Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2017年9月

2017-09-30 | Weblog-Index


「子供の不思議な角笛」曲集 2017-09-30 | 音
夕暮れの私のラインへの旅 2017-09-29 | 試飲百景
ベルリンから見た日本公演 2017-09-28 | マスメディア批評
身震いするほどの武者震い 2017-09-27 | 音
徹頭徹尾はっきり正確に… 2017-09-26 | マスメディア批評 TB0,COM4
ブラックリストの芸術家たち 2017-09-25 | 文化一般
なにかちぐはぐな印象 2017-09-24 | 雑感
ロメオ演出への文化的反照 2017-09-23 | 文化一般
キットカットにリカヴァリー 2017-09-22 | テクニック
ペトレンコ記者会見の真意 2017-09-21 | 雑感
上野での本番などの様子 2017-09-20 | 文化一般
文化会館でのリハーサル風景 2017-09-19 | マスメディア批評
指揮台からの3Dの光景 2017-09-18 | 音
「全力を注ぐ所存です。」 2017-09-17 | 文化一般 TB0,COM2
少し早めの衣替えの季節 2017-09-16 | 暦
Nach Tokio! Nach Rom! 2017-09-15 | 音
ハイナー・ガイスラーの訃報 2017-09-14 | 雑感
「ファースト」とは少数派のもの 2017-09-13 | 雑感
謝謝指揮大師佩特連科! 2017-09-12 | 文化一般
土曜日から日曜日のハイ 2017-09-11 | 雑感
台北での第七交響曲練習風景 2017-09-10 | 音
文化の中心と辺境の衝突 2017-09-09 | 文化一般 TB0,COM4
Digitalisierung ändert Alles!? 2017-09-08 | BLOG研究 TB0,COM2
外から見計らう市場 2017-09-07 | 雑感
黒い森の女への期待 2017-09-06 | 女
楽しい2016年産「アルテレーベン」 2017-09-05 | ワイン
定まるテムポの形式感 2017-09-04 | 音
残り一本の2014年「雑食砂岩」 2017-09-03 | ワイン
死亡事故20年で解消した疑問 2017-09-02 | 雑感TB0,COM2
手作業での車の塗装 2017-09-01 | 生活
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「子供の不思議な角笛」曲集

2017-09-30 | 
「子供の不思議な角笛」のお勉強を始めた。総譜は手元にあったので、曲集の曲順などが気になった。この日曜日にNHKホールで演奏されて放送されるキリル・ペトレンコ指揮の演奏ではバリトンだけの歌であるが、どのような選曲、曲順になるのか?

先ずは手元にあるフィルハーモニア版では、以下のようになる。

1.1 Der Schildwache Nachtlied 番兵の夜の歌 
1.2 Verlorene Mühe 無駄な骨折り デュエット
1.3 Trost im Unglück 不幸な時の慰め
1.4 Wer hat dies Liedlein erdacht この歌を作ったのは?
1.5 Das irdische Leben この世の営み
1.6 Revelge 死んだ鼓手

2.1 Des Antonias von Padua Fischpredigt 魚に説教するパドバのアントニオ
2.2 Rheinlegendchen ラインの伝説
2.3 Lied von Verfolgten im Turm 塔の中の囚人の歌 デュエット
2.4 Wo die schönen Trompeten blasen トラムペットが美しく鳴り響くところ
2.5 Lob des hohen Verstandes 高き知性への賛歌 
2.6 Der Tamboursg‘sell 少年鼓手

バリトンのマティアス・ゲルネは、ルツェルンではここから七曲、つまり2.2・2.4・1.5・Urlicht・2.1・1.6・2.6の順で歌っているようだ。Urlichtは交響曲2番に使われたので曲集からは除かれている。そしてブラームス交響曲4番の前にこの「不思議の角笛」が演奏される10月のアカデミーコンツェルトの資料を見ると以下のようになっている。

Gustav Mahler 
Lieder aus Des Knaben Wunderhorn 
2.2 „Rheinlegendchen“
2.4 „Wo die schönen Trompeten blasen“
1.5 „Das irdische Leben“
„Urlicht“
1.2 „Verlorne Müh’!“
1.6 „Revelge“
2.6 „Der Tamboursg’sell“

つまり、「魚に説教するパドバのアントニオ」の代わりに「無駄な骨折り」が入っている。どのように違ってくるのか、どのように決定したかは分からないが、東京でもこの順で演奏されるのだろう。勿論プログラムは最後の最後まで変更があるのかどうか分からない。 一曲一曲曲集全体の中で見ていかないといけないかもしれない。(続く)
Gustav Mahler | Urlicht, from "Des Knaben Wunderhorn" (Matthias Goerne)


参照:
言葉の意味と響きの束縛 2006-04-15 | 音
ベッティーナ-七人の子供の母 2005-03-16 | 女
お宝は流れ流れて 2005-03-15 | 文学・思想
ドイツ鯉に説教すると 2005-03-14 | 文学・思想
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夕暮れの私のラインへの旅

2017-09-29 | 試飲百景
週末はラインガウへと車を走らせた。例年のようにロベルト・ヴァイル醸造所の試飲会に向かった。夕方から出かけて結構アルコールが入った。それでも2016年のラインガウを見通せた。今年はザールリースリングなど中々高品質なリースリングも試飲して、ラインガウでも二件の試飲をして、ナーヘでは失望しながらも、ある程度の期待があった年度だった。そこでグローセスゲヴェックスの「グレーフェンベルク」も予約してあったので是非試飲する必要があった。

先ずは、ベーシックなグーツヴァインを飲む。それほど悪くはなかったが、やや薄っぺらい感じがするのは致し方ない。次にオルツリースリング「キードリッヒ」である。これはふにゃふにゃで甘い感じがした。実際に辛口リースリングの中で最も残糖値が高く8.8Gほどだった。そこからエルステラーゲ「クロスターベルク」を試すと驚いたことに尖がっていた。酸は皆あまり変わらない様だがリースリングらしく角があるのだ。通常はこの重めの地所はだるいリースリングしかできないのだが、2016年産は面白い。恐らく「キードリッヒ」と同じく石灰成分が多いので例年は丸いのだが、今回に限っては尖がっているのだ。それならば反対側の斜面の上部にある昨年購入した「テュルムベルク」に期待が集まる。それがなぜか駄目だった。要するに甘いのだ。この醸造所のワインは、プファルツのビュルクリン・ヴォルフ醸造所のリースリングのように糖を残すことで長持ちを考えているようだ。勿論一本25ユーロもするようなワインは急いで飲むべきものであるべきではない。

やはりそのような年度でも「グレーフェンベルク」は最も辛口に整えられていて切れが良い。それでも2015年のように分厚くないので適当な時期に開けて楽しめるだろう。2015年産は「テュルムベルク」の酸が丸くなるまでゆっくり待とうと思ったが、2016年産は適当に開ければよい。勿論そこまで良くないものは早く飲み干さない締りが悪くなると思う。

それでもグーツリースリングは、藁の様な中に出てくるのはファンタオレンジ・レモンの味だ。そこに海の香りの様なものもあって、ミネラルには石灰っぽいドロッとした感じもある。若干のアーモンドもあって、グーツリースリングとしてはまあまあ複雑だろう。13ユーロであるから、レープホルツ醸造所の「オェコノミラート」よりも高価となると当然かもしれない。

結局自分用には、高価な「クロスターベルク」とグーツリースリングで価格を相殺して、予約していた「グーレーフェンベルク」と合わせた。また人のためにも「クロスターベルク」中心となった。2015年産は「グレーフェンベルク」を購入しなかったが、今年は自分用には甘い「キードリッヒ」を断念した。やはり辛口のリースリングは、幾ら酸が丸いと言っても、スッキリ感が無いと駄目だ。

クリーヴランドの交響楽団が今年もやって来る。前回も評判は大変良かったようだがプログラムに興味がなかった。毎年のように行われる欧州ツアーの今年は、場所は限られるが、三種類のプログラムはそれほど悪くはない。一つのマーラーの交響曲はエルプフィルハーモニーで15ユーロの券を申し込んだが抽選で落ちた。もう一つは春の祭典と大フーガなどだ。そして一番近いところのルクセムブルクでは、ヴィーンでも行われる「利口な女狐の物語」の演奏会形式である。そもそも下手な歌芝居などは聞いていられないので、このオペラも体験したことが無い。そしてなんといってもこれだけ優秀な交響楽団の演奏ならばと期待が高まる。指揮のメストもフランクフルトの会でロ短調ミサを振った時も決して悪くはなかった。そしてクリーヴランドでの仕事はとても評価が高い。ヴィーンなどでは到底出来ない音楽をしているのだと想像している。またお勉強するものが増えた。先ずはヴォーカル譜だけでも落としておいた。まだ「魔法の不思議な角笛」がお勉強できていないのでどうしよう。
The Making of The Cunning Little Vixen: Production Diary #1

The Making of The Cunning Little Vixen: Production Diary #2

Behind The Opera: The Cunning Little Vixen

The Making of The Cunning Little Vixen: Production Diary #3



参照:
12本選択するとすれば 2016-09-26 | 試飲百景
時間の無駄にならないように 2017-05-09 | 文化一般
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ベルリンから見た日本公演

2017-09-28 | マスメディア批評
ベルリンからまた別の視点でミュンヘンの劇場の日本公演をベルリナーモルゲンポストが報じている。最も異なる視点は、キリル・ペトレンコに逸早くベルリンへと来て欲しいという願っている立場からである。一寸嫉妬のようなものさえ感じさせる日本公演のようだ。

ホルン奏者で楽団役員もしているクリスティエン・ロフェラーにインタヴューしている。45歳の音楽監督は初日の打ち上げや飲み会など少しだけ座して本当に直ぐに居なくなるので、次の公演のことに気が付いてしまうというのだ。そして毎朝ピアノに向かって、終わり無き勉強をしているというのだ。これだと思う重要なことは直ぐに手をつけて、改善してしまうという。そのような集中した仕事ぶりから管弦楽団としても市場で高い評価をものにして、「遅くともペトレンコがベルリンの後継者に推挙されたことで、幾らかは注目度が高まったが、コンサートの管弦楽団としての評価は我々はまだまだと思っている」と付け加える。

今回の日本デビュー演奏会のリハーサル風景を伝える。管弦楽団が静まったところに、その体操選手の様な体つきで、首にタオルを掛けペットボトルを携えてニコニコと入って来ると、まるでヨガの先生のようで、「こんにちは」と軽く会釈すると、楽団からくすっと笑いが漏れたとある。

先ず最初のトラムペットの休止からして細心の注意で稽古が始まり、「明確に」と綿密になされたフレージングに対し管楽器に、「ピアニッシモそして歌って」とまるで何も練習していなかったかのように求める。四回も既に本番で演奏しているにも拘わらずにである。それを三回繰り返すと、死にそうな朽ちそうな音が出て、またアダージェットでは何よりもダイナミックを注意深く指示したとある。

また「タンホイザー」のリハーサルでは、ロメオ・カステルッチの演出の一幕二場の舞台への繊細極まりない照明のお陰で、ヴィーナス役のパンクラトヴァが指揮者が見えないといなり、技術屋さんによって解決されなくてはならなかったが、バッハラー支配人は「ペトレンコは、楽譜や彼の頭にあることは最後までやり遂げないと承知しないが、一方で現実的な劇場というものをよく知っている。」とその妥協の出来る人柄を休憩時に語ったという。

その妥協性というのは、ベルリンで指名されてからの2021年までの契約延長への決断に表れており、「彼は、只仕事のモラルだけでなく、エトスというものをもっており、ミュンヘンに関しては私との間でも、またベルリンとの間でも、どちらにも良かれと思って決断しようとする」とバッハラー氏は繋ぐ。

2019年以降の彼の計画の判断が下されたことで、更にペトレンコへの評価が高まったとあり、先のロフェラー氏は言う、「基本的に他の指揮者なら言うよね。ベルリンが呼ぶから、逸早く行くよって。そもそも彼のことは信じられないぐらいみんな評価していたけど、彼が信義を重んじるというのを特別に評価してるよ」。

こうして社交の場でもある「タンホイザー」初日の幕が開き、序曲では美的な構造が、弦楽器の透明な音がその重量感を失うことなく響き、管楽器は精密にそれでも輝いて、ペトレンコの両手は宙に優しく浮かんだという。ヴィーナスの場面では、パントラコヴァのレガートと管弦楽のエレガンスに殆んど夢想するだけしかなかったと、リサイタルで繰り返された最初の男声合唱も同質化してリズム的に揃っていたとある。終演後に歌手や彼に喝采が集まると職人のように、その仕事ぶりで伝統を引き継いだとしている。

それにしても、このようなまるで藤山寛美の芝居の様なウェットな内容の文章がベルリンの立派な有力新聞に、それも最高品質の芸術のなされる最高のキャリアに係るところで綴られる、そのことを殆んど奇跡のように思う。



参照:
Üben, üben, üben - Mit Kirill Petrenko auf Tour, Rebecca Schmid, Berliner Morgenpost vom 27.09.2017
身震いするほどの武者震い 2017-09-27 | 音
「全力を注ぐ所存です。」 2017-09-17 | 文化一般
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身震いするほどの武者震い

2017-09-27 | 
キリル・ペトレンコの管弦楽団への言葉を知って身震いした。彼が自兵の管弦楽団に「はっきりと正確に」と言うとは、そこまで来たかという思いだ ― 楽団員は武者震いしたのではなかろうか。音楽監督が、ホールの音響故にとは言いながら、ある意味究極の目標を示したことになる。如何に管弦楽団が曲を弾きこんでるかということだ。

そして弱音への表現の幅の拡大は、とても座付き管弦楽団の仕事の領域ではなく、それでも芯のある通る音を発するというのは器楽奏者にとっても声楽家にとってもとても高度な課題である。交響楽団においてもそれに近い弱音の表現はラトル指揮ベルリンのフィルハーモニカ―によるベルリオーズ演奏とかシカゴ交響楽団のもしかすると若干異なるがパリ管の演奏会などでしか経験したことが無い。オペラではベーム指揮のヴィーナーフィルハーモニカ―ぐらいだろう。

我々凡人が考える二歩も三歩も先を見据えているのが天才である。テノールのカウフマンは、「キリルは難しいことでもちょいちょいと簡単にやり遂げてしまう」と言い、バリトンのコッホには「この世界で生きていて本当の天才と思ったのは彼しかいない」と言わせるように、日本の聴衆は今回そのなせる業を目(耳)の当たりにしたことになる。オペラにおける弱音への試みは驚愕そのものである。想像するにいつか彼は、「日本デビュー公演はとても大きな成果があった。管弦楽団にとってのみならずコンサート指揮者としての表現の幅を広げるために、そして日本の聴衆の集中した聴態度には大きな示唆を受けた。」と語るのではないか。要するにコンサート指揮者としての管弦楽表現の大きな可能性を試したということになるのだろうか。
Tour of Asia 2017 – Video diary #4: TANNHÄUSER in Tokyo


勿論今までも昨年のオペラ「南極」世界初演での繊細極まる管弦楽などは大きな効果を上げていたが、通常の奏法でそうした弱音の効果はオペラの特に奈落の中では更に難しい。なるほど新聞が書くように歌手が管弦楽に合わせて音量を落とすなどは前代未聞だ ― ブレーキを掛けるのはアリアであまりに力み過ぎる歌手を抑える位でそれとこれはまた違うだろう。

なるほどミュンヘンでの蓋の無い「指輪」上演で最も問題になったのはあまりに管弦楽が生に聞こえる事だったが、2015年の「神々の黄昏」再演ではダイナミックの頂点を「ジークフリートの葬送」に持ってきてとんでもない効果を出していた ― ティムパニーの叩きもあるがその音の充実度は、彼のフルトヴェングラー指揮で天井が抜けそうとされたようなもので、ショルティー指揮のシカゴ響などの軽い金属質のそれとは比べ難い凄みがある密度の高い深い響きだった。そして今回弱音の方にスカラーが広がったとなると、ペトレンコ指揮のバーデンバーデン上演までの最後の「指輪」も棄てることなしに出来る限り聴きに行こうと思った。南ドイツ新聞には、次の日本公演に関する会議が持たれるとあったが、新たな支配人の下でのこととなるので具体的な話しにならないだろうということだった ― アントニオ・パパーノが次期音楽監督とされている。

「タンホイザー」二幕において合唱がずれたと話題になっていたが、一幕や三幕とは違って歌合戦前は正対しての音楽的に緩い部分での合唱であり指示が明確に出されているので事故の起こりようがない、アインザッツの問題も重唱になる部分は、ソリスツとのアンサムブルで作品の要となるので、最も更っていて最大の注意が働いている筈だ。ここが決まらなければ台無しである。それもあり得ないと思うので不思議で堪らない。コーダ前での一小節でのアッチェランドどころの話ではない。するとエリザベートの歌の直前の掛け合いとなる。

そうした興奮冷めやらぬ思いで買い物前にボールダーに寄った。久しぶりに天気が良くて乾いていた。最近は腹具合も悪く腹の膨らみが気になるので全然ダメかなと思ったが、簡単なところながら全然悪くはなかった。寧ろパワーを感じたので乾燥度と気候が幸いしているのかと思った。その後の疲れもあまりなかったので、なかなか体重をベストに持っていくのは難しいなとも思った。



参照:
徹頭徹尾はっきり正確に演奏… 2017-09-26 | マスメディア批評
圧倒的なフィナーレの合唱 2017-06-05 | 音
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徹頭徹尾はっきり正確に…

2017-09-26 | マスメディア批評
南ドイツ新聞ネットの無料お試し2週間を始めた。ドイツの完全ぺーパーレスの試みとしては先駆的なようだ。正直新聞の内容には期待していない。文化欄となると更に興味がない。左派なら更に左のTAZなどの方が興味がある。マルキズムの顔が出してくるから文化批評も鋭くなる。その点では付け焼き場の様な教養に問うような文章では致し方が無い。

ワクワクして有料のページを開けると ― まるで雑誌の袋とじのようだ、案の定、文化批評文明批評までは到底及ばないが、身丈のあったジャーナリズムがそこにあって、まるで朝日新聞のようでシニックな見方が少し引っかかる。要するにドイツの中堅層の一般的な視点がそこにある。そして同時にフランクフルトアルゲマイネのエリート購読層の差がクレパスのように開いていて、まさしく今回の選挙の本当の争点、つまり「如何に広がる意識的社会格差をも狭めていくか」という国内政治の世界的な共通課題がそこに隠されている ― AfD支持層は、決して社会の底辺層ではなく、少なくとも西側では高等専門教育を受けた層が中心だろう。

国民政党が軒並み票を減らしたのは大連合という連立政権で見捨てれられたと感じる社会層で、その人たちは代替としてAfDに票を投じた ― つまり予想されるジャマイカ連合政権は各々の支持層に近い社会層の声をしっかりと聞いて政策に活かしていかないと政治離れとなる。そのポピュリズム右翼政党は独自の政策すら持っておらず不満を吐き出す本音の便所の落書きの様なものであるが、連邦議会第三党となると政策の一つ一つに解決策を示していかなければいけない。そうなると更に内紛が予想される。先ずは選挙速報に出てきた女性が大きく胸を開けて見せるのも如何に男性の支持を集めて主導権争いを勝ち抜くかを示していた。何一つ語る政治が無いので性事に訴えるのがこの手のポピュリズムの典型だ。

無料のお試し有料ページで何よりもの情報は次のようなキリル・ぺトレンコのタンホイザー初日前のリハーサルでの言葉であった。

NHKホールは、とても明るく、とてもダイレクトに響くので、「ここでは、徹頭徹尾はっきり正確に演奏してください」。

これを知るとそこでどのような音楽が鳴り響いているかは明白だ。初日の印象をこの記者は絶賛していて、兎に角、管弦楽がまことに綺麗に響いて ― それほど聞いていないが私自身は文化会館の響きよりもNHKホールのそれの方が好きだった ―、しばしばとても優しくとある。

具体的には、東京でのカステルッチの舞台の浅くなった奥行きから視覚的にその暗示力が落ちている分、ペトレンコは音の力で克服しようとするのを避けていたとする。それに関してヴォルムラム役のゲルネは、歌手として押さえて管弦楽を聞こえるように「夕べの星」を歌い、最高の繊細で底光りするような魔術だったと、今までオペラでなかった新機軸とまで感嘆する。最後にミュンヘンでの知的なゲルハーエルの歌とは異なるがとしているが、とても評価している。ネットでの反響を合わせると俄かには信じられないのだが、ペトレンコがどのような判断をしたかは想像出来る。恐らく客席で日本の状況を観察してその静けさに気が付いて、更に弱音の方へと表現の幅を伸ばす試みをしたと思う ― 記者会見での日本通のダッシュの言葉に耳を傾け、そうした示唆がそうさせたのだろう。この人は、バイロイトでも実演に何度も通って客席の音響を研究したような指揮者である。そのために管弦楽は、一心不乱に威風堂々としかし緻密に演奏しなければいけなかったのだが、その通りの音量を保ちながらというのである。

そして歌手陣をも絶賛している。これに関しても疲れ云々の批判もあったのでとても意外に思った。再演の歌手がコンディションさえ整えばより精緻な歌になって来るのは想像できるが、初のゲルネも評価されていて、エリザベート役のアネッテ・ダッシュの歌に至っては、音量を落とせば落とすほど威力を発揮して、ハルテロスよりも壊れやすいタンホイザーへの愛歌を歌っているとされ、全体の音量の幅も考えるとこれはミュンヘンよりも出来が良くなる可能性を感じ、日本向きの配役の成功を感じる。

そして、聴衆の反応をここでは三種類に分けている。一組は通常の日本で見られる喝采、一組はピットへと駆け寄り聴衆で、まるで垣根の低いパドックに群がる家畜のようだったと皮肉らしきが交えられる。そして半数以上が話題の組で、幕が下りるかどうかで急に立ち上がり出て行く人々などサッサッと会場を後にする人達である。この報告が正しいとすればやはり招待客だけの問題ではないと思った。



参照:
Es war ein Wagnis, Egbert Tholl, SZ vom 21.9.2017
文化会館でのリハーサル風景 2017-09-19 | マスメディア批評
ペトレンコ記者会見の真意 2017-09-21 | 雑感
なにかちぐはぐな印象 2017-09-24 | 雑感
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ブラックリストの芸術家たち

2017-09-25 | 文化一般
ベルリンでは尹伊桑の生誕百年記念の演奏会が開かれているようだ ― 最後に作曲家の顔を見たのはその死の二年ほど前だったので百周年と聞いて本当に驚いている。春にバーデンバーデンで会った、平壌にも招聘されたスイス人が「南鮮が積極的ではないので、尹の家構想が暗礁に乗りあがっている。」と話していた。なるほどそうかなとも思ったのだが、新聞はこの作曲家は韓国では充分に評価されておらず、寧ろ北鮮で重要なのだという。それでもその無調の音楽などは、そのスイス人が語るように、到底北では棒にも箸にも引っかからないものでしかない。

その作品にも描かれているような拉致と拷問と死刑判決の朴政権の歴史の後代への流れが、今回の娘の大横領失脚逮捕で明らかになった。1995年に亡くなった作曲家が再び先政権のブラックリストに載っていたと日本語のサイトに書いてあった。

そしてあの娘は安倍何某と同じで所謂朝鮮文化風の怨念というのを政治姿勢にしていたのだと思うと馬鹿らしい。まさしく尹を語ることはその暗殺された父親朴正煕の悪行を永遠に歴史に留めるもので、娘としては世界の歴史に朴家が汚名を刻むことになると考えたのだろうか。要するに安倍政権も前朴政権も儒教的世界観で同じ文化圏の日朝とてもよく似ていたことになる ― 当時のセマウル号の車窓は原風景のように感じたものだ。

明仁天皇の高句麗神社訪問ではないが、もし何か役に立つなら平壌に飛んでも良いと思うようになった。1970年代にソウルのインスボンの岩壁を登りに行った時も朴政権で逮捕されて帰って来れないかというような注意を受けた訳だから、時は少し異なっても朝鮮半島自体はそれほど変わらない。そして日本政府は金大中事件の時も何一つしなかった。今はもっと東京の外務省は悪質化している。だからもし不慮の事態で人質になったならメルケル政権が救ってくれると期待してのことである。

そのメルケル政権も次期は薄氷の上を歩くような連邦共和国始まって以来の三党連立が余儀なくされるようである。今回の選挙は今までになく多くの有権者が期日前投票をしているという。そして二大国民政党は大きく票を減らすといわれている。先日の車中のラディオは、選挙に行かない層が増えていて、丁度日本の無党派層のようになって来ているようである。二千万人ほどの人が浮動票で、それを五つのグループに別けていた。一番興味深いのは、政治に特別に関心があるばかりに現在の世界情勢や大きな問題に直面して政治課題としている政党は無いという層で、先日来AfDに攻撃を掛けているピアニストのイゴール・レヴィットの話などはこれに相当するかもしれない。

勿論そうした致し方が無い現実社会での政治を補う面も芸術文化にはあることは誰も否定出来ないだろう。例えば今回の日本公演での「タンホイザー」の作曲家リヒャルト・ヴァークナーは革命家として国外に亡命しており、その創作の真意を探れば探るほどその劇場作品やそれが上演される劇場の社会的な意味が明白になって来る筈だ。その一方、「ヴァルキューレ」の一幕を称して「私の栄養分」としてエンターティメントとしての興業性を見込んだことも事実である。まさしくこの一幕だけの上演をして作曲家の意志に反しているとするキリル・ペトレンコの言及は正しい。

それに比べるまでも無く「タンホイザーの上演を通して皆に明らかになった」というものは何かと考える。それは何も演出だけの成果ではなく、それを通しての音楽的な精査であったりする訳なのだが、やはりどうしても今回も誰かが上手く表現していたような三幕の「おくりびと」の風景が気になって来る。そしてその伝え方や劇場空間の構成の仕方で、カステルッチ演出がモダーンであるというのが漸く分かるようになってくる。つまり月並みな意匠を並び繋げただけに思えたのだが、今回の新制作にしてもミュンヘンでの反応を含めての劇場空間なのだと認識した ― そこになんらかの道を探るとしても良いのかもしれない。音楽劇場分野ではピーター・セラーズなどの劇場の壁を超える劇場が最も今日的とも思っていたが、流石に年齢も若く欧州の劇場人だけあって、― 芝居はオペラなどとは違って遥かに興味があるのだが ―、こうした出し方は芝居としても経験したことが無い劇場空間だった。

東京での三幕上演をして、キリスト的なものを感じたとの感想もあって興味深かったが、まさしくこの演出の核心は、二幕での並行上演されている「魔笛」のト書きの日本風の狩りの意匠などよりも、「一神教における非宗教」であるという宗教性だろう。ヴィーンの役者であり演劇人であるバッハラー支配人と新音楽監督が協調して進めて来たここまでの新制作の数々は一貫してそこに重点があることが分かって来る。そうしたものがミュンヘン的に思えるのは、ラッツィンガー教授法王時代に恐らくもっともカトリックからの離教をみたのは保守的なカトリックのバイエルン州でありミュンヒェンであったと思う。つまり三十年程前にはキリスト教社会同盟が圧倒的な支持を集めて、市民は、そうした世界観をよりどころとしていた時代とは打って変わって、先に述べたようにそうした政党において、なんら現在の世界をより良い方へと進める具体的な政策を出すと期待させるような理念と世界観の一致を見いだせないということになるのである。ドイツにおけるキリスト教離れはここニ十年ほどでも甚だしい。AfDが主張するような反イスラムへの支持も実は自己の世界観への懐疑でしかない。

それ故に、そうした視座を示唆しているカステルッチ演出「タンホイザー」の日本での反響が気になるとして記者を出しているのは南ドイツ新聞で、昨年東京での「ブルックナーツィクルス」におばさんを派遣したフランクフルターアルゲマイネよりも意味がある活動だろう。なるほどその読者層は、明らかに教養的に落ちていて、精々職業訓練のための高等教育を受けた新興アカデミカーぐらいでしかないので、南ドイツ新聞はその文章も内容も日本の朝日新聞ぐらいに程度が低いのだが、もしこの点に関して深く言及しているようであれば期間限定でお試しをしてみようかとも思っている。

繰り返すがカステルッチ演出のこうした世界観への懐疑とそれを俎上に載せる行いこそが19世紀のリヒャルト・ヴァークナーの創作の核にもあって、その革命性が「近代演劇の始まり」とする考え方は正しい。シュリンゲンジーフ演出「パルシファル」との相似点などの指摘があったので驚いたが、漸くこれでその意味をも理解した。音楽的に解決されるべきこともそこにあった訳で、この点も音楽監督キリル・ペトレンコが指摘している意味で、ミュンヘンの初日シリーズでは歌手たちがこの演出へのレクチュア―をみっちりと受けていたことも窺える。キリル・ペトレンコが行う新制作の演出がいつも駄目だという意見があるが、そのようには思わないのはこうした理由からであり、それどころか演奏会形式での上演とかの話しは大間違いであるのは、この「タンホイザー」の本質と成果を見れば当然過ぎる帰結である。

余談ながら、「指輪」上演にはふた付きとふた無しの二通りがあるとするキリル・ペトレンコの見解は、その劇場的な解決の方法であって、演出とか演奏会形式とかとは全く別の次元の議論であり、なによりもその音響の話しでしかないのはいうまでもないことだろう。



参照:
「尹伊桑(ユン・イサン)」は、なぜ韓国政府の「ブラックリスト」に載っているのか、金成玟 (HUFF POST)
ロメオ演出への文化的反照 2017-09-23 | 文化一般
ホタテの道の金の石塁 2017-08-21 | 文化一般
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なにかちぐはぐな印象

2017-09-24 | 雑感
車が森にかかると、進行方向に親子らしきバムビがいた。速度を落として近づく。道の真ん中でこちらを見ている。あまりにも動かないのでカメラを取り出した。もたもたして撮り逃がした。人の気配で逃げ回るバムビであるが、車が近づいても警戒しない。先日のバイパスでの事故もそうだったが、やはりどうも奴らの脳が小さそうで、犬が人間の七歳ならば奴らは三歳ぐらいではないかと思う。三歳ぐらいの幼児ならば人間でも車に不用意に近づく、あの感じだ。

二本目の「フリュータウ」を開けた。シェ―ンレーバー醸造所の以前は「フリューリングスプレッツヘン」の下位のものだったが、その名前はグランクリュとしてしか使えないことになったので、名前替えしたものだ。名前が変わると有難みも薄れて、2016年ものもあまり冴えない。香りは枯れた藁で殆んどビオワインのようだが、この醸造所はまだまだそこまでは踏み込めていない珍しいVDP醸造所である。要するに培養酵母を使っている。そしてミネラル味は強く出ていて、林檎やナッツ類の趣が楽しめるが、どうしても藁の趣が出て来て、総合的には春の雪解けの泥道の感じである。正しく名前の通りで、2016年はナーヘ全般に悪かったようだ。2017年はさらに悪い。

バイエルンのシュターツアンツァイガーとインゴルシュタットのドナウクーリエのローカルニ紙に書いているマルコ・フライ記者が、東京の「タンホイザー」初日の反応を全く別の視点から報じている。それによると、三幕では当惑した拍手だったが、一幕、二幕は日本のそれによく合ったと見えてとても好意的に受け入れられたとある。彼の感想は、幾ら日本人が丁寧で演奏会での熱狂ぶりを示す人達であっても、やはり拍手でその評価判断が分かるのだという。それによると、上野の演奏会では終わり無き拍手が続いたというが、「タンホイザー」終演後にキリル・ペトレンコとその管弦楽団に英雄へのように喝采したが、その後にクラウス・フォークト以下の歌手が続いただけで、どこか冷めていたという。

少なくともネットから窺うのは、ピットに押し寄せる平土間の人達とキリル・ペトレンコとクラウス・フォークトへの喝采があるが、どうもこの記者の感じたのは違っている。「演奏時間の長さとヴァークナーのへヴィーさが原因ではないだろうか」と、そしてもう一つ、三幕の恐らく主人公の二人がまだ動いているのに砂になるまでの時間の演劇的な提示の腑に落ちなさだと考えているらしい。この点に関しては、少なくとも私自身も天井桟敷から見ていたのではあまり合点がいかなかった。要するに白服を黒服に替えてとか細かなところをヴィデオで何回か見直さないと時間経過さえ分からなくなるところである。確かにネットでも一人だけこの落ちの不可解さに言及していたが、どうでもよいような気がする。そんなことを言い出すと限が無くて、あの切れた足はなんだとか無駄な時間を費やすことになるだけだろう。

もう一つこの人が書いていることで不明なのは、奥行きが浅くなって幅が広くなって舞台を修正している分、NHKホールではよりコムパクトな舞台になったというのだが、あの演出で浅くなって照明だけで調整したとしてもコムパクトな印象よりも、薄っぺらくなるのが当然だろう ― 3400人の巨大空間では対象物はコムパクトになるかもしれない。どうしてこうも頓珍漢な印象になるのかは不思議なのだが、もう一人の報じる南ドイツ新聞は有料なので比較のしようが無い。やはりこうしたものも通常の音楽評とすべきだろう。なぜならば我々はどのような演奏が繰り広げたかでその聴衆の反応も大体分かるからなのだ。その意味からも日曜日のコンサートは上出来だったことは証言されていることになる。

南ドイツ新聞は演奏会表以外の報告は無料公開しているが、練習風景ならば興味深く嬉しいが舞台裏の話しとなると態々紹介するほどでもない。ネットでその当事者からの情報が沢山上がっているからだ。それでも興味深かったのは、ゲネラルプローベが予定通り厳格に22時に終わったことで ― 流石キリル・ペトレンコということらしい ―、そのあと朝の4時まで舞台裏の撤収搬出の仕事が続いたということだ ― 各々の出し物に対してコンテナ11個分。そもそも週末に公演が出来なかったのはNHKホールの使用環境からで、舞台道具を片づけておくところも無い巨大なTVスタディオだという表現がとても分かり易かった。そしてそのために席が埋まっていないこともそろそろ話題になっている。ミュンヘンでは絶対あり得ないことで、もはや再演も含めてキリル・ペトレンコ指揮の上演は立ち見どころか楽譜席まで売り切れてしまうような状況になっているからだ。



参照:
Der Blick aus der Ferne, Marco Frei, 22.9.2017 (Bayerische Staatszeitung)
ロメオ演出への文化的反照 2017-09-23 | 文化一般
上野での本番などの様子 2017-09-20 | 文化一般
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ロメオ演出への文化的反照

2017-09-23 | 文化一般
東京での「タンホイザー」初日の朝だ。朝一番で走りに行く。森の中は摂氏6度しかなかった。早めに切り上げる。汗を流してPCの間に落ち着いて座ると、一幕後の幕間に感想が入って来る。否定的なものが目についた。これもある程度想定内だった。自分自身もあの演出では腑に落ちない面が多くあったからで、録音で聞いても弓を引く音などがいらつかせた。ようやく最近になって録音録画を繰り返して聴くうちに落ち着いて評価出来るようになったぐらいである。それ故かどうかわからないが、一幕終了後に多くの聴衆が退場していったことを後で知り、バイエルン放送はそのことを報じている

立ち去った人たちは自身で大枚を叩いて券を購入した人は少ないのだろうが、たとえ企業やその他の関係で招待されていても最後まで観ずに会場を後にするということは全く以って理解出来ない。難し過ぎて面白くないとかいうことだろうか。勿論そうした聴衆の比率はオペラ劇場では少なくなく、それでも雰囲気を楽しむエンターティメントとして社会に定着している。もしこれが「魔笛」の上演ならば帰る人は少なかったのかもしれない。なにが楽しめなかったのかは興味深いが、もしミュンヘンでも全く知識無しにBMWの招待で同じ「タンホイザー」に人を集めたとしてもやはり似たようなことはあるのかもしれない。バイエルン放送は、「五時間の時間が長すぎるのか、それとも演出が気に食わなかったのか」と「クラシック音楽好きの日本人が」と驚いている。

前記のようなあの落ち着かなさは裸体の羞恥にあるかと思っていたが、もしかすると全体の舞台の与える印象もあったのかとも思うようになった。FAZの新聞評などには、「舞台上のスペースが空き過ぎでまるでヴィーヌスとタンホーザーが遠くでディアローグしているようで登場人物への演出が希薄になり」とかあったが ― 実際に劇場で見るよりもVIDEOの方が演出が効いていた ―、舞台構成上での印象も影響しているのかもしれない。背後の壁を穿つサークルも眼でもあり、カステルッチが解説するように眼の中のまた瞳があってと、これまた見られているようでの落ち着かなさが助長されている。

この演出について、皆が思うように、更に考えたいなどと露ほども思わないのだが、心理的な影響はかなり強く、無意識層に働いているのは間違いない。そのように気が付くと二幕、三幕とこの演出家の魂胆のようなものが見えて来る。この演出に腹立つ思いがするのは一幕で、そのあとは舞台への諦観もあるが、三幕まで筋が通っていて、そうでなければあの三幕の落ちは只馬鹿らしいだけのものになる。実際に録画を繰り返して見ているうちに、三幕が納得出来るようになった。正直最初に見た時はこの三幕の演出にはなんら関心が無く、新聞評の通りだった。

その点、密かに期待されていたように、バッハラー支配人が「何も日本に合わせて演出した訳ではない」のだが、三幕への支持は初日幕直後から強く、どうも全くその受け取り方がミュンヘンとは違うようだった。この三幕は、ショペンハウワー的な「仏教が再解釈されている」というロメオ・カステルッチの言葉が最も具体的に表れるところで、あの永遠の死の様な光景は、新聞では「母体より出でた時から始まる死」のルターの言葉をそのまま批評としていた。

その反対に、二幕のアンサムブルや最もこのオペラの山となるエリザベートの歌からフィナーレに掛けてへの言及が日本では全く見られないのは、嘗てあり得ない質のアンサムブルが技術的に巧くいかなかったとは思わないが、このオペラにおいて最もプロテスタン的な意志を以って最も心理的で情動的な部分なので ― 勿論音楽的にもここが頂点である ―、やはり文化的な視座が異なるのかとも考える。

もし今回の「新制作」を引っさげた引っ越し公演が、文化芸術的に何らかの意味を持ち得るとするならば、やはり様々な社会におけるこうした文化的な受容というものに注目しなければいけない。それは日本の西洋音楽界にとって、パンダの顔見世興業ではなく、その近代西洋音楽の在り方や音楽劇場の可能性についてまで考察しなければいけないということだ。台湾や韓国でのそれとは全く異なり、日本社会の教育やその文化の受容という意味でのその反響は、やはりこちらにとっても自らの文化的な視座を確かめるための音波を跳ね返す対象物のような意味さえあるのだ。その意味からもなかなかの文化芸術的な道具を与えて呉れたのはロメオ・カステルッチである。ミュンヘンの劇場らしい演出だ。

NHKホールの舞台の幅や奥行きに合わせて照明などの変更があったが、何よりも三幕のヴィーナスが歌う隠れた場所が無くて、「オルガンの中に入って歌って背後の反響が嬉しい」とカステルッチに代わって日本での修正にご満悦なパントラトーヴァ女史の様子をラディオは伝える。なるほど、この演出を通して歌手の一人一人までが明白な意図をもって舞台を完成させていると音楽監督キリル・ペトレンコの言う通りだ。



参照:
「全力を注ぐ所存です。」 17-09-04 | 音
母体より出でて死に始める芸術 2017-05-30 | 音
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キットカットにリカヴァリー

2017-09-22 | テクニック
壊れたタブレットが何とか直った。アンドロイド4.42つまりキットカットと称するシステムが立ち上がらなくなっていた。既に書いたようにPCのadbを使ってそこから修復を試みた。結局工場出しに戻したが、このUSB接続があることだけでとても安心感はあった。要するに文鎮のように重しにしか使えないという状況は避けられる可能性が強いからである。実際にリセットしても想像していたような新品で購入した時のようには動いてはくれなかった。何十回も、百回ほど再起動を繰り返しただろうか、そのたびに前進するのだが、再びシステムのファ-ムウェア―を送り込もうとするが上手くインストールとならなかった。二三度リセットを繰り返しアンドロイドが立ち上がるのだが、「ROOT大師が起動を試みて失敗」のエラーが出る。これでほぼ今回のシステム故障の原因はルートに隠されていたこの大師だと想像がついた。

そこで出来る限り早い時期にこ奴を消去してしまおうと思ったのだが、ルートが開いていないとこれが消去出来ないことになっている。つまり先ずはルートを開いてその上で大師を消去することになる。そのためにルートを開く同様のソフトが必要になる。そもそもこれが問題になったのは、その前の4.22のジェリービーンを使っている時に使いはじめたのが、アップグレードしてからこれではルートが開けなくなったのである。しかし探してみるとどれもそれ以上に怪しそうなソフトしか出てこなく ― シナを信用するかロシアを信用するかの究極の選択となる -、それらをPCにインストールするのも怖かったので、思い切って4.22を書き込んでみた。そして出てきた隠れていた大師を使うと綺麗にルートが開いた。

そこで今度は所謂冷凍アプリと称するような、アプリを氷漬けにしてしまうアプリをインストールして、大師を凍らして、更に消去してしまった。その他のスーパーUとかその手も凍らして、不要なものは消去した。そしてアンドロイドのアップグレート完了も確認しておいた。これで安定してきた。相変わらず落ちやすい傾向はあるが、普通に使える状況になって、そして充電して床に就いた。そして翌朝上げてみると二度と落ちることは無くなった。

これで殆んど復帰してアプリケーションも幾つかインストール、設定すれば元通り、もしかするとそれ以上に安定してくる可能性が高い。タブレットを使い始めると、もはやこれ無くしての生活など考えられなく、急遽購入しなければいけなかったのだが、一先ずこれで助かった。ここまで来ればハードが壊れるまでは使いこなせそうだ。そして消去したアプリ類も記憶がある限りは戻せる。また殆んどないが個人データ類はSDカードに入れているので消失感も殆んど無い。寝床で少しづつアプリを整備していくぐらいだ。そして今度はルートが再び開いているので、凍結や特にグーグルの要らないアプリを消去出来るのが何よりも有り難い。



参照:
ペトレンコ記者会見の真意 2017-09-21 | 雑感
上野での本番などの様子 2017-09-20 | 文化一般
アンドロイドのルートを再開 2017-03-31 | テクニック
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ペトレンコ記者会見の真意

2017-09-21 | 雑感
日曜日の文化会館でのコンサート直後の会見について、南ドイツ新聞の特務記者の報告である。因みに19日付のコンサートについてのそれは有料にしてある。そちらの方は当初からの反響、バイエルンのローカル紙の報告で概ね分かっており、更にヴィデオで断片で音響として確かめられる。しかし会見の方は音声による一部と写真でしか知らない。この報告では、特にキリル・ペトレンコの表情を追っている。

記者は、限られた時間の顔見世のその盛況ぶりに、一瞬上野のパンダと飼育師のようだと思ったと書く。キリル・ペトレンコ音楽監督とバッハラー支配人のことらしい。そして笑顔を終始絶やさずに、自らの使命を弁えての会見だったと感じている。その背景には、欧州では会見の機会がないのにこうして特別にお目見えすること、そして広告塔として歌手陣が居並んだことを考えたようだ。

その売券の状況には触れていないので、知ってか知ってぬかは不明である。それでも一流の管弦楽団としての技能を示したコンサートが終わったところで、楽団員を差し置いてなぜぜ歌手陣が出てくるのだと訝るが、ここから初めて上演されるオペラ公演の宣伝を兼ねてであると綴る。そして歌手陣の中でも日本通のアネッテ・ダッシュが、「センシティヴな歌に聞きこむ心構えの出来た日本の聴衆」について語り、ヴォルフラムを歌うマティアス・ゲルネは、「初めから批判を準備しているような聴衆でない」と日本のそれを語り、記者はミュンヘンで評価の割れたカステルッチ演出の「タンホイザー」への言及と取る。つまり、バッハラー氏の導入同様、端から警戒線を張っているのだと理解する。

そして、質問が集まるペトレンコは、「コンサート形式での一幕だけのヴァルキューレ公演は次善の策で、ヴァークナーの意思からすれば甚だ間違いだ。」と語った。当然のことであるが、それでもこうして最終的に指揮をする訳だから、質問が無ければ決して話さなかったことだろう。記者は、このような会見でのその笑みの裏にペトレンコの居心地の悪さを感じ取ったようだが、それはどうだろうか。この天才指揮者は、喋り出すと何処までも本当のことをペラペラと話してしまうから会見はご法度になっているのだ。正しくこの「ヴァルキューレ」の裏話はそのもの本音トークなのだ。もしこの指揮者が語り続けると業界の全ての構造は一挙に壊れてしまうだろう。悪戯坊主が爆弾を抱えているようなものなのだ ― そしてその本音は、その真実みと凄みで、故チェルビダッケのそれとは影響力が全く異なる。

そして話題の「指揮者の秘密」というのを誰も質問しなかったと嘆いている。稽古やらその他のことを語っている訳でそれほど意味のある発言ではなく、冗談ごかしだと思うが、この記者は一体何を知りたかったのだろう?もう一つの「指揮者は楽員が自主的に演奏できるほどまで練習で意思を合わせておいて、本番ではその作品と演奏者と、聴衆の仲介の役を果たせばよいだけ」の言葉も「指揮者はコンサートでは意味をなさない」とやはり話した通りを挙げておく方が良いだろう。要するに翻訳すると意訳になりかねない危険性があるからだ。やはりこの人は一般大衆に向かっては何も語らない方が安全だろう。
Tour of Asia 2017 - Video diary #3: Seoul & Japan


引き続き合間合間にタブレットを弄っている。漸くPCの新しいHDDにSDKソフトを入れ直し、PCから制御出来るようにする。それ自体はDLなどに時間が掛かり容量が大きいものの一度インストールした経験からPATHを通すだけで比較的容易に解決したが、実際にリカバリーモードでのADBとかで制御可能なコマンドは限られていて、ルートが見れないので、出来るのはレノボのサイトから落とした純正のROMファームウェアーをPCから送り込むしかない。同じことはSDRカードでやっているのだが、どうしても二つのZIPがインストール出来ない。それ以上バグを調査して弄るとなるとアンドロイド開発者の知識が必要となりそうなので、到底無理だと思い、結局は工場出しまで戻す決心をする。それでも一度はアンドロイドがインストールされたようだったが、先には進まなかった

朝早くから弄っていて、雨上がりの誰も居ない森を走り始めて、手順を考えていたのだが、その時にはPCからどれほどのことが可能になるかは分からなかった。結果思ったほど使いこなせなかったが、少なくとも所謂文鎮化はそれで避けられるだろうと思った。しかし実際に工場出しに戻してもループするところが一つ先に進むだけで、アンドロイドのシステムをインストールし直さなければいけなかった。それでも数限りなく再稼働するうちにアンドロイドが開いて、少しづつ安定する気配がある。



参照:
"Es sollte noch etwas von einem Geheimnis haben", Egbert Tholl (Süddeutsche Zeitung)
上野での本番などの様子 2017-09-20 | 文化一般
文化会館でのリハーサル風景 2017-09-19 | マスメディア批評
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上野での本番などの様子

2017-09-20 | 文化一般
早朝から霙交じりになるのではないかと思うほど肌寒かった。就寝時からタブレットが立ち上がらなかったので、走りに行くことなく、弄っていた。何かの拍子にシステムが壊れたらしいが原因はまだ分からない。簡単にリセットして仕舞えば立ち上がるだろうが、折角だから時間を掛けてPCに繋いで復旧作業をしてみようと思った。時間が掛かるのは、リセットしてそれを元通りに戻すにも無駄な時間が流れるから同じだ。それに比較すれば、結果は分からないが、復旧作業をする方がアンドロイドを学ぶことになり、上手く立ち上がればそれで終わりだ。そして以前よりも自由自在に動かすことが出来るようになる筈だ。丸三年間使ているものであり、この機会を逃しては徹底的に弄る機会はなかなか訪れないだろう。問題はこの寒い時に寝床の中で出来る作業ではなく、また直るまでタブレットが使えないが仕方がない。

そうした早朝に見つけたのが日曜日の上野でのコンサートの断片映像である。ラフマニノフの終わりから拍手までである。カメラの関係もあるが会場がとても明るく、音以上に明るいのかもしれない。日本の音楽会場ってあれほど明るいとは思ってもいなかった。恐らく舞台の照明の関係で文化会館は特別明るいのかもしれない。あれならばそのまま客席で楽譜が読めそうである。それにしても、自身の記憶以上に日本の特に東京の聴衆はクールで、演奏者はその静けさと共にさぞかし緊張するだろうと思う。

バイエルンのローカル紙が、そのリハーサルから記者会見そして本番までのことを纏めている - そしてこれからのタンホイザーの反響待ちのようだ。演奏は、マーラーの交響曲の演奏としてヤンソンス指揮放送交響楽団をドリームチームとしながら述べているが、先ずはスリル満点であるアンドレアス・オェットルのトラムペットのファンファーレと、三楽章のヨハネス・デングラーのホルンソロを称賛している。そして、その間のヒステリックに暴走しない「嵐のような動き」は、形式感を与えて且つその地下にどよめく動きを示してくれたとキリル・ペトレンコを称賛する。

キリル・ペトレンコのテムポの正しさと要を得た指揮は、多くの指揮者がテムポを弛緩させてしまうアダージェットにおいても流れを絶やさずに、それどころか世界中で月並みなマーラーの演奏実践の指揮者の勝手なルバートやテムポ変化などの垣根を取り払ってくれて、それによってコラージュがテムポの対比ではっきりと輪郭付けられたという。それらによって、空っぽの大見えやお涙頂戴で安物のおセンチ無しに、力漲る構成的でありつつ弁えた、マーラーにしたとある。

それにも益して三者の幸福な共演であるラフマニノフを挙げ、指揮者とピアニストであるイゴール・レヴィットのなりそめについて触れる。三年前のイスラエルでのベートーヴェンで、ピアニストの想定を超えた共演となって、今後他の管弦楽団との共演が今回との比較対象となってしまうとの大きな問題となった。どうも、最初は天才指揮者と座付き管弦楽団を少し軽く見ていたような感じを個人的には持っている。自身も語るように彼がとてもいい経験をしたのは間違いないと思う。まだまだ若い。

このピアニストが典型的なドイツのユダヤ人ならば、やはりキリル・ペトレンコは大分違う。これは年齢だけでなくて、移民としての環境も異なったのであり、今回の記者会見での第一声も殆んど外交官のように考えつくされていた。残念ながら同時通訳の限界でこの指揮者の言葉の選び方や心境までは即座に日本語に出来ていない。一部しか聞いていないが、何よりも感じたのは、言葉の背後には、「フクシマ禍を乗り越えて来て生きている人々への大きな畏敬のようなものを表明しており ― その背後には劇場支配人と六年前の大キャンセル騒動とその影響への危惧が話されているのだろう ―、同時にソヴィエト時代のシベリアの果てにおいて恐らく親戚などからも聞いていた日本の現状などへのイメージが、殆んどドイツ共和国大統領の第一声の様な練られた言葉で語られていた。あの人はいつも自分でメッセージをしっかりと自分で生真面目に書いているに違いない。だから、継ぎ足しに冗談にふった日本食などが強調されたのは忍びない。ドイツ側からしてみてもあまり触れたくないことなので敢えて聞き落そうとする心理が働いている。



参照:
Ein vertrauensvolles Miteinander, Marco Frei, Bayerische Staatszeitung vom 19,9,2017
上野での本番などの様子 2017-09-19 | マスメディア批評
指揮台からの3Dの光景 2017-09-18 | 音 
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文化会館でのリハーサル風景

2017-09-19 | マスメディア批評
週末には2015年のゲルュンペルを開けてみた。試飲していないので初めて口にするものだ。半ダースあるので無駄でも良いから一本開けた。2015年産であるから強すぎて楽しめないと思っていたが、PCながらGCのような感じで楽しめた。勿論熟成はこれからなので、本当の味は開いていなかったが、充分な複雑なミネラルと共に完熟感と清潔感があって決して悪くはなかった。20年もつかもしれない酸であるが、ビュルクリン・ヴォルフ醸造所のリースリングにによく有り勝ちな明くる日になるとバランスが崩れていて、全く飲み頃が分からないという難しさもあった。これで安心して予約した2016年産を引き取りに行ける。

引き続き東京から様々な情報が入って来ている。先ずはキリル・ペトレンコへの接近の任務を得た南ドイツ新聞の記者が、少なくともリハーサルに潜り込めたようで、その報告をしている。ミュンヘンに本拠のある新聞社で日本の朝日新聞と提携している左派の全国紙である。その記者でさえ、今までにリハーサルに入れたのは「サウスポール」の時の1時間だけだという ― 前回の欧州ツアー時にもシャンゼリゼなどで取材の機会を設けていた。

キリル・ペトレンコがやって来ると、「こんにちは」と日本語で挨拶してから、軽く冗談を言って、早速冒頭のトラムペットソロが鳴り響き所謂サウンドチェックの音出しである。「ここは響きがとっても明るいから、暗くと考えてください。」と指示する。

それから一楽章の一部終わりから激しいトリオへと移る前の経過的な151小節は3度も繰り返したようだ。レントラーでの第一ヴァイオリンの高音の「イントネーション」をまるで歌のように指摘して、上手くいったところで日本式にお辞儀をして見せたとある。その反対に、トラムペットに「余り歌わないで」と、そしてアダージェットに際して「記憶の彼方のように、もっと軽く、地球から離れて、無重力のように」と述べたとある。実際に本番ではここは消え行くようで、ペトレンコのマーラーはセンチメンタルとはならずにとても雄弁だとしている。

通常のツアー中の指揮者と違って、ペトレンコは楽員に自身の希望を一方的に伝えるのではなく、試して見るといった塩梅で協調して音楽つくりをしているように感じて、この指揮者の言葉は尋常ではないほど的確で、何かオーラによって指令するというものではないとしている。

朝日新聞が、キリル・ペトレンコを「若手指揮者ペトレンコ」と表したとあって話題になっている。その意図は分からないのだが、ジャーナリスティックなことではないように思った。要するに、朝日新聞らしい、その背後には巨大な経団連企業の束縛から抜けられないという事情があるのだと思う。そこにはソニーを代表とするような巨大メディア産業の締め付けがあるのだろう。

つまり、キリル・ペトレンコは飽くまでも「新鋭」や「気鋭」であって「大師」などであっては困るのだ。市場は、なぜそんな「大師」がCDもDVDも専属契約で制作していないのだとあからさまに声を上げると、もはやそれらのメディア企業は立つ瀬がないからである。そのようなマスメディアは新聞などとの名称を止めて朝日大広告社と名前を直ぐに変えるべきである。つまりメディア専属契約をしていないような芸術家はどこまでもアマちゃんとして扱いたいのである。

そしてそのような広告媒体における音楽評論記事などは読む前から分かっている。そもそも比較対象にもならないようなメディアで売り出したい二流の指揮者など対抗軸に挙げて、これはこうだがあれはあちらの方が良いとか何かを書く限りは商売になる広告になるのである。

バイエルン放送局も同じような音付きの報告をしているが、インスタグラムには文化会館でのリハーサルに小澤征爾が駆けつけている写真がある。あとは皇族のご臨席だけだろうか。



参照:
twitter.com/pfaelzerwein
指揮台からの3Dの光景 2017-09-18 | 音
「全力を注ぐ所存です。」 2017-09-17 | 文化一般
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指揮台からの3Dの光景

2017-09-18 | 
夏時間の今日この頃は朝起きも大変だ。通常ならばまだまだ気温が高いので気持ちよい筈だが、冷えて来ると布団を離れがたい。それでも思い切って出かける。東京では、キリル・ペトレンコのデビュコンサートのリハーサルが始まっていた。フェースブックに載っている指揮台からの3Dの光景が面白かった。すでに御馴染みのアジアツアー向きのミュンヘンの座付き管弦楽団の陣容で、オペラが始まれば再編成となるだろう面々を指揮台から見る。文化会館の舞台の写真はやはり今までのそれとは違ってちょっと緊張した面持ちで、音楽監督の立場なら上手く解し乍ら、ザッハリッヒに要点に持ち込んで部分部分を修正していかなければいけないところだろう。

緊張を解すには肝心の実務に熱心になるのが一番良い。汗を掻くのが一番良い。上野で開演の頃に家を出て、ラフマニノフをイメージしながらパン屋に駆け込み、駐車して走り出すころには「トリスタン」のアンコールが間違いなく頭に響いていた。坂を走りながら、ピアノのレヴィットのアジアでのそれまでの三回のアンコール曲の選び方を考えていた。台北での一日目はその客層などを考えて「エリーゼ」だった。二日目はベートーヴェンの夕べなので、今度はゴールドベルク変奏曲をもってきて、ソウルでは意外にもショスターコーヴィッチだった。東京はミュンヘンと同じ「トリスタン」だと確信していた。何よりも15時始まりで時間的に余裕もあり、この管弦楽団との最後の演奏会だったのでこれしかないと思った。通常よりも長いアンコール曲であるので台北での聴衆には絶対無理と考えたのは当然だろう。また時差ボケのある中であれを聞かされると管弦楽団も緊張感が飛んでしまうかもしれない。

外気気温摂氏7度ほどと充分に涼しかった。それでもなんだかんだと考えながら峠から走り下りてくると汗を充分に掻いていた。上野では今頃葬送行進曲が始まったかなと思った。座付き管弦楽団の各々の準備万端の顔を見ていたので、大きな事故は無いだろうと思っていた。

自宅に戻ってPCを覗くと休憩時に幾つものとても肯定的な感想が載っていた。ここまでは想定内である。その後のマーラーの交響曲がどうなったのかに気を揉みながらシャワーを浴びて、朝食を摂る。終了して続々と感想が出て来る。

そもそもミュンヘンでの同じプログラムの演奏会にも出かけておらず、そのアカデミーコンサートもこの10月に初めて出かける位で、寧ろこの一流座付き管弦楽団の演奏会よりも二流のフォアアールベルクの交響楽団のマーラープログラムの演奏会の方が興味があったのだ。もちろん後者は多くのエキストラを加えなければ事故続出でしかなかった訳だが、実際に放送された録音を聞いても叱咤激励されながらも座付き管弦楽団とはやはり違った演奏をしていた。それでも手兵の座付き管弦楽団は、昨年九月のボンでの欧州ツアーの演奏会など何回かの本番を重ねるうちに素晴らしい演奏をすることは分かっており、ベルリンでの家庭交響曲と並んでボンでのチャイコフスキーの第五交響曲は名演だった。

ソウルでの反応にも座付き云々の話はあったが、それはドレスデンでも先日生放送のあったベルリンの対抗馬でも同じで、前者もシノポリ指揮でマーラー六番の内声部が混濁してしまい、後者も重い和音しか弾けないので実力はそれほど変わらない。ピッチ外れのヴィーンが特殊なだけで、「音が汚い」という感想は、クリーヴランドやフィラデルフィアともその辺りの放送管弦楽団とも違うので、ある意味正しいのかもしれない。やや重めのそれがどのように奈落で響くかとかが基準となるので、交響曲演奏上のそれは座付き管弦楽団の評価には当たらないことになる。

逆に、ベルリンのフィルハーモニカ―も現状のままでは十二分には音が出せていないことは悲愴交響曲の一楽章の展開部で示唆されており、新監督就任までの課題となっているに違いない。そのようにものになるまでは超一流交響楽団でも時間が掛かることを確認すれば、現在この座付き管弦楽団の演奏は如何に的を得ているかということが理解できる筈だ。そのような意味から、10月のブラームスの交響曲でも聞いておこうと思った次第である。今回の上野での演奏は大きな事故も無かったようで、本番5回目であるから可成りな程度に達していたことは窺えた。そのマーラー解釈に関しては、劇場の冊子にペトレンコの手記が付いていたようで ― ボンでもソウルでも笑顔の広報の同じ女性が配っている ―、その多声的な捉え方など、実際にこの10月に生で体験してみないと断定できないが、幾つかの感想の中に書かれている通りバーンスタイン編のシャブ中的なものからは遠い。交響曲の中心においているグスタフ・マーラー作品の演奏実践にこの指揮者の交響曲解釈の基本があると思う。
Tchaikovsky: Symphony No. 6 "Pathétique" / Petrenko · Berliner Philharmoniker


それは、昨年のリゲティの演奏でも示しており、または「マクベス夫人」でも、グロテスクに陥ることでの創作の歪曲とは程遠い演奏実践であることは間違いない ― 前者をノット指揮、後者をヤンソンス指揮と比較すればどちらが正しいかは故人である作曲家に聞くまでも無く一目瞭然だ。もし何らかの聞きなれない小節や拍があれば、先ずは楽譜に当たってみてその成否を吟味することが、この指揮者の演奏実践を批評する意味において最も有効で容易い方法に違いない。少なくとも日刊紙においても批評を生業とする者であれば、十二分に楽曲を勉強しておいて、その「ペトレンコ先生」の演奏を楽譜で確認してから何かを発言すべきである。日本での評論を楽しみにしている。少なくともこちらを訪れて真面な発言をした専門家も居ないようで、今回も呼び屋さんがこの指揮者を「気鋭」としていたのには驚いた ― その後「世界が注視する」と直されていた。台北で大師と呼べるのはメディアからの束縛が弱いからだと気が付いた。



参照:
https://twitter.com/ ペトレンコ
Nach Tokio! Nach Rom! 2017-09-15 | 音
「全力を注ぐ所存です。」 2017-09-17 | 文化一般
身を焦がすアダージェット 2017-05-10 | 音
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「全力を注ぐ所存です。」

2017-09-17 | 文化一般
ミュンヘンの歌劇場のアジア公演に関して一段落して、様々な感想が載っている。劇場のHPにはまた別のマーケッティングの人がここまでの旅行記を書いていて、台北とソウルから東京到着までについて短く旅行記としている。

18時間の移動の果ての六時間の時差ボケがあるにもかかわらず翌朝10時に入りで、キリル・ペトレンコがやって来ると120%の集中力で稽古に入り、意気が上がっていたことが語られる。結局二回の稽古で、全ての曲が通して演奏されたが、一小節に数分掛かることもしばしばだったようだ。台北の会場の音響には慣れる必要があったが可能性を充分に活かすことも可能だったとある。

面白いのは、台北の若くラフな薄着の聴衆で、楽団についても音楽監督についてもなんら聞いたことが無いという具合だった驚きである ― これについてはヴィデオで短パンの若い女性に気が付いたが、流石にその気候如何に拠らず欧州の夜の文化ではやはりあり得ない。台湾の呼び屋さんも親切な女性ばっかりで世話に当たったようである。 

コンサートでの喝采は、両手を上げてといった感じで ― ヴィデオで見た通り二通りの聴衆の一つだろう ―、とても直截なもので、最初の緊張感は一挙に解れたとある。ペトレンコ指揮管弦楽団とレヴィットの組み合わせで、台湾では知られていなかったのがこれで一挙に知られることとなったとあり、少なくとも二回目のコンサートへの入りで、コンサートが始まる前から我々スタッフにも拍手が送られたとある。そして劇場のロゴの入った手提げが20分で売り切れてしまい、「台湾人って手提げが好きなんだなー」と思ったとある。

食事の面では臭豆腐については評価は分かれたが、意外にもソウルでのBQが人気だったようである。但し旅行前にはそこでの滞在に関しては大きな不安もあったようだ。翌日のフリーには六人がゲーテインシュティテュートのコンサートとマイスターコースを開いたようでカメラが入っているのでいずれ断片が観られるのだろう。

コンサートホールは、僅か90分の稽古でも入るや否やご満悦で、本番では二曲各々にロックコンサート並みの喝采があり、翌日の早出を忘れるほどの反響だったという ― 聴衆の撮ったヴィデオを見返すとこちらでとは異なって、なるほどいい演奏をしたのだろうが楽団への喝采と指揮者への喝采の差はミュンヘンなどよりも遥かに小さい。韓国の聴衆はオタクも間違いなく多いだろうが、やはり東京などとは違ってミュンヘンの古い座付き管弦楽団初来演ということで訪れている人も少なくないのかもしれない。また台北とは違う意味で東京とも違うということだろう。そして喜びに溢れての東京到着で、どこか古い友人に再会したような馴染みの東京、各々が自由に出かけたとある。そして二週間ほど過ごすホテルに落ち着いたようだ。

同時に、南ドイツ新聞も東京に人を送って、ペトレンコ接近を試み、タンホイザー演出の日本での反響を見る。しかし様々に提供される写真には綺麗にキリル・ペトレンコの肖像は切られていることからすれば、写真家の専属権もあるがマネージメントがしっかりと防御をしているのは間違いなさそうだ。それでも音楽誌「クラシックホイテ」のHPには以下のような音楽監督のメッセージらしきが出ている。他には見当たらないのでプレス向きに出されたというよりも、日本向けの冊子やプログラムに掲載されるのかもしれない。

Generalmusikdirektor Kirill Petrenko gibt mit dieser Tournee sein Asien-Debüt: „Ich war noch nie in Japan. Daher bin ich sehr gespannt auf unser großes Gastspiel im „Land der aufgehenden Sonne“! Auch auf Wagners Tannhäuser freue ich mich schon sehr. Kurz vor unserem Gastspiel hatte im Mai unsere Neuinszenierung von Romeo Castellucci Premiere, da ist so vieles Neues zu entdecken, für alle Beteiligten! Wir werden jedenfalls alles dafür tun, den Erwartungen gerecht zu werden, und wollen unser Bestes geben. Ich freue mich sehr auf diese Reise!“

 ― 日本は初めてで、「陽が昇る国」での客演大公演がとても待ち遠しい。そして、ヴァークナーの「タンホイザー」をとても楽しみにしています。今客演が始まる前の五月のロメオ・カステルッチ新演出初演で皆に沢山のことが明らかになりました。ご期待に沿うよう全力を注ぐ所存で、最高の成果を示したいと思います。とても楽しみにしています。 ―

先ずは、日曜日の演奏会の出来とその反響に私達の関心は集まるところである。この「インタヴューは時間の無駄」と言い切る指揮者の類稀な藝術に対する真摯な姿勢とそのマネージメント能力は、既にこのアジアツアーでも端々に表れていて、しょてっぱなから東京の聴衆に問うてくるのは間違いない。ラディオ中継が無くて本当に残念である。



参照:
Ich war noch nie in Japan. Das ist.. 2017-04-03 | 暦
Nach Tokio! Nach Rom! 2017-09-15 | 音
コメント (2)
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