Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

どこが面白いかと言います

2019-02-28 | 歴史・時事
天才漫談家林家三平のことを思い出した。先代か先々代かは知らないが初代と呼ばれるらしい。先月日本からの放送でハンス・ロットの交響曲演奏を聞いて思い出した。その後のネットでの評判を見ていると肝心のことを誰も書いていないことに気が付いたからだ。要するに、頭の上に手を当てて、「こうやったら笑ってください」と同じようにそれを解説している節が無いからだ。

ハンス・ロットの何が面白いか、それはパロディーとか元歌取りいう概念を通してしか通じない話として「このネタのどこがおもしろいかと言いますと」と、それを説明しなければいけないのだ。それを誰もしていないように思える。勿論出版屋さんからの資料を旅路の飛行機で目を通しながら珍しい曲を探しているような指揮者はそれを言わない。それをするのが評論家や音楽ジャーナリストと呼ばれるような人の仕事である。

既に結論は述べているが、具体的にロットの曲を今誰が見てもブラームスか誰かのように突き返して、出版屋が相手にしないのはそれは変わらない。それでも演奏する価値があるのは、グスタフ・マーラーがいて、アイヴスのような作曲家とその作品が知られるようになっているからだ。

パロディー云々で話題になるのがその時制的な前後関係だろうが、そんなことはお構いないことは少しでも科学的にものを考えれば分かるのである。我々今その曲が演奏される今日の視座からそのロットの作曲された時点を振り返れば、もはや途中で起こったマーラーやアイヴスの創造の痕跡無しには評価できないということである。これが歴史というものであって、修正主義論者のような第一次資料云々とはまた別な現実である。

つまりマーラーやアイヴスを通してしかそのロットの「駄作」が評価されるしか他にはないということである。そしてそれがもう一度俯瞰した歴史認識に繋がるところが味噌である。こうしたクラシックと呼ばれるような芸術を論じていて、時間の感覚や歴史的な意味を感じさせないような論評などは全く意味が無い。故人の吉田秀和や小林秀雄に一緒にどこかへ持って行ってもらうものだったのだ。如何に日本人がそうした未来永劫の時制の無い世界観を持っているかに相似している。

丸山真男が書くように政治学で言えば「プティングの味は食べてみなければわからない」状況と同じく、「革命」をやってみた後ではその前の状況で「創造」するのとは変わっていて、歴史は不可逆な時制の中で流れているので、戻った時点の視座では考えることが出来ないという原則がここにも当てはまる。

ここで三平さんはおでこにげんこつを当てる。評論とか何とか大袈裟なことではなく、ジャーナリストであればこのようなことは一時限目で学ぶことではないのだろうか?要するになんら教育を受けないでも、ごく普通の世界観を持っていれば誰でも分かることなのである。
【林家三平伝説】寄席に遅れて来た客をも笑いに

Hans Liberg - Toccate und Fuge in d-Moll für Orgel auf Klavier in Hamburg

林家三平(初代):四天王を斬る


参照:
市民を犠牲にやってみた 2008-09-01 | SNS・BLOG研究
美しい世界のようなもの 2016-03-28 | 音
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マグナカルタの民主主義

2019-01-04 | 歴史・時事
Brexit関連の記事を読んだ。暮れの記事だが気になったので脇においたのだ。見出しは「脳があるなら離脱する」で、残留派の牙城ケムブリッジに取材している。ここに来て国民投票の再実施など残留派の声が高まる中で、学内では僅かな声が離脱として新たに隠されているというのだ。つまり離脱派の発言をするとその学者の地位まで失いかねない状況で、匿名の論文などが出されているらしい。

その発言をする一人はフランスの歴史を専門とするトムブ教授で、もともとが独自の文化保全から全面的なEU派でもなく、ここに来て改めて表明した。氏の出自が所謂指導層や知識層ではなくて、左派リベラルにとって無教養で知能の弱い過半数の国民に属し、その声に耳を傾けない姿勢を批判している。そこには英国特有の歴史があって、大陸のように啓蒙された市民による民主主義ではなく、マグナカルタで保障された英国の民主主義があるという。

つまり、各層の指導者の声がオピニンリーダとなってとなるが - 私がここで昔から言及しているドイツにおけるオピニオンリーダー指導層と変わらないではないか ―、国民がそのようにして選挙をして国民投票で決めた事情を聞かずに、再実施となった場合は英国の歴史で初めてそのシステムの機軸を失うときとなるとしている。そのことこそがポピュリズムであるとしている。

そして英国政府の交渉が自らの道を示すことなく、EUの出す条件との闘争となっているのが問題であり、EUに関しては現在のユーロ圏に留まって更に集権化していく行くのではないかと予測している。

日曜日が迫ってきた。足元が覚束無くなってきた。気を紛らわすためにネットサーフィンしていると、地元紙に日曜から始まる連邦共和国ユーゲント管弦楽団五十周年記念ツアーが紹介してある。ルクセムブルク公演は殆ど券が出た筈だと前夜確認していたので不思議に思って、改めて残券状況を見る。なんと舞台の作り方で今回は出ないと思っていた席が出ている。そもそもルクセムブルクに行くつもりが、途中でエルプフィルハーモニーの券が二枚入ったものだから、どちらでもよいと思っていた。売り出し開始の日に狙っていた席が出なかったので放っておいた。するとクリスマス前に予想通り割安席として出た。オルガンの下の席である。さもなくば最前列を狙っていたのだ。そしてそれが今回出た。要するに齧り付きだ。

しかし、向かい側を押さえたので文句はない。実はエルプフィルハーモニーもそれだったが距離が全く違う。今回はペトレンコの合図のティーンエイジャーへの目線が見所だ。勿論指揮もいつも以上に丁寧なキューが出ると思う、そして「春の祭典」の変拍子の深い拍。また特に初日の事故時の対応が楽しみだ。だから楽譜が頭に入っていないと面白くないのだが、私のような凡人には難しいと思う。オペラ劇場でもフィルハーモニーでも拝めないものを見てきたい。

通常はルクセムブルクの価格は割安なのだが、今回は割高になっていて、その辺りの管弦楽団と同じぐらいの価格で、フィラデルフィアやクリーヴランドより四割だけ安いのだ。だからまだ完売していない。北ドイツから親御さんが来るにも遠い。だから我々のような特殊な関心を持っている者が特殊な席に勢揃いするような気もする。これで同時にエルプへの期待は大分小さくなって、殆ど会場見学と翌日の観光、劇場行に重心が若干移った。初日と二日目のドルトムントの間での変化が三日目に出るのか、最終日のベルリンでなのか?

今し方バーデンバーデンからメールが入った。ランランが曲目変更を申し出て、フィルハーモニカーと復活祭が了承して、キリル・ペトレンコも即座に了承したという。ベートーヴェンの協奏曲三番から二番になる。楽譜をまだ見ていないので分からないが、印象としては三番の方が左手が重要な気がするがどうだろう。ここに来ての申し出だろうか、憶測を呼ぶ。ペトレンコの三番は既にレパートリーとして定着していたので、二番となると急遽更なる時間が必要だ。管弦楽団も指揮者にとっても負担は若干増える筈だ。調べると同様のものを世界中で弾いているので既に決まっていたようだ。どうして今頃になって発表になったのだろう。復帰後の演奏を見ているともう来ていらない。調子を崩して代わりに誰かが入ってくれる方が嬉しい。あの程度のピアノを聞いても自慢にもならないからだ。しかしペトレンコもよく引き受けたと思う。シェーンベルクの日が売れないからとそこまで譲歩する必要があったのか?こちらとしては思いがけず新たなレパートリーとしてベートーヴェン演奏を聞けるのはお得である。



参照:
職人魂に火をつける人 2018-08-27 | 文化一般
興業師からのご挨拶 2018-12-21 | 文化一般
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「軍隊は殺人者」の罪

2018-09-12 | 歴史・時事
月曜日のフランクフルター・アルゲマイネ新聞裏表紙面に記事があった。新聞を手に取った誰でもが目に付く記事だ。ケムニッツ騒動のカウンターとして、極左翼ロックグループが大統領の援助を受けて開いたイヴェントに対する批判である。詳しい内容は想像しても仕方がないが、それに近い既に最高裁で侮辱として判例の出ている言葉で例示可能なようだ。「軍隊は殺人者だ」、それと同じように警察やジャーナリストを貶すのだ。それ故に大統領までが批判の対象になっていると新聞は伝える。

91歳の指揮者ブロムシュテットが指揮して、ゲヴァントハウス管弦楽団とシュターツカペレドレスデンの二つの管弦楽団が合同でこの土曜日にライプチッヒでコンサートを開く。その記事をリツイートしようかどうしようか少し考えた。理由はこうした示唆行為の意味を考えるからだ。シュターツカペレはご存知のようにPEGIDAで扇動した指揮者ティーレマンが音楽監督であり、その楽団の多くはその旨に賛同しているだろう。つまりAfD支持者が多い。そして、今回のお声に対して賛同してやってくるのは「両管弦楽団で20か国を超えるという外国人奏者」を中心に、反AfDの楽団員である。合同演奏会であるから双方共から共感しない人などが先ず下りて、最大シュターツカペレからは過半数以下が参加するのだろう。幻想交響曲演奏の人員であるからそれよりも更に低い割合だろうか。しかし東独時代から監督であったブロムシュテットが指揮するとあって、思想信条に関係なく参加しやすい。これは指揮者の人徳だと思う。

そのように考えていると、ステートメント等の提示があった。そして完全に納得した。ドレスデンの方は劇場が母体となっている。中々微妙なところでPEGIDA扇動指揮者ティーレマンとは関係が無い。一応双方の顔を立てたという事になるのだろうか。それでも11月にドレスデンでも同じように開かれることから少なからぬ反響と影響は出ると思う。実際既に独ネトウヨのネット攻撃が始まっているようで、抵抗を感じる人も少なからずいる。個人的には老指揮者の考えやその思想信条をある程度理解している心算なのだが、既に書き込みにあるようになぜ幻想交響曲なのか、その前にエグモント序曲が演奏されて、指揮者の言葉があるので、そこで言及があると思う。

しかし思ったよりも、ステートメントの内容は、具体的でその立ち位置がハッキリしていてよかったと思う。第一に外国人の居ないドイツの管弦楽団などあり得ないことでもあり、その団員への強い連帯と配慮は分かり易い。流石にAfD支持者でもこの点に関して異議を唱える聴衆や楽員は先ずいまい。そしてブロムシュテットの宗教者としての分かり易さは少なくとも地元民には反論が出まい。しかしそれでも其れゆえの強固なプロテスタンティズムに反感を持つ人も居るだろうが、そこも含めてステートメントに「世界観の相違に拠らず」まで加えたのはよかった。これは意外にメルケルなどの連邦共和国水準では出てこない言葉ではなかろうか ― 要するに連邦共和国という世界観は保持されなければいけないからだ。

車中のラディオがシュトッツガルトから、そこの新指揮者のお披露目演奏会とその前に抽選で招かれた人々のための吃驚演奏会の様子を伝えた。結局七番イ長調とか、「レボレアーデ」とかが指揮者無しや指揮者のカスタネットを鳴らしながら演奏されて、楽章ごとに拍手となったのは如何に違う層の人が無料コンサートに申し込んだかが報じられていた。流石にカラヤン二世たるゆえんで、欧州ではアンドレ・リュ―の演奏会と二分するエンターティメント王を目指している。前者はブルックナーの交響曲9番を指揮することが無いのだが、こちらはベートーヴェンにしろブルックナーにしろお構いなしに指揮して、その技量もある。それが「シュトッツガルトの笛吹男」になる怖さである。一体この男とソニーは善良な聴衆を何処につれて行くつもりか?やはり力のある音楽ジャーナリストがガツンと打ちかまして欲しい。
André Rieu - O Fortuna (Carl Orff - Carmina Burana)

André Rieu - Figaro Cavatina

Andre Rieu - Nabucco.mp4

André Rieu - O Mio Babbino Caro (live in Australia, feat. Carmen Monarcha)

Andre Rieu - The Merry Widow Waltz 2003

Verdi requiem. Dies irae. Conductor - Teodor Currentzis

Trailer: Teodor Currentzis and MusicAeterna at Wiener Konzerthaus

Rameau «Orage» / musicAeterna, Teodor Currentzis

Igor Stravinsky. The Firebird (fragment) / Teodor Currentzis, musicAeterna


「オテロ」の希望ティケットの配券があった。102ユーロなのに回廊一でまあまあだ。価格上昇にも拘わらず格をランク4、5にしたので、競争で有利になった可能性もある。以前は5、6が多かった。ヴァークナーほどにはペトレンコのヴェルディには金を出さないという人も居よう。それでもこの価格で後にネット販売で競うと可成り難しいだろう。もう一つは一日ペトレンコが振らない日を入れて、カウフマン特需を落としてくれたのだと思う。さてその日に問題なく行けるかどうか。



参照:
ドレスデンの先導者 2018-08-29 | 歴史・時事
南プファルツでの事件 2018-09-07 | 歴史・時事
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平和、寛容への合同演奏

2018-09-11 | 歴史・時事
平和で寛容な共生のためのゲヴァントハウス管弦楽団とシュターツカペレドレスデンの合同演奏会

ゲヴァントハウス管弦楽団とシュターツカペレドレスデンは、名誉指揮者ヘルベルト・ブロムシュテットのもと、平和で寛容な共生のためのシグナルとして合同で演奏会を開きます。

ザクセンの両大管弦楽団は、9月15日20時から、合同コンサートをヘルベルト・ブロムシュテット指揮で開きます。共有するこの音楽的なステーツメントに措いて、ゲヴァントハウスと州立オペラの演奏家やその組織として大きく危惧するところの社会的な動きが契機となっています:見た目が違ったり考えの違う他者への拡大する非寛容と攻撃という事であります。

ゲヴァントハウスとシュターツカペレドレスデンには、現在20か国以上の国からの互いに尊重されるべき団員が貢献しています。彼らの仕事は、国際性と相互交流から成り立っており、そのような基礎が無ければ、そもそも創造性が開くことも無く、芸術的質も存在しません。両歴史的管弦楽団は、ザクセンを代表する文化的組織であり、世界に輝く名声を以って、世界中に招かれ、そして世界中からのお客さんを迎えているのです。

両管弦楽団は、嘗てのカペルマイスター若しくは首席指揮者ヘルベルト・ブロムシュテットを名誉指揮者としており、氏に特別な関係を感じております。氏の指揮者としての卓越した芸術的な貢献の他に、その隣人愛、扶助そして共に開かれた精神の社会的に価値のある人物としてあります。氏は、両管弦楽団並びに州の歴史をその変革の前と後の双方で経験しており、私たちは氏が身近においてとても大きな貢献をしたことにとても感謝しています。

私たちは、対話とお互いに尊重される身辺を取り戻すことでのみ、恐怖の無い、活き活きとした社会が可能だと確信して止みません。両機関は、限りなく、私たちの社会の基本権と民主的な秩序に組します。私たちは、人々の間の尊重、寛容、開かれた世界に強く寄与したい。私たち、ゲヴァントハウス管弦楽団とシュターツカペレドレスデン、そしてヘルベルト・ブロムシュテットは9月15日ゲヴァントハウスにて、更に11月12日ドレスデンにて開かれるコンサートにて、このアピールを致します。

管弦楽の編成をその対話と民主的で世界に開かれた例示として、音楽の情感的な強さで以って、その国籍や宗教や世界観に問わずあらゆる他者への人間的な価値観と尊厳を伝えるように尽力する所存です。

Statement zu den derzeitigen gesellschaftlichen Entwicklungen



Gemeinsames Konzert für ein friedvolles & tolerantes Miteinander in unserer Gesellschaft - Gewandhausorchester & Sächsische Staatskapelle Dresden

Das Gewandhausorchester und die Sächsische Staatskapelle Dresden geben ein gemeinsames Konzert unter der Leitung ihres Ehrendirigenten Herbert Blomstedt als Zeichen für ein friedvolles und tolerantes Miteinander in unserer Gesellschaft.

Die beiden größten sächsischen Sinfonieorchester geben am 15. September 2018, 20 Uhr, ein gemeinsames Konzert unter der Leitung von Herbert Blomstedt. Anlass für dieses gemeinsame musikalische Statement sind gesellschaftliche Entwicklungen, die die Mitglieder der Orchester und der Trägerinstitutionen Sächsische Staatsoper und Gewandhaus zu Leipzig mit großer Sorge beobachten: Die zunehmende Intoleranz und Aggression gegenüber anders aussehenden oder anders denkenden Menschen.

Im Gewandhausorchester und der Sächsischen Staatskapelle Dresden wirken heute Menschen aus mehr als 20 Nationen respekt- und achtungsvoll miteinander. Ihre Arbeit lebt von Internationalität und Austausch – nur auf einer solchen Basis kann sich Kreativität überhaupt erst entfalten und künstlerische Qualität entstehen. Die beiden traditionsreichen Klangkörper dürfen ihrerseits als führende Kultureinrichtungen Sachsens mit internationaler Strahlkraft auf der ganzen Welt zu Gast sein und Gäste aus aller Welt in ihren Häusern empfangen.

Beide Orchester haben ihren einstigen Kapellmeister bzw. Chef-dirigenten Herbert Blomstedt zum Ehrendirigenten ernannt und fühlen sich ihm auf besondere Weise verbunden. Neben seinen herausragenden künstlerischen Verdiensten als Dirigent steht Herbert Blomstedt als Persönlichkeit für gesellschaftliche Werte wie Nächstenliebe, Hilfs-bereitschaft und offenes Miteinander. Er hat die besondere Geschichte beider Orchester und des Bundeslandes vor und nach der Wende mit-erlebt und wir sind dankbar, dass er unser gemeinsames Anliegen mit großem Engagement unterstützt.

Wir sind der festen Überzeugung, dass nur durch das Wiedererlangen der Dialogfähigkeit und des respektvollen Umgangs miteinander eine angstfreie und lebenswerte Gesellschaft möglich ist. Die beiden Institutionen stehen uneingeschränkt für die Grundrechte und die demokratische Ordnung unserer Gesellschaft. Wir vertreten mit Nachdruck zwischenmenschliche Werte wie Achtung, Toleranz und Weltoffenheit. Gemeinsam wollen das Gewandhausorchester, die Sächsische Staatskapelle Dresden und Herbert Blomstedt im Konzert am 15. September 2018 im Gewandhaus und einem weiteren, das am 12. November 2018 in Dresden stattfindet, dafür ein Zeichen setzen.

Mit unserem Beispiel einer dialogorientierten, demokratischen und weltoffenen Gemeinschaft, wie sie ein Orchester darstellt und mit der emotionalen Kraft der Musik möchten wir dazu beitragen, humanistische Werte und Respekt gegenüber allen Menschen, unabhängig von Nationalität, Religion oder Weltanschauung, zu vermitteln.

15. September 2018
20 Uhr, Gewandhaus

Gewandhausorchester
Staatskapelle Dresden
Herbert Blomstedt

Ludwig van Beethoven
Ouvertüre aus der Schauspielmusik zu Goethes Trauerspiel "Egmont", op. 84

Ansprache Herbert Blomstedt

Hector Berlioz
Symphonie fantastique op. 14
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南プファルツでの事件

2018-09-07 | 歴史・時事
週末は再び試飲会だ。しばらく続く。最初の日曜日には予約していたグローセスゲヴェックスを取りに行った。勿論試飲して来た。レープホルツ醸造所に夕方手早く出かけた。予約しておくと少しでも安くなるので欠かせない。逆に予約していないと手が出難くなる。それでも結局試飲してみると予約したものが一番いいのだ。

この醸造所には三種類の土壌とその傾向に各々三ランク以上の商品が用意されているが、自身のリースリング嗜好からすると雑食砂岩しかない。要するに石灰が混じっていると薄っぺらくなってその場では楽しめても飽きがくるのだ。そして貝殻石灰土壌では直ぐに黄色くなってくる。この辺りもフランスの柔らかいワインとの相違で、飽く迄もエッジの立った固いぐらいのリースリングが好事家には愛される。なにかこの辺りも独仏の両文化のイメージをそのまま反映しているようで面白い。

そしてもう一つが赤スレートに近いロートリーゲンデン土壌のその名もカスタニアンブッシュというグランクリュワインで、この醸造所ではリースリングとして一番高価なのだが、その系統は他所の産地に更に良いものがあるのでここでは買わない。実際に今週末にナーへで予約した六本を回収しに行く。

暑い夏の間忙しくて、あまりワインも開けないことからナメクジにやられた。グローセスゲヴェックスが軒並みエティケットを齧られている。それを発見してからもまだ犯人を特定そして捕獲できていない。それも合成ノリをあまり使わないような少量生産品から喰われた。以前は地面に滑りがついて光っていたりしたので、移動を掌握して塩を撒いたりしたのだが、今回は地面も乾いていて意味が分からない。恐らく暑さで活動が取り分け盛んだったのだと思う。二週間ほどで軒並みやられたと思う。オークションにかけるのではないからよいのだが、大事に寝かしているものをぐちゃぐちゃにされて怒り心頭だ。それでも不思議なことに表面でなくて瓶の裏側で舐められているのもあるので不思議だ。

マンハイムへの車中で南ワイン街道で昨年起こった殺人事件の判決が話題になっていた。殺人犯がわずか八年の判決という事で、「ドイツであり得ない」とか「終身刑でないと」とかの感情的な町の声がラディオで流れた。犯人が少年で、シリアからの難民で殺されたのはトルコ系のドイツ人だったとされる。その事件以降毎週カンデルではケムニッツと同じように練り歩きが行われるらしい。それを町の人が迷惑していて、これでは止まないと怒っている。典型的な今連邦共和国で話題になっている現象だ。勿論ケムニッツとは町の大きさも違い、東ドイツではない。それでも我々の北ワイン街道沿いとは違って、経済的にもあまり良くない場所がらで、ライン河対岸のカールツルーヘの者からはその車のナムバーだけで嫌がらせを受けるような地域なのだ。ダイムラーのトラック部門などは州境のこちら側なのだが皆がそこで充分に富を得ている訳ではない。要するにAfDに走り易いような自意識の低い層が多い。ここ暫く政治的にも注目されるかもしれない。

放送では引き続き、イスラエルのラディオ局でヴァークナーの曲が流されて、始末書ものになったと報道があった。ヴァークナーが未だにナチの音楽であることに関連して、夜のベルリンからのコンセルトヘボー中継でもブルックナーの音楽の政治利用も話題になっていた。三番のそのメロディーもファンファーレとしてナチに利用されて、ゲッベルス博士のブルックナー賞賛の録音が流れていた。勿論ブルックナーのオリジナルの音楽だけでは到底プロバガンダには使い物にならないが編曲されている。だから注視しなければいけないのはそうした方向でのアレンジメントだったり、演奏解釈だったりのイデオロギーであろう。ニュースは、直接ヴァークナーの音楽で嫌な思いをした生き残りが生存している一方、ワーグナーを愛しているイスラエル人も少なくないと伝えていた。正直のところ、未だにこうしたニュースを聞かされて今更と思う反面、なるほどそうした音楽愛好の姿勢も存在するのだと再認識した。ブルックナー愛好家と称されるような人々がおかしな認識をしていないか、バイロイトの初代音楽監督の演奏実践やその発言の真意を引き続き監視して行かなければいけないと肝に銘じた。



参照:
ドレスデンの先導者 2018-08-29 | 歴史・時事
脳裏に浮かぶ強制収容所 2016-10-11 | 歴史・時事
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ドレスデンの先導者

2018-08-29 | 歴史・時事
日曜日の早朝の森の中は気温摂氏7度しかなかった。それでも陽射しがあるといい汗を掻く。これぐらいの気候が一番いい。水曜日、木曜日とルツェルンなので、週末から続けざまに走っておいた。これで週末再び体を動かせば十分だろうか。日の入りが早くなり、日の出も遅くなるので寝起きが辛い。

その森からの帰路、車中の文化波ラディオは、ケムニッツでの騒動などに関連してニュースを伝えていた。その前に米軍の沖縄と海外一位を競うエアーベースラムシュタインで30年前に起きた飛行機ショー事故の話題が流された。パイロットを含めて観衆が70人も犠牲になった事件だった。

ケムニッツの件は久しぶりに大事になった事件のようである。祭りの際に外国人との争いで刺殺されたことからケムニッツ市中が西部劇の街のようになっている。外国人とみれば襲撃して血祭りにあげろと騒いでいるので、日本の人種主義者グループと全く変わらない。サッカーのファンクラブのフーリガンやPEGIDAなども皆、根は同じである。西ドイツならばあり得ない光景であるが、二十数年前までは社会民主共和国だったところなのでそれほど驚かない。街中でドイツ人にも人権を認めろと騒ぐような爺さん婆さんは死ぬまで変わらない。洗脳教育とその反作用は怖いものである。それにしても、なぜあの手の無教養な連中は同じような言葉を使うのだろう。要するに逆差別がそこに存在して「ドイツ人にも人間らしさを」などとぬけぬけと言えるのか理解に苦しむ。世界中で同じような語法が流通している。ドイツのようなプロテスタンティズムの国でこうした意味の倒錯した言葉が使われるとは思わなかった。やはり行間を読んでいたような東ドイツ人民の表裏のある生活信条がそのような人を形成してしまうのだろうか ー どこか管理社会の日本人民に似ている。

WUT IN CHEMNITZ: Bundesregierung verurteilt "'Hetzjagden" scharf


それが安物の所謂日本で呼ばれるようなネトウヨ勢力の結集となって、ベルリンにおいても野党第一党になっているのが現状である。そして放送は伝える。ケムニッツだけでなくてドレスデンなどでも音楽家が先導していて、多くの親派とそれ以外の者の沈黙がそこにあると。勿論ここで名前こそ挙げられていないが先導者というのは指揮者クリスティアン・ティーレマンを代表とする。流石に「血祭りにあげろ」とは叫ばない。社会的立場があるからだ、そして明日から仕事が無くなるからだ。しかし、謂わんとしていることは今でも変わらない。「ローエングリン」の歌手がポーランド人になったことについてのコメントに関しても、ミュンヘンの劇場の広報部長などはその発言の主旨をしっかりと嗅ぎ取っていた。こうした人間がインターナショナルなニューイヤーコンサートなどに登場してよいものなのだろうか?少なくともそぐわないと感じて当然である。

一方、昨年日本でペトレンコと共演したユダヤ系移民ドイツ人ピアニストのイゴール・レヴィットも早速盛んにネット活動をしている。正直最初は彼のカウンター活動にはあまり共感出来なかったのだが、その考え方も分かってくると支援したいぐらいに思うようになった。その考え方は簡単である。PEGIDAのような主張や活動をその当然過ぎるような主張を放っておくと、AfDのような政党が野党第一党になり、取り返しのつかないことになりかねないということだ。つまり臭いものは元から絶たなきゃダメで、今回の件でも恐れているようでは余計に奴らを助長させて、本当に大変なことになってしまうという危惧である。だからネトウヨ同様の輩も片っ端からモグラ叩きのように叩いて行かないと手遅れになるという事になる。つまり広い市民層が、差別などは絶対許さないという強い姿勢で挑むことが必要になる。

焦って来た。先ずは燃料を満タンにしないといけない。スーパーも先に済ましておかないと午前様の帰宅の翌日が時間的に厳しくなる。服装も迷うところだ。もはや暑くはないが、小ざっぱりしたいと思う反面、遠くて映らないが二日目は実況中継で、場合によっては将来も残りそうな公演となる可能性が強いので、おかしな方に色合いだけでも目立ちたくはない。ホテルのチェックインは15時からなので、10時過ぎに出発して、年間通行券ヴィニェッテなどを購入して、ピクニックしながら走ればよいだろうか。ホテルで着替えて、一休みしてからでも十分に間に合う。コンサート後にしか食事をしないので準備しておかないといけない。そもそも最後のルツェルンの音楽祭訪問はクラウディオ・アバドの最後の年だったから数年前のことだが、車では頻繁に走っているので距離的な感覚は残っている。走行距離340㎞で、全くミュンヘンと変わらないが、道路状況は異なる。上手く走れば、交通量が少ないのでこちらの方が楽である。燃料も満タン一回で出来れば往復したいが、現地でどれぐらい走るかが今一つ計算できない。ホテル往復は7㎞以下と近いが、気持ちの良いところでお昼やお勉強でもしようと思うと未知の距離を走らなければいけなくなる。



参照:
Go home & never come back! 2017-08-24 | 歴史・時事
ヒトラー革命と総ミュンヘン 2015-11-11 | 暦
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ベルリナーシュロース話題

2018-08-24 | 歴史・時事
土曜日のイヴェントの案内が入っている。ベルリナーシュロースでの演奏会の歴史的背景について述べられている。1929年からこの企画が始まったのも、ベルリンでフェスティヴァルをそれもオペラフェスティヴァルを開いて世界中からの観光客を見越したからだとある。今のミュンヘンのそれに似ている。それに対して芸術的な意義が見つからないとして、このホーヘンツォル家のシュロースを歴史的遺産として使おうとして七回のコンサートが付け加わり、徐々にアトラクションとしての価値を増したようだ。

最初はシュターツカペレや市立劇場の座付き楽団がシュロース音楽隊とされていたようだが、1933年からフィルハーモニカーが登場してエーリッヒ・クライバーが、反ナチ政権の為1935年に亡命する迄ニ年間指揮した。その後、バロックからの作曲家末裔であるハンス・フォン・ベンダが場所に相応しいバロック音楽から古典派までの曲でオープンエアを指揮して人気を博したらしい。その理由は60ペニッヒで聞けるという社会的な使命もあったというから、今でいう何とかForAllというのと同じである。その意味からするとヴァルトビューネとも変わらない。その他戦後内部的に指揮指導をしていたレオ・ボルシャートの名前も挙がっている。さて70年ぶりにどれほどのイヴェントになるだろうか。予定通り隣のベルリナードームのあるルストガルテンでパブリックヴューイングもあるという。

プロムスからのチャイコフスキーを聞いた。ザルツブルクで名演を披露したリサ・バティッシュヴィリの音色を堪能したものだ。ロンドンでは、最初の音から弓が上手く走っていなかった。だからどうしても倍音が響かない。そして飛翔する筈のところがもう一つ行かないだけでなく傷もあった。本人の一時間の時差の影響もあるだろうが、ザルツブルクでの映像制作時のような演奏はいつも叶う筈がない。逆に安心したが、二楽章から三楽章などは挽回して、ザルツブルクよりも上手く行っていたところもあった。それでもラトル指揮でのドヴォルザークよりもいいところが出ていた印象だ。

ラトル指揮と言えばザルツブルクでのマーラー第九が話題になっている。評価が分かれているようなので興味を持った。勿論九月の第一週にそのラトル氏と一緒にルツェルンで同曲を聴く予定だからだ。バイエルン放送での評で大体分かった。大まかにいうと、ハイティンク指揮で期待されるような「白鳥の歌」に近いものではなく寧ろ三番などに近い「愛の音楽」が繰り広げられているという事だ。完全に解釈の問題で、その評価で批判もされ大絶賛もされてもいる。

個人的にはルツェルン音楽祭のHPでの紹介の仕方が本当に正しいのか、それともやや一面に偏り過ぎるのかに関しては疑問があった。少なくともアルマ・マーラーの想い出を見る限りそれほど諦念に満ちた曲ではありえないと思った。それを言えばすでに若い頃の曲でも行き過ぎ感はあるので、本当の表現はそうしたステレオタイプの文学的な解釈では導かれないものだと確信する。

なるほどラトルが得意とする交響曲10番のクック版などを前提とすると、今回の演奏実践は正しいように聞こえる。個人的な興味は、ハイティンク指揮の解釈のアンティテーゼである筈がないと期待させるところにある。私たちにとってはレナード・バーンスタインの呪縛から逃げることが先ず何よりもの関心なので、今回のラトル指揮のストップアンドゴーがゴムひもが伸び縮みするような物理現象的なイメージを抱かせるとしたらそれは格別面白いと思う。しかもラトル指揮の場合は入念にそれをリハーサルで仕上げてきている訳だ。そして四楽章の頭の触りを聞く限り、少なくともベルリンのフィルハーモニカーから期待されたような充実した響きでないことも確かだろう。ラトル指揮のコンサートに何を期待するかの違いだけである。本当のファンはこれからも支持するであろう、そしてただのミーハーにとってはペトレンコへと関心が向かってしまって、もはやロンドンのそれに関心を持つことなどは無いであろう。個人的には散々良い面も悪い面も聞き尽してしまったので、ハイティンク指揮の前の無料の「グルッペン」ぐらいへの関心が適当なのだ。そもそも同地のフィルハーモニアとは違い決して悪い管弦楽団ではないが、ロンドンのシムフォニカーやミュンヘンの放送交響楽団に金を掛ける方が間違いだ。米国の超一流に金をつぎ込んだ方が遥かに価値がある。



参照:
手塩にかけるイヴェント 2018-08-23 | 料理
尻を捲くり立ち留まる 2005-10-29 | 歴史・時事
グァルネリ・デルジェスの音 2018-08-20 | 女
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エルドアンが打つ楔

2018-07-31 | 歴史・時事
ホヴァーリングのヘリが喧しい。この辺りでのヘリは緊急搬送しかないのだが、普通はホヴァーリングでは無いので皆が窓からのぞいた。日曜の晩であり意味が皆目解らなかった。結局二日続けて合計二時間ほど同じような場所で留まっていた。そちらの方を見ると我々の城がナイトアップされて浮かぶが、今時写真撮影のためにヘリを飛ばさない。高度からすると通常のドローでは無理という事なのだろうか。今時GPS測定もあり本当に理由が分らなかった。

ドイツナショナルチームを引退したオヅュールのことが話題になった。新聞にも記事が出ていたので、少しだけ触れておこう。なぜ少しなのかはフランクフルトアルゲマイネと考えが同じだからだ。オヅュールは自身の分からないままに徹底的に政治利用されて、その姿勢を良しとするトルコ系ドイツ人は皆エルドアンの手下だろう。エルドアンらの戦略は、現在世界中に蔓延しているポピュリズムの典型的な手法で、如何にも皆が「本音を言えばその通りだ」と思わせるような現象を突く。つまり連邦共和国内で「トルコ系ドイツ人が二流市民であり続ける」事象に疑問を投げかけるという手法である。しかし彼のようなポピュリズム手法でなく、多岐多様に亘って様々な試みがなされている訳で、そうした実情を知らない単純なトルコ系人や外国人に訴えかける手法である。

そもそも今回のこのナショナルティームの代表的な選手がこうした発言をすることで、やはり様々な試みはされても如何に簡単に解決策が無いかを示しているに過ぎない。エルドアンではなくドイツ連邦共和国大統領シュタインマイヤーが本人に直接電話して、再考を求めたとある。新聞が心配するのはこうしたやり場の無い現状を嘆くばかりか、「やはり外国人労働者の移民は駄目だ」と思わせかねないような議論に発展することである。実際にAfDは野党第一党の支持がある。議論をすれば民主的で、それがいつも必ずしも最も優れた解決法では無いという事ではないか。エルドガンの戦略は、このことを議論することで連邦国民の中に深い断裂を作り、そこに楔を打ち込むことにあるとされる。



参照:
世相を反映する歴史的事実 2016-08-01 | 歴史・時事
反面教師にみる立ち位置 2008-02-13 | 歴史・時事
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「死ななきゃ治らない」

2018-07-08 | 歴史・時事
森の中でライヴァルの白髪の婆さんとすれ違った。「今日はジョギングじゃないの」と聞かれたから、「寝不足した」と話した。坂の上まで歩いて下りてきた森の中は摂氏17度以下で気持ち良かった。ベットに入ったのが4時過ぎで8時過ぎにはパン屋に向かったから、前夜の23時から25時までと合わせて全部で五時間も断続的に寝ていない。一番深く眠りそうな時間に起きたので厳しい。今後は合衆国からの録音はタイマー操作にしたい。

それでもタングルウッドからの中継は想定よりもいい音がしていた。先ずは地元の放送局のストリーミングの程度が高い。そして半野外のようなタングルウッドの響きも全然悪くは無かった。ボストンのホールとも比較してみたいが、これはこれで楽しみだ。

交響楽団のサウンドは流石にボストンサウンドでシックなのは明らかだったが、前回の日本公演でも批判されていたように技術的には粗があって、これならばゲヴァントハウスと比較してどうという事は無いと思った。同じような管弦楽団を両方掛け持ちする意味は分からない。ネルソンズならば他のビックファイヴも狙えたと思うが、待てなかったのだろうか。経済的な面などいろいろ考慮するとボストンの方が魅力があるのだろうが、ゲヴァントハウスの方が上手く行けば芸術的な可能性が高い。二年ほどで判断するというような意味のことを漏らしているが、ボストンではあまり期待が出来ない。

肝心のランランカムバック前に魔笛序曲が演奏された。確かに才能のある指揮者で、その技術は超一流には違いなく、奏者に遣らせるその指揮がとても楽員に喜ばれているのは分かる。そしてネゼセガンのようなおかしなスイングもしない。

ランランが登場するとそれなりの喝采が起こって、会場は湧いていたが、管弦楽団の演奏からして今一つだった。ランランのソロを真剣に聞くのは初めてだった。今までは車中でミュンヘンで演奏したものが同地の放送局から流れていたものなどを耳にした。だから復帰後の演奏がそれまでの演奏とどう違うのかはあまり分からない。但し印象として持っていた単純で非音楽的なリズム感やその指運動のようなタッチはそのままだった。先ずここで失望したのだ。もしかしたらルービンシュタインのように目張りした部屋で隠れ特訓をしているかと想像を逞しくしていたからだ。

だからレガートの弾き方も以前通りなのだと思ったが、反対にスタカートの粒立ちも悪く、その対照が曖昧で要するにアーティキュレーションがしっかりしていないようにしか聞こえない。そもそも稚拙なそれがこの満州人の特徴なのだが、もしかすると負傷で余計に悪くなったかもしれない。そして何よりも左手が充分に弾けていなかった。確か痛めたのは左手だと思ったが、彼の隠し芸の後ろ向きで弾けばよいのではなかろうか。冗談はさておき、以前とは違うとなればカムバックはしてみたけれどで今後のキャリアーは分からなくなるかもしれない。アンコールで弾いた「戦場のピアニスト」の嬰ハ短調のノクターンでも状況は変わらなかった ― これは先日スイス訪問の際に事前の予定になくサプライズで弾いていたようだ。モーツァルトでも極端なピアニッシモを入れて変化を付けようとしていたが、全て大阪弁で「阿保ちゃう」をこちらで叫ぶしかない。
Lang Lang Strong #2

Lang Lang Strong #1


ネルソンズもカデンツァへのテムポ配置などでランランと合わせるようにアッチェランドを入れたりして極力配慮しているが、音楽自体が上手く行っていない ― これはペトレンコにとっては朝飯前だが。オペラなどの経験の豊富な指揮者として全く問題が無い筈なのだが、同じようにランランとの協演をするメスト指揮のクリーヴランドでの演奏会が楽しみになる。もう一つ気になったのは低音を吹かしてサウンドつくりをしているようなのだが、あまり上手く行っていない。仕事量が多過ぎる指揮者で、ゲヴァントハウスもコヴェントガーデンもボストンも一緒くたに入り混じってしまっているのではなかろうか。あまり感心しない。

ランランのピアノを聞くとどうしても来年のバーデンバーデンが気になってくるのだ。なぜこの晩も後半に演奏されたようにチャイコフスキー第五の前に態々モーツァルトでなくてベートーヴェンを持ってきたのか、本当に無事に演奏会が終わるのかなど心配になってくる。私自身はランランの日には39ユーロしか支払っていないのでどうでもよいのだが、ブーイングしなければいけないようなピアノではやはり困るのだ。

それにしてもこうした話題性もあり集客力の化け物に群がるようなメディアの構造の中の俗物に文化勲章を出すような日本の痴呆性だけでなくて、世界中が同じような構造になっているかと思うと不愉快極まりない。文化とか芸術とか音楽とかを言葉に出すのも嫌になるほどだ。

今晩は口直しにコヴェントガーデンからのローエングリン全曲放送を聞きたいと思う。しかしこれもネルソンズの指揮なので少し不安になって来ている。真面目に楽譜を見乍ら聞くとどうしても粗が目立つ。オペラの場合は歌手とのリハーサルも長いので意思の疎通はゲストのピアニストよりも取られるのだろうが、パパーノがあれほど鳴らしている管弦楽をどの程度まで指揮しているのだろう。ネゼセガンとどっこいどっこいの指揮者だと思うが、その腕前を篤と見せて貰おうか。



参照:
今夜は半徹夜仕事か 2018-07-07 | 生活
残席から探るランラン状況 2018-06-16 | 雑感
ランランは引退するか? 2017-10-19 | 雑感
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ショックのUバーン体験

2018-06-18 | 歴史・時事
フランクフルトから早朝帰宅した。フランクフルトも久しぶりだが、更に地下鉄に乗るのも久しぶりだった。そしてカルチャーショックを受けた。同じような体験はミスタービーンではないが、嘗て初めてのロンドンの地下鉄のセントラルラインか何かに乗って、こんなに沢山の人種がいるのかと驚いたのだった。しかしフランクフルトのライン4は遥かに甚だしかった。

少なくともロンドンでは英国人が沢山乗っているのだが、ライン4は殆どドイツ人らしきを見ないか、その比率が異常に低く精々三割ぐらいとみた。アフリカやアジアの人種だけでなく、トルコ人やイタリア人や南欧の人だけでなく、EU内でも様々な顔を見た。金融関係の人も沢山住んでいるようで、言葉のインターナショナルも甚だしそうだ。それでもドイツ語が堪能そうな人も沢山いるようで荒れている感じはあまりなかった。旧欧州中央銀行の前が市立劇場という事もあるが、そのまま中央駅に抜けるので、丁度彼のセントラルラインに似ている。

人の雰囲気よりもかなわないなと思ったのは、地下鉄独特の焦げたようなすえたような匂いで殆ど息苦しくなった。普段あのような空気を吸っていないので余計にひどく感じるのだろう。あれでも毎日乗っていると慣れて、丁度BASFに勤めていたならば工場勤務でなくても知らぬうちに肺が侵されているようなものだ。街の活気と健康はそのもの反比例している。

我々郊外で生活している者からすると、なるほど仕事はあるのだろうが、ちっとも住みたいなとは思わせない不健康さである。車で走っているとその渋滞や町の喧噪で嫌になることはあっても、公共交通機関のごった煮の雰囲気は無く、アルテオパーのコンサートや美術館に出かけている限りは、今回のようなショックを受けることは無かった。少しインターナショナルな空港の街ぐらいにしか感じなかったのである。

やはり、ミュンヘンとは全然違うなと思うのも、ミュンヘンに慣れるとあれがドイツの代表的な大都市で、ベルリンは特殊で、それ以外はとぐらいにしか思っていなかった。やはりミュンヘンの方が一寸違うのかなと思った。

朝は朝で6時になる前から離陸する飛行機が相次いで大空に飛んで行くのが、静かな日曜日の早朝だけによく聞こえた。街の中でも飛行機の音がしているのも知らなかった。普段は騒がしいから気にならないのだろう。街の中で仕事をしてタウヌスの山の懷から通っている人も少なくないのだろうが、車の渋滞ぶりを考えるとウンザリする。

久しぶりに劇場の駐車場に車を入れたのだが、あれも入り口が分かり難い。余分に一周してしまった。マインの岸まで出なければ入れないのを忘れていた。丁度ロートシルト家屋敷の裏口ぐらいになるのだろうか。

出掛ける前にテレコムのサーヴィスの人が電話を掛けて来て、色々試してみた。先方ではやれることはやっていたようで、ルーターの調子がおかしい可能性もあるという事で、無駄な人件費を払わないで済むように、一度試してみることをアドヴァイスされた。二時間ほど順調に動いていたのでそのようなことはないと思って話していたが、念のために他所の家に持ち込んで試してみた。初めは上手く行かないので、これは故障の可能性が出てきたと思って、リセットしてみた。すると上手く行った。これで自宅で上手く行かなければ完全にテレコム側の問題だと確信した。そしてリセットをして試してみると上手く入れた。

その後調整に時間が最もかかったのは、クロームキャストであった。そもそもAudioの方はどのようにセットアップしたか記憶に全く無かったので、色々と試してみた。全く覚えていなかった初期化の方法は、横にある小さなスイッチを押すことだった。それも電源を入れて点滅してたりしたのを見て初めて気がついた。通常の映像キャストの方は昨年セットアップした記憶にあったのだが、購入して最初の時は初期化の必要が無かったので全く気が付かなかった。そもそもクロームに相当するサイトがなかなか見つかり難いのも具合が悪い。あまりPCで使うことなどは考えていなかったのだろう。

これで週明けからのラトル指揮のものも綺麗に観たり、デジタルコンサートホールをダウンロードするのに好都合な時期になった。「パルシファル」も資料にしたく、キリル・ペトレンコ指揮の四月の公演もこれで心置きなく観れる。



参照:
木曜日は雪模様となるのか 2016-07-13 | 生活
祭り会場から一時避難 2018-06-17 | 暦
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お手て繋いで夜道を行く

2018-04-29 | 歴史・時事
一日中韓国JTBCの中継を仕事をしながら流していた。日本のTV朝日が最も大掛かりな外国からの取材陣だったようだ。晩餐後の式典がまた注目された。アリランをジャズアレンジしたものをピアニストが弾いて、背後にはその日の重要な握手の映像が映写されるというもので、とても気が利いていた。費用も掛かっていた。こうなるとオリムピックではなくて、その映像の価値は世界に知らしめる以上に会談の場を感覚的に定着させる意図がある。つまり通常のイヴェントのそれを超えた表現が計られていた。韓国の映画などは金大中政権下で本格的に振興されたという事だったが、なるほどこうした出来を見ると優秀な人材やノウハウを集約させているのが分かった。つまり演出がしっかりしているという事で、決して形から入って時間を埋めるというような低級なものではなかった。

つまり二人の会見の主役の長い一日を描いているもので、当事者がそれを成果としてどのような気持ちで眺めたか?一部の映像は昼休みの各々の作戦会議でも少なくとも本人が全てを確認できるような時間はなかった筈で、初めて映像として客観視するような形になっている。謂わば一日スキー場で滑っていてその様子を食事後に観て、ああだったこうだったというような感じに近い。そこには間違いなく主役である二人の視線つまり主観と、こうしてカメラが捉えた客観との差異が生じている。同時に客観的な視線としても各々の中に世界が見たことつまり現実が定着するという事になる。

こうした定着を試みたのがその演出の主旨であることは確かで、政治の世界においてこれはとても面白い試みだと思った。それ以上に関心を引いたのは二人の奥さんを両サイドにした二人の主役が暗闇の中で固く手を握っている光景である。一部には気持ち悪いほどとの感想を見かけたが、たとえ身体コンタクトの多い朝鮮民族とはいっても確かに通常ではないだろう。勿論この伏線は、最初の出会いでの北側へ渡る時に金が文の手を取ったことである。この経緯は、文が問いかけをしていることから、ある程度南側が計算したものかもしれないが、手を繋ぐとは誰も思わなかったかもしれない。咄嗟の行動ではあるが、手を繋ぐことで全ての不慮の事態を防ぐという配慮が無意識にあったのかもしれないが、この手を握る行為は南側で昼休みまでに解析されたのかもしれない。それを受けての暗闇での御手て繋ぎとなったのだろう。首脳同士の外交においてはこうした身体的なコンタクトがここ暫く話題になっていて、欧州を引っ張るマコンがトラムプにキスしたことや、同じようにメルケルにトラムプがキスしたことなどが映像的に定着している。


それにしても流石に南鮮である。金正恩の生い立ちや情報の解析から大統領へとアドヴァイスが行われ、それをしっかりとやり通す文の手腕に感心する。また北鮮では私が書く様に歴史的な成果を強調したようだが、一体行間を読み抜く国民は真実をどのように分析しているのだろうか。金政権にとって大切なのは、強面の恐怖政治をしなくても本当の支持を人民から獲得することで、今後大きな守旧派勢力の反発にあうことを考えればとても重要なのかもしれない。金への印象は、やはりスイスのフランス語圏で教育を受けただけにトラムプなどとは比較にならないほど西欧的な合理性を持っているという印象だ。そのを裏打ちする様に、最新の調査では、ドイツの半数近くの市民は「トラムプの方が金より遥かに危ない」と答えている。

金曜日にテレコムから電話があった。先日の電話回線変更に伴う、電話番号の移動を質問したからだ。結論は可能という事で、一度だけ手数料10ユーロを払えば、あとは従来の電話回線を解約しても新しい回線で使えるようになる。一番助かるのはFAX番号として使っていて名刺等に明記してあるそれを訂正しないでも済むことだ。誰もFAXなどは使わないが、嘘は書いておけないので苦慮していたのだ。これで完璧に一回線はIP電話回線になって、インターネットも最も早い回線に入れる。もう一つはデジタル電話を使っているので、そのまま使っておく。何れ更なる圧力が掛かって、いずれは廃止という事になるのだろうが、お詫びかなんかで有利な状況になるまで居座るつもりだ。その間に使い勝手の違いなども審査できる。そして説明通りFAX番号が入っていた回線の契約解除を申し入れた。二週間ほどFAXは不通になるが何ら問題は無い。

ブラームスの協奏曲一番とシューマンの交響曲四番の楽譜を落とした。特に前者は分厚く響くだけのごつい音楽でしかなく、ブラームスの音楽としてもむさ苦しい音楽なのだが、昨今のキリル・ペトレンコ指揮のドッペルコンツェルトや第四交響曲を聞く限り、明らかに演奏の質が問われる曲となるだろう。あまり知らないがグレモーという人がそんなに暑苦しいユダヤ風の音楽をするわけではないだろうからネゼ・セガン指揮のフィラデルフィア管弦楽団の腕の見せ所だと思う。シューマンもその楽器編成など様々な問題があるので、何処までの演奏が出来るのかなど興味が尽きない。

キリル・ペトレンコが凝りもせずにヴィーナーフィルハーモニカー定期に登場して四番を振るらしいが、あれだけの指揮に対応してヴィーナフィルハーモニカーがどこまで弾けるのかは疑問でしかない。ヴィーンのマネージメントの関係で引き受けているのだろうが、時間の無駄ではなかろうか。東京でもこの楽団のティケットの売れ行きがもはや芳しくないようだが、私もバーデンバーデンのシーズン初日を購入していない。22ユーロならば大抵は行くのだが、ブロムシュテットでのブルックナーの七番はゲヴァントハウス管弦楽団で名演を聞いたのでもう沢山だ。メスト指揮の五番なら購入していたかと思う。不細工なティーレマン指揮のシュターツカペレの演奏の耳を洗い流したいからだ ― 19ユーロだったかしら。そのゲヴァントハウスはネルソン指揮で「悲愴」や「ブラームス」の四番なのでこれも耳を汚したくないと思った。名曲コンサートなんて一度名演を聞いたらあと四半世紀は行く気がしない。要するに訳の分からない一般大衆に売りつけるだけのプログラムなのである。



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欠けた一片への想い 2018-04-28 | 歴史・時事
そろそろ詰めよう 2018-03-27 | 雑感
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欠けた一片への想い

2018-04-28 | 歴史・時事
歯が欠けた。誰かに殴られた訳では無い。食前に、開けたザールの2016年産アルテレーベンに、残っていた角白ごまパンを齧っていた時だ。何か異物感があって、歯に挟まる感じがした。異物が混入していたのかと、通常あり得ない個人マイスターパン屋なので、材料に固い欠片が混入していたのかなと思った。急いで弛緩歯ブラシやら糸やら爪楊枝を総動員しても外れない。弄った部分から出血して指についたりしたが、若干そのような味覚が感じられた。鏡を見ても分らない。左の上の奥から三本目ぐらいだ。そこは丁度この二三年歯医者で炎症を起こしているとレントゲンを撮られたところでもある。

そして指で内側を弄っていると写真の小さな欠片が取り出せた。この米粒の欠片状のものが異物かと思ってみると歯が欠けていることに気が付いた。そしてそれがあった歯の内側が割れてぐらぐらとしている。分ってきた。レントゲンで写っていた歯の根元からの血流が走っているところで、その内側と外側で崩壊したようだ。親知らずを抜歯をしたときに崩壊するとかしないとかの事を思い出して合点が行った。根元が炎症を起こしていたので、簡単に全体が抜けるのでは無く、先ずは崩壊したようだ。しかし虫歯などの時にありがちなおかしな味もせずに、驚くことには外側は結構しっかりしている。

先ずは左側では折角の食事は叶わなかったが、右側で食して、無理してぐらぐらしているのを抜かずに置いた。先ずはこの内側がその内抜け落ちてしまうだろう。状況を観察していると出血もあまりないようで、歯茎もそれで炎症が激しくなった様子もない。そして面白いことに今までこの時期に炎症で何度か苦しんでいた訳だが、その時の外側の感じとは違って内側が痒い。なんとなく、いよいよあの炎症感ともそろそろお別れという感じになってきた。

恐らく内側のぐらぐらが大きくなって行き、丁度岩石が割れてその崩壊が合わせ仕掛けの様に簡単には外れない感じが続いて、内側の欠片が綺麗に抜けて仕舞うだろうと思う。その時も外側がしっかりしていれば、もう少し使えるかもしれない。もししっかりしたままならば、一度歯医者の予約を取って、可能性を考えて貰おう。外側がぐらぐらしてくるようならば、いよいよ放棄である。どちらにしてもこれで歯医者を避ける意味も無くなり、一度見せに行こうと思う。ある意味、肝心の炎症はここ一年ほど収まっていて、特に新しい電動歯ブラシを購入してからは炎症が酷くなることは無かったのだ。これでもう直ぐ気になっていた炎症とお別れすることになるのだろう。

時差の関係で板門店からの午前の中継は観れなかったが、午後は一部観れた。感動させた。分断中の南鮮も東西ドイツも知っているが、1989年のあの時よりも今日の方が遥かに感動した。理由はハッキリしていて、ドイツの統一以上に朝鮮民族の分割統治からの解放を心から期待するからである。ドイツの場合は民族として分断されても立派にやっていたが、朝鮮民族は列強に分割統治されている限り永遠に民族の悲劇から逃れられないと思うからだ。同じような憐憫は日本民族にも感じる。

朝鮮語は解しないが、戸外での会話などを中継で観ていると、金の方が積極的に話しており、その後のスピーチを見ても文が韓国人らしくなく落ち着いた知的なしゃべり口で感心した。ここまでお膳立てをした文の政治家としての実力も感じた。なるほど文大統領を信じてのこれまた勇気ある決断を金もしたのだろう。普段は他人から指示を受けるようなことのない独裁者が第三者の司会を聞く態度などに神経質なものを感じるが、若くダイナミックでオープンな指導者には違いないと感じた。その態度はどこか中小企業の三代目のような感じはするが、数字などもしっかり頭に入っていて国事が細かく話せる政治家のようだ。夫人の立ち振る舞いも同胞人のパーティーなのでとても柔らかい表情で会話をしていて、洗練されていて驚いた。

この先どのようになろうが私利私欲を捨てて、政治家として民族の解放という事を優先させた二人の政治家の功績に違いない。北朝鮮の思惑通りに南鮮の人々の心も北朝鮮の後ろにつく、合衆国の思うようにはもうならない。ここまでで金の指導者としての世界の評価は定まった。私利私欲に固執するトラムプや安倍などとは比較にならない大物である。

北朝鮮の非核化に関しては、安全保障の面から困難とされていたが、今回の南北の一体化が進むともはや北に他国が軍事行動を掛けることは考えられなくなる。南との相互関係が北の安全保証に寄与するという事になるのだろう。ゴルバチョフの政治をして政治学者はあり得ないと批評したが、民族の解放という悲願の前で捉われないナイーヴな政治をする可能性がこの若い指導者にはあるのではなかろうか。



参照:
オフラインの年末年始 2015-01-01 | 暦
二人の阿保のミックス 2014-01-06 | マスメディア批評
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主役は一体誰なのか

2018-03-24 | 歴史・時事
トラムプが建てた貿易障壁で影響が出ている。個人的には直接はないが、上海からフランクフルトに来た旅行者が買い物をするための銀行から金が出せなかったという。限度額200ユーロを超えたからということらしい。つまりシナから対抗制裁によっての爆買いはこれでなくなる。合衆国の輸入障壁などよりもシナの対抗制裁の方が遥かに世界中の多くの人に影響を与える。ドイツ連邦共和国も愚かな輸入障壁には厳しい態度で挑んでいるが、これでワシントンは四面楚歌になるだろう。もはやトラムプ政府は世界の敵であり、悪の枢軸の親方の違いない。世界のどちらが主役かはこれではっきりする。

「ペトローシュカ」の録音を聞いた。昨年ベルリンのフィルハーモニーで演奏されたもので、日本公演では更に上出来だと評判が良かったものだ。改訂版と態々あるが、一般的には西欧的な合理的な譜面の版と思うのだが調べていない。フィルハーモニカーのフルートやファゴットなどの管楽器群の名妓性を示した演奏である。何か所か意味不明の歌わせ方などもあったのだが、版の問題がソリスツの独自性に任せたものかは見当が付かない。それでも熟せば熟すほどハマる演奏だと思った。しかし同時に昔のフォンカラヤン時代のそれの様に、その特徴こそ異なるが、「普遍の完成」に近づくような演奏形態だと思った。

それと比較する意味で、イスラエルからのペトレンコ指揮の演奏実践を放送前から色々と想像していた。今回改めて譜面を眺めながら録音を流して腰が抜けそうになった。その録音や録画は何回かBGMで流していて分っていた筈なのだが譜面と合わせて真面なスピーカーで真剣に聞いて驚愕した。予想ではロシア風の節回しなどが出て来るかと思っていたが、またまた天才の遣ることは想定外だった。

そのリズムの扱いが何時もの様に安定していて、ここでもテムポは早い筈なのにしっかりと拍を刻んでいる。要するに楽器が過不足無く歌い込めるように拍が取られる ― ペトレンコ自身もオペラでの経験を感謝しているのではないかと思う。こうなるとあれほど正確に聞こえたラトルの打拍がまるで上滑りするかのように聞こえるのだが、決してその辺りのロシアの「巨匠指揮者」のようなタメるくどさや深堀が見当たらない。その反対で楽譜を忠実にイスラエルフィルでも弾きやすいような精緻な指揮となっていて、メータが振る時のようなこの交響楽団のユダヤ的しつこさが無い。

改めてヴィデオを確認したいが、やはり技術の卓越と共に楽譜読み込みの情報量の桁が違う。ラトルのストラヴィンスキーは寧ろ十八番に近いものだと思うがあまりにも西欧的に表面的な譜読み以上に踏み込んでいない ― アバドのそれとの比較が面白いだろう。アクセントや前打音なども正確に演奏されていても、引っ掛かりが無いのはまさにカラヤン節をもこの最も距離のある指揮者の音楽から思い出させる。やはり改訂版は違うのだろうか。

イスラエルフィルは健闘しているもののベルリンのそれとはそもそも比較対象にはならないので、その音響はBGMとしての印象ではとても冴えない。それがこうやってみると譜面が浮かび上がるような演奏をしていて ― 全く声部の強調とか対照とかの単純な書法ではない ―、正しくペトレンコが読み取ったそのストラヴィンスキーの響きをなぞっている。変拍子の扱いもアクセントもしっかりと音化されていて天晴なのだ。それでもベルリンとの響きの差は甚だしい。こうした演奏を観察すると、個人的には確信したことはないのだが、「20世紀の最高の作曲家はストラヴィンスキーだ」という意味も合点が行く。

このように覚醒してしまった耳で日曜日にその生演奏を批判的に聞くことになるのだが ― 本当に難儀な境遇であり、良い意味でも悪い意味でもサイモン・ラトル時代を表徴する演奏会になるのではなかろうか、複数のストリーミングや放送で生中継され再放送されデジタルコンサートにもアーカイヴされる。長年のファンとしてはしかと見極めたいと思う。



参照:
お得なバーデン・バーデン 2017-03-21 | 生活
ふれなければいけない話題 2015-06-29 | マスメディア批評
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覗き込んだ世界の裏側

2017-12-17 | 歴史・時事
朝から暗かった。天気予報通りだったが、パン屋に行けなかった。寒いからである。気温はそれほどではないが、走るかと思うと寒くて駄目だと思った。ゾクゾクするというか、芯から冷えるというか、熱があるというほどではなかったが、これは無理してはいけないと思った。早くから起きていたが、ベットに戻って、昼過ぎまで寝た。このようんなことは久しぶりだ。前々夜の徹夜仕事が堪えたのだろうか?

祝杯を挙げた。文鎮化のタブレットが完全復活した。大懸案のMACアドレスも書き加えて、WiFiでも認証可能となった。三時間ほどは掛かったかもしれないが、二種類の可能性を交代に試しているうちにゴールにたどり着いた。アドレスの件は日本語では見かけなかった。恐らく、業界人は自粛しているのだろう。つまり書き換えとなると犯罪であり、とてもグレーゾーンだからだ。要するにデジタル認証などは、広告の排除やウイルスの開発やコピー防止などと同じで猫とネズミのおっかっけこなので、要するにネットビジネスだけでなくてデジタル技術産業などは砂上の楼閣でしかないことを、自ら体験することになった。

今回の大きな成果に、今までは開発者向けの巨大ソフトをDLしないとできなかったことが、小さなMiniADBというので代わることが分かって、開発でなくPCでコマンドを出すだけならばこれで十分なことが分かったことだ。それで初期化から何から全部可能だった。これは大きい、残しおいていつでも対応が可能だ。

MACアドレス書き込みソフトでは、最後の工程で適当なファイルを選ぶところが特に難しかった。今回は二つ、三つのイメージファイルのセットあれやこれやと試したことで、つまり最初から決定版には至らなかったことで初期化まで進んでしまったが、そのお陰でMACアドレスを消去しながらも最後は適当なファイルを他のバッチから選ぶことが可能となった。差し引きゼロで、その分この裏側の構造を学んだことになる。
How to write IMEI numbers in MTK (**IN HINDI**)

IMEI and NVRAM error (SN WRITER TOOL)


これに関しては、誰もが疑問に思うのは、世界にただ一つしかない筈の機械固有のMACアドレスがなぜそれほど簡単に消せる領域に記録されているかということだが、これに関してはそれらしい説明がある。つまり固有ということは、一つ一つ記録するとなると大変なので ― 刻印を考えればそれ程大したことはないと思うが - こうした簡単な記録がなされているということらしい。要するに容易に書き換えられるということでしかない。

シナにリンク付きの電子メールを送った。するとそのリンクは見れなくなっていたということだ。そのリンク先は何でもない先日ツイッターしたタイム誌のネットで「サムフランシスコ市長死亡」の記事だった。少なくとも日本の修正主義者以外には全く政治的な問題のない記事である。そしてこうした検閲を目の辺りにすると中共を憎むしかない。やはりまだ日本の報道規制の方が少しはましである。そういえば先月には、北京から寝具を大八車に積んだような帰郷者の写真が新聞に載っていた。そのような開発の進む首都からの貧乏人の追い出しはシナでは報道禁止どころかウェイボウでも消去されているらしい。まるでアベノミクスへの批判報道の様な塩梅である。

これで漸く、日曜日の初日までにユロウスキー指揮「ジャンニスキッキ」をじっくり鑑賞できる時間が出来た。この間まともな料理をする時間が無かったので野菜の消費が少なく、古い野菜が溜まってきた。来週はクリスマス週なので、今週は野菜を買わずに消費してしまう週末となった。



参照:
脱文鎮化への試み 2017-12-14 | テクニック
祝脱文鎮化、興奮の夜 2017-12-16 | テクニック
ルート化の月謝代は如何に? 2014-09-06 | テクニック
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土人に人気の卒寿指揮者

2017-11-07 | 歴史・時事
新聞一面の最初の小段にはトラムプの日本到着が第一声が書かれている ― これをドイツ連邦共和国の各界の殆どの指導層は皆一瞥する。正確には治外法権の横田基地での第一声だ。その演説の対象は米軍と日本の自衛隊となっていて、意味が分からなかった。そもそも横田から治外法権で他の軍属や諜報員のようにフリーパスで都内に入る、それだけでも国賓として象徴的に異常なのだが ― その途上のハワイでリメンバーパールハーバーを叫んでいる ―、それ以上に、なぜ自衛隊の最高司令官がトラムプなのか理解できなかった ― そのような暴力装置の自衛隊を憲法に明記するなどはあり得ないだろう。まさしく日米の地位協約というのはそういうことを意味するのだ。日本人の一部は琉球人を土人と嘲笑するが、日本人こそが土人であるということをこのことが示している。

ヘルベルト・ブロムシュテットがトーマスキルヘェでロ短調ミサを指揮した映像を観た。NHKの共同制作で今年6月18日に撮られたものである。NHKがつまらない制作を欧州で繰り広げて貴重な聴視料を浪費していることは知っていたが、これは素晴らしい。バッハ週間の最終日なのでMDRかどこかで流れていたかと思ったが、ライプツィッヒの制作会社のもののようだ。2005年の同じような制作がYOUTUBEに上がっているが、今回は合唱団がドレスデンの室内合唱団となっている。観客も恐らく教会の共同体の人が殆どなのだろう、慣れないミサ曲となると歌詞カードを捲っている。同じ意味でミサ曲となるとドレスデンから合唱団を呼ぶ方が歌い慣れているだけ正しく歌えるのだろう。

HD水準では難しかったので高水準で再生して適当に流していたが、12年前の演奏も比べたくなった。管弦楽団は間違いなくこの間シャイ―の薫陶でよくなっている筈で、小編成ながら、間違いなく若返りしているようで、コンサートマイスターもソリスツも先日のバーデン・バーデンの公演で見覚えのある顔が並んでいる ― さわりを聞いただけで全く別物の管弦楽団になっていた。

日本では有名で人気の指揮者と管弦楽団であるが、先日も書いたように西ドイツでは人気が無い。その理由は、西ドイツでは全く活躍していなくて東ドイツでしか仕事をしていなかったことが大きいのだろう。NDRでも東西統一後に僅か二年だけハムブルクでポストを得ている。名門ゲヴァントハウスの楽団が日本ほどには西ドイツでは人気が無いのと同じで、余所者感覚が強いからだろうか。そもそも我々のフランクフルトの会にもバッハ演奏でゲヴァントハウスの登場は記憶にない。その代わりヴェルサー・メストが美しいロ短調をスイスの現代楽器楽団と演奏した。

そして絶えずキャリアー上でも一流の裾ところで仕事をしていて、若い世代では同じように日本などで活躍しているヤルヴィとか、バーデンの音楽名門家族の御曹司マイスターとかに毛が生えた程度で、コンサート指揮者と歌劇場とのキャリアーは異なるが二流のギュンター・ヴァントとか、ヤノフスキーとかよりは少し上回ったぐらいだろうか ― 父親を知らないとあるヤノフスキーのインタヴューを聞くとなるほどポーランド訛りがない。日本でお馴染みのサヴァリッシュよりも少し落ちるぐらいだろうか。

それゆえにここに来ての活躍と進展は、同じゲヴァントハウスでもシャイ―のお陰で良くなった管弦楽団を振り、ベルリンやヴィーンで指揮することから楽譜を忠実に音化する可能性が増えてきていて、嘗てからのレパートリーにも完成度が高くなっているようだ。それでもそれゆえにもう一つ知名度が高くはないのは、一流管弦楽団との繋がりが限定的で ― 実際私も日本で有名なこの指揮者について詳しく知ったのはバイエルン放送のYouTube映像でここ数年のことだ、広報力が限られるということなのだろう。マーラーの交響曲も新たに再発見して、SWRなどで来年も弑することになっている。新たなレパートリー開発である。

そこに座付きか名門管弦楽団か分からないようなゲヴァントハウスがよくなったのは精々この十年で、その名前ではシュターツカペレドレスデンとは比較にならないということらしい。兎に角、ブロムシュテットが18代指揮者だったころの管弦楽団はそのレパートリーもプログラムもサウンドも売れるようなものではなかったということだろう。 

Mass in B minor BWV 232 (Thomaskirche 2005, Blomstedt) - 1/15



参照:
ライプチヒ・バッハ音楽祭2017「ミサ曲 ロ短調」 NHKプレミアムシアター 
新鮮な発見に溢れる卒寿 2017-10-27 | 雑感
いぶし銀のブルックナー音響 2017-10-31 | 音
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