Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2021年12月

2021-12-31 | Weblog-Index


 
五十肩に負けないように 2021-12-31 | 暦
硬直したセル教授の指揮 2021-12-30 | 音
恒例の焼き直し作業 2021-12-29 | 暦
一派の枢軸となるだろうか 2021-12-28 | ワイン
加速感に腰が引けそう 2021-12-27 | 音
イヴのクリスマスパン 2021-12-26 | 料理
カフェインで騙し目を覚ます 2021-12-25 | 雑感  
伝播する分からぬ流行り 2021-12-24 | 文化一般
肝はそこなんですよ 2021-12-23 | 生活
期待される模範的観念連想 2021-12-22 | 音
レハールの曲は詰まらない? 2021-12-21 | マスメディア批評
完璧に済ませた買い出し 2021-12-20 | 生活
マーラーが為せなかった事 2021-12-19 | 音
決して無抵抗ではない 2021-12-18 | 文化一般
まるで夢のような喜歌劇 2021-12-17 | 音
黄金ザールでの多様性の響き 2021-12-16 | マスメディア批評
劇場への強い意志を示す 2021-12-15 | 文化一般
子は親のなすが儘になるか 2021-12-14 | 雑感
亡きシュニトケの思い出 2021-12-13 | 文化一般
同様な傾向になる計算 2021-12-12 | 音
手前に流れてくるストリーム 2021-12-11 | 文化一般
期待する来年への眺望 2021-12-10 | 女
胡桃入りパンの満足感 2021-12-09 | 料理
千秋楽のフィナーレ 2021-12-08 | 音
生で接する慣れ親しみ 2021-12-07 | 生活
暫しの晴れ間にでも 2021-12-06 | 生活
オペラ上演のノウハウ 2021-12-05 | 文化一般
一番辛い時に楽しいものを 2021-12-04 | 文化一般
歌劇場が分かるように 2021-12-03 | 文化一般
独墺核レパートリー 2021-12-02 | 音
アップサムプリングの制限 2021-12-01 | テクニック
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五十肩に負けないように

2021-12-31 | 
ワイン醸造所が閉まっていて買えない。しかし、トレイルランニング用のシューズは発注した。今使っているものの新モデルに当たるものだ。つまりゴアテックスでなく水が素通りして抜けていく性質のものである。ゴアテックスのものに比較すると軽くなり、水も吸わないので重くならない。モンブランの氷河でも初期のモデルを使ったことがあるので分かっているのだが、底さえしっかりしていれば荷物を背負っても問題がなかった。

但し平素のランニングでは底が硬過ぎると走り難い。それで前回は更に薄くなった物と厚めの二極化した中で、走り用に薄いものを選んだ。同時につま先で技術が駆使できるテクニカルとあったので、走りが上手くなるかと思ったがタイムは出なかった。確かにその間に走り慣れた感があったのだが、パン屋の廃業に伴って走るルートが変わり、登山コースになってしまった。そこで底の安定性が特に下りなどでは求められるようになってきた。要するに足の裏が石のとんがりで痛いことがあった。底が厚くなると上りで走り難くなるが、現在の速度と走り方ならばあまり変わらないだろう。

結局、ゴアテックスかそうではないかの二種類に分かれてしまったので、薄く軽い方を選ぶしかなくなった。テスト記事では地面への接着感に欠けるので走行感の楽しみがないとあった。それもよく分かるのだが、平地を走ることがなくなったので、あまり関係ないかもしれない。トレイルランニングシューズの難しいところだ。

上手くいけば金曜日に配達されるが、恐らく年明け直ぐに届くだろう。大きさも今迄のEU42もしくはUK8で、送料込み90ユーロしなかったので、製品に問題がなければ、先ずは来年から新しい靴で二年半以上は走れる筈だ。その間に新たな局面に至りたいと思っている。先ずは新しい靴で動機づけとなる。

水曜日の午前中に当夜から三日間金曜日の大みそかに世界中に生中継されるジルフェスタ―コンツェルトのキャンセルが通信社を通して速報で流された。指揮のキリル・ペトレンコの背中の故障で、代わりにベルリン在住のシャニが指揮を引き受けることになった。支配人ツェッチマンが祈りながら電話をするとイスラエルではなくベルリンにいたというのだ。その為に、珍しい二曲はヴィーナーヴァルツァーの「皇帝の円舞曲」に差し替えられた。それでも強度胸と思ったと語っている。

前回ペトレンコが「いつもの健康上の理由」で休演したのは2017年6月のコンセルトヘボー管弦楽団で引退したルプーと共演する予定の三晩で、その前は2015年12月ベルリンの定期公演でのマーラーの六番だった。二回ともズル休み感は強かったが、今回は当日の判断のような感じで前日の練習までは出演予定だったのだろう。

秋頃から手の振りがおかしいという指摘があったので、疲れが溜まっているのだなあと思っていた。実際、その一部の公演に出かけるだけでこちらも疲れている。特にミュンヘンでの七月のお別れ公演までとその後の再開でとても力が入る公演が連続していただろうと想像できる。

新春は12日からの「イオランテ」なので、二週間先となって、そこでの公演が復活祭の下準備になっている。個人的にもこの何週間かスポーツクライミングで故障した右肩が痛んで、右腕が上がりにくくなっているが、無理して動かしている。所謂五十肩とか呼ばれるものであろう。ペトレンコも来年二月で五十歳の筈だ。



参照:
恒例の焼き直し作業 2021-12-29 | 暦
お茶を濁さないように 2020-08-21 | 生活
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硬直したセル教授の指揮

2021-12-30 | 
日本でも人気のあるセル指揮クリーヴランド交響楽団のライヴ録音を聴いた。1965年の二か月半に及ぶ米国政府による欧州大ツアーの途上ベルリンの新しいフィルハーモニーで演奏した中継録音。

当時RIASの現代音楽部長でをしていたシュトュケンシュミットによるインタヴューも価値のある音源で、セルの美声が聴ける。シュトラウスに二年間アシスタントとしてついていて、マンハイムの楽団とピアノで共演したとある。ペトレンコにおけるリニヴまではいかないが、ヴッパータールの音楽監督就任のハーンぐらいの関係だろうか。

最初の就任前の条件の出し方で、唯一無二のどこにも負けない管弦楽団を作るが条件で、人を入れ替えて優秀な人をリクルートして規模を100人にして徹底的に練習したのだから最も若いビックファイヴが頂点を極めたのも当然だろう。

しかし、ベルリンでの「オベロン」を聴いても、アメリカのブリリラントで正確さと中欧の温かみをモットーとしていた割には、矢張り合わせ方となによりも指揮のリズムが固く硬直感は否めない。音程やその徹底はベーム博士指揮などにも共通するが、どうしても鯱張る。ベルリンでのラトルの晩年にはセルへの悪口が聞かれたが、ラトルの目指していた管弦楽の一つの理想があそこにあったのだろう。

現在のメスト指揮に問題もあるのだが、目指すところの独自性はより洗練されていて、セル時代の良いところは全て引き継いでいると思われる。当然のことながら音楽的にもメスト指揮が必ずしも悪い訳ではない。

実際に当時の新聞評などではその技術的なところに絶賛されていても独自の音楽性などには意見が分かれているようだ。但し中継録音のバーバーの協奏曲は初演のピアニストでとても面白い。

ツアーに53曲も持って行ったというのだから如何に練習をつけていたかが分かるようなエピソードで、セル自身が自分の楽器として満足しているというのも偽らざるコメントだと思う。

兎も角、当時の強力で伝統的なビッグフォーに対して、独自の美学で基礎を固めた功績は余りにも大きい。同時にその会場の制約から今でも伝統が続いていて、唯一無二の交響楽団であることは現音楽監督のメストが語る通りで、少なくとも経済的な可能性がある限りつづくのだろう。

ヴェルサーメストの功績も中興の祖として、少なくとも芸術的にはより柔軟性に富んだ交響楽団になっていて、評価されるに値するだろう。嘗てセル指揮の特徴と思われていた合奏の在り方やその響きの具合はメストによって会場にまつわるものだと説明された。更にそこに何を加味していくかとなれば、現在の高度の演奏技術的な精査で以ての柔軟性しかないのである。



参照:
細い筆先のエアーポケット 2017-11-03 | 音
敵はクローム・グーグル 2018-11-19 | アウトドーア・環境
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恒例の焼き直し作業

2021-12-29 | 
年末調整である。漸くブルーレイ焼き機を発注した。これで手元にあるブルーレーディスクを読み込める。問題なくリッピングできるかどうかは知らないが、使える筈だ。必要なのはハイレゾ音響だけであとはどうでもよい。

発売前に逸早く劇場で購入した「死の街」のハイレゾ再生がなによりもの楽しみ。時間が経過して、やっとメディアでも観れるような気持ちになった。そして12月に同じ劇場で一曲だけでもエンゲル指揮で聴いたのが落ち着いて戻れる切っ掛けになった。そして7月にもガラでカウフマンが歌っていたのを思い出して、録画を流してみた。

当夜のことを遠い昔の様に思い出す。このコンサートに出かける前に抗原検査を遅めに受けて、翌晩「トリスタン」最終日公演の入場に使えるようにしておいた。これで少なくとも自分だけが入場できなくなるということは、近辺で感染クラスターが出たとかでなければ、なくなった。つまり6月から終止目指していた目標に手が掛かっていたのだ。

だから悠々で楽しめればよかったのだが、なぜか気持ちの硬さのようなものもあって、初めての平土間の後ろの方で音響も耳慣れないものだった。だからお待ちかねのペトレンコ指揮での「マイスタージンガー」三幕から、「サロメ」フィナーレ、「死の街」フィナーレ、「バラの騎士」時の歌へとのメドレーが、もう一つしっくりこなくて、そのことを綴っていた。しかしこうして聴くとどれもこれも見事な演奏になっていた。

どこに原因があるかと思うと、どの曲も特にサロメなどは前々日に大名演に接していたからだと思う。それともう一つ、圧縮音源などでは何も分からないとする意見もあるが、まさしく平土間の奥で批判的に聴かれるものとの差が大きく、声の出ないシュテムメのイゾルデの愛の死やカムぺのジークリンデもまともに聞こえる。要するに美化されているだけだ。また翌晩の最終公演の為に抑えめのコッホやカウフマンの中で、ピエチョンカの歌唱がよかったので、復活祭の皇后にもう一度と考えたのだった。ミュンヘンの劇場で歌いきれるのは超一流の極一部の歌手だけということになる。

さて、年内にブルーレイを焼けることになるとすると、先ずは予備の2TBのポータブルHDDに入っている重なっている音楽ファイルを焼いてしまおうと思う。焼いて消去していくと購入した10枚分で250GBほどスペースが空く。永久保存版を其処に焼いて、その他のめったに呼び出さないファイルをNAS外部ストレージからHDDへと移植する。重なっているファイルを整理できるので250GB以上のスペースが空いて来る筈だ。最終的に1TB程のスペースを空けたい。更に一年間何とかなると思う。手動でファイルを動かしたり消去が結構面倒。しかしさっぱりするのはこの時期でしかないような。

少し先行してファイルの大きさなどを見ていると、もう何が何だか。未整理の分がそこに固まっていて、分類比較するのが面倒で残してあるのだ。これを一つ一つ中身を確認していくとなると大変。例えば2017年のタンホイザー公演などは初日が5月にあって生中継されて、7月にストリーミングが生で劇場とArteと双方からあった。更に再放送ではカメラ切り替えが変わったりと映像だけで何種類かが存在する。更にコピーするときに二重になったり、再放送を録音したりでとんでもないことになっていて、選択するには一通り流さないと判断できない。そういうのをマテリアルとして一挙に永久保存してしまおうというのがブルーレイROM焼きの狙いでもある。



参照:
虫干しにするファイル 2020-12-07 | 暦
初めてのガラコンサート 2021-08-05 | 音
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一派の枢軸となるだろうか

2021-12-28 | ワイン
ザルツブルクから総合プログラムが届いていた。150ページ程のA4サイズだから結構重い。来年度は今年に続き注文するので価値はあるだろう。矢張り冊子の方が見やすいことも多い。

ぱらぱらと見通して、ネットで見ていた以上の情報はなかった。結局アスミク・グリゴーリアンの「三部作」が目玉であることも変わらない。また不思議な音楽会があって、カメラータザルツブルクはエンゲル指揮で演奏して、その前座にカンブルラン指揮でクラングフォールムが演奏、最後にヴォーカル団が歌う。曲の関連でのコンセプトものなのだろうが、演奏会場も教会で、旧主派のカメラータが演奏するということはポストモダーンな演奏会に違いない。

ザルツブルクも音楽祭以前に国際現代音楽協会があったところで、ここ四半世紀再びそのような催しを始めたが今一つ話題にはならない。日本語の検索でエンゲルの名を入れたら私のものばかり出てくるのだが、ペトレンコのアシスタントをしていたブザンソンのコンクール優勝者沖澤のプロフィ-ルに「IMPULS現代音楽セミナーで2016年に指揮の講習を受けた」とあった。エンゲルにしてみたら本業だから教えることなど何でもないことだろう。しかし指揮者コンクールなんて優勝どころか受けているようにも思えない講師である。

興味深いのは、2029年までシュトッツガルトで州との契約を延長した支配人ショーナーと「今日の音楽劇場」アカデミーを主催していて、要するにエンゲルもモルティエ一派となる。これでバーデンバーデンあたりに新たな拠点を取れれば、ミュンヘン、シュトッツガルトと繋がって枢軸となる。もう一つはバイロイトなのでそこを何とかしないと勢力圏が定まらない。しかし可能性がある。

バーデンバーデンはペトレンコ指揮の演出が成功するのかどうかやってみないと分からない。少なくともドラマテュルクのケルスティング氏などのスタッフは整えられるだろうから、資金の問題になる筈だ。

そんな情報を纏めているうちに、シュトッツガルトの音楽監督コルネリウス・マイスターがイイネを押してくれた。来るなと思っていたのだが、称号を間違った省略でつけていたこともあるのだろうご本人の名前が入っている呟きではなく、「ジュディッタ」での件の「リブレット作者が殺害された」重要なポッドを聞いてくれたようだ。これは玄人が聞き逃していた点で、そこにイイネは評価したい。

気障なおかしなタイプで、人気が地元でもあまり高まらない指揮者なのだが、その数少ないフォロワーに加わった。先日の「ラインの黄金」もインキネン指揮の様に軽くはあったのだが、あれは受け入れられるとは感じた。2023年にリングツィクルスを終えることからバイロイトのシュヴァルツ演出をインキネンに代わって引き受けるのはこの人しかないだろう。

クリスマスには2015年「ゲリュムペル」を開けた。今年は肉屋で注文が遅れて大きなザウマーゲンが手に入らなかったので、簡単な切り身を焼いた。膀胱とは異なり胃袋は皮も厚くて焼くとコリコリする。それで手軽にプルミエクリュで終えた。

開けてから半日ほど経って、漸くアーモンドやあんず系の味が開いてきた。2015年は硬くはなかったのだが凝縮感が強く中々気軽には楽しめなかったので漸くの感がある。酸が弱いからそれ程寝かしておきたくはない。でも今回は栗ザウマーゲンにはチョイ熟成感が良かった。若くもなく、老けてもおらず、硬くはないが、味が出てきていた。



参照:
伝播する分からぬ流行り 2021-12-24 | 文化一般
二流と一流の相違 2018-01-30 | ワイン
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加速感に腰が引けそう

2021-12-27 | 
承前)芸術が高尚でなければいけないとは言わない。しかし演出家のピーター・セラーズが語っていたように少しづつでもかみ砕かなければ分からない難しいところがなければいけないとするのには賛意する。端的に向上心とか「今日よりも明日が少しでも」とする啓蒙思想的な発展がそこに存在するということである。なにか得るものがあるかどうか、何回繰り返しても発見があるかどうかで、使い古されるエンターティメントの消費と芸術との差がそこにある。新たな発見もないような世界には希望もない。

失念する前に、「ジュディッタ」で挿入された曲の中で印象に残ったシェーンベルク「幸福の手」を調べると、それは第二景だった。挿入されるのを知っていたら楽譜を調べておいたのにと残念に思った。そして今更ながら、この曲が奥さんのマティルデの1908年の浮気と刃傷沙汰に絡んでいるとは知らなかった。相手の画家は、奥さんがシェーンベルクの許に戻って直ぐに、自殺している。

流石に芸術家の人生であって、チャイコフスキーのだけではない。「浄夜」の詩とかの程度でもない。シェーンベルクも若かったのかもしれないが、とりわけ熱いことになっている。しかしその音響がとんでもなくクールなのだ。

LPで所有していて、CD選集にもついていたのでブーレーズ指揮でニムスゲルンが歌っていたのは耳にしていた。しかしそれ以上には詳しいト書きで情景や背景までを想像したこともなかった。数少ない音源でもまともに聴いていないということで、特にこうした楽譜を買うととりわけ高価だったような音楽は余程注目していなければ流している程度でしかないということになる。因みに同様のモノドラマ「期待」の方はジェシー・ノーマンの舞台を観ているので脳裏に焼き付いている。

そのようなことで、今回も放送で流れるので改めて鑑賞したい。声の使い方も見事だと思ったのはそれと管弦楽の絡みが絶妙であったことにあると思う。改めてブーレーズ指揮BBC交響楽団演奏のそれを聴くと、まるでト書きを説明するかのような具象的な音が鳴っていて笑ってしまう。その点、エンゲル指揮の座付き楽団のそれが、明らかに抽象的な音色が活かしつつ、劇的な演奏をしていたのを思い起こす。

ティテュス・エンゲルの指揮は、そのコムテムポラリー音楽や古楽での経験を踏まえての引き出しの多さがあるのだが ― 決して初演魔に終わらずに ―、嘗てからの長所以外に気が付くこともある。フランクフルトでの二種類の演目三晩を聴いても音楽劇場空間の作り方が上手い。矢張り散々に面倒な新作などを指揮してきての経験から、その聴衆との仲介であると同時に反応を観る力がついているのだろうと思う。

上の挿入やその繋方も見事な腕前であると同時に作品をとても忠実に紹介する使命感も強い。そうした配慮を超えることなく、そのアッチェランドの掛け方などもペトレンコの一瞬即発の急加速とは異なって重量級のICEの加速感に似ていて、こちらの腰が引けるときがある。そして何よりもいいのはゆったり感で ― 独語的イントネーション感を伴う ― 、あれはペトレンコが如何に天才指揮者であっても出来ない。同時に瞬発力が高く、回りだすと物凄い迫力がある。ミュンヘンでも音が大き過ぎると書かれたが、他紙には演出上から敢えて声を落としていたのだと「反論」が載っていた。

以前から言及していたように、若い時から声に合わせるのは特別に上手かった。そして悠々とした指揮は印象にあったのだが、こうしてメインストリームの楽曲においてこのような威力を発揮するとは想像もつかなかったのである。音楽スタイルとしてはあくまでもコンサート向きなので、放送交響楽団だけでなくて一流の交響楽団を独自のプログラムで指揮して欲しいと思っている。バーゼルの現代音楽管弦楽団に決まったということは、まだまだ通常の管弦楽団のポストで振るということではなさそうなので、客演で超一流の楽団でのコンサートを近々振って欲しい。



参照;
言葉不要の高度な表現 2021-11-16 | 音
カフェインで騙し目を覚ます 2021-12-25 | 雑感
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イヴのクリスマスパン

2021-12-26 | 料理
ヒーターの温水の流れが安定しない。水音が気になる。夜中以外は最低の温度は保たれているが不安定なのだ。年初にでも早めに隣のアパートを終わらせてしまわないと駄目だろう。足元が冷えることがあるのは温まり過ぎるということもないことを示している。

クリスマスのベルリナーフィルハーモニカーのデジタルコンサートホールでファミリーコンサートが無料で開放されていた。登録さえすれば観れるようになっている。9月の前日のベルリンのフェストシュピーレで演奏された後半の「火の鳥」をかいつまんで子供を連れた家族に聞かせて解説している。

楽団の後ろにお絵描きのモニターをおいて、最後までに書き終えるようにしていて、モデレーターが進行して、指揮者のペトレンコにマイクを譲る。その前で音楽に合わせて火の鳥が踊る。

なによりも子供に語りかける表情がいい。平素はその笑みがと書かれるところなのだが、まさに子供に語り掛ける表情なのだ。あれなら子供との距離も近い。大人の様に違和感を持つ子供はいないだろう。

内容もメモは取ってきているのだが、いつもの考え方を子供やそして慣れていない親にも同時に説明するようになっていて、誰が観ても面白いだろう。明らかに前任者のラトルよりも子供向きで、おかしな緊張感などもないのがとても良い。

水曜日の購入したクリスマスパンを金曜日に切った。直ぐに切っていたら半分は冷凍しないと持たないといわれたが、手を付けなかったのだ、新鮮なままだった。新しいパン屋は原料に金をかけているのが特徴で、これも材料はなかなかいいものを使っていた。はちみつか何かでべとべとした感じもここのパン屋のマイスターのやり方で他とも共通している。

真ん中から切って、徐々に短くなって来たのだが、中のしっとり感もあって、月曜日ぐらいまでは全く問題がなさそうである。それ程密でなく、それでもパサパサ感皆無なのは、材料のお陰である。新年三日まで休みなので次回は来来週の火曜日以降になる。一週間はパンを買わない。

劇場で取って来た冊子でミュンヘンの来夏のオペルンフェストシュピーレ公式プログラムを見ている。先ず、売り出し初日は二年続けて行われない。コロナ禍では人がたむろするなどはありえない。但し、どれが一番よく売れたかは分からない。ペンデルツキのオペラは話題性は高いが、高価な席まで飛ぶように売れるということはありえない。パブリックヴューイングのある「利口な女狐」は結構売れるのではないか。女流指揮者が上手に振れるとは思わないのだが、バリコスキーの演出であり、ある程度は売れる。「ピ―タグライムス」も英国指揮者ヘルハイム演出で遜色がない。再演の「バラの騎士」も集客も見込めて、「無口の女」もでバリコスキー祭りにもなっている。

指揮者や歌手などは上手くばらされていて、昨シーズンまでのペトレンコやカウフマン頼りの時と比較すると、平均化された雰囲気が強くて、興行的には大分やりやすくなっているのではないかと思う。



参照:
南独のもの北独のこと 2011-11-25 | 料理
待降節最後の週末 2020-12-19 | 暦
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カフェインで騙し目を覚ます

2021-12-25 | 雑感
年内はもう二度ほど走ればよい。ショーツで走っていて寒いなと思った場所もあった。摂氏零下だったのだろう。しかし駐車場辺りは2度で氷点を超えていた。新しい靴を買わないと冬を乗り越えられない、来週中に入荷可能だろうか。

ダルマイヤーで購入したコーヒー二種を楽しんでいる。一種はエチオピアのスパイシーな濃い口で、もう一つは酸味のあるパピプアニューギニアのシグリエステートのアラビカ豆である。後者のマンゴやアーモンド、ヴァニラ風味というのにに関心があった。ワインの世界では決して珍しいものではないのだがコーヒー豆にそこまでの見識はない。

因みに昔も興味を持ったことはあったのだが自分で炒って曳いてというところに行く前に腹を壊して断念する連続だった。今回も偶々のど飴の影響で一月ほど胃から腸の調子が悪かったのだが、徐々に治ってきたところなので自信はない。紅茶に切り替えたい。

それでも流石の品質で、その通りの風味は味わえている。どうしてもいい粉を淹れるときは濃い目になるので胃の負担も増える。またカフェインで騙さないと目が塞がっているようなときも多くなっていて、中々悩みどころもある。確かに昔コーヒーをかぶがぶ飲んでいた時もお勉強をしていた時なのだろう。

昨晩に仕事納めでベルリンで録音されたプロコフィエフの「シンデレラ」が流れている。ミュンヘンの後任音楽監督ユロウスキー指揮の放送交響楽団の演奏だが、これだけ放送を聴いて生でも聴いているとよりその指揮の良いところよりも悪いところが耳につくようになってきている。ミュンヘンでの今後の期待については変わらないのだが、前任者の音楽的な質が高すぎて、不満が募る。放送交響楽団出来ないことは座付き楽団でもできない。ベルリンと二本の草鞋を履いているというのも自分の実力を知っているからだろう。劇場を辞めてもそこ以上のポストが見つかるとは限らないので、やれることをやらなければいけないのだろう。兎に角お話し二割り演奏八割ぐらいだから、お話しするにも場がいる。

座付き楽団にユロウスキーがそれほど受けなかった理由は今よく分かる。折角の楽団を十分に鳴らすことが出来ていないのはエンゲル指揮のそれを聴いていてよく分かった。

オペラ劇場芸術的な運営はことのほか難しいと、これだけでも思う。バッハラー時代も最初はケントナガノが音楽監督であって上手くいかなかった。ペトレンコに代わってからも音楽的な評価絶頂に達しても演出との統合では必ずしも容易ではなかった。

そういうことでミュンヘンのオペルンフェストシュピーレには一度しか出かけないと思われるが、来年のバイロイト音楽祭の日程などが出るのも1月の末なので、先ずは最初にザルツブルクの音楽祭の券をキープしてから、それを軸に日程を決めるしかない。お目当てのアスミク・グリゴーリアンがザルツブルクで歌っているときにはバイロイトでは歌っていないということで安心である。デビューもしていないのでミュンヘンに急遽出ることもない。オペルンフェストシュピーレにはザルツブルクとバイロイトの序に出かけるぐらいで、決定しているのは一回だけだろうか。



参照:
ゴーゴリの鼻の威厳 2021-10-27
若年寄りも結構使える 2021-08-06 | ワイン
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伝播する分からぬ流行り

2021-12-24 | 文化一般
(承前)新制作「ジュディッタ」の二回目公演も行われた。三回目はクリスマス明けの27日月曜日である。早速トレイラーに続き、メーキングのヴィデオなどが出されて、そのリンクから最初から出ていた音声での解説などに戻った。

先ずはヴィデオで演出家のマルターラーとドラマテュルギが砂箱で話している。舞台でリビア蜂起の戦地である砂漠を表すそれで、全体の構成が話されていて、舞台装置も今までチュッリッヒ等で使われていた物が転用されていると紹介されている。それは自らの演出の流儀らしいのだが、そうした舞台作りで芝居がどのように構成されているかが示唆されていて、ホルヴァートの「スラデックもしくは黒い軍隊」がなぜ重要かが語られる。
OBSERVATIONS: GIUDITTA - Behind the scenes


そして音声解説に戻ると、明々白々にこのオペラ「ジュデッタ」自体が当時の社会情勢と切っても切り離されなくて、実際にかの有名なアルトハイデルベルクの歌を作詞したリブレットの作者はアウシュヴィッツで殺害されている。更にレハールのユダヤ系奥さんがのちに名誉アーリア人を貰ったのだが、その背景にヒトラーの最も愛した作品「メリーウィドー」があったことだけで既に政治的影響をそこにみないわけにはいかない。

しかしそれだけでなく、この敵前逃亡するような主役の作品は既にナチが勃興してきた様なドイツでの上演が難しかったこと、それによってヴィーンで大臣に直訴して初演がなされたが、その首相はナチに暗殺されて、それだけでなくレハールがイタリア軍人のアフリカ制圧を扱った作品であるからムッソリーニに作品を献呈しようとしたところ、拒否されたことと、この作品が初めから特別に政治的な作品であったことが明らかにされる。

その内容を再び見れば音楽コメディーと名を打っただけに決して通常のオペレッタでなかったこと、それは今回のヴィデオでも練習風景を披露しているテュテゥス・エンゲルの話しでも敢えて抽象的に語られていたのだが、要するにそうした演出やコンセプトが必要だったことを語っている。

ここで思い浮かべるのはアドルノの有名な言葉である。それは「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。」であり、バイエルン放送協会の女性がちっとも面白い所がないと批評していたというのは、高い教育を受けた若いドイツの市民にとってもそのようなことが忘れ去られようとしている事実である。

そしてYouTube上での当該ヴィデオは240回ほどの再生に対して「いいね」をつけた人は私を入れて4人しかいないことを考えるべきである。もしこれがマルタ―ラーのコンセプトに対しての批判や無理解だけでなくて、レハールのオペレッタに何も感じない人が大半を占めているとすればやはりドイツは世代転換を通して大きな転機を迎えているということになる。

支配人ドルニーの政策理念の根幹に昔の様な左翼思想があるとするとしても、もしこうした無関心が通るならば、ドレスデンで無観客で行われるティーレマン指揮のレハール曲もそこにはAfD的なネオナチズム思想が横たわっていると考えて注意するのも当然なのである。

マルタ―ラーは、「スラデック」がそのもの今日の我々を取り巻く環境に当てはまるという。「分からぬ流行り病で、我々が生きて行けるのかどうかも分からない」、レハールの作品自体の終わり方もメランコリーであり、決してオペレッタ的でないことを再三強調している。まさしくエンゲルが語っていた「普通のオペレッタではない」という言葉使いの真意はここにあって、それをとても洗練されて尚且つ親しみやすい語り口で説明している。本人自らを語る通り、劇場のスタッフとまともに話せる教育を受けているからに違いない。

こうしてみていくと今回の新制作は反響が大きく社会化しただけではなくて、制作として大成功になる可能性が膨らんできた。要するに巷の人までが、先ずは専門家と言われる層から徐々に理解が広まっていくまでに時間が掛かるという高尚な制作にもなっているということだ。(続く)



参照:
そのものと見かけの緊張 2018-06-19 | 女
劇場への強い意志を示す 2021-12-15 | 文化一般
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肝はそこなんですよ

2021-12-23 | 生活
火曜日の午前中は職人が来ていて潰れた。暖房機の調節弁の交換である。この八月末に取り替えられたボイラーに纏わる調整の一つだった。こんな寒い時期にとは思ったが、仕方がない。朝八時から十一時半過ぎまでやっていた。

全部でヒーターフィンが八個あるので、それを各部屋廻って付け替える。屋根裏部屋からやらしてその都度掃除をしていこうと思ったが、最後の最後まで屋根裏部屋に出入りすることが分かって、更に水を抜くためには下から始めないといけないことも理解して、結局掃除は全てが終わってからになった。15時過ぎまでは殆ど仕事にならなかった。結局水抜きとかに時間が掛かっていた。勿論狭いところでレンチで回すのに苦労していたようだが。

何とかカオスにならずに、クリスマス前に床から物は殆ど無くなり、掃除機をかけれたのが幸いだったか。しかし隣のアパートメントのことを忘れていて、それが終わらないと水圧の体制は完ぺきにならないので、若干不安定さは残っている。しかし明らかに流れる水量が上がっていて、温度調整の可能性は大きくなっているようだ。

ドイツの連邦政府での会見が行われていた。ラウターバッハ保健相の考え方はよく分かった。なんとしてでも年末までのブースター接種を熟して、更なる未接種者への二回目までの接種よりも優先させるという事だ。それによって、オミクロンの感染拡大を抑えて同時に未接種者を守るというとても現実的な考え方で、前任者の同性愛者の脅しや何かで動かすというのとは全く異なる。

その為に今迄は長く設定されていた二回目から三回目の間隔も臨機応変に三か月以上と短縮されて、更に一月には追加で月末までに一定数を熟したい様である。三回目の効果は一週間でフルに出るようだ。そこでオミクロンをある程度抑えられれば三月に出てくるビオンテヒの新型を四回目と設定していて、順調にいけば春の終わりころには全て解決して、五本目からは弱者や特別な人だけが接種していく。コロナは通常の流行り病となるという出口戦略が車中のラディオでも紹介されていた。もしそれがなりそうならば、後二回の接種ぐらいはと考えないでもない。矢張り本人も医者で、ある程度知識人の心情はよく分かっている政治家だろう。

会見ではNHKからメールで子供へのブースターへの見解が問われていたが、まだ認可されていないことから今後の課題としていた。そういう政治家だから接種義務も倫理委員会の賛意を以て行うとしていて、無理強いをしない。この声の小さいような人が接種反対派などから脅しを受けるのは分からないが、連中には全く異なった思考回路があるのだろう。

来年のミュンヘン行の予定などを調べている。恐らくミュンヘンへは三回から五回は行く。今年もこのシーズンも生涯で最も多くオペラに通う年度となりそうだ。今迄の最高がザルツブルク通いしていた時だが、それでも精々四五晩が最高だったが、シーズンでは軽く二桁に至る。今年だけでも七晩出かけていて、コロナでなければ二桁になっていた。コンサートに比較してオペラは高価になるので、また時間も長いので大変だが、質が高ければ満足度は高い。

なによりも、予め質を吟味できるようになったのもあって、嘗てコンサートでやったように片っ端からとは全く異なるので、徒労にならないのがいい。更に旅費が掛かるので、なるほどドイツなどでもオペラパック旅行というのが商売になる筈だと今頃理解している。嘗てそうしたパックの企画をやったことがあるのだが、今頃になってその商売の肝が分かるようになってきた。



参照:
お湯が出たお湯が出た 2021-08-25 | 生活
鼻を噛む余裕もない 2021-08-11 | 雑感
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期待される模範的観念連想

2021-12-22 | 
承前)ドルニー体制での新制作がどのようになるか、これは最大の関心事だった。今回は10月の初新制作「鼻」に続いて、音楽劇場としては大制作になる筈だったからだ。結果はその反響の大きさからしても「鼻」を超えた。

制作チームがプログラムで対話しているように、2019年の暮から即ちコロナ騒動が始まってから本格的に動き出している。そこで年末のレハールはオットーシェンクの「こうもり」を其の儘乗り越えるようなことは否定されていたのである。

個人的にはティテュス・エンゲルが指揮のジャムプインしたことで、もしやするとあのカルロス・クライバー指揮の様な名物になる可能性も期待の中に全くなかったとは言えない。そして制作コンセプトには解体よりも再構成が選択されたとある。

これが意味するところは勿論挿入された楽曲の選択でもあるのだが、演出そのものでもある。演出を網羅するには来る一月の録画中継並びに独仏放送局でのアーカイヴ化を待たなければいけない。しかし、幾つかの指摘やまたは指摘されていない観念連想についてもメモしておくべきだろう。

明白な意匠は黒い風船として北イタリアにおけるパシフィズム運動が示されていて、皆が書く「政治化」の一つであった。勿論これは11月の「鼻」における最終場面の「赤い風船」を常連さんなら思い浮かべる。偶然ではなくてこれはそう期待されている。

この作品が音楽のコメディーと名付けられて「アラベラ」のお手本にもなっているらしい。そしてこのレハールの作品を制作する代わりに当時のヴィーンの音楽監督クラウスが初演させたのがクシェネック「カール五世」。ミュンヘンでも先ごろ新制作されていた作品である。また過去を回帰する書法はヴァ―クナーであり、ここでは「トリスタン」となるだろうか。また二対のペアーで同時再演中の「魔笛」と重なるというのだ。そして何よりも挿入されたコルンゴールトの「死の街」のデュエットを歌うジュディッタの花柄ワンピースはマリエッタのそれを思い浮かばせずにはいられなかった。更に「カルメン」の舞台との関連もあるのかもしれない。ドルニーがやりたかった音楽劇場の形は既にここに表れている。なにも舞台の上だけで進行しない劇場である。

再び音楽的な成果に戻ると、フランクフルターアルゲマイネ紙は、「立派でそして楽し気な前奏曲を更に轟くようにティテュス・エンゲル指揮の国立管弦楽団は恐ろしく上手に演奏した」と絶賛している。このような書き方はこの高級紙ではペトレンコ指揮にでも読んだ覚えがない。更に「あらゆる句読点を歌手と息を合わせながら模範的な指揮」としている。公平に考えて、独語圏の指揮者でこれだけできる人はエンゲル以外にいないだろう。

当然のことながらこうした独語歌唱においては中々これが後任者のユロウスキーには出来ないものなのである。ペトレンコにしても上手に解決しているだけで、ここまで柔軟にやれるかどうかはまた別な話である。

そこでインタヴューに戻ると、レハール指揮の録音をどう思うかに対して、「模範というよりも寧ろ興味であって、とても自由なテムポを取っているのを倣いたいが、結局は現場で歌手とのもしくは演出との兼ね合いでなさなければいけないので、机上の空論では仕事はできない。」とこれまた模範解答をしている。(続く



参照:
赤い風船が飛んでいく高み 2021-10-29 | 文化一般
とても腰が低い歌姫 2019-11-19 | 女
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レハールの曲は詰まらない?

2021-12-21 | マスメディア批評
(承前)新制作「ジュディッタ」演出に触れる前に新聞評などが出てきたので、演奏評を読む。

先ずは読み以前に朝7時15分からのバイエルン放送協会の評を聞いた。コラージュで挿入された事で、特にティテュス・エンゲル指揮の座付き管弦楽団があれほど繊細に楽しく演奏したものが中断されることは痛いと書いている。殆ど楽しい場面はなく、バルトークの「マンドリン」が場面展開の場面に演奏されて、精々舞台上を椅子が飛んだりして動く場面が面白かったというのである。

挿入曲一覧:

アイスラー「故郷」1940
レハール「熱」1915
ウルマン「どこから全ての美しさを」1939
ベルク「雷雨」アルテンベルク歌曲から1912
シェーンベルク「幸福の手」作品18、JaOJa
ベルク「ここは平安」アルテンベルク歌曲より
クシェネック「苦しむ世界から控えていればよい」1937
コルンコルト「幸せ、私に残るもの」死の街より
アイスラー「自殺について」1939
コルンコルト「カムウェーデス」1937
バルトーク「マンダリン」1928
ストラヴィンスキー「ワルツコーダ」カード遊びより
ショスターコヴィッチ「タンゴ」1931
「ラルゴ」五つの管弦楽曲より1935

これらの挿入曲について細かく指摘している評はまだ見つからない。理由は複雑さもあって、一度だけでは把握しかねないというのがある。しかし、より正確になんとフランクフルトから出かけたアルゲマイネ新聞が書いている。ベルリン時代にペトレンコの衝撃の問題インタヴューをしてしまった人物である。

既に私が言及したように演出家は、レハールの曲を詰まらないものとしてみていた。こうしたオペラのメッカの大劇場ではあの曲ではもたないと考えていた。しかしそれは違ったのではないかというのが批評の大きな骨子になっている。

一方エンゲルはミュンヘンの新聞のインタヴューに答えて、オッフェンバッハの「ホフマン物語」と比較すべき作品で、オペレッタから外れてオペラを作曲したいという意思があって、実際に1934年にヴィーンの国立劇場で初演されてドラマテュルギー的にも典型的なオペレッタではなく、オーケストレーションも色彩的だとしている。

しかしマルタ―ラーのコンセプトが、既に音楽史は無調へと突き進んでいた時でありレハールがナチに利用された面があるとして、敢えてショスタコーヴィッチやナチによって退廃音楽とされたものを組み合したと客観的な視座を披露している。これは、最初に紹介として載っている音楽学校ではなくて、音楽学と哲学を学んだお陰で、親の意向に従ったことで、劇場のスタッフと話す時に役に立っているというエンゲルのプロフィールにも掛かっている。(続く



参照:
Stört Sie die Musik?, JAN BRACHMANN, FAZ vom 20.12.2021
Dirigent Titus Engel über "Giuditta" in München: In die Tiefe gehen, Robert Braunmüller, Abendzeitung vom 18.12.2021
決して無抵抗ではない 2021-12-18 | 文化一般
まるで夢のような喜歌劇 2021-12-17 | 音
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完璧に済ませた買い出し

2021-12-20 | 生活
月曜日に土曜日の批評が出る前にミュンヘン入り記。10時半に出る予定だったが前夜の一時間半程の遅れもあって、45分程になっていた。幸い天候は予定していたよりも穏やかで、更に乾いていた。途上渋滞個所はポフォルツハイムからシュツットガルトで事故渋滞を含めて、土曜日としてはクリスマス前で動きがあったようだが、例年のような休暇開始の雰囲気はなかった。

予定では15時から16時の間にガレージ入車だったので、慌ててはいなかったが、往路の早い時間に渋滞すると意気消沈する。なによりも曇天ながら降りそうにはないので安心だ。それでもバイエルン州へと向かう峠には残雪があった。その影響で霧が出ての速度制限もついていたが、危険を感じるほどではなかったので問題なくウルムを超えていつもの所でトイレに行って昼食にした、14時までゆっくり出来る。そこから市内までは一時間を計算できる。何とか市内まで至れば何があっても劇場まで到着可能だから車が壊れたりの心配は要らない。

だから昼食を車内で摂って、早め早めに先へと進んだ。余り早すぎると困るのだが、実際に中心部に着くと買い物客で賑わっていることに気が付いた。目抜き通りのマクシミリアンシュトラーセでも渋滞していたが、待つことなく入車可能だった。矢張り例年に比較すると遠方からの旅行者が少なく、テストを受けての買い物客も少なかったからだろう。

しかし駐車場は満車の手前で場所を探すのに時間が掛かった。矢張り16時前に到着していてよかった。買い物時間は30分ほどで、目抜き通りに繰り出すとヴィトンでも長い列があった。要するに入場制限と証明書検査などで待ち時間が長いのだろう。ダルマイヤーも30人ほどが並んでいたが、ここはどうも食料品扱いで人数制限だけだったようで、5分程は並んでいたが早く流れて、店内は例年よりもスキスキで買い物が早かった。予定していたテリーヌ類、チーズ、コーヒー、トルテ、ワインの全てを購入しても中で並ばないので平常よりも早く済んだ。要するに冷やかし客もおらず、目的をもっての買い物客しかいないので効率がいい。コロナ後もこうした方がお店は儲かるのではないか。いいお客さんばかりだ。

シャンパーニュも一本200ユーロ以上で簡単に売れている。矢張りミュンヘンの人は購買力がある人が多く更にワインを知らないものだから、シャムパーニュの付加価値もよく分かっておらず高価だからいいと思っている人が多いのだろう。我々ワインどころの人間からすれば東京などの俗物と変わらない。

望み通り買い物を終えて車に戻って、アイスボックスなどに保存して、劇場の入る前に駐車料を払ってしまおうとしても列が出来ていてできなかった。やはり大都市の一つの拠点がこの程度だからロンドンやパリなどとは異なり生活し易い。

劇場の入り口でも並ぶことはなかった。ここも入場人数が少ないから、平素よりも列がなかった。

結局車庫出しは21時14分で、22ユーロ、アウトバーンには21時30分過ぎには乗っていたので、帰宅も25時前は容易だった。しかしウルムまで飛ばし過ぎて、ワイン街道で給油が必要になり、更にアウトバーンが一部閉鎖していいて、迂回して25時30分前まで部屋に落ち着くのに時間が掛かった。視界は給油までノンストップで最後まで狭まらなかったが、やはり疲れた。



参照:
ミュンヘンへの行楽日和 2021-10-25 | アウトドーア・環境
屹度戻って来るからね 2021-08-01 | 文化一般
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マーラーが為せなかった事

2021-12-19 | 
想定以上の出来だった。挿入された13曲もよかったが、なによりも音楽的にはレハールの楽譜からこれだけの音を引き出したのには驚いた。この点では演出家のマルターラーと急遽指揮を引き受けたエンゲルとの間に齟齬があったと思う。それでも指揮を病気で降りた背景を考えると、そもそも挿入曲をセンス良く繋げていい演奏をするのは到底不可能だったからだと思う。その点エンゲルにとっては音楽のモンタージュなどは朝飯前の仕事であり、コラージュなどはお手の物だ。それは3月に再演もしくは観客を入れての初日を迎える「ボリス」も同様で、手法としてはミュンヘンでリニヴが振った「エディ―ト」よりも遥かに過激である。

こうした従来のスタンダード作品に新たなもしくは他の楽曲などを挿入して一晩の音楽劇場として上演する方法はトレンドの先端にある。その是非や可否は別にして、ポストモダーンな音楽劇場の在り方として当然の方法で、それが上手に処理出来ない指揮者は音楽劇場には無用になっている。少なくともオクサーナ・リニヴは立派にやり遂げた。

しかしそれとは異なる面で、既に言及したようにレハールはオペラを書きたかった。オペレッタ作曲家として成功する前にもマーラーにお願いしている。「ココシュカ」というオペラでその命運を分けるのは指揮者だから自身の将来を掛けて頼むと書いている。そして初演も成功せずにオペレッタの道へと進んでいったようである。

今回エンゲルがなしたことはまさしくマーラーがなせなかったことである。ピアノ譜のようなものしか見ていないが、少なくとも大編成の座付き楽団で作曲家がしようとしたことは明らかだったのだ。往路の車中ではバイエルンの放送管弦楽団が日本でもお馴染みのシルマーの指揮で演奏した録音を流していたのだが、明らかに単純化して適当に音を作っていた。そこで平均化されて削ぎ落とされたものは何だったのか?

その逐一について、総譜も手元になく語ることはできないのだが、先ず何よりも管弦楽の区別化が大きな肝になっている。例えば挿入されたベルクの「アルテンベルク歌曲」から「平和に」を重ねて鳴らせば、その楽器間の組み合わせや混合の音色にも自ずと耳を傾けることになる。

例えば月初めに同じエンゲルが指揮したニールセンの「マスケラーデ」と比較すれば一目瞭然であって、その30年ほどの間に如何に音楽的な発展があったかは明らかになる書法で書かれている。なるほどレハールにおいてはパロディーや模倣もあって、「トリスタン」などもプッチーニ風にしているのだが、作曲家として同時代を創作していた。

売れっ子作曲家ゆえに、バルトークやショスタコーヴィッチなどに引用されるのが常であった作曲ではあるが、通常に思われているように「同時代的な創作」をしていたからこそ引用されていたのだろう。パラダイムの転換が必要である。

兎も角、ミュンヘンの座付き楽団が同僚のドレスデンやヴィーナーよりも美しく響いたのを初めて経験した。ペトレンコ指揮の時はどこまでもあくなき禁欲的な姿勢を保っていたので、こうしたやわらかで官能的な響きは一切聴かれなかった。

恐らく音色的に最も美しく評価されたのがボルトン指揮の時で、柔らかさではリニヴ指揮の時も顕著であったが、混合音色の響きがあの乾いた劇場でこれほど美しく響くことはなかったと思う。カルロス・クライバーが振ったこの座付き楽団もそんなに美しい響きを出せる状態にはなかった。

勿論そこにはペトレンコ指揮下で鍛えられた正確性が大きく寄与しているのだが、後任のユロウスキー指揮ではこうした上質の響きは出せない。その点ではエンゲルの方が遥かに優れた独墺系指揮者であるのは間違いない。(続く



参照;
決して無抵抗ではない 2021-12-18 | 文化一般
まるで夢のような喜歌劇 2021-12-17 | 音
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決して無抵抗ではない

2021-12-18 | 文化一般
前夜になって情報が流れてきた。ミュンヘンの劇場の新制作「ジュディッタ」の資料が送られてきた。現体制では二回目の初日であるが、前回の「鼻」の時よりもなにか力が入っている。印象だけであるが、制作が進んでいる状況で動きが増えてきた感じがする。

正直11月に指揮者が交代した理由も本当に病欠だろうかと疑っている。なぜならば今回の新制作への指揮者には可也良い芸術的センスが必要だからだ。少なくともこうしたポストモダーンの多様式的な作品の音楽監督にはそれなりの経験者が必要だからだ。

改めてそのことに言及するのは送られてきた情報のマルティメディアのコラージョこそは実は嘗て指揮者のエンゲルとあるプロジェクトを話したことがあるので余計にそう思った。

兎に角、演出家のマルタ―ラーが振り子のようにオペラと芝居やコメディーとシリアスもしくは喪失などの間で揺れ動く音楽劇場に言及がある通り、とてもその幅が大きく、一体どこに視座を定めていいか分からなくなってくる広がりがあるからだ。

先ずコラージョの一つ目が、1944年にどのように「ジュディッタ」の放送が非常事態下で聴かれたかが示されていて、感情的に揺さぶられてしまった。今我々がいるこの時がそのもの非常事態ではないか。
„Giuditta 1944“


予定通り抗原検査の前にシャツを洗濯屋で回収して、検査のところで車で30分近く待っていた。そして予約の17時55分過ぎに入って、事情を話して18時過ぎにテストをしてもらった。しかしメールで受け取った日時は17時57分になっていて使えないことが分かったのでさっそく薬局に電話すると、検査所には誰もいないのでどうしようもないと言われたが、まだ開いているところを教えてくれた。急いで出かけて、コンテナの外で寒空に証明書が来るのを待っていた。僅かな不安は口にロリチョップを舐めるもので口も洗浄していたが、100%の保証はなかった。それでも二度目の陰性を貰った。

こんなことまでして劇場に出かける人々。もうこれは1944年に耳を澄ませる人とその信じるところは変わりない。どんな気持ちであの当時の人がフルトヴェングラー指揮の音楽に耳を澄ませていたか、とてもよくわかるのである。今も昔も理不尽な政治にも強いモラルを示している姿なのである。我々は決して無抵抗ではない。

そして更に、ジュディッタが浮気して惚れるオクターヴィオが出兵したリヴィア蜂起とは一体何だったのかを示す映像。そして上の振り子とはどのようにオペレッタの時代の変遷とともに振り動いていることを示す映像がそこに加わる。ヴィーンの音楽監督フィリップ・ヨルダンが若いころにピアノを弾きながら解説している映像が挟まれている。決してそれが偶然にコラージュされたわけではない。
„Fragment zu GIUDITTA von Franz Lehár“

„Zwischen Operette und Trauer nur ein Sprung …“


まるで我々のつぶやきと同じことが並行で流れているもしくは、そのものパラレル世界がここでは新制作へのコラージュとなっていて、初日が始まる前から制作が流れているのである。

そして初日が収録されて、劇場のストリーミングとして1月に、翌月には独日文化放送局でも流されるとある。最初は計画されていなかったのだが、これも進行形の制作ではないか。



参照:
まるで夢のような喜歌劇 2021-12-17 | 音
劇場への強い意志を示す 2021-12-15 | 文化一般
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