Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2020年1月

2020-01-31 | Weblog-Index


野趣味溢れる趣味の良さ 2020-01-31 | 音
内心びくびくの今日この頃 2020-01-30 | 生活
押しつけがましく無いこと 2020-01-29 | 音
月末に際しての想い 2020-01-28 | 雑感
イザ、バティアシュヴィリ 2020-01-27 | 女
21世紀の機能和声の響き 2020-01-26 | 音
シカゴ交響楽団のサウンド 2020-01-25 | 音
私達のバッハを求めて 2020-01-24 | 文化一般
下ろしたて靴下で前進 2020-01-23 | 生活
復活祭用の気の利いた冊子 2020-01-22 | 文化一般
祝祭劇場のコーヒー 2020-01-21 | 雑感
ピアニストに女王はいるか 2020-01-20 | 文化一般
浮かび上がる動機 2020-01-19 | 音
感興豊かな躍動性 2020-01-18 | 音
回復力吃驚とはならず 2020-01-16 | 雑感
2019年「気候ヒステリー」 2020-01-15 | 文化一般
素材になり易いもの 2020-01-14 | 雑感
準備を整えてイザ 2020-01-13 | マスメディア批評
馬耳東風の音楽界首領 2020-01-12 | 雑感
もう一日なおして行こう 2020-01-11 | 雑感
痛痒さを感じた翌日 2020-01-10 | 生活
コラーゲン摂取にはしる 2020-01-09 | 雑感
膿をスッキリ出した 2020-01-08 | 雑感
カードを開放して貰う 2020-01-07 | 生活
スピード違反の書状を待つ 2020-01-06 | 雑感
体力回復を期待する日々 2020-01-05 | 生活
年始のスタートダッシュ 2020-01-04 | ワイン
壁を乗り越えて進もう 2020-01-03 | 文化一般
啓蒙的教育的な配慮 2020-01-02 | 文化一般
ネットパーティー予定表 2020-01-01 | 暦
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野趣味溢れる趣味の良さ

2020-01-31 | 
承前)キリル・ペトレンコにあってサイモン・ラトルに無かったものと、フルートのパユが中欧的な音楽性と定義した。これはなにも裁定したりするものでなくて、特に独墺音楽の演奏やその評価に於いてとても重要な要素であることを意外に忘れている。それはなにも音楽におかしなアクセントがあるとかないだけではない空気感のようようなものである。言葉を変えると生活感覚から生じてくる趣味とでもいえよう。古典の芸術に接するときにでもとても重要な要素で、パユのような中欧の音楽家がそれに言及することが珍しいのは自らがあまり気が付いていないことがあるからだろうか?そうした気風的な土壌の上に趣味の良さ悪さが問われる。

先のバッハのカンタータ演奏などにおいては最もその趣味の良さが問われるところであり、同じバッハのチェロソナタを超絶技巧で演奏してもマイスキーなどはとても趣味が悪いと思うのが普通である。その意味から英国人ガードナーのバッハはドイツでは限定的な支持しかなく、技術的に精査されたドグマ的なスズキのバッハと比べてもそれ程人気はないであろう。その趣味や趣向こそが感覚的に評価されるということで、中々分析的に吟味するのが難しいところである。

その意味で今回準備にも音源を使ったのだが、シュトッツガルトのバッハカントールのリリング指揮の録音はやはりよかった。奇しくもレクチャーでも流されたのも当然なのである。現在の批判的な演奏形態ではないのだがその音楽には違和感が無い。ヘンゲルブロック指揮のバッハよりは矢張りいいと思った。LPで何枚かは集めたので改めてその録音を聴いてみたいと思っている。

同様に趣味というかトレンドとしての楽音の響きもある。今回の四回音楽シリーズでハッキリ浮かび上がったのは、既に述べたようにピアノのアムランやワンに通じるバスの響かせ方などで、二十世紀後半に流行ったようにマスの響きが会場を包んで聴衆を驚かすというものでは全くなくなった。ピアノでもポリーニの「ペトローシュカ」演奏などもピアノの響きが割れんばかりの音を叩いていたが、アムランのようにアクション中のキーの数に応じた音量とかまさにデジタルな段階はなかった。その点ではワンも弱音を用いながらもその合理的な響きを追及しているという事ではトレンドのピアノであって、同じようにヴィルトーズとか言われるような音響とは異質である。

まさにムーティ指揮のシカゴ交響楽団が鳴らないとは言っても「オランダ人」で聴かせたように弦のクラウドの上に管が乗るといった形でとても現代的でクールであった。更にそこに強い弦の積極的な表現力を加えれば先頃中継されたベルリンからのマーラーの六番のような響きになる。それと同時に嘗てのチェコの楽団が響かしていたような東欧の音階的な響きやレントラーの面白さが展開するというまさしく中欧的な野趣に満ち溢れていた。

共通しているのはデジタルに一拍一符も疎かにしない点描的な和声の音化であって、嘗ての様にまるで通奏低音のような大管弦楽団のバスの響きというのは完全に払拭されている。勿論しっかりしたバスがあるからこそそこに倍音成分の重ね合せて大きな音が鳴る訳だが、よりシャープな鳴りが要求されていて、その和音の重なり合いこそが希求される。

それはかつてマーラーが自作を指揮した節に修正に修正を重ねていた点であって、弟子たちには何よりもその響きの明晰さの為に修正をも辞さない様にと指示したという。なるほどその曲に陶酔した新ヴィーン学派の面々はその楽譜からそれを読み込んでいたからこそ彼らの作風に大きな影響を与えたとされるのである。

一月のその僅か一週間の間の演奏会はとても勉強になった。自信を以て言えるのは新しいモダーンな会場の音響の明白さは其の侭演奏における明晰な演奏へと連なっている。最早逆行するような余地はない。そこまで敏感な和声的な感覚の無い音楽家は最早受け入れられなくなってきているであろう。時間の問題である。(終わり)



参照:
ピアニストに女王はいるか 2020-01-20 | 文化一般
浮かび上がる動機 2020-01-19 | 音
感興豊かな躍動性 2020-01-18 | 音
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内心びくびくの今日この頃

2020-01-30 | 生活
愈々である。ミュンヘンオパーフェストのティケット発注だ。あたるも八卦であるが、メインの「ファルスタッフ」は比較的入券し易いと思っている。理由は、ヴォルフガンク・コッホが主役で人気もそれほど広くはない。その他のキャスティングで名前を知っている人はベノワ、フォンデアダメロウのニ人で、メトで歌ったシュルツも入っていないぐらいだから余程の精鋭メムバーなのだろう。どこまでアンサムブルを揃えられるか。要するに歌手だけで押し寄せる人は皆無だろう。キリル・ペトレンコ音楽監督としては最後の制作である。要するに押し寄せる人は今迄のご贔屓さんなので雰囲気はいいと思う。

しかし、入場券がべら棒に高い。特に初日は最高額料金になっている。皆が当たるのを恐れていて、それを外していく人もいるだろう。私も内心びくびくしているが、当たりそうだ。もうここまで来れば付き合うしかない。因みに下位のV-VIIIまでは殆ど売り切れている。つまり300席と150席の立ち席は既に出ている。

どちらにしても初日でも当たれば十日までに当否が知らされる。カード支払いで来月まで期間はあるので支払いは今は考えない。あとは七月が上手く開いて計画が立て易くなる。

演出のコルジェニックに関してはバーデンバーデンで処女演出を観てみないと分からないが、技術的なところを克服していればそれほど悪くはないと思う。一昨年の女流ニールマイヤー演出の「オテロ」を更に心理劇風にしたものだと想像している。

その他の出し物で興味があるのはラモー作曲「カストールとポルックス」だ。その他名歌手は、ドミンゴ、ヨンツェヴァ、カウフマン、ヤホ、キーンリサイド、シュテムメ、ペーターセン、ハーニンガとか目白押しだが、途中で飛び込むとしても価格と日程が問題になる。来年もあるので先ずは、その程度で、恐らく来シーズンには次期監督ユロスキー指揮の新制作があるだろうから、そちらにも備えたい。

余所行きシャツは洗濯屋に出した。あとは次のコンサートの準備だ。ラフマニノフの交響的舞曲の楽譜は落とした。ストラヴィンスキーの「三楽章の交響曲」は買うと20ユーロほどする。アロイスツィンマーマンの「アラゴアーナ」は、サムプルを見ると組曲に関わらず150ペ-ジもある。これは大変だ。

ハムブルク郊外の宿も思っていたよりも高めだったら、朝食付きで58ユーロだった。翌日早めに帰宅の途に就こうと考えたからだ。ハムブルクよりは幾らかは近い。精々音楽会が終ってから軽く食事をして、翌朝チェックアウト10時までに朝食をとって出発。夜食の用意もしておこう。出かけるのが月曜日なので午前中は込む。チェックインも15時過ぎが限界か。

先ずは床屋にも出かけておきたい。今週末に気温が上がるので11月末以来二月ぶりでスッキリできるか?今刈っておくと次は復活祭前だ。

新鮮なシナ情報が入った。パンデミーに関しての新説だ。只のシナ人の個人的な推測でしかないが、そのように考える人が一人でもいる限りとんでもない数の人が同じように考えている。なんと武漢では蝙蝠を食するらしい。地方料理らしい。だから近隣の都市のシナ人も「そりゃー、自業自得」ぐらいに考えているという。そしてパンデミーが北京にまで広がるとなると笑い事では済まされない。そしてドイツでもシナ人によるマスクの爆買いが始まっているらしい。

そもそもなんでも食するシナ人という認識があるがその中でも犬を食するというのカニヴァリズムほどではないが特殊だというのは分かる。それでも東洋医学的な根拠があれば何でもありだ。その点からすれば蝙蝠食というのはそれほど効用が知られていないのかもしれない。あの洞穴に居てバタバタする哺乳類を食すのはネズミを食するようで気持ちが悪い。シナは何でもありだ。効用はコロナヴィールスか?



参照:
モデュール構成の二百年 2008-01-19 | 文化一般
お休みの所をお邪魔して 2005-02-17 | アウトドーア・環境
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押しつけがましく無いこと

2020-01-29 | 
承前)曲順の変更があった。お目当てのカンタータ「侯妃よ、さらに一条の光を」BWV198が最後に演奏される筈だった。手元のプログラムに載っている通りだ。しかしその前に演奏される予定だったモテット「おおイエス私たち命の光よ」BWV118が最後に持ってこられた。そのコラールからの曲でカンタータを始めればとプログラムにある通り、正しくはそれで終わった方が形が良い。実際の演奏で前の死者の為のカンタータの後でどのように繋ぐか興味深く見守っていた。

本当に好奇心のある人の態度はそうであって、こうした珍しい曲のそのプログラミングの意思を探るためには、指揮者のヘルヴェッヘがどのような態度を取るかじっくり眺めていた。若干間を置いたが拍手を求めるような感じで手を下げた。その後音取りをしていたのでそれも一つの理由だろう。この指揮者ほど音楽における叙述法を語る音楽家を知らない。だからそこも見逃さなかった。

そこからその前のカンタータの出来がやはり強調された形になる。そしてこの曲の最初と最後の曲の歌詞が失われたマルコ受難曲のアリアと一致しているのである。二本のガムバとリュートが伴奏するという楽器編成となっている。その楽器編成だけでなく和声的にもとても興味深く、殆ど私達が知っているバロックオペラ的でもあり、ここまでやれば彼のヘンデルにも対抗できたと思う腕である。

カンタータがここまで面白いとは正直思ったことがなかった。そもそもレツィタティーヴも退屈であり、更にアリアとなるとダカーポで繰り返されるとかどうしようもない気持ちになる。しかしダカーポアリアはヘンデルのオペラでもそうであって、昨年になって初めてその意味を理解したのだ。演出家クラウス・グートのお蔭で、つまり彼が演出を繰り返しの時により深く先へと進むようにつけていたからだ。つまりバッハがお決まりのように受難曲でダカーポするときに意味は明白となる。三省でなくて二省へと少なくとも進む。ある意味どうしてそんな簡単なことが今まで分からなかったのかと思うのだが、ここではダカーポなしにすんなりと前へと進む。勿論テクストの付け直しとかの原文の問題であるのだ。

余談ながらソナタ形式における提示部の繰り返しなどもそこから演繹的にその意味が知れるだろう。後期バロックから古典音楽へと、まさしくこの音楽にはとても重要な要素がたくさん詰まっている。そもそもバロックにおける走句などの作曲技法もたとえそこに番号付きの通奏低音が付けられようがもう一つよく分からなかったのだが、ここで大バッハが筆を走らせるか鍵盤に指を走らせているその思考形態と雰囲気がとても理解できるようになってきた。

指揮者ヘルヴェッヘは一言も声を出していない。しかし、こうして周りを取り囲み各々ああだこうだと考えている。もうそれだけで我々のバッハなのだ。それどころか前半一曲目の「人よ、何時に良きことを告げられたり」BWV45が始まって、正直あらあらと思った。思い出したからである、その優秀な合唱に比べて管弦楽の弱いこの団体をだ。そして直ぐに夏のルツェルンで購入した高価なティケットでどれほどの演奏をアムステルダムのコンセルトヘボー管弦楽団ができるものかとやけっぱちになった。

通常の音楽表現として物足りない。更に会場の残響で二階バルコンの前から五列目でも音が滲む。CD録音のように細かなところがはっきり聴こえない。そもそも録音の時は一流ゲストの助っ人が入っているではとか詰まらないことも頭に浮かんだ。しかし、進むにつれて聴き慣れた合唱は聴こえてくる。しかしである、明らかにこちらの耳が変わってきている。それは超一流劇場のオペラ公演で慣れた耳で、特に独唱の発声とか言葉の明瞭性などの比較になる。一番はっきりしていたのが教会音楽での第一人者ぐらいに有名なバスのコーイでその歌唱力だ。確かに声は大きいが、以前よりも悪くなっているのもあるかもしれないが、御馴染になった超一流のオペラ歌手と比較すれば音楽性が大分落ちる。他のカウンターテナーのアレックス・ポッター、テノールのトーマス・ホッブス然りで、その流派などに関わらず決して超一流のオペラ上演に出れるような実力を持ち得ていない。ただ一人、殆ど無名の若いソプラノのドロテー・ミールズは声も良くまだ可能性を感じた。

そして二曲目がこれまた有名なカンタータ「我が魂なるイエスよ」BWV78で、そのデュオが聴きものだった。そしてこの曲こそ初期ルター派を思い起こさせるような、つまりあのクラナッハ時代の新興宗教の教条的な押しつけがましいカンタータである。今回はこの曲は参考に聴かなかったが、あの人を食ったようなコープマンの指揮になるのはその為である。(続く



参照:
改革に釣合う平板な色気 2008-01-18 | マスメディア批評
それは、なぜ難しい? 2007-11-10 | 音
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月末に際しての想い

2020-01-28 | 雑感
そろそろオパーフェストの発注を済まさなければいけない。他に欲しいものがあるかなど確認しようと置いておいた。既にその周辺のティケットにも手を出しているので、日程をもう一度全てグーグルカレンダーに押し込んでおかないとダブルブッキングになりかねない。

月末の週明けとなるとアップアップになる。前夜は警察への書類を送付の為のスキャンなどをとっていて時間を取った。面倒だが仕方が無い。こちらの文章に対して先方が主張するとしたら時速60㎞制限の写真を提示するだけだろう。恐らく見難い提示になっていたと思う。どこでもネズミ取りして金を取ろうとするのが間違っている。

週末は玄武岩土壌のフォルスターのリースリングを開けた。2016年産で綺麗に熟成していた。まだまだ若いがたっぷりと土壌感を味わった。あの閉じた百合の蕾のようでいながらしっとりした味筋は分かる人には分かるカルトヴァインである。新たな年度のものを購入しておかなければいけない。

懸案だった仕事着の白衣を発注した。お医者さんごっこ用の本格的なエッペンドルファーである。今まで使っていたものの肘が破れて来た。病室への堂々巡りではなくて書き仕事が多いからで、そもそも白衣が無ければ下の着衣が破れるだけである。出納係のような肘当をするわけではないので、このコートは冬場の防寒にとても役立っている。膝下まであるので膝掛が要らない。更に大きめを着用しているので下に着込める。それでももう少し本格的に着こなしたいと思って - 亡くなったケーシー高峰ではないが、最初は偽医者のテレがあったが慣れとは怖いもので、これで路上も歩く勇気が付いているが、流石に聴診器までは下げていない -、一つサイズの小さな54を発注した。まだ大き過ぎるかもしれないが、同じ価格なので大きい方がお得である。白衣は、医者用に限ってもこのハムブルクの病床1600のエッペンドルファーの大病院に因む訪問着でなくとも、半額以下の簡単なものは沢山あるのだが、機能だけを考えれば医者用に限らなくなるので面白くない。一度医者の友人が来た時に羽織っていると、「一体どうしたのですか?」と言われたが、室内用コートとしては生地が確りしていても軽く、洗濯も容易でこれに勝るものはないと思っている。

土曜日に購入したDCHの一週間券を使わなければいけない。もう一つ流しておかないといけないのは復活祭で聴く予定のブロムシュテット指揮ブルックナーとアンスネスの弾くモーツァルトの協奏曲である。またそろそろ二月の定期に続いての国内お披露目ツアーのプログラムもお勉強しておかなければいけない。ラフマニノフが何よりも課題になる。

昨年の電気料金の精算書が届いた。残念なことに再び1893kWhと2018年程度に戻った。理由は分かり難いが増加分が190kWhと多い。この間増えたものはNASの駆動だと思う。年間を通しての二機のルーターも増えたので夜中を消すなりの方策を検討しよう。PCオーディオ用に導入でDACを点けっぱなしにする時間も増えた。NASはその後若干稼働時間を短くしているが、DACの方は時短は出来ていない。減っている可能性はタイマー駆動にしていた夜間ラムプをスマートプラグに切り替えたことの時短。しかし同時にプラグのスタンバイで電流が流れる。その他ではオーヴンの使用時間の増大ぐらいだ。洗濯量は増えていない筈だ。月56ユーロとこれはまだ許容可能な数値である。



参照:
2016年産の果実風味への期待 2017-05-04 | ワイン
省エネ電気使用通信簿 2019-02-06 | アウトドーア・環境
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イザ、バティアシュヴィリ

2020-01-27 | 
またしてもティケェットを購入してしまった。良いものを近所で見かけると義務感のようにして出かけたくなる。近くとは車で一時間以内になるが、更に近くで似た催し物が無いかを調べる。今回の場合は、リサ・バティアシュヴィリが何かを演奏しないか?あり得るのはアルテオパー、バーデンバーデン、シュヴェツィンゲンかハイデルベルクぐらいだろう。アルテオパーではラトルがロンドンの交響楽団を振ってベルクの協奏曲をやるが、バーデンバーデンでドヴォルザークを合わせた時は弾き難そうだったので肝心のヴァイオリンが羽ばたかない。だから、インゲルハイムの新ホールで「鱒」を演奏する。ラインガウワーの音楽祭のプログラムだが、コンセルトヘボーでも演奏をするようだ。そしてなんとピアノはアムラン。これで今年になってからでも三回はアムランのピアノを聴く。まるで近所に引っ越して来て欧州の拠点にしているようだ。フランクフルトかどっかの教授になっているか?先日のプログラムを見るとボストン在住のようだ。しかし自身の五重奏曲を初演するというからこの「鱒」は関係あるに違いない。シューベルト解釈では確かに一家言を築いている。
Lisa Batiashvili Osterfestspiele Vorfreude


それはさておきバティアシュヴィリを生で聴くいい機会だ。下手な伴奏には邪魔されたくない。勿論料金もあるがロンドン響は日程が合わない。更にそれの為に遠方まで行く心算も全くなかった。そして中ホールで聴けるならば何よりもだ。それも比較的編成が大きくヴァイオリンソロなので合奏とも異なる。「鱒」を生で聴くのはそれほどない。あまり記憶が無い。他のフレンズの名前は知らないが、そんなに従属的な編成では無かろう。但し一曲だけでシューバルトを取り巻く反政府自由主義のテクストなどが読まれる企画ものだ。七月初めの暑い時に清涼になる事を願っている。但し入場料は最低で手数料込みで34ユーロした。ベルリナーフィルハーモニカー公演と変わらない。まあ、彼女彼らのギャラになるならそれに見合ういい演奏をして貰いたいだけである。

音楽祭の全体の印象は小振り化していて、大きな出し物はイェルヴィトーンハレ、ゲリギーエフとミュンヘンフィル、バレンボイムとシャニ西東管、ムターとピッツバーク、カウフマンとプファルツ州管などエンタメ若しくは二流が増えてきている。ナガノの「ミサソレムニス」と今年のゲヴァントハウスなどからすると可成り落ちる。更にエッシェンバッハとフランツのデュオとか、引退した筈のゲルネのリーダーアーベントがゲルハーハーよりも大きいところで高価に開かれるってどういいう事?ゲルハーハーは毎年歌うのだが時期が悪い。暑いさなかにそれほど涼しくないヨハニスベルクのメッテルニッヒ家の邸宅で開かれる。

バティアシュヴィリと並んで毎年のようにラジュネヴァがレジデントで出る。バティアシュヴィリの方は旦那と一回、イェルヴィと一回とお話しの会ぐらいだ。元々ナクソスなどと同じく音楽好きのビジネスマンが始めた音楽際なのでバーデンバーデンの興業師が居なくなると余計にこの知的程度の低さが目立つようになる。将来的に残るかどうか?

さて、スピード違反の異議申し立てを成文してしまわなければいけない。現場検証のヴィデオを再確認した。撮影場所が橋脚がもう一つあってアヤフヤニなっている。しかし撮影後に直ぐに100㎞制限に気が付いたから、まさか60㎞制限とは考えなかった。しかしここは予め法廷戦略的に余分な情報を出すべきではないと考えた。論点はただ一つ、通常は80㎞制限で有り得るところであまりにも遅い車を追い越して100㎞出てしまった。60㎞と明白に制限するものをインターチェンジの乗り継ぎから現場までに見なかった。これでいいと思う。

恐らく先方も充分な表示が出来ていなかったのを知っているのだろう。そもそも60㎞制限は工事現場等特殊な場合であって誰にもその危険性が分かる。更に80と60の表示の差異は120と100以上に分かり難い。もし完全に追加の何かが出ていたとしたら完全に落としだ。その場合は眼医者に行きたい。兎に角異議の公式文書を出しておくことが肝心である。判例は知らないが、一か所だけの見落としで罰金まで取るというのはそれ程向こうの立場も強くはない。



参照:
熟成させる時間が必要 2019-09-15 | 雑感
Wブッキングの逡巡 2018-12-07 | 生活
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21世紀の機能和声の響き

2020-01-26 | 
承前)マルカンドレ・アムランのリサイタルでのフェインベルクには興奮させられた。前夜のムーテイ指揮の躍動感に中てられた。そして一日おいて、日曜日にはお待ちかねのユジャ・ワンとゴーティエ・カプサンとのデュオコンサートがあった。こちらはフランクフルトとは反対にバーデンバーデンへと南下した。一旦フランスへと入り再びラインを超えてドイツへと再入国する。前回の祝祭劇場への訪問は復活祭のランランとペトレンコの最初で最後の共演だったと思う。つまり今シーズンに入ってから出かけていない。先ず何よりも今復活祭の二ケタに及ぶティケットの中で只唯一回収できていないそれを受け取った。先方が受け渡しを間違えていただけなのだが、自由席であり祝祭が始まる前に回収しておきたかった。既に旧年四月中にメールで確認させておいたので全く問題はなかった。

バーデン・バーデンがこの欧州公演ツアーの一役を担ったことは興味深い。このチェロソナタでのデュオというのはそれほど大きな催しではなく、今まででも名チェリストが弾いて名ピアニストが付ける公演というのはそれほど催されていない筈だ。実際ロストロポーヴィッチも聴いているが、ショパンのそれは記憶が無い。要するにワンという名前があってもこのリサイタルに駆け付ける人は可成りの通で、チェロを弾いている人程度ではない。流石に客層は印象からすると玄人筋も多かった。

2000人仕様の上階を締めてでもあまり売り切れていなかったが、平土間やサイドバルコンは売れていた。恐らく千数百人は入ったと思う。ポリーニがバルコンを締めて数百人、ソコロフの時はもう少し入っていただろうか。舞台上の照明は暗めであった。室内楽に関しては既に駐車場に小ホールの併設案が上がっているがオーナーである市が決定してからでも時間が掛かるので数年掛かるのではなかろうか。先ずは祝祭景気が市の財政にどのように反映されるかだ。ブーレーズハウスの話しもあり大変だ。

さて曲目変更になったので前半の終わりに序奏とポロネーズがフランクに続けて演奏された。ここで漸くピアノも活躍するようになる。それほど前半のフランクではワンが伴奏に専任していたかでもあり、同時にカプサンのチェロはその台付の椅子でも分かるように床から大分上げられているために胴声とはならずにどちらかというとシェップスのマイク録音の音質のように当りのある音色で良かった。楽器も1746年産のジョゼフ・コントレラスという名器のようだ。

ここまで聴いても如何にワンが合わせていることに徹していて、それも通常の伴奏者とは全く異なる次元で合せていたことに気がついた筈だ。その分、終始チェロとの音量にも配慮されると同時にその受け渡しも見事で、それに近いのはペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカーの伴奏でまさに一拍一拍当てるように合わせていた。これが出来るのは伴奏ピアニストではない。

そしていよいよショパンのソナタである。この曲は良く知られている。しかしそれほど名演奏に接する機会はない。演奏技術上の問題もあるかもしれないが、何よりも曲が難しい。何が難しいか?それはこの晩のオリエンテーリングの中心主題だった。なぜ難しいか?それはこの曲が典型的な十九世紀前半のロマン主義美学様式に属すからで、その正反対に同世紀後半の後期ロマン派のフランクがあるとする話しだった。つまり後半には既に過去へと戻り、フランクの循環形式などの様に、分かり易く明晰な構造が取られたとなる。音楽で言えばブラームスなどの新古典主義ももうそこだ。文学においても詩作から長編の物語へと変化する。同じ話者から語られたファンタジーポロネーズの「忘却とは忘れることなり」の内容と同じである。ソナタとは言いながらその主題の流れを把握するのがとても難しいのである。だから中々全体の構成が認識できない。そのように作曲されているのがロマン派である。

ワンのピアノが精妙なタッチで以ってシュパンを奏でるのだが、そこでは所謂和声の澄み切った古典的なショパンを超えた音楽なので、最早バスの底音に累々と乗るのではなくて丁度当てて行くといった感じのピアニズムであって、彼女がソロではなくてこのソナタで素晴らしい成果を挙げているのはとても賢い企画であることがよく分かる。これだけ微細なソナタ演奏は今まで聴いたことが無かった。チェロも正確に発声することに留意している。

そこに詰めかけた聴衆の多くは室内楽初心者ではなかったであろう。家庭で演奏する人よりも玄人筋の人の方が多いぐらいだったかもしれないが、ああしたデュオを目の辺りにすると意識が変わる。先ず何よりも昨今のその音楽の作り方は皆共通しているかもしれない。シカゴ交響楽団のサウンド、アムランのピアノ演奏共通しているのは、その機能和声の響かせ方であり、如何に我々が二十世紀後半になされていたカラヤンサーカス団流のサウンドから遠いところに来ているかという事である。(続く)



参照:
忘却とは忘れる事なり 2019-05-14 | 音
雪辱を果たす様な気持ち 2019-09-20 | 女
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シカゴ交響楽団のサウンド

2020-01-25 | 
承前)「新世界から」でも最も功績があったのがシカゴの交響楽団のサウンドとそのアンサムブルである。いつも乍のドライな響きが更に現在の低調な弦楽陣で余計に無機的な機械仕掛けのような音の絨毯を提供する。ショルティ時代ならばそれが最後のプルトまで徹底して弾き込んでくるので耳に突き刺さるような鋭い響きとなった。しかし今は上手なのを前に集めていて、下手な者が後ろに座っている。それが機械的に合わせてくるものだから揃っての腰のある音が出ない。その点ではフィラデルフィアの弦楽陣が上でコントラバス陣も強靭さがある、恐らくニューヨーカーは更に野太く歌ってくるだろう。その意味では本格的でないという事ではクリーヴランドの弦楽陣にも似ているかもしれない。

しかし金管陣はまさにシカゴブラスなので突出する。しかし決して野放図なロスのようなサウンドトラックの響きにはならない。それがビッグファイヴの歴史で伝統なのだが、敢えてトラムペット、トロムボーン陣を離して配置するとか同じアメリカン配置でもフィリーとは異なり興味深かった。しかし今回の「新世界から」においては全てがいい方へと働いていた。あまりにもマエストロが乗った指揮をするのでトラムペット主席バターランが様子を窺がっていたぐらいだ。中々現在あれだけの運動量で熱烈な指揮をすることは79歳の病気持ちの指揮者にはないのではないか?その意味では最後の舞ではないがあれだけの情熱的な指揮振りには「命を懸けた遊び」が感じられて聴衆を感動させたに違いない。

前半はシカゴ交響楽団の現在の状況を詳しく計るに充分だった。音取りも撮影したが、よくそのアンサムブルの特徴が出ていた。そして今気が付いたが以前は異なった音取りをしていたのではないかと思った。コントラバスから上に合わせて行くのはチェリビダッケ指揮にロンドン交響楽団だったと記憶するが、ショルティー時代はもう少し徹底していた印象がある。

二曲目のヒンデミット「画家マティス」が楽団の腕の見せ所であったが、フーガの扱いなどそれなりに弾いていても、ヴィオラ陣が前に出てきても明らかに群としての腕前を示すには至らなかった。顔ぶれは決して老けているどころかアジア系の若い人も多いが、MIDIで音を打ち込んでいるような流してしまうような弾き振りで、やはりコンサートマスターのロバート・チェンという人はソロでも活躍している人のようだが、到底ベルリンのダイシンとは比較にならない。少なくともマスターとしては安定はしているのかもしれないが並である。血の気の失せたゾンビ軍団の頭だ。それでもやはり管などの合わせ方は上手く、ヒンデミット曲にはやはり嬉しい。

一曲目は「さまよえるオランダ人」であったが、往路の車中でショルティー指揮の録音を聴いていた。何が最も異なるかというと自然なアーティキュレーションで、些か初期のヴァークナーかヴェルディかの差が分かり難かったのだが、それだけでもショルティ指揮よりもムーティ指揮の方が良く歌っていて見事だった。あのショルティほどの経験豊かな指揮者が何故明らかに寸足らずのヴァークナー演奏になっているかが分かり難かった。どうもあの当時のショルティー指揮シカゴの締まり切ったバスを鳴らしつつそこから上へと倍音成分を重ねて行くようなまるで正弦波のような音出しをしていたからで、それに比較するとムーティ指揮のヴァークナーは軽やかだ。言葉を変えれば嘗てのショルティー指揮と比べるまでも無く全く鳴り切らない大交響楽団になった。あの1700席ほどの最良のホールで鳴り切らない、鳴らさない。交響楽団としてその使命を放棄していた。

謂わばこれで現在のシカゴのそのアンサムブルがとてもよく分かり、またこのような初期中期のヴァークナー演奏ならばあの奈落を使ってもムーティ指揮は上手く鳴らせるのではないかと思った。嘗てクリュイタンス指揮などが比較的成功した様なサウンドが想像された。

しかし二年ほど前にバイロイトデビューの噂が出た時は到底その労働には耐えられないと思ったものなので、今回のマエストロの健康状態は異常に良かったのである。同時に現在のシカゴ交響楽団のアンサムブルは嘗てのサウンドの形骸化としても実は意外に的を得た趣味ではないかとも考えたのだ。その理由は明くる晩のアムランのピアノリサイタルで更に明白になるのであった。(続く)



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2019年「気候ヒステリー」 2020-01-15 | 文化一般
とても魅力的な管弦楽 2017-01-30 | 音 
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私達のバッハを求めて

2020-01-24 | 文化一般
ヘルヴェッヘ指揮コレギウムヴォカールゲントの記念演奏会があった。創立五十周年だったようだが、同時にフランクフルトのバッハの会ではヘルヴェッヘ特集として三回の公演を企画している。1970年の創立だが、フランクフルトでは比較的後になってしか登場していないと思う。それは指揮者ヘルヴェッヘにおいても同様で、私の知る限りここから育ったとも言えるヘンゲルブロックの方が馴染み深い。それでもある時期を過ぎてからはヘルヴェッヘのバッハこそが我々のバッハになった。

その証拠にレクチャーに於いてバロックの専門家カービッツ氏の話しで改めて確認した。そのお話しは全く私が想像した通りの内容だった。つまりカンタータとは?から入った。まさしく今回のプログラムを見て私が考えて自分なりの考えとこのレクチャーで更に膨らめようとした命題だ。それ程プログラムのBWV198のカンタータ「侯妃よ、さらに一条の光を」との出合いは意識を変えるに充分だった。改めて調べると侯妃死去に際してライプチッヒの大学から依頼されたものだが、宗教的な文言は一切使われず宗教カンタータに分類されている。内容からしても異色なのだ。

だからライプチッヒで200曲のカンタータ―が様々な団体によって演奏されたと報告されて、その演奏団体の名前が挙げられる。スズキやガードナーなどの団体名であるが、これらを称して少し言い淀んでから、「よく知られた団体です」と定義した。そうなのである、我々のバッハとは違うのだ。ガードナー自身を再三招聘したが、また今回肝心の曲を予習に少し流したが、全くバッハになっていない。

勿論我々とは、カービッツ氏が語るように「皆さんのようにバッハに造詣が深い方々には断るまでも無いかもしれませんが、」と、恐らくその多くは沢山の曲を自身歌ったり、弾いたりそら案じていたりする人たちであろう。しかしである、カンタータ―のその意味は、イタリア語からの訳であるぐらい知っていて、本当の意味合いはこうして啓けて行く。

実際に会でも毎シーズンの受難曲オラトリウムの演奏は様々な団体で、マルコ受難曲まで演奏されている一方、カンタータを片っ端からという企画は記憶にない。精々単発である団体がカンタータの夕べを演奏するだけだった。だからバッハの会の会員でもこうした出合いがあるのだ。

そもそもバッハがそれ程魅力的でもないライプチッヒのトーマス教会のカントールの職に就いたのは、この毎週課されるカンタータの創作への義務とそれへの挑戦があったとされた。我々はそこで曲の使い回しとかそうした経済行為を通しての作曲法とかを考えてしまうが、それは本末転倒な考え方であって、自分に課した職業的な課題であったとなる。

その成果を当夜確かめて行ったのだが、残念ながら入りが悪い。要するに我々のバッハとは言いながらその我々が限られるらしい。バッハの音楽に関してある種のコアな層で、恐らく本場の中欧ドイツとはまた異なった宗教とは一線を隔したドイツ音楽におけるバッハの護り手な筈なのだが、ドイツェバンクの支援無しには活動が成立しない。バッハ音楽の普遍性を標榜しながらも全く容易ではないのである。そして一時からすると高齢者の比率が少なくなっていると感じるのでやはり亡くなってしまった会員も多いのだろう。同じ演奏者の受難曲の公演が会場全てを使ってギッシリと埋まっていたのは何時の日か?あれは幻だったのか?(続く



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全脳をもって対話(自問)するとは? 2010-04-05 | 音
空き部屋を押さえておく 2019-10-29 | 暦

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下ろしたて靴下で前進

2020-01-23 | 生活
英国に発注したシャツ類が届いた。久しぶりの白シャツで、もう一枚下ろしていないものとの相違は襟の形である。ポプリンなので薄っぺらく夏向きだが、蝶タイには使わなくても通常のタイには気楽に使える。洗濯屋に出して戻って来ている色変わりしたものと含めて三着あるので、あとは礼服用のものを購入しておけば当分は賄えるだろう。

兎に角、白シャツは安売りにならないので最近は購入しておらず白シャツばかりになっている。しかし、それほど色を考えないでも合わせられるのは矢張り都合がよい。同時に発注したソックスがこれまた微妙な色合いで、なるほど安売りになる原因はそこにある。本日も色物で出かけるので、グリーンの靴下を履いてみようかと思う。メリノとコットンの混毛と書いてあったが実際はナイロンとの合わせだった。丈夫でいいが、不当表示なのでクレームだけは付けておきたい。物は悪くはない、洗濯を何回かしてどれほど風合いが保たれるか?

フランクフルトからの帰路の車中でブリクジット法が英国議会で通ったことを聞いた。実際注文した時にも今までにはなかった通関税の免責についての一言が書き加えられていた。いよいよである。そこでセールがまだ続いているので駆け込み需要が見込まれているのだろう。こちらもじっくりとこの先どのようになるか分からないので、為替を睨みながら月末まで物色してみたい。再び上昇していて、暴落とは甚だ遠い。要するにソフトランディングする見通しという事なのだろう。

バッハ協会の例会に行くとやはり久しぶりだなとの気持ちになった。何が違うのだろうか?やはり協会外の人でもそこに集まる人の層が違うのだろう。一番違うののプロアルテとかの世界の交響楽団とかで集まる人たちだ。簡単に言うと頭の悪そうな人が多い。エンタメの一つなのだろうが、高い金を出して世界超一流のそれを観聴きしたという事を人に自慢する前に自負心に思っているような人たちが集まる。一番苦手な聴衆で、大ホールが一杯になる筈なのに、ペトレンコ指揮のお披露目国内ツアーがまだ売り切れていない事でもよく分かる。彼ら彼女らにするとラトル指揮ロンドン交響楽団を購入してあり、もうそれ以上超一流は要らないという感じだろうか。

レクチャーはアルテオパー大ホールで開かれたので、久しぶりに平土間に座った。平土間の真ん中から後ろの最前列に座った。若干舞台は上で最前列16列真ん中だから視界は効くがあまり座りたくないと思った。ベルリナーフィルハーモニカーでは146ユーロの一等席となり流石に全部売れている、二列目つまり17列はまだ売れ残っている。また第三ブロックの25列目以降は傾斜が付いているが同時にバルコンが被ってくる。それほど音響が悪くないのは経験しているので知っているが視覚が良くても安くないので取らない。

コンサート自体は2000人以下規模の最上階を閉めた形で、その正面二階バルコン席最後の列から二つ目を最低料金で購入していた。その前は殆ど開いていたので、最初から前進した。つまり12列目から5列目へと移動した。最高価格席だと思う。印象は視覚的にも近くてよいのだが若干音が滲む感じがある。それなら後部の私が購入した35ユーロの席でもそれほど変わらない。やはりルツェルンとかエルフィーとか新しいいいホールを知っていると、残響だけは豊かだがもう少しデテールがハッキリ聴きたいと思うと物足りない。これはこれでペトレンコがどのように合わせてくるかも愉しみである。既に座付楽団と欧州ツアー公演をしているので、会場はよく分かっている筈だ。次に出かける音楽会がエルフィー、その次がまたここアルテオパーとなる。

下ろしたての靴下であるがとても快適だった。以前の分厚いものでは指が当たっていたが、これでは気持ちよく収まり冷たさも無かった。兎に角一回でも気持ちよく履けたので10ポンドの価値は充分にあった。足が冷たくならずに汗ばむことも無く気持ちよいのが嬉しい。



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祝祭劇場のコーヒー 2020-01-21 | 雑感
交響曲をぶっ潰せ! 2019-12-18 | 音
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復活祭用の気の利いた冊子

2020-01-22 | 文化一般
交通違反の調書が来ている。反論する機会が与えられているので当然のことながら行使する。週末の仕事である。受け入れられるかどうか分からないが、反論しておかないと無理強いされても裁判にも持ち込めない。論拠は、「時速60㎞制限は間違いでしょう」という事で、60㎞制限が明示されていなかった事、インターチェンジから次の100㎞制限区間まで通常は一か所のみ80㎞制限が提示してあって、写真撮影の橋の下過ぎ直ぐに100㎞制限が提示されている事、更に撮影時は異常に遅い車を追い越した時であった事の三つであろう。要するにその時100㎞を越えていたとしても40㎞超過はしていないという反論だ。

実際に一か所臨時で速度制限してあってそれを基準にして違反を取るのは間違いである。実際に80㎞制限を見落としていた。なぜ見落としたかは分からないが、インターチェンジから走行車線に入ってでこうっつう状況によっては見落としは充分にあり得る。警察側がミスしていたとしたら、その設置場所と訳の分からない60㎞制限はインターチェンジ前に明示してあって、追加の速度制限明示が充分でなかったことだろう。それならば警察が分かっている筈だ。

だからインターチェンジからその走行車線に入ってきた事実と、異常に遅い車を追い越そうとして加速したことの二点が重要になる。橋の下の測定機設置は悪質だが、これはその時点で先の100㎞制限が見えなかった可能性もあるので何とも言えない。こちらは灰色だ。フランクフルトに行くときに写真でも撮ってみよう。

祝祭劇場からとって来たプリント資料が中々よい。一つは年間プログラムが英語で記されているパンフレットで、もう一つは復活祭プログラムパンフレットだ。どちらもまだ貰っていない。聖霊降臨祭用の冊子もあった。復活祭用はこれを持っていれば滞在中便利に時間的にも整理されていて、また会場の地図のイラストもあっておしゃれだ。そしてどことなく知的な感じもある。興行師支配人のときにはなかったテーストである。そして7日の祝祭劇場見学、5日と12日の其々芸術と歴史の二種類のガイドツアー、クーアハウスでの祝祭ラウンジの案内、ブルダ美術館での特別展示と市立美術館での風呂の文化展など全てが網羅されている。敢えて言えばGPはここでは紹介されていない。期間前という事だろう。

同時に表表紙の緑色と黄色の配色は結構保守的な印象もあって、完全にザルツブルクのそれと入れ替わったという意思表示にも読める。要するに復活祭といえばバーデンバーデンという定着を図っているのだろう。電話番号等も漏れなく書き込まれていて、万全の態勢を敷こうとしているかのようにも見える。前書きには、スタムパ支配人の名前で、ベートーヴェンの唯一のオペラ「フィデリオ」はフェスティヴァルの中心であって、世界的に注目されるだろうとしている。最後の頁には、SWRの前にARTEのロゴが加えられているのを見ても、それが生中継を表していることが読み取れる。

兎に角、こうしてもう既に来年のものが準備されている時期に最新のプリント資料を広げて見ると、感激してしまうのである。なにもそれほど具体的なことをしたわけではないが、遂にここまで現実化してきたなと思うととても感慨深い。最終日の生中継へと向けてまだまだやれることはある。



参照:
「魔笛」初日の解読の鍵 2013-03-25 | 文化一般
創作の物語を語らせる 2019-11-24 | 文化一般




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祝祭劇場のコーヒー

2020-01-21 | 雑感
シリーズ最後のコンサートの準備である。カンタータ三曲とモテット一曲である。我が会主催なので公演前には会員向けのレクチャーがある。我が会の役職のお話しなのであるが専門なので中々内容がある。是非早めに出かけて参加したい。

燃料はフランクフルト往復なので20l少々入れておけばいい。発注したエンジンオイルは当日までには届かないだろう。それが原因でエンジンストップすることは無いが、最近はエンジン音も喧しくなってきている。新車新モデル発表はないのだろうか?

今回の記念コンサートが終れば、次はイザハムブルクである。その前にオパーフェストの発注がある。またこの週末はベルリンからのマーラー交響曲六番の中継。新たに一週間券を買う。その次は独逸お披露目ツアーのプログラムをハムブルクの前々日に中継。両方とも生放送の準備をしておけばその他のブロムシュテット指揮や「修道女アンジェリカ」なども観れる。しかしネゼセガン指揮のマーラー三番は復活祭以前には観られない。二回購入して、もし必要があれば今シーズン中にもう一枚購入すれば足りる。マーラーの三番は恐らくどこかで放送されるだろう。あとイスラエルからの中継は各局が流すので心配は要らない。来シーズンには再びお試し券が貰えるので、新シーズンのプログラムが発表されてから考えればよい。

歯の治療に関してはハムブルク行までに仮の歯を入れてで対処するしかないだろう。また眼鏡も作らなければいけない。一度眼医者に行くかどうか考えたいが、恐らく必要が無いだろうと思う。

最近は熱い飲み物を出さない催し物会場が増えている。なにかEUの衛生上の規制が厳しくなったのだろうか?熱い飲み物製造機の清掃が大変になったのだろうか。どうしてもカフェインが欲しい。それも冬に熱くないと駄目である。二時間以上も神経を集中しているのは難しい。

バーデンバーデンで3ユーロのコーヒーを飲んだが、美味かった。ダルマイヤーが入っているミュンヘンの劇場よりも本格的だ。高級喫茶店の味である。これだけは自慢出来ると思った。一口の御菓子もついていて断然トップである。金を持ち合わせていなかったので一杯だけで損したぐらいだ。

フランクフルトのアルテオパーにはベルリナーフィルハーモニカーの新シェフ国内お披露目ツアー公演のポスターが出ていた。まだまだ売り切れていないから、あらゆる広報媒体と街の中での告知が始まる。既に二三日で安い席は片付いたようだ。90ユーロ以上がまだ余っている。



参照:
2019年「気候ヒステリー」 2020-01-15 | 文化一般
ピアニストに女王はいるか 2020-01-20 | 文化一般
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ピアニストに女王はいるか

2020-01-20 | 文化一般
承前)音楽に詳しくない人に質問された。どうしてそのアムランとかの超名人がランランどころかワンよりも有名でないの?とても鋭い質問だった。これに正しく回答するのは今回の一連の音楽会の纏めのようなものになる。特集記事を書ける内容である。しかし先ず走り乍も考えていたのは、それに関する一つの命題だ。

パン屋が再開した。まだ歯が落ち着かないので思い留まるところなくとはいかないが、平常に戻ってきている。久しぶりに沢往復をしたが、走る前は腰が重かった。頂上攻撃から一日空けただけだが、またそれに比べれば平地に近いので何でもない筈なのだが、習慣で何とか走っているだけに過ぎない。アウトバーンも数キロとなるとそれなりに遠いのだ。

ピアニストの女王って本当に居るのか。歴史的に見ればクララ・シューマンなどは素晴らしいピアニストだったと語り継がれている。そして現役の女流ではアルゲリッチと内田光子以外に思い当たらない。要するに大きな舞台でリサイタルを開けるのはこの二人以外にいない ― フランスのグリモーも入れておこうか。そこに日曜日にバーデンバーデンで聴いたユジャ・ワンが入ってくるだろうか。

前者のアルゲリッチはそのプロコフィエフ協奏曲三番で直接ワンと比較される対象である。しかしアルゲリッチは本格的にソロリサイタルを開いていた時期はそれほど長くはないだろう。現在は室内楽奏者やプロデューサーとして活躍しているに過ぎない。内田も大きな舞台を与えられているが中ホールが埋まらない。男性に眼を広げると人気があるのはソコロフとかで、場を選んで地方を上手く混ぜているがそれでも欧州ツアーを敢行し続けている。その他若手でも何人かいてそれなりに興業が成り立っている。しかし女流では隙間市場狙いでのツアーは成り立っていてもメインで回れる人はいない。

そこで考えられたのが所謂ポルノ女流ピアニストで、肌を見せたり胸を見せたりで市場を拓いた。その一人がワンだったが、それでも未だにランランほどの知名度には至らない。如何に市場開拓が難しいかという事である。実はここに音楽的な大きな大命題が隠されていて冒頭の質問に正しく答えることになるだろう。

そしてバーデンバーデンの大祝祭劇場を千数百人規模ホール扱いとして催されたデュオリサイタルは大成功だった。待ち構える聴衆の前には今まで見たことの無い女性が現れた。どうも新社長の様だった。そして「悪いお知らせではありません」と始めた。「演奏家二人ともご機嫌ですが、プログラムの順番を変えたいという事です」と断って、当初フランクのソナタで〆るところが最初に持ってこられて、続けてショパンのイントロとポロネーズそして休憩を挿んでショパンのソナタと私が考えていた通りの順序に変わった。

その効果は?なによりも本格的なピアノを最後に聴けるというのは一番大きい。そもそもこのツアーを計画するに至って、フランクは最も収まりがよく最後に持ってこられていた。このことにも留意したい。予め断っておくが、チェロのゴーティエ・カプソンは私が想像していた範囲の中での想定の最高級の奏者だった。少なくとも今回のデュオにおいては何一つ文句のつけようが無かった。それどころか二人のデュオへの姿勢は徹底していて、上手くメディアと兼ねて市場を拓いて行こうという程度の態度ではなかった。逆にその先にあるものがこの企画の奥に見え隠れしていた。

そのフランクのソナタはそもそもヴァイオリンのために書かれた古今の名曲の一つであり、私が最も生演奏で印象に強く残っているのはアイザック・スターンの演奏だった。その最後での盛り上がりと大会場の湧き方は室内楽ソナタものとして最高級のものっだった。そして今後ともそのようなヴァイオリンを弾くのはムターぐらいしかいないのではないかと思う。

その反面、その循環形式で現れる動機が分かりやすければ安い程眠りに誘われる名曲である。古今の曲の中でこの曲は眠くなる曲の筆頭で、同じくフランクの二短調交響曲と双璧でないかと思う。あの循環というのがとんでもなく眠気を誘うのは、ゴールトベルク変奏曲の轍だろうか?

しかし最初から弱音も駆使しながら、技術的な精査で眠気を誘うにはあまりにも耳を取られ集中も強いられた。とは言っても決して神経質なことは無く、まさに予定調和的な収まりと、ベートーヴェンやバッハを想起させるような音楽の旅が予定通り進む。その途上のバスの車窓からの景色を眺めながら少し意識が飛ぶぐらいであった。(続く



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雪辱を果たす様な気持ち 2019-09-20 | 女
芸術を感じる管弦楽の響き 2018-09-02 | 音
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浮かび上がる動機

2020-01-19 | 
ルクセムブルクのフィルハーモニーの駐車料金が割安になっていた。たった3ユーロで五時間停めれる。以前は無かったのでこのシーズンからかもしれない。何処にも書いていなかった様なので。気が付かなかった。実は往路往復50㎞程寄り道をしてしまった。モーゼルタール三叉路で乗り換え損なったようだ。コブレンツの方へとピースポーターなどを通り過ぎて工事渋滞に引っかかっても気が付かなかった。要するにモーゼル下流域まで走ってしまった。逆戻りしてゆっくり走っても十五分前にはついていた。最近は駐車場で落ち着いて楽譜を見ながら音を聴けるので駐車料さえ嵩まなければ早くベストポジションに停めておいた方が都合がよい。ミュンヘンならば14ユーロから長い楽劇ならば25ユーロほど払わなければいけないので格別安く付く。ルツェルンも公演は高価だが駐車料金はミュンヘンよりは安い。当然だろう。

最近は冷たいものしか出さないところが増えてきている。コーヒーメーカーを置かないのだ。これはコンサートやオペラ訪問者には大きな問題だ。眠さに戦う事こそが重要だからだ。演奏者でないのでどうしても眠くなる時がある。どんなに楽譜が頭に入っていても変わらないと思う。所詮聴衆は受け身である。

フランクフルトへの往路先月写真撮影されたところを検証した。思っていたよりもインターチェンジから近く、加速する程までも無くカメラが隠されていた陸橋の下へと着く。勿論意識していたように制限速度は80㎞だった。つまり上手く誤差が引かれれば減点されなかった。未だに納得が行かないので、調書が来たら「制限速度80㎞であった筈だ」と反論する。勿論法廷う闘争に持ち込むつもりはないが、警察が事情を説明することがあれば、制限速度40㎞超過違反の状況を裏打ちして証明することが可能となるだろう。自分自身眼が効いていなかったかと思ったが、私が走った数百メートル間には速度表示はその間一回しかなく、橋の下から次の制限速度100kmが窺えた。有り得ないような制限速堵区間だった。腹立たしい。金の事よりも今後一年間改めて十字架を背負わされるのが適わない。

承前)アムランのリサイタル後半のシューベルトについては少し触れた。またアンコールの自作、そのあとにクールダウンのガーシュインで〆という熱狂に包まれたが、アンコール一曲目はシューマンととても充実したプログラムだった。しかし前半のファインベルクのソナタは想定を超えて圧巻だった。

その意味は、先ずは作曲家やその作品の位置づけにある。アムラン自身が舞台で短く紹介したのは、この曲がフランクフルト初演だろう言う事で、この楽譜が出版されたのが1974年という事もある。それから半世紀近く。当夜のプログラムには次のように書かれている。つまり、直前に演奏されたプロコフィエフの「サルカズム」の作曲された1914年にピアニストとして、当夜最初に演奏されたスクリャビンなどの曲を盛んに演奏していたサミュエル・ファインベルクがバッハの平均律全曲演奏をロシアで初めて行ったという事がある。そして戦争から送り返されてきたピアニストが1916年に作曲したのがこの三番のソナタと呼ばれるもののようだ。ソナタの名は第三部になって初めて名付けられていて、実際はプレリュードとトッカータと最後にはフーガで〆られるという曲である。つまり葬送行進曲のショパンのプレリュードからベートーヴェンの変イ長調のソナタへと、勿論バロックへと遡って行く。
Hamelin plays Feinberg Sonata No. 3 Op. 3


この記述で思い起こされるのは新古典主義的な要素でもあるのだが、プロコフィエフのように上手に問題を解消していない。それはその社会的なつまりソヴィエトにおける社会主義リアリズムに器用に融合させていないのである。それゆえに1962年までモスクワ音楽院のピアノ科の教授でありながら、中々曲を撤回も多く出版できずにいたような状況になっていたとするのは理解されよう。兎に角、その楽譜面も興奮を誘うものだが、最初の左手の楽想だけでも素晴らしいと思わせる。そこでの声部の弾き分けこそがアムランが示したもので、徹底した打鍵の芸術だ。なるほど誰もフランクフルトでは演奏していないというのが理解出来た。直前に楽譜に眼を通していたのでその声部の流れにもついて行けたのだが、リズムの転換など明確に弾き分けられない限りこの曲を弾く意味が無い。それは後半のシューベルトで示した通りで、要するにブレンデルのようなピアニストが幾ら弾いてもこの曲はどうにもならないという事である。YouTubeにアムランの演奏録音が上がっているがそれよりも遥かに明晰に動機が綺麗に浮かび上がっていた。(続く)



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素材になり易いもの 2020-01-14 | 雑感
忘却とは忘れる事なり 2019-05-14 | 音
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感興豊かな躍動性

2020-01-18 | 
一週間四本勝負の演奏会通い、前半を無事抜け切れた。その運動不足を頂上往復で若干解消できた。明日のユジャ・ワンのデュオリサイタルに備えるだけだ。金曜日のアムランのピアノは室内楽で弾いたショパンでは分からない当代随一のピアノ名人ぶりに驚愕した。出かける車の中でイヤーフォンを装着したら、準備していた筈のファインベルクのソナタの録音がプロコフィエフにすり替わっていたのを発見した。仕方ないので楽譜だけ目を通して挑もうかと思ったが、まだ開演までに二時間半ほどあった。だから急いで部屋に戻ってDLをし直して、スクリャビンと共に整えた。

価値があったと思う。当夜は地元の放送管弦楽団の演奏と生中継があったようで駐車場の込み方が予想されていたが、流石に通ったところだけに早く駐車できた。そして18時45分ごろから音を鳴らしながら楽譜を捲った。ノイズキャンセリングイヤフォーンは偉大だ。今世紀になってから購入した電化製品ではタブレットと並んで文明の利器を感じさせる。

そのお蔭で素晴らしいものを体験できたが、それは後回しにして後半のシューベルトが予想通りに面白かった。前半を終えて帰るシナ人のピアニストらしい人の一列目の席に移って堪能した。ペダルの使い方も抑制が効いていて、更にブレンデルが苦労しての演奏箇所を悉くその打鍵だけで音楽にしていた。名人であるからアンコールに弾いたヴァ―ンクライバーンコンクールへの自作課題曲のような超絶おたまじゃくしの行列で強烈な音響を響かせる一方、ピアノをハムマーが打ち込む箱の付いた鉄枠ワイヤーに音楽を奏でさせるのが名人なのである。あの大ハ長調の交響曲のゴロゴロ同様一楽章トリルに、またアンダンテでの再起、それらが全て有機的になんら苦労も無く聴こえる。同じことをブレンデルはテムポやアゴーギクを駆使して、それでも大会場では足りないので身振りまでを含めて聴衆を納得させた。それがいともあまりにも簡単そうに打鍵されるのは脅威でしかない。同様に所謂機能和声的なバスラインが、それはメータの師匠のスヴァロフスキー流の拍毎のアナリーゼともなるのだが、なんら誤魔化されずに打鍵される。同じような傾向は全盛期のポリーニの演奏には存在したが、ここまでの名人ではなかった。すると逆にその和声のそこの意味がまた別な趣を呈してくる。実は前日のシカゴ交響楽団演奏会で印象された点でもあった。

ムーティ指揮には感激してしまった。ここの所最早老人性の硬直感が強かったマエストロの指揮である。一体突然どうしてしまったのだろう?前夜のヴィーンでのヤンソンス追悼音楽会指揮で、同じ心臓の病を持つ者としての覚醒があったのか?当夜プログラムの最初から次はバイロイトデビューではないかと思わせるぐらいの「オランダ人」序曲、歌の活きたヒンデミットと後半への期待は高まっていた。しかし、まさかデビュー当時の躍動的な指揮を目の辺りにするとは思ってもいなかった。1975年初訪日の時は三十四歳、連日のベーム博士指揮の名演奏中継の影に隠れて、先輩格のアバドやまたその後同じように帯同したドホナーニに比較して馬鹿にされていた感が強かった。しかし当時既に話題になってベストセラーであったアイーダ指揮の全集盤に語られていたようにその衝撃的なデビューのイメージに違わない指揮をしていた。よくもあのヴィーナーフィルハーモニカーを相手にモーツァルトやブラームスの短調の交響曲であそこまで出来たものだと思う。デビュー予定のジョルダン指揮と比較して欲しいと思う。

「新世界から」は大名演だった。序奏に続いて冒頭からまるでアメリカ横断鉄道に乗って旅行しているような気持になった。流石鉄道マニアの作曲家の筆運びである。小気味よいリズム感と歌におけるカンタ-ビレの美しいコントラストや霊歌に鳥の囀り、ランドスケープの音楽であり、しかしそれだけでは終わらない。殆どマーラーのそれを先取りした地球の運動と大気の響き、コントラバスに残る唸り。三楽章も村の踊りにはならずそこから先を行くもので、到底東欧圏のそれからは聴けなかったものである。終楽章の主題は殆ど運命の力序曲であった。しかし、そこにおかしな歌は持ち込まれない。しかしこれだけこの曲をここまでさらされると、それもムーティの才覚によってとても魅力的に活き活きと、この夏にスーク作曲「アスラエル交響曲」を考える場合のとても貴重な資料ともなり、改めて詳細について触れなければいけないだろう。(続く



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聖土曜日のレクイエム 2019-04-20 | 音
とても魅力的な管弦楽 2017-01-30 | 音
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