Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2019年4月

2019-04-30 | Weblog-Index


3F – 喜び、自由、平和 2019-04-30 | 文化一般
いざアルテオパーの心 2019-04-29 | 生活
首が座らないやつら 2019-04-28 | 雑感
黒い髭などはユダヤ人 2019-04-27 | 文化一般
重要なキャスティング 2019-04-26 | 雑感
聴衆との盛んな応酬 2019-04-25 | 文化一般
不可能な二次元マッピング 2019-04-24 | 雑感
空騒ぎの二重の意味 2019-04-23 | 文化一般  
芸術ゲマインシャフト 2019-04-22 | 文化一般
イタリアにおける成熟 2019-04-21 | 文化一般
聖土曜日のレクイエム 2019-04-20 | 音
聖土曜日の準備へと 2019-04-19 | 暦
幾つもの山が当たる 2019-04-18 | 文化一般
METを超えたオペラ 2019-04-17 | 音
落ち着き払ったメータ指揮 2019-04-16 | マスメディア批評
芸術の多彩なニュアンス 2019-04-15 | 文化一般
華が咲くオペラ劇場 2019-04-14 | 文化一般
落ち着かない一日 2019-04-13 | 生活
ドライな方が上手く鳴る 2019-04-12 | 文化一般
ポートレートの色合い 2019-04-11 | マスメディア批評
出来上がりを予見する 2019-04-10 | 料理
ティーレマンも恐らく失う 2019-04-09 | 文化一般
睡眠が浅かった朝 2019-04-08 | 雑感
茹で過ぎにならない実力 2019-04-07 | 料理
カテゴリー7ケーブル導入 2019-04-06 | テクニック
雨脚が強く朝寝 2019-04-05 | 雑感
避難第三弾を計画 2019-04-04 | 生活
ワイン祭り避難、第二弾 2019-04-03 | ワイン
還暦おめでとうの誘い 2019-04-02 | マスメディア批評
儒教に沿わない男女同権 2019-04-01 | 文化一般
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3F - 喜び、自由、平和

2019-04-30 | 文化一般
ベルリンからの中継を観た。とても良かった。先ずは、就任のキリル・ペトレンコが醸し出すフモールな雰囲気が今後の活動をよく示していて、只の仕事師ではなく創造性が充分に感じられた。特にベートーヴェンプロジェクトを語る内容にも一種の軽やかさとヒュマニティーがあり、そして喜びが体現されていた。その通り、3Fと表現した。

Freude ― Freiheit ― Frieden

喜び、第九であり、自由、「フィデリオ」であり、平和、「ミサソレムニス」である。最後の逸話として、ミュンヘンの新聞の批評にもあったように ― 間違いなくペトレンコはそれを読んで ― その時にミュンヘンで開かれていた世界和平会議の参加者に「ノービスパーツェ」と聞かせてやりたいと、とても明快なメッセージを出した。そして、これらこそが世界の欧州の現状に言及して現実的な課題とまで踏み込んだ。同時に第九の前に演奏する「ルル」でも喜びだが、また異なるとしていて、面白いことをいい、最後に「喋り過ぎたかな」と、どこまでも語り続けそうな勢いだった。

プログラム的に驚いたのは、ペトレンコ自身が言及したように「ミサソレムニス」が先ずバーデンバーデン限定で、「間違いなく後のシーズンに来る」ということで、更に言及は無かったがマーラー四番のプログラムが定期に入っていないマーラーフェスティヴァル欧州ツアーとイスラエルのための限定だったことである。

その為に、ジルフェスタ―のポップスプログラムは予想されていたが、もう一つのスーク作曲「アスレアル」プログラムの可能性を迂闊にも落としてしまっていた。早速ベルリンの宿を予約したが、もしかするとこのプログラムは来年のオープニングツアーに乗るかもしれない。まだ時間があるので判断しよう。ジルフェスタ―の遠足プログラムはARTEも放送するようだから出かける必要は全くなくなった。時期を見て予約した宿をキャンセルしよう。つまり個人的には一度出かけるか、全く無いかだけで、ペトレンコが言うように就任2年目からは新曲も初演するので、来年はまだ過渡期である。スークは長中期的にメディア化すると本人から言明された。

テムペルホーフでの「出会いプラン」は上手く行くかどうかまず試すところのようだ。その他の社会的な活動としてのGPの招待などへの難民の招聘もベートーヴェンで述べたようなそれなりの色が出ている。

その他では、マルリス・ペーターセンをレジデンスアーティストとしたことで、紹介するときに「喧嘩相手」としたのは笑わせてくれたが、「フィデリオ」上演が1814年の第三版と明記してあって、なるほどペトレンコが言うように可成りのペーターセンには要請となる。それどころかポレンザーニにも可成りのプロジェクトとなるのではないか。そして最後の二回はフィルハーモニーで「従来通り」と特別言及があったので、試行錯誤はあったのだろう。いづれにしても舞台を録画しない限り練習時間さえ充分ならばそれほどの問題は無いだろう。確かにペトレンコの日程は三月が完全に空いている。さてどうなるのか?

その他、最大の疑問だったオープニングが23日で、24日のオープンエアーがブランデンブルク門でとなって、RBBが昨年と同様に中継する。その他レパートリーとして、周辺作品としてそれ程でなくても質を重視して場を限定して演奏、マーラーを身近な指揮者作曲家として「六番、ここで指揮すべきだったのですが」と笑わせる。グラズーノフ、スクヤビン、グリエールなども、またオペラを含むヒンデミット、ハルトマン、ヴァイルにも言及した。



参照:
愛しい、我が音楽の故郷 2019-03-18 | 文化一般
「平和を」の心は如何に? 2019-02-22 | 女
いざアルテオパーの心 2019-04-29 | 生活
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いざアルテオパーの心

2019-04-29 | 生活
プログラム発表前日である。ベルリナーフィルハーモニカーのツアーコンサート情報を集計する。新シーズンに新任首席指揮者がベルリンでも振るコンサートプログラムは次のようになる。

1.第九、ルル組曲またはエネスコフェスティヴァルで「ラプソディー」
2.ミサ・ソレムニス
3.交響的舞曲、アラゴアーナ、悲劇的序曲または三楽章の交響曲
4.「フィデリオ」全曲
5.マーラー交響曲六番
6.マーラー交響曲四番、リュッケルト歌曲

これ以外にオープニングツアーでシェーンベルクとチャイコフスキ交響曲五番のプログラムが入る。これで全てであろう。ジルフェスタ―のプログラムこそ分からないが、これ以外ではヴァルトビューネが入る節はあろうが、来年はミュンヘンで居ないとして、これ以上の年間プログラムは考えにくい。

要するにベルリン行プランとして既に暮れのベルリンの宿は予約してあるが、ジルフェスタ―以外では、最早考えられなくなってきた。上の全てのプログラムはここから350㎞圏内で全て聴けることが判明した。悲劇的序曲と三楽章で二回出かけるぐらいだろうか。それ以外には六番が再びオープニングツアーのプログラムになるのであろうか?今回は顔見世興行として、オープニングツアー、国内ツアー、復活祭、欧州ツアーと四回のツアーが組み合わされるので、上手く行けばベルリンには行かないでも済むかもしれない。それどころかそれ以上に良い演奏を良いホールで全て聞ける可能性が高い。入場料は本拠地よりも高くなってもこちらの交通費や宿泊費には到底代えられない。

2020年は更にNYフィルとシカゴ、そしてクリーヴランド管弦楽団の欧州ツアーがあり、前二つは プログラムと場所も分かった。こうして世界のトップの状況を確認していくと、超一流ではない管弦楽団など聴いている時間が無い。以前ならばベルリンの半額もしないヴィーナーフィルハーモニカーをズビン・メータが振るとなると安ければ買っておけと思ったが、もはや到底無理であり、動機付けも無くなった。それほど最後に聴いたヴィーナフィルハーモニカーの演奏程度が低く、放送で聴いても半額の価値さえなくなってきたからだ。

そもそも出かけるオペラはヴィーナーフィルハーモニカー、コンサートはベルリナーフィルハーモニカーが殆どだったので、オペラの方が変わって来ただけでしかない。そこでアルテオパーを確かめているとまた一つ見落としていたコンサートが見つかった。これは小ホールでのアムランのピアノリサイタルで、二週間先に室内楽で初めてこのピアニストを生で聴くが、その前に買っておいた。来年1月19日で、生憎出遅れてギャラリーの前列は無かったので、二列目を取った。以前は定期会員の時に一列を割り当てられていたので、その二列目の状況も分かる。観にくければ後ろに立てばそれで用が足りる。28ユーロとベルリナーフィルハーモニカーの券と7ユーロしか変わりないが価値はあるに違いない。

これでアルテオパーのシーズン中四回分を購入した。定期を辞めた時にはいつアルテオパーに戻ってくるだろうかと考えたものだが、予想を超えて逸早く帰還することになった ― 昨年ゲヴァントハウスで出かけたのを忘れていた。ミュンヘンへと出かける回数は今後減少するので、フランクフルトやバーデンバーデンなら遥かに楽だということになる。



参照:
大関昇進を目指せ 2018-10-10 | 音
ヘテロセクシャルな胸声 2015-11-22 | 女
バッハ最前線から現状報告 2016-02-26 | 音
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首が座らないやつら

2019-04-28 | 雑感
バーデン・バーデンでのヴェルディ「レクイエム」二日目の評がネットに出ている。音楽ジャーナリストのものらしいが、興味深いのは当夜のベルリナーフィルハーモニカーへの評価である。クリストフ・ヴルツェルという人に言わせると、フィルハーモニカーがペトレンコ指揮で聴いた両夜は創造的な演奏で、ムーティ指揮では光り輝くルーティンということらしい ― なるほどカラヤン時代にジュリーニが同曲を振った時にはルーティンとはなりえなかったのであり、私が当時よりも現在のフィルハーモニカーの程度が高いとするその意味するところでもある。

後者の心はそのフォルテッシモでのダイナミックスや最高品質の技術を意味しているので、ある意味我々の見解を裏側から見ている。そして同時にムーティ指揮では木管楽器が比較的色褪せて、遠くからの金管効果などが犠牲にされたという。

木管に関しては、あの晩年のヴェルディの書法の中で何をという気持ちはするが、先ずは全奏におけるムーティ指揮のフィルハーモニカーはとてもいい鳴りをしていて、シカゴのそれと比べてもストレスの無い鳴りだった。反面、弦楽に関しての言及が無く、ヴェルディの音楽を鷲頭掴みにするムーティの指揮の把握と正確さの中でも、細かな表現の表出の限界を説いている。ここは当日のガイダンスにおけるヴェルディの音楽表現への見解となるところで、やはりその書法に戻って考えないと議論にならない。大雑把な言い方をすれば、ムーティにおけるエンターティメント要素というのはヴェルディにおけるそれであり、中欧的な繊細な表現をそこに求めるべきかどうかという比較文化論的な視線が必要となる。この人がランランの演奏についても触れているのを読むと、これ以上議論する必要はないかと思う。兎に角映像の放映が待たれるところだ。

水差しの栓のクリスタルグラスをタイル床に落とした。首が破壊された。腹立ち紛れに掃除機で吸い取ってしまったので、実用的に埃よけとして使うにも首が座らないことに気が付いて、一部修復しようとしても破片をごみの中から発掘しなければいけなかった。とても腹立たしい。背後で鳴っていたのはMETからの「神々の黄昏」で、その演奏からあの二代目のジョルダンがなぜとか考えていての事故だった。

バイロイトの「マイスタージンガー」に続いてまともに流し始めたが、とても最後までは流しておける代物ではなかった。どんなにいい管弦楽団やアンサムブルでも壊してしまえる指揮名人だと思った。そしてここぞというときに泣き節で歌わせる。恐らくこの指揮者はおとうちゃんと同じように映画業界でサウンドトラックを指揮していれば丁度良い ― 要するに楽想楽想を繋ぐことも儘ならないぐらいにしか楽譜が読めていない。音楽監督と同じ事務所ということでミュンヘンでは一度振らせたようだが、皆口を塞ぐしかなかったであろう。ヴィーンの次期監督とは七不思議であり、本当に就任できるのだろうかとしか思われない出来の悪さである。パリの音楽監督ということで、その劇場の音楽的な水準がドイツの二流の国立劇場程度と知れるところとなる。恐らくヴィーンの音楽監督史上最低の監督ということになるのは間違いなさそうである。それにしても指揮者が出てきてMETが少し沸くのはファンクラブのお蔭かそれともサクラを入れているのか?

監督としての能力としての問題から蹴られてしまったティーレマン指揮で生中継を流す。そしてそのブルックナー二番に合わせた委嘱曲の程度の悪さ。こうしたネオロマンティズムの曲を委嘱する方もする方で、演奏するものが馬鹿にしか見えない。

次期音楽監督には音楽的にはティーレマンの方が適任ではなかったかという妄想もそのブルックナーの第二主題が出るところぐらいで簡単に雲散霧消する。やはりこの不器用な指揮者はアゴーギクを効かすというよりも指揮者としての基本技能であるテムポを保つということが出来ないようだ ― こちらも楽譜が読めないのとの二重苦になっている。全てのその政治的な主張とか云々とかあらゆる要素を打ち消してもやはりキャリアをそもそも歩けないようなどこの地方にでもいるようなドイツ人指揮者でしかかったことを如実に思い起こさせてくれる。こちらはドイツェグラモフォンの責任だが、最近はソニーが全ての美学的な価値観をポピュリズムで壊してくれている。

嘗てのホルスト・シュタインとかその辺りのカペルマイスターと比較して、現在のその人たちの技量の低さを思う。一方では指揮技術などの洗練で程度が随分と変わってきているのにも拘らず、埃っぽいオペラ劇場で奈落の中で仕事には発展が無いようである。大体あの手の指揮者助手は歌劇のピアノ譜を適当に音にするだけで、自分が正しいリズムを作ってテムポを維持するというのではなくて指揮者や歌手に合わせて伴奏するというのが能力なのだろう。

今回奇しくもズビン・メーターがフィルハーモニカーの指揮台でオペラ指揮の妙味を見せてくれていたが、やはりあれは現場で歌手に合わせているようでいながら、実は胴を取っていて ― ムーティなどでもメーリに合せた指揮を展開していた ― フィリップ・ジョルダンが場面に合わせた繋ぎ合わせのサウンドトラックを振るようには全くならない。どうもあの手の指揮者はお頭が悪いというのに尽きる。

週明けにはベルリンからのプレス会見中継がある。不思議なことに、改めてベルリナーツァテュングが8月25日がお披露目と書いている。25日はザルツブルクの初日で、それはありえない。ベルリン在住の人は本当の期日は、またなぜこうした誤りが罷り通るのかが想像可能かと思うが、私は分からない。少なくとも24日が初日だろう。昨年はベルリンで二日あったが、今年は一日だけなのだろうか?



参照:
怖気づいた伊人の実力 2019-03-16 | 女
怖気づいた伊人の実力 2019-03-16 | 女
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黒い髭などはユダヤ人

2019-04-27 | 文化一般
寝不足気味だったから走るつもりはなかった。日曜日に走ろうと思っていたからだ、それが天気が悪くなってきたので、走ってしまおうと思った。パン屋には来ても走る走らないは自由にしておきたい。結構肌寒くなって、森にやってくる人も少ないが、厚着をしていた。

走りながら詰まらないことを考えた。先ずは木曜日のベルリンでのコンツェルタンテ形式の「オテロ」上演の批評で、ベルリンの放送局が配役などの違いがあっても全く私と同じような感想を書いているなと思った。結局歌はヨンツェヴァがずば抜けていることは明らかで、バーデンバーデンでもスケルトンが絶好調でないと対抗できなかった。そもそもこの歌手はクラスが完全に上の人のようで、バーデンバーデンの歴代オペラ上演で歌った人の中ではトップクラスでは無いかと思う。なにも完ぺきでは決してないのだが、思い浮かぶ歌手を並べても抜きんでていた人はそれ程いない。だからザルツブルクで「ポッペア」を歌わしたのは本当に解せない。日本で招聘しても舞台上演出演を断るのも分かるような気がする。

そして、ベルリンではなぜか肋骨を折ったとされるサルシが歌ったようで、これも本当だろうかと思う。評判もあまり良くないので、状態が悪いのか、ずる休みしたのか?オテロがよい訳が無く、期待していなかった公演だがと書かれる、実際に空席が多かったのだから、来年からはGP代わりに先に公演をして欲しい。舞台さえよくなれば、録音だけでなく映像もバーデンバーデンで撮ればよい。そのためにARTEがDCHのパートナーになったのである。しかし、今年はバーデンバーデン支局の頑張りか、SWRもシュトッツガルトに対抗して限られた予算内でよくやってくれたと思う。

さて、総論として、82歳になるメーターが、一幕を暗譜で指揮して、二幕でも長く閉じたままだったとしているが、四回も本番を立て続けに振っていれば当然だろう。特にアルメニア出身の歌手の好きなテムポで歌うオテロに合わせるにはアイコンタクトが必要でと書いているが、ものも見方で、これもバーデンバーデンでスケルトンらを待つメータのカペルマイスター的な指揮と指摘した点でもある。

柳の歌の天国的な弦、ヴォーレンヴェーバーのイングリッシュホルン、フックスのクラリネットに言及して、チェロのクヴァントの名も挙げているが、するとデュオにおけるチェロの四重奏はどうだったということになりかねない。しかし、管弦楽団の音色として金細工とタールのような暗い色の間の音色を引き出し、サイモン・ラトルとは全く反対に ― ヴェーバーがラトルは楽団のそれを待っていたとしていたことにも相当するが ―、メータは、コンサートにおけるオペラ上演というような難しいところで全く正確にバランスを知っており、決して叫ぶことが無かったとしている。合唱に関しては地元の放送合唱団のようだが、これもバーデンバーデンの恐らく今最もオペラで上手なヴィーンのプロ合唱団には到底至らないだろう。

ノルテの絵画を州知事が自慢絵に購入したことからメルケル首相が執務室に飾っていた絵を持ち主に返したとかいろいろと話題になっている。そもそもノルテが二度もナチ党員になっていながらも、ゲッペレスが執務室に飾っていてヒトラーに見つかったとか、その芸術的傾向が退廃芸術とされたわけである。そこに描かれている黒い髭などはユダヤ人でしかなく。人種主義者であったことは間違いが無い。今回も、バイロイトに出かけノルテの絵画を背に執務するのがおかしいと言われたのであった。



参照:
Herausragend trotz Besetzungschaos, rbb vom 26.04.19
表現主義の庭の歪な男たち 2017-05-31 | 文化一般
METを超えたオペラ 2019-04-17 | 音
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重要なキャスティング

2019-04-26 | 雑感
昨年のザルツブルクでのモンテヴェルディ「ポッペア」をBGMに流した。指揮がクリスティーで、ヌード女性の舞台ということで録画していたが一度も観ていない。気が付いたのはデズデモーナを歌ったヨンチェヴァが出ていたことで、実際流してみると上手くてもどうしてと思った。要するに彼女に歌わせる必然性などは全くなかった。クリスティーの指揮もモンテヴェルディではとってもアーノンクールほどではなく、ただ名前で出ているだけだった。どうも最近の夏のザルツブルクはスターシステムを取らないというだけで実際には下手なキャスティングシステムを取っていて、有名人を目立たないように使うという馬鹿なことをしているようだ。やはりザルツブルクが遠のく。モルティエ時代のように音楽劇場を習うという心算で出かけていた時とは違って、あれだけミュンヘンに通えばオペラ劇場というものが分かったので、祝祭オペラを数で勝負するザルツブルクは殆ど意味をなさなくなった。コンサートはそもそも会場と言い、それほど特筆するものは以前から無かったので招待以外は殆ど出かけていない。

ヨンチェヴァのベルリンでの無料生放送は無いかとみると、ルツェルンで初演指揮者ラトル指揮でバーバラ・ハミンガムが歌う作曲家エィブラームセンのポートレートコンサート生中継を見つけた。曲を知るためにも聞いておきたい。そこで9月の音楽祭での売券状況を見るとまだまだ残っている。格安席が余っているのはハーディング指揮のコンセルトヘボーによるトリスタンも同様であるが、どうも今年は昨年ほどにはロンドン交響楽団は人気が無いようだ。やはりラトル人気とベルリンと比較しての失望があったのだろうか?

引き続いてトンハーレのサイトを見たら、6月のアイヴスの交響曲四番の副指揮者の朝鮮系らしい名前が出ていた。確か三人が必要なかったか?そして前座プログラムを見ると知っている名前があった。都響とも共演しているとあるチェロのス-シャンとはミュンヘンのガスタイクの近くで皆と一緒に飯を食ったことがある。驚いたのは彼女がチューリッヒの教授になっていたことだ。なるほど音大学長になった人もいたりで、大体演奏家としてどの程度で知的水準がどの程度であるとどこそこの教授ぐらいにはなると大体分かるようになった。中々名門の音大の教授になるのは難しいが、勿論スター演奏家になる方が遥かに狭き門である。だからもう少しのところで大教授職から落ちている人はなるほど演奏家としてもそのもう少しのところがあってもう一つブレークしていない、つまり一流演奏家にもなり損ねている人なのである。プレコンサートでは時間は無いだろうが、本コンサートで機会があれば声をかけてみよう。二言三言話せば直ぐに思い出す筈だ。



参照:
電話回線契約破棄の旨 2019-03-26 | 雑感
儒教に沿わない男女同権 2019-04-01 | 文化一般
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聴衆との盛んな応酬

2019-04-25 | 文化一般
来週頭に招待された演奏会の都合が悪くなっている。当初の予定では、二泊して、演奏会の翌日にゆっくりと醸造所を回ろうと計画していた。それが同行者の都合で夕方には送り届けなければいけなくなったので、午後の試飲が忙しくなった。そもそも試飲せずに取りに行くだけならば、演奏会の前でもよかったのだ。それならば二回に別けて試飲をして、一泊だけで帰宅する案が浮かんだ。すると今度はベルリンからのプレス中継があることに気が付いた。それが終わってからでもよかったのだが、急いで片づけて出かけなければいけない。

計画を直している最中にほかの予定を翌日の早朝にうっかり入れてしまった。これを順延しても、翌日に車で帰るとすれば試飲をゆっくりできない。要するに折角四月に購入できるというチャンスだったが、無理して日帰りも出来ないような状況になってしまった。招待を断って、宿もキャンセルして、翌日の予定に合わせるしかない。ワインは発注だけしてあるので、それ以外はまたの機会になる。

月曜日にバーデンバーデンで恒例の復活祭の収支決算記者会見が開かれて、その模様が報告されている。それによると二万三千人の入場者数となっていて、全てが入場料を十分に払っている人ではないと思うが、ザルツブルクの一万八千人とどちらが水増しが多いか?ランランのお蔭での完売もここに貢献している。しかし重要なのは、辞める支配人の言葉とベルリナーフィルハーモニカー側の見解だろう。

メーリッヒゼップハウザーは語る。「バーデンバーデンでフィルハーモニカーが気持ちよくやっていると見えます。街は、フィルハーモニカーの皆さんを諸手を挙げて迎え、このような大物を迎えて自慢なのです。長い目で見ています。」。

それに対してツェッチマン支配人は応える。「とても歓迎されていると感じ、聴衆との盛んな応酬があり、私たちの復活祭へのパトロンから同様アンドレアス・メリッヒゼップハウザーのチームの多大な支援に感謝しています。特に彼は、過去七年間の調和の取れた協調関係への感謝に値する。新たなベネディクト・スタムパのチームには大きな抱負で持って楽しみにしています。新たな首席指揮者キリル・ペトレンコと共に沢山の予定があります。」。

勿論我々にとっては「聴衆との盛んな応酬」がとても重要なのであるが、先の計画などを漏れ聞き、更にそこから想像するに、2021年以降のことが問題となる。つまり2013年まで計画されているということである。

先ずは、今回の復活祭を振り返ると、支配人が冒頭に話したように三人の指揮者が大きな柱を立てたことは間違いなかった。オテロ、レクイエム、シェーンベルク・チャイコフスキーとなる。最初のオペラではメータ指揮による交響楽団の奈落での解体が大成功して、フィルハーモニカーがブーを浴びるというとても画期的な結果になって、二度目に再構築してきた腕には感服しかない。殆ど意識してやっていたことだったようだ。二つ目の軸は、今後とも如何に聖週間などのプログラムで上手に宗教曲を取り上げていくかととてもいい参考になった。これとオテロの音楽的な関係を見極めるだけでも芸術的な価値があった。偶然にそのようになったのではないだろう。三つめの軸も同じ交響曲を二度続けて公演したことで、これまでのラトル体制におけるプログラムの在り方を踏襲した面もあった。三つともとても音楽的にも高水準で、オテロの演出もこれまでの中で最も話題になるべき出来だった。

ある意味、ウイルソンの演出への天井桟敷からのブーイングももしかすると今までとは毛色の違うオペラ通が混ざっていたのかもしれない。オペラ通にとっては、ラトル指揮の相手は出来ないが、ガッティ指揮ならという層もいたのかもしれない。勿論メータを目指した人は通が殆どだろう。レクイエムのキリエの後の拍手への動きも若干今までとは異なる積極性を感じた。ラトル時代の客層が決して悪かった訳ではないが、彼の指揮するベートーヴェンなどに歓声を上げる向きがいたのも事実で、やはりあの層の比率を圧縮するだけで大分客層は良くなると思う。要するに従来のベルリナーフィルハーモニカーファンというような層である。



参照:
空騒ぎの二重の意味 2019-04-23 | 文化一般
聖土曜日のレクイエム 2019-04-21 | 音
METを超えたオペラ 2019-04-17 | 音
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不可能な二次元マッピング

2019-04-24 | 雑感
新聞を開くと小さな記事が目に入った。カナダのバンフで雪崩の中から死体が見つかったというものだ。自然に読み始める。なぜならばマッキンレーで消息の分からなくなった仲間がいたからだ。今回は、植村直己と同じように、その死を予測していた人の死体だった。先週中ごろに消息不明になっていたようだが知らなかった。オーストリア人の母親とシェルパの間に生まれた子供として室内クライミング大会で頭角を現して、極限の登攀をしていたデーフィット・ラマという青年である。この人について名前は聞いていても詳しく知るようになったのは歯医者の勧めで映画を見に行ったからである。

その映画の感想は2014年に書いている。そして今読み直して思い出した。予想通りその映像から数年間しか生きていなかった。技術的以上に明らかに嘗てのアルピニストから言わせると無謀なクライミングをしていただけでなく、なにか感覚が他の極限のクライマーとも大分異なっていたからだ。高峰の頂上付近で数十メートルの滑落を平気で起こすようなクライマーは信用できない。怪我が無くてもその経済性も計算していないような人間はおかしい。それが全てだった。

経済性に言及するのも、実は最初に述べた消息不明の仲間が偶然私に遺して行ってくれた遺言だったからだ。なぜか偶々同じ方向への帰宅への阪急電車中で短いながらも核心に満ちたことを授けてくれた。それから消息不明になるまで何か月ぐらい経ったのかも記憶にはないが、箇条書きにすれば数点しかないことなのだが、どのような書籍を読んでも誰の口からも、それ以上に重要な山における心掛けは未だに聞いていない。

最高の名言は、「どこで距離を置くかが最大の生き延びるチャンスだ」ということで、従来のアルピニズムも続けていれば間違いなく死ぬということを語っていた。実際に頂点のクライマーだったウェリ・シュテックでさえ先ごろ亡くなっている。長谷川恒夫も生きていない。生きている人アレクサンダー・フーバーのような人はいいところで距離を置いている。どのような実力程度であっても自己の極限まで目指すと同じ事になるのである。またその背景にはプロとしての商業主義があって、どうしても次なる冒険へと追いやられる事情がある。アマチュア―においても純粋な欲求が高ければそれほど変わらない。

最近は氷河が小さくなっていることから古い死体が見つかることが多くなっている。見つかる度にすわと思うのは勿論消息不明の近親の者だろう。山岳映画などにはそうした風景が頻繁に描かれていて、殆ど陳腐化したエピソードの一コマともなっている。

それでも結構印象的なシーンで、ガイドの山村で、皆ががやがやと見つかった死体を運び下ろしてくる。そこに駆け寄る婆さんと、また違ったと戻る姿などが描かれていたと思う。アーノルト・ファンクの無声映画か、ショーン・コネリー主演の「ファイヴデーズ ワンサマー」かどうかは観てみないと思い出せない。親族はもとよりも我々もそのような習性に付き纏われることになる。
Five Days One Summer (1982) Official Trailer - Sean Connery, Anna Massey Movie HD


同じような心理状態は、オーデンのリブレットに曲を付けたヘンツェの「若い恋人たちのエレジー」などだけでなく、キリル・ペトレンコが世界初演した「サウスポール」においても同時進行ながら一種独特の心理が描かれている。共通しているのは、恐らく死体の搬送とか埋葬とかではなくて、氷河でも南極でも二次元的なアドレスが明白にならないということなのかもしれない。同じような場合は海にもある筈なのだが、こちらは水自体の流動速度と域が大きいので、特定の地域への捜索意識が固定されない。今回の場合も、カナダであってもバンフと知ってまた異なることを印象した。様子するに5W1Hのアドレス付けに係っているようである。
Opera.TV ELEGIE FÜR JUNGE LIEBENDE

Trailer SOUTH POLE | Conductor: Kirill Petrenko


聖土曜日に購入したパイ類を復活祭日曜日バーデンバーデンから帰宅後に平らげた。来年からもこの期間は同じような生活になりそうである。途中にフランスものを購入できてとても良かった。バーデンバーデンにベルリンから車でやってきているフィルハーモニカーも皆ラインを超えてフランスに買い物に出かけるのであろう。ザルツブルクにはない楽しみだろう。



参照:
あり得ないような燃焼の時 2017-05-01 | 文化一般
若い仲間たちへのエレジー 2015-08-09 | 雑感
廃炉、最終処分の費用分担 2016-05-05 | アウトドーア・環境
「南極」、非日常のその知覚 2016-02-03 | 音
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空騒ぎの二重の意味

2019-04-23 | 文化一般
承前)前日土曜日、「レクイエム」の日に祝祭劇場正面で写真などを写していたら車の警笛が鳴った。何事かと思って周りを見ても誰もいない。その車が走り去った後を見ると助手席に日系の第一ヴァイオリンのじょせいの顔が見えた。ベルリンナムバーであるからフィルハーモニカーの車と分かった。もう一度周りを見回すが誰もいない。その女性の顔をよく映像でも舞台でも見ているが、彼女が私のことを知っている思い当りは無い。そもそも日系のヴァイオリニストとは付き合いが無い。弦楽関係の日系音楽家も他所の楽団の人ぐらいしか知らないので、繋がりをいくら考えても思い浮かばなかった。不思議な気持ちがした。要するに特定できる日本の人の顔は数えるほどしかいないので、舞台などで見ていても意外に身近に感じるということかもしれない。ある意味日本の人の顔をあまり見ないので皆同じに見えてしまう傾向もある。同じようなことは会場内でも、普段は全く見かけない日本人の顔を見ると他人の空似ばかりである。

復活祭日曜日のガイダンスはチャイコフスキーだった。出かける直前にペトレンコ自身が語る五番のライトモティーフのフィナーレでの解決の話しが頭に残り、またボンでの同様に解説を頭に描いていたが、さらに踏み込んだのは四楽章における二つの主題で、特に民族的な楽想自体が、チャイコフスキー自身が語っている発想が、面白かった。つまり何もかも駄目なその人生のなかで、最後の砦のように原始の力のようなものがそこにあるというのだ。つまりここでも重要な要素を果たしていて、これでもかこれでもかと空騒ぎをするのであるが、殆ど強制的な前進あるのみとなるが、ペトレンコの言葉を借りれば「殆ど息が付けなくなって」、嘆きの下降旋律へと向かい、そして運命の動機が今度は長調で出て最後の時を迎える訳だ。そしてその空元気こそがショスタコーヴィッチでも踏襲された二重の意味を持つとされるところだ。

ペトレンコの解説では、一種の沖の水練のように運命そのものに自らを任してしまう解決となるが、ボンの解説で行けば最後に運命の動機で終止する。これに関しては、「月曜日の演奏を聴いてあまりにも美しく終わったのでどうかな」と解説のシマンスキー氏の感想があったが、まさしくこの二重構造や終止がその前のテムポ運びなどで決まるか決まらないかが私がボンで経験した大成功例であり、待ち侘びるところのものだ。やはりミュンヘンの座付管弦楽団のように電光石火のアゴーギクに沸き返り対抗しつつ気絶しそうになって、初めて一息ついてが技術を超えて出来るような限界状況に追い込めるようになるのに二三年はかかると思う ー 要するに無為自然、ニルヴァーナの境地である。

さて、ランランとの初対面からの練習は、ランランが英語で働きかけ、ペトレンコは敢えてドイツ語で返すというような状況だったようだ。ペトレンコも英語で会話するほどの関係を作らないように距離を置いた。当然だろう、あそこまで貶していて知らぬ顔で繕うような二重人格を演じれる男ではない。そして見ていた人によれば、主導権はペトレンコが握ったという。恐らくランランの方も左腕のことで到底プロとして一人前の顔は出来ない。カメラの前だけの空威張りの演技でしかないからだ。通常ならば少しピアノの前で打ち合わせるだろうが、如何にやっつけ仕事にしたか。責任は全て辞めていく支配人にある。その分を返そうと後半楽団と共に全力を尽くそうとしたのは五番の一楽章で見て取れた。あれだけでも満足だ。とは言いながらもベートーヴェンでも何かをやっていたが、正直あの傾向のままでの演奏ならば少し疑問である。モーツァルトほどにも上手く行っていない。勿論伴奏だけでは何も音楽にはならない。そして、演奏後の礼を逸しない若しくは慇懃無礼にならない範囲での扱いや如何にもプロらしい練習風景の報告からも、何とかこれで一件落着をということになる。(続く)



参照:
運命が拓かれるとき 2019-03-11 | 文化一般
芸術の多彩なニュアンス 2019-04-15 | 文化一般
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芸術ゲマインシャフト

2019-04-22 | 文化一般
ここになんでも書くつもりだ。しかしやはり書けないことも無いことは無い。満州のピアニストのランランとキリル・ペトレンコの初共演で最終公演を観てきた。二人の共演は、バーデンバ-デンの辞める支配人が画策したものに違いない。そもそもペトレンコはこの満州人のピアニストを手厳しく糾弾していた。それをインタヴューで語ったものだからそれ以降インタヴューをしなくなった。そのことは初ポートレートの番組でも間接的にしか取り上げられなかった。要するにそれを語るとランランだけでなくてランランを売る市場やその購買者をも愚弄することにつながるからだろう。

しかし、当日の会場の雰囲気や訪れた客の顔つきを見るとピアニスト同様の知的水準の人が少なくなかった。勿論シナ料理屋のおやっさんのような、厨房で下に着ているような服装で来ている人には、それはそれでとその市場の大きさに驚くだけであるが、更に大きな問題は金もあってそれこそピアノでも習っていましたよというような客層である。高学歴で、ある程度社会的にも成功している、丁度新聞の購買層で南ドイツ新聞の読者層などである。彼らの知性と教養と審美眼の欠如がとても痛い。

それゆえにバーデンバーデンに祝祭劇場が建設されて、少しでも芸術や文化の分かる人たちを育成しようとした社会的な構想があったのだ。しかし、シェーンベルクの売れないプログラムの代わりにランランと共演させられ、そして元の木阿弥のような客層に席を売っても仕方がない。

それを考えてかどうかは知らないが、少なくとも後半のチャイコフスキーでそのような人たちをも興奮の渦に巻き込んでくれたその強い動機付けが感じられたことだけは特記しておきたい。偶々隣に座った「ランランとの出会いからプローベ」を観ていた人を、ベルリンの初日でも聴いていて、月曜日の演奏も聴いていたので、「ボンの名演奏ではあんなものではないよ」と初めから牽制しておいた。

そして一楽章が終わったところで指を立てて「これだよ」と教えておいてあげた。つまり一楽章は名演奏だった。二楽章は残念ながらドールが若干音を制御できなかったようで、月曜日には至らなかった。三楽章はある意味弦楽陣の課題が見えてきた ― つまり夏までに直せる。四楽章はまだボンのアゴーギクへとはならなかったが、もう一息で、会場は月曜日とは異なって興奮の渦に巻き込まれた。隣のお兄さんも盛んにブラボーを叫んでいた。彼は、ギリシャ人二世の名前を挙げるぐらいだから、これで少しはその違いが分かっただろうが、ペトレンコの指揮の成果はまだまだこれからで、フィルハーモニカーのやることは沢山ある。

ペトレンコが、ドールを立たせた後、クラリネットを立たせたりは当然で、この日のオッテンザムマーは初めて一流の演奏を聴かせた。最後に弦楽陣の部毎に握手に行ったのはよく分かる。その各弦の第二ヴァイオリンからヴィオラ、チェロ、コントラバスまで見事だった、それほどゲヴァントハウスを恐れることは無いと思う。あれはコンセルトヘボーでもビックファイヴでもどこでもおいそれとは出来ない。間違いなく夏のツアーには一皮剥けると思う。

さて前半に戻るとそれでも流石に、あの左腕を故障してからの演奏で歓声を上げる人はいないと思ったが、まさかと思わせた。少々ピアノを触るぐらいの人ならば、あれはアマチュア―程度であることは直ぐ分る筈だが、それ以前の指がサーカスのように回る程度で熱狂した連中はその僅か一部でしかなかったということになるのだろうか?正直分からないが、素人とか玄人の問題ではなくただの物見高い客なのだろう。

勿論私の周りでは、既に述べたように、休憩前に私が「アマチュア―」と叫ぶぐらいだから、凍ってしまっていたが、逆隣にいた婆さんが終演後に「一回だけ来るなんておバカさんだよ」と言っていたぐらいだから、なんとなく祝祭劇場の常連さんというかゲマインシャフトが出来つつあると感じた。勿論私は「来年は殆ど毎日来るからね」と叫んでおいたので、これまた幾らか影響するだろう。

それでお分かりのようにオペラ劇場だけでなくて通こそは天井桟敷若しくは安くていい席に陣取って毎日のように来るという原則は変わらない。個人的にザルツブルクのパトロンになっていた時も好んで優先的に安い席を獲得したのは、そこに座ることの意味を知っていたからである。ミュンヘンでも、何もこちらから影響を与えるだけでなく、お互いに影響しあって習いあってこそ、初めて聴衆が出来上り、劇場なりの場が完成する。祝祭劇場がいいとか、劇場がいいとかは、音響以外では、その聴衆が作るものが殆どなのである。パトロンで金を出すのも悪くはないが、それだけではいい祝祭劇場とはならないこと、これが肝心なのである。

連日のカウンターで顔見知りになったので、50セント余分に払った。これもそこの従業員を教育して雰囲気作りに必ずなると思っている。何事も一つ一つ教育的配慮を忘れてはいけない。(続く)



参照:
インタヴュー、時間の無駄四 2016-08-03 | 音
時の管理の響き方 2016-09-16 | 音
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イタリアにおける成熟

2019-04-21 | 文化一般
朝一番で銀行に寄って現金を下ろした。土曜日は休憩も無い演奏会だったので殆ど現金は要らなかった。支払ったのは駐車料金とプログラムで8ユーロ、エスプレッソ2.5ユーロ、水4ユーロだけだ。エスプレッソは本日にでも再びダブルで貰うよと話しておいた。屹度眠くなると思う。

朝一番で峠まで走って下りてきた。目覚めると少し寝汗を掻いていて、気温と日射の影響があると思う。だから走らずにはおけなかった。レクイエムでの90分以上の集中は結構疲れた。まだ七十中盤とはいえ、丁度バレンボイムとは一つ違いのムーティは二年前より元気そうで、身体の動きがよかった。あのころは体調も悪かったのかもしれない。それでもバイロイトなどに出るなんて馬鹿なことはして欲しくない。もっとヴェルディの後期の作品を振って欲しいと思った。

公演前のガイダンスでもイタリア音楽における円熟とは簡素化に尽きて、その代表がヴェルディで、フランス料理や香料の洗練に対照させて簡単なアンティパスタなどとの比較としていた。なるほど楽譜で勉強していて感じていたように、限られた素材で如何にがとても明晰且つ精妙な形で表現されていて、楽譜面は簡単そうなのだが一体どうなるのかと思えば、これまた恐らくドイツ風のとても凝ったものだった。あのような演奏はスカラ座では出来ない。なぜならばいつも簡素な表現が身についているからだ。

とても音楽的に充実した聖土曜日の公演だったが、待ち構えているのは復活しないランランである。ベートーヴェンの第二協奏曲が彼にとって弾ける曲であるのは分かったが、左手のパッセージをどのように弾くか見てやろうと思う。全く技術的な関心ではなく、彼自身が一体どのような姿勢で演奏しているかを見届けてやろうと思う。

そもそも即興ピアニストであった自身のための作曲のようだが、やはりモーツァルトとはその独奏も異なる。中々動機の扱い方なども重要で「誰でも弾ける」調子で演奏されたらとても迷惑だ。一体キリル・ペトレンコがどのような顔をして合わせる練習や打ち合わせをするのかととても気になる。怪我の前ならばおかしな言い訳などが無かったかもしれないが、何かそれを繕う様子を想像するだけでこちらまでが腹立たしく思う。

本日の放送が予告されていたキリル・ペトレンコのラディオ初ポートレートが既にオンデマンドになっている。内容を確認しながら、録音準備も進める。車中ではランランのお蔭でベートーヴェンを予習しなければいけない。



参照:
ポートレートの色合い 2019-04-11 | マスメディア批評
貧相なエンタメを嘆く 2019-01-03 | マスメディア批評
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聖土曜日のレクイエム

2019-04-20 | 
聖土曜日の奇跡だった。マエストロ、御免なさいと言いたい。リカルド・ムーティが最初の「アイーダ」の録音で大成功して、結局そのLPを買いそびれてしまっていた。しかし、このナポリターノの本筋はヴェルディのそれも後期の作品群だった。だから他のレパートリーではとても追いつかない境地を聴かせてくれた。手元にはそのLPも無く、CD類もあまりない。デビュー以降それほど決定打となっているヴェルディの録音も知らない。

しかし今回、前回この曲を聴いたベルリンのフィルハーモニーでカルロ・マリア・ジュリーニが指揮した1986年のベルリナーフェストヴォッヘでの演奏の記憶と比較すれば明らかだった。あのジュリーニよりも遥かにヴェルディをものにしていて、細部まで知り尽くしているのは明らかだった。そしてあのフォン・カラヤン時代よりも遥かにフィルハーモニカーのフレクシビレィティーは比較にならないほど高い。

往路のオンデマンドの一回目の録音を聴いて直ぐにダイシンがコンツェルトマイスターと分かった。彼が率いると弦楽陣は一ランク上がる。例えばフィラデルフィアのキムとの差は明らかで、弦楽陣の表現力が完全に上回っている。シカゴ交響楽団の演奏で聴いた日本の人には悪いが、何もガランチャが歌う歌わないだけでなく、到底その管弦楽団の表現力は比較にならないほど高い。またカラヤン当時の管楽陣と比べても全く引けを取らない。当時木管にもライスターやコッホなどがいたと思うが、今もパウが吹かないでも決して悪くは無く、金管はむしろ今の方がいいと思う。

兎に角、あれだけの表現を出来る管弦楽団は座付でもなくシカゴやフィラデルフィアでないことは確かであり、ジュリーニ指揮の時にも感じた中低声部の素晴らしさは、ここに来て磨きが掛かり、高弦も完全に新たな次元に入っている。弦楽の表現力ではもはや世界一であろう。チェロ陣が弾いても胴が鳴らないあの精妙さには恐れ入る。カラヤン時代の12チェロよりもいい。

ホルンのドールなどが細心の注意で如何にベルカント表現についていくかに熱中していて、トラムペットの弱音の妙技やトロムボーンなど往時のシカゴを抜いてきている。もう少しだけ木管とのアンサムブルが出来上れば、全体のサウンドが出来上ると思う。もう一息である。

それにしても期待のガランチャが一回目に比較して声を押さえていて、その分レクラメの集中度が上がり、またテノールのメリの声が上に出て殆ど神懸っていた。今までパヴァロッティ以外はいいテノールも生で聴いていると思うが、イタリアの最高のテノールの声だった。あれだけで金を取れる公演だった。バスはバイエルン放送協会の合唱団と同様、充分な出来だっただけでそれ以上ではなかった。ガランチャが抑えた分ソプラノのイエオの朝鮮人らしい泣き節がイタリア文化にとてもマッチした。それにしてもメリの歌には指揮者も反応して歌わし切ったという感じで、中々ないことだと思う。

今回は予想通りカメラが入っていたのでラディオ中継と共に記録として残ると思う。恐らくムーティの指揮の記録としても残るだろう。一回目と比較すると最初は若干自由度が高く荒れ気味な印象があったが、管弦楽団とソリスツの音楽がお互いに干渉しながらより精妙な表現へと向かっていった。レクイエム・キリエが終わって拍手が起こりだしそうになったのもちょっと異常な感じだった。(続く)



参照:
聖土曜日の準備へと 2019-04-19 | 暦
幾つもの山が当たる 2019-04-18 | 文化一般

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聖土曜日の準備へと

2019-04-19 | 
聖週間に花が飾られていた。いつもの駐車場で、そこに地元のヴァンダルンククラヴが建てた建物の前である。丁度植樹がされていたその根元である。

週末は気温も更に上昇しそうで空気は冷たいもののバーデンバーデンは摂氏25度まであがる。一週間前は寒かったので敢えて分厚いシャツを着たが、さてどうしたものか。月末のルクセムブルクや五月のブレゲンツ行きを考えて判断しよう。

肩が凝った。洗濯する為に普段着のシャツの代わりに次に下ろすシャツを着ていたら首元の動きが悪かったのか辛くなった。夏になればTシャツで関係が無いが、この時期はまだ袖も襟裳もいる。普段着の方も洗濯屋に出さなくなってから10回以上は洗濯していて襟元内側の生地が剥がれかかっているのだが中々ごみ箱行にならない。流石に公道に出るのは憚られるが自分の地所では誰も訪問者がいない限り着ている。このシーズンで終わりだと思うが、本当に何時靴磨き布になるのだろうか。そのために下ろした筈の次のシャツをもう一度洗濯屋に出す気持ちに傾いてきた。こちらは近所のスーパーに行くぐらいには全く問題が無い。勿論嫌だとは思いながら気が向けばどこにでも着て行ける。

さてヴェルディの「レクイエム」の準備は?土曜日の留守録音はそれほど問題が無いだろう。日曜日の本番とその前のGPの時の写真を見ると両方ともしっかり録音されていたので、雑音などが修正されているのだろう。ある意味ライヴ制作録音となっているようだ。重要な録音となろう。映像は撮っているのかどうか分からない。

自分自身は一週間前と同じく14時頃に出てスーパーに行く。だからその前にタイマーを掛ける。SWR2は、MP3も用意されているが、いつものようにAudacityを使う。問題になるのは放送が中断になって、音が流れていないことがあるのだが、SWR2では経験が無い。通常の通り生中継を流しっ放しにしておけば問題なくタイマーで録音できる筈だ。中々いいのが、番組の後半がパウのリサイタルに充てられていて、無駄に22時まで回すことが無いと思っていると、既に放送の録音がネットで落とせるようになっている。これはこれで生放送を録音することになる。



参照:
幾つもの山が当たる 2019-04-18 | 文化一般
ポートレートの色合い 2019-04-11 | マスメディア批評
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幾つもの山が当たる

2019-04-18 | 文化一般
土曜日に購入したマルサネ2014年を空けた。思っていたよりも酸があり、デキャンタ―もしなかったので広がらなかった。それでも特徴として敢えて選んだ2014年の涼しさが分かった。これでは飲み頃が短そうなので、2015年があったと思うので再訪の土曜日に補填しておきたい。数年寝かしておかないと駄目だろう。タンニンも効いていたから、十年近くはもちそうだ。

兎に角、聖土曜日にはもう一度スーパーウーで買い物をして、復活祭に備える。土曜日に走るか日曜かを考えたが、「レクイエム」は終演も早いので、帰宅後に購入したキッシェで食事を済まそう。翌日朝起きしてパン屋の足で峠まで走って、身体と頭を元へ戻しておこう。昼寝の時間はないだろうが、日曜日は前半が新しく勉強するとしてもピアノ協奏曲二番変ホ長調なのでシェーンベルクほどの神経は使わない。アンコールも「エリーゼのため」だろうから、勝手にしろである。但し楽譜に目を通す時間がいる。

新聞に書いてあったように、そのあとのチァイコフスキーの第五交響曲指揮がペトレンコにとっては、就任前の最後の指揮となる。何かけじめを示してくれるかもしれないが、それよりも重要なのは夏のツアーで第九交響曲とともに、圧倒的な成功へと導くための準備である。月曜日の一回目でいい方向に前進しているのは確認された。

それを含めてこの復活祭の前半を振り返ると、新聞が書くように、訪問者の衣装も祝祭的になりつつあるというのも事実だろう。最初から観察しているが、衣裳とかよりもラトルがあまりにも劇場的な雰囲気が無さ過ぎた。音楽のみならず、やくざっぽさがあまりにもなさ過ぎた。MeTooガッティでも違っただろうが、繋ぎに本格的な切り替えへの任務は果たせなかったと思う。メータでも初日から二日目への豹変にその任務の難しさが滲み出ていたとみる。本来はムーティで、願ってもないメータへの交代人選となったわけだが、初日後に舞台裏では様々な議論などがあったのだろう。フィルハーモニカーが口を揃えてインタヴューで「オペラをやれることが何よりも」なんて、ラトル時代に聞いた覚えはない。

火曜日に駐車場を出たところで「オテロ」の楽譜を調べていると、駐車場から引退も近いコンツェルトマイスターのスタブラーヴァ―が普段着で出てきた。さっと前を通っただけだが不機嫌そうな顔をしていた。個人的なことかもしれないが自家用車で来ていて、何かを車に取りに行ったと思われる。「オテロ」では第二ヴァイオリンを手伝っているようで珍しいなと思って見ている。

また日曜日のムーティ指揮のレクイエムも新聞評を見ると中々の鎮魂の名演だったようで、これも実際に生で体験して、また留守録音での演奏を確認したい。そして、14日中継録音放送云々が書いてあって、その意味が分からなかった。どうも当初の予定を変更して一回目に録音を済ましてしまったようだ。理由は分からない。個人的には二種類の演奏を聞けるのは助かるのだが、事の経過も気になるところだ。ベルリンの方でもムーティ指揮では今後とも演奏される可能性があまりないので少なくとも一つは記録として残しておきたかったと思う。兎に角、録音、実演とも大きな期待が出来るのは間違いない。

復活祭中にこのように幾つもの山があるのは珍しく、毎年何とか一つ当たればの程度だったことからすれば、芸術的に記念碑的な成功だと思う。頑張ってお勉強して準備をしよう。



参照:
シルヴァン・パタイユのマルサネ 2017-08-08 | ワイン
都合のよいアルコール 2017-10-30 | ワイン
METを超えたオペラ 2019-04-17 | 音
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METを超えたオペラ

2019-04-17 | 
承前)バーデンバーデン復活祭、前半を終えた。可成り疲れた。来年は日程的に更に厳しくなり、それが毎年続くようになる。

メータ指揮「オテロ」二回目公演を初日に続いて観た。文字通り空いていた、233ユーロの席に59ユーロから自主無料グレードアップした。来年は叶わないだろう。その差は何か?先ず演出を正面から観れることで、音楽的には一長一短かもしれない。少なくともコンサートにおける優位性はオペラでは音楽ファンには無い。オペラをその席で観るのは初めてだったので、メモしておきたい。

前列には地元のギムナジウムの生徒たちが一列陣取っていたが、希望者だけに格安で毎年出しているのだろう。これという女子生徒がいなかったので声は掛けなかったが、幾ら出しているのか興味が湧く。私が親ならば60ユーロは出してやろう ― 自分の払った額である。それ以上かというと、例えばミュンヘン劇場でその額を出せばそこそこのものが楽しめるからだ。実際に今シーズンからU30というのが半額扱いなので30ユーロで充分である。

さて一長一短は最前列ならばピットへの左右の視界が効くが、二列目以降では前の人によっては効かなくなる。音響的にも舞台上の管弦楽ほどには響かない。同様な例は、前日に一階ザイテンバルコンで話されていたように平土間でも舞台上の奥の管弦楽団後列へは同じような状況がある。

さてその舞台、初日と異なっていた。細かなことは曖昧だが、先ずは指揮者のズビン・メータが初日には歩いて出てきて間延びして拍手が割れた。改めて後ろ向きに拍手を浴びてから暗転となり幕が上がりプロジェクターの巨象の前に小象が舞台で横たわっていた。それはサイドからは舞台の上と背後のプロジェクターの差異がハッキリしなかった。しかし、今回は最初から入っていたので、ウィルソンが零しているようなざわざわ感は無く、比較的映画館のような緊張感が保たれた。これは修正点で、その他も手の動きや動作が初日よりも明白になってメリハリが付いた。少なくともサイドからでは合唱団のまるでセラーズの演出のような手の上げ下げは印象に残らなかった。私が指摘した通りに修正したのかもしれない ― 全て予の思うが儘である。

しかしそのメリハリを付けたのはドラマチュルクの仕事かもしれないが、それ以上に別人のように指示を出したのは指揮者だった。体調不良で代わりにペトレンコが入ったのかと思うほどの変わりようだった。音楽的には、ダイナミックスやテムポも遥かにコントラストが付けられても、アゴーギクでアクセントをつけるペトレンコ以上に安定していたかもしれないが、技術的に全く宗旨変えしたほど変えてきた。所謂オペラ劇場の職人的なキューを出し始めた。

逆に初日に何一つ必要なキューを出さずに棒も最小限にしか振らなかった意味は不可解であり、健康状態ではありえない豹変ぶりだった。恐らくベルリナーフィルハーモニカーを舞台で振るならばあれで通ったのだろうが、歌手の間合いなどをはかると直ぐにフライングしかねない交響楽団を甘く見たのだろう。ピットに入る交響楽団はロスぐらいで経験がありそうだが、どうなんだろう。要するに舞台上へのキューを殆ど出さなかったのが始終出すように変えてきた。また同時にピット内にも小まめに出しようになった。流石にブーを出されるようになったフィルハーモニカー側からも確認の一言があったのかもしれない。流石の同じところではフライングは無くなったが一か所だけ前のめりになりそうだった。あれは歌手の間合いを取れなかったのだ。しかしパウ、マイヤー、フックス、シュヴィンゲルトらが下手に、上手にはドールらが一生懸命に合わせようとしている、イングリッシュホルンのヴォーレンヴェバーの妙技など、必ずしも前日のオテンザムマーなどの個人の実力は評価できないのだが、また弦楽陣の鋭い表情と彼の世へと上り詰めるときの表情とともに合奏として表現しようと学ぶとき、もはやどこの座付管弦楽団も手の届かない境地へと至る。

実際には、スケルトンが完全に復調していて、恐らくこの程度でないと到底METで主役は貰えない。なるほどピッチのためか最高音では若干厳しいところもあったが、外にも練習が聞こえてたように三幕の叫びなどは上手くこなしていた。カウフマンとは異なって中音域での幅の広さが役に合っていて、最高域でさえ上手く運べば当たり役だった。少なくともトリスタンとは違うのだが、共演もバカ声のウェスブロックや素人オペラ指揮者のラトルとは違って、とても良い刺激と支援を受けていた。そのヨンチョヴァは初日では新聞に書かれていたように緊張からか喉が詰まっていたが、解消していて、一か所だけが厳しかった。それでもそもそもの技量が違って、管弦楽はこのデュオを潰さないだけの伴奏を一生懸命していた。要するに、少年少女合唱団までを含めてメリハリがついてきた。ヴィーンの合唱団も圧倒的だった。(続く)



参照:
落ち着き払ったメータ指揮 2019-04-16 | マスメディア批評
芸術の多彩なニュアンス 2019-04-16 | 文化一般
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