられていたようで、マザーボードからインテルのWプロセッサーを抜き取る必要があった。しかしそこまで行き着くには、挟まれた休暇を抜いて十日間以上掛かった。

BIOSの調整などしなければまだ安定しないが、少なくとも画像がでるようになったので使えるようになった。そこまで弄ったので、この機会に念願のLINUXもインストールことにする。上手にXPとLINUXを併用して使えるかどうかはわからないが、BIOSまで調整するならそこまでやる価値はあるだろう。早速、最新のLINUXのセットを注文しよう。

昨日のラジオは、このところの乾季でモーゼルの水が枯れて、トリアーの小規模の水力発電が動かなくなっていると聞いた。増水すれば冠水して、枯れば枯れたで問題なのだ。

そのあとソニーのプレーステーションの情報漏えい問題が伝えられていた。もう子供には使いさせられないということだった。被害が起こったときにソニーの責任かどうかを証明することは難しいことが多いということで、その管理責任が問われる一方、被害請求も難しそうである。日本のものはやはりあまり頼りにならない。

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原発銀座で息を吸えるその幸福

2011-04-26 | アウトドーア・環境
すがすがしい空気を胸いっぱい吸って、軽やかな空気の中で重力から開放されるような気持ち。それだけで他になにも要らない。本来ならば、電気も金も要らず、税金も掛からない、誰でもが平等にもちえる生きる権利である。

それが日本人特に関東以北に住む者にとっては今後とも不可能になっている。とても言い尽くせない悲しみを感じるしかなかった。なんて惨めな人たちなのだろう。なんて頭の悪い人たちなのだろう。世界中に悪名が知れ渡っているペテン師東電や日本政府の者だけでなくて、それを支えている日本に住む全ての人たちのことなのである。

とてもささやかで、かけがえのない環境であるそれを、邪念なく感じることの出来ない日常生活に、そもそも何の意味があるのだろうか?疾病の増加でいづれ忌憚をきたす健康保険に益々お世話にならなければいけない生活に。精々、なにも気にしないで、大きく深く息を吸えるその幸福を思い起こすのが良い。

高圧電線の行く先には原発が立ち並んでいる。しかし、南フランスのコートダジュールではまだ福島のような大事故は起きてはいない。起きてしまってからでは遅いのだ。頭が良いか悪いかは、只その違いだけなのである。



参照:
フランスにおける福島の影 2011-04-24 | マスメディア批評
物乞いとしての福島の被害者 2011-04-26 | 文化一般
コメント (2)
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物乞いとしての福島の被害者

2011-04-26 | 文化一般
フランスとドイツでの福島に触れた。それらの社会的もしくは政治的な背景は良く知られているが、それがどのような実感となっているかはなかなか分からないだろう。

その一つとしてラジオ番組などの報道姿勢にその差異をみた。もう一つその内容について考察すると次のようになる。例えばドイツにおけるそれは神学者がプロテスタンティズムを語ることで、そこに自省と共に現在の最先端の考え方が散りばめられる。要するに日本人が百年ほど前に習ったこととは何世代も先を行くものである。

言葉を変えると近代化と呼ばれるプロテスタンティズムが推し進めた近代とその反省としての脱近代への考え方である。つまり「最終処理」のない原発の理不尽と「近代を習った日本人の制御できると言う傲慢さ」への反省である。どこかで制御を利かせるための自省である。

そのためには「過剰な消費生活を改め、少々の不便さは受け入れるべきだ」と言うのだ。

日本人の知的水準が低いのは、まさにこうした本質的な考え方を抜きに効率主体に習うことの出来る知能の低さであり、その懲りない姿勢である。西欧人は、そもそも家元であるから米国人のように、12歳の頭脳とは言わないが、徒弟がやらかした誤りにはとても自嘲的である。

それはフランスのそれにも良く表れており、日本人音楽家の学習能力や完成度を通して、そのしくじりにとても深い同情と哀切を示して、カトリック国では当然ながらの反応を示している。丁度、物乞いに喜んでコインを握らしてやるかのようである。
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フランスにおける福島の影

2011-04-24 | マスメディア批評
南仏コートダジュールへの、またからの車中で幾つかの原発を見かけた。ローヌの谷はフランスでも原発銀座である。セーヌにいくつかあるが、パリ近郊でなくともリヨンとマルセーユだけでも大変な人口域となる。もちろん関東平野とはその人口密度は比較にならない。

兎に角、国道から一キロ満たない所に格納路がある情景はドイツでもなかなか見かけない。小規模の事故でも通行する車に可也の放射線が当たるのではないだろうか。このトリカスタンの四つの圧力式窯でも2008年に百人の従業員が除洗を必要とする整備中の事故を起こしている。1980年以降の比較的古いものであるが如何に頻繁に事故が起きているかである。通りがかった二度は一つの水蒸気塔からしか湯気が出ていなかったので、他のものは一時停止していたのだろう。前部に見える四角い建物はタービン建屋であろう。

車中のラジオ特にフランスのムジックは日本人演奏家の特集をやっていて、小沢からミドリまでを鈴木を含めて扱っていて、まるで日本讃辞と底知れぬ同情が満ち溢れていた。その背景にはフランスでは日本人の原発推進の痴呆を笑い飛ばせない社会背景があるからで、できる限り福島原発をまるで何事もなかったかのように扱う報道姿勢が感じられた。まるで東京の報道機関のようにである。

そのような事情からもう東京は全滅しているのかなと思ったぐらいだが、まだその情況は更に悪くはなっても大きな変動はないようで、一週間ぶりにドイツの戻ってくると急に将来の見えないその日本の空を感じさせる番組ばかりが耳に入る。ドイツの急激な脱原発には必ずしも賛成しないが、起こってからでは遅すぎるのだ。日本のような地震国では倫理的に断然許されない。
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復活に関しての二種類の証言

2011-04-22 | 
(承前)第九章「イエスの死からの復活」で、「なぜイエスは復活となるのか」、「復活に関しての二種類の証言」、「信仰告白の歴史」として「イエスの死」、「空っぽになった墓への疑問」、「第三日目」、「証言」さらに「物語の歴史」として「パウルスのイエス」、「福音でのイエス」、そして最後に「復活の本質」を纏めて、イエスとその歴史的意味を語る。

コリント一15.14、マルコ9.9、ルカ7.11-17、マルコ5.22、35-43、ヨハン11.1-44、コリント一15.16、マタイ13.31。

ルカ24.34、マタイ16.13.コリント一11.23-26、15.3、11、マルコ3.20、31-35、ヨハン7.5.

ヨスカ53、讃歌16.9-11、使徒行伝2.26、29、讃歌16.10、コリント一16.2、使徒行伝20.7、啓示1.10、詩篇4、5、ルカ22.32、ヨハン21.15-17、使徒行伝26.16。

ヨハン21,4、7、12、創世記18.1-33、ルカ24.36-43。

コリント二12.1-4、ヨハン14.22。

そして章が終わって最後に「天に昇る見晴らし ― 父なる神の右に坐、そして栄光に再び輝く」と題して章が設けられている。(終わり)
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受難報告における言葉

2011-04-21 | 
(承前)第八章「イエスの磔と埋葬」として、「受難報告における言葉と事象の事前考察」、「十字架のイエス」として十字架でのイエスの最初の言葉「父よ、許したまえ」、「嘲笑」、「見捨てられたイエスの叫び」、「イエスの衣装のくじ引き」、「喉が渇いた」、十字架の下の女たち ― イエスの母」、「十字架でのイエスの死」、「イエスの埋葬」、そして贖罪としてのイエスの死と恩寵。

ルカ24.13-35、詩篇7-9、ヨシュカ53。

ルカ23.34、使徒行伝3.14、15、マタイ2.4-6。

マルコ15.29、マタイ27.51、マルコ15.38、ルカ23.45に、マタイ27.38、マルコ15.27、ヨハン18.40、ルカ23.42.

マタイ27.46、マルコ15.34。

ヨハン19.23。

マルコ15.23、ヨハン19.28、ヨシュカ5.2。

ヨハン19.27、サハリアス12.10、啓示1,7、サハリアス12,10、ヨハン19.25、創世記2.23。

ルカ22.42、マルコ14.36。ヘブライ5.9、出エジプト12.46。

マルコ15.43、ルカ23.51、ヨハン19.38、39、マタイ10.25、44、27.60、ルカ23.53、ヨハン19.41、マタイ27.61、マルコ15.47、ルカ23.55。

コリント二5.19、ローマ3.25、ヘブライ10.1、4、讃歌40.7、51.19、ローマ15.16、マルコ10.45。(続く)
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最高評議会にての事前審議

2011-04-20 | 
(承前)第七章「イエスの経過」として、「最高評議会にての事前審議」、「最高評議委員の前のイエス」、「ピラテュスの前でのイエス」。

四つの福音が全ているの祈りに続いてのユダの先導で武装した役人にしょっ引かれて磔の判決までを証言する。その経過をここに読む。

ヨハネ11.47-53、マルコ14.1、23.2。

マルコ14.62、マタイ16.17、マタイ26.64、65、マルコ14.72、ルカ22.62.

マタイ23.37、ローマ3.23-25、ヨハン18.34、36、37、38、40、19.12、14、使徒行伝2.37。(続く)
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オリーヴ山へ出かける

2011-04-19 | 
(承前)第六章「ゲッセマネ」にて、「オリーヴ山への道」、「イエスの祈り」、「イエスの願いと父なる神の願い」、ヘブライの手紙におけるオリーヴ山でのイエスの祈り」。

「オリーヴ山へ出かける」の言葉でマタイとマルコの福音書は晩餐を終えるが、これに創世記の生贄の子羊を重ねる。マルコの2.27、7、マタイ5,17-48、21.12、マルコ14.32、ヨハン4.24、マルコ14.32、マタイ26.31、ヨハン10.11、マルコ14.28。

オリーヴ山での祈りについて、マタイ23.36、マルコ14.32-42、ルカ22.39-46、ヨハン12,27、ヘブライの手紙5.7、マルコ14.33、讃歌43,5、使徒行伝7.60、9.40、21.5、マルコ14.35、36、ルカ22.44、12.27、ヨハン11.33、13.21、コリント二5.21、ヨハン12.27。(続く)
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大司祭の祈りの背景

2011-04-18 | 
(承前)第四章「大司祭の祈りイエス」での「大司祭の祈りの背景としてのユダヤの贖罪節」と、「祈りの四つの主要な主題」として「永遠の生命とは」、「真理によって聖なる者となる」、「わたしは、あなたの名を彼らに知らせました」、「彼らも一つになるためです」が挙げられる。洗足に続いて、ヨハネの福音ではイエスの惜別の辞、14―16が続き17にて祈りとなる。シトラエウスによってルター派での意味合いが定まる前に、アレクサンドリアンやルッペルフォンデューの名が挙がる。最大の四つのテーマへと通してヨハネの福音17に迫る(続く)
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イエスの終末論的説話

2011-04-17 | 
(承前)第二章「イエスの終末論的説話」にて、「神殿の終わり」、「不毛の時」、「終末論の説話における予言と黙示」が考察される。マタイの福音が伝えるものとして、23.37を端にして、「ローマ人への手紙」や、そしてマタイの24.29、24.34、24.14、第一コリントの手紙9.16、、最後にマタイの13.24-30、13.31、13.47-50、24.45-51と読み解かれる。

第三章「洗足」にて、「イエスの時」、「お前達は清い」、「秘蹟と逸話」- 「賜物と用命 新たな戒律」、「反逆者の秘事」、「ペットルスの二つの会話」、「洗足と罪の懺悔」。エルサレムへの入城から最後の晩餐へとかけて再びここで日程が福音間で明白になる。しかし、マルコの14.1と14.12そしてヨハネの13.1では日時がずれて来て、神学的な解釈となってしまう。最後の晩餐と秘蹟を考察するからであると説明される。

改めてヨハネの福音を読んで行く。13.1、19.30と丁度バッハのヨハネ受難曲オラトリオの始まる所である。そして、マルコの7.14-23、マタイの5.8などを横に見ながらヨハネ15.5-11へと至る。

再び13へと戻り、その意味するところから、14.12、13.34、もしくはマタイの5.8へと秘蹟を読む。

ヨハネの13.21、11.33、38、12.24-27を挙げて13.23、12.6、13.27、13.30へと進む。

マタイの福音16.22、ヨハネの13.8、13.36、37、21.18、そして、13.10、3.20、と懺悔を読む。(続く)
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エルサレムへの入城

2011-04-16 | 
ヨゼフ・ラッツィンガー教授通称名ベネディクト十六世著「ナザレのイエス」の第二巻を購入した。到底容易に吟味出来ないが、第一巻と比べても読み応えがありそうだ。前巻に続いて「エルサレムへの入城」から「イエスの死から復活」が扱われている。

先ずはその目次を一覧しておく。

「なんとか協力をもって約束通り出版へと漕ぎ着けた」と2010年4月25日「聖マルコスの日」の日付のある前口上に続いて、第一章「エルサレムへの入城」で「入城」と「寺の浄化」が語られる。

要するに「棕櫚の日曜日」に纏わる話で、ヨハネの福音から、2.13-25、6.4、12.1、13,1、12.11、14.23が取り上げられて、マタイの20.29、21,7、21.10やマルコの10.13-16、10.46、10.47、48-52、11.9、11.13にも触れる。

「寺の浄化」では、主にマルコの福音が扱われていて、11.15、11.17、が、他の参考文献としてエドアルト・シュヴァイツァーの引用や賛歌、旧約が読まれる。(続く)
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死ぬも地獄、生きるも地獄

2011-04-16 | 文学・思想
今朝はじめて、「最初の時点で突入作戦が必要だった」と気が付いて、その後身震いがして、そして確信した。原発は非人道的なものだと。少なくとも先日のラジオの公開座談会ではないが、ドイツのそれは理に適っている政策であるが、日本の「地震を待ちながらの原発推進は低能の遣ること」だと。

知能程度では済まなくなっている。少なくとも一方には推進のグループが居り好い加減な情報を流し続けている。福島の関係者やまた広範囲に渡る住民にとっては、死ぬも地獄、生きるも地獄となりそうである。決死の突入隊の判断は、津波救助のこともあって決断が出来なかったとしても、こうした状況は想定内であって、まさにカール・シュミットの「絶体絶命の決断の原理」が指す超司法処置が取られるべきだったのだ。自衛隊のようなそんな腰抜けのおもちゃの軍隊で駄目ならば、原発発電所や納入メーカーがそうした決死隊を準備しておくべきなのだ。

今回の事故が中国で起きていたならば、死刑囚に作業をやらせていたかも知れない。自らのことならば米軍が自らの手で片付けただろう。要するに原発などは日本人が玩具にするような小市民的なものでは一切ないのだ。

今後議論が繰り広げられる原発を巡る攻防にて、是が非でも原発を推進させようとする者はその素性を明らかにすべきなのである。そのような宣言無しに何かを語ろうとする者の推測や意見などを一切信じてはならない。日本人は、そうした非人間的で小汚らしい営みこそが原発であることを肝に銘じておくのが良い。それでも原発を利用しなければならないとすれば、それなりの根拠が求められる。



参照:
死んだ方が良い法秩序 2007-11-21 | 歴史・時事
キルヒホッフ税制の法則 2006-12-24マスメディア批評
痴漢といふ愛国行為 2007-11-26 | 雑感
なぜ頭巾先生は駄目? 2008-12-20 | 文学・思想
芸能人の高額報酬を叱責 2007-12-28 | マスメディア批評
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