Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

反教養の為のスケルツォ化

2022-11-28 | 文学・思想
フランクフルトの新制作「魔女」の初日が一週間後に迫った。先ずはダウンロードした楽譜をざっと捲ってしまうしかない。そして粗筋をWIKIなどで読む。チャイコフスキーの音楽もそのオペラの創作の仕方も大体分かっている。それに関しては最早面倒なことはない。寧ろ創作の背景とか環境とかそういうものも探っておいた方が良いだろうか。

先日民謡とシューベルトに関しての話題が出たことから、吉田秀和が間接的に言及しているトーマス・マンの「魔の山」のことを思い浮かべた。そこで歌われていることは記憶にあったのだが、最初は明白には思い出せなかった。そしてフィッシャー版の文庫本を開けると「買い物」とする節にGe-statten Sie mirという綴りが出て来て、目を引いた。どう考えても、サッテンブリーニの喋りの特徴として映像化されているものだったからだ。その前後をみるとcの発音がイタリア風とぐらいしか書いていない。しかし紛れもない吃音気味のアクセントが聴き取れる。そして話すと...というのも目立つ。勿論そこには若いカストルフの表情を観察しながらというのが書かれているのだが、思っていたよりも絵文字効果に近い。

何故今迄こうしたところに気が付かなかったのかと思う。日本などでも文学研究などをしている人にとっては通常の分析なのかもしれないが、門外漢にとっては文字だけ追っていてそれ以上の情報が入らなかったようだ。その証拠にそのページで一度ブックマークが入っていたようで、それ以外の要素特にサッテムブリーニの長い台詞が一番苦手とするところだったから、何回目かの挫折をしていた箇所だろう。この大作ロマーンを最初から一気に読んだ人なんてそんなに多くはないと思う。問われるのは何回挫折したかだろう。

しかし、今それに気が付いてそのあとの長台詞を速度を上げて一気に流すと、その絵文字効果というか発声のリズム感で読んで仕舞える。音楽的にスケルツォの様でありドイツ語ではシェルツ即ち冗談なのだ。

20世紀初期ノーベル文学賞作家マンはSPで音楽を愉しんでいた。義理の父親はユダヤ人の高名な数学者でヴァ―クナーのパトロンであったプリングスハイムであるが、所謂今でいうクラシックオタクだった。

それで問題のシューベルトは蓄音機で聴いた「菩提樹」であって、それを第一次世界大戦の死の瞬間にそれも土豪の泥濘の中で頭の中で鳴らしているという、とても哀れな話で終わる。

これが何を意味していたかは明らかで、所謂教養というもののその虚しさを表現していて、その様なものの中で終える世界を描いている。この作品が何故反教養主義とされているかはこれで明らかで、それは勿論19世紀のドイツロマン主義の一様をも描いている。そこには当時のグリム兄弟やらドイツの国粋主義へと導く魔がそこに潜んでいたとなる。

もう直バーゼルの劇場で最終公演を迎える「魔弾の射手」のマルターラーの演出もこうした文化のその影にギャグをかまして冗談化していますという手法はなにもマンのやり方とそれほど変わらない。



参照:
一ミリでも向上するために 2013-05-04 | 文学・思想
親愛なるキーファー様 2007-11-09 | 文学・思想
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冬のメルへェンへと

2022-11-27 | 
朝から一っ走り。篭り部屋の一晩目は、気持ちよく眠られた。夜中に温度を調整する必要はあったのだが、以前よりも安定して湯が流れていて、寝室にも薄っすらと暖房を入れることが可能となっている。先の冬までは夜中は完全に切ることで快眠を目指していたのだが、本当に薄っすらであると室温を上げることもなく凍えることもない。

ポムプなどを含む天然ガスのボイラーのお陰でもあるのだろうが、同時に交換した弁の機能向上もあるかもしれない。水の流れの音が継続的に流すことで無くなると同時に、安定して暖房体に貯まっているのは、前後の圧が上手に保たれているからだろう。以前は水量を絞ると貯まらなくなって直ぐに冷たくなった。冷たくなるなら完全に切るのと同じで殆ど意味をなさなかった。

要するに今までは負圧に負けていた。最上階にあるために最初から苦労していて、本来ならばそうあるべきの循環暖房が叶っていなかったのだ。上りと下りの水温差と水量をかける消費計算方法になっているので、室内を回っても戻って来る温度差があまり変わらないならば水量を抑えるほうが安く出て生温い湯を少しでも長く流しておく方が室内が温まる筈で、温度の高いお湯を大量に戻すよりも効率が良い筈だ。

こちらに住んでから漸く初めてセントラルヒーティングの良さを感じることになってる様である。今後は零下とか吹雪いたときにお湯の量を多くして流せるかどうかである。夜中に寒さで目が冷めないのは快適である。

外気温は摂氏7度ほどに上がり陽も射して気持ち良い数時間を楽しめた。流石に谷の道は濡れていたが、木こりの車が入っているぐらいでそれほど滑る感じではなかった。

足の調子は更に良くなった。医者はどのように判断するのか知らないが、自己判断では完治二週間だろう。2月の左足のときは場所が悪く二月掛かったことからすれば、軽症で済んだ。これで待降節も始まり、もう二つ三つ月末に処理できればなんとかなりそうである。

篭り部屋に初夏から使い始めた旅行用のミニノートブックを運んで使ってみた。思ったよりも使える。古いシステムなので、遅くて、使いづらいのだが、リモートでの動画も使えるので、もう少し事務作業用のプログラムをインスト−ルすればこれで応急用に足りるかもしれない。

更にWIN10のリモート操作通るようになったので、ミニノートブックを端末として使えるかもしれない。意外に画像操作が可能になっていて、少し画像を落とせばストレスなくリモートでも観れる。

そこで昨年一月のスーク作曲の「夏のメルヘン」を流してみた。マーラーなどよりも遥かに演奏の難しい曲で、当時の無人演奏会でバッチリと演奏録音している。このときに今日の演奏の準備が出来ていた、それはその夏のツアーでこの曲が演奏されたときにも明らかだったのだ。

プロムスでのマーラーの録音も流してみた。会場が会場だけに些か荒い演奏となっていて、ルツェルンとは大分落ちていた。指揮者のペトレンコにとっては「マンフレード交響曲」でミュンヘンからのオファーを断られた経過もあって今後共面白くない想いが脳裏に浮かぶ催し物だろうか。

ロジテックのマウスの電池が無くなった。前回が2019年7月31日とすると、三年半近く保って、宣伝文句同然となる。調べると2020年に一年しか保たずに交換後に、更に電池に塩が吹いて2021年1月に交換、つまりそこから二年近く使えた。まずまずだろうか。途中でレーザーの穴も掃除したのでもう少し寿命が伸びるか?



参照:
二カ月で潮を吹く 2021-01-19 | 雑感
「音楽の都」の現代音楽祭 2020-11-09 | 女

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実感する数年での深化

2022-11-26 | 生活
週末から篭り部屋に移動する。先二週間ほどはあまり強い陽光は期待出来ない。座っているのが厳しくなるので、ヒーターの入った部屋へと移動する。準備は整った。幾らかのPCの使い方などを考えればそれで足りる。

ヒーターの試運転では薄く入れておけば昨年までよりも安定している感じがするが、冬の間を通して使ってみなければ分からない。なによりも零下で吹雪くとなると薄く入れていたのでは我慢ならない。以前の問題は湯圧が安定しないことから強く入れることでしか加減が効かなかったのだが、弱く定温度を保ってくれると一番助かる。それが最も経済的な筈なのだが、さてどうなるか。

ラインガウからお知らせがあった。2021年産リースリングを売れ切れないうちに買ってくれというものだった。予定してあったグローセスゲヴェックスを一ダース注文した。一部ご進物用に頼まれたものもあるので纏めて買えて気持ちがよい。大した額にはならないが、自分用にならば同額で買いたいものが他にもある。コロナ前ならばあと数件で物色しているので少ししか買わない。引き取りは来年の九月なので、支払時期だけが問題となる。勿論先行予約価格での購入である。ダースで発注したから保存に役立つ木箱で貰いたい。

9月の事を調べてみるとフェリーに乗ったことは書いてあるのだが、試飲の内容については記述していない。理由は分からないのだが、結構忙しくしていたのだろう。どのリースリングも飲み甲斐ががあって、ヴィラージュリースリングも悪くなかった。コロナ期間中に何か良くなった所があったのだ。マイスターらとの話しではやはり蔵での扱いが変わってきた感じがあって、木樽が充実してきていた。また水冷で温度管理も進んでいたように感じた。2021年は基本的にどこの醸造所も悪くなかったので、ラインガウでは高度のありそうなこれらが温暖化の中でも残されたいい地所となっている。

高度だけある斜面ならば河の横にローレライの方へと向かう下流右岸にも幾らでもあるのだが、土壌が赤スレートなどに火山性のミネラルがあって可也エグイものとなる。食事に合わせるのが益々難しくなるのでラインガウのリースリングの良さから外れていく。

最近購入しているのはプルミエクリュの最も高度の高いテュルムベルクであるが、購入してから未だ一本も開けていないかもしれない。もう少し落ち着かせたかったのであるが、この機会に開けてみようかとも思う。

篭り部屋に移る前に折角だからメインのシステムで、マーラー交響曲七番のCDを流している。キリル・ペトレンコがミュンヘンで指揮録音したもので放送がなされなかったので修正も効いている。世界中で各紙絶賛のこの曲の代表的な録音となっている。ベルリンでの演奏から三ヶ月経過したところでこうして改めて聴くと、録音の場所や方法に拘わらずやはり団子になっている部分があって、改めてベルリナーフィルハーモニカー演奏の成果は到底計り知れないものであったことが分かる。なるほどあらゆる動機のニュアンス付けは優れたものがあって、特に終楽章のロンドのあり方はやはりどんどんと進化してきているのが確認される。これはこれで迫力があって、熱狂へと駆り立てられているのだが、四年間でこれだけの深化を聴かせる指揮者はいない。



参照:
三年ぶりのライン渡し舟 2022-09-18 | アウトドーア・環境
示唆に富んだミラノの講話 2021-02-07 | ワイン
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朝食のガチョウ脂

2022-11-25 | 料理
車中のラディオが午後のニュースを伝えていた。金曜日にバーデンバーデンに続いて支配人の古巣ドルトムントでテオドール・クレンツィス指揮ムジカエテルナの演奏会が開かれる。そのギャラをウクライナに寄付するという報道だった。文化波とは言いながらそこに音楽ニュースが入ってくるのはペトレンコがベルリナーフィルハーモニカーによって推挙されたという事以来だろう。亡くなってもそこの位置で伝えられる音楽家はドミンゴぐらいかもしれない。

印象は奇妙な感じで、自らの交響楽団に未だ君臨していることから時間稼ぎの為にもなんとか首を繋ぎたいのだろう。バーデンバーデン前後でそのロシア人演奏家のコンサートマスターなどまたテノール歌手からプーティンの為のプロパガンダをSNS等で展開するものが続出して、即出場停止となった。

そうした楽員や合唱団員の個人沙汰には関心がなく、それらを逐一質すことも無用なことである。そもそもプーティンの資金援助を受けている連中を招聘したり、催し物をするべきではない。指揮者クレンツィスもそのような支援を受けて活動しているならばこちら側では一切仕事をするべきではない。ケジメをつけるべきである。さもなくばプロパガンダ活動とされて当然である。

「ヘンゼルとグレーテル」の券が届いた。敢えて本券を送って貰った。何か嬉しいのだ。記念になる公演となるかどうかは分からない。そもそも家族向け公演だからがさがさしているだろう。それでも嬉しいと思うのは券の売れ方である。一部のクラスでは一桁の数しか残席が無くなっている。それも私が購入したのと同じ価格帯で75ユーロから58を挟んで42ユーロ迄が売れ筋だ。理由ははっきりしていて18歳以下の子供は一律10ユーロなので、親がそれ相応の席を購入して隣をとなるからだ。親子二人で90とか55ユーロとかになる。勿論視界のいい席を購入して、悪い席や立ち見は売れていない。一方最高価格の102もその下の90ユーロもなかなか売れないようだ。同じ傾向の高額券の回避は並行上演中の「ローエングリン」にもあるのだが、そちらは立ち見など安いところは売り切れに近い。

寒くなってきたので、篭り部屋までのヒーターのガス抜きをした。お陰でリヴィングの温度も若干上がるようになってきた。これで篭り部屋に移っても最低の暖房は効く。ボイラーだけでなく弁も新しくなったので、水の流れが喧しかったりするので上手く調整していかないと駄目だ。先ずは十分なお湯が流れて欲しい。

冷蔵庫の掃除もほぼ終わり、シャワー廻りも終わった。篭り部屋の掃除が済めば、ぼちぼちの移動可能となった。ベットも冬用に暖かいシーツ類に替えたい。夜中に足が寒くて何度も目が覚めた。

日没も16時半なので一っ走りするのに早めに出かけなければいけなかった。右足は未だ完ぺきではないが、力を入れられる様になって痒みも緩くなった。走る回数も距離も平常に戻せそうである。二週間だけは運動量を落としたことになる。

朝食にも色々な脂物を購入してパンに塗って温まる。まるでエスキモーの様である。



参照:
11月の古い鎮魂歌 2022-11-23 | 暦
聖マルティンを越えて 2022-11-21 | 暦
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小夜曲と火祭りの喧噪

2022-11-24 | 文化一般
承前)演奏の困難さがこの交響曲の理解を困難にした。そのことを今回の一連の演奏会が証明した。1908年にプラハで初演のアシスタントをした指揮者オットー・クレムペラーが生き証人になっていて、その晩年の指揮の録音は貴重である。しかしその得意なテムポ設定などは、その演奏の難しさを示していて、「一楽章と五楽章が取り分け問題が大きい」と語っている通りだ。

まさに膝を打つしかないのだが、一年後のヴィーン初演でのシェーンベルクのコメントが更に興味深い。「芸術的な和声上にある完成された落ち着き…作曲家を古典的として賞すると同時に、未だお手本である。」としていて、感激して書き送っている。

このコメントには初めて接するのだが、言わずもがなであり、我々はこの意味を今初めて噛み締めている。実はこの文章は昨年秋のハノーファーの劇場でのプログラム解説の中に見つけた。コロナ期間中で直前に演奏者から偽陽性が見つかって、再検査前中止の遅滞で以て開かれた演奏会とされる。指揮はティテュス・エンゲルでこのような複雑な時期でないか、もう少し近場ならば出かけていた。新聞評は良さそうだったが、座付き楽団であり、ドタバタしていたので凡その想定は可能だ。

曲としては、律動をどのようにフィナーレを通して繋げて行くかにあると思うが、その間に受け渡しが為されるその構造は、奥さんのアルマ・マーラーに批判された交響曲五番の延長線上にもあるのかもしれないが、やはりその主題となっている「マイスタージンガー」のお祭り会場のパロディ若しくは本歌取りとしての意味合いは無視できない。

つまり「古典的」というのはフランクフルターアルゲマイネ紙の様に本当に博物館に組み入れられる様なものなのか。その意味を再考させる「マイスタージンガー」自体が過去へとそのもの16世紀の詩人でもあり作曲家でもあった靴職人ハンス・ザックスを描いているのであるが、それは同時にドイツの芸術の原典としても捉えられる。そこで描かれているベックメッサ―はユダヤ人であり、そのヘブライズムも暗に批判の対象となっていて、二幕においての社会集団の攻撃は殆どポグロムを思わせる。

ロンド主題となった三幕における祭りの場面も、夏至を祝うヨハニスタークのどんちゃん騒ぎとすれば、その教会歴における洗礼者ヨハネ、つまりサロメによって首を撥ねられるその旧約聖書の物語のみならず、今でも各地で残る中世からの土着的な悪魔除けの火祭りも重ねられることになる。まさしくそれがフィナーレにおける喧噪の印象にもなっている。

「夜の歌」の「スペードの女王」の印象、影の様にのスケルツォ、そして「マイスタージンガー」二幕のベックメッサーのセレナーデ、これらが宮廷オペラ劇場監督のマーラーのインスプレーションとして存在していたのだろう。

それでも「直線的な構成ではなく、驚くほどに変化に満ちている。」と若干大まかなコメントをエンゲルは残しているのだが、「直線的な構成ではない」というのは質してみなければ分からないと同時に、フィナーレのロンドのあり方のみならず全体のフォームにも係っているコメントではなかろうか。(続く)
Mahler "Symphony No 7" Otto Klemperer

Meistersinger - Baritone Markus Werba as Sixtus Beckmesser sings Serenade

Die Meistersinger von Nürnberg: Entry of the Meistersingers (Act III)




参照:
真夏のポストモダンの夢 2005-06-25 | 暦
社会的情念の暴力と公共 2016-06-01 | 音
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11月の古い鎮魂歌

2022-11-23 | 
陽が射さない、11月らしくなってきた。寒くなってきた。天気予想によると木曜日と金曜日は陽が出て、週末には本格的に寒くなる。もう耐えようがないだろう。それまでに準備をしておかないと駄目だ。月曜日に走っても足の調子は好転しているので、これで治ると思われる。内出血していたところに痒みが増してきているので、無理にでも使って早く散らしたい。

ミュンヘンの「ローエングリン」の立見席を売るつもりだが、まだ様子が分からない。安いので売り易く、当日でも可能であろうが、来週の初日次第であろう。その他では車の不凍液も準備しておかないといけない。

あとは冷蔵庫の掃除がまだ終わっていない。カビ取りを剤をどの様にするかである。厨房の換気扇掃除は済んだ。オーヴンの脂取り剤を使うと一番効果があるようだ。フィルターもそれ程古くなっておらず、新しくなると更に吸引力が上がる。

事務机にいて寒くなると早寝の習慣がつく。寝室は寒くても未だベットの中は温まる。それでも少し室温が下がり過ぎると頭痛になるので、その加減が難しい。

先日北ドイツ放送から流れた11月のレクイエム歴史的放送録音で作曲家ペンデレツキ指揮のドヴォルザークを聴いた。音楽祭の一貫としてリューベックのドームで1989年8月19日に演奏された生中継録音のようである。この作曲家の指揮は大阪の国際フェスティヴァルで自作の「失楽園」などを聴いて今も印象に残っている。よく言われる作曲家の指揮以上のもので流石に自作だけに適格な音を出して来ていて、NHK交響楽の生演奏としてはベストであった。それだけにレクイエムで、ソプラノに数年後に亡くなるルチア・ポップが澄んだ声を聴かせていて、それだけで価値がある。更にメゾソプラノは引退したクールマンが受け持っていて中々の華やかなレクイエムとなっていた。こうした作曲家がこうした曲を指揮するには何らかの思いがあるのだろうが、それはよく分からなかった。今年はその「ルードンの悪魔」も初めて体験できたので良かった。どうしても作曲者が指揮したらどのように響いただろうと考えてしまうのもそうした縁があるからでこそだ。

ストラスブールのガチョウのリレッテを購入した。チーズが切れたから、朝食用にである。結構なデリカテッセンであるが、やはり朝から満足感があって悪くない。古くなりかけたパンでも美味しく感じる

この辺りはストラスブールまでは車で一時間半ほど掛るのだが、恐らくガチョウを飼育しているのはよりドイツ国境に近い方で、その近くで調理までしているのではなかろうかと思う。だから、そこから直接配達されているのだろう。いつも新鮮な感じで、やはりそれだけ臭みも何もなくて美味しい。

奥地のチーズなどになるとアルザスのスーパーまで買いに行かないと特別安くはないのだが、こうしたデリカテッセンがあるだけでも豊かな生活の感じがする。



参照:
聖マルティンを越えて 2022-11-21 | 暦
快気祝いのガチョウ二匹 2009-11-29 | 暦 
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サロメの夢の夢物語

2022-11-22 | 
週末は雨で走れなかった。可也の雨量がここのところあった。しかしアイスヴァインなどを除けばとっくの昔に摘み取りを終えているので、葡萄の落葉だけである。週明けに晴れて少しだけ走れた。一週間ぶりになる。既に患部は炎症下ところが固まって来ていて、痒みになってきた。所謂怪我のかさぶた状態である。こういう時に動かしておくのが大切だ。それでもに日常の歩行が覚束ないぐらいに痛みが残っているので、トレイルランニングシューズの硬さで走るようなものである。少なくとも一週間前にはケリが入らなかったが少しは力が入るようでそれ程バランスを崩さずに下りて来れた。上りは早くなくても下りが平常に近くなってきた。一週間ぶりで心臓への負担は大きかったのだがそれは仕方がない。

アスミク・グリゴーリアンが「サロメ」を演奏会形式で歌った件で、声に管弦楽がかぶさってという観察が幾つか見られた。オペラ通からすれば、オペラ作曲家のリヒャルト・シュトラウスの最終的に目指した道が如何にテキストが聴き取れる音楽にするかだった。これはドイツ語圏では常識であって、それはなにもテキストが聴き取れるから、最近は便利なテロップが流れないでも内容が分かるということだけではない。

それは音楽的な表現の核心になっていたことは確かで、比較的若書きの「サロメ」においても、1930年代のドレスデンでの再演時には楽譜に手を入れている。

その背景には様々な演奏実践上の問題や美学的な変化もあっただろうが、所謂表現主義的とされるようなオスカーワイルドの原作となる戯曲の世紀末的なものよりも、もう一つ進んだイメージがあったことは間違いがない。特に主人公を16歳の娘とすれば当然の事ながらその七つのヴェールの踊りも歌手が其の儘踊るのが好ましいとして、木管の重複を縮小したり、フィナーレの30小節を歌手の負担を減らすために抹消したりしているようだ。つまり、大管弦楽に対抗するだけのドラマティックな声よりもリリカルな声が舞台で求められて、その声が華やかに飛ぶことがなによりものテキストをも活かすことになるとなる。

その修正は欧州の一流歌劇場の楽譜には作曲家の推奨としてその書き込みが方々でなされているらしい。しかし、手の届か無かったフランスなどではドラマティックな楽劇として修正がなされなかったと書いてある。所謂音楽先進国と後進国の差である。

勿論表現主義的な発想でドラマティックな声で以て今でも上演されることもあるだろうが、それだけの根拠が必要になって、演出上の必然性が必要となる。その場合でも声が通るようにするのは余程管弦楽を抑えなければいけないだろうか。それはそれでとても指揮者だけでなくて楽団にも高度な技術が要求されるだろう。少なくとも作曲家が求めた音楽的な精査は犠牲とされる。

オペラ劇場でしっかり芝居してそうした歌声を響かせて、そして座付き楽団を鳴らすというのは名人の指揮者である。このように最も初心者向きとされる休憩を挟まない一幕ものの大ポピュラー作品でも真面な上演は困難極まりないのである。

ドイツに移住すれば近所にオペラ劇場があってそこの定期会員になっていれば事足りるというのは夢の夢物語であったのは、日本では知る由がなかったのである。



参照:
"Salome" reloaded, Michael Stallknecht, SZ vom 27.102021
聖マルティンを越えて 2022-11-21 | 暦
「聖書」ではないお話し 2021-10-09 | 音
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聖マルティンを越えて

2022-11-21 | 
暖房を入れている。週半ばぐらいからだった。11月後半からとなる。雨勝ちで陽が射さなくなると寒い。それでもまだ篭り部屋には移動していない。理由は仕事机に座っていても未だ耐えられるからで、ヒーターを薄く入れているだけで足りているからである。寒くなると一つを完全に開けても耐えられなくなる。すると篭り部屋で暖かくしていた方が経済的で暖かい。

今年は11月としては異常に陽射しがあり暖かかった。如何に待降節までが苦しいか、これが欧州の冬である。篭り部屋は北向きの寝室なので、陽も射さなく、ヒーターを全開にするしかない、それよりは安くついているだろうということで、出来る限り陽射しを使いたい。

来夏のザルツブルク音楽祭などの日程が出てくる前に、それ以外の日程も押さえておきたい。ザルツブルクはお付き合いで一日ぐらいはと思うが全く分からない。ワイン祭りの6月も未だ押さえ切れていない。

来年の復活祭の演出と配役があるので、パリで上演された楽劇「サロメ」のラディオ放送を流していた。演出はヴィデオを待たなければいけないが、歌手のエルサファンデンヒーヴァ―は聴いた。来年は「影の無い女」の皇后なので、タイトルロールである。ミュンヘンではピエチョンカというカナダの歌手だったのだが、バーデンバーデンではこの南アフリカ出身の歌手が歌う。オランダ人かと思っていたら移民系の人の様なのでやはり独語歌唱は上手くない。更に声の制御ももう一つ精妙ではなくて若干期待外れだった。あと二人の歌手もそれ程細かな歌唱の出来る人ではないのでどうなるだろうか。些か心配である。

天才指揮者がそこまで考えての理想的選択をしている筈なので、心配は要らないのだが、ドイツでは特に批判の対象となる所なので、またミュンヘンとは異なってそこ迄の指導する人材が限られているとこでの上演なので心配でもある。

個人的にもテキストが聴きとれるというよりも音楽的なアクセントが危なげなく出てくるかどうかが関心事なので、それ程気にしないのだが、音楽的な表現は誤魔化しが効かないのである。

その意味からは12月の新制作チャイコフスキー「魔女」はロシア指揮者との公演でもあり、それらを信用するしかない。総譜を見ればある程度そのあるべき姿も分るだろう。その後に「ローエングリン」と「ヘンゼルとグレーテル」となるので結構な分量となる。

パン屋で購入した11日に聖マルティンタークのガチョウの形である。このパン屋では初めてである。何か分からなかったので鳥と指さした。更にポイントカードで集めていて初めて換金で来た。胡桃のパン、4.20ユーロを無料で貰えた。一年近くでこうやって貰えるという事はまた一年後ぐらいにこうして貰える。カードを出すのは面倒であるが、その価値はあると初めて実感した。

ブロッツェンはおいしくないので、また少しだけ余分に車を走らせるので、パンと甘いものだけを週に一回購入するぐらいであるが、そうでなければ肉屋で他所のブロッツェンを買うだけなので、其れだけで助かる。



参照:
子供提灯行列 2004-11-12 | 暦
冬籠りへの準備計画 2020-10-17 | 料理
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見事なシカゴの音楽会批評

2022-11-20 | マスメディア批評
マーラー交響曲七番に関する可也いい批評がシカゴで出た。この曲の演奏に関しては今まで読んだ中で最も優れたものだ。キーワードに、先ずはバルコニーで聴いていたシカゴ交響楽団の女性奏者がベルリナーフィルハーモニカーは「ボールで遊んでいる」と語らしていて、複数のボールとなっている。この表現も流石と思うのだが、これを聴き逃さなかった著者もよく分かっている。

特に終楽章のロンドにおける動きとこの楽曲における奏者間の受け渡しがこの楽曲を恐らく交響曲の頂点に押しやっている。その気の利いた表現から、先ずは一楽章冒頭のテノールホルンの真っ直ぐな不幸そうな表現に、ペトレンコはゆっくりしたマーチで指示通りのテムポを維持して、不安定な音色を創出と書く。ラプソディックな第二主題ではセンチメンタルにならない様に洗練させた。輝く木管群の色彩での反復、主席もその他も同様と、まさしくフィルハーモニカーの意気の高さを示す。

二楽章の夜の音楽においても、木管の装飾音やミュートされたトラムペットの通常は気づかない細部を聴かす丁寧でバランスに気遣うペトレンコの指揮とし乍ら、オーストリアなどでは聴きとらなかったとかの破廉恥な感想が出ていたカウベルが、ここではあまりに聴き取れ過ぎていてミステリアスな響きとなっていなかったと苦言。ここまで読むとこの記者ローレンス・ジョンソンという書き手が世界指折りの音楽ジャーナリストだと分かる。

そしてスケルツォの怪奇的で辛い音楽が歌謡に変わる時に、ペトレンコとフィルハーモニカーがヴィーナーヴァルツァーをあてていくという主語が複数になっていて、筆者がヴィーンで習った指揮者とその他例えばティムパニー奏者などに何かを聴いた可能性すらある。憎いオヤジだ、我々は同じことを考えても書くことの素人でありこのように上手にコムパクトには書き込めない。

四楽章のセレナードにおいても、ペトレンコはギターマンドリンにスポット当てるでなくアンサムブルの中で音色として聴かせると、この楽章を終楽章の光への穏やかな古の響きとして扱い、演奏者は明確に、ペトレンコはこの静かなコーダを見事に扱ったと絶賛。

さてフィナーレに於いては、間隙を入れずにサクサクとしたテムポで振り切り、録音でも生でも体験したことがない最高速だったとしている。めくるめく転換の終楽章はそのサクサクの進行によってアイロニーに満ちて、ややもすればそれまでの楽章で欠けていた薄曇り感がここに来てその否定しようもない効果として、アドレナミン効果を伴ったスリルあるフィナ―レで、ブリリアントに終えたとして評価。

もう一つのキーワードである管弦楽のための大きな協奏曲として、第二ヴァイオリンの殿までが自発的な表現をしている楽団が、そして情熱的に椅子からジャムプするほどに合わせる希少な楽団として、ホルンとトラムペットで二回程滑ったところがあったのだが、この七番の信じがたさにおいては太陽の黒点ほどのものでしかないとしてミュージシャンシップを賞賛。

そして先月ティーレマンが地元シカゴ交響楽団指揮客演で採用した独伝統的配置を取っていたとして、終演後の珍しく定員97%迄の入場者となった観客の明白な反応を伝えるとと共に可也の事を書き切っている。



参照:
Berlin Philharmonic delivers gleaming, high-powered Mahler, Lawrence A. Johnson, Chicago Classical Review on Nov 17, 2022
作品に奉仕する天才 2022-11-17 | マスメディア批評
ニューヨークタイムスの耳 2022-11-14 | マスメディア批評
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初めてのファミリー公演

2022-11-19 | 生活
クリスマスのミュンヘン行きの準備。主な目的はファミリー公演でのティテュス・エンゲル指揮フンパーティング作「ヘンゼルとグレーテル」である。指揮者のチョットした請負仕事にしか思えないのだが、裏を読んだ。エンゲルのバイロイトデビューが決まっているかどうかは確認していない、しかしこの公演でその方向性は分かると思う。2019年のエアル音楽祭での好評だった新制作「ローエングリン」を聴けていないので、どうしても聴いておきたかった。

その序に、並行上演中の新制作「ローエングリン」も聴いて来る。フランソワ―・ザヴィエロート指揮がどれ程叩かれるかは分からないのだが、万が一欠場となるとカヴァーに入るのではないかと思う。勿論そうなれば万時を排して駆けつけるつもりでいる。

既に書いたようにメリハリのない焦点の定まらない指揮での上演で立ち続けるのは厳しかった、だから追加で同価格の席を購入したのだった。嘗て一度だけ日本でハムブルクの歌劇場の引っ越し公演で経験したのだが、座り続けるのも厳しかったロマンティックオペラである。タイトルロールだけで全編に緊張感がもたらされるとも思わない。

こういうことになるとこちらも必要なお勉強に熱が入るので、更にその審美眼がより研ぎ澄まされる。だから余計に期待薄となっている。同じようにミュンヘンの常連さんが考えて安い席で気楽にとなると誰も高い席は買わない。皆通の人の考えることは同じなのである。値打ちを計算すれば自ずから選択は等しくなる。

「ヘンゼルとグレーテル」は初めてなのでお勉強する必要もあるが、音楽的な出来などよりも家族づれの雰囲気を観て来たいのだ。エンゲル自身の家族なども来るのだろうが、クリスマスに付き物のこの演目に出かける機会は中々なかったのでそれも嬉しい。早めに開演になって、早めに帰宅の路につけるのも助かる。

一泊して、三公演出かけれる様に計画した。だからクリスマスの買い物の為にも冷凍庫のありそうな80ユーロ程のアパートメントに宿泊して、燃料代等合わせて総額400ユーロを越える。

もう一つは、ミュンヒナーフィルハーモニカーの演奏会である。このベルリナーに次ぐ伝統のある交響楽団は実は聴いた覚えがないのである。更に最近は団員の若返りも出来ているようで、後任指揮者選出のへの期待も高まり、是非早めに判断してみたいと思っていた。

突然のゲルギーエフ解雇後に入った指揮者の面々に関心を持っていた。ネルソンズやホーニックが入って、その後も真面な指揮者が振っていないので前任者よりもマシな人がいたらと思っていたらケントナガノぐらいしかいなかったのである。ちょっと変わったプログラミングで上手く弱点の独墺音楽を掠めながら上手く外しているが、まあまあ売れている。リヒャルトシュトラウスやバッハの編曲ものならば勝負できるが、ヴァ―クナーとなると端から止めておいた方がよい。亡くなったアメリカ人ジェームス・レヴァインとは全く相性が良くなかったようだが、選考理由は理解できた。



参照:
「松風」からの向かい風 2022-11-18 | 文化一般
暮れないミュンヘン 2022-07-11 | 雑感
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「松風」からの向かい風

2022-11-18 | 文化一般
ミュンヘンの新制作「ローエングリン」の座席を入手した。既に立ち見をオファーされていたのだが、椅子席が欲しかったからだ。結果としてバルコンに座る。しかし視界も制限されるので僅か18ユーロしか払わない。歌手はこの役として当代随一で世界的に人気のあるフォークトである。日本でも何度か歌って大成功しているようだ。だからそれ目当てに観に来る人もいる、しかし、指揮者がロートというフランス人で、誰も彼のヴァ―クナーなどには期待をしていない。支配人がベルギー人でなければこの選択は無かったろうか。誰が演出するのかも知らない。序に観に行くだけだ。だから20ユーロ以上払うつもりなどはなかった。

歌手のフォークトも何回も聴いていて分かっている。その他の配役でも独語歌唱の模範的なマルリス・ペーターセンが下りて、然したる興味も失せた。声の調子もあまりよくないのだろうが、そこ迄の歌手に合わせた指揮が出来ないと見越した決断なのか、演出が受け入れられなかったのかは全く分からない。歌手陣はそれでももちろん悪くはないのだが、なによりも期待しているのはドラマテュルギーのクラ―スティングで何度も顔を合わせている指揮者ペトレンコのブレーンである。

このことにも関していることが大きな話題になっている。事の始まりは、日本の作曲家細川のオペラ「松風」が来年五月に他の二作品と共に新制作される予定だったが延期になったことである。その突然の発表が釈然としなかった。理由は人件費の拡大など諸経費の高騰によってが主たる原因とされて、そこから劇場内部での問題が語られるようになった。その筆頭に合唱指揮の契約延長を遮ったとあり、更に劇場長とも齟齬が起こっているとされる。それを伝えたジャーナリストに、劇場から抗議文が送られていた。

抗議を受けたジャーナリストが書いている。今シーズンに入って、高い席が売れなくなって、大人気のカウフマンのオペラでさえ買い手市場になっているというのだ。恐らくそれは事実で、上で購入した様に普通では入手の難しい新制作の格安席を入手したことにも表れている。そして新たな新フェスティヴァル「ヤーマイ」のような新しい作品を諦めて猫も杓子もの「指環」などをやっても意味がないということで、今年成功の「ブルートハウス」も音楽監督ユロウスキーの功績としていいだろうと書いている。

これこそはまさしく指揮者エンゲルの大功績もそこにしっかりと組み込んで欲しいと同意したい。要するに市場が小さいものでも芸術的な価値を落とさない限り必ず道は拓ける。ユロウスキー指揮の新制作もそこそこの成功しているのだが、その他指揮者の「ピーターグライムズ」、「トロイ人」や「賢い女狐」など再演回数が全然足りていない制作もあって持続性に問題があるとされている。個人的には来年二月の「ジュディッタ」再演も大成功して欲しい。

事の始まりの「松風」が2024年に延期になることで、既に延期になったハース作三部作の「コーマ」と共に上演される予定である。そもその「コーマ」が上演不可能となったのはロシアからのムジカエテルナと指揮者クレンツィスに頼ったからであって、その演出の暗闇で暗譜で演奏するのは他の楽団では不可能だったという話しであった。その通り延長となるならば三つの新制作の費用が一先ず順送りとなる。

モルティエ博士一派としては、こういうことになれば何が何でもドルニー支持に動く。なるほどこまごまとしたことには疑問もあるが、芸術的な方向では正しく、様々な予算に関する努力も伺える。やはり書かれるようにチームワークだけでなくてコミュニケーション能力の問題もあるだろう。



参照:
Staatsoper muss Premiere verschieben: Haussegen in schiefer Lage, Robert Braunmüller, Abentzeitung vom 15.11.2022
オペラ賞ノミネート推薦 2022-08-04 | 文化一般
音楽劇場指揮者の実力 2022-08-01 | 文化一般
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作品に奉仕する天才

2022-11-17 | マスメディア批評
ベルリナーフィルハーモニカー米国ツアーのボストン公演は一つのプログラムが演奏された。有名紙ボストングローブが批評を載せている。ここでは裏のプログラムの公演であった。

日曜日に開かれたようだが、灼熱の演奏が終わってからも天井が振動していたと書いている。要するに彼の有名なボストンのシムフォニーホールでは通常ではない音響が響いていたのだろう。折からホール主の交響楽団の日本公演でのヴィデオがサントリーホール等から出ているが、端からお話しにならない。指揮者だけでなくて楽団もここまで水準が下がると後任も大変である。それ以上にそんなヴィデオもSNSに流してしまう楽団のスタッフもとても程度が悪いようだ。

新聞は、それ以前に音符を一つ演奏する前から、そのプログラミング自体に感心して、本物の芸術や歴史的な声明を語っていたと書いている。

つまり、ツアーに訪れる楽団がプログラミング時に商業性を考えなければいけない圧力を受けるのだが、アメリカの大編成の新曲に続いてモーツァルトのヴァイオリン協奏曲一番とそれをスタープレイヤーではなくて楽団のコンサートマスターに演奏させるという売れないプログラミングを提供。そしてスターシステムの産業に対抗する姿勢と同時に楽団自らのエッセンスを示すということになった。このことがこのツアーの核心ではないのか?と提議する。

勿論この記者の脳裏には、アンドリス・ネルソンズの産業構造の中でずぶずぶにブクブクとなった醜態が浮かび、それを頭に据えた交響楽団への婉曲的な批判が込められている。音楽ジャーナリストはチクリが仕事ではないから、読者に問題提議出来ればそれ以上のことはない。

そしてどうだろう、この芸術的なプログラムで、このシーズンで知る限り最も入っていて、殆ど売り切れに近かったと書く。それはベルリナーという名声からかもしれないが、同時にそれだけ高価であり抵抗もある。そのコンサートは、上手に演奏するというのを示すだけでなくて、「何故」をデモンストレーションした。そこには小さな声明が、しかし主となる決して見落とす事のない声明として反映されていたと読者の関心を契機。

そしてベルリナーは正統的に作品を紹介した。明晰に暖かく且つセンシビティにモーツァルトが奏でられた後にグレズマ―のアンコールで以て、20世紀の歴史がつまりドイツの永きに亘っての文化的な償いが新たな局面に至ったことをに明白に示したとしている。それは初のユダヤ人指揮者を戴き、そのペトレンコ自体はそのことを囃し立てたりはしないのだが、脇に置いてはいない。それが米国に逃げたユダヤ人作曲家コルンゴールトを後半に取り上げた意味だと読み取っている。ネットでの会見で、ペトレンコは、舞台の上で全ては語られるべきという立場に再び言及した様である。

そのペトレンコの作品への気持ちは情熱的なパッセージだけでなくその指揮が示す誠実さに表れていたとしている。そして楽団の各セクションはこの燃えるような演奏に寄与して、その演奏の背後に作品に奉仕した天才的な感性の存在は見失うことないものだった。ベルリナーはその表現力豊かな行使を隠すことなく、しかしそれを見せびらかすこともない。それが全てである、「その様」に、と結んでいる。



参照:
Berlin Philharmonic returns to Boston with new chief conductor, Jeremy Eichler, The Boston Globe on November 14, 2022
暗黒の歴史を払拭へ 2022-11-15 | マスメディア批評
そこから学べる音楽会 2022-11-11 | 文化一般 
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運動可能になった週明け

2022-11-16 | 試飲百景
火曜日から右足の親指が調子悪かった。第二関節が捻挫したようになった。それから親指の付け根まで炎症で腫れた。二月の足の裏とは異なり、指だったのでその前の週にテューシューズの様なクライミングシューズを履いて足を酷使したからだと思った。その意味では複雑骨折というような危惧はなかった。しかし痛風が一番嫌なので気になったがその様な痛さではない。但し靴は前回と異なり履けたのだが、正常な歩行が出来なくなっていた。幸運にも週末から徐々に腫れが収まりだして、日曜日のワイン試飲会も足元は不自由なものの普通に参加可能だった。

月曜日にはマンハイムの会計士の事務所に出かけ、よりよくなったので走りに出かけた。通常の歩行は不自由でも健康の為に、先週の距離は先ず置いておいて、準備運動から歩みを進めた。坂を上るのが苦しかった。片足仕掛けれず、右足も外側で支えるだけだ。それでも何とか上り、今迄の最低ではなかった。但し下りはスピードを出せずに殆どワーストだったと思う。一週間ぶりによくやった。心拍数も苦しさの割には166までしか上がっておらず、今後の参考になるだろう。翌日になって足がどうなっているかである。なんとなく左足と異なり早く治る様に思う。

ワイン試飲会は、少なめの参加者であったが、グーツ―スリング、オルツリースリング、エルステゲヴェックス、グロセースゲヴェックスとVDPの方針に従って整理されたことから、選択は楽だった。

以前はグローセスゲヴェックス即ちグランクリュ「イムブロイメル」と称する地所「ブルガーガルテン」の中の塀に囲まれた一角からのリースリング、それに続いてそのエルステゲヴェックスが一つに絞られて、その下が整理されたオルツリースリング即ちヴィラージュ「ハールト」となっている。ここが以前は本当に町ごとになっていたが収穫量や土壌の性格からして整理した方が品質をあげられて、売り易いに違いない。

今回はオーナーにこの件に関して訊く時間はなかったが、その下のグーツリースリングの品質も含めて成功しているのではなかろうか。こうした昨年のワインではなく今年の収穫に関してケラーマイスターに尋ねたところ、日焼けなどで結構苦労したということで、振り返ってなるほどなと思う。どうしても纏めて量を出すとなると、悪い葡萄を如何に捨てて行けるか、樽を上手く合わせて行けるかであるから、こうした中規模の醸造所ではグーツリースリングをいいワインにするのが一番難しいと思う。そして、そのリースリングこそが地元のノイシュタットのレストラン等では最も地元のいいワインとして提供されるのだから、儲け頭でもあるのだ。一般蔵元価格0.75リットル10,60ユーロという事は七掛けとして7ユーロ、レストランでグラス一杯7ユーロで出せれば儲けが出る。

来月初めのオペラの新制作「魔女」のお勉強準備を始める。先ずは総譜もあったので落としておく。686頁程しかないので、それほど苦労はしないと思うが、一度も耳にした事がない曲なので、下調べから音源探し迄全く始めての事にぶつかるかもしれない。主役のアスミク・グリゴーリアンは週末まで東京なので、戻ってきたら管弦楽練習などをを通して、総稽古へと仕上げとなってくる。



参照:
イアーゴに騙されるな 2018-11-06 | 文化一般
スキー宿をキャンセル 2018-01-09 | 雑感
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暗黒の歴史を払拭へ

2022-11-15 | マスメディア批評
大成功のベルリナーフィルハーモニカー米国ツアーからボストンでの一夜の演奏会評が出た。カーネーギーホールの二夜目に続くコルンゴールトの嬰へ交響曲をフィナーレとする裏プログラムの公演である。

先ず何よりも第二曲目のモーツァルトの協奏曲が終わった時点でスタンディングオヴェーションが起こったというのだ。珍しいことで、更にソロストのベネディクスバルグレーがイ―デッシュのクレズマー音楽をアンコールで弾いたことも珍しいと書いている。

このアンコールの意味を祝祷としたのはニューヨークタイムズで、ナチ時代の帝国管弦楽団とされたフィルハーモニカーの黒歴史を払拭すべく、こうして初めてのユダヤ人指揮者が率いて、コルンゴールトと同じように1930年代に父親がナチから逃れたコンサートマスターがソロを演奏して、ユダヤ人作曲家二人の曲を演奏した意味を伝える。

このコルンゴールトに関してはオーストリアとアメリカの音楽が、そして一曲目にはアメリカ人作曲家の曲が組み合わされて、またも一つの座標軸が開かれている。しかし、マーラーの交響曲への視座こそが、ユダヤ人ホロコーストを受けたそのアイデンディティーからバーンスタインによるルネッサンスの影響を如何に払拭するかがペトレンコの使命でもあったろう。

カラヤン時代にはナチとして米国では抗議運動が起こっていたのだが、こうして水曜日には今度はそのフルトヴェングラーの就任がトーマス・マンらの反対運動で為されなかったシカゴで今度は第七交響曲の演奏で為される。

ボストンではコルンゴールトの曲がメインで演奏されるとして懐疑もあったようなのだが、結果的には最後の音が終わるや否やのスタンディングオヴェーションとなったようで、張り詰めた期待に膨らむ会場の雰囲気で始まった演奏会が終わったとされる。その長く強い拍手が常連さんの大きな期待を満たすばかりか、新たな地平線へと導き、深く内省させた催し物だったとしている。

無二のベルリナーフィルハーモニカーのその力強い試みで、それは大きな音での総奏であっても、その聴者への効果があまりにも巨大である時もとしていて、それは平素聴き慣れている少なくとも大きな音だけは出せる指揮者の地元の交響楽団とは比較にならないことを案に告白している。コロナ禍で聴き逃したが、もし比較対象となるならばニュヨークフィルハーモニックしかない筈で、歴史的にはショルティ―指揮のシカゴ交響楽団しか存在しない筈である。ここに書かれているように、しかしである、その個々のアンサムブルの在り方が新たな地平線なのであった。同行者が驚いていたようなスパースターやデジタルコンサートホールでお馴染みの面々が吹いていたことが肝心なのではないのだ。有名無名問わずにどの様にアンサムブルしているかの問題である。

勿論の事、より複雑なマーラーの交響曲七番にて、シカゴでそして近隣のミシガンにてそれがどのように批評されるか。週後半のお楽しみとなる。



参照:
Berliners and Petrenko Exceed Lofty Expectations, Joel Cohen, Boston Musical Intelligencer on Nov.14, 2022
ニューヨークタイムスの耳 2022-11-14 | マスメディア批評
そこから学べる音楽会 2022-11-11 | 文化一般
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ニューヨークタイムズの耳

2022-11-14 | マスメディア批評
カーネーギーホールでの三日間に批評がニューヨークタイムズに載っているようだ。プリントで14日付けらしい。一番興味深い記載は、初日よりも三晩目の方が大分よくなっているということである。

先ず初日のマーラーの七番について、六年前の前任者ラトル指揮が最後のアメリカ公演でのプログラムとしていたことから、それとの比較となる。そのラトル指揮は表現意欲満々で屡これ見よがしにまたは発し発しであったが、ペトレンコ指揮となると小柄ににこにことして反意欲のようで、透明さやバランスを整えることに重きが置かれていて、まるで小さな自由な非強制を求めて、まるで指揮台では自分自身の表現を敢えて犯すよりもやり易くするような指揮だったとなる。

ここまで読めばこの筆者ウールフという2015年から編集者で今年から評論となった人の見識が大体分かる。その音楽や演奏に関してのそれは可也限られている。しかし、その様な聴衆でも何を感じたかが我々の興味のありどころなのである。

その木曜日、特にその終楽章の運動性が、重量感である以上に構造の網目の表面の対比によって性格付けされているという事実が明らかになって、一楽章では潤滑油でのスムースさが特筆されて、スポーツカーがそのエピソード間の避けがたく、論理的な大きな差異にギア―チェンジしていたと書いている。

ここまで読めばこの筆者が音楽の藤四郎の、その綴り方自体が下手な編集者だと分かるのだが、それでもこの人の脳を通すとそうなる。

それでペトレンコは透明性を上げ乍ら、屡弦やブラスが被る管の内声を取り上げたりすると、二楽章で琥珀色の管の断片を点滅させて、オーボエとヴィオラの音を磨き、夜のそれを描くべく、ホルンのソフトな呼びかけは月光を呼び込むにはまだ強過ぎるとしている。

この記者がどこで何を耳にしているかはここ迄でよく分かる。

チェロもスケルツォで絹のようにしなやかで、ヴィオラも管の咆哮にフェードオフしていく、四楽章はまさに音色のスタディーであって、フィナーレはオズの魔法使いみたいだと書いている。

多かれ少なかれ、バイエルンの劇場楽団での評判の録音と同じだとしながらも、それよりも良かった木曜日の演奏会。しかしその旨味を失わないで演奏された土曜日に行ってとてもよかったと語る。その演奏は荒くはなっていなかったのだが、その作品の荒々しい、その特殊性は余計に強化されて、絹の柔らかさは其の儘にブラスの明るさもその儘、より激しく、密度を得た。交響曲全部を通してのまた各楽章でのその音楽的な効果がパワーとなって集約されたと書いている。

漸く、全体の流れがこの人にも呑み込めるようにななって来たようだが、細部に関してはまだまだ聞こえていないに違いない。



参照:
The Berlin Philharmonic Gives a Master Class at Carnegie, TheNewYorkTimes on Nov. 14, 2022
耳を掃除してチェック 2022-11-13 | 暦
カーネギーホールライヴ 2022-11-10 | 文化一般
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