ベルリンでは尹伊桑の生誕百年記念の演奏会が開かれているようだ ― 最後に作曲家の顔を見たのはその死の二年ほど前だったので百周年と聞いて本当に驚いている。春にバーデンバーデンで会った、平壌にも招聘されたスイス人が「南鮮が積極的ではないので、尹の家構想が暗礁に乗りあがっている。」と話していた。なるほどそうかなとも思ったのだが、新聞はこの作曲家は韓国では充分に評価されておらず、寧ろ北鮮で重要なのだという。それでもその無調の音楽などは、そのスイス人が語るように、到底北では棒にも箸にも引っかからないものでしかない。
その作品にも描かれているような拉致と拷問と死刑判決の朴政権の歴史の後代への流れが、今回の娘の大横領失脚逮捕で明らかになった。1995年に亡くなった作曲家が再び先政権のブラックリストに載っていたと日本語のサイトに書いてあった。
そしてあの娘は安倍何某と同じで所謂朝鮮文化風の怨念というのを政治姿勢にしていたのだと思うと馬鹿らしい。まさしく尹を語ることはその暗殺された父親朴正煕の悪行を永遠に歴史に留めるもので、娘としては世界の歴史に朴家が汚名を刻むことになると考えたのだろうか。要するに安倍政権も前朴政権も儒教的世界観で同じ文化圏の日朝とてもよく似ていたことになる ― 当時のセマウル号の車窓は原風景のように感じたものだ。
明仁天皇の高句麗神社訪問ではないが、もし何か役に立つなら平壌に飛んでも良いと思うようになった。1970年代にソウルのインスボンの岩壁を登りに行った時も朴政権で逮捕されて帰って来れないかというような注意を受けた訳だから、時は少し異なっても朝鮮半島自体はそれほど変わらない。そして日本政府は金大中事件の時も何一つしなかった。今はもっと東京の外務省は悪質化している。だからもし不慮の事態で人質になったならメルケル政権が救ってくれると期待してのことである。
そのメルケル政権も次期は薄氷の上を歩くような連邦共和国始まって以来の三党連立が余儀なくされるようである。今回の選挙は今までになく多くの有権者が期日前投票をしているという。そして二大国民政党は大きく票を減らすといわれている。先日の車中のラディオは、選挙に行かない層が増えていて、丁度日本の無党派層のようになって来ているようである。二千万人ほどの人が浮動票で、それを五つのグループに別けていた。一番興味深いのは、政治に特別に関心があるばかりに現在の世界情勢や大きな問題に直面して政治課題としている政党は無いという層で、先日来AfDに攻撃を掛けているピアニストのイゴール・レヴィットの話などはこれに相当するかもしれない。
勿論そうした致し方が無い現実社会での政治を補う面も芸術文化にはあることは誰も否定出来ないだろう。例えば今回の日本公演での「タンホイザー」の作曲家リヒャルト・ヴァークナーは革命家として国外に亡命しており、その創作の真意を探れば探るほどその劇場作品やそれが上演される劇場の社会的な意味が明白になって来る筈だ。その一方、「ヴァルキューレ」の一幕を称して「私の栄養分」としてエンターティメントとしての興業性を見込んだことも事実である。まさしくこの一幕だけの上演をして作曲家の意志に反しているとするキリル・ペトレンコの言及は正しい。
それに比べるまでも無く「タンホイザーの上演を通して皆に明らかになった」というものは何かと考える。それは何も演出だけの成果ではなく、それを通しての音楽的な精査であったりする訳なのだが、やはりどうしても今回も誰かが上手く表現していたような三幕の「おくりびと」の風景が気になって来る。そしてその伝え方や劇場空間の構成の仕方で、カステルッチ演出がモダーンであるというのが漸く分かるようになってくる。つまり月並みな意匠を並び繋げただけに思えたのだが、今回の新制作にしてもミュンヘンでの反応を含めての劇場空間なのだと認識した ― そこになんらかの道を探るとしても良いのかもしれない。音楽劇場分野ではピーター・セラーズなどの劇場の壁を超える劇場が最も今日的とも思っていたが、流石に年齢も若く欧州の劇場人だけあって、― 芝居はオペラなどとは違って遥かに興味があるのだが ―、こうした出し方は芝居としても経験したことが無い劇場空間だった。
東京での三幕上演をして、キリスト的なものを感じたとの感想もあって興味深かったが、まさしくこの演出の核心は、二幕での並行上演されている「魔笛」のト書きの日本風の狩りの意匠などよりも、「一神教における非宗教」であるという宗教性だろう。ヴィーンの役者であり演劇人であるバッハラー支配人と新音楽監督が協調して進めて来たここまでの新制作の数々は一貫してそこに重点があることが分かって来る。そうしたものがミュンヘン的に思えるのは、ラッツィンガー教授法王時代に恐らくもっともカトリックからの離教をみたのは保守的なカトリックのバイエルン州でありミュンヒェンであったと思う。つまり三十年程前にはキリスト教社会同盟が圧倒的な支持を集めて、市民は、そうした世界観をよりどころとしていた時代とは打って変わって、先に述べたようにそうした政党において、なんら現在の世界をより良い方へと進める具体的な政策を出すと期待させるような理念と世界観の一致を見いだせないということになるのである。ドイツにおけるキリスト教離れはここニ十年ほどでも甚だしい。AfDが主張するような反イスラムへの支持も実は自己の世界観への懐疑でしかない。
それ故に、そうした視座を示唆しているカステルッチ演出「タンホイザー」の日本での反響が気になるとして記者を出しているのは南ドイツ新聞で、昨年東京での「ブルックナーツィクルス」におばさんを派遣したフランクフルターアルゲマイネよりも意味がある活動だろう。なるほどその読者層は、明らかに教養的に落ちていて、精々職業訓練のための高等教育を受けた新興アカデミカーぐらいでしかないので、南ドイツ新聞はその文章も内容も日本の朝日新聞ぐらいに程度が低いのだが、もしこの点に関して深く言及しているようであれば期間限定でお試しをしてみようかとも思っている。
繰り返すがカステルッチ演出のこうした世界観への懐疑とそれを俎上に載せる行いこそが19世紀のリヒャルト・ヴァークナーの創作の核にもあって、その革命性が「近代演劇の始まり」とする考え方は正しい。シュリンゲンジーフ演出「パルシファル」との相似点などの指摘があったので驚いたが、漸くこれでその意味をも理解した。音楽的に解決されるべきこともそこにあった訳で、この点も音楽監督キリル・ペトレンコが指摘している意味で、ミュンヘンの初日シリーズでは歌手たちがこの演出へのレクチュア―をみっちりと受けていたことも窺える。キリル・ペトレンコが行う新制作の演出がいつも駄目だという意見があるが、そのようには思わないのはこうした理由からであり、それどころか演奏会形式での上演とかの話しは大間違いであるのは、この「タンホイザー」の本質と成果を見れば当然過ぎる帰結である。
余談ながら、「指輪」上演にはふた付きとふた無しの二通りがあるとするキリル・ペトレンコの見解は、その劇場的な解決の方法であって、演出とか演奏会形式とかとは全く別の次元の議論であり、なによりもその音響の話しでしかないのはいうまでもないことだろう。
参照:
「尹伊桑(ユン・イサン)」は、なぜ韓国政府の「ブラックリスト」に載っているのか、金成玟 (HUFF POST)
ロメオ演出への文化的反照 2017-09-23 | 文化一般
ホタテの道の金の石塁 2017-08-21 | 文化一般