Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2019年10 月

2019-10-31 | Weblog-Index


Mサイズ三兄弟 2019-10-31 | 生活
記憶の底から呼び起こす 2019-10-30 | 雑感
空き部屋を押さえておく 2019-10-29 | 暦
難民の是非を問わない 2019-10-28 | 文化一般
不適切な「ポジティヴな移民」 2019-10-27 | マスメディア批評
警察を恐れていた理由 2019-10-26 | 生活
水曜日のパリの夜から 2019-10-25 | 文化一般
こじんまりとした日常 2019-10-24 | 生活
「ポジティヴな難民」の意味 2019-10-23 | マスメディア批評 TB0,COM2
やっとこなれたBクラス 2019-10-22 | テクニック
ドナウエッシンゲン祭管弦楽 2019-10-21 | 文化一般
探し物はどこでしょう 2019-10-20 | 音
音楽劇場化へと集中  2019-10-19 | 文化一般
メディア賞ならずショー 2019-10-18 | マスメディア批評
とても参考になるLP 2019-10-17 | 音
新LP一枚5ユーロを切る 2019-10-16 | 生活
余りにも恵まれた境遇 2019-10-15 | 雑感
四拍子を振れない指揮者 2019-10-14 | 音
嗚呼と嗚咽が漏れる 2019-10-12 | 雑感
初アスミク・グリゴーリアン 2019-10-11 | 女
33年ぶりのマノンレスコー 2019-10-10 | 生活
再びオパーフランクフルト 2019-10-09 | 生活
写真に捉えられるもの 2019-10-08 | 雑感
最初の二年の経過 2019-10-07 | ワイン
老朽化したイェーテボリ 2019-10-06 | 女
Leitkultur議論への回答 2019-10-05 | マスメディア批評
本物と偽物の相違 2019-10-04 | マスメディア批評
今夜、忘れずに長袖に 2019-10-03 | アウトドーア・環境
脳足りん、ノーリターン 2019-10-02 | 雑感
インターアクティヴな関係 2019-10-01 | 文化一般
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Mサイズ三兄弟

2019-10-31 | 生活
発注したスイッチなどの発送メールを見ていたら、宣伝に乗ってしまった。15ユーロのフラネルのシャツは見過ごせなかった。同様なものを購入したり物色したりしたからだが、ウィッシュリストには入っていなかった。それでそこのを覗くと、色合いのいいのがあったので購入してしまった。生地は綿であるから、現在愛用している毛の少量限定品程の価値も無いが、部屋着で使ってしまうには価格とも全く問題が無い。近所を歩くときぐらいには使える。

これでもシャツを洗濯中とか散髪に出かけるときに一時的に着るのにも使える。大きさはアメリカンサイズなのでMで間違いないだろう。大きめでも上に羽織れば使えたが、更に綿のセーターを見つけたので、単独でも使えるかとも思った。

毛のセーターの御下がりは肘が破れてきているので、次を下ろすまで使い切ろうとして大切に使用している。しかし冷えてきて、暖房を入れずに頑張ろうとすると、部屋着で着れるものは幾らあっても助かる。天然素材を選ぶだけだ。

但し通常はLを着るのだがMを発注して、若干不安はある。小さい方を発注した心は綿のセーターはよれよれになるのが普通なので保温よりも袖もだらだらしないものを選択したつもりだ。胸元は若干小さめでもそれ程苦にはならない筈だ。購入者の感想ではちんちくりんだと言う者もいて、それは大丈夫だと思うが、あまりぴっちりと着ると破れるかなとも思ったり、19ユーロの買い物が気になる。

もう一つ冬の長袖トリオで、下着を17ユーロで購入した。これも今まではLしか着ていないが、袖やら肩などがよれよれするのが嫌になって来たのでMを購入した。これもぴっちりと着れたら嬉しい。今迄は同じ価格なら大きめを買わないと損なようなつもりで購入してきたが、最近は宗旨替えしてきた。贅肉が落ちてきたわけでもスリム化したわけでもないのだが、何かゆったり感よりもスポーティーな動き易さみたいなものを追求したくなってきた。決して運動量が高まっていないのにである。

まあ、先ずは衣料Mサイズトリオが届いてから大きい小さいと返却の是非などを考えてみればよい。

就寝前にチューリッヒからの放送を録音した。ベットに入って小さめの音で聴いていた。シェーンベルクの演奏はやはり大したものだ。初回放送通りヴァイオリンのコパチンスカヤの話しを聞かされるが、「幾らでも上手く弾こうと思えば出来るが、実際コムピューターもあり、そんなことよりも内容」という言いぐさが情けない。本当に上手い人はそんなことは言わない。そして最後に居眠りしていたらチァイコフスキーの後に、変な音楽が流れていると思ったら、そのもの彼女のドイツ語の訛りのままのクロイツェルソナタだ。あれじゃ駄目だ。ただの訛りではないか。しかしコンツェルトだけは上手く行ったのでお疲れ様と言いたい。十二分に拍手させて貰ったので、まあいいでしょう。

それにしても録音したのを聞き返すと小さなノイズなどはあるが、前回のものとはまた違って本当に素晴らしい録音だなと思った。一つは生の演奏から時間が経って行くほど放送の音が生々しく感じるようになるのだろう。それにしても2018年も2019年も歴史的大名演奏の連続だ。2020年のスーク作曲アスラエル交響曲に続くのだろう。



参照:
ヨーロピアンテーストとは 2013-08-07 | 文化一般
コンツェルトマイスター 2019-09-01 | 音
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記憶の底から呼び起こす

2019-10-30 | 雑感
また一枚コンサートのティケットを買って仕舞った。来夏のルツェルンの影響で、敢えて関心を抑え込んでいたトーンハレ管弦楽団のサイトを見て仕舞った。出かける心算が無かったのは車の車検の事があって、検査のあり得る国境通過は避けたかったので、現在の車での最後のスイス行を九月の半ばに済ました筈だった。だからあまり興味のあるプログラムも無い中で見落としているのに気が付かなかった。ドホナーニがシューベルト・メンデルスゾーンプロを振る。そもそもこのような名曲プログラムには関心が無いので見落としたのかもしれないが、先日のパリ管とのブラームスを見てその指揮振りを見て、これはと思った。そのような名曲プログラムでシューベルトを聴いたのは最後のカルロ・マリア・ジュリーニ指揮のSDR放送管弦楽団コンサートぐらいである。しかし、今回シューベルトはとても興味を持った。

どうも調べるとこの指揮者がドイツ国内で今後振るのは、NDRと地元ハムブルクで、BRとミュンヘンで、シュターツカペレベルリンとか限られていて、年長のブロムシュテットよりも行動範囲も狭く、新世界ではボストン位のようだ。それを知るとこのトーンハレとの相性も明らかにブロムシュテットとよりもいいと予想する、更に現在の仮小屋マークの音響を考えるともう我慢出来なくなった。問題は二日ある公演の後の木曜日の方がいい席が残っていたのだが、翌週月曜日がミュンヘンなので少し躊躇した。価格は安い席乍比較的いい場所で、指揮者本人の健康状態が悪くてキャンセルすれば捨てられる価格であり、先ずは購入して様子を見ようと思った。

しかしこのドイツ音楽界のドンのパリでの調子なら可成りいい演奏が展開されると思った。こうした名曲コンサートを振っても価値のある指揮者は、カール・ベーム博士とか本当に限られた指揮者であって、今回は「悲愴」でもなくシューベルトとなると、なにも態々アイヴスやリゲティを加える必要もない。そもそもオペラは何回も聴いていてもコンサートでは初めての指揮者である。

ここ二年ほどで初めて実演に接した長老指揮者が二人いた。そう思っていた。しかし冬籠りの準備等で古い日本でのティケットを見ていて、アッと声が出た。結構自慢の半券もあるのだが、それ以上に声が出るのは全く記憶から落ちてしまっている公演の数々だ。勿論どこかの深層に記憶が残っている可能性が強いので、情報を追っていくととんでもないことを思い出す可能性がある。

1977年コンセルトヘボー管弦楽団訪日公演Cプロを聴いていた。指揮はハイティンク、丁度41年前に初めて実演に接していた。記憶になかったのは、指揮者だけの責任でなくそのプログラムが、「劇場支配人」序曲で始まり、ブラームス三番、ルストラウスキー、ドビュシー「海」だったからだ。逆にその三番となると完全に思い出した。そしてその後にその弦楽アンサムブルについて話していたことがあったのだ。要するに記憶の限りこの指揮者で少なくとも三回生を体験したことになる。あとは記憶にない。

そして不思議な感じがしていたが、ドホナーニ指揮で既にクリーヴランド管弦楽団をどうしてどうしてアイヴス、モーツァルト、「悲愴」プログラムを聴いているではないか。ムラヴィンスキー以降ペトレンコ指揮が最初ではなかった、ハイティンクの指揮も聴いていた、嘘ばかりである。

そして半券を見て行くと驚きの連続だ。自分の深層の記憶も呼び出してみたいので、ネットで情報を少しづつ秋の夜長に呼び出して行こうかと思う。どこかに沈めていた記憶から不愉快なことを思い出して叫んだりしないだろうか?

ちらと見えてしまったのは、ムーティ指揮フィラデルフィア管弦楽団演奏会でファイン、火の鳥組曲、巨人を聴いていた。これは思い出すが、今のシカゴと同じでそれ以上ではない音の響きだった。

兎に角、最近初めて生体験したと思う人の名前を見つけて吹いてしまったり、どうしてこうもオペラの引っ越し公演にも通っていたのかと訳が分からなくなる。追調査要である。 

プログラムを見ていると、2016年にムラヴィンスキー以来二年前に初めて聴いた筈のチァイコフスキーの第五交響曲もどうもシャイー指揮コンセルトヘボーでルツェルンで聴いているようで、翌日のマーラーの十番クック版の記憶の影に沈んでしまっていたらしい。という事で記憶の限り、悲愴交響曲は、三回実演に接していて(ムラヴィンスキーはK543を第五の時と同様に前半に演奏指揮、ペトレンコはハフナー交響曲)、交響曲五番は、過去二回に、ペトレンコ指揮で四回聴いている。
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空き部屋を押さえておく

2019-10-29 | 
籠り部屋で夜を過ごした。部屋は暗いが暖房を付けないでもそこの方が温もりがある。準備しておいたのでものの数分も掛からない。モニターなどを更に薬品で拭いて清掃したが、完璧だ。今後の昼間の移動などはPCとキーボードとマウスそしてHiFiのリモコンを動かすだけだから、一度の持ち運びで完了する。昼間は日差しがあれば階下が温かいが、曇天であると吹き抜けになっている分空気が上に抜けるだけなので足元が寒いだけだ。

あとはベットの足元の間接照明のタイマーを電話機の充電用に流用したので、タイマーの代わりにWiFiで遠隔操作若しくは声で付け消しするようなアダプターを購入することにした。照明が潜り込んだところにあるので、欲しい時に直ぐに机からオンオフ可能にしたい。二十ユーロほどの投資に対して電気使用量は落ちる筈だ。タブレットから操作可能となるのでベットの中からの消灯も可能となる。

来夏のルツェルンの音楽祭のティケットを先行予約した。今年から来年への最大の変化は、音楽祭デビューしたゲヴァントハウス管弦楽団が失せて、九月に入っていたコンセルトヘボー管弦楽団がベルリナーフィルハーモニカーの前・前々日に演奏する。後ろにはロンドンの交響楽団が控えているが、ラトル指揮の通常のプログラムなので今夏のように出かける気はあまりしない。コンセルトヘボーももう必要はないと思っていたが指揮者ヘルヴェッヘがゲントの合唱団を引き連れるので、購入しても良いと思った。その前日には後任指揮者候補ロートが振るので、これも出かけるつもりにしている。

最大の問題は今夏の宿泊施設が予約を受けていないので、もう少し様子を見るとして、そこからまだまだ先の村のアパートメントを最長四泊で予約しておいた。距離にして11㎞しかし高速が長いので、走行時間にして6分程長くかかる。田舎道を長く走らない分楽ではあるかもしれない。三泊で充分になるかもしれないが、先ずは空き部屋を押さえておく。ルツェルンの駅前からの距離は30㎞、30分ほどなので、今夏の宿とそれほど変わらない。但し価格が炊事装置がついているだけ高くなっていて、他の宿とまだこれから比較することになる。

さて肝心のベルリナーフィルハーモニカーのオープニングプログラムは、予想の千人の交響曲ではなくて「一昨年ミュンヘンで初演された」ブラームスの交響曲四番である。ヴィーンでも同様の曲をキリル・ペトレンコが指揮したがそれは似て非なるものであった。ヴェーベルンの「パッサカリア」とどちらの方が古臭い曲か分からないような余りにも厳しい演奏である。ムラヴィンスキー指揮よりも遥かに厳しい。演奏が大変だと思われる。合わせるのが困難だろう。そこにメンデルスゾーンの一番が挟まるというから全く以ってどうなる事だろうと思う。

二日目のスーク作曲アスラエル交響曲は来年の目玉であるが、その前のベートヴェンの協奏曲三番がベルリンでのようにバレンボイム独奏ではなくてトリフォノフ独奏になっている。これは残念だが、それだけの為にベルリンに行く気もしないので来年早々のベルリンでの宿はキャンセルしようと思う。



参照:
来夏の宿を予約する 2018-10-30 | 雑感
遠隔から取捨選択する 2017-11-09 | 暦
シャコンヌ主題の表徴 2017-10-13 | 音
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難民の是非を問わない

2019-10-28 | 文化一般
承前)経済難民、モグラたたきの様に続々と押し寄せる、難民と称する、豊かさを求めてやってくる人の波。フランクフルトの「マノンレスコー」の主役はアルメニアからやってくる。主役のアスミク・グリゴーリアンの父親の故郷である。

彼女がインタヴューで答えていた。マノンには共感を覚え辛かったが、今回大分分かって来たと、つまり今回の演出のように、自分自身も来週にはその辺りをふらついているかもしれないと。もしそういう事であればこの演出がとても成功したことになる。

プッチーニに限らないがヴェリズモオペラとなると、あまりにその舞台が身近過ぎて、演じる方のみでなくて観ている方も身近故にどうしてもそのドラマ性に違和感が生じることが少なくない。20世紀後半になって一世を風靡したTVドラマ文化におけるメロドラマ仕掛け同様のものが、どうしても中々舞台に入れ込めない要素となっているのだろう。

マノンの行動自体は、こちらは演じ手ではないので、まあそうだろうな程度の聴衆として三幕まで見てきて、最終幕の砂漠の中での死へと向かうとどうしても非日常感が漂うのだが、今回の演出ではそこまですんなりと行ったのではなかろうか。原作ではルアールから流されたルイジアナの砂漠となるが、勿論ここでは強制送還となって、三幕では檻の中に入れられている。

この背景には、我々が日常に見聞きするニュースに於いて、その舞台以上に非日常な、例えばEU内の身近なところで冷凍車の中で何人もの死体が見つかるとかの現実に晒されているからである。まさしくリアルなヴェリズモの世界である。そうした環境の中で、今回のアスミク・グリゴールの歌唱力と存在感で以って、マノンが身近にリアルに演じられるとなると、私たちが感じるプッチーニの音楽とその劇場空間が最早作り事だけではなくなるのである。しかしそれにも拘らずである。

新聞批評では、この演出はリベラルな聴衆にグッドフィーリングのみで嫌な感じを与えないが、同時代への認識を作品に持ち込み、強い印象を残したに違いないと纏めている。この点がこの新制作の成功だと思う。プッチーニに於いて政治的にイデオロギーを主張をしても始まらないからだ。

今回の稀有な歌手のその歌唱と存在感、その役作りによって、歌手本人だけでなくて聴衆も様々な思いを仮想体験した。公立の劇場のそれもオペラのジャンルに於いてこれ以上に求めるところはなかろう。非日常的ながら身近に起こり得ることを劇場体験することが出来たならこの制作の勝利である。(終わり)



参照:
「ポジティヴな難民」の意味 2019-10-23 | マスメディア批評
メディア賞ならずショー 2019-10-18 | マスメディア批評
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不適切な「ポジティヴな移民」

2019-10-27 | マスメディア批評
「ポジティヴな移民」という言葉がなぜ不適切な言葉かを説明する。削除、訂正の必要な言葉である。あらゆる考え方の違いを無視してもこの二つの言葉「ポジティヴ」と「移民」の繋がりは誤った言葉である。この点に限定して述べる。

問題の発端は、日本の雑誌「レコード芸術」の指揮者キリル・ペトレンコ特集の鼎談において、ペトレンコをベルリンにおいて「ポジティブな移民」として、その出身地であるシベリアからの移民としていることにある。

シベリア生まれのユダヤ系音楽家が父親のヴァイオリニストに付いて母親と共にオーストリアのボーデン湖に近いフェルトキルヒヘと移ったのは本人がハイティーンの時で、その後地元の音楽大学で教育を受け、後にヴィーンの大学で指揮科を卒業する。どの時点でオーストリア国籍を取得したかは不明であるが、少なくとも現在はそのようになっており、確かにオーストリアでは移民となるのだが、オーストリアの報道等でも移民とは形容されていない。

恐らくどこの国においても最初から自国の高等教育等を受けた有名人は自国民として扱いたがるからであるが、移民一世に対し移民と呼ぶことも少なく、二世は移民とはされない。それどころか今回の発言の様にベルリンから見たと断りがある以上は、キリル・ペトレンコはEU国民としてその全域の一都市に居住して仕事をしているに過ぎない。

法規的に、EU域内国民若しくはそれに準ずる身分のものはEU域内で自由な居住と仕事が可能なので、EU内移民は最早存在しない。それ故にベルリンにおける「移民ペトレンコ」は存在しない。正確には移民の背景を持ったオーストリア国民であり、「ベルリンでの移民」はフェーク情報である。訂正が必要となる。

「移民」と形容するだけであれば言葉足らず若しくは無知とも理解されようが、「ポジティヴ」と是非をそこに加えて「ポジティヴな移民」と表現されると不適切極まりない。実際に、本件の舞台となるベルリン、ドイツ連邦共和国でこの組み合わせの使い方は存在しない。存在するのは、移民の経済効果の是非、現行移民法での移民統合化適応の社会的是非のみである。もしそれ以外でドイツ語で存在するとすればナチ政権下での人種法でのセレクションに基づいた好悪ぐらいであろう。つまり非合法な用語である。よって、非合法化の議論されるNPDとAfDの両政党等もこの組み合わせは使わない。これによって「ポジティヴな移民」発言の削除、訂正は避けられない。

しかし、ここで「ポジティヴ」と「移民」の二つの言葉の組み合わせが決して不注意で使われた訳で無い事は三つ目の「ペトレンコ」を組合せると明白になる。つまり、移民統合化の適応の基準に関しては、話者らの見識程度では関知するところではなくとも、今夏のオープニングコンサートのプロジェクトとしてEU市民の鑑とされるパーソナリティーを示しているぐらいなので、そもそも是非の判断の対象とはならない。それは、連邦共和国首相メルケル博士をして、ベルリンでの「ポジティヴな東ドイツ人」とは誰も呼ばないのと同じ理屈である。

すると残る可能性は経済的にベルリンに貢献する移民と言う意味だろうか?この場合、経済的にと必ず付け加えられるべきで、それを敢えて省いていて、要するにシベリア出身のユダヤ系オーストリア人へのヘイト発言としていると捉えられて当然なのである。

如何にもこの二つの要因が組み合わされているかのような体面をとりながら実はヘイトな好悪の視線をそこに隠しているとしても間違いないであろう。これらから、「ポジティヴな移民」との不適切な言葉を削除訂正しない限り、その真意が問われることになる。その対応如何によっては、雑誌「レコード芸術」のみならず出版社「音楽の友社」の存続が掛かっているのではなかろうか?



参照:
「ポジティヴな難民」の意味 2019-10-23 | マスメディア批評
外国人を叱る統合政策 2018-05-22 | 文化一般
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警察を恐れていた理由

2019-10-26 | 生活
おお、車検に通った。兎に角、なんでもいいこれでラストランが可能となった。大きなトラブルさえなければ、試乗、新車発注、納車で半年ぐらい見て、その時まで走れれば万々歳だ。修理費は三千ユーロほどで済みそうなので、代車料を入れても、数カ月間車を都合するよりは安くつく。あとは購入資金計画などを立てればよい。

「これで本当に最後ですよ」とヴィラ―親方は電話で言った。当然だ。勿論、車両トラブルも事故もいつでもあり得るが、今後はリスクをはらみながらも距離を走れば走るだけ、少なくとも事故無しには走れば走るだけこの車に関しての経費が距離ごとにどんどん落ちて行く。キロ当たり、月当りの維持費と購入費用がどんどんと落ちて行く。実際に償却していくという事で、お得でしかない。これも次車選定とコスト計算時に大きな参考になって、より経済的に投資できることになる。という事で、それほどドイツ製を信用していなくても、ハンガリーの工場などで生産されるものでなくて、国内の生産ラインに乗るものを発注する心算だ。やはり当たり外れが出て来たときにも調査とか原因特定と対処策も取り易いだろう。

今はじめて車検無しの走行の罰則規定を調べた。怖くて調べられなかった。期限から二月以内は警察によって指摘されたら、注意喚起。それを過ぎて四カ月までは15ユーロの罰金と詳細車検の義務。四ヶ月を超えたら25ユーロ、八カ月を超えたら60ユーロと減点一点だった。

当然のことながら事故で警察のお世話になると、全ての責任をこちらに押し付けられる可能性があった。保険会社が金を出さないばかりか、不整備を攻めてくる可能性すらある。昨年横腹に突っ込まれた時の様に、全面的に向こうが悪くても、加害者の車の修理代まで請求してくる可能性さえあった。最悪だった。これでその場からようやく逃れた。あとは稼ぐだけだ。とは言っても事故の加害者から車の修理費を取るのにはもう無理で、当屋家業は最後の三千ユーロほどで事実上廃業した。

事故の加害者にならないこと以外に路上での立ち往生無く、最後まで走り通したい。冬場に差し掛かって、バッテリーが弱って動かなくなって、警察が来ても、自動車クラブに救援を頼んでも検査切れの指摘を受けるところだった。そして自動車会社の支店はそんな車は弄りたくない。町のガレージの親仁のところで直させてと、愈々怪しいところへと入って行く。面倒なだけでちっとも有難くない。「行け行け皇軍」の奥崎のバッテリー屋のようなところにお世話になる。

だから先ずは自分でバッテリーチェックする以外にガレージで動かなくなった時の為に電動の充電装置を購入するつもりでいた。そしていざの場合に自己発進できるようにもう一つバッテリーを購入して持ち歩こうかと思ったぐらいだ。これだけで数百ユーロ掛かる。それも必要なくなった。冬タイヤを履くときにチェックさせたい。

録音しておいたヘルヴェーへ指揮のブルックナーのに曲を聴いた。ミサ曲の方はカテドラルの音響も合唱団も優れているので良かったが、流石に交響曲二番は素人のような演奏だった。なにも上手である必要はないが、あれでは到底この曲の全貌は表れないと思った。朝比奈隆大フィルとはまた違う。あの程度の上演をする必要があるのかどうも合点がいかなかった。古楽畠から出てきてまともにクラシック以降の管弦楽曲を指揮している人を知らない。

この週末で夏時間がやっと終わる。最後の土曜日に晴れそうなので、来週からの冬籠りの準備をしておこう。PC関連はそれほど問題が無いと思うが、もう一度籠り部屋に移して、次号機を選択しなければいけない。

先日購入したバレンボイムが弾くCDにノイズが入っている。幾らか金を出しているので、原因を調査しなければいけない。どうも傷はないので、流石に編集後に入っている筈はないので、プレス時にの原盤に事故があった可能性もある。ここまでのノイズは珍しい不良品で、それも回収せずに販売しているのも異例だ。逆に希少価値がありそうだ。



参照:
こじんまりとした日常 2019-10-24 | 生活
末恐ろしい顛末 2018-09-15 | 雑感
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水曜日のパリの夜から

2019-10-25 | 文化一般
病的に眠い。充分に就寝した筈だが、朝一番で役所に出かけようと思うと二度寝も叶わない。兎に角、期日もある面倒なことだけ片づけて行かないと眠ってもいられない。序でに走る準備もして、雨が止むのを確認して出かけた。担当の部屋の前には、玄関で並んでいた人に先を越されて、部屋の前には人が居たが、書類の準備をしたいようで先に入れてくれた。準備中の昨日の担当のブロンド女性が居たので早かった。朝一番で、予想通りそのまま写真を受け取って、その後ろ面に名前を書き込んだだけだった。大丈夫かなと思ったが、こちらの義務は果たした ― 半年以内の写真となっているのに十年前の写真を出したのでは公文書虚偽となるか。

森の中を走るのも辛かったが、うっすらと汗が出てくると、気分は高揚する。あとで眠くなるだけである。眠くてまだ真剣に録音録画を再生していないが、水曜日夜のパリからの中継は見事だった。YouTubeライヴでアーカイヴも残っている。

L'Orchestre de Paris en direct de la Philharmonie


指揮は90歳を超えたフォン・ドホナーニで、パリ管弦楽団を振る。先日家族などについても話していたインタヴューを地元のハムブルクの局の番組で聞いて、あまりにも直截な話し方に驚いた。なぜならば数年前のSWRでのフリチャイ特集での番組出演時とは全く話しぶりが変わっていたからだ。その時はテーマ自体が早世した指揮者フリチャイを偲ぶことにあったので、このドイツ音楽界のドン的な老指揮者が「私などは彼とは比べられない才能しかない」と言っていたので、それはそれで驚きだった。しかし今回は「私は特別に優れた耳がある」と簡単に発言していたので老人性の何かで箍が剥がれてしまったのかと思った。ここ暫くのNDRやBRでの演奏の中継もあまりぱっとせず、更に時折耳にするクリーヴランドでのアーカイヴもメスト体制よりも技術的に悪いことを確認していた。

この指揮者が日本デビューしたベーム博士に同伴した時の公演には接していないが、その後にハムブルクの音楽監督として「影の無い女」を振った時は、個人的に移民を決心させる大きな出来事だった。その後はザルツブルクでヴィーナーフィルハーモニカーを振っての幾つかの上演でその指揮に接したが出来はそれほど良くなかった。

それ故に今回のストリーミングの演奏はとても感心した。前半一曲目のハイドンの初期の交響曲を素晴らしい弦楽とチェンバロの響きとして振っていて、二曲目のリゲティの二重協奏曲とのプログラミングも抜群に良かった。パリ管がこれだけ美しい響きを奏でたのは何時以来か?生演奏ではバレンボイム指揮で二回ほど聴いているが、その後あの弦楽器陣と管楽器陣の輝く響きからは長く遠ざかっていた。

これだけ何処の管弦楽団も同じような響きになって仕舞うと、そのアンサムブルの相違はあるというもののこうした伝統的な美質を感じられることだけでもとても幸せになる。そして後半のブラームスで、徹底してフォンドホナーニのブラームスを堪能した。クリーヴランドのドイツ公演などでも前半にアイヴスを入れてのプログラムでそこにバルトークを絡めたりだったが、今回の様に立派なブラームスを演奏していたような記憶はない。そもそも後のメスト指揮やザヴァリッシュ指揮フィラデルフィアの欧州ツアー公演程には賞賛されていなかった記憶がある。勿論話題にはなっていたのだが、後半の通俗名曲が嫌で行かなかった。現在も「悲愴」などを持ってくるのでどうしても近寄れない。

しかし今回の中継は全てが揃っていたと思う。近くなら出かけるところだったが、パリ管に匹敵するような美質を持った管弦楽団をこの老指揮者が近所で振る機会などはあまりないと思う。もしあるとすればバーデンバーデンでの復活祭での指揮ではないかと思う。2015年にドルトムントでスタムパ氏とのコンタクトがありそうなので、出場があるならば再来年ぐらいか?ブラームスの所縁の街でもあり、すると今回と同じブラームスの三番か。

2018年1月にはベルリンで交響曲二番を振っていたようだが、今この人に振って貰うと良いのではなかろうか。改めてフィルハーモニカーの美点をも確認できるかもしれない。そもそもキリル・ペトレンコのドイツでの裏書きをしているような立場の人なので、復活祭に是非出て貰いたい指揮者である。

昼寝した。二時間ぐらい眼が醒めなかった。歯根の炎症が気になる。深くで影響しているかもしれない。先ずは歯の清掃に行きたい。微熱とまではいかないが最近はぞくぞく感があってあまり良くない。



参照:
パリとベルリンからの中継 2017-11-05 | 雑感
楽章間拍手が意味すること 2019-05-12 | 音

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こじんまりとした日常

2019-10-24 | 生活
幾つかの案件が済みそうだ。一先ず祝杯でも挙げようかと思っていたら、シクジリに気が付いた。身分証明書の写真に古いものを渡してしまった。気が付いた時には遅かった。水曜日は半ドンであるから、まだ書類は手元にある筈だ。何とか明日一番で取り換えて来たいが、さてどうなるか?ネットを調べると半年内となっている。これは駄目だ。若く見せようと思ったのではないが、完全にやり直しならば、また金が掛かる。今回は写真に手古摺る。幸い明日は晴れそうなので、走る前に写真を持って行って何とかしよう。

車の方は、最大の問題だった排気管の方は何とかなったようで何よりだ。それの為に一年待った。それ以外に前輪のバネが折れていると分かった。嘗ても折れたのでそうだろうと思った。こちらは問題なく部品が入る筈だが、それでも金曜日までお預けとなった。車のレンタル料は構わないが、兎に角車検を通して欲しい。

他の案件も並行して進めて行かなければいけないのだが、これだけ詰まらないことに右往左往していると進まない。やはり新しい眼鏡を準備しなければいけないだろう。歯医者の予約もまだとっていない。しかし自分の写真を見ても確かに今よりは十年若いのだが、自分であって違和感はない。寧ろ新しい写真を見て違和感があった。受け取った方はどちらがどっちかそれほど分からなくても当然かもしれない。

まあ日常生活なんてそんなもので右往左往しているのが普通なのかもしれない。大きな問題を一つ抱えて、にっちもさっちもいかない状態よりも幸運である。明日心置きなく森の中を走れればそれだけで満足しよう。

作曲家で指揮者のハンス・ツェンダーが亡くなった。個人的にはいつものことで前後に並んで左側にフランスの作曲家デュテュ―ユ、その右側にツェンダ―、その後ろに私が座った。演奏された曲は二人の作曲した弦楽四重奏曲で、演奏者はアルテメミス四重奏団だと記憶する。ハイデルベルクの大学の旧講堂での演奏会だった。

あとはSWFの副コンサートマスターをしていた人から聞いた指揮者としての評価ぐらいである。指揮者としての実力は評価されていたようだが、指導者としての人格は薄かったようで、それほど評判は良くなかったが、ブーレーズの様に客演して一人の奏者をつるし上げにするようなことはしてはいなかったとは思うのだが、よく分からない。

因みに指揮回数は、ブーレーズ35回、ツェンダ―94回、マデルナ6回、シュトックハウゼン9回、ヒンデミット4回と、断然多い。

その作風を聞けば、こうした外見とか評判に違わないので、それほど気宇の大きな作品を創作している訳でもなく、BRのノイホルト氏が書くように、1972年の日本旅行で能や禅や寺院に魅了されてというのもよく分かる。身体も小柄だったが、こじんまりした雰囲気の人で、隣に座っていたデュテュ―ユの方が大物に見えたその通りである。



参照:
ラムプが切れて冬支度 2016-10-07 | 暦
ドナウエッシンゲン祭管弦楽 2019-10-21 | 文化一般
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「ポジティヴな難民」の意味

2019-10-23 | マスメディア批評
キリル・ペトレンコが音楽雑誌「レコード芸術」て組まれたようだ。そしてメディア市場で金を生み出す指揮者達が並んでリストアップされているようである。そしてその内容の一部を知って魂消た。

キリル・ペトレンコを称して「ドイツ国民にとってポジティヴな難民」としているらしい。これは少なくとも連邦共和国ではAfDとしてレッテル張りするに十分な言動である。恐らく話者は、難民も移民も何もかもよく分かっていないと思われる。高尚な音楽芸術を語る者も無知なのは致し方ないとしても、ポジティヴ、ネガティヴと容易に人をレッテル張りすることが前代未聞である。何かを書いて糊代としている者ならば最早芸術について語るべきではない、そのような言動を活字化するような雑誌や出版社はお話しにならない。精々嫌韓本を出版していればよろしい。

彼らが主な糊を凌ぐ市場が所謂近代西洋音楽と言う分野であって、その基本には啓蒙思想がある。このような野蛮な発言は相いれない。

そもそもペトレンコを「難民」とカテゴライズしているようだが、通常は政治的なものに関しては「亡命」であって、難民に指定されるのは戦災などから命や財産を守るための逃げてくる人々の事を指す。ここ暫く問題になっているのは戦災難民の体をとりながらよりよい生活を求めて豊かな国へと「不法移民」をしてくる所謂経済難民とされる二種類しかない。つまり難民とされるからにはそこの群にカテゴライズされて、その中から社会的に経済的に役に立つ者をポジティヴと言いたいのだろう。

ドイツ連邦共和国は、刻々の移民政策に当たって、経済的な利を旨として来ていて、当然のことながら優秀で即戦力になるような人材を歓迎して来ていて、そして今もそれは変わらない。その移民政策の中での社会的に経済的にポジティヴ、ネガティヴと言うのは正当な言葉使いである。「移民」という事では、ペトレンコ家族も私も同じなのである。

しかし、これを社会政治問題となっている「難民」とするとそれは全く意味が異なってくる。オペラぐらいが分かる人間ならば先頃のフランクフルトにおける「マノンレスコー」の演出を見ればよい、好悪の判断などではないところに劇場空間が広がる。そもそもペトレンコが語ったシーズンオープニングにおける「第九のヒューマニズム」は、ポジティヴ・ネガティヴを包有して尚且つ止揚されることによってなされるものであって、必ずしも楽聖の日本国憲法九条にも繋がるパシフィズムや理想主義にのみ存在するものではない。無論、連邦共和国首相メルケルの政策によって左右されるものでもない。

前記した近代西洋の精神こそが、そうした精神的な営みにあってこそハイカルチャーと呼ばれるもので、そうした原点が分からずに音楽だとかなんだとかのたまうのは止めたまえ。時間の無駄である。社会の害毒でしかない。そうした輩に限って、二十世紀期後半以降の芸術などは分からないのは当然であり、要するにサブカルチャーもハイカルチャーも奴らのライフカルチャーにおける衣裳でしかないとなる。

日本におけるハイカルチャーの取り込みもご多聞に漏れずエリート層への働きかけから、こうした複製芸術の商業的な市場原理へと零れ落ちて、そして原点を失った。嘗てならばどんなに能力の無い音楽評論家でもこのような野蛮な言動はしなかった。それは話し手が本当に楽聖の精神とか何とかを汲み取ろうとして、可能な限り視聴者や読者に伝えようとしていたからに違いない。それはなにかと言うと、彼らは学歴とかとは関係なくやはり自らはエリートだと自覚していたからだと思う。

政治的にもまともではないこうしたAfD的言動が芸術畠などで為されるのは許されない。それどころか無頓着であることも不誠実の範疇を逸脱している。先日読んだネット記事にも書いてあったように、若い指揮者が優秀な大管弦楽を振る機会を与えられて、成功から大きな編成のマーラーなどを曲を振り、スター顔をしていても、ある年齢から古典曲を振る必要に迫られても到底解決できないままいい歳になって行くという文章があった。その時には演奏技術的なことしか思いもよらなかったが、実は西洋近代音楽の原点をそもそも修めていなかったからではないかと感じた。どんなに難しいことを語っていようが、お門違いになるという事である。



参照:
限り無しに恨み尽くす 2019-09-03 | 女
脳裏に浮かぶ強制収容所 2016-10-11 | 歴史・時事
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やっとこなれたBクラス

2019-10-22 | テクニック
メルセデスのBクラスを借りている。もう一日修理が伸びそうだ。二千キロぐらい走っている車B250だが、初めて乗るような新装備になっている。流石にキーレスは知っているのだが、ハンドブレーキが無いのには驚いた。仕方が無いのでそのまま走り出した。警告が出ないのでどこにもないようだ。電源喪失になった時にどうして停めるのか、坂道でどうして駐車するのか、全く不明である。

しかし全体的な印象として今まで乗ったBクラスの中で最も出来がいい。何よりも乗り心地や走行安定性が飛躍的に向上している。更にハンドルの路上からの跳ね返り情報はあり過ぎる程で怖い。今までこれほど路上状況が分かるハンドルは経験が無い。酷い乗り上げの様な反応があったが、センターラインの何かだと思う。過敏過ぎる。

居住性は椅子が低く、ハンドルが高い感じで、これまた昔の車の感じを思い浮かべる。しかしサイドブレーキも無く、感覚的に触ってみなければ何が何だか分からないほど未来化していて、電気自動車への繋ぎになっている。

ナヴィゲーションシステムももう一つ近代化していて、事故防止のために前に急カーヴが迫って突っ込みそうになると警報が鳴る。恐らく自動ブレーキが掛かると思うがそこまではやっていない。自動ブレーキが付いていなければ大破である。

しかし前の車を追いかけていても自動で追従はしてくれないかもしれない。自動的に停車するエンジンも車寄せの時は、信号待ちと違って直ぐにはストップしないようだ。また自宅の門を潜るときにも警報が鳴る。如何に狭いところか分かるだけでなく、車庫入れは大きな音が鳴りっぱなしになる。調整できるのかどうかは知らないが、自分の車ならば毎回あれだけの警報が鳴らないようにしないと駄目だ。

ダッシュボードもど派手である。情報が溢れていて落ち着かないが、一番驚いたのは急に搭載カメラが前方の情景をディスプレーに映し出した時だ。今まででも車庫入れなどは経験したが、左折する前にそれが映った根拠はよく分からなかった。驚いただけである。夜中の対面通行車線の細い道の人影などを対向車が来ていても映し出してくれると安全性が高まるだろう。

但しネット接続装置が無かったので、車内WLANを試すことは無かった ー 調べてみるとアイフォンとの有線接続では無さそうで、ネットサーヴァー化にはダイムラーのネットサーヴィスが必要なようだ。オーディオの音質も自身の車よりは大分悪かった。エアコンも自身の車の方がよさそうだ。エンジン音も明らかに大きめである。

また七速のオートマチックになっていて、アウトバーンではD7に入るが、結構簡単にシフトダウンする。エンジンが弱いからだろうが、繋がりはとても良い。試乗しようと思う車は九速なので更に繋がりがいい筈だ。エンジンが大きければそれほどシフトダウンしないと思う。気になったのはアクセルから足を離しただけでエンジンブレーキが掛かることでもう少しグライド出来ないものかと思う。その分速度調整はとても正確に忍速に作動するようで、ブレーキを踏み損なってスピード違反で写真を撮られることも、ナヴィの警告と共に少なくなると思う。

自動運転に近づけば近づくほどオットーモーターよりもエレクトロモーターの方がいいと思わせる。勿論その印象は運転していて、エンジン音や振動と共に排気を感じるからである。エレクトロニクスも高回転させるのでそれなりに熱感はある筈だ。その点でもやはり現在乗っている車はV型配置だったのでとても良かった。



参照:
マンハイム、対岸の火事 2016-10-19 | 雑感
ライフスタイルに合わない 2015-03-12 | 生活
市場が見え難い車Bクラス 2012-08-14 | 雑感
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ドナウエッシンゲン祭管弦楽

2019-10-21 | 文化一般
バムベルクからの中継を観た。最後の少しをBGMで流していたが、中々充実した音を出している。一時は日本では現在のバイエルンの放送交響楽団以上に買被られていて、ベルリンに続くドイツの交響楽団とされていた。その実は異なるとしても、少なくともシノポリ指揮でブルックナーの八番を聴いた時もアンサムブルのバランスは悪くなかった。後のシュターツカペレドレスデンを振った時よりも交響楽団として良かった。特にフルシャ指揮のドヴォルジャークが上手く鳴っていた。先日みたN響の給与よりもここは条件が悪いと思う。せめてこの程度のサウンドをものに出来ないと公的資金の価値が無い。会場が悪いという事もあるだろう。バムベルクもホームグランドがまともになったのは二十年ほど前の事である。

車中のSWR2放送が伝えていた。ドナウエッシンゲン音楽祭が無事に終わり、一万人の入場と、その中に二回の売り切れのコンサートがあったと、そして最優秀作品としてステンアンデルセンの作品が選ばれたと伝えた。

確かに話題性と言い今日的な価値、過去への視線に満ち溢れていた。特に今年は、ブランデンブルク門の第九もそうであるが、ルツェルンでも社会的な視点がそこに注がれた。それは今日の世界が直面する社会構造を芸術ここでは音楽における社会環境を照らすことで反照させるという事でもあった。スイスでは「権力」がテーマとして扱われて、指揮者のそれもテーマとされていた。つまりそのままMeTooスキャンダルを上部テーマから切っていた。

ステン・アンデルセンの2014年にドナウエッシンゲンで初演された作品が素晴らしく安売りDVDを購入したぐらいで、今回の選出もその初演のストリーミングを観ていて当然だと思った。フライブルクでの再演では偶々席が前後になったので、ガールフレンドらしき女性との様子も見ていたが、中々いい感覚をした若い作曲家である。今回の作品も前回のものの延長にありながらトリオと名付けてSWRの通常は揃わない三つの団体つまり交響楽団、合唱団、ポップスバンドを上手く合わせて演奏させる曲でそこに豊富に使用されたSWR主に前身のSDRに登場した名指揮者たちの練習と本番風景の秘蔵の映像が組み合わされる。ある意味カルロス・クライバーの指揮に若しくはセルジュ・チェリビダッケの指揮に合わせて生の楽団が音を出したり、その声を繰り返して歌ったりと、要はおちょくられるのである。しかし流石そこは売れっ子だけに決して「大指揮者」らを小バカにはしない。映像を提供するSWRの小役人さんも安心して協力できる創作の範疇を食み出さない。

Eröffnungskonzert SWR Donaueschinger Musiktage 2019 | SWR Classic cf.1h37m30s


そもそも前回のコンツェルトフリューゲルを吊るして落とす映像でもまた作業手袋を嵌めて楽器をこき使うピアニストにしてもとことんその楽器や楽器演奏の源へと我々を誘うだけの表現となっていて、謂わば記号論的な観照へと導く芸術としても良いだろうか。今日における同時代芸術性を担う創作となっている。今回の創作も既に述べた通り、委嘱の意図を汲むものであったと思う。

正直なところ、SWRフライブルク・バーデンバーデンが吸収合併になり、この音楽祭の先が危ぶまれていた。しかし、こうした作品が改めてそうした懐疑に対して答えを用意していた。これを見ればSWF交響楽団として培われた二十世紀の現代音楽の伝統がそのまま継続されることの方がグロテスクであり、肯定的に捉えれば発展的解消が奨励されたともなる。

SWR交響楽団は一方ではカラヤン二世率いるシュービズへとその可能性を見たかに見えたが最初のシーズンが終わらない内からその可能性が殆ど失せてしまった。正しく、今回の作品で繰り返し奏されるビッグバンドのアコードなどがそれをも嘲笑している。一時はノンヴィヴラートの指揮者を迎えたりと、話題作りだけの管弦楽団であるが、なにかこの作品で初めてこの新しい楽団がこの音楽祭に定着してきたかのようにも思われる。



参照:
エポックメーキングなこと 2017-12-02 | 文化一般
批判精神無しに育たない 2018-10-20 | 文化一般
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探し物はどこでしょう

2019-10-20 | 
先日から探していた動画が見つかった。昨年のザルツブルクでの「サロメ」上演のものだ。今はブルーレイなどで製品化されて発売されているとは知っているが、気になるので調べた。外した内臓HDDに入っていた。日付を見るとどうも3Satでのライヴ放送の録画らしい。勿論それが正しいならば資料映像としては製品よりも価値が高い。ロシアのサイトにも同じもののコピーが出ていたが質が悪くて大違いだ。なんといってもこちらは15GBの大きさである。しかし、アスミク・グリゴーリアンのドイツ語歌唱は今の時点ではとらない。コルンゴールでも言葉が出来ればまだまだ歌える人だと感じた。「サロメ」も少し聴けば到底ペーターセンの名唱とは比較にならない。そもそもメスト指揮のヴィーナーフィルハーモニカーはそのスタイルとは別にミュンヘンよりは大分落ちる。これだけで余分に二時間も車を走らせる気にはさせない。兎に角、グリゴーリアンも現時点では、スラヴ語とイタリア語に絞っておいた方が成果が上がるだろう。バイロイトで成功しようと思えば、ミュンヘンかベルリンに一年ほど住むべきだ。

ヴィーンからの放送を聴いた。月始めの中継録音である。スメタナ作曲「我が祖国」全曲はあまり聴くことが無い。「モルダウ」が世界的なヒット曲で、第九と並ぶほどの名曲になって仕舞っていて、他の五曲はどうしてもそれほど馴染みが無いとなる。しかし重要なアクセントをしっかり付けて、そして波の部分では「ラインの黄金」のそれを思い出させるかのように、飛沫をあげる。見事に脱名曲していた。

そして一曲目の「ヴィシェフラド」の間が何とも見事で、三曲目の「シャルカ」や四曲目は「ボヘミアの森」からはベルリナーフィルハーモニカ―で演奏すればさぞかしと思わないでもなかったが、あの間は座付管弦楽ならではだ。それでもヴィーナフィルハーモニカはいつもお横着にサウンドで勝負しているので決してこれが真似できない。これを連中が聴いていたらアッと思っていた筈だ。ペトレンコはこれをヴィーナーの連中に聴かせたかったのかなと思うぐらいである。五曲目「タボール」での単純な動機の使いようはベアヴァルトの交響曲やそしてブルックナーを印象させて、最後の六曲目「ブラニーク」へと繋がる。

ペトレンコがこの曲を以ってスークへと繋げるのか、それともドヴォルジャークかヤナーチェックかと思っていたが、最終章を聴くとこれはもしかするとブルックナーも近いうちに振る心算ではないかともふと思った。民族的な音の扱いもさることながら、「ヴィシェフラド」で感じさせたように、作曲家の創作の過程をその逡巡をその思いを垣間見せるように楽譜を音化することで、本人が語る以上には広範なレパートリーでも特別な名演奏が期待された。

夜中から降り続いた間隙を縫って、一走りした。前の晩にジャガイモを食して備えていたので、雨雲レーダーの隙を伺った。幸い準備体操中に小振りになったので、濡れることなく峠を上下してきた。しかし、枯れ葉も徐々に落ちたのかシーズン初めて滑りそうになった。結構と辛いものがあるが、ランニングハイの後が気持ちよい。放送前にシャムプーもして、月曜の朝に備えつつ、PCに向かった。

ヴィーンからの放送の後メールに入っていたメータ指揮の最後の演奏会ライヴを覗いてみた。有料なので断片しか見聞きできないが、こちらの興味はメータ氏の健康状態や12月の「LAでの癌化学治療」の為のキャンセル発表後のその動向でもあった。足取りはしっかりしていたが、画面の関係もあって顔色は春よりも悪い。そして恐らくこれで最後という時のイスラエル国歌を振る表情はとても硬く、深刻さと感情的なものがとても勝っていた。聴衆には完全に号泣しそうな人も映されていた。様々な感情が渦巻いているようで、個人的にはイスラエルフィルハーモニーの最初の日本公演の際にザシムフォニーホールの平土間前列で体験したアンコールの最後に起立して演奏されたその国歌と風景をありありと思い出した。
Zubin Mehta's last 3 minutes conducting the IPO - Mahler: Symphony No. 2, "Resurrection"




参照:
熟成させる時間が必要 2019-09-15 | 雑感
嗚呼と嗚咽が漏れる 2019-10-12 | 雑感
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音楽劇場化へと集中

2019-10-19 | 文化一般
ベルリナーフィルハーモニカーのマガジン、ペトレンコ特集を読んだ。前半は、各場所に応じて各筆者が書いたもので、それを繋げるとベルリンまでのプロの指揮者としての道程が分かる。新聞等で話題になっていた特集だと思われるが、注文すると7ユーロもするので、先ずはネット版で読んでみた。

支配人ツェッチマンの冒頭の辞に続いて最初にクラスティング氏がマイニンゲンについて纏めている。歴史的な意味合いとハンスフォンビューロの時代、つまりバイロイト祝祭劇場の三分の一がマイニンゲンの楽師で「その個々の楽員がまるで一人の様に」と楽匠が感謝の言葉を書いているように、何とか衆の趣だったのだろう。シュトラウスへと、そして同様にビュロー死後のシュトラウスでのベルリンでの寄与があって、そしてペトレンコへと歴史の不思議を感じさせる。クラスティング氏の書くことであるからペトレンコ本人との対話で生じた文章であり、そこにはビューローのオペラでの処し方が、まさに「楽曲の意思の創造と再創造に」向けられた楽団主体のオペラ上演となっていて、ペトレンコ自身のオペラのあり方への並々ならぬ意志を感じざるを得ない。要するにミュンヘンでやっていることは全て確信に満ちた音楽作りであって、今後舞台がバーデンバーデンへと移って更に音楽劇場化へと集中していくのは間違いない。

新たに気が付いたクロニクムは、アバド指揮でヨーロッパコンサートが催されて二度目の訪問地として二万五千人の住人の726席の劇場で演奏会が開かれたのが1994年4月、そして暫くしてそこにペトレンコが赴任することになり、更に20年を経て、再びベルリンのシェフを輩出したことだ。ペトレンコがそこで指揮する機会は今後とも三つ目の地フランクフルトに比較しても可能性はないと思われるが、なんと不思議な繋がりかと思う。

二つ目はヴィーンでのペトレンコが描かれている。卒業試験コンサートにおいて放送交響楽団でシュミットの交響曲四番とその前にハイドンの88番を振ったことから、カルロス・クライバーの「太鼓連打」と比較して、そして2014年が最後となった「ばらの騎士」の国立劇場での指揮を挙げている。卒業演奏会で著名な人物が「キャリアを始めなれば」と語ったようだが、実際はその後にフォルクスオパーでの修行時代があって、この文章ではその経緯は触れられていない。冷遇されたと呼んでも良いものだが、実質的に本人が後に語ったように、「質の向上のために何をすればいいかが分かった」と技術的な精査が可能になった時期としている。カラヤンをしてオペレッタなどを指揮することに比べれば「ヴァルキューレなんてお茶子さいさい」となる。確かにカラヤンを「その劇場での経験から」とする時に、所謂ジンタの楽団を如何にまともにトレーニングしていくかという事にもなる。また、コンサート出身の指揮者がマーラーなどで世界的に活躍していて、その後に古典などの曲で一生学び続けないのとはいけないのと正反対だとそこに書かれていることにも相当している。

フランクフルトでは、マイニンゲンやベルリンやミュンヘンほどにはペトレンコ運は恵まれていなかったがと、ザントナー氏が書いている。つまり2005年から2011年へと三回の新制作を受け持って、「パレストリーナ」、「ボリスゴドノフ」と「トスカ」を指揮している。二つ目のものでは聴衆に直接語ったというから、今もやっていて先日もヴィオッティが話していたようにロビーでのオリエンティールングで語っていたのだろう。

ヴィーンの人は、今後キリル・ペトレンコを聴きたければ、ザルツブルクかベルリン詣でをしなければいけない。嘗てのカラヤン時代のようだと書かれている。



参照:
インタヴュー、時間の無駄一 2016-07-20 | 文化一般
余りにも恵まれた境遇 2019-10-15 | 雑感
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メディア賞ならずショー

2019-10-18 | マスメディア批評
疲れた、三時間ほど車を走らせただけだ。毎日百キロほど仕事場に通っている人がいるが考えられない。どんなにいい車があっても、渋滞すれば駄目だ。現時点では自動運転で楽しても精々寄せるぐらいで完全に休めることは無い。時間が無駄である。

ミラノでの新制作「死の街」を車中聴こうと思ったがコピーが間に合わなかった。アスミック・グリゴーリアンの生を聴いたので、この録音でのマリエッタを聴くのが楽しみになった。相手役はこれまた人気のフォークトで、中継された時は「サロメ」でのグリゴーリアンの印象しかなかったので、その延長でしか考えていなかった。寧ろザルツブルクでのインタヴューなどでデビューにも拘らず自信溢れる話しぶりが気になっていたのだが、今からするとさもありなん。更にバリー・コスキーのベルリンでの「オネーギン」の映像は観た覚えがあり、なるほどあの尻かと印象を新たにした。
Eugene Onegin - Aria de la Carta - Asmik Grigoryan (Tatyana)


正直なところロメオ・カステルッチの個人的セックス趣味の演出には売れたがりの色も見えて、更に「サロメ」であるから裸踊りが普通なのだが、それをパンツ一丁としたところも逆に気に食わなかった。このコルンコールトの作品も「サロメ」と並んで、マルリス・ペーターセンと同じ役を数か月以内に競演することになり、どうしてもこちら側も比較対象としてしまう。先ずは、グリゴーリアンの歌をじっくりと録音で聴き返したい。
Strauss: Salome from Salzburg Festival


車中では一幕二幕位を先ずは聴いて、帰宅後に楽譜を開こうかと思っていた。既に生放送を聴いているので、記憶は薄いながら、あれやこれや想像してみるワクワク感はない。こうなれば最早耳で何回か馴染んで全体の流れを掴んでから楽譜を確かめる。その場合、歌詞も粗筋も確かめる必要はない。必要が出て来たときに調べればよい。
Die tote Stadt - Trailer (Teatro alla Scala)


既に、録音したものをWAVにして、アンドロイドにコピーした。楽譜もコピーした。今回は初めての作品という事で丸一月以上の時間的余裕がある。しかしミュンヘンの初日に出かけるので作品と楽曲はこれで完全にものにしなければいけない。「サウスポール」の時の様に世界初演ならば比較するような演奏も無くて勝手気ままに評価できるのとは大違いで、同時に定着している出し物ではないので作品の評価も試みなければいけない。流石に夏休み終わりの泥沼では無理である。

エコークラシックの後のオープスの授賞式の様子を飛ばして観た。興味深かったのはイゴール・ヨヴェットの演説でハレでの犠牲者に捧げられたそれは立派なショーになっていた。全てが出来上っていて、流石にメディア賞ならずショーだと感じた。ゲルハーハーなどがもたもた感があって、場違い感の強いサラ・ウイルスなどが逆に身近に感じた。初めから出て来れないことが分かっていてのヤンソンス氏のヴィデオメッセージも内容が無かったが、フォークトも「マイスタージンガー」代表という事でお話しだけで、ランランもヴィデオ出演だった。バーデンバーデンの新支配人スタムパらがオーガナイズしているのにあまりにも内容が無い点では嘗てのエコーよりも悪くなっているのではなかろうか。政治的に反AfDになっていただけだ。



参照:
初アスミク・グリゴーリアン 2019-10-11 | 女
気が違ったサムプリング 019-05-29 | テクニック
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