Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2007年02月

2007-02-28 | Weblog-Index



夜空に輝く双子座の星達 [ 音 ] / 2007-02-27 TB0,COM0
周波の量子化と搬送 [ テクニック ] / 2007-02-26 TB0,COM0
陽気な音で埃をたてる [ テクニック ] / 2007-02-25 TB0,COM0
喜びを分ち合うご進物 [ ワイン ] / 2007-02-24 TB0,COM4
天皇陛下のための硫黄島 [ マスメディア批評 ] / 2007-02-23 TB1,COM0
灰の水曜日の未明 [ 暦 ] / 2007-02-22 TB0,COM0
火曜の夜の乱痴気 [ 暦 ] / 2007-02-21 TB1,COM2
異端への法的社会正義 [ 女 ] / 2007-02-20 TB0,COM0
甘い春節の陽気 [ 暦 ] / 2007-02-19 TB0,COM0
暖冬の末に灯火親しむ [ アウトドーア・環境 ] / 2007-02-18 TB0,COM0
クーリックで祝う謝肉祭 [ 暦 ] / 2007-02-17 TB0,COM6
写真に不安定な大気 [ アウトドーア・環境 ] / 2007-02-16 TB0,COM5
正書法通りに発音する [ 雑感 ] / 2007-02-15 TB0,COM0
名門醸造所を買ったなら [ ワイン ] / 2007-02-14 TB0,COM4
旧大陸での人権の保障 [ マスメディア批評 ] / 2007-02-13 TB0,COM4
海底に沈むU-864の悲哀 [ マスメディア批評 ] / 2007-02-12 TB0,COM3
秘密の無い安全神話 [ 雑感 ] / 2007-02-11 TB0,COM0
遠のくルミーさんの想い出 [ 女 ] / 2007-02-10 TB0,COM2
我が言葉を聞き給え [ 音 ] / 2007-02-09 TB0,COM2
権力ある者をその座から [ 雑感 ] / 2007-02-08 TB0,COM0
風邪ひきの時の滋養 [ 料理 ] / 2007-02-07 TB1,COM5
時間当りの変化量の問題 [ アウトドーア・環境 ] / 2007-02-06 TB0,COM0
チェルヴィニアからの光景 [ アウトドーア・環境 ] / 2007-02-05 TB0,COM4
旧メディアのカレンダー [ 雑感 ] / 2007-02-04 TB0,COM2
キャリートレードを牽制 [ 雑感 ] / 2007-02-03 TB1,COM2
あぶら汗掻く暖かい午後 [ 生活 ] / 2007-02-02 TB1,COM9
顔のある人命と匿名 [ 歴史・時事 ] / 2007-02-01 TB0,COM2

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夜空に輝く双子座の星達

2007-02-27 | 
(承前)フランスバロックオペラについて書くときは、モリエールかラシーヌの台本のオペラを扱いたいと思っていた。幸か不幸か、ジャン・フィリップ・ラモー「カストールとポルックス」のパリ公演の報告を読んで、数多いバロックオペラ録音が収まっている棚から一つの三枚組みCDボックスを取り出した。

このオペラは、1737年にパリで初演されていて、太陽王時代を懐かしむ即ち先人を支持するルソーに代表されるリュリ派とラモー派がその評価を巡って争そった。前者のオペラも現在ではまがりなりにも全曲録音を聴く事が出来て、その相違を直接耳で確かめる事が出来る。後者の音楽は、その理論書が示す通り、後期バロックから前古典派へと引き渡す準備が出来ている。

和音の展開や累積を初めとする機能和声の確立などの技術面だけでなく、そこには舞台音楽芸術として、既に俗で大衆的な要素が満ち溢れている。それだからこそ、その故にこそ、こうした和声が 機 能 しているのを思い起させる。

オペラは、双子座の二つ星となるギリシャ神話の双子の兄弟の話である。片方が不死の運命を持ち、片方が死に行く運命を持つ、一卵性のカストルとポルックス兄弟である。

一幕三場に於ける恋人テレールのカストールを偲んで歌う場面は、その後に続く軍楽のコーラスに著しく対照していて、モーツァルトの伯爵夫人の歌を想像させる。反対にモーツァルトにおいては、そうした対照の妙よりも、なによりも心情の細やかさの表現に集中している事実に気をつかせる場面である。

その対照は、一幕での感情的な俗に対して、形式とはいいながらもプロローグにてギリシャ神話の「愛」や「芸術」がミネルヴァの女神と並んで登場する枠組みがこれまた対照を示していたりと、音楽的な情感を厚く上に積み重なる和声に乗せたり、または宮廷でのシャンソンそのものの旋律的な叙情を薄く対照させたりと、何重にも二項対立的なアクセントととして仕立てられている。

そうした工夫が音楽的に瀟洒さや高貴さを失わせていると非難されても仕方ない面も確かに存在していて、当時の評価の分裂を伺わせる。二幕における芸術的飛躍は、それゆえにか瞠目すべき効果を挙げていて、批判者を沈黙させたことだろう。

興味深い事に、革命以降ラモーの殆どのオペラ曲が忘れ去られたにに拘らず、この悲劇が生き残った理由は、そうしたシルエットを際立たせる庶民性に見つかるのかもしれない。

さらに、バレーをふんだんに取り入れた構成は伝統的としても、序曲やシンフォニアが囲むだけでなく、各種各様の舞曲が場面転換に散りばめられて、それらが全体の構成の骨組みを音楽的に担っているのを、二十世紀になってアルバン・ベルクなどが踏襲したとしても間違いではなかろう。同様な配慮が、合唱や重唱を含む各々の場面場面にも見受けられて、作曲家として名人の仕事をなしている。

そのような構成への配慮から一見通俗過ぎる部分も故意に挿入されているように見受けられる。それは、和声の理論体系の確立と習得からルーティンに作曲が出来た証であって、寧ろそうした土台があってこそこうした自由自在の構成を可能としたのを語っているのではないだろうか。

また余談であるが、トーマス・マンの「魔の山」の主人公の青年ハンス・カストロフと従兄弟のヨアヒムは、この星となった二人の兄弟をパロディーとしている。それは、「神よ。我見るぞ!」の章の医師ベーレンスの言葉として読者に注意を託している。

さて、もう一度二十世紀の後半のパリを再び見渡せば、理論体系や技術的な集約は目的への経済行為であって、そのものを目的とした模倣者には、結局なにも役に立たない。否、ポリテクニックな利用を忘れてはいけないが、これを創造行為と峻別する必要はある。そうした「実の仕事はそこから始まる」と言う実例を、ラモーのこの良く響くオペラの作曲どころか、その場面展開にすらみる事が出来る。つまり、良く響き混ざり合う大きな音や効果を本当に必要とするのは軍隊やこけおどしの為であって、上記のようにこうしたものを対照させる世界を描くことこそが、ここでは創造なのである。

因みに最近のノーベル賞授与は、双子どころか三つ子受賞が一般的となっている。(周波の量子化と搬送から続く)
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周波の量子化と搬送

2007-02-26 | テクニック
去る22日は、ハインリッヒ・ルドルフ・ヘルツの百五十回目の生誕記念日であった。ラジオやTVの放送周波数を彼の苗字で呼ぶように統一されてから、世界的に知らない者は少なくなったであろう。

その周波数を形作る電磁波の発生を実証した。車のラジオで、「電磁波は、見えないが、それはその目が違う」という様な事を語っていたようだ。その研究態度は、あのキルヒホッフとヘルムホルツの弟子で1880年に博士号を取得したという事から、事情通は想像できるだろうか。その後、カールツルーヘの教授になっていて、現在の同エリート大学の鑑なのだろう。

周波数は、一秒間に周期的な振動を数えれば良いが、波は正から負へと、負から正へと、そして正から負へと偏向するので、所謂サインカーブを頭に描くと一循環する。火花を散らしての放電現象を、我々がラジオなどで雑音として経験するが、紫外線照射による光電効果によるその観察から電磁波の伝達を、ダイポールアンテナを開発して距離を置いて受信する事で、マックスウェルの電磁場の方程式が一般化される。

余談であるが、ラジオ聴取で理解したところ、ノーベル物理学賞を1909年に、ブラウン管やオシロスコープの発明者でやはりカールスルーヘ大の教授であったカール・フェルディナント・ブラウン博士と分け合った、イタリア人マルコーニはこの成果を逸早く特許として取得して事業家として商業化を推し進めた。現在ではノーベル賞の受賞を疑問視する声もあるが、現在の商業的な開発をも受賞の対象とするとするならば、必ずしも可笑しくはない。もともとノーベル賞は、近代を象徴し、社会技術への貢献に捧げられるものである。

さて、そうした変調された電磁波などのアナログの通信システムが、今や日に日にデジタル化されて行き、電磁波がデジタル変調信号運ぶ事になる。その運ぶデジタル信号は、様々なものがあるだろうが、古典的なものではPCM音声変調であろう。

それは、通常の音の大きさや高さに沿った電気信号として、時系軸をもった電圧や電流として表現するアナログ変調に対して、量子化してパルス信号として表現するデジタル変調技術を指す。

態々、デジタル技術の概要をここに写すのは、偶然に後期バロックの作曲家ラモーの音楽のプロジェクトをパリ在住のガーター亭さんの記事として拝見して、尚且つラモーの音楽理論と1970年代のパリでのスペクトラム・ミュージックと呼ばれる音楽派の関連を記事として読んだからである。

その二つの関連を先ずは無視してその楽派の論拠にあるように、音色を決定してハーモニーを形成する倍音列などの周波数の特徴を定量化・スペクトル化して扱うのは、現在の我々の生活では大変馴染みある行為である。シンセサイザーなどの取り扱いは、万人がコンピューターや機械の合成音として毎日のように馴染んでいる。音色である周波数の複雑な合成体を、その関数を時制から角周波数に写し、フーリエ変換すれば解析出来る。まさにこれはデジタル音響技術におけるシンセサイザーの音作りなのである。

つまり、こうしたデジタル化されて合理化された作曲の手法は、その源泉を作曲家モーリス・ラヴェルの作品にみるか、ラモーの和声の理論にみるかは別として、米国において商業的に利用されて経済を生むのである。つまり、技法は知的創造の経済に違いないが、それが芸術を生むのではなく産業を生むためには商才を必要とする。また、電磁波を用いたデジタル変調搬送システムは、現在においても携帯電話などとして世界の経済に大きな意味を持ち続けているのである。(夜空に輝く双子座の星達へと続く)


今日の音楽:
HUGES DUFOURT ANTIPHYSIS(1978), SATURE(1979)
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陽気な音で埃をたてる

2007-02-25 | テクニック
使っているワークステーションが大きな音を立て出した。陽気のせいで室内温度が上がり、冷却ファンの回転数が上がったのかなと思いながら使っていたが、騒がしいので出来るだけ消したいと思うようになった。

昨年10月に掃除をしたあと、床に設置しておいた本体に足を付けて、八センチほど浮かすようにしてある。床の埃の吸入状態を変える為である。その時の掃除で、吸入側も排出側も網が詰まり、冷却空気の循環を悪くしていたからである。

床から少し離したことで、埃の吸入状態は改善されたと認識していた。そこで、ケースを開けて、その状態を改めて確認する。

回転数が上がった原因は、吸入口の網が埃で詰まっていた事から直ぐに認定出来た。それも下向きの吸入口の詰まり方が激しい。謂わば、吸入ファンが起こす吸入の空気の流れが確認出来た。反対に排出側は、以前と比べ埃があまり確認出来なくて殆ど問題なかった。内部も前回に徹底的に掃除をした時と比べてあまり変化は無く、十分な排気が出来ていたという兆候であろう。

具体的には掃除機の先に細いノズルを付けて、埃を吸い込ませるのである。使っているDELLの箱は、前面の吸入口がエンブレムのついた胸掛けでカヴァーされているようになっていて、その間にノズルが入り難い。その外し方も分からずに無理やりノズルを押し込むと、パリッと止め具が飛んで、その一箇所が外れた。そのお蔭で、胸掛けを内側へ折るような形で、外れるようになっていることがやっと判明した。壊れた止め具を瞬間接着剤で取り付けて、元へと戻し修理する。

今回の経験から、床から浮かすことで十分な吸気が出来て、同時に排気側の詰まりを避ける事が出来て、尚且つ吸気側の比較的容易なメンテナンス方法も確認出来た。

箱内に都合幾つの換気ファンがついているか数えていないが、コンピューターの騒音はこれが原因である。メーカーによって、またその生産国の感覚によって、箱の冷却音の違いは大きい。マッキントシュなどもその材質などから音に高級感はあるが、決して十分に静かとは断定出来ない。

冷却のための換気は決定的な要因なので、生活の埃の多い同じ室内に設置する限りはどうしても小まめに埃取りをしてやらなければいけない。そうなるとメインテナンスのし易い箱がやはり使い良い。またそれが可能ならば、騒音も抑えられることになるのである。
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喜びを分ち合うご進物

2007-02-24 | ワイン
地元割引のワインを購入した。2005年産の高級リースリングを購入する最期の時期である。その中で、割引になるワインと言っても、数年後が愉しみなプリミエー・クリュ級のリースリングである。

危惧していたように、割引対象品は既に売りきれてしまっていたが、暫定処置としてそれよりも高名な畑の辛口リースリングが、2006年度が登場する三月までは割引対象となっていた。もちろん早速、その夜の分に一本を取得してリュックザックに入れて持ち帰る。

満足出来るワインであるが、どこか弱さがあるなと思いながら、2005年産の潜在力をじっくりと吟味する。まだ充分に開いていないのに拘らず、当然ながら既に瓶詰め時の香りは落ちているからである。翌々日には、車で乗り付け、先ずは半ダースを購入する。

その中から一本を開けると、健康でありながらも若いコルク臭があり、十分に愉しめなかった。故意に不良品を提供している筈はないのだが、これをご進物として新たに追加購入しようと思うと大変気になる傷である。

ワイン自体は、今後数年に渡って成熟していくのであるが、若いうちにはそうしたバラつきはなかなか外からは感知できない。複数本をご進物にするならばそれで良いが、その問題のある一本だけが人手に渡るかと思うとどうしても不安である。

嗜好品をプレゼントするというのは、何よりも自分が満足して、それを受け取り手にも愉しんで欲しいという願いからに他ならない。つまり、自らが価格を知っていても満足出来るもので無ければいけない。価格のはるものを呉れとけば、それで済むというならば、商品をプレゼントなどしないほうが良い。現金の方が喜ばれるに決まっている。

自らが購入して自らが気楽に愉しめるようなものでなければ、それは身分不相応といっても良いだろう。何よりも、喜びを分かち合うものでなければいけない。だからプレゼント出来るワインに出会うのは、なかなか難しいのである。
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天皇陛下のための硫黄島

2007-02-23 | マスメディア批評
硫黄島からの手紙」がドイツでも封切りされたようである。「親父たちの星条旗」に二週間遅れての上映らしい。二本立てで観たかったと言う評者も、戦争映画を続けて観たい者は少ないだろうと理解していたようであるが、商業的な戦略なのであろうか。

既に様々な反響を見たり読んだりしているので、今更この比較的好評なハリウッド作品の批評にそれほど大きな関心はないが、この文化欄の記事を読むとなかなか面白い。今まで聞いていたことと異なる事象が示されているからである。

「親父たちの星条旗」では、生き残りの仲間の死において、彼らは自らの国のために戦争へと駆り出されて、彼らの友のために命を落す。

それに対して、「日本人は、天皇のために戦争へと駆り出されて、彼のためにだけ命を落す」と観る。

これは、ネット等で最近流行りの「大日本帝国軍兵士は、彼らの妻や子供や家族や友を護るために名誉の死を選んだ」と言うアメリカナイズされ美化された論調を真っ向から否定している。一体何時から日本人はアメリカ人だったのだろうか?同じ映画作品においても、こうした見解の相違が生まれていて大変滑稽である。

特に今回の作品の場合、この批評は、「日本兵は、天皇陛下のために、戦においても、例え自決としても、独裁者のために寄与し、ただただ怪しい伝統の故に死ぬ姿勢を、ここに脇役として観る事が出来る」にも拘らず、「クリント・イーストウッドは、我々にそれを判断保留させる。その点において驚愕すべき作品である」としている。

つまり、想像するに、戦場から家族へ宛てた手紙が示すものは、言われるような「自らの義務への忠誠心」としては決して捉えられていなくて、そのもの所謂国体への狂信的な自己犠牲の死への礼讃の結果であるとされている。もちろん、それが中心に描かれていないばかりか、隅に追いやられているとここで批判されている事から、この作品の出来栄えが逆に想像出来る。唯一つ、胸に手榴弾を構えて自爆するシーンだけが、あまりに情動的に描かれているに過ぎないとしている。

そこで、面白いと思わされるのが、主役であるグレゴリー・ペック風と称される渡辺謙演じる米国風の生活感や英国紳士とした将校達が、またあまりにも善良そうな市井の人々が、大日本帝国イデオロギーとその徹底した思想統制教育のなかで、現在のイスラムのカミカゼテロリストと殆ど差異無く映る事実である。

その解析は、このジャンルであるハリウッド映画の枠を遥かに越える話題であり、日本思想史の主題でもある。もちろん新生民主主義国合衆国に対して帝国日本の国体とイスラム法の支配する社会を比較する意味はあまり無いであろうが、社会システムとその精神文化の葛藤として、丸山真男が1961年に次ぎのように記している:

…そこに含まれた実質的問題は歴史的に見ても、また今日の問題としてもきわめて重要な意味を持っている。すなわち歴史的には…、また同時にそれは戦後において「平和論」から「昭和史論争」を経て「実感信仰」の問題に至る、社会科学あるいは歴史学的把握と文学的把握の交差・対立の前奏曲ともみられるのである。

これは「近代日本の思想と文学」*と題した文章からの引用であるが、直に気がつくように、同じ作品に対する全く違った日本での反応こそが、この現象の継続を証明しているとは言えないか。

端的に発言すれば、国体のようなシステムは、社会の強者にとっては、都合の良い支配構造を意味するだけで本当はどちらでも良いのであって、強者はそのようなシステムが存在しなくても、少しばかり利口であれば何処でも十分に生きていけて、自らのエゴに従いなんらそのような精神的な義務感などを持たないのである。問題は、社会的弱者こそがそうしたシステムの破綻において生存が脅かされて、尚且つ義務感を押し付けられる境遇に追いやられる摂理である。これらの映画は、こうして翻弄されて貴重な命を落す多くの人々に捧げられているのであろう。この批評は最後に次のように締めくくっている。

「あらゆる世界中の兵士のその人格の死に対して、その個性に目を向け、国々が戦い、個人が死ぬのを示す事は、現代の戦争映画の常套であるが、天皇の名誉のために無駄死する敵に対して、全くそれと同じ事をしたのは今回が初めてである」。



参照:
Requiem für eine Schlacht von Verena Lueken, FAZ vom 21.9.2007
Emotionale Wucht von Peter Körte, FAZ vom 17.1.2007
*丸山真男著 「日本の思想」より
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灰の水曜日の未明

2007-02-22 | 
昨日に続いて霧が立ち込めている。そのためか、周りの空気は霧の中に吸収されて、雪の日のように静まり返る。

それは、春の陽気に雪解けの水蒸気が発生するように、または谷の空気が冷やされて山間に被さるように、町の光を乱反射させる。

未明の町は、さらに深く沈潜するのであった。
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火曜の夜の乱痴気

2007-02-21 | 
カーニヴァルのである。夜遅くまで騒ぐと、明くる日は「灰の水曜日」となる。復活祭への時となる。その特別なこの時期の雰囲気を書き表すのはなかなか難しい。しかし、様々な物書きが様々に試みている。

ゲーテの「ファウスト」に因んで、「ヴァルプルギスの夜」の章と名付けられてマンの「魔の山」の火曜日の夜は語られる。

そこでは折れ易い鉛筆がモットーのように執拗に出てくる。28歳になる年上タタール女との対話は秀逸であるが、そこで主人公の青年は色褪せた唇を開いたまま、鉛筆を持ち上げて語りかける:

「ほら、君が持っていると思っていたよ」

「ちゃんと見て頂戴。それ、壊れ易いの、ねじ込み式よ」

特別な夜の無礼講の騒ぎに、甘く割られたアルコールのパンチに浮かれ火照った体は、春の遠い山の薄い空気に包まれる。

硬い襟に首を支え、そこに顎を乗せながら「小さくても、君の」と誘って、「君って、頓知に富んでいるね」と対応されるのだが、こうして読んで来ると、WITZIG(機知に富む)がWINZIG(ちっぽけ)に見えてしまうので不思議だ。その魔法の効果は、あまりに馬鹿馬鹿しいので、世界中の数多の研究家は決して指摘などしない。ただ読む方の目が霞んで、読み違えてしまうだけなのである。

その後、二人の交友関係やらを指摘し合って鞘当的な情景がフランス語の中にドイツ語を交えて進むのであるが、乱痴気騒ぎからだんだんと人々は去り、山のサナトリウムは静まって行く。何時しか夢心地のオベロンの世界へと傾きかけて行く。

当然の事ながらその夢は、クリスマスの祝いから新年をへて、謝肉祭、棕櫚の日曜、聖週間、復活祭、聖霊降臨祭、夏至が過ぎれば、短い夏と一年を束の間とする。

こうして、ゲーテにおけるハルツ山脈の初夏の風物は、南のスイスの高地のカーニヴァルの夜となる。しかし先人の箒や杖などに並んで林檎など幾つかの女性的部位のアレゴリーに対して、この百年後の両性愛の作家はどうしても男性器に拘る。

初めて親密になったのだが、女は明くる日には旅立つと言う。そして、鉛筆を膝の上で玩ぶ青年に、寝室へと広間を先に辞去しながら、告げる:

<N’oubliez pas de me rendre mon crayon> - 鉛筆を返すの忘れないでね。

ようやく日が暮れた。朝からずっと霧がかかっている。昨日までの陽気で浮かんだ水蒸気が灰のように沈んでいるのである。
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異端への法的社会正義

2007-02-20 | 
赤軍派の首長の一人ブリギット・モーンハウプト女史が三月末に釈放される。少なくとも九人の殺害に関与した大物テロリストである。何重もの終身刑から最低24年に減刑されて、模範囚として過ごして来た。もともと、愛されるルター派ドイツ人の顔色を変えずに用件を処理して来た管理能力と実行力が、今後は危険性の無い人物としての評価に繋がったようである。

社会への復帰ではなく、公職リタイアーとする紙評も見られる。まさに、彼らの敵たるナチの残党やそれに類する帝国主義的人物をターゲットとして来たのであろうが、その遣り口はナチの冷血な高官そのものの印象がある。ユダヤ人大虐殺への合理的処理方法への追求とパレスチナでの飽くなき蛮行が似ているようなものである。

遺族への償いをするのが社会復帰への前提とする保守派の意見が多いようだが、刑法的には釈放とは繋がらないらしい。現に誘拐後殺害されたシュライヤー氏の子息はこの司法判断を批判している。なるほど、国家補償があったかどうかは知らないが、なんら罪の無い遺族にしてみれば、時のシュミット首相に社会秩序のために見捨てられて、そして今回も社会に裏切られたような気がしてもおかしくはない。如何なるイデオロギーや主義主張においても、理想的には社会正義があたかも自由市場経済摂理のように働かなければいけないのだろうが、それはそもそも「中身がすかの枝豆-トーマス・マン(魔の山)」のような言葉の定義なのであろう。

彼ら彼女ら革命家は、犯行声明を出すが、個人的な犯行を認めない顔の無いのが特徴と言う。いずれにしてもテロリストたちは、アナーキストではなくて理想とする社会の構築のために手段を選ばずに使命を実行したのである。こうした冷徹な犯人の「社会復帰」を批判するのは間違いで、社会のアウトサイダーとして位置付けるしか方法は無いのであろう。メルケル首相との会談とか冷戦下のイデオロギーとその実践の歴史的評価とか、何処かで読んだ気がしたが、到底そうした状況ではないように思われる。



参照:
暖冬の末に灯火親しむ [ アウトドーア・環境 ] / 2007-02-18
止揚もない否定的弁証 [ 歴史・時事 ] / 2006-10-07
リベラリズムの暴力と無力 [ 歴史・時事 ] / 2004-11-06
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甘い春節の陽気

2007-02-19 | 
今日は旧正月で中国のツェンチェー(春節)であった。偶々、今年はカーニヴァルも重なり、一日中賑やかである。一番身近な中華街はパリになるだろうから、春節を感じることはないが、カーニヴァルの陽気はいつも独特な感じを体に齎す。

春節の典型的な食事は、八宝飯に並んで餅に似たタンユェン(湯圓)とか言われるもので、甘い物が中に入るのが特徴らしい。様々な種類があるので、なぜかベルリーナーの原形ポンチュキ(Pączki)に似ている。

それを知ったので、ポーランド娘のように、どうしても昨日再びこれを食べたくなった。一つはカスタードクリームが入っていて、クリームは普段食べないことから、格別に美味く感じた。
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暖冬の末に灯火親しむ

2007-02-18 | アウトドーア・環境
教養を論議した友人のドイツ語教師に、最近会得した速読の成果を話した。するとどうもこれは、心理的に甚大な影響を与えたようだ。ご本人は、速読など出来ないと言うが、流石に母国語教師なので目の走らせ方は大変早い。早くなければ、下手な文章などを採点は出来ないであろう。

つまり、その出来ないと言う意味は、「内容を読み取るのに時間を掛けなければいけない」と同義なのである。これこそが本題であるのだが、例えばトーマス・マンの作品をその記載内容を理解して読み取って行くにはネットで瞬時に得られるような数多な知識だけでなく、そこから本歌取りをするぐらいの読み取りが必要になる。そうした事を考えていた。

昨日の記事を書いてトーマス・マン作「魔の山」に再び関心が向いたので、橇馬車の登場しそうな情景を読んでみる。すると驚いた事に、「強靭で灰汁の強い宣教」並びに「ここにいたか、売国奴よ!」と題して過日綴ったマンハイム探索記がそのままこのマンの大作の中で、各々の世界観を展開する二人の登場人物が決闘する場面を直接導いていた。

つまり、ユダヤ人からの改宗者であるナフタこと元イエズス会の社会革命家が、セッテムブリーニこと啓蒙思想のヒューマニストと決闘する場面である。この神経衰弱の無政府主義者は滔々と自由について語り出す。自由のための戦い、それを跳ね返すエヴェレストのような氷の衣、そして自由への渇望は自由を束縛する。ルターの流れを受けた過激派ザンドが暗殺を実行して首を撥ねられ昇天する自由主義学生運動の顛末をフィードバックさせる事で議論の発火点とする。

欧州のロマン主義は、その個人主義を以って反古典主義や反アカデミズムとなり、自由主義思想となる。そして、その自由主義思想は、啓蒙思想以上に遥かにロマンティックであり、ロマンを以って独立した個人集団はお互いに避けようのない抵抗に直面して、結局好戦的な態度となり、人間的なリベラリズムを蝕する。

モーゼの第一冊を奪い取った平和主義の無神論は、近代科学をドグマとして、ただ一つの形而上的な認知をここに、つまり一元的な世界感の中に位置付けられて、ただその発展の中に存在する。そして、厳寒の雪上の決闘でセッテムブリーニが天に向けて発砲をするのを見て、ナフタは自らの頭を撃ち抜く。

この作品を暗いと評した上の友人は、「ファウスト博士」の物語すらも鬱陶しくて暗いとする。昨日のFAZ文化欄のトップ記事は、60年前に出版されたトーマス・マンの「ファウスト博士」に破局の将来を見ると言うものである。主人公であるアードリアンは、丁度百年前の1907年には二十二歳で、イタリア旅行中に悪魔との契約を交わす。ヴィーンの美術学校を落された男アドルフは、そのころ絵葉書を描いて生業としていた。

ミレニアムの時を過ごして、既に2007年2月である。我々は、2015年から2050年の間に予想される破局を前に、その原因となる20世紀の後半に責任を持っていると思い起こさせる。我々は加害者なのか、被害者なのかと問いかけている。暖冬の夜、決して過去に将来を見るのが鬱陶しいのではない。2030年まで生きているとすると、その急展開を体験する事になると言うのが鬱陶しいのである。



参照:
でも、それ折らないでよ [ 文学・思想 ] / 2007-01-26
川下へと語り継ぐ文芸 [ 文学・思想 ] / 2007-01-21
明けぬ思惟のエロス [ 文学・思想 ] / 2007-01-01
ザーレ河の狭間を辿る [ 文学・思想 ] / 2006-12-25
自由システム構築の弁証 [ 雑感 ] / 2006-12-16
ファウスト博士の錬金術 [ 音 ] / 2006-12-11
世にも豊穣な持続と減衰 [ 音 ] / 2006-12-09
在京ポーランド系ユダヤ [ 雑感 ] / 2006-10-08
否定の中で-モーゼとアロン(1) [ 文学・思想 ] / 2005-05-02
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クーリックで祝う謝肉祭

2007-02-17 | 
来週の火曜日はファストナハトである。そうしてカーニヴァルが終わって、復活祭への四旬節へと春を向かえる。この時期のポーランドの風物詩を新たに知る。今まで多くのポーランド人がまわりにいながら聞いた事の無いクーリックと呼ばれる風物である。

特に雪のあるこの時期に、つまりクリスマスからカーニヴァルにかけて、雪上を馬橇を駆り立て、知人の家へと出かけて浮かれる行事らしい。食事や音楽など全てを準備して何日にも渡ってキャラヴァンする地域もあるようだ。今では観光地などでも冬のイヴェントとして提供されているが、もともとはポーランド・リトアニア時世の貴族のお遊びであったようだ。なんとなく北欧のサンタクロースを思わせる。

最近は、馬でなくて車で牽かせると語ったのはヴァルシャワ近郊出身のポーランド娘である。南部の山岳地では観光化しているのとは対象的に、北部の平地では伝統化しているのだろう。

そうした地形的な影響もあるのか意外に中欧で雪そりの馬車を見かける事は少ない。その点からすると、「魔の山」のダヴォースでこれが使われている事は特別に文芸作品として描かれている。

それを過ぎて断食の始まる、ファトサースディーと呼ばれる灰の水曜日に至る最期の、嘗ての堵殺の日である。そこで食されたのがジャムなどの詰め物の入ったドーナツである。ドイツではベルリナーとして親しまれているが、ポーランドではポォンチュキと呼ばれて家庭で小さめの物が拵えられる。

こうした背景があって、ポーランドのユダヤ人によってイスラエルへと持ち込まれ、米国でもプンチュキとして有名らしい。

水曜日にセールとなっていたので食したが、いつものベルリナーよりも新鮮に感じて美味かった。
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写真に不安定な大気

2007-02-16 | アウトドーア・環境
最近BLOGに空の写真が多く掲載されているのに気がつく。大阪湾上の空もあれば、ドイツのものもある。それらの特徴は、雲の高さや形状の面白さである。大雑把に捉えると、冬らしくない今冬の大気の不安定さを示している。





ここに掲載した写真も、室内に居て朝焼けに気がつき、驚いて写したものである。垂れ込んだ雲と上層の抜け方が珍しいのである。これをして異常気象としても強ち誤りではないのではないか?
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正書法通りに発音する

2007-02-15 | 雑感
言語学的なコメントを頂いた。その内容の発音と表記を考えると、言語学の取り扱う話題となるのである。特に正書法とその語源さらにその使われ方や変化は、その難しい議論を待つまでも無く、身近に発音として数多観察する事が出来る。

平地ドイツ語のICH(一人称単数)を表わす言葉をIKなどと表記発音するのも、高地ドイツ語における正書法の不便さを示しているようだ。しかし、それと同様にその正書法に縛られて変遷しているような例も多く見られるのではないか。

面白いのは、方言とは関係無しに、ZWANZIG(数字20)などの読み方でも最後を文字通りGとして発音する人も少なからず存在する。これなどは、北部ドイツ語の特徴としてその正書法の発音が定められているかの様に、正書法に逆に影響を受けて引っ張られる例でもあるのだろうか。もちろんZWANZIGER(20er、20年代)という言葉のGの発音も存在するからややこしい。

このサイトにおいても哲学者ハイデッガー/Heideggerの名前の発音が話題となった事があるが、これもGの後に母音が続いてハイデルべルガー/Heidelberger(ハイデルべルクの人)のようになる例である。

正書法に本来の発音が引っ張られた例かどうかは別として、ZWEI(ツヴァイ、数字2)と標準語では読ませるが、南部ドイツのプファルツの方言ではそのまま文字通り発音ZWEE[tsve:]と発声する。

これらは、正しく訛っているのか、正書法に忠実なのか、はたまた教養が無いのか判らない。要するに正書法も、言葉の変遷に寄与してもそれを止める事は出来ないと言うことなのだろう。

さらにもう少し調べると、表記化された南部高地ドイツ語の歴史上の二度に渡る所謂子音推移というものを経験していない単語においても南北ドイツ語の違いが存在しているとあり、それらはもともと発音が違っていた事を説明しているのであろう。



参照:
トリアー大学のドイツ語辞書サイト
平地ドイツ語の用例
プフェルツァー語の用例
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名門醸造所を買ったなら

2007-02-14 | ワイン
新たな2006産ワインを試飲した。ダイデスハイムの地所ライターパッドとキーセルベルクの二種のリースリングに、サマーワインと称する軽めのリースリングを試飲する。

同様のヘアゴットザッカーは既に二週間ほど前に試飲しているので、それとの比較となる。ライターパッドは、野暮ったさがあってその丸みと相反しているが、2006年の場合は六月の雹のせいか葡萄の仕上がりがやはり今一つの感じがある。ある一定の品質を保っているものの、8.5ユーロの価格からすると旨味がない。

キーセルベルクは、この醸造所の名物でもあるので出来は素晴らしいが、価格の9ユーロは大変厳しい。日常消費には高すぎて、楽しむワインとしてはもともとその土壌から濃くもないので物足りない。

サマーワインは、最も2006年の厳しさがでていて、軽みが、飛翔しない。澄明さがないのである。良いヴィンテージならばこの価格6.5ユーロで高級ワインが飲めるのであるが。

他にピノブランなどを試したが価格の割りに詰まらない。何よりも葡萄を買って醸造していると聞くとがっかりするのである。名門は昔の話である。長く付き合った上客さんは既に去ってしまっただろう。

これだけの醸造所をもし自分が買い取ったとすれば、やはり同じ事をするかもしれない。出来るならば、自己の他の事業に兼ね合わせて面白い商売へと色気が湧くであろう。

キャビネットクラスまでをガラス蓋にして、十ユーロも要求するワインとはどうしたものであろう。それだけの価格で二三年も熟成させないワインなどあまりにも情けない。理不尽である。

結局は、ヘアゴットザッカーとキーセルベルクを試しに持ち帰る。どちらも食事のワインとしては最高であるが、あまりに贅沢過ぎるのである。
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