Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2008年6月

2008-06-30 | Weblog-Index



誤りの自覚と認識 [ マスメディア批評 ] / 2008-06-29 TB0,COM0
連邦共和国の建つ認識 [ 歴史・時事 ] / 2008-06-29 TB0,COM0
豪快に飲みたい赤ワイン [ ワイン ] / 2008-06-28 TB0,COM4
趣味の良い贈答品とは [ 雑感 ] / 2008-06-27 TB0,COM0
何故に人類の遺産なのか [ マスメディア批評 ] / 2008-06-26 TB0,COM2
現代保守政党の課題 [ 歴史・時事 ] / 2008-06-25 TB0,COM0
脳みそが萎えた一日 [ アウトドーア・環境 ] / 2008-06-24 TB0,COM0
煎茶で深い眠りに落ちろ [ 女 ] / 2008-06-23 TB0,COM4
情報の収集と再構成 [ 暦 ] / 2008-06-22 TB0,COM0
面白いパブリックレディオ [ マスメディア批評 ] / 2008-06-21 TB0,COM0
アラーとかパンソリの世界 [ 暦 ] / 2008-06-21 TB0,COM2
5人為的ではない理想像 [ ワイン ] / 2008-06-20 TB0,COM0
殆ど確信に近い再生 [ 雑感 ] / 2008-06-19 TB1,COM2
前に広がる無限の想像力 [ 音 ] / 2008-06-17 TB0,COM2
代替エナジー政策の展開 [ アウトドーア・環境 ] / 2008-06-16 TB0,COM0
世界の机の前に齧り付く [ テクニック ] / 2008-06-15 TB0,COM0
あと味のインターフェース [ 女 ] / 2008-06-14 TB0,COM2
食後の雨上りの散歩 [ 暦 ] / 2008-06-13 TB0,COM2
初夏の合間の筋肉痛 [ 暦 ] / 2008-06-12 TB0,COM0
冷却利かず思わず暴発 [ 生活 ] / 2008-06-11 TB0,COM0
外人権利と依存する大衆 [ 生活 ] / 2008-06-10 TB0,COM0
ロリータな感覚の体験 [ BLOG研究 ] / 2008-06-09 TB0,COM2
浮かぶ、あり得るべき姿 [ 歴史・時事 ] / 2008-06-08 TB0,COM9
香りの文化・味の文化 [ ワイン ] / 2008-06-07 TB0,COM11
バイオ燃料による値上げ [ 生活 ] / 2008-06-07 TB1,COM0
非公認ガイド修行の午後 [ アウトドーア・環境 ] / 2008-06-06 TB0,COM22
環境ゾーン設置の大都会 [ アウトドーア・環境 ] / 2008-06-05 TB0,COM2
ラインを望む牧草の鳥居 [ アウトドーア・環境 ] / 2008-06-04 TB0,COM2
ユネスコ文化の土壌 [ アウトドーア・環境 ] / 2008-06-03 TB0,COM4
音響増幅ボードへの期待 [ テクニック ] / 2008-06-02 TB0,COM2
ケシが咲き乱れる所 [ アウトドーア・環境 ] / 2008-06-02 TB0,COM0
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誤りの自覚と認識

2008-06-29 | マスメディア批評
誤りを犯さない者はいまい。要は、誤りを自覚して認識出来るかどうかにかかっている。

些細な誤りに目くじら立てる必要は全くないが、自覚がないのは具合悪い。こうしてなにかを書いていても注意力の散漫からの誤りは日常茶飯であるが、誤りに気がつかない場合も多い。指摘がなければ、裸の王様状態でそのまま誤りが罷り通る。

その多くは、学説として証明されたり法として合意された正統性が確立している事象に対して、反論したりする訳でなく、容易に自らの見解から誤った説明を行なう場合であろう。その多くは、正当性を維持した体系の外側からある事象を観察したような視点に寄り添われることが多い。ここでも何度も言及、言い訳をしている門外漢としての発言であろう。

そうした観察の中には、それ故に常識の壁を破るような発想があるかも知れないが、その必要の全くない語学の文法のような例外多き掟も存在する。ドイツ語などでも注意しないといけないのが男性単数名詞や複数名詞の格語尾変化であり、なかなか面倒である。そのように注意しなければいけないと考える時に既に認識が生まれるのだが、端から気がつかなければ決して誤りの自覚も出来ない。こうせいする事は不可能なのである。

これは軽犯罪に当たるような事象であるが、こうしたものにこそ罰則や注意を与えると抑止効果どころか、それ自体が自覚を促す必要条件となるように思われる。誤りである自覚があるのか無いのかは、本人以外には理解不能であり、なんらかの認識があって、敢えて誤りを犯しているのかどうかは判らない。

反対に誤りとの意識があっても確信をもって行なうような罪も多く存在する。マッケイン候補は、先頃の上級審判断が「子供に対する暴力行為への極刑の可能性*を憲法違反とした」件で、「厳しい前提条件を設ける」オバマ候補をも批判したが、実際にはオバマ候補自らの著書**でも「死刑を容認」しており、今回の上級審の多数を批判しているという。ビル・クリントン大統領は、選挙期間中に精神薄弱黒人の死刑に署名したという。米国の死刑制度や拷問はアジアのそれと並んで中国人民共和国とアメリカ合衆国の社会事情が世界の人権の問題となっている。そして、極刑の確信犯には殺人を奨励するような法律が存在している。そうした殺伐とした社会には自覚や認識は生まれない。

面白い中国の話を聞いた。驚いた事に道路で唾などを吐くのは禁止されているという。20人民元が警告金として徴収されるのだ。ある男がそのとき監視員に咎められて、現金を求められた。生憎、その男は50人民元しか持ち合わせていなかった。釣り銭がないといわれて、その男は罵りながら金を渡してもう一度その場で唾を吐いてみせたという。

*ルイジアナ州では1995年以降再び「子供に対する暴力」に死刑が課せられている。これによる最後の死刑執行は1964年となっている。
**"The Audacity of Hope"


参照:
伊の大聖堂落書き (産経新聞)
鳩山法相のエキセントリックな怒り (tak shonai's "Today's Crack")
裸の王様、ビル・クリントン、黒人初の大統領 (虹コンのサウダージ日記)
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連邦共和国の建つ認識

2008-06-29 | 歴史・時事
我々余所者にとっては高見の見物である。ベルリンのオペラハウス「ウンターデンリンデン」の今後などは国の援助の関係ない州の問題である。

ベルリンの市長が「指揮者バレンボイムは、ベルリンの有するただ唯一の世界的スター」と愛を贈るように、ベルリンオペラ財団の団長シュテファン・ロジンスキーが、「プロシアからナチを通って東独へと連なる全体主義を意味するパウリックザールの扱い」を主張しても通らないとFAZは書く。

コンペティションで選ばれたクラウス・ロートの案は、視界や音響を重視して、問題となっている安全性や機能を勝ち得るために「ザールの存在」を無視するものであったようだが、ここに来て団長の意見に対してバレンボイムが南ドイツ新聞で反撃して、様相は混迷を極めて来たと言うのである。

バレンボイムが吹っかけた議論は、プロシアの模倣ならば1742年の回復であって、問題となる音響どころか蝋燭の光で上演すると言う懐古主義を採るべきであろうと嘲笑して、我々に幾つかの事を思い起こさせる。

一つは、ここでベルクの歌劇「ヴォツェク」を初演した移民したエリッヒ・クライバーは、戦後音響リハーサルにやってきて、1951年にパウリックに改装された劇場にはヒットラーが立った王のロージェは取り除かれて、「フリードリッヒ王、アポロとムゼーに」と入口に無いのを後で見つけてそのポストを却下した事や、バレンボイム自身も1996年以降音響を補正するPAの必要性を認めている事以上に、今や管弦楽団の録音以上にオペラ劇場で人工的なエコーやPAないものは殆どない現実である。

記事は、音響と視界を重視した機能的な回収案が歴史的認識議論の前に危うくなった事をバレンボイムの珍しく積極的な戦略的発言と共に論じている。そこに来て、首都ベルリンが如何にボン連邦共和国から歪な形で遷都されたのかを考えさせられる。そもそも国立バイロイトヴァーグナー劇場や連邦国立劇場などは存在しないのである。所詮、三つもの地方劇場を保持儘ならない一州の文化政策でしかありえない。

同様な歴史的視点は、同じ紙面に更に大きく大統領選挙への動きとして挙げられる。記事を書いているのは緑の党で1994年に大統領候補に押し上げられた分子生物学者のイェンス・ライヒである。

代議士などによる代表選挙で選ばれる連邦共和国元首は、党派性を超越していなければいけないので、過半数を集票するための選挙となると各党の支持が必要になる。特に社会主義者が推薦する元大学総長ゲジーネ・シュヴァンは、その選挙人数からどうしても左翼党の支持が必要になる。

そこで、連邦大統領としては二つの問いに正しく答えなければいけない。ひとつは第三帝国への見解でこれに関しては、上記の文化的な問題とは異なり、是が否を表明するだけなので全く問題はないのだが、もう一つのドイツ民主共和国の立場に繋がるスターリニズムについて明確な態度を示さなければいけない。

筆者によると、これは左翼党の支持を得たい候補には困難な問題であるという。そして云う、今後スタジを代表するような東独のエリートが選挙で選ばれる事で州や共同体の首相や主席になったり、大臣の席を得る事があるかも知れないが、連邦共和国の大統領には相応しくないとする見解である。つまりこの歴史認識は、連邦共和国の根幹と云うのであろう。
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豪快に飲みたい赤ワイン

2008-06-28 | ワイン
デキャンタについての私見をコメント欄で尋ねられた。早速、「シュペートブルグンダー」と「デキャンタ」でこのBLOG内を検索したが明白な回答はなかった。

あまりに壊れ易いようなピノ・ノワールなどは控えた方が良いのかも知れないが、ボルドーやドイツのシュペートブルグンダーはコルクを抜いてからの開くまでが、なかなか時間が掛かるので、綺麗なグラスに移しかえることが多い。

ドイツワインは澱取りのために瓶の底が窪んでいないから安物ワインなどと言うデマも日本などではまことしやかに流れているが、澱の問題を大事に扱うのはフランスの特徴らしいと、シャドネーの試飲の時に思った。

その反対にリースリングの酒石は、無知から不良品として扱われるらしいが、最近は近代的な折引きのためか酒石は珍しくなってきている。

しかし、リースリングに澱は無いというもののエアーリングにはデキャンタを使うと一本のワインの最初から楽しめる事には間違いない。同じ理由から、上等のシュペートブルグンダーは是非デキャンターしたい。エアーリング自体も蔵から出してきた後では温度調整にもなっている。室内温度がやはり良い。

元々ドイツのそれはフランスのピノノワールに比べて堅いので、移しかえる事で大分柔らかくなり、香りも楽しめる。逆にデキャンターして楽しめないようなワインには碌なものは無いのではないだろうか。

またデキャンターして問題となるような脆いシュペートブルグンダーにはお目に掛かった事もない。ドイツのシュペートブルグンダーは鹿肉などに豪快に飲みたいものである。

食事に負けない味の強い美味いピノノワールとして、ドイツのそれの価値があるのだろう。
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趣味の良い贈答品とは

2008-06-27 | 雑感
兼好法師の徒然草を紐解く。なんてことはない、贈り物の趣などについて、何か書いていたような気がしたからだ。

先ず索引から出てくるのは、「友とするに悪き者」の下りで有名な百十七段である。

「よき友、三つあり。一つには、物くるゝ友。二つには医師。三つには、智恵ある友。」とある。

なるほど貰いっ放しならば、それを拒むものは居ないだろうが、なかなかそうは行かない。しかし、三つ目の智恵まで読むと、もしかすると含蓄のある認識かも知れない。

しかし、どちらかと云えば、探しているのはその趣であって、心遣いとかであって贈り主の人物像ではない。

逆説的に趣味の悪さを論ったものでは、七十二段の「賤しげなる物」ある。

賤しげなる物、居たるあたりに調度の多き。硯に筆の多き。持仏堂に仏の多き。前栽に石・草木の多き。家の内に子孫の多き。人にあひて詞の多き。願文に作善多く書き載せたる。
多くて見苦しからぬは、文車の文。塵塚の塵。

趣味の悪さは、そこに表れているが、趣味の良さは、見苦しくない積読の書でも塵でもなかろう。百三十一段には、「貧しき者は、財をもッて礼とし、老いたる者は、力をもッて礼とす。己が分を知りて、及ばざる時は速かに止むを、智といふべし。 」のようにある。

これらを総合すると、趣味の良い贈り物とは瀟洒な値の張らない智恵が感じられる物となるのだろうか。
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何故に人類の遺産なのか

2008-06-26 | マスメディア批評
窓を開けて寝ているので、どうしても昼眠くなる。相変わらず蒸し暑い。夕方には力仕事もしていないのに肌がねっとりと汗ばんでいる。

アルプス交響楽の爽快感を想像しながらも、少々の昼過ぎの夕立は根本的な涼しさを齎しては呉れなかった。こうした時に限って、先日から楽劇「トリスタンとイゾルデ」を流している。

先日来、一通り針を通した「ニーベルンゲンの指輪」に続いて指揮者フルトヴェングラーのヴァーグナー実践に親しんでいる。取り分け、1952年にロンドンで録音された名歌手フラグスタートが歌う全曲録音は歴史に残るヴァーグナー解釈とされている。これをもってヴァーグナーの音楽録音の代表としても良いもので、指揮者どころかこの作曲家の作品実践としても、これは人類の遺産に違いない。

HMVのプロディーサー、ヴァルターレッグが召集したフィルハーもニア管弦楽団に与える積極的で明晰な指示は、ベートーヴェンともシェークスピアとも異なる形で、ヴァーグナーの音楽構造の面白さをここに余すことなく音化している。

その楽団のマットな音色も、このLP一面毎にフェードアウトを入れてある中性的な音響の録音になかなか魅力的で、手下にあるややつや消しのような日本盤の魅力ともなっている。最晩年にヴィーンで録音した生気の薄れた、ルーティン仕事に慣れた座付き楽団への録音とも、ローマで放送のためのラジオ録音とも違い、美学的な美しさに恵まれた録音テイクの数々となっている。

LP五枚組みのどこかに針を下ろすと最後まで聞いて再び全部を繰り返して聞きたくなるように、漲る集中力のみならず全曲を通してのコンパクトな交響的な纏まりが実感出来るのである。このLPは、個人的には最初に手元においたオペラの全曲レコードであったような記憶があり、小学生にはその内容は充分に手に負えないものであったのは当然である。そのおかげが、結構肉厚のLPで、一部を除いて針音も少なく、今こうして愉悦に浸る事が出来るのである。

この暑い最中、十分な集中力が欠けていて、船便で手元にやってきた珍しい文庫本などを捲っていると、同じような意味あいから、その本を購入した時は何を思って頁を開いていたのだろうなどと思うことが多い。

三島由紀夫の作家論は、いつ頃買ったものか全く記憶がなかったが、川端康成をニッチェを通してリヒャルト・ヴァーグナーと直接比較しているのが面白い。そして「雪国」冒頭のトンネルを抜けて窓ガラスに列車内が映る情景から停止したまま一向に先に読み進む事ができない原因が、そこに説明してあって感心した。そのような按配で全編を読んでいない者がその事に触れることはできないが、上の楽劇の録音の芸術性に対する理解に関連して触れておきたい。

要するに、十歳になったばかりの子供とそれから十分年を取った同じ人間が物事にに対応するし方の違いを考えてみたのである。重要な点は、一般の大人が得意げに語るような自己の社会体験や教育で齎された経験とかとは、「芸術の理解」は殆ど結びつかないことであり、感覚を通した頭脳の働きは想像力つまり創造力に準じていることである。広義の意味では「体験」と呼んでも良いかも知れないが、上の青年指揮者が年を経て初めてその楽曲の構造を把握して行くような「進展」は誰にも起りうることであり「予測不能」なのである。それは決して社会生活や研究生活を通して学べるような代物ではない抽象的な思考であるのだ。

その抽象的な思考が、普遍的であるとか最大公約数的な経験から生じているのではなく、前述の想像力もしくは創造力とすると、コミュニケーションの妙味とか表現の限界とか呼ばれる大変高度な話題となる。



参照:
語学学習の原点に戻る [ 生活 ] / 2007-12-22
森の泉の渋味の世界 [ ワイン ] / 2008-05-19
解消されるまでの創造力 [ 文化一般 ] / 2008-06-18
前に広がる無限の想像力 [ 音 ] / 2008-06-17
オーラを創造する子供達 [ 文化一般 ] / 2007-09-24
襲い掛かる教養の欠落 [ 雑感 ] / 2007-07-27
骨肉の争いの経験と記憶 [ 生活 ] / 2007-06-10
豊かな闇に羽ばたく想像 [ 文化一般 ] / 2006-08-20
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現代保守政党の課題

2008-06-25 | 歴史・時事
環境問題は、国民経済の中で重要な要素となってきている。先日のキリスト教民主同盟の環境政策要領に遅れながら、本格的にキリスト教社会同盟は環境国民政党としての側面を強く押し出してきた。党首ベックシュタインのあとを受けたゼーダー氏が多くの国会議員の要請を受けて纏めたものである。

前者の環境政策・温暖化対策は、環境の名の下の新たな環境産業育成政策に見せる「幼稚な思考」が強く批判されている一方、後者は保守政党としていかに国民の生活と環境・気候を護っていくかにその環境政策の柱がある。

化石燃料依存からの解放を掲げて、地熱利用などの循環燃料利用を技術政策の核として推し進める。同時に生活環境を尊重して消費者保護を徹底させて、公平な世界の確立と動物愛護やエコ農業推進と共に、バイオ農業を時期尚早としてバイオ研究にそれを制限するのは、女性首相が推し進める兄弟政党との政策の不一致を明らかにする。保守政党のあるべき姿である。

ハンブルクでは、緑の党との民主同盟の連立関係が批判される「自転車の利用推進」など成立しているが、今後は州政府単位もしくは国政において、緑の党の支持者を先ずは説得させるだけの素地が出来てきている。

しかしそこでもプロテスタンティズムの影響を受ける民主同盟とカトリシズムの社会同盟の視差が大きく表れていて、前者が創造物としての世界の社会的進化を信仰しているのに対して、後者はより創造物の一部である人類の尊重から、極端で子供騙しな家庭内や社会生活でのエコ生活を推進することを諌め現実的な対応を良しとする。

実際、バイエルン限定ながら環境国民政党としての横顔を整えて、環境意識の強いリベラル層の支持獲得を狙っている。要は、18歳から45歳までの女性を多く含む市民のライフスタイルに訴え懸けると言うことでもある。

今後は左翼党と社会主義者がお互いに支持層を食い合いながら推移することが予想されるので、緑の党はイデオロギー重視の政府主体の秩序よりも戦略的により自由党などのリベラルな支持者層にも食い込む必要がある。



参照:
代替エナジー政策の展開 [ アウトドーア・環境 ] / 2008-06-16
温暖化への悪の枢軸 [ マスメディア批評 ] / 2006-11-17
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脳みそが萎えた一日

2008-06-24 | アウトドーア・環境
外気温は三十度を越えたぐらいでそれほど高くはない。それでも朝から蒸し暑い気がする。昨日昼過ぎに雷鳴を聞いたがが雨が降らなかった。湿度もそれほど高くはないのだが、散髪した頭が熱をもっている。

こうなると日本にいた時のようになにも手につかない。能率が悪いだけでなく気力が失せる。昨夜は寝室の窓を開けて寝ていたのでどうしても眠りが浅いのか、食事をすると眠くなる。

回顧してみても熱い時期にあまり創造的な活動をした覚えはない。汗をかきながら適当に人に会ったりしてそれらしきことをした覚えは多いが、回想してみて記憶に残るような知的な活動をした覚えがない。

昼過ぎにイランの文化ラジオを聞いてみると、なかなか微妙な音楽をやっている。楽器はインド音楽のような編成であるが、そのアドリヴの妙とは異なる音の妙が良い。但し、まことに残念ながらライブストリームの音質がよくない。それでもワールド音楽ファンには無視出来ない放送局であろう。

スペインのRNE2チャンネルでマドリッドの放送交響楽団の中継録音を聞いた。そのアンサンブルはやはり物足りなく、フーゴ・ヴォルフの曲のその独特のアーティキュレーションの癖が苦になってしかたない。サッカーはなかなか強そうだが、纏まりはあるのだろうか?

やはり、オランダのラジオ4で流れる放送交響楽団などの演奏は立派である。流しているトン・コープマン指揮の室内交響楽団の中継録音ライヴも良いが、十年間の程の放送録音がオンデマンドで提供されているのは圧巻である。コンセルトヘボウ管弦楽団のライヴも本年から提供されているのは素晴らしい。それにしても著作権が生きている楽曲もオンデマンドで流しているのには恐れ入る。

ボストンのWGBH放送局がBBCの中継を大分流しているのは東北海岸がどうしても旧世界に向いている事を表わしているのだろうか。
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煎茶で深い眠りに落ちろ

2008-06-23 | 
薩摩茶と云うのを女性からプレゼントされた。ここで書いたように、本来宇治茶消費者なので「地方」の茶所には潜在的に偏見があるかも知れない。

それもハーブティー商などが扱っている緑茶などは飲めるかと言う気持ちもある。しかし、そこは悪からぬ女性からの贈り物となると簡単に可笑しな無駄な力が抜けてしまうのである。

先ずは包装をじっくりと怪訝な目つきで眺めてみる。二度摘みの半影の緑茶で「出一」と命名されている。葉振りの良い新芽のみが初夏に摘みとられて、新鮮なトーンの味に繊細な香り漂う高品質の茶になっているとかいてある。

更に本物の特級日本茶とも書いてある。さていつもの宇治茶のように煎れる。茶も抹茶が混ぜてあるような様子はないが、少々茶葉は荒い感じがした。静岡のそれのような清涼感もありながら、見た目も味も香りもむしろ宇治のものに大分近い。云えば宇治の方が少し濃くが深く、旨味がありより楽しめる煎茶である。

しかし、それにしても指定の物しか飲まないと云う人間に、態々日本茶を贈り物するとはなかなか良い度胸をしている。もし、我がご愛用品の方が、万が一不味かったとしたら、面目丸潰れであったと胸を撫で下ろす。

薩摩茶について調べると、平坦茶園で栽培されて四月には早くも茶済みが始まるとある。戦後に盛んになって急成長している茶どころとある。なるほどこうした所でバイオ農業で茶作りがされているならば、大量に消費される日本国内で供給されるものよりも付加価値をつけて海外でも流通させることが出来るのだろう。実際の産地については確証はないながら、偶々、今回は宇治の方に軍配が上がった。

50グラム入りの袋は日本で包装されているようで、ドイツでの小売価格は少量消費品であり、我が愛用品の倍以上の価格はするであろうと想像する。ただ、我が宇治茶は、日本からのお土産として、日常消費に相応しいいくつもの銘柄の中から選んで残った銘柄に親しんでいるだけなのである。それは空港では販売されているが、有名銘柄の中では日本国内の市中有名デパートでも比較的探さなければいけない銘柄なので供給量にも限度があるのだろう。

「煎茶も美味しくないと直ぐに飲み飽きる」とワインの時のようなそのような判断基準を挙げ「特に飲酒のあとに、就寝の前に緑茶を楽しむと快眠出来る」と語ったのだが、そのコンテクストを辿れば、やはりこの贈り物には「要らぬことを考えずに早く寝ろ」と叱責のようなメッセージが含まれていると考えるのが妥当だろうか?それはまるでオペラ「トューランドット」のアリア「誰も寝てはならぬ」の反語である。

そのためか最近は夜の帳が下りる頃には魔法にかかったように深い眠りに一気に落ちてしまうのである。



参照:
緑茶に想う影響する土地 [ 雑感 ] / 2007-10-17
俄かサボテン愛好の憂慮 [ 女 ] / 2008-05-16
深く流れる情感の意志 [ 女 ] / 2008-05-12
パラダイスに覗く花 [ 女 ] / 2008-04-24
茶緑から青白への相違 [ 生活 ] / 2008-01-01
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情報の収集と再構成

2008-06-22 | 
最近RSS リーダーのための情報を送らないサイトが多い。何を隠そう自らのミラーサイトの方が一月ほど更新していないことになっている。そのためか訪問者数も減っている。自らのものは構わないのだが、リーダーにて更新した知らせが無いとどうしても知らず知らずご無沙汰してしまう。気になって覗きに行くと変わらず更新されている。

先日、VISTAの日本語環境を整えたお礼に手作りにチーズケーキなどを更に頂いたが、同時に独文の満月の俳句風の短詩を貰った。

勿論それを俳句にしなければいけない。ベレー帽を被ったオレンジ色の満月に雲がかかって行ってついには満月を包み隠してしまうと言う内容である。

早朝の一時間ほどを俳句化に思慮を巡らした。先ずは、原文が安易な言葉であまり凝らない構文であるので、出来る限り我々が知っている一茶の俳句のような些か滑稽味のある俳諧を目指す。

そのためには五七五のみならず季語にも気をつけた。重要な語句を並べると、満月、月、バスク帽、ベレー、オレンジ、雲、夏至、夜空と言うことになる。勿論最後の三つは前提条件として暗示されているだけで用語化されていない。

さらにこの原詩の核は、隠喩化された言語の滑稽味であるが、寧ろここでは意味論的な面白さとなる可能性があることに留意した。

一つには隠されている、夏至の時期のなかなかくれなかった夜空であり、それは雲に隠れて行く月の情景の時間経過である。

それらを表わす言葉として、オレンジの色目に拘って夏橙の夏蜜柑を入れて一句、また夏至と雲のベレーを織り込んで一句、バスク帽と夏で一句と詠みなおした。

視覚的にはやはり色がついている一句目がよく、滑稽味も十分にある。二句目は、時間経過が盛り込まれていないのでイメージの広がりはないが、その分情報量が多く季節感は強い。三句目は、ことばの響きがよく尚且つ滑稽味に欠かない。

ご本人に早速返したので驚かれたが、幾ら時間をかけて推敲してもレヴェルが挙がらないことを知っているのでそれで良しとした。どの句が最もまともでまた本人にも気に入るかどうかはなんとも分からない。

昨日出合ったライヴストリームでは、ボストンのWGBH局が面白そうだと思った。何よりも金曜日におとずれるボストン交響楽団の生中継を改めて聞いてみたいと思わせる。聞いた時にやっていたのはワシントンのオペラ劇場からのサンサーンスの「サムソンとデリラ」の中継録音であった。こうした米国の実態を知ると幾らドイツ連邦共和国が文化に全予算の九パーセントと国会の運営予算以上の額を投資しているからと言って米国にはとても適わないと思わせる。予算を更に整理して重点化して行く必要を思わせる。

晩にローマのRAI5チャンネルで耳にしたのは、指揮者クラウディオの兄、マルチェロ・アバードの管弦楽のための曲である。息子ロベルトの指揮でRAIの交響楽団の定期公演で演奏されていたが、意外によく出来ていたので驚いた。この作曲家の管弦楽曲を耳にする事はあまりないので徳をした気になった。


写真は、夏至23時10分過ぎの 北 の空と山影。
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面白いパブリックレディオ

2008-06-21 | マスメディア批評
新たに面白いラジオステーションを見つけた。サンフランシスコのKQED局である。ニュース解説・社会話題主体の番組構成であるがノンコマーシャルのコミュニティーラジオであるが流していて邪魔にならない。

何よりも車で聞いている独SWR2などの文化放送風の雰囲気が良い。ニュースソースはパブリックニュースのNPRであるようだが、その扱い方やコメンテーターの選択などがなかなか良いようだ。

まるで車で流すようになにかをしながら流しているだけなので、まだ十分にはその切り口が判っていないが、コメンテーターとモデレーターの会話の内容はかなり文化的で気持ちが良い。

そのローカル社会の一定の社会層の感覚が直裁に出るような話しの進み方にある特徴を見出す楽しみと同時に、西側市民社会での良識や学術的な常識のようなものを感じられるのはなによりもこうしたあるコミュニティーを映し出した放送の聞き所だろうか。

そうした考え方への興味ばかりでなくて、兎に角話題がキューバについてやオバマからイスラム、ハイスクールのセックスからメディアへとニュースを挟みながらスピード感を持って進む番組構成は秀逸である。どうしても耳をそばだててしまう。

しかし、こうした淀みの無い番組構成は膨大な録音を準備して繋いで流しているとしか思えないのだがどうなのだろう。TVではないので、画像が無い分限られた予算で番組制作出来るのだろうが、それにしてもやはり米国は予算が違うと思わせる。

床屋に行くと、親仁は関心なくEMのTVを見ていないと言う。なにもドイツの全員がサッカーをみている訳では決して無い。メディアにおける大衆市場を見直していく時期に来ていると感じている。



参照:
NPRのライヴストリーム番組一覧表
前に広がる無限の想像力 [ 音 ] / 2008-06-17
世界の机の前に齧り付く [ テクニック ] / 2008-06-15
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アラーとかパンソリの世界

2008-06-21 | 
意固地にTVを見ない。EMの結果は試合前から打ち上げられる爆竹やゴ-ルの度の花火で判る。昨晩のトルコ対クロアチアのあとはなにも聞かなかった。朝起きて見ると屋根の上に見つけたのが写真の光景である。それにしても静かだったのは、恐らく昨晩は満月の次の夏至の前なので宗教的な戒律があったのだろうと想像する。ドイツ対トルコの修羅場はどうなるだろうか?

先日来ラジオをかけていても必ずしも面白いものを数多くの中から瞬時には探せない。しかし興味ある曲などが生演奏されているとどうしても耳を傾けてしまう。

ブルックナーの交響曲八番の大作が流れていた。少し聞いているだけで、科を作ったいやらしい弦楽と管の響きなどあまり聞いていられない代物と感じた。フランスの放送管弦楽団であることは放送するラジオ局から殆ど分かっていたのだが、それにしてもこれほどおかしな響きはレニングラードの交響楽団がムラヴィンスキーで演奏したもの以外に知らない。

いつもこれほどおかしな演奏をする管弦楽団ではないのでホームページを覗く。すると、サンドニの音楽祭からの実況中継で韓国人の指揮者チュンの演奏と分かった。その指揮者のメシアンの曲を演奏したCDは嘗てザルツブルクでプレゼントされた事があるので所持しているが、ドイツ音楽をこれほど滑稽に厭らしく演奏するとは思ってもいなかった。小澤氏の浪花節でもそうかも知れないが、そうしたパンソリの世界感にへきへきするだけで、なんら普遍性が無いのは確かである。

ブルックナー協会の会長であった指揮者フルトヴァングラーが記念演説の中で、その二面性での一方の土着性を語っているが、そうした側面がなんら東アジアのそれと共通性を持たないのは明らかで、中欧ドイツ語圏以外のそれらの音楽家どころか聴衆もこうした内容を理解するのは不可能だとするのはある意味正しい。
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人為的ではない理想像

2008-06-20 | ワイン
日本からの荷物に九十年代半ばのオーディオ雑誌が入っていた。読んだ覚えもなく、日本に一切入国していないその十年以上の期間なので、購入を依頼しておきながら中身を読んでいない代物である。

何故必要だったかはよく思い出せないが、何か手伝い仕事の内容が掲載されていたような気がするが、十年以上も前のことなので十分に覚えていなく、未だに調べる気もしない。あまり過去の事には拘らない性格だからだろうか。

それを居眠りしながら見ていて、まだあの時代はオーディオなどと呼ばれる趣味が存在したのだなと驚いている。なるほど当時の仕事仲間にハイエンドを目指して居た者がいて、ニシキヘビのような太いスピーカーコードを持ち歩いていて皆の笑いを誘っていた。

そして今一寸思いあたって、土壌とワインなどという趣味もこうした滑稽なオーディオ趣味とそれほど変わらないなと感じたのである。例えば、可聴範囲外の超高音が出ているだとか、和紙が揺れるような低音が出て居るとか、小林秀雄が五味康祐の狂人振りを綴るが如く、リースリングのなんたらとか宣のはそれに良く似ている。

音の解析度とか空間再現度、音量や音質に、全周波数域に素直な特性などと言うのは、リースリングで言えば、酸と糖とアルコールのハーモニーと呼ばれるものに極似している。

そしてそれをつき詰めていくと、分析値などは全く役に立たずに、純粋に感覚を磨いて自己のすべてを注入して判断するしかなくなるのも同じである。だからこそ興味が尽きなく、永遠に楽しめるホビーとなるのである。

それでもオーディオ趣味にはよりオタクで周りから見ていると馬鹿にしか見えない間抜けな感じがあるのは何故だろうか。「スピーカーをマイクロファイバーの眼鏡拭きで磨いて」などと読むとどうしても真似をしてやってしまうのだが、これなどは「新月の夜に樽詰めしたり」するビオディナーミックの感覚でしかない。信じる者は幸せである。

ワインの場合の救いは、その出来上がったものには消費者は手を加えることが殆ど出来ないことで、精々間違いない保存環境を整えてやりデキャンターや温度や飲み頃を計ることことぐらいである。実際の醸造所内の判断は、基本コンセプトに従って間違いのない調整を施すのだが、その収穫された葡萄の素性を隠すことは出来ない。

実は、オーディオの場合も録音の入口まで遡ると、HIFIオーディオにおける「幻想を働かせる余地」は全くなくなってしまう。つまり会場や用具の選択やマイクロフォンのセッティングや調整で既に理想は人為的に定められてしまっている。そして所詮、音波を機械によって変調したものを再び変調してあるだけに過ぎないと実感すると、まどろみの無い所から夢も生まれない。

蛇足ながら、人為的に十分に制御できない雑音や例えばライヴ録音などの環境音をオーディオにて取り出して楽しむ一種の「覗き趣味」が存在するが、これはある意味その環境全体を捉えようとする試みであって、通常のHIFI趣味よりも高尚とする考え方もある。しかし、所詮最初の機械的な音波の変換が介在する限定が存在していて、現実の人間の固体が感じる体験とは異なる擬似空間である事を肝に銘ずる必要がある。謂わばワインスノビズムにおける、「ああ、このワインはあの太陽と風を受けて、何々の樽で熟成された味がする」と宣ような馬鹿らしさがそこに漂う。

そこがワインにおける不思議さと全く異なっている。勿論ワインの醸造におけるコンセプトは人の匠であるが、真のワイン愛好家はそのようなものよりも年度や地所による相違にこそ興味があるのだ。

オーディオにおいても典型的な例として挙げられるのは、加齢による高音の難聴であり、一般生活では気がつかないだけで四十過ぎれば二十歳台とは同じである訳がない。要するに、電気的な変調の過程を通らなくとも、生でそのまま聞く音自体が既に各人各様であって皆が同じように聞きとれることはない事実は、人間の固体差の問題であり、よく言われるオーディオ機器やワインの固体差以上に深刻な問題なのである。だからこそ、人を追い詰める永遠の課題のようなものがそこに止揚される。

其々の趣向があって初めてそこに趣味の世界が生まれるのだが、同時になにも皆がアシミレーションしているゾンビ人間でなくともやはり普遍的な趣向と言うものが存在するからこそ、そこに価値観や市場が生まれてくる。

ただ、繰り返すことになるが、オーディオの場合はかつて使われたハイフィデリティーHIFIの原典が人為的もしくは端から存在しないことから、そこに大量消費の市場が発生してまた消滅していく。ワインの場合は、工業生産物でないので当然の事だが、その原典を人は誰も定める事が出来ない自然の恩恵なのである。葡萄の品種の改良は出来るが、それはあくまでも副次的な技でしかない。醸造は自然の恩恵をある前提の中で如何に利用するかの点で作曲活動など創作活動に近い。しかし、良い職人がなせるのは良い愛好者が自然の恵みを実感出来るワイン作りの匠にほかならない。



参照:
酸フェチにはたまらない1本 (新・緑家のリースリング日記)
カートリッジ騒動 (KOAな生活)
懐かしのオーディオ機器のカタログを発見 (電網郊外散歩道)
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殆ど確信に近い再生

2008-06-19 | 雑感
連日肌寒い日が続いている。氷河には新雪が乗っていることだろう。夏日よりは遥かに楽とは言っても、半袖で居ると風邪を引きそうで、気温の変化に体調の維持が難しい。

さて、気になるサボテンの生育であるが、平たい方の髭のように生える緑が繁殖して来ていることで順調な生育を見せている一方、懸案の薔薇状のものは相変わらず赤インキが沁みたように精彩がない。

それでも落ちつきをみせており、土の上に元々根が生えていた根元が露出しているので、思いきって植え替えることにした。そしてそっとそれを土から上げると、なんと茎状のところに幾つかの根が伸びていた。

つまり茎状の所が今度は根として新たに機能することになる。これで、根腐りからの壊死が避けられている事が確認出来た。今度は、地面を解し綺麗に均して、根を痛めないように、再び土の中に今度は深めに埋め直す。

薔薇の部分の赤味ともう一つの株の髭の赤味は、どうも土壌から来る影響のような気がして来た。何を隠そう、この土壌はバイオダイナミックスのそれなのである。

こうして植え直した植物は更に根を伸ばし、いづれはしっかりと土壌に根を下ろしていくことは殆ど確信に近く予想出来る。赤味のかかった薔薇状の緑がその新鮮さを取り戻し力強く茂るのが待ち遠しい。



参照:俄かサボテン愛好の憂慮 [ 女 ] / 2008-05-16
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解消されるまでの創造力

2008-06-18 | 文化一般
バイロイト音楽祭のヴォルフガンク・ヴァーグナー監督辞任を受けて次期監督の候補者募集が期限付きでなされている。特に候補となるヴァーグナー家の跡継ぎは、孫の二兄弟ヴィーラント筋とヴォルフガンク筋との間で候補者が一致しなければ、スポンサーであるバイエルン州、連邦などの代表がそれを支持することはなさそうで、代替案が考慮されている。

専門家の代表として、ドイツ語圏の三大歌劇上の支配人が大きな発言力を持っている。西ドイツ時代の有限会社バイロイト音楽祭の法制化に従って、ヴィーンの国立歌劇場、ミュンヘンの歌劇場の支配人に続いて、ベルリンのウンターリンデンの劇場ではなくベルリンドイツオパーの支配人がここに挙がると、現支配人がイドメネオ騒動を起こした張本人であることを見落とせない。

そのような理由から、識者・同業者達にフランクフルター・アルゲマイネー新聞が「ヴィジョン」を挙げてもらっている。

現在連載中の記事であるが、一番新しいものでは今度ライプチッィヒの歌劇場に里帰りする有名な演出家のコンヴィチニーの意見が載っている。

「先ずは僕がバイロイトの監督になってから、あなた方は一体何をすべきか出来るかを聞くことが出来るでしょう。」

得意の一発ギャグは放っておいて、また仔細な他の同業者の希望リストもみるまでもなく、作曲家ヴォルフガンク・リームの意見を読む。

「リヒャルト・ヴァーグナーのアイデアが解消されるまで、まだ実現化する可能性がある」と、アイデアを以って築かれたバイロイトになにも他のアイデアを持ちこむ必要はないと主張する。

25年前の「パルシファル」の唯一の公演体験にて知識や熱意を持ち合わせた知り合った人々と同じほど表面だけの何処にでもいる訪問者達を振り返りつつ、リヒャルト・ヴァーグナーへの集中を何よりもとする。

そして、追伸として、如何にこの管弦楽が埋められた劇場が「パルシファル」の上演のためにこそ存在して、反対に室内楽的な「マイスタージンガー」の上演などにはどうしようもなく不向きかを語っている。

ここで殆ど同じ意見の指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーがヴァーグナーについて語ったものを読んでみると、そこでは主に「ニーチェのヴァーグナー」が痛烈に批判されている:

ニイチェは、すべての「ワグネリアーナー」がそうであったように、ただ素材的なものの中にとらわれていたのです。しかし、私たちはそれをこそ、のり越えてゆかねばならぬと思います。そののり越える道は真のワーグナー、すなわち「芸術家」ワーグナーを知ること以外にはありません。そのときはじめて、私たちはワーグナーに対する真の創造的な関係に立つことができるでしょう。そのときこそこの国において、この芸術家は何ものであったかを、はっきりと知ることになりましょう。

この指揮者は、ヴァーグナー芸術におけるマテリアルの高度で尚且つ大衆性に再三触れているのだが、作曲家が「トリスタン」との鮮やかな対照を築いたとする「マイスタージンガー」の演奏実践においてこの指揮者は実際にはナチスに利用されており、戦後のイタリアやレコーディングにおけるその実践は同じような対照を見せている。

先日から流しているLPにおいても、録音に聞くヴァーグナー指揮者ハンス・クナッパーツブッシュとは比較するまでもないが当時としては現代的で、その録音の手法の恩恵を得て、後のカール・ベームの戦後を代表するバイロイトでの演奏実践よりも遥かに多彩で、またより精緻で雄弁なフォン・カラヤンのそれに比べても遥かに創造力豊かな演奏実践となっている。



参照:
民主主義レギムへの抵抗 [ 文化一般 ] / 2007-08-25
妻フリッカの急逝とその娘 [ 女 ] / 2007-12-01
下馬評に至難な金科玉条 [ 文化一般 ] / 2007-09-30
オーラを創造する子供達 [ 文化一般 ] / 2007-09-24
次から次へ皹の入る芸術 [ マスメディア批評 ] / 2007-07-28
襲い掛かる教養の欠落 [ 雑感 ] / 2007-07-27
アトリエのビッグシスター [ 女 ] / 2007-07-26
栄枯盛衰に耳を傾ける [ 雑感 ] / 2007-07-08
骨肉の争いの経験と記憶 [ 生活 ] / 2007-06-10
臨場のデジタルステレオ [ 音 ] / 2006-12-02
前に広がる無限の想像力 [ 音 ] / 2008-06-17
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