Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2019年11月

2019-11-30 | Weblog-Index


Bluray用に準備すべきか? 2019-11-30 | 文化一般
三年前と同じボクサー 2019-11-29 | 生活
年末までの計画整理 2019-11-28 | 生活
勲章授与式を予想する 2019-11-26 | 雑感
スパイ活動をしていた教授 2019-11-25 | 生活
創作の物語を語らせる 2019-11-24 | 文化一般
ペトレンコの唯一無二の祝祭 2019-11-23 | 文化一般
音楽劇場としての条件 2019-11-22 | 音
二重帝国の響きとは 2019-11-21 | 音
音楽劇場の舞台設定 2019-11-20 | 文化一般
とても腰が低い歌姫 2019-11-19 | 女
オペラ的サウンドトラック 2019-11-18 | 文化一般
西へと流れる雪雲 2019-11-17 | アウトドーア・環境
メンデルスゾーンの響き 2019-11-16 | 音
無事チューリッヒから生還 2019-11-15 | 生活
22時過ぎスイス脱出計画 2019-11-14 | アウトドーア・環境
上がり下がり具合 2019-11-13 | アウトドーア・環境
「死の街」二幕へと進む 2019-11-12 | 女
来週への準備をする 2019-11-10 | 生活
無情なまでの無常 2019-11-09 | 音
伝統の継続は眠くなる? 2019-11-08 | 音
高いアヴェレージ 2019-11-07 | 暦
暖かく且つ拘束感も無い 2019-11-06 | ワイン
なんとか冬を越せるか 2019-11-05 | 生活
暮れの予約をキャンセル 2019-11-04 | 生活
孤陰不生,獨陽不長の響 2019-11-03 | 音
1955年のカラヤン特集号 2019-11-02 | 文化一般
スマートグリッド製品 2019-11-01 | 生活
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Bluray用に準備すべきか?

2019-11-30 | 文化一般
話題の新制作コルンゴールト作曲「死の街」がDVD化されそうである。なぜストリーミング放映されないかは、そのバーゼルでの演出の版権のことも考えられたが、やはり製品化の話しがあったからだ。同じような事情は「ファルスタッフ」、更に懸案の「マイスタージンガー」にもあったのだが、先ずは「死の街」が「ルル」い続いて製品化となりそうだ。兎に角、商業的な成功としてファンの多いカウフマンの出演という事ではこれほどに期待されるものはない。

劇場が出している情報にも新車が一台買えるぐらいの費用が掛かるストリーミング中継でそれをHDで撮ると、更に著作権が徴収されるとなると今回の商業化への動きは理解されるに十分である。カメラは週末日曜の一日と金曜日の六日に回るようだが、音源は既に初日のものもあり、予定通りに進めば必ず完成度の高いものになるだろう。恐らく好評の「ルル」と同じ流通に乗る筈である。「ルル」も今回と同じように初日に出かけたのだが、その時は中日が通常にストリーミングされてDLしてあり、その後のBlurayのデータも適当にネットに転がっていたが、今度は購入しないといけないだろう、Blueray読み取り機が必要になる。

背後事情は、どうしても音楽監督ペトレンコ指揮での記念碑的な公演をアーカイヴとして定着させたいという思いもある。「マイスタージンガー」は出来は良かったのだが、ライヴ放映前に起きたミュンヘン郊外での移民の子供であった少年の乱射事件と自殺とそのもの演出の落ちと同じような事が起こってしまった。来年の夏の再演もカメラが入る予定はあったのだがどうも無くなった可能性も強い。2022年夏のキリル・ペトレンコの客演で何が上演されるかは分からないが、今回の制作はその総決算の記録としては決して悪くはないであろう。

二種類目のスマートプラグを試した。一つ目と同じようにWiFi読み込みに少し時間が掛かった。それでも購入した二つともLoginした。価格は一つ8ユーロと前回の14ユーロよりは大分安い。同じソフトウェア―を使う。バックドーア問題は同じだった。価格の違いは電流計が付いていないことで電力管理が出来ないことだ。使い方による。そこで電球一つの計算の出来るところから計算の難しいタップの根元にいい方を挿んだ。暫く使ってデータを集めてみなければ分からないが、そこに繋がれているのはHiFiのサブアクティヴスピーカー、デスクライト、モニター、PCなどでその作動状況も千差万別である。データ収集の結果がとても気になる。

音楽映像配給サイトメディチが喧しい。無料でちょこちょこ使っているだけだが定期予約の価格のヴァーゲン続きだ。一割り引くぐらいから始まったが、放っておくと55%引きにまでなった。残り時間20時間、如何に客が少ないかという事だろう。私はそもそも有料が嫌いなうえに、その内容が特に感心しないのだからこれはどうしようもない。DCHでも無料で観ると良いなと思うが、金を払うとなると不満だらけだ。要するにこちらの要求にはまともに応えていない。

そう言えば、ベルリンのテムペルホーフ飛行場で実験上演の予定だった「修道女アンゲリカ」の上演がフィルハーモニーに変わっている。理由は、芸術的な意味が見いだせなかったという事だろうが、そもそも若い学生を集めての教育目的の上演だが、芸術的な可能性がどこにあったのだろう?



参照:
二種類目のヴィデオ 2018-01-08 | 雑感
ペトレンコ劇場のエポック 2017-12-22 | 音
スマートグリッド製品 2019-11-01 | 生活
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三年前と同じボクサー

2019-11-29 | 生活
床屋に行ってきた。これで年末の大仕事の一つが片付いた。前回のおばさんがさっさとやってくれた。時間も短かったので17ユーロで押さえておいた。ざんばら頭を見せたので次回は更に良くなると思う。問題はやりて婆と喧嘩しないかどうかだけだ。このまま続けば私の髪型はどんどん収まりがよく成る。嵐になっていたので誰もほかに客はいなかった。

掃除機を序でに掛けたら絨毯を吸い込んでしまった。古くて破れたので一時凌ぎに足マットを発注した。丁度バルコンとの入り口で薄くなってたからだが、そこに敷くマットだ。自然材質であまり厚くならないものを探した。出て来たのは竹で出来た。水場のスノコのようなもので風呂場や調理場で使うようだ。バルコンも雨で濡れることが多いので、先ずは試してみようと思う。破れたところを隠すだけだ。

雨が上がって天気が良くなって、愈々冷えてくる。金曜朝は摂氏6度、週末は零度、初雪となって、週明けは零下となる。冬タイヤが大活躍となる。

足マットを発注する序でに三年前に購入して破れだしたボクサーショーツと同じものが僅か4セントの値上がり価格であった。これは買いだと思って早速発注。また年末時間があればで換気扇のフィルターを発注。

ちらちらと情報を見ていたらゲヴァントハウスでメストが振ってレヴィットがピアノを弾いている。放送等の予定は見つからないが、近所なら行ってみたいなと思った。他の所の東ドイツ女性が美しいとあるとそうだと、それだけでも色気が出て来た。しかし走行距離は484㎞で走行時間も5時間20分ほど掛かる。ライプチッヒはミュンヘンよりも大分遠い。アムステルダムよりは近いが、日帰りは厳しい。一泊するとしても少し遠い。しかしハムブルクよりは100㎞近い。コンサートで出かけるのは300㎞ぐらいが限界ではないかと思う。

さてスマートタイマーが届いたら、先ずはどのように使おう。二個来るので、一つはタップの根元でスイッチを入れたまま総シャットアウトするようにする。もう一つはスタンド専用に入れておいても良い。先ずは今度の違い機種の使い心地を試してみよう。

いつもの事であるが散髪をすると栄養を持って行かれる。とても眠く寒くなってきた。今晩はジャガイモを食して、牛ロール巻き、ボルドーに、あとは柑橘類を摂って風邪を引かない様に備えたい。

洗面所の蛇口の一つが長らく水の出が悪かった。細く強くしか出なかった、掃除の序でに先のフィルターを外して酢の中に数時間浸けておいた。すると太く穏やかに水が出るようになった。細く跳ねるようなのは誰も使わなかったので、これで二十年ぶりほどで両方を同じ頻度で使えるようになる。



参照:
虹の立ち上るところ 2007-07-02 | 暦
強力吸い過ぎにご注意 2007-12-30 | 生活

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年末までの計画整理

2019-11-28 | 生活
散髪計画を立てなければいけない。前回は九月末だった。写真撮影の前だった。十一月末のミュンヘン初日にどうかと考えていた。そして何とかなった。それどころか二日間洗髪無しに出かけた。今回は今切ると、十二月の「ぺネロープ」、ロンドンフィル、RSB楽団、一月のシカゴ交響楽団、アムランリサイタル、ヘルヴェッヘ記念演奏会までは賄える。二月のエルブフィルハーモニーに合わせればよい。

冬季は床屋に行く衣裳を考えるが、どうしても衣裳無しの人間が即洗濯するので寒々とした格好になってしまう。夏季は裸で出かけられるのとは大違いだ。いつもの床屋用のシャツとなるだろうか?三十年以上アイロンをかけている化繊の入ったシャツも流石に襟を捲られると完全い剥げている。

今気温急上昇で摂氏二ケタとなっている明日の早朝しか機会はないかもしれない。来週からは零下となって気温も上がらない。走る事よりも洗髪を優先させたい。

月末、月初めの予定を調整して、就寝前にネットで確認する。「ペネロープ」初日を覗くといい席があった。行こうと思えば二回行ってもと思ったが、留まった。演出が悪いとなるとげっそりする。準備がまだ出来ていない。ミュンヘンのエファーティンクのアカデミーで学んだ女性らしいが、未知の演出家である。それに初日は数ユーロ高い。

その序でに他の予定も確認しておいた。ズバリ、ヴィーナーフィルハーモニカーの演奏会だ。そもそもヴィーナーは私の恋人である。フルトヴェングラーが言う通りである。もう散々な思いをしたので金を払いたくはないのだが、ズビン・メータが再復帰して振るとなると、お祝い兼ねて馳せ参じようかとの気にさせる。何よりもヴィーン正統派のメータの十八番は聴いておかないといけない。しかしよりによって、あのブロムシュテット爺がとんでもないものを聴かせてくれたドヴォルジャークの七番交響曲だ。だから今まで券も購入していないが、復帰の様子を見てから判断しようかと思う。

なによりも躊躇させたのがその価格である。ブロムシュテット指揮なら二割ほど安くなって、超一流の七割価格ぐらいで買えるのだが、今回は八割以上している。恐らく現在唯一の巨匠メータのヴァリューで、ギャラも完全に頂点に立ったのだと思う。再復帰の様子を見て変わりなければその価値はある。

今年もミュンヘンの劇場から郵便が届いた。いつもご招待かと思って開けると、寄付願いである。地元の事で新体制でとなると考えるかもしれないが、今更と言う感じだ。もう一つはベルリンからで、こちらは販促の手紙だと思ったら、やはりCD-DVD付の年間券購入誘いだった。

第九のハイレゾ録音のDL付きなら関心があるがハイレゾでない限り興味が薄い。手元のある録音より優れていることはそれほどないからだ。出し惜しむするなと言いたい。こちらはこちらで只券をどのように年末までに使って来年に繋げるか考えている。無料が一番嬉しいクリスマスプレゼントだ。



参照:
撮影準備に満足な散髪 2019-09-27 | 生活
至宝維納舞踏管弦楽 2018-09-29 | 音
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勲章授与式を予想する

2019-11-26 | 雑感
スマート電源プラグを買い足すことにした。暫く使ってみて、どこからでもベットからでも電源を点け消しできるのはやはりいい。先ずは籠り部屋の今はスイッチ入りタップにしてあるところで、モニターの電源兼PC電源、更にデスク照明、またアクティヴスピーカーの電源の三種類を上手く点け消ししたい。

その他ではオーディオ用PCなどもあるが、こちらはアップグレードされる予定なのでこのままにしておこう。それ以外では日本からの電化製品の為にも使っているAKAIのオーディオタイマーが使え無くなればトランスごとスマート電源にしてしまえる。電気代は大分節約可能となるだろう。何組を購入するかだけの判断で製品自体は殆ど差もなさそうだ。

しかし今使っている製品はルーターを抜けてそのままネット経由で作動すると書いてあった。これはこれでヤバイ。ソフト自体にバックドア―が開いているようでこれも怖い。物は使いようなので使いこなせるとは思うが、もう一つ安い製品を発注した。半分の価格でも評判は良い。少なくとも電源のオンオフとタイマー機構ぐらいは安物でも変わらないと思う。これで必要が無くなるのはタイマーだろう。

シャワーの幕に黒カビが生えてきて漂白剤でも取れない。新規購入することになった。200x180で標準ものなので手頃に買えるポリエステル製だ。以前は透明のものを使っていたが仕切りの意味が無いので、今は不透明なものを使っている。素材からして透明物はないが、上部だけでも透けているとセクシーでいいと思うのだが、見つからない。

ミュンヘンの歌劇場のシーズン終わりまでのメディア計画が発表された。今までとは異なり注目すべき点がいくつかある。メディアの柱は、BRのラディオ放送と劇場のネットストリームの二本柱。前者は、新制作初日と厳選されたアカデミーコンサートなどが中継される。後者は新制作の中日辺りで中継される。しかし今シーズンは既に、「死の街」の中継が断念されて再演「ヴォツェック」が放映された。アブラームセン、青髭、カラスの死、バレー、ラモー、ファルスタッフと続く。「死の街」はバーゼルの再演なので版権が絡んでいると思う。

関連して「ファルスタッフ」はなぜ初日だけが今までの最高額を徴収するのか?勿論キリル・ペトレンコ音楽監督最後の初日であるからだが、一体そこまで金取る意味は?最初は御土産でもつけるのかなと思ったが、恐らく初日は然るべき来客が中心になるのだろう。バイエルン政府のお偉方が揃う。少なくともバイエルン政府からの賞の授与式が終演後に舞台で行われるだろう。そこで期待したいのは、これで官職を降り野に下ることからドイツ連邦政府には2013年にヤンソンス氏に授与した大功労賞はここで上げて欲しい。一体ヤンソンスはどれだけのことをしただろう?チェリビダッケが1954年11月に得たものと同じだ。そして1992年にはその上の星付きを授与されている。そこから見て、ペトレンコは当然ながら最低ヤンソンスのそれには値する。その時はガウク大統領からだったようなので、今回はシュタインマイヤー大統領夫妻か代理でメルケル首相が来るのではなかろうか。

再度調べると初日はラディオで生中継されることになっている。映像は授賞式ぐらいしか流れないかもしれないが、BRがカメラを入れるのも間違いないだろう。オパーフェストは事実上劇場側の選択でしか入場できないので防犯上も悪くはない。先日の「死の街」の初日でも感じたのは、まさにそこで友の会を中心に配券していて、なるほど初心者のような人もいたのだが、客層はとても落ち着いていた。



参照:
現状認識と今後の展開 2018-03-26 | マスメディア批評
古の文化の深みと味わい 2014-12-24 | 文化一般
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スパイ活動をしていた教授

2019-11-25 | 生活
週末に眼を通しておこうと思った文章があった。どこにも見つからなく内容も分からなくなった。たいして急ぐものでもなかったと思う。それよりも幾つか片付けたいことがある。

歯医者の予約は月早々に取ったので少なくとも清掃と観察だけはして貰える。最も気になっている事であるが、中々思い切りが付かない。健康に良くないことは分かっている。歯を何とかすれば眼鏡も進められる。

ノートブックPCも左の奥のキーが剥がれてきた。あまり使わないキーなので構わない。そもそもキーボードは別なものを使っているので関係が無い。しかし剥がれてなくなってしまうと嫌である。次期購入もまだ進んでいない。車の修理もあったので予算の調整もある。年内に処理したいところだ。

気になっていて見落としていたのが車の保険である。この30日までに解約しなければいけなかったのを見つけて、急いで車両保険を解約の通知をした。僅か年380ユーロであるが、廃車同様の車に保険を掛けておいても全損しても殆ど金が下りない。なるほど不可抗力の事故や飛び石のガラスは破損などには金が出るが大きな罅が入ることもあまり無いだろうと思う。先日もアウトバーンで猪か鹿を轢いたが既に平になっていた。金を払って金を取られないよりも精神衛生的に先ずは払わない方が得だと計算した。次期新車を購入した時も一年感覚が空くだけでそこから始められるので、割引率は変わらない。そもそも掛け金が車両価格で倍ぐらいになって仕舞うだろう。

それ以外には12月のオペラとコンサートの準備もしなければいけない。フォーレ作曲「ペネロぺ」とショスタコーヴィッチ11番、プロコフィエフのピアノ協奏曲三番は昨年の復習をすればよい。もう一つはチャイコフスキーも「白雪姫」である。それが終わると来年の準備になるが、まだ鬼が笑う。

読み忘れていたのはスヴァロフスキー教授の指揮者時代の話しで、ブダペスト生まれの大工業家の息子らしいが、最初からナチに睨まれていて、クレメンス・クラウス時の歌劇場にもシュトラウスの推薦状が付いていたが、ゲーリングの手先のティーテンに契約延長を阻止されて、アンシュルース以降はスイスに活路見出したとある。チューリッヒの劇場では奥さんがユダヤ人のフェルゼンシュタインとの協調作業が進んで、トンハーレの近所のベートーヴェン通りのユダヤ人マルクスの所に居を構えていたとある。その関係で後に英国のスパイ活動をしていたようだ。そこにはトーマス・マンやブレヒトなどが訪れていたという。背景には戦時下で給料が減らされて喰うに食わずだった困窮があったようだ。

しかしスイス当局へのナチの影響で契約が延長出来ずに、先ずは息子をアメリカに逃して、自らはカプリッチョの台本を作りを手伝だったリヒャルト・シュトラウスのスタウンゼーの別荘に隠れていたようだ。その息子が進駐軍としてシュトラウスのもとにやって来たという。だから戦後は戦中の事には口を瞑んでいたとされる。

週末に恋文を書こうと思ったが、為せなかった。心理的に余裕が無いと「創作」まで至らない。待降節までに渡せるだろうか?原稿を書いてから手書きするにも時間が掛かる。大変なことだ。一体私の死後に幾つの恋文が発見されるだろうか。



参照:
テヘランからの恋文 2006-09-15 | 文学・思想
朝から青ざめる日々 2014-05-04 | 生活

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創作の物語を語らせる

2019-11-24 | 文化一般
承前)演出家マテヤ・コレツニックのインタヴュー記事を読む。先ずは、最初のオペラ演出となる「フィデリオ」への愛が感動させる。彼女が挙げる「Oh welche Lust」そして続く四重唱「Mir ist so wunderbar」で充分だ。

そしてこの作品の問題点の解決策としてコンセプトを公表する。つまりフロレスタンの死の最後の五分間のハロツィナツィオンにこの劇全てを押し込む。要するにこの公演にどんでん返しも何もない。余程の自信で、如何にこの演出家が芸術的に秀逸かという事を示しているかのようだ。

なぜそのようになるかの説明の前に、演出家としてのモットーが語られる。それは創作の物語を語る事への責任であって、芝居であろうとオペラであろうと全く変わらないという。だからこそ、今日受け入れられるものと受け入れられないものとの線をしっかり引いている。

例えばベートーヴェン時代の女性観が挙がる。つまりここではズボン役の主役であったり、ズボン役の女性に利用されるマルツェリーナに注目して、例えば街娘の後者が簡単に騙されて、そしてフィナーレへと進むかと言う論理的な矛盾を突く。それどころかレオノーレと言う美しい妻には世界が逆らえなくなると男は信じている。

つまり女性は、魔女でありその反対に神々しい女性が存在して、死を掛けて救済する天使として位置付けられているのがロマンティックな幻想となる。

更にベートーヴェンが理想主義で、革命によって全てが解き放たれという構図は今日においては危機であって、ただの感傷でしかないという。だから彼女は、創作時代そのままを舞台に掛けるのはその時代に依るだけであって、創作家に依っていない伝統主義でただの感傷だという。

その劇が上演される劇場を取り巻く欧州のそうした伝統主義がただのノスタルジーでしかないことは、彼女の言うようにその出身地であり住居であるEUのバルカン半島にまで視線を向けないまでも明白で、劇場に求められていることを彼女は定義する。つまり、「文明的な社会とは、洗練された芸術への需要がある社会で、その芸術は決してエンターティメントでも完全調和のようなものであってはいけない。」となる。それならばTVを観ていたらいいというのは、もうそれに何一つ付け加えることも無い。芸術とはそんな甘っちょろいものではないという事だ。

それは私たちがそのような理想の社会で生活している訳ではなく、彼女の言うように、だからと言ってベートーヴェンの想いは決して素朴なものではなかったが、少なくとも今日の欧州からすれば気がふれていない限りそのヒュマニティーが生き残るとは思わないとしている。

彼女の言う時代精神、そして芸術のあるべき姿、そこからするとこの辺りの彼女の言葉の使い方に注目したい。要するにベートーヴェンが語る理想主義である。それがどのように読み込まれるかという事である。

ミュンヘンのサイモン・ストーンの演出も最初にその亡くなった美しい妻マリーの現実が癌治療として示唆されていた。所謂掴みとしても良いのであるが、こうした演出の枠組みをはっきりと宣言することで初めて古典が読み込まれ、生きた人間がそこの舞台で演じるという劇場特有のものかもしれない。

彼女は、恐る恐る「質か、新機軸か」と自問自答してみる。つまりオペラ演出においては伝統を超越するというのは失敗を招くことにもなりかねないので、新たな路を示すことになるか、壁にぶち当たるかとなって仕舞うというのだ。すると支配人らも同じように厄介な目に遭わなければいけない。そこが他の芸術とは異なるところだろうとしている。

マガジンに彼女のフィデリオの舞台試験風景が掲示されている。照明の中での衣裳の素材、客席からの視点、ベートーヴェンの音楽に合わせた階段の上下の迷路。これだけでとても大きな期待が膨らむとしているが、さてどうなるか?



参照:
歴史に残るようなこと 2019-09-17 | 文化一般
TVドラマのような視点 2019-07-24 | 文化一般
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ペトレンコの唯一無二の祝祭

2019-11-23 | 文化一般
バーデン・バーデンから最新のマガジンが届いた。108頁の分厚い冊子で、前回とはどこか違うが、2019年第三号になっている。ペトレンコの表紙に続いて13ページペトレンコ関連、6ページを「フィデリオ」の演出家マテヤ・コレチュニックについて割いている。

先ずは編集者ベネディクト・スタムパの言葉として、演出家コレチュニックに電話すると、「ハリウッドが呼ぶ」と反応したと書く。そしてフィデリオへの想いを語りと続き、「ペトレンコと会って、一緒にやって行く」と答えたとある。

そのペトレンコにはベルリンで会って、個人的に微に入り細に亘って話したとある。そしてバーデンバーデンの祝祭に話しが至った。するとペトレンコは一寸考えて、「バーデンバーデンで唯一無二祝祭をやりたい」と語った。中心にあるオペラは、祝祭に相応しいものでなければいけないと、来年は偉大な時となると、それ以上にも合意した。更に演出の選定には関与したいと、それは全く問題の無い事でコレチュニックとペトレンコの出会いをアレンジしたと書く。チームは繋がった。

そして本文で、ベルリナーフィルハーモニカーとの関係で親称では無くて敬称を使う事を提案したことを話しの軸に置いて綴る。その点でアバドやラトルとは異なるのだが、そしてその最後の時期からそれまでの前任者の業績などははかれないのは、丁度十五年間の夫婦が最初の一週間と同じわけがないが必ずしも地獄ではないだろうと、そしてペトレンコとの演奏ぶりを見るととても距離感があるとは響かないとしている。

バーデンバーデンでの「悲愴」とジョンアダムス、ハフナー交響曲とに組み合わせられたプログラム、2019年のチャイコフスキーとシェーンベルクの協奏曲の組み合わせ、まさにハイライトだったとして、テオドール・アドルノからすると一寸おかしい組み合わせが、それこそ救世主のお告げがペトレンコのコンサートのつきものとなっているとしている。そしてそこがペトレンコが超えているところだろうと書く。

同様にフィルハーモニカーの核レパートリーの第九とこれまた核のアルバン・ベルクの作品が組み合わされての不思議なめまい感覚は、メディアにおける神秘性と言うよりも、私たちが芸術や音楽に乞う神秘性と言うものではないかと書く。

そして次の章では、復活祭の宣伝を兼ねてオペラ指揮者としての経歴をざっと述べてから、「ミサソレムニス」はバーデンバーデンのエクスクルシーヴで、そもそも記念年などの契機は要らないと書く。ミュンヘンの人はベルリンでのコンツエェルタンテ上演などでは慰めにはならないだろうと。

そしておもむろに、ベルリンの人にも朗報があると、バーデンバーデンまで空調が効いた列車で6時間、何とミュンヘンからは三時間半しかかからないと。そうその通り、これで行こう!(続く



参照:
音楽劇場としての条件 2019-11-22 | 音
聴衆との盛んな応酬 2019-04-25 | 文化一般
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音楽劇場としての条件

2019-11-22 | 
承前)コルンゴールト作曲「死の街」18日月曜初日の新聞評が出そろった。核心はヨーナス・カウフマンの歌唱への批判点だと思う。新聞によってその専門性は異なるが、ソットヴォ―チェのベルカントの声楽的な視点から批判して、その最終的な成果はどうであったかという点である。フランクフルターアルゲマイネ紙は、ジェームス・キングの言葉を借りてオテロより難しいとしてが、カウフマンの口蓋を通さない高音やその繋ぎ領域には問題が無くオテロよりも遥かに良かったとしている。その反面、この制作がそもそもステファン・ヘアハイムによって演出されていればなかったのがやっつけ仕事で為された状況から、いつも全力勝負のペーターセンの演技がそれ以上には打ち込めなかった様子だとしている。他の新聞とノイエズルヒャー紙のフライ氏は、声が確り出てないところが丁度この役柄の心理描写となっていて、暗い声が大変な効果を上げたとしている。

ここまでで重要なことが書かれていて、要するに私などのそもそも声楽への不信感からすればそれはそのものオペラ上演の音楽的な程度の低さを示すものであるが、正しく今回のカウフマンの歌唱こそがオペラの領域を逸脱するものであって、音楽劇場の歌唱と思われるそのものなのである。

勿論それを可能にしたのはペトレンコ指揮の管弦楽演奏でありその譜読みの高さと豊かな音楽性であることは万人が認めるところだ。特に一幕は驚いた。あの楽譜からこのようなドビューシーか若しくはシマノフスキーの様な音が出てくるとは。新聞はこの曲と「ヴォツェック」の僅かな創作時期の相違に触れているが、この演奏を聴くととてもそれだけの差ではないとも思う。なるほどレハールの様なメロディーが網の目の中に釣れるのだが、それに乗る声を、舞台を支えるのは音のカーペットで、それも肌理の細かなヴェルヴェットのようなものだ。これに近いのはブゾーニ作曲の「ファウストュス博士」の音楽ぐらいしか知らない。あの楽譜からペトレンコはこれを読みだしたかと思った。

そのバックアップで何が可能になったか?どのような効果が生じたか?勿論、歌手が歌いやすくなって芝居がしやすくなる。しかしそれだけでは無かったというのが今回の制作上演の最も成功した音楽的成果では無かったか。驚いたのは、そのダイナミックスだけでは無かった訳で、劇場の音の場と言うか音の風景を作っていたことだ。今回は初日は高価な料金であったが、四番目のクラスでも価格に見合うだけの良席を配券して貰ったので、奈落の音に関してはしっかり聴けた。しかしあまりにも細かくて聞き取れなかった事が多い ― 近い想いはあの何十段にも及ぶ総譜の世界初演の「サウスポール」だろうか。それがサウンドトラックと言うか効果音と言うかそうした効果を上げていた。それによって視覚的にも大きな効果を上げた。

今回のセットはバーゼルでのものを拡大したようだが、番地37の家屋と回り舞台が何となくフランクフルトのそれを想像させた。バーゼルの劇場も知っているが、あの独特の芝居小屋的なもっと言えば松竹新喜劇的な回り舞台構造は何となく日本の新劇的なのだ。要するにその舞台の場を吟味しているうちに芝居に引き込まれている。だからカウフマン演ずるパウロがその枠を超えて壁の前から出入りするのを見るともう少し安物の吉本新喜劇を思い起こさせる。とても芝居構成として上手い。

それと音楽がどう関わるかなのだが、要するにある時は奈落からの音楽はサウンドトラックであり、ある時は芝居の付随音楽となって仕舞う。またある時はマリオネッタが歌うカラオケを奏する。ある意味オペラ演出としては枠を破ってしまうのだが、ピーター・セラ-ズの様なこれ見よがしなことは一切しない。とても程度が高いと思った。そしてフライ記者は、バーゼルのそれをも体験していたようで、その音楽が当然のことながら全く異なると書いている。

新聞評にもこうして演出家サイモン・ストーンがネットプレゼンテーションに現を抜かしているうちに彼の助手によって制作された今回の制作が全ての制作を抜きんでてしまっていると皆同意見である。そしてペトレンコ音楽監督指揮最初の新制作「影の無い女」と弧を描いているという叙述もある。敢えてそれに言及すると、如何にリヒャルト・シュトラウスのそれがオペラのエンタメ化との対峙にあって、コルンゴールトの今回の「死の街」が心理劇として音楽劇場化しているというその対照を織成している事でもある。

そしてペトレンコ指揮の座付管弦楽団はいつもとは全く異なりヴェルヴェットの美しく柔和な表情を醸し出し、その音色の艶は燻銀で、ドレスデンやベルリンやヴィーンのそれよりも明らかに底光りしていた。その傾向は夏のオパーフェストにおける古楽器奏法を使った「アグリピーナ」新制作で絶賛されたもので、ここに来て何かが完成したと感じた。

大変異例なことであるが、幕が下がって拍手が起きると奈落ではペトレンコが指揮台を盛んに叩いて管弦楽団を祝福していた。これはと思いカメラを早速取り出し向けて、すると今度は各楽器奏者の所へと端から端へと歩み寄り握手をしていた。まだお別れではないのだが、如何にその成果に指揮者も驚いていたという事ではなかろうか?初日も何回か出かけているが初めての光景だった。(終わり)


写真:幕が閉じてから盛んに指揮台を叩くキリル・ペトレンコ



参照:
とても腰が低い歌姫 2019-11-19 | 女
ヒューマニズムへと 2019-06-14 | 文化一般
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二重帝国の響きとは

2019-11-21 | 
先週のチューリッヒの演奏会前半でヴァイオリン協奏曲を弾いたアリーナ・イブラギモーヴァについてノイエズルヒャーが書いている。どうも昨年同じようにルツェルンでハイティンク指揮で同じ曲を弾いたようで、今回もその独特の弓使いの強い個性にドホナーニの方がどのように反応するかに興味があったようだ。丁度私と反対の視線だが、やはり三楽章で目を合わせてと言うところを書いていて、上手く行ったと絶賛している。この韃靼人のヴァイオリニストが世界の大きな市場へ出て行く入り口として評価している。ターゲスアンツァイガーの方には初日にスタンディングオベーションがあったと書いてある。サクラが入っていたか?

前社には僅かしかシューベルトについて触れていない。後社はその倍以上ぐらいだ。そしてブルックナーとの関連性を書く。しかしこの大ハ長調交響曲はやはり音楽ジャーナリストには難しいのだろうと思う。

承前)それは三楽章のスケルツォでも顕著でカノン風の受け渡しでも活きてくるのだが、三拍子のレントラーの副主題や対旋律の分散和音の素晴らしい事。全くクリーヴラントでは弾けていなかった。最早インターナショナルなチューリッヒの管弦楽団であるが、朝からTVを点ければアルプスの音楽が鳴っている社会である。とてもノリが良くてヴィーンの出来上ったそれとは異なる。そしてトリオのオーボエの節回し、これがとてもオーストリア二重帝国のハンガリー風の最早隠しようがない特性である。

多くの人はヴィーンのシューベルトで間違ったイメージを持つかもしれないが、この二重帝国の歴史を抱える家庭の指揮者がこうしてアクセントを付け乍ら振るとその「ソーファミレド」だけでもヴィーンのイメージとはまた異なるものとして体感されるのだ。

この曲に関しては、フルトヴェングラー指揮の名録音やベーム博士の演奏なので馴染んできたが、そうした細部のそれぞれが全体の大きな枠組みの中で充分な表情付けどころか、叙述的に上手く嵌るようにあまりにも格好良く綺麗に処理されてきてしまっていたようにしか思えなくなった。そうすることで本来のこうした細部の面白さが踏みにじられてきたとさえ感じる。確かに一楽章のコントラバスの不吉な動機だけでなく、上昇動機や管弦楽法の考慮は謂われるように天国的なイメージ感にも通じるのかもしれないが、基本はこうした細やかな素材の扱いであって、フォンドホナーニ指揮を聴いて思い出すのはやはりアルフレード・ブレンデルのシューベルト演奏であった。

終楽章の常動的に上下する音階はそのもの天地感であって、ブルックナーよりも明らかにアルペン的なのだ。そして木管をメータ氏もヴィーナーフィルハーモニカー演奏会では前に出して演奏させたと知った。その根拠や文献はどこかにあるのだろう。しかしフォンドホナーニはここでは弦のピチカートを極力ピアニッシモにさせることで解決していた。それ以上にその対抗配置での示唆的な視覚は大きな影響を与えた。しかし何といっても会場の音響は大管弦楽団ではありえない程通る。添えるだけで楽器が響く。

また第一主題での再現では運弓を大きく取ったりスフォルツァンド効かせととても細かな指示がなされていたことが知れた。それらによって、内声が浮き上がったりととても面白かった。しかし何といっても中間楽章での身体を後ろに逸らして椅子が壊れそうに軋んだり、ここぞという時で腰が浮かび上がるような椅子のロデオの様な上下動は見ものだった。

そして例の第一ヴァイオリンでの繰り返しの運指はもはや苛めかシューベルトのウィットとしか思えないが、まさしくこれが作曲家の本望だろう。喝采時に奏者とこの件で目が合ったが、ご苦労様と言いたかったのだ。

今回久しぶりのドイツ音楽界裏のドンであるフォンドホナーニ指揮を三十年ぶりに交響楽指揮者として聴いたが、想定通り大変価値があった。機会があればまた生演奏に接したい。それと同時にスイス最高の交響楽団でありながら中々本領を発揮しないというトーンハレ管弦楽団であるが、今までハイティンク、ヤルヴィ、ナガノ、フォンドホナーニと聴いてきて、玄人筋が語っていることがよく分かった。BR交響管弦楽団なんかよりも力がある。ただいつもそこまでの演奏をしていないだけだ。弦も後ろの方で遊んでいるか、真剣に弾いているかで全く異なる。超一流との差は最後の奏者までやることを主体的に汲み取って弾いていないだけで、そこが明らかに違う。管楽器に関してはいつもの席からはよく分からないが、合わせ方はそれほど悪くはない。現在の会場の限界も分かったが同時にやはり聴き逃せないと思った。もう一時間近い距離ならば頻繁に通ったと思う。次にフォンドホナーニがミュンヘンに来るときは比較の為に聴きに行ってもいいかと思う。他の引退間近の指揮者と最も違うのはあれはどうなるだろうこれはどうなるだろうという引き出しの数で、そしてもうこれでいいと思わせないところだ。他の同年配の指揮者に比較して文化的な奥行きが深い。そして氏の指揮ではそれほど大きな音は出ない。クリーヴランド時代からそうだった。とことん俗受けすることの無い指揮者である。(終わり)



参照:
無事チューリッヒから生還 2019-11-15 | 生活
上がり下がり具合 2019-11-13 | アウトドーア・環境
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音楽劇場の舞台設定

2019-11-20 | 文化一般
音楽監督ペトレンコ体制になってから14つ目の新制作だった。そして初めて音楽劇場制作として成功した。指揮者キリル・ペトレンコは、何回も繰り返すが決してオペラ劇場向きの指揮者ではない、音楽劇場に於いて初めてその才能を発揮する。それが今回の制作の成功だった。そしてその演出が2016年のバーセル制作のそのままで、再制作も本人はネットフレックスのコンテンツ制作に忙しくて関与しなかった。しかし、舞台で本人も助手と並んで大喝采を受けた。サイモン・ストーンは大物だ。

さて往路でも考えていた、肝心のコルンゴールトの作品の邦名「死の都市」にどれほどの意味があるか。想像するのは世紀末感における近代都市の死臭であり、「ソドムとゴムラ」に通じるような意味合いでの都市となる。恐らくそこから都市と訳されたのだろうが、そのそも作曲者も訪れたことの無かったベルギーのべリュージュが舞台であって、原作こそが現在のブルージュ観光のネタ元だ。要するにパリやハムブルク、ミュンヘンといった大都会ではない。要するに「死の街」なのだ。

そして今回の演出からも都市よりも街こそが相当する。この問題に関しては初日の中継放送に出てきていたドラマトリュークのライピンガー氏がプログラムに一章書いている。西欧の都市感覚は街である。先ず演出に関して触れるとして、その舞台設定は音楽劇場においては重要である。

例えば楽劇においてもその劇設定をト書きにあるようなオリジナルでの上演が好ましいという意見が少なくはない。まさしくそのまま百年以上前のト書きのままの上演をするのがオペラ劇場であって、要するに歌舞伎の忠臣蔵と同じように古典とはしながらもその時点でエンターティメントとなりはてて作品の元来持っていた劇性は失われる。

ストーンの演出は、その意味からも優れている。まるで連続TVドラマの様に ― 新聞評にはヒッチコックの「めまい」が挙げられる、主人公パウルの奥さんは化学治療で毛が抜けて、その髪を大事に保管している。恐らく彼女は自殺したのだろうとなり、キリスト教的な世界観からすれば浮かばれない。そこまでの前提が無くても主人公パウルへの共感はとても身近なものとなる。彼の家は37番地、お手伝いさんがやって来るが、彼の大事なところには踏み込ませない。

演出家は書いている。創作当時流行っていたようなフロイト流の精神分析と夢の世界では何一つ解決しない、先ずは落ちるところまで落ちて、本人が変わるしかないと書いている。劇場に求められているのはまさにそれではないか。

そして劇中で回り舞台の壁をヨーナス・カウフマン演じるパウルは二回超えて行った。当然のことながら現実と夢の世界を行ったり来たりすることでもあるが、デーヴィット・リンチの世界でもなく、そこにある意味は何か?

要するにストーンが語る様に、現実性つまり劇性は夢という事で悉く霧消してしまうことになるのだろう。夢をそのまま扱うことはイリューションを代表とするようなショーそのものとなって、この創作の批判点とされるエンタメ性を強調するだけのことになりかねない。(続く



参照:
とても腰が低い歌姫 2019-11-19 | 女
記憶にも存在しない未知 2007-05-27 | 文化一般


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とても腰が低い歌姫

2019-11-19 | 
劇場の駐車場を出たのは22時40分前。帰路は夏タイヤで久しぶりに飛ばせた。結局往復ともいつもの最短コース南回りの8号線を往復。前回の時は車検切れで、更に前輪のショックアブソーバーのバネが折れていたようだ。だから高速カーヴはコツが要って、不安定感があったので嫌だった。それが今回は無くなってどんどん入れるようになった。しかしウルムを過ぎた頃にエンジンオイル急警告が出て、速度を落とした。久しぶりに平均速度104㎞を超えて110㎞に挑戦できたのだが。

それでもシュツッツガルト空港前で写真撮影をされた。速度制限がついたので三車線の本線を走っていたら二車線を占拠する重量物輸送のコンヴォイに先を留められて、よけようと追い越し車線に出るとトラックが中々抜けきれない。かなり長いものを運んでいたようで恐ろしかった。そしてトラックが真ん中の車線に戻ったところでアクセルを踏むと赤く左前方高くで赤く光った。

そもそもコンヴォイが抜けきれないような高速で走っていて、トラックも並走していたので、その後ろも車が連なっていて、120㎞を少々超えたぐらいだろう。問題はその前の制限速度を覚えていないことで、100㎞で20㎞近く超過なら30ユーロで終わりだ。この場合は支払うだけであるが、点数が付くとなれば抗議する。ブロックされてにっちもさっちもいかなかったので、抜いたトラックの前に出ようとしただけだった。見事に引っかかった。帰宅は無事午前二時過ぎ。

それ以外は危惧された天候もバイエルンは快晴で万々歳で、自宅を11時30分ぐらいに出て、途中の休憩所で一時間休んで、劇場の周りの道は今も工事しているが、17時30分ほどに地下駐車場に車庫入れした。そしてトイレに行って、料金を先払いして、ダルマイールでいつものフィレとトルテを購入。18時10分過ぎには劇場入りした。

18時30分からの中継に備えてベストポジションを獲得した。暫くそこで購入したプログラムなどを読んでいると知らないアナウンサーの横に女性が立っていて、この人もバイエルン放送協会で知らない人だっと思った。近くにいる人が手を挙げて挨拶しているので、ミュンヘンのご近所さんかと思った。

番組が始まって、彼女がマルリス・ペーターセンだと初めて気が付いた。メイクやコスメティックもだが、とても目立たない。放送局でもラディオの人に違いないという感じだった。まんまと騙された。こちらが観察するよりも向こうから観察されていたことになる。そして衣裳もどうかなと思って足元を見ると靴がまたなにか違うという感じだ。しかしこれは全て舞台用だと気が付いたのはのちになってからだ。

そして早めに終えて楽屋に帰る前に聴衆の近くまで来て、ニコニコしながら「楽しんで行ってくださいよ」と挨拶して回って、兎に角腰が低い。実際には「ルル」で見慣れているホットパンツで有名な様にドイツ女性としては通常のプロポーションなので、また「サロメ」でも大股開きを披露していて思っていたよりも、実際には可成り華奢で小さい女性だと気が付いた。勿論ヤホなどよりは体格はいい筈だが、なるほどリリックな歌声を専門とする人は小柄な普通の歌姫なのだと漸く合点がいった。しかし本番前から少しは役作りに入っているかもしれないが、ドイツ女性としても珍しいタイプで、なるほどギリシャ人とギリシャに住んでいるような人だと納得した。彼女ならペトレンコが扱くと卒倒してしまったのもよく分かる。



参照:
オペラ的サウンドトラック 2019-11-18 | 文化一般
新制作「サロメ」評価の基準 2019-07-07 | マスメディア批評
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オペラ的サウンドトラック

2019-11-18 | 文化一般
周辺情報を集めている。月曜日の「死の街」初日のお勉強である。正直まだその内容を十二分に理解したとは言えない。そもそも全曲を観劇するのは初めてで、全曲録音も持っていない。手元にあるの今年のスカラ座での録音と手書きの総譜のコピーだけだ。歌詞も字が小さ過ぎて読み切れないので、粗筋をWikiで読んだだけだ。

だから劇場が出しているものを一通り洗う。台本のパウル・ショットと言うのは実は作曲家コルンゴールトの父親のペンネームで、そのパウルに注目するまでも無く劇中に描かれていることになる。音楽的な指示動機に関してはまだ十分に把握しきれていないが、マンネリ化した印象を得たところは間違いなくその関連となっている。もう少しじっくりと見ないと駄目である。

それ以上に1933年のミュンヘン初演の情報が興味深い。因みに指揮はハンス・クナパーツブッシュだったようだ。その後の演奏歴は恐らくプログラムに網羅されているだろう。つまり既にアンチセミティズムのミュンヘンで指揮者に感謝の意を作曲家が書き記していて、数年後にはナチによるオーストリア併合でアメリカへと亡命する。

クナッパーツブッシュという事では木曜日の帰路フランスの放送局に亡くなった歌手クレスパンの長いインタヴューが流れていた。知らなかったのだがクナパーツブッシュの思い出を語っていて、バイロイトでの話しも流れていた。

もう一つの説明は、これが欧州で創作されて初演されて、ハリウッドでその動機などが利用されているという事だろうか。既に書いたように、リヒャルト・シュトラウス作曲「ばらの騎士」などはどうしてもそうしたエンターティメントと境界を接しているのだが、コルンゴールトにおいてはそれが直接の二次利用などの手法となっていると、この点にメスが入る。勿論それを専門に研究している向きはいるだろうが、ガーシュインなどを含めてそのジョン・ウィリアムズまでの系図がよく見えてくるだろう。

留守録予定のBRの生中継放送の内容を見る。新たな情報として開演前のロビーで行われる番組に演出家ストーン、ドラマテュルギのライピンガーと並んでマリエッタ役のペーターセンが現れるようだ。一幕での出番が遅いからだろうが、それにしても余裕である。また写真小僧をして目線を貰って来よう。

YouTubeを調べると幾つかの全曲ヴィデオがあった。一番参考になりそうなのはラインスドルフ指揮の製本した楽譜のついているヴィデオである。手書きの見難さが解消されるが、先ずこれを見ておけばよかった。DLして時間があれば確認しておこう。

「死の街」と勝手に訳しているが日本語では「死の都」とするようだ。どちらの方が相応しいかは一度体験してみないと分からない。原作の舞台のブルージュを都と言う限りはそれなりの根拠が必要だ。

話しは変わるが、土曜日にパン屋に出かけようと思ったらトラクターが列をなして通り過ぎた。なにかのパレードかと思ってナムバープレートを見ると地元のワイン農が多かった。更に続いて、運転手の顔つきを見ると楽しそうではなかった。プラカードを読むと、「俺らについて話すより、俺らと話そう」とあって、抗議運動だと分かった。敢えて交通の妨害をするぐらいに往復したりしていた。確かに質のいい食品を配給しようと思うと骨が折れるだけの農作業となるのだろう。



参照:
栄枯盛衰に耳を傾ける 2007-07-08 | 雑感
西へと流れる雪雲 2019-11-17 | アウトドーア・環境
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西へと流れる雪雲

2019-11-17 | アウトドーア・環境
車中のラディニュースが伝えていた。先頃から処罰化が言われていたパパラッチの罪が定められた。アウトバーン等での遺体の写真などがネットで晒され続けているようで、写真を写すと処罰されて、最高二年までの懲役となる重罪となる。遺族への配慮や尊厳を守るという事での重罰化であり、それまでは無罪であった行為への処罰としては破格ではなかろうか。如何に実態が酷いかという事だろう。

さていよいよ「死の街」三幕を聴いた。スカラ座公演の録音では最初のマリオネッタがパウルに絡むところまでは、その管弦楽法にも飽き飽きしてきた。要するに充分に書けていないと感じた。しかしこの玉石混合感は一幕からあったものだけに何とも言い難いのだが、通常は二幕であそこまで盛り上げておいて、三幕頭はもう少し捻ってくるものだと思うがだらついている。恐らくこの夢物語が続くという事で演出上の工夫ところなのだろう。しかし音楽がこれでは、流石にペトレンコ指揮でも興味深いとは思えない。さてどうなる事だろうか。

しかし、マリオネッタの歓心を引く踊りから、パウルに首を絞められての場面になると音楽もそうだが再びアスミク・グリゴーリアンの歌の威力が炸裂する。流石にフローリアン・フォークトも疲れが出てかここではもう付いていけない。本当に彼女の歌と恐らく舞台での存在感がこの制作の要だったろう。

幕切れに掛けてはリヒャルトシュトラウスの同様のそれを凌駕するような音楽運びで、この作品をやる価値はシュトラウスの作品の吟味に繋がるような材料を与えることではないかと思う。要するにどこまでが楽劇で何処からがハリウッドミュージカルかのその境界が垣間見られることになると思う。キリル・ペトレンコにとっては暮れのベルリンでのジルフェスタ―コンツェルトの内容が丁度重なっていること事になって、この人物が如何に無関係な仕事は一切しないかと言う合理性の極致のような性質がここにも示されている。

来年一月の三拍、ベルリン郊外の宿をキャンセルした。期限まではまだ一月以上あったが、宿泊日時までは二月を切ったので必要ないならばキャンセルしてあげないと売れ難くなる。とても安くてこじんまりしたアパートメントなので直ぐに売れるには違いだろう。

天気予報が好転した。先ず雪雲が更に西へと流れそうだ。これで懸案のシュヴェービッシェアルペンからシュヴァルツヴァルトへと流れるので、アウトバーン沿いはでは標高も落ちて積雪は限られる。更に日曜日午前中の降雪の可能性で、そこから一日以上も経てば先ずは影響がないであろう。もし月曜日朝も雪の為に交通の流れが悪いようであれば北側のハイルブロン経由で東進して、シュツットガルトに抜けるか更に奥のウルムへとロマンティッシュ街道を何かすれば良い。その場合走行距離は35㎞伸びて、走行時間は20分ほど余計に掛かる。するとニュルンベルク経由の方が早く着く。そして何よりも喜ばしいのは帰路に降雪に見舞われる可能性が殆ど無くなった。

あとは日曜日から月曜日の朝までに最低額で燃料を満タンに出来ればよい。月曜にピクニック用にサラミなどを買い足す。帰宅は火曜日の午前2時頃になるだろう。出発は12時前の予定だ。



参照:
「死の街」二幕へと進む 2019-11-12 | 女
来週への準備をする 2019-11-10 | 生活
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メンデルスゾーンの響き

2019-11-16 | 
メンデルスゾーンの協奏曲が美しかった。前回聴いたのはブロムシュテット指揮ヴィーナーフィルハーモニカーの伴奏でバカドスとかいうヴァイオリニストが弾いたもので、ソロも学生上がりの様な楽器の鳴らし方だったが、それにも増してブロムシュテットの指揮も上ずってしまっていてなにもまともな音楽を奏せなかった。

今回も中央アジア出身のブロンドのヴァイオリン女性なので、酷い演奏になると予想した。なによりもユロスキとのベルリンでの共演の放送を聴いても、彼女の弓使いが押し付けるようでまともに楽器が鳴らない。更に独特のアクセントで演奏すると酷いことになると思った反面どこまで90歳の指揮者がドイツ音楽を教え込めるかの興味もあった。

実際、その最初のソロからして違った。なるほど舞台に登場した彼女は更に肉付きがよくなっていて、少々醜いぐらいだったが、演奏はヴィデオで観たものよりも制御が効いていた。そしてそれを受ける管弦楽の美しいこと。指揮者がどういう音を要求しているか、つまり楽譜をどのように読んでいるかは明らかで、どれ程抑えても暑苦しいヴァイオリンのソロに清涼感を与えていて、エッジと同様に輪郭を浮き出させつつもその対照と繋がりが美しい。ブロムシュテット爺のブリブリ鳴らす指揮が如何に無様で芸が無いかを思い出させる。二楽章への経過も楽器が溶け合い美しく、木管と弦の混ざる音色は久しぶりに体験した音色芸術だった。もうこれだけでメンデルスゾーンがどれほど才能を持っていた作曲家が一目瞭然となる。三楽章のシステム間のカノンも綺麗に出ていて、この曲が通俗名曲になって仕舞っただけで、やはり重要作品であることを再認識した。

アリーナ・イブラジモーヴァは来年のザルツブルク音楽祭にもソリストとして登場するようだが、今回の共演はとても学ぶことが多かったと思う。あの奏法は恐らくロシアのオイストラフとかの流派と同じものなのだろうが、やはりそのセンスが問われる。そして今回その見かけ以上に素直にリハーサルをしたこともよく分かった。謂わば伸びる可能性があった訳で、それだけでも大歓声を受けるだけのものは披露したと思う。なるほど元々のツィムマーマンが弾いていたならば更に美しいメンデルスゾーンになっていたと思うが、それはそれで見ものであった。

さて、肝心のシューベルト作曲大ハ長調交響曲への期待は大いに高まったと同時にある程度見えてきた。放送で録音したクリーヴランドの演奏に比べて聴き劣りすることは無いと確信した。最初のホルンの主題がヴィオラからの対旋律の受け渡しの見事なこと、パリでのリハーサルの様子を知るところによると余程の表情付けがなされたものと想像できた。マンネリ化からはほど遠い。なによりも二分の二拍子の早いテムポに驚いて、破綻しないか心配だったが、上手に四分の四拍子の主要部分で吸収されていて、ここ数年でもテムポ設定を変えてきたのかなと思った。シームレス感は更に洗練されている。

二楽章の第二の主題への経過部における弦楽の階段状の対旋律の合わせ方がこれまた微妙でppであっても音階感が削がれないので、一楽章の不吉なコントラバスの様に影法師のような効果が出る。こうしたところからマーラーなどは創意を得て作曲したのがよく分かる。勿論ここの第二主題こそがブルックナー的な寂寥感で、もし独墺系のロマン主義における自然描写のようなものに触れるならばブルックナーではなくこれを挙げるべきだ。クリーヴランドでの演奏と比較するとこの中間の二楽章の管弦楽の反応こそが中欧のそれでアメリカでは無理なのだろうと思った。対旋律のピチカート動機などもよりノンヴィヴラート傾向へと軽みが増していて、バスが応える印象がよりも自由になっていた。意外にもクリーヴランドのアンサムブルの方が機能調性的で古典的だ。やはり今回の対抗配置におけるアンサムブルの相違であり、第二ヴァイオリンの掛け合いが生き生きして効いていた。(続く



参照:
無事チューリッヒから生還 2019-11-15 | 生活
水曜日のパリの夜から 2019-10-25 | 文化一般
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