Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

空騒ぎの二重の意味

2019-04-23 | 文化一般
承前)前日土曜日、「レクイエム」の日に祝祭劇場正面で写真などを写していたら車の警笛が鳴った。何事かと思って周りを見ても誰もいない。その車が走り去った後を見ると助手席に日系の第一ヴァイオリンのじょせいの顔が見えた。ベルリンナムバーであるからフィルハーモニカーの車と分かった。もう一度周りを見回すが誰もいない。その女性の顔をよく映像でも舞台でも見ているが、彼女が私のことを知っている思い当りは無い。そもそも日系のヴァイオリニストとは付き合いが無い。弦楽関係の日系音楽家も他所の楽団の人ぐらいしか知らないので、繋がりをいくら考えても思い浮かばなかった。不思議な気持ちがした。要するに特定できる日本の人の顔は数えるほどしかいないので、舞台などで見ていても意外に身近に感じるということかもしれない。ある意味日本の人の顔をあまり見ないので皆同じに見えてしまう傾向もある。同じようなことは会場内でも、普段は全く見かけない日本人の顔を見ると他人の空似ばかりである。

復活祭日曜日のガイダンスはチャイコフスキーだった。出かける直前にペトレンコ自身が語る五番のライトモティーフのフィナーレでの解決の話しが頭に残り、またボンでの同様に解説を頭に描いていたが、さらに踏み込んだのは四楽章における二つの主題で、特に民族的な楽想自体が、チャイコフスキー自身が語っている発想が、面白かった。つまり何もかも駄目なその人生のなかで、最後の砦のように原始の力のようなものがそこにあるというのだ。つまりここでも重要な要素を果たしていて、これでもかこれでもかと空騒ぎをするのであるが、殆ど強制的な前進あるのみとなるが、ペトレンコの言葉を借りれば「殆ど息が付けなくなって」、嘆きの下降旋律へと向かい、そして運命の動機が今度は長調で出て最後の時を迎える訳だ。そしてその空元気こそがショスタコーヴィッチでも踏襲された二重の意味を持つとされるところだ。

ペトレンコの解説では、一種の沖の水練のように運命そのものに自らを任してしまう解決となるが、ボンの解説で行けば最後に運命の動機で終止する。これに関しては、「月曜日の演奏を聴いてあまりにも美しく終わったのでどうかな」と解説のシマンスキー氏の感想があったが、まさしくこの二重構造や終止がその前のテムポ運びなどで決まるか決まらないかが私がボンで経験した大成功例であり、待ち侘びるところのものだ。やはりミュンヘンの座付管弦楽団のように電光石火のアゴーギクに沸き返り対抗しつつ気絶しそうになって、初めて一息ついてが技術を超えて出来るような限界状況に追い込めるようになるのに二三年はかかると思う ー 要するに無為自然、ニルヴァーナの心境である。

さて、ランランとの初対面からの練習は、ランランが英語で働きかけ、ペトレンコは敢えてドイツ語で返すというような状況だったようだ。ペトレンコも英語で会話するほどの関係を作らないように距離を置いた。当然だろう、あそこまで貶していて知らぬ顔で繕うような二重人格を演じれる男ではない。そして見ていた人によれば、主導権はペトレンコが握ったという。恐らくランランの方も左腕のことで到底プロとして一人前の顔は出来ない。カメラの前だけの空威張りの演技でしかないからだ。通常ならば少しピアノの前で打ち合わせるだろうが、如何にやっつけ仕事にしたか。責任は全て辞めていく支配人にある。その分を返そうと後半楽団と共に全力を尽くそうとしたのは五番の一楽章で見て取れた。あれだけでも満足だ。とは言いながらもベートーヴェンでも何かをやっていたが、正直あの傾向のままでの演奏ならば少し疑問である。モーツァルトほどにも上手く行っていない。勿論伴奏だけでは何も音楽にはならない。そして、演奏後の礼を逸しない若しくは慇懃無礼似ならない範囲での扱いや如何にもプロらしい練習風景の報告からも、何とかこれで一件決着をつけたということになる。(続く)



参照:
運命が拓かれるとき 2019-03-11 | 文化一般
芸術の多彩なニュアンス 2019-04-15 | 文化一般
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芸術ゲマインシャフト

2019-04-22 | 文化一般
ここになんでも書くつもりだ。しかしやはり書けないことも無いことは無い。満州のピアニストのランランとキリル・ペトレンコの初共演で最終公演を観てきた。二人の共演は、バーデンバ-デンの辞める支配人が画策したものに違いない。そもそもペトレンコはこの満州人のピアニストを手厳しく糾弾していた。それをインタヴューで語ったものだからそれ以降インタヴューをしなくなった。そのことは初ポートレートの番組でも間接的にしか取り上げられなかった。要するにそれを語るとランランだけでなくてランランを売る市場やその購買者をも愚弄することにつながるからだろう。

しかし、当日の会場の雰囲気や訪れた客の顔つきを見るとピアニスト同様の知的水準の人が少なくなかった。勿論シナ料理屋のおやっさんのような、厨房で下に着ているような服装で来ている人には、それはそれでとその市場の大きさに驚くだけであるが、更に大きな問題は金もあってそれこそピアノでも習っていましたよというような客層である。高学歴で、ある程度社会的にも成功している、丁度新聞の購買層で南ドイツ新聞の読者層などである。彼らの知性と教養と審美眼の欠如がとても痛い。

それゆえにバーデンバーデンに祝祭劇場が建設されて、少しでも芸術や文化の分かる人たちを育成しようとした社会的な構想があったのだ。しかし、シェーンベルクの売れないプログラムの代わりにランランと共演させられ、そして元の木阿弥のような客層に席を売っても仕方がない。

それを考えてかどうかは知らないが、少なくとも後半のチャイコフスキーでそのような人たちをも興奮の渦に巻き込んでくれたその強い動機付けが感じられたことだけは特記しておきたい。偶々隣に座った「ランランとの出会いからプローベ」を観ていた人を、ベルリンの初日でも聴いていて、月曜日の演奏も聴いていたので、「ボンの名演奏ではあんなものではないよ」と初めから牽制しておいた。

そして一楽章が終わったところで指を立てて「これだよ」と教えておいてあげた。つまり一楽章は名演奏だった。二楽章は残念ながらドールが若干音を制御できなかったようで、月曜日には至らなかった。三楽章はある意味弦楽陣の課題が見えてきた ― つまり夏までに直せる。四楽章はまだボンのアゴーギクへとはならなかったが、もう一息で、会場は月曜日とは異なって興奮の渦に巻き込まれた。隣のお兄さんも盛んにブラボーを叫んでいた。彼は、ギリシャ人二世の名前を挙げるぐらいだから、これで少しはその違いが分かっただろうが、ペトレンコの指揮の成果はまだまだこれからで、フィルハーモニカーのやることは沢山ある。

ペトレンコが、ドールを立たせた後、クラリネットを立たせたりは当然で、この日のオッテンザムマーは初めて一流の演奏を聴かせた。最後の弦楽陣の部毎に握手に行ったのはよく分かる。その各弦の第二ヴァイオリンからヴィオラ、チェロ、コントラバスまで見事だった、それほどゲヴァントハウスを恐れることは無いと思う。あれはコンセルトヘボーでもビックファイヴでもどこでもおいそれとは出来ない。間違いなく夏のツアーには一皮剥けると思う。

さて前半に戻るとそれでも流石に、あの左腕を故障してからの演奏で歓声を上げる人はいないと思ったが、まさかと思わせた。少々ピアノを触るぐらいの人ならば、あれはアマチュア―程度であることは直ぐ分る筈だが、それ以前の指がサーカスのように回る程度で熱狂した連中はその僅か一部でしかなかったということになるのだろうか?正直分からないが、素人とか玄人の問題ではなくただの物見高い客なのだろう。

勿論私の周りでは、既に述べたように、休憩前に私が「アマチュア―」と叫ぶぐらいだから、凍ってしまっていたが、逆隣にいた婆さんが終演後に「一回だけ来るなんておバカさんだよ」と言っていたぐらいだから、なんとなく祝祭劇場の常連さんというかゲマインシャフトが出来つつあると感じた。勿論私は「来年は殆ど毎日来るからね」と叫んでおいたので、これまた幾らか影響するだろう。

それでお分かりのようにオペラ劇場だけでなくて通こそは天井桟敷若しくは安くていい席に陣取って毎日のように来るという原則は変わらない。個人的にザルツブルクのパトロンになっていた時も好んで優先的に安い席を獲得したのそこに座ることの意味を知っていたからである。ミュンヘンでも、何もこちらから影響を与えるだけでなく、お互いに影響しあって習いあってこそ、初めて聴衆が出来上り、劇場なりの場が完成する。祝祭劇場がいいとか、劇場がいいとかは、音響以外では、その聴衆が作るものが殆どなのである。パトロンで金を出すのも悪くはないが、それだけではいい祝祭劇場とはならないこと、これが肝心なのである。

連日のカウンターで顔見知りになったので、50セント余分に払った。これもそこの従業員を教育して雰囲気作りに必ずなると思っている。何事も一つ一つ教育的配慮を忘れてはいけない。(続く)



参照:
インタヴュー、時間の無駄四 2016-08-03 | 音
時の管理の響き方 2016-09-16 | 音
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イタリアにおける成熟

2019-04-21 | 文化一般
朝一番で銀行に寄って現金を下ろした。土曜日は休憩も無い演奏会だったので殆ど現金は要らなかった。支払ったのは駐車料金とプログラムで8ユーロ、エスプレッソ2.5ユーロ、水4ユーロだけだ。エスプレッソは本日にでも再びダブルで貰うよと話しておいた。屹度眠くなると思う。

朝一番で峠まで走って下りてきた。目覚めると少し寝汗を掻いていて、気温と日射の影響があると思う。だから走らずにはおけなかった。レクイエムでの90分以上の集中は結構疲れた。まだ七十中盤とはいえ、丁度バレンボイムとは一つ違いのムーティは二年前より元気そうで、身体の動きがよかった。あのころは体調も悪かったのかもしれない。それでもバイロイトなどに出るなんて馬鹿なことはして欲しくない。もっとヴェルディの後期の作品を振って欲しいと思った。

公演前のガイダンスでもイタリア音楽における円熟とは簡素化に尽きて、その代表がヴェルディで、フランス料理や香料の洗練に対照させて簡単なアンティパスタなどとの比較としていた。なるほど楽譜で勉強していて感じていたように、限られた素材で如何にがとても明晰且つ精妙な形で表現されていて、楽譜面は簡単そうなのだが一体どうなるのかと思えば、これまた恐らくドイツ風のとても凝ったものだった。あのような演奏はスカラ座では出来ない。なぜならばいつも簡素な表現が身についているからだ。

とても音楽的に充実した聖土曜日の公演だったが、待ち構えているのは復活しないランランである。ベートーヴェンの第二協奏曲が彼にとって弾ける曲であるのは分かったが、左手のパッセージをどのように弾くか見てやろうと思う。全く技術的な関心ではなく、彼自身が一体どのような姿勢で演奏しているかを見届けてやろうと思う。

そもそも即興ピアニストであった自身のための作曲のようだが、やはりモーツァルトとはその独奏も異なる。中々動機の扱い方なども重要で「誰でも弾ける」調子で演奏されたらとても迷惑だ。一体キリル・ペトレンコがどのような顔をして合わせる練習や打ち合わせをするのかととても気になる。怪我の前ならばおかしな言い訳などが無かったかもしれないが、何かそれを繕う様子を想像するだけでこちらまでが腹立たしく思う。

本日の放送が予告されていたキリル・ペトレンコのラディオ初ポートレートが既にオンデマンドになっている。内容を確認しながら、録音準備も進める。車中ではランランのお蔭でベートーヴェンを予習しなければいけない。



参照:
ポートレートの色合い 2019-04-11 | マスメディア批評
貧相なエンタメを嘆く 2019-01-03 | マスメディア批評
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聖土曜日のレクイエム

2019-04-21 | 
聖土曜日の奇跡だった。マエストロ、御免なさいと言いたい。リカルド・ムーティが最初の「アイーダ」の録音で大成功して、結局そのLPを買いそびれてしまっていた。しかし、このナポリターノの本筋はヴェルディのそれも後期の作品群だった。だから他のレパートリーではとても追いつかない境地を聴かせてくれた。手元にはそのLPも無く、CD類もあまりない。デビュー以降それほど決定打となっているヴェルディの録音も知らない。

しかし今回、前回この曲を聴いたベルリンのフィルハーモニーでカルロ・マリア・ジュリーニが指揮した1986年のベルリナーフェストヴォッヘでの演奏の記憶と比較すれば明らかだった。あのジュリーニよりも遥かにヴェルディをものにしていて、細部まで知り尽くしているのは明らかだった。そしてあのフォン・カラヤン時代よりも遥かにフィルハーモニカーのフレクシビレィティーは比較にならないほど高い。

往路のオンデマンドの一回目の録音を聴いて直ぐにダイシンがコンツェルトマイスターと分かった。彼が率いると弦楽陣は一ランク上がる。例えばフィラデルフィアのキムとの差は明らかで、弦楽陣の表現力が完全に上回っている。シカゴ交響楽団の演奏で聴いた日本の人には悪いが、何もガランチャが歌う歌わないだけでなく、到底その管弦楽団の表現力は比較にならないほど高い。またカラヤン当時の管楽陣と比べても全く引けを取らない。当時木管にもライスターやコッホなどがいたと思うが、今もパウが吹かないでも決して悪くは無く、金管はむしろ今の方がいいと思う。

兎に角、あれだけの表現を出来る管弦楽団は座付でもなくシカゴやフィラデルフィアでないことは確かであり、ジュリーニ指揮の時にも感じた中低声部の素晴らしさは、ここに来て磨きが掛かり、高弦も完全に新たな次元に入っている。弦楽の表現力ではもはや世界一であろう。チェロ陣が弾いても胴が鳴らないあの精妙さには恐れ入る。カラヤン時代の12チェロよりもいい。

ホルンのドールなどが細心の注意で如何にベルカント表現についていくかに熱中していて、トラムペットの弱音の妙技やトロムボーンなど往時のシカゴを抜いてきている。もう少しだけ木管とのアンサムブルが出来上れば、全体のサウンドが出来上ると思う。もう一息である。

それにしても期待のガランチャが一回目に比較して声を押さえていて、その分レクラメの集中度が上がり、またテノールのメリの声が上に出て殆ど神懸っていた。今までパヴァロッティ以外はいいテノールも生で聴いていると思うが、イタリアの最高のテノールの声だった。あれだけで金を取れる公演だった。バスはバイエルン放送協会の合唱団と同様、充分な出来だっただけでそれ以上ではなかった。ガランチャが抑えた分ソプラノのイエオの朝鮮人らしい泣き節がイタリア文化にとてもマッチした。それにしてもメリの歌には指揮者も反応して歌わし切ったという感じで、中々ないことだと思う。

今回は予想通りカメラが入っていたのでラディオ中継と共に記録として残ると思う。恐らくムーティの指揮の記録としても残るだろう。一回目と比較すると最初は若干自由度が高く荒れ気味な印象があったが、管弦楽団とソリスツの音楽がお互いに干渉しながらより精妙な表現へと向かっていった。レクイエム・キリエが終わって拍手が起こりだしそうになったのもちょっと異常な感じだった。(続く)



参照:
聖土曜日の準備へと 2019-04-19 | 暦
幾つもの山が当たる 2019-04-18 | 文化一般

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聖土曜日の準備へと

2019-04-19 | 
聖週間に花が飾られていた。いつもの駐車場で、そこに地元のヴァンダルンククラヴが建てた建物の前である。丁度植樹がされていたその根元である。

週末は気温も更に上昇しそうで空気は冷たいもののバーデンバーデンは摂氏25度まであがる。一週間前は寒かったので敢えて分厚いシャツを着たが、さてどうしたものか。月末のルクセムブルクや五月のブレゲンツ行きを考えて判断しよう。

肩が凝った。洗濯する為に普段着のシャツの代わりに次に下ろすシャツを着ていたら首元の動きが悪かったのか辛くなった。夏になればTシャツで関係が無いが、この時期はまだ袖も襟裳もいる。普段着の方も洗濯屋に出さなくなってから10回以上は洗濯していて襟元内側の生地が剥がれかかっているのだが中々ごみ箱行にならない。流石に公道に出るのは憚られるが自分の地所では誰も訪問者がいない限り着ている。このシーズンで終わりだと思うが、本当に何時靴磨き布になるのだろうか。そのために下ろした筈の次のシャツをもう一度洗濯屋に出す気持ちに傾いてきた。こちらは近所のスーパーに行くぐらいには全く問題が無い。勿論嫌だとは思いながら気が向けばどこにでも着て行ける。

さてヴェルディの「レクイエム」の準備は?土曜日の留守録音はそれほど問題が無いだろう。日曜日の本番とその前のGPの時の写真を見ると両方ともしっかり録音されていたので、雑音などが修正されているのだろう。ある意味ライヴ制作録音となっているようだ。重要な録音となろう。映像は撮っているのかどうか分からない。

自分自身は一週間前と同じく14時頃に出てスーパーに行く。だからその前にタイマーを掛ける。SWR2は、MP3も用意されているが、いつものようにAudacityを使う。問題になるのは放送が中断になって、音が流れていないことがあるのだが、SWR2では経験が無い。通常の通り生中継を流しっ放しにしておけば問題なくタイマーで録音できる筈だ。中々いいのが、番組の後半がパウのリサイタルに充てられていて、無駄に22時まで回すことが無いと思っていると、既に放送の録音がネットで落とせるようになっている。これはこれで生放送を録音することになる。



参照:
幾つもの山が当たる 2019-04-18 | 文化一般
ポートレートの色合い 2019-04-11 | マスメディア批評
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幾つもの山が当たる

2019-04-18 | 文化一般
土曜日に購入したマルサネ2014年を空けた。思っていたよりも酸があり、デキャンタ―もしなかったので広がらなかった。それでも特徴として敢えて選んだ2014年の涼しさが分かった。これでは飲み頃が短そうなので、2015年があったと思うので再訪の土曜日に補填しておきたい。数年寝かしておかないと駄目だろう。タンニンも効いていたから、十年近くはもちそうだ。

兎に角、聖土曜日にはもう一度スーパーウーで買い物をして、復活祭に備える。土曜日に走るか日曜かを考えたが、「レクイエム」は終演も早いので、帰宅後に購入したキッシェで食事を済まそう。翌日朝起きしてパン屋の足で峠まで走って、身体と頭を元へ戻しておこう。昼寝の時間はないだろうが、日曜日は前半が新しく勉強するとしてもピアノ協奏曲二番変ホ長調なのでシェーンベルクほどの神経は使わない。アンコールも「エリーゼのため」だろうから、勝手にしろである。但し楽譜に目を通す時間がいる。

新聞に書いてあったように、そのあとのチァイコフスキーの第五交響曲指揮がペトレンコにとっては、就任前の最後の指揮となる。何かけじめを示してくれるかもしれないが、それよりも重要なのは夏のツアーで第九交響曲とともに、圧倒的な成功へと導くための準備である。月曜日の一回目でいい方向に前進しているのは確認された。

それを含めてこの復活祭の前半を振り返ると、新聞が書くように、訪問者の衣装も祝祭的になりつつあるというのも事実だろう。最初から観察しているが、衣裳とかよりもラトルがあまりにも劇場的な雰囲気が無さ過ぎた。音楽のみならず、やくざっぽさがあまりにもなさ過ぎた。MeTooガッティでも違っただろうが、繋ぎに本格的な切り替えへの任務は果たせなかったと思う。メータでも初日から二日目への豹変にその任務の難しさが滲み出ていたとみる。本来はムーティで、願ってもないメータへの交代人選となったわけだが、初日後に舞台裏では様々な議論などがあったのだろう。フィルハーモニカーが口を揃えてインタヴューで「オペラをやれることが何よりも」なんて、ラトル時代に聞いた覚えはない。

火曜日に駐車場を出たところで「オテロ」の楽譜を調べていると、駐車場から引退も近いコンツェルトマイスターのスタブラーヴァ―が普段着で出てきた。さっと前を通っただけだが不機嫌そうな顔をしていた。個人的なことかもしれないが自家用車で来ていて、何かを車に取りに行ったと思われる。「オテロ」では第二ヴァイオリンを手伝っているようで珍しいなと思って見ている。

また日曜日のムーティ指揮のレクイエムも新聞評を見ると中々の鎮魂の名演だったようで、これも実際に生で体験して、また留守録音での演奏を確認したい。そして、14日中継録音放送云々が書いてあって、その意味が分からなかった。どうも当初の予定を変更して一回目に録音を済ましてしまったようだ。理由は分からない。個人的には二種類の演奏を聞けるのは助かるのだが、事の経過も気になるところだ。ベルリンの方でもムーティ指揮では今後とも演奏される可能性があまりないので少なくとも一つは記録として残しておきたかったと思う。兎に角、録音、実演とも大きな期待が出来るのは間違いない。

復活祭中にこのように幾つもの山があるのは珍しく、毎年何とか一つ当たればの程度だったことからすれば、芸術的に記念碑的な成功だと思う。頑張ってお勉強して準備をしよう。



参照:
シルヴァン・パタイユのマルサネ 2017-08-08 | ワイン
都合のよいアルコール 2017-10-30 | ワイン
METを超えたオペラ 2019-04-17 | 音
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METを超えたオペラ

2019-04-17 | 
承前)バーデンバーデン復活祭、前半を終えた。可成り疲れた。来年は日程的に更に厳しくなり、それが毎年続くようになる。

メータ指揮「オテロ」二回目公演を初日に続いて観た。文字通り空いていた、233ユーロの席に59ユーロから自主無料グレードアップした。来年は叶わないだろう。その差は何か?先ず演出を正面から観れることで、音楽的には一長一短かもしれない。少なくともコンサートにおける優位性はオペラでは音楽ファンには無い。オペラをその席で観るのは初めてだったので、メモしておきたい。

前列には地元のギムナジウムの生徒たちが一列陣取っていたが、希望者だけに格安で毎年出しているのだろう。これという女子生徒がいなかったので声は掛けなかったが、幾ら出しているのか興味が湧く。私が親ならば60ユーロは出してやろう ― 自分の払った額である。それ以上かというと、例えばミュンヘン劇場でその額を出せばそこそこのものが楽しめるからだ。実際に今シーズンからU30というのが半額扱いなので30ユーロで充分である。

さて一長一短は最前列ならばピットへの左右の視界が効くが、二列目以降では前の人によっては効かなくなる。音響的にも舞台上の管弦楽ほどには響かない。同様な例は、前日に一階ザイテンバルコンで話されていたように平土間でも舞台上の奥の管弦楽団後列へは同じような状況がある。

さてその舞台、初日と異なっていた。細かなことは曖昧だが、先ずは指揮者のズビン・メータが初日には歩いて出てきて間延びして拍手が割れた。改めて後ろ向きに拍手を浴びてから暗転となり幕が上がりプロジェクターの巨象の前に小象が舞台で横たわっていた。それはサイドからは舞台の上と背後のプロジェクターの差異がハッキリしなかった。しかし、今回は最初から入っていたので、ウィルソンが零しているようなざわざわ感は無く、比較的映画館のような緊張感が保たれた。これは修正点で、その他も手の動きや動作が初日よりも明白になってメリハリが付いた。少なくともサイドからでは合唱団のまるでセラーズの演出のような手の上げ下げは印象に残らなかった。私が指摘した通りに修正したのかもしれない ― 全て予の思うが儘である。

しかしそのメリハリを付けたのはドラマチュルクの仕事かもしれないが、それ以上に別人のように指示を出したのは指揮者だった。体調不良で代わりにペトレンコが入ったのかと思うほどの変わりようだった。音楽的には、ダイナミックスやテムポも遥かにコントラストが付けられても、アゴーギクでアクセントをつけるペトレンコ以上に安定していたかもしれないが、技術的に全く宗旨変えしたほど変えてきた。所謂オペラ劇場の職人的なキューを出し始めた。

逆に初日に何一つ必要なキューを出さずに棒も最小限にしか振らなかった意味は不可解であり、健康状態ではありえない豹変ぶりだった。恐らくベルリナーフィルハーモニカーを舞台で振るならばあれで通ったのだろうが、歌手の間合いなどをはかると直ぐにフライングしかねない交響楽団を甘く見たのだろう。ピットに入る交響楽団はロスぐらいで経験がありそうだが、どうなんだろう。要するに舞台上へのキューを殆ど出さなかったのが始終出すように変えてきた。また同時にピット内にも小まめに出しようになった。流石にブーを出されるようになったフィルハーモニカー側からも確認の一言があったのかもしれない。流石の同じところではフライングは無くなったが一か所だけ前のめりになりそうだった。あれは歌手の間合いを取れなかったのだ。しかしパウ、マイヤー、フックス、シュヴィンゲルトらが下手に、上手にはドールらが一生懸命に合わせようとしている、イングリッシュホルンのヴォーレンヴェバーの妙技など、必ずしも前日のオテンザムマーなどの個人の実力は評価できないのだが、また弦楽陣の鋭い表情と彼の世へと上り詰めるときの表情とともに合奏として表現しようと学ぶとき、もはやどこの座付管弦楽団も手の届かない境地へと至る。

実際には、スケルトンが完全に復調していて、恐らくこの程度でないと到底METで主役は貰えない。なるほどピッチのためか最高音では若干厳しいところもあったが、外にも練習が聞こえてたように三幕の叫びなどは上手くこなしていた。カウフマンとは異なって中音域での幅の広さが役に合っていて、最高域でさえ上手く運べば当たり役だった。少なくともトリスタンとは違うのだが、共演もバカ声のウェスブロックや素人オペラ指揮者のラトルとは違って、とても良い刺激と支援を受けていた。そのヨンチョヴァは初日では新聞に書かれていたように緊張からか喉が詰まっていたが、解消していて、一か所だけが厳しかった。それでもそもそもの技量が違って、管弦楽はこのデュオを潰さないだけの伴奏を一生懸命していた。要するに、少年少女合唱団までを含めてメリハリがついてきた。ヴィーンの合唱団も圧倒的だった。(続く)



参照:
落ち着き払ったメータ指揮 2019-04-16 | マスメディア批評
芸術の多彩なニュアンス 2019-04-16 | 文化一般
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落ち着き払ったメータ指揮

2019-04-16 | マスメディア批評
連日のフェスティヴァル訪問は近いと言っても大変だ。月曜日の新聞にベルリン、ザルツブルク、バーデンバーデンのフェスティヴァルの評が全面に別けて書かれている。見出しは空間内の巨象である。

地元のロッテ・ターラー女史の評は、中々上手く纏まっている。オペラ批評としてどうしてもウイルソンの演出に紙面が多く割かれるが、そのいつものような絵や意匠をして、特に地球儀などバロック的としている。同時に一人だけの純なデズデオーナは白塗りの白い衣装を与える ― 月曜日に登場したペコちゃんの衣裳やピエロ姿ではない。

そこに情景に合わせて赤い玉や線が出て来る背景にブルーとグレーがあり、生と死と感じられるとする。そして影の中で演技するような歌手には極度の集中力と身体の制御が求められて、主役たちはまるで運命に翻弄される操り人形のようだとしている。そして二人の愛情は、肉体的な制御の効かないものであるよりも、近づく近づかないの接近と遭遇以上のものではないとしていて、この見方は心理的にも劇場的にも面白い。

四幕で「柳の歌」が歌われるときに、ウイルソンが取ったゆっくりとした動きがここへと全て向けられてなされていたことに気が付いたとしている、つまり若い二人へのレクイエムとなる。それでも序曲代わりの巨象とその小象のプロジェクターの意味は読み切れないようだ。

そして最もこの演出の素晴らしさは音楽に全ての自由を与えていることであり、フィルハーモニーコーアの素晴らしさにも言及しつつ、メータの指揮について批評する。

落ち着き払ったその指揮は、ベルリナーフィルハーモニカーを演出に沿った完璧なレクイエムへと導き、後期のヴェルディのオペラを衝撃的にモダーンにしたという。そのヴァークナーの「トリスタン」のような管弦楽的質を四幕へのイングリッシュホルンで、そのあとでのオーボエのエコーで聴かせ、コントラバスの響きは ― 今回これは幾つかの重要な場面で音楽的に重要な意味を示していた ― 雷の場のブラス以上にスリル満点だったとする。そして弦のトレモロは、私たちの死への恐怖となったとしている。

中々上手な書き方をしている。地元のヴェテラン批評家として、来年以降もしっかり書いてもらいたいと思う。その内容に満足であり、出来るだけこうした劇場感覚が聴衆の共通感覚となって欲しい。



参照:
Zubin Mehta überwältigt mit den Berlinar Philharmoniker durch Subtilität. Lotte Thaler, FAZ vom 15.4.2019
華が咲くオペラ劇場 2019-04-14 | 文化一般
芸術の多彩なニュアンス 2019-04-16 | 文化一般
ブラインド聞き比べ 2018-04-12 | マスメディア批評
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芸術の多彩なニュアンス

2019-04-15 | 文化一般
9時20分過ぎにバーデンバーデンから帰ってきた。オペラと同じ時刻に始まって、予定では7時45分に終わるところが、シェーンベルク後のミヨーのアンコールと最後の拍手で駐車場を出たのは8時15分を過ぎていた。

9割も入っていなかったが、とてもいい演奏会だった。全ては駐車場に下りるところで後ろを向いて女友達に話しかけるおばさんの言葉に尽きる。「よかったね、ファツェッテンライヒで二楽章、三楽章もだけどそれよりも」。この言葉は私の脳裏には浮かんでいなかったが、膝を叩きたくなる表現で、残念ながら彼女に声を掛けなかった。

まさしくこの夜の山場はそこにあって、完全燃焼の演奏ではなかったのであの盛大な拍手の本心を知りたかった。その分、四楽章もベルリンの初日よりもアゴーギク的にもとても抑えられていて、ある意味次の段階に入っていた ー 支配人が楽団が指揮にまだ充分に応えられているとは言えないが、聴きものだという意味である。勿論、日曜日もあり、更に夏のツアーもある。

最後に一人だけ二回も立たせたのはホルンのドールであったということも、その課題を明らかにしていた。三楽章のホルンでもどうしても上ずる方へと音が流れるが、シェーンベルクからとても抑えていて、注目の的となっていた。そして先ずは高く評価したい。

シェーンベルクにおいても明らかに非力なコパンチンスカヤに合わせるためのとても難しい課題を皆がこなしていて、その代表的な立場にこのドールがいたからである。同じ会場で聴いたミヒャエル・バレンボイムのヴァイオリンは協奏曲の主題を提示して主導するだけの力量があったのだが、この女流には無理であった。それをカヴァーする為に如何ほどに難しい弱音などが要求され、柔軟な奏法が要求されていたことだろう。とんでもないがギーレン指揮の放送管弦楽団では叶わなかった精度であった。

チャイコフスキーにおけるニュアンスの豊かさとは、ある意味一昨年の「悲愴」におけるあのヴァルツァーよりも高度な音楽性が要求される。そしてそれを評価する聴衆がバーデンバーデンに集うというだけで幸せに感じる。要するに音楽通であったりする訳で、要するに玄人だ。なるほどベルリンなどの大都市に行けば沢山の玄人が居住していて、音楽会にも来るのだろうが、その分母が異なるこうしたところでの比率はとんでもなく高いと感じた。

玄人とはなにも同業者や業界関係者である必要はない、高度な芸術文化が分かる選ばれた聴衆とも言える。上の言葉でどんな高級紙でも大見出しに出来るのだ。なるほどヴィーナフィルハーモニカーが、「バーデンバーデンの高度な聴衆に、また呼んで貰えることを願っている」というのはなにもお上手で言っているのではない。本当に良い聴衆の前で演奏するのはとても怖いことであるとともに、やりがいのあることに違いない。

チャイコフスキーの第五番交響曲というややもするとこけおどしのような交響曲において、その交響曲の内容を問う演奏、そしてその内容をニュアンス豊かと表現する聴衆、まさしくカラヤンのチャイコフスキーなどで喜んでいたような聴衆ではない聴衆、それどころかムラヴィンスキー指揮の演奏ですら異なる視点で批判できる審美眼を持った聴衆、そのような聴衆はそんなにどこにでもいない。

なるほどオペラにおいてはミュンヘンの聴衆の域には及ばないが、まさしくシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲ほどの抽象的な音楽を聴きに来る聴衆である。スパーオパーが定着するようになればメッカたるだけの聴衆の基礎は既にあるということである。とても嬉しく思った。もう心配は要らない、ベルリナーフィルハーモニカーも音楽芸術を率先していける、そして音楽芸術における更に大きな可能性をバーデンバーデンも提供していけると思う。



参照:
華が咲くオペラ劇場 2019-04-14 | 文化一般
運命が拓かれるとき 2019-03-11 | 文化一般
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華が咲くオペラ劇場

2019-04-14 | 文化一般
バーデンバーデンから10時半過ぎに帰宅した。暫くしてから呟いた。本当に久しぶりの本格的オペラ体験だったと。キリル・ペトレンコ指揮の楽劇などはオペラではないのは当然だが、ザルツブルクで数々体験したものも劇場の本当のオペラではなかった。記憶にあるのはベーム指揮とかシュタイン指揮とか、もしかするとスイトナー指揮のオペラなどを彷彿とするものだった。なにが違うのか、詳しくはメモだけを整理しておいて、もう一度出かける火曜日に楽譜に目を通してからになるだろうか。

終演から一時間以内にネットに上げたジャーナリストがいる。彼によるとメータのあまりにも遅いテムポの指揮に管弦楽も儘ならなく、ブーを浴びる演出でと、批判が躍る。この辺りを扱うことで少し書いておきたい。明日月曜日の準備もあるのであまり余裕が無いからだ。

先ずロバート・ウィルソンの演出であるが、これは現支配人の理想とする目を瞑って音楽を聴くよりも邪魔をしないが更なる「チーズバーガーの多彩な妙味」を出す演出だった。ザルツブルクでの「青髭」などもとてもつまらなかったのだが、まさしくこの記者が合うとする印象主義的な象徴的なものこそがつまらなかったのだ。しかし「オテロ」には力強いドラマと同時にとてもクールさがある。ウィルソンが語る、「一方では静けさと冷たさが無ければいけない」という言葉に表れている。若しくはバーナード・ショーが語る「枯渇しながらもそれゆえに知的である作曲家の作品であり、自らの手法をとても倹約的に尚且つ簡素に経済的に対した」となる。

ウィルソンは北京歌劇や日本の演劇を思わすような所作に触れているが、ああした動きの演出は少なくともピーター・セラーズの表出的な動きよりも評判が悪い。恐らくそうした文化的な背景がこの不評にはあるだろう。前記の「青髭」との一番の差はその表出力にあるのだが、多くは指揮者のフォン・ドナーニとズビン・メータの劇場における表現力の相違と言えるかもしれない。

メータのそれはキリル・ペトレンコでは到底及ばない劇場におけるドラマの表出であり、ヴェルディの創作に内包するものであり、特にお気に入りの作品の細部まで熟知している劇場心である。とても重要な音楽的示唆やその全体の構成の中での起伏の付け方などまさに劇場的な感覚が満載なのだ。それは技術的には歌手や合唱との関係においてもそのようで、細かくキューを出さないで歌手のアインザッツを待っているようなところがある。そもそもペトレンコのように合わせていくと、そうした歌手が見栄を切る余裕を与えない ― 無理して入れたのはNHKホールのコンサートでのパンクラトーヴァだった。そのメータこそが三大テノールの指揮者だったのを思い出せばよい。オペラなんて所詮そうしたものなのである。だからベルリナーフィルハーモニカーの数人がフライングしてしまって、初めてフィルハーモニカーへのブ-イングを聞いた。またそうでなければ、劇場的な雰囲気の中で、その空気を吸った創作の華が開かない ― 夢は夜開くならず、華は劇場で開くである。

それがエンターティメントで留まらないところに劇場の音楽劇場の社会的な価値がある。しかし、バーデンバーデンのように通常の公立歌劇場でないとどうなるのか?これは来年以降も話題となるのであるが、そこにまた違う可能性を見出す。そして、ウィルソンのなによりも素晴らしかったのは、劇場空間を活かしていたことであり、それが劇場での実地の判断で為されたかどうかは分からないが、メータが係っているのは間違いない。少なくとも、二幕の独唱者陣を前後に動かしたり、デズデモナーを後ろでまたは前で歌わせて音響的にとんでもない効果を上げていた。これは正しく昨年まではあまり触れられなかったこのバーデンバーデンの祝祭劇場の稀有の音響を引き出していた。

つまり、そもそも昨年サイモン・ラトルが「パルシファル」を振るにあたって、その抜群の舞台との距離感と音響に触れ、またキリル・ペトレンコも満足したという言及があって急に注目された点で、我々聴衆側でも様々な席を試すうちに得られた結論と合致している。要するにそのピットからの響きの透明さと明白さ、同時に声とのバランスと混ざり合い、また前方で歌うときのその歌詞の明瞭性と後方からの響きの美しさは恐らく過去の劇場には無く、私の知る限りバーデンバーデンにしかない音響の素晴らしさで、まさしく世界のスーパーオパーを上演するにふさわしいメッカだ。

歌手陣は、恐らくフィルハーモニカーの抑えたものであっても劇場のそれに比べるとピッチの問題もあって高域の二人とも厳しかったが、ヨンチェヴァは昨年のミュンヘンでのハルテロスなどとは完全に一ランク上の歌唱だった。フルートのパウに合わせて歌うだけで金を取れる上演だった。スケルトンは予想通り中域でのそれがトリスタンにおけるのとは異なって表情が豊かだったが、その音楽性はカウフマンのその領域には到底及ばない。それでもカウフマンの声質について文句をつけるのだろうか?イアーゴもフィンリーに比較するまでもなく、それほど悪くはないが存在感が十分でなく芝居を作れていなかった。その他の脇役などはミュンヘンには人材があり、選ぶ余裕があり、少年少女合唱も全く質が異なった。(続く



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落ち着かない一日 2019-04-13 | 生活
やはりライヴに来て 2018-12-11 | 音
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落ち着かない一日

2019-04-13 | 生活
一日中仕事にならなかった。次から次へと最後の広報活動が繰り広げられて、そこに乗ってしまうと簡単にヴォランティア―の域を超えてしまった。更に13時30分からツアー中のクリーヴランドの管弦楽団生中継となると全く時間が無くなった。

広報の手伝いで何枚売れたかどうかは分からないが少なくとも来年以降の活動に影響を与えたと思う。それで本望である。前日のSWRによる総稽古報告内容を観ると、バーデンバーデンの復活祭が完全に今でとは異なる次元に入ったと確信した。なるほど昨年の「パルシファル」もある意味ミュンヘンそれよりも価値がある面もあったが所謂音楽劇場としての芸術的な意味は皆無だった。その責任は、決して演出にあるのではなく、素人劇場指揮者ラトルにあると確信した。

メータの指揮姿が一瞬映るだけで、これは違うと思った。何が違うかというと、ある意味散漫に見えても舞台の上から裏までに気が回っていると直ぐに感じた。恐らく経験というもので、それは無能なティーレマンのような指揮者にも備わっているもので、やはり埃だらけの劇場で長く勤めていないと身につかないものなのだろう。

故モルティエの遺書に書いてあるのは、指揮者が制作の最初から影響を受け、与えながらの過程が出来る人と出来ない人とが存在するということで、ツェッチマン支配人でさえその緊張関係に言及していたぐらいだから、まさしく劇場の舞台裏の人までを含んでの制作なのである。指揮者メータのどっしりと落ち着いた姿勢はそれだけでも存在感がある。ラトルが必死に練習して振っていても到底及ばない覇権である。総稽古ではアンサムブルが締まら無かったがどこまで初日に持ってくるか?タイトルロールを歌うスケルトンは少なくともトリスタンよりは声があっているようだ。よく出ている。

なによりも気が付いたのは、動かさない演技の中での身体の腰の入り方で、それによって緊張と緩和を表現する方法への言及で、正直今まで経験したジェシー・ノーマンの重量級のステップの左右への揺れでは殆どばかげて見えたものだった。しかしどうも予想通りドラマチュルクの指示がドラマを作っている。そもそもヴェルディの歌劇の本質は権力構造の表現であるから、嘗てヴェルニッケなどがトゲトゲの舞台で見せていたよりも、今回のウイルソンには拮抗する巨大な力があるように感じた。フィルハーモニカーが取り下げた写真には赤に血のように染まった幾何学的部分もあり、舞台も楽しみだ。

近場なので燃料もそれほど重視しないといけないことは無いが週明けにも二日続けていくので、少なくとも二往復分は給油しておいた。車ではプファルツからカールツルーヘへのラインの橋がこの二回の週末に閉鎖される。自分は通らなくとも南行の車が皆フランス経由で走るとなると渋滞も警戒しないといけない。買い物もあり、チィケットも取りに行かなければいけないので、14時前に出なければ間に合わない。

本来ならば北京からの二日目を録画するところだったが、コンサートマスターのドイツ人が、とってもMeTooで辞めた親仁の程度でないことを確認して、ここ暫くのこの楽団の低調ぶりを確認した。あれならばキュッヒルとそれほど変わらない。まさか世界の頂点があの程度では到底務まらない。来年の欧州公演までに新任が入らないと楽団の評価がガタ落ちになるだろう。メストもそろそろ辞めるつもりならば放っておくのかもしれないが、弦だけでなく全体が軋んできて仕舞っている。



参照:
ドライな方が上手く鳴る 2019-04-12 | 文化一般
ポートレートの色合い 2019-04-11 | マスメディア批評
声楽付き楽劇「トリスタン」 2016-03-22 | 音
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ドライな方が上手く鳴る

2019-04-12 | 文化一般
天気がよくなって、放射冷却並みになった。温度差が激しい。しかし乾いてくれると楽器もホールも良く鳴ってくれると思う。特に復活祭初日のズビン・メータの指揮はそれぐらいにドライな方が上手く行くと思う。その意味からはロバート・ウィルソンの演出も十分にドライである。昨年のミュンヘンでの細やかな演出と演奏も良かったが、冒頭のベルリナーフィルハーモニカーの鳴りとマス感にも期待したい。演出も彼のゼッフィレッリ演出のようには歌手もドミンゴではないのでいかないが、クールに進行して欲しいものだ。カルロス・クライバーの指揮はウェットで暑苦し過ぎた。今晩のGPの成果とその報告が楽しみだ。しかし週末には再び崩れて、週明けには強い日差しで摂氏20度へと上昇しそうである。月曜日のシェーンベルクとその翌日の第二回目公演へと続く。

バーデンバーデンのSWRのスタディオを訪れたベルリンのツェッチマン支配人が語っていたが、このシェーンベルクを出さずにチャイコフスキーの五番をハイライトとして挙げていた。恐らくベルリンでの二日目の演奏が上手く行っていたということであり、今回の二回のチャンスで少なくとも一回はそれらを完全に凌駕して欲しい。ここだけのものとして一年に一回の音楽劇場上演の演出と指揮者間の緊張関係やそうしたもろもろを超えての成功に大きな期待があることも語っていた。

彼女がなぜ簡単にオペラと言わなかったか?それは楽劇を意味したのだけではないと思う。もしかするともう一つ先のプロジェクトが進んでいるのかもしれない。勿論ベルリンでのコンツェルタンテ上演との差異を含んだ言葉かもしれないが、期待したいところだ。またフェスティヴァル特有のインターナショナルなコンタクトというものにも期待しているというのも耳についた。

もう一つ、実際にポストについて意外だったのは楽団との関係が建設的に進んでいるということで、これは以前のインタヴューでは楽団の難しさに配慮していたことからすると、上手く行っているという証拠だろう。百パーセントのキリル・ペトレンコへの支持があって、何もかもが上手く推移しているというのが実際だろうか。

カーネギーホールの前でソルドアウトのプラカードの前にデュオのユジャワンとカプサンが一緒に写った写真が出ていた。来年バーデンバーデンで席を確保した同じプログラムの始まりでもあるのでそれを自身の呟きに張り付けておいた。カプサン弟からいいねが入っていた。初の兄弟揃ってのフォローであり、二人ともマメな人だと分かった。一度放送で出来具合を聴いてみたい。

郵便桶に分厚い250ページものチューッリッヒのオペラの年間プログラムが入っていた。ネットで見ていたので関心は無かったが、念のためにもう一度ざっとページを捲った。今年のように捨てたリゲティの作品などもなく音楽監督ルイージは下らないものしか振らない。そのキャスティングなどを見ても現シーズンよりも悪い。昔は金があってオールスターのような印象があったが、その価格を見れば分かるように、ミュンヘンの方が遥かの高価になって実際に比較できないほどのオールスターキャストになっている。次期の指揮者ノセダも先日ネット配信を見たがあまり信用できないタイプだった。

同時に待っていたトンハーレのプログラム発表もワインフェストの時に一晩ぐらいで、今期よりも大分悪い。何よりも監督ヤルヴィのチャイコフスキープログラムにはあきれる。本当に六曲を一気にやる価値などは無くて恐らく録音絡みだろう。それも売れるようなものではないだろうから、評価がよくなければ意外に早く退任になるかもしれない。「フィデリオ」演奏も迷惑だ。11月にフォン・ドナーニがシューベルトを振るが、嘗てジュリーニが振ったのをバーデンバーデンに聞きに行った時からすれば遥かに遠いので動機付けが必要になる。ヤルヴィが盛んに振るために今期のように刺激的で多彩なプログラムが一挙に萎んでしまった。



参照:
ポートレートの色合い 2019-04-11 | マスメディア批評
出来上がりを予見する 2019-04-10 | 料理
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ポートレートの色合い

2019-04-11 | マスメディア批評
2019年バーデンバーデン復活祭からの中継が発表された。今年は無いかと思ったが、直前に決まったようだ。ベルリンでは演奏されない二つのエクスクルシーヴなプログラムから一つはランランの協奏曲だが、もう一つのリカルド・ムーティ指揮ヴェルディのレクイエムの二回目の演奏が時差中継される。SWR2のラディオ放送である。所謂聖土曜日の演奏会である。私も最初のコンサートでなくこの日に行く。本当なら二回の演奏会を聞き比べるのも悪くはないが、マイクが入るとなると一般的に演奏水準が上がる。独唱歌手四人の歌も楽しみになった。

これだけでも意気があがる。そこにペトレンコが現れるか?そして翌日復活祭日曜日には、恐らくペトレンコ初のポートレート番組が15時から同じ放送局で流される。話しをするのは、フランクフルターアルゲマイネ新聞で書いていたユリア・スピノラ女史である。日本ではブロムシュテット自伝のインタヴューアーとして有名になった人である。嘗てから彼女の書いたものはとても評価していたので、今回の放送も楽しみである。当日は18時からのコンサートである。彼女はベルリン在住の筈だから今後も追跡が続くのだろう。何を語るのか楽しみだ。

同時に新制作「オテロ」のロバート・ウィルソンの演出の写真が出だした。青い色合いとか光の使い方とかいつも同じだ。記憶にあるのはバルトークの「青髭」で何処が違うのか分からない。その前にドラマテュルクのコンラート・クーンがインタヴューを受けていた。それによると、そもそも凝縮した色合いの音楽から解体されていく過程と色合いが合わせられているようで邪魔にならない舞台というが大丈夫だろうか。ベルリンでの稽古から聴いていて、メータの微に入り細に入り各セクションを浮かび上がらせるのと同時に全体を平均させて音色を作る手腕と、そのヴェルディの管弦楽の交響楽的な響きがフィルハーモニカーから聞かれるようだ。

そして嬉しいことに、このクーン氏は現在フランクフルトに常駐していて、クラウス・グートと一緒に仕事をしている。そのもの昨年評判がよく出かけた「メリーウィドー」と今年同じようにワイン祭りの時に出かける「リデリンデ」も手掛けている。これはとても期待したい。ウイルソンはそのコンセプトがどうであろうと、その劇性に感心したことが無い。この人がいい仕事をしてくれることに期待したいのだ。




参照:
管弦楽演奏のエッセンス 2016-09-14 | 音
少年少女合唱団を推薦 2018-12-25 | 暦
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出来上がりを予見する

2019-04-10 | 料理
卵茹で器を使う。実験段階で、半熟の次に普通の茹で方を試す。水の量が倍ほどになったの時間も掛かった。いつものように鈴虫のような音が鳴る。翌日は半熟と普通の半分ぐらいの水で試してみた。中々いい茹で上がりだ。どうも今度のは卵の新鮮さや茹で上がりの時間と燃料消費なども考えながらノウハウを積み重ねてといった使い方になるようだ。通常の料理の按配である。

まだソーセージ類も温めておらず、ポーチドエッグもやっていないので、また破裂することもなかったので汚れ具合などはまだ分からない。引き続き試行錯誤である。使い勝手は悪くはなさそうである。

復活祭が近づいて、土曜日からバーデンバーデンへと五日間出かける。最初の週末は買い物を途中のフランスで済ましたい。価格は高くとも新鮮な野菜やらまた地中海と北海からの海の幸やチーズ、そしてワインなどを買い込む。その計画もお勉強とともに進めて行きたいが、あまりにも時間に追われていて儘ならない。

ベットの横においてある電話機が故障した。こちらの声が先方に聞こえないようだ。どうしたのかと思って持ち上げると中でコロコロと音がしていた。トランスが基盤から剥がれて飛び回っているのだ。一度修理した記憶があるが思い出せなかった。開けてみて合点がいった。半田付けのための足が短くなっていて、難しい半田付けをしたので剥がれてしまったのである。その間に購入した評判のいい半田小手を使った。中々難しかったが、何とか直った。

アナログのクラシックな電話機ぐらい買えばよいのだが、人が要らないようなものを拾って来たようなものでも使っていて不自由が無ければ、簡単に直せるようなものならば捨てられない。購入しようと思えばディスプレー付きとかアナログで中途半端なものを探すことになる。デジタルのISDN電話ほど機能がよくないからである。あまり投資したいと思わせない。

いよいよバーデンバーデンの「オテロ」のGPが近づいてきている。それにしても指揮者三人が並ぶ写真は壮観で、偶然の賜物でしかない。まさかのズビン・メータ指揮であり、通常ならばそのスケデュールを取ってということにはならなかった筈だ。ムーティに断られてからでも押さえることも難しかったであろう。一つの目の偶然のガッティの事件に二つ目のメータの疾病と復帰という偶然が重なった。

指揮者のギャラでいえば現在のトップ二人で間違いなく、普通ならば呼べなかった。今後ともなかなかないと思う。番付けで言えば、理事長と副理事長に力士筆頭の揃い踏みである。来年それを見れば分かるように、今後両横綱というのはありえても、こういうのはもうないだろう。

ガッティのお蔭で急に今回の復活祭が活況ついた。ARTEなども来年からのことを考えていて、また地元のSWRはシュトッツガルトの意向でカラヤン二世の方に予算が回るので動けなくなる。メディア的には谷になるかもしれないが、放ってはおけないほどの活況を呈するかもしれない。初日は席移動が難しい入り具合になってきた。当日券でほぼ満席になるだろう。

あとはメータがいい指揮をするかどうかで週明けの雰囲気が変わってくると思う。月曜日の二日目の練習風景の写真を見るとインタヴューをしていたベネディクスベルグレーがコンサートマスターをしている。そしてペトレンコ指揮はスタブラーヴァだから、ムーティ指揮に樫本となるのだろう。これだけで大分想像がつくようになる。



参照:
茹で過ぎにならない実力 2019-04-07 | 料理
不整脈辞退を受けて 2018-12-08 | 文化一般
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ティーレマンも恐らく失う

2019-04-09 | 文化一般
先日東京の「春祭」から戻ってきたヘイト親仁が何かを書いている。ザルツブルクからで、どうも取り巻く環境が落ち着かないらしい。ティーレマン支持者としては直にインタヴューしていないでも先週の言動から自らも「コブラ返し状態」に取り付かれているようだ。

先ずはティーレマンの発言を引用して自らのクレドを忘れない。「時にはプロイセンらしく、堅持に教育されていて、理想を求め、硬直しない限りにおいての規律をよしとするものである」。結構、そしてこの親仁は未だに未練がましく呟く、ティーレマンが土曜日に初日を迎える「マイスタージンガー」をやるにはやはりプロイセンのフィルハーモニカーだったら、ハンスザックスの言うように「君らには楽だが、僕には厳しいのだよ」と、本当は些か生意気な連中の鼻先にあてていきたいところだったとしている。

私の真似をして楽劇から言葉を抜き出すしているのは良いのだが、「ハンスザックス」と皆から祝福を受けた後の歌いだしの言葉で一体何が言いたいか?どうもティーレマンの権威で奴らを捻じ伏せることで、素晴らしい「マイスタージンガー」が叶ったということらしい。それはそのように思っていても自由なのだが、この親仁の卑怯さはいたるところに表れる。

つまり私が既に纏めたような客観的状況を書き記して、要するにティーレマンは「糞まみれの糞」と罵っていても、情勢が変わることを信じているらしいがと、彼自体がザルツブルクの人たちが得意な陰謀の罠に落ちていて、清浄出来るのだろうかと、また同時に三者の言及として特に魅力の無いバーデンバーデンから高いフィルハーモニカーを取り戻す心算なのだろうかと如何にも客観的な立場にいるかのように書き綴るところである。少なくとも両音楽祭の関係者からするとあまりプレス席を提供したくないような御仁である。

なるほど、「仕舞いにザルツブルクは、高価なフィルハーモニカーも連れ戻せず、ティーレマンも恐らく失うことになる。」とまるでザルツブルクを脅すような書き方をしている。まさしく親仁が一派として書ける最大級の支援の心算だろう。まさしく、上のプロシアへの言及といい、この脅迫紛いの客観的指示といい、支持者がこれで支持されるのがあれだ。要するにバカの一派である。

ローマの第九に対してもう一つ踏み込んだ評が出ている。それによるとペトレンコが戻ってきたのは2013年の「ラインの黄金」以来らしいが、その特徴を「細部に拘りながらも全体像を失わない」と綺麗に纏めつつ、その繊細なペトレンコは、このEUの歌にもなる歴史的な価値のある作品を、決して腰掛にゆったりと座ったり寝そべるようなことを聴衆には許さず、また複雑で身を乗り出す聴衆にも場所を与えず、ふにゃふにゃすることもなく、受け身の態度をも許さず、明確な指示とその強靭なその推進力において、また早いテムポにおいて、ダイナミックスのアクセントに、現代的な譜読みによって一つ一つの音符へと惹きつけるその能力でと皆を駆り立てたとする ― イタリア語の自動独訳なので抄訳からの意訳は試みていない。

「喜びの歌」では、合唱と独唱者が歌う総合的な音の建造物の終わりには、魔法から解き放たれたように、イタリアでは珍しく十分に及ぶスタンディングオヴェーションがなされた大成功が伝えられている。同時にサンタツェチェチーリアのサイトにはその様子を伝えるヴィデオが提供されている。興味深いのは指揮者が一身にブラヴォーを受けていて、私たちが思うような声への反応はあまり独唱者に浴びせられていない。ドイツ語の歌は胸騒ぐものでもないと思われる。三日とも初日を除くと殆ど満席に近かったようで、価格も手頃だがローマでは大成功ではなかったのだろうか。

ベルリンのフィルハーモニカーがメータ指揮で日曜日から「オテロ」の舞台練習を始めた。少なくとも復活祭シリーズとなってから初めての本格的なオペラ指揮者が登場することになる。上のティーレマンは、「ザルツブルクの大劇場ではアシスタントを欠かせないほど、バイロイトに次いで、奈落で演奏するのは難しい」としていたが、オペラ指揮者でもあるメータ氏の感想も聞きたいところだ。恐らくかなり興味を持って仕事をしていると想像する。聴衆側もラトル指揮では全くオペラ通には物足り無く、雰囲気が出なかったが、メータ指揮の楽劇ということで、今までとはまた違う会場の雰囲気が出ると来年へと弾みがつくと思う。先ずは初日だ。



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不整脈辞退を受けて 2018-12-08 | 文化一般
還暦おめでとうの誘い 2019-04-02 | マスメディア批評
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