Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2020年2月

2020-02-29 | Weblog-Index


コロナウイルス狂想曲 2020-02-29 | 暦
万全の防疫態勢か? 2020-02-28 | 歴史・時事
少し感じる微熱感 2020-02-27 | 文化一般
祝祭劇場からの電話 2020-02-26 | ワイン
巨匠指揮者の動向 2020-02-25 | 文化一般
狡いことは止めよう 2020-02-24 | その他アルコール
あまりにも壊れ易い世界 2020-02-23 | 音
意味を持つ裸で無い音 2020-02-22 | 音
ケルンへ避難の準備 2020-02-21 | 生活
こんなことあるのか! 2020-02-20 | 音
最後のエルフィー訪問 2020-02-19 | 文化一般
稀有に偉大な天才指揮者 2020-02-17 | 文化一般
ブラジル遠征旅行の土産話し 2020-02-16 | 文化一般
既に感動している音楽会 2020-02-15 | 音
タブレットが戻る 2020-02-14 | 雑感
新たな宿での予定を練る 2020-02-13 | 生活
なんとも有り難い再臨 2020-02-12 | 文化一般
天下の副総理の含蓄 2020-02-11 | 文化一般
来月曜のタイムテーブル 2020-02-10 | 生活
楽聖没後100年の1927年 2020-02-09 | 文化一般
菜食男に負けない 2020-02-08 | 女
タブレット無しの日々 2020-02-07 | 生活
今後の熟成を考慮する 2020-02-06 | ワイン
やったー逆転無罪! 2020-02-05 | 生活
「サマータイム」の意味合い 2020-02-04 | 女
ハウウエーを送り返そう 2020-02-04 | 生活
以前のIPへと切り替える 2020-02-03 | テクニック
蝙蝠食べるジキル博士 2020-02-01 | 生活


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コロナウイルス狂想曲

2020-02-29 | 
コロナウイルスで一寸パニックに陥ってしまった。スイス連邦の千人以上の催し物の禁止が午前中に流れて、調べて行くと、バーゼルのみならずここ二百キロ近く離れたワイン街道周辺でも発生した。40㎞ほどのハイデルベルク、25㎞ほどのマンハイム、山を越えたところの20㎞カイザースラウテルン、そしてその山並みを南へ10㎞ほどのワイン街道ノイスタットでも列車が停まられてりして、これら事件が起きていた。

ハイデルベルクの件は北イタリアの南ティロルからスキー帰り、カイザースラウテルンは学生宿舎で17人とどこに拡がってもおかしくない。要するにワイン街道周辺でも冗談ではなくなった。

スイス連邦の処置は早くジュネーヴ最大の見本市モーターショー開催が禁止、伝統的なバーゼルのカーニヴァルも禁止と音楽会類も千人を超えると禁止された。その期間の三月十五日までに増加が無ければ結構な事であるが、被害は保障されないという。

それに比較すれば最初から発生していたバイエルン州は危険な地域での開催を避けられないとすればキャンセルを推奨して、あらゆる千人を超える催し物を申告させるようにしている。若干玉虫色であるが、対応して結局は責任を主催者に押し付ければ開催は難しくなる。既にミュンヘンの見本市はキャンセルされている。チューリッヒの歌劇場がメールをよこしたように、カントーンチューリッヒは専門家との協議で千人以下ならば不問にするということで逆にそれを奨励する事にもなる。

個人的にはバーデンバーデンの復活祭をなんとしても救いたいと思うので、バーデンヴュルテムベルクに早速の千人以上の催し物禁止を希望する。ここ二週間で成果が出れば大きな波が抑えられて復活祭ではアンダーコントロールとなる可能性を期待できるからだ。先ずは月初めの判断を待ちたい。

ハイデルベルクに関しては当地での三月九日のクラリネット奏者オッテンザムマーの吹くコンサートから始まるが難しいかもしれない。そのあとは二十日過ぎなので、早めに禁止すればフェスティヴァル開催は可能となる。ピアニストのアンスネス、レヴィットやアムランの登場は来月末である。

個人的には数週間前の高熱から今度は微熱と胸のつかえや喉の不調、更に平衡バランスの欠如など調子が完璧ではない。そこで急いで買い物も済ました。理由はハッキリしていてノイシュタットで搬送された乗客もそれらしい症状をしていて他の乗客に通報されたからだ。つまり、この時期体調が悪く冗談などを話している場合では無く、疑いが掛かれば搬送、更に問診テストで、陽性ならば大事件となる可能性が著しく高まった。スーパーマーケットで席をして足でも滑らせれば拘束となる。火曜日まではパン屋で嫌な汗を掻いていても不思議にみられただけだが、もはや誰かに通報される可能性が強くなった。まるでスタジが暗躍する東ドイツの社会のようになってきた。拘束二週間だけはどうしても避けたい。

フランクフルトのヘッセン州でもイタリアから帰国した若い人が発病した。フランクフルトの空港の説明によると、既に飛行機毎に乗客にアンケートを取ってパイロットが乗客の健康を報告する義務があることから、特別な検疫は必要が無いとしている。

スーパーは可成り混んでいた。ザウワークラウトは残っていたが、お気に入りの安い米は売り切れていた。家庭の備蓄ということで今のうちに揃えておこうという人もいたに違いない。さて月始めからどのように推移するか?因みにマスク姿を見かけたらインタヴューしようと思ったが、まだネットに写真以外で見た事もない。そもそも私自身街中でした記憶は一度ぐらいしかないのである。

四旬節という事、先ずは二週間ほど音曲禁止にして欲しい。そして復活祭に喜び合おう。今は我慢しよう。屹度復活の時が来るに違いない。私はそう言いたい。



参照:
万全の防疫態勢か? 2020-02-28 | 歴史・時事
明るく昇っていく太陽 2017-04-18 | 文化一般
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万全の防疫態勢か?

2020-02-28 | 歴史・時事
若干体調が戻った。走っていて楽だなと気が付いた。完全にコロナウィルス状態である。二週間の潜伏期間とすると何にうつったとしてもフランクフルトの二回の公演の可能性が強い。中華系の会場案内の人とは話したが短い間だった。それ以外では殆ど可能性はないのだが、何とも言えない。そしてぶり返すように今週は辛かった。

何時間もの車の走行で腰にも若干来て、なによりも気持ち悪いのが胸に来たことだ。あまり通常のインフルエンザでは胸に来ないが今回は初めから若干来ていた。午後の微熱なども嫌な傾向だった。しかし、立ち寄り先等ではまだ感染は発覚していないので、やはり似通った障害なのだろう

車中の放送で州内でも感染者が見つかったことから、その防疫態勢についての報道があった。結論からすると州は万全に対応準備が整っていて、市中の開業医などからの情報を収集するネットを駆使するという。そのことで対応策を直ちに練れるということだ。実際に2017年には千件以上の感染者が出ても制圧出来た実績があり、その経験を活かして更に対応策が出来ているとされる。

自信満々だがそれほどには信用していない。しかし私の感染したものがコロナでないという前提で、そこまで言うならという信頼感はある。その一方政府などは、感染が広がった時に閉鎖などに備えて各家庭で食料を十日ほどは備蓄しておけと流れているので、考えておかなければいけない。その他の注意は、手洗いと人と距離を置くこと。

先ずは日持ちする野菜類として、ザウワークラトが欠かせない。しかし考えることは同じだからスーパーでは売り切れているかもしれない。麺類などはまあまああるので、米も買っておこう。あとは缶詰、瓶詰め類だろうか?また、序でに無くなった「ドメスト」も補給する。

雪が降って、翌朝は凍結となるらしい。そして週末は摂氏気温14度まで上がる。この気温変化だけでも厳しい。山の中は陽が当たらないところは白くなっていた。雪が残っていたのだ。

山道を走り乍次の演奏会のプログラムを思い描いていた。ノルウェーのアンスネスのピアノリサイタルだ。思い出せずに調べるとメインは最後の「謝肉祭」であった。これは季節柄丁度いい、今勉強してみよう。その前にバルトークの「三つのブルレスク」、そして最初がドヴォルジャークの「詩的な音画」という中々興味をそそるプログラムである。なぜか知られていないのかそれほど売れていない。



参照:
少し感じる微熱感 2020-02-27 | 文化一般
ハイデルベルクの春へと 2019-12-10 | 生活


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少し感じる微熱感

2020-02-27 | 文化一般
幾らかは体調がよくなった。しかしまだ微熱感はある。明日もう一度走ればスッキリするだろうが、雪が降るらしいので結構厳しいかもしれない。街道にはアーモンドが咲き始めていたので、雪吹雪の中で写せるだろうか?

ニューヨークフィルハーモニック管弦楽団演奏会の為に宿を取っておいた。安いアパートメントが出ていたからで、一泊50ユーロでキャンセルできるのでゆっくり考えればよい。季節がら中々安い宿は探せないだけに小さな街の中ながら静かとの評判で駐車場の問題も無く、駅にも歩けるので使える。

そもそも泊りで行く価値があるかどうかがとても疑問なのだが、彼の管弦楽団はバーンスタイン指揮でしか聴いておらず玄人筋の評価は変わらず高い。弦に関しては野太いながらも押しが強く、ベルリナーフィルハーモニカーなどにも通じるところがある。管も立派で技術的には全く疑問の余地を挿むところが無いが、芸術的にはその音色を改めてじっくり聴いてみないと分からない。バーンスタイン時代は決して頂点では無かった。

今回もアムステルダムのマーラーフェストがメインで、第一交響曲と「青年の歌」のプログラムとモーツァルトの協奏曲にショスタコーヴィッチの五番を組み合わせた二種類を持ってくる。双方とも中々捨てがたい。

バーデンバーデンの室内楽ホールの予算が通って、6月30日に市が現在駐車場になっている場所を取得する調印がなされるらしい。あとは可能な建造物を立てて小ホールをそこに設置する。細かなコンセプトに関してはまだ発表とはなっていないが、そのホールを祝祭劇場が借りることになる。管弦楽団のリハーサルが出来るのかどうかは分からないが、将来的にはブーレーズ祭りにも使い易くなるだろう。

ベルリナーフィルハーモニカーもバーデンバーデンの欧州音楽都市化に協力を表明している。いい室内楽ホールが完成すれば、大歌劇まで一通り上演可能で、その他はブーレズハウスや美術館、カジノの市立劇所、現在は使っていないがハンスロスバウトザールと古典から現代までの音楽に対応可能となる。

室内楽オペラシリーズのハルトマン作曲「阿呆物語」の稽古が始まることで、演奏するベルリナーフィルハーモニカーのメムバー表が出ている。もっとアカデミー生が多いのかと思ったら殆どは正メムバーで世界的なソリストも入っている。予想以上によさそうだ。



参照:
ピエール・ブーレーズの家構想 2017-01-14 | 文化一般
ちょっと自慢な光景 2019-08-14 | 生活
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祝祭劇場からの電話

2020-02-26 | ワイン
朝が辛かった。殆どフラフラしていた。喉の調子も悪くなって、微熱気味だ。咳も出るようになってきた。しかし二週間前には濃厚接触などの機会は無かった。出来るだけ年寄りなどには近づかない様にしよう。スイスでも感染者が見つかったというので、危機は近づいている。

沢を往復するのに二月初めの発熱の時よりもつらかった。パン屋でもフラフラしていて視線が定まらないのでおかしく思われたと思う。よく分からない。もうこうなれば守るのはバーデンバーデンの復活祭が無事開かれて盛況に終わることでしか無くなって来た。近場で感染者が出るのが本当に怖い。

バーデンバーデンに祝祭劇場から電話が掛かって来ていたようだ。電話番号の内線番号からするとサーヴィス関係で支配人スタムパか社長ではないようだ。つまり、友の会やパトロンへの誘いではない筈だ。後者はそれ程金があるとは思われない筈なので大丈夫だろう。そもそも安い席を争って購入している口だからだ。

それで少し考えていたら、ああと気が付いた。私の席にカメラでも置きたいのではないだろうか。要するに「フィデリオ」最終日の席を譲って欲しいというものではないか。一列目だから、二列目も含めて数席を潰す可能性は十分にある。勿論格上の席に移してくれるのだろう。ミュンヘンでは記念公演「マイスタージンガー」の時に同じような事があった。こちらから電話しても良いがそのような事ならもう一度電話があるだろう。

また祝祭劇場のサイトにヤニック・ネゼセガンがマーラー交響曲三番をキャンセルしたことで、一ページを費やしている。それによると、今週ベルリンをキャンセルしたというのは個人的な理由ということで、週末にバーデンバーデンでロッテルダム管弦楽団を指揮して客演の直ぐ後でということで驚かれている。

つまり今週ベルリンで「練習・本番」が出来なければ、バーデンバーデンには練習時間が無いので、急いでヴィオッティ指揮で話を付けたということだ。これは事実関係としてベルリンで準備してくる、してこなければ数時間も時間が取れないという事実だ。なるほどリハーサルルームがあの劇場にはないかもしれない。話題になっている小劇場建設にはその目的もあった筈で、前日聖金曜日は「ミサソレムニス」で全く時間が無いという事だろう。

もう一つ興味深いのは、今回の演奏会がスタムパとセガンの協調作業の深化を意味していたということだが、丁度来年7月のメトの座付楽団との公演が発表の日という事での困惑と「ヤニックは再びバーデンバーデンに戻って来る、彼を信用し続けている。」と語り、「今本人以上に残念に思っている人はいない。」と結んでいる。

勿論病気ではないということで、また不慮の事態でもないとすると恋人とのいざこざなどが想像されるが、さてどうだろう。あまり男女間以上に同性間の愛情も縺れは更に面倒そうなのでそれ以上には関心が無いが、敢えて信頼などという事が発言されると痴話事としか思われない。

関心事は、ロレンツォ・ヴィオッティがこのチャンスを如何に活かせるかに尽きる。名前は親父さんの事から聞いていて、日本でも客演していたのも聞いていたが、昨年十月にフランクフルトで新制作「マノンレスコー」をアスミク・グリゴールの主演で指揮したのを聴けたので、その実力は大変評価している。但し交響曲ではどうだろうかというのは未知である。

月曜日にロンドンからの当代一のオペラ指揮者パパーノのお話しを見ていて、やはりこの指揮者は演奏会指揮者としては難しいとその話しの内容から分かった。端的に言えば、音楽の構成にその感情的な流れを中心に考えていてまさしくオペラ指揮者なのだ。なるほどMeTooガッティなどの方がその話しの内容からも演奏会向きだった。その点からすればヴィオッティはガッティぐらいは向いてはいると思うが、ジュリーニやムーティの様に成功するかどうかは分からない。フランス語、イタリア語の地域は異なるが、それらの親父もそうだがジョルダンよりはヴィオッティの方が遥かに良い。

2015年のゲリュンペルを開けた。最近2015年を比較しているが、思ったよりも遥かに良かった。特徴はサーモンド系の味に酸が効いて、色の深みにも負けない奥が深い果実が広がる味質なのだが ― 敢えて言えば複雑なフルーツミックスジュースの味である ―、ザールの同年のリースリングの様にオイリーさはない。但し年度の特徴は明らかだ。リースリング愛飲家としては影の薄い年度を好むがこれはこれでボディーもコクもあって酸も効いて経年変化が良いいい年度である。通常のワインからすればベストイヤーだろう。このワインに関しては十年後も大開きする可能性が高いと思う。雑食砂岩に、玄武岩などまさに上から降ってきたようなごみ箱のような多彩さがこの地所の特徴だ。しかし通常の年度はこれほどの深みには中々達さない。満足である。



参照:
今後の熟成を考慮する 2020-02-06 | ワイン
巨匠指揮者の動向 2020-02-25 | 文化一般
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巨匠指揮者の動向

2020-02-25 | 文化一般
頭痛がある。気温の変化もあるのか、暖房の調整が難しくなってきた。ハムブルク、フランクフルトへと出かけた後なので気にはなるが、胸の重みを感じていたのはその前なのだ。私の場合結構重篤化するインフルエンザなどでも熱が下がれば一走りしてすっきりさせるので、その塩梅がよく分からない。

四五月のお出かけプランを見ている。四月は、復活祭もあり、回数が多い。五月もある程度の数になる。そのこともあってメータ氏の日程を見ていたら相変わらずフル操業である。コロナ拡大による公演中止などはあって欲しくはないが、重病をしたメータ氏などは掛かると危ない。コンサートは接触が限られているがオペラ公演となると可成りの人と接触する。ヴィーンでも「ファルスタッフ」はハーディングに任せるとして、五月のフィレンツェでの新制作「オテロ」はキャンセルではなかろうか。あとはヴィーナーフィルハーモニカーとの欧州ツアーで、こちらに万端を期して欲しい。

先日ベルリナーフィルハーモニカーのアルテオパー公演でプログラムにバーデンバーデンの広告と先の予定としてヴィーナーフィルハーモニカーのツアーのあ知らせが出ていた。また会場ではフランクフルト―アアルゲマイネのコンサート紹介版があって、そこでも並べ称される管弦楽団として紹介されていた。何よりも一等席の周りのおばさんの「メータ指揮」の声を聞き逃さなかった。

バーデンバーデンの昨年の代打指揮ではそれ程「待ってました」の声は掛からなかったのだが、どうもその後愈々現役唯一の巨匠指揮者としての名声が固まって来たのだと思う。ヴィーナーフィルハーモニカーのドサマワリはどこも売れ行きが落ちていたが、メーター指揮で明らかに出足がよく成って来た。嘗てはそれ程の人気が無かったことからするとやはりその巨匠性がゆっくりと流布されてきたのではないかと思う。

実際私自身も前回にメータ指揮を聴いたのは十数年前のヴィーナーフィルハーモニカーを振ってのブルックナー八番でそれ以外は無視していて、昨年の「オテロ」新制作だった。しかし、放送などを聴いているとメータ氏が振るその管弦楽団によって大分出来が異なっているのに気が付いた。その意味からするとヴィーナーフィルハーモニカーには大きな期待がかかる。少なくともキャンセルがあったとしてブロムシュテット氏は忙し過ぎるので出て来ないだろう。それだけで安心だ。

兎に角、今や音楽界の至宝となっているのでいい指揮を期待するだけである。今回は盟友?ズッカーマンとのエルガーの協奏曲で、あの難しそうなヴァイオリンをどこまで弾けるのだろうかと思う。放送で聴いたユリア・フィッシャーにキリル・ペトレンコが付けた録音が音資料となるが、名手がどこまで弾いて来るのだろう。もう一曲がブロムシュテットして酷いことになった因縁のドヴォルザークの七番交響曲で結構興味深いプログラムである。それで入りそうなのが巨匠の名声というものだ。

ベルリンでは今週のマーラーの三番交響曲の指揮がネゼセガンからヴィオッティーに代わったようだが、復活祭は一発勝負でネゼセガンが振るようだ。ヴィオッティーも間違いなく大きな将来のある指揮者であるが、折角ならばもう少し気の利いたプログラムで聴いてみたい。お手並み拝見というところではなかろうか  ― 復活祭もヴィオッティーとなっている。



参照:
余りにも恵まれた境遇 2019-10-15 | 雑感
ミュンヘンからのお便り 2015-10-07 | 生活
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狡いことは止めよう

2020-02-24 | その他アルコール
日曜日朝一番で美術館に行こうと思った。特別展の終了が二週間ほどになったからだ。天気が悪いので朝早くならスキスキだと思った。しかし断念した。どうせ出かけるときに着るシャツも洗濯に出しておらず、もう一度ぐらい着れるので、日曜日でなくても謝肉祭中に時間があれば空いている平日も狙える。但しファッシングの交通規制などに引っかかると面倒である。

フランクフルトに出かけるときもHereWeGoを使ってみた。アウトバーンの本線に乗るまでは近所では頻繁に案内があって喧しいが、それ以降は聴いている音楽をあまり邪魔しなかった。やはり気を抜いているときも、若しくは他のことに意識が注がれているときも警報が鳴るとスピードを注意する。とても助かる。但し先日ハノーヴァーの北で制限速度してあった固定カメラのあったジャンクション数百メートル先でネズミ取りをしていた。これが何を意味するかというと、取り締まりはナヴィの裏をかいて飛ばす奴を捕まえるということになっている。予想した通りで何も知らなかった私などがここ暫く被害に遭っていた。これで実質上警報を付けたので、その通りに従って、その裏を書こうとしなければ夏まで無違反で過ごせて、減点が一掃されるだろう。

コロナのイタリアでの発生は若干ショックだった。そして学級閉鎖から街中を閉鎖して行くのを聞くと本当にそこで収まるのだろうかと思った。そしてスカラ座の公演休止となると不安になって来た。身近なところでは、四月の復活祭までドイツ国内に波及しなだろうか?夏になると感染力が落ちるそうなのでそこまでが勝負となるだろうか?

しかしロンバルディの地域が閉鎖されて、出入りすると同じように隔離されるというから、潜りでしか通行が出来なくなる。狭い船の中ではないから更なる感染は限られるだろうが、経済的な影響が大きい。何よりもヴェニスのカーニヴァルの中止は地元にとっては大損失に違いない。たとえ物流の多いコモ湖から更にゴッタルダ峠を越えてスイスへと伝播することは無いだろうが、地域的に過密になると数珠つなぎ的に影響が出る。この先二週間ほどの動向が気になって来た。

コロナに効くかどうかは知らないが、上面発酵のビールを貰った。フランケンの小さなブロイライで、特殊なビールを得意にしている。英国のエールなどのように小便臭くはない分酸が効いていてまるでアッペルヴァインを飲んでいる感じがした。食事には合う筈だが、食事が終わるまで結構酸味が効いた。

個人的には、上面発酵で酸が効いたヴァイツェンなどが好きなので嬉しいのだが、嫌いな人にはおいしくないかもしれない。実際飲み続けると酸味だけで苦みももう一つ効かないので口が飽きてきた。これがワインとは異なるところだろう。

NHKの放送で半世紀ぶりとはならないが大フィルのブルックナーの中継録音を聴いた。なるほど誰かが語っていたように朝比奈隆指揮の名残りがあった。つまりその技術的な水準はあまり変わっていなかった。第一ヴァイオリンだけが旋律を流して、中声部も低音部もティムパニの雷動と共に全て潰れる。今時亜流カラヤン時代や座付のジンタの様な交響楽を演奏する楽団は珍しい。指揮者の責任以上にコンサートマスターや各楽器群の頭が確り導けていないのだろう。勿論後ろの方がしっかり弾けていないのもあるがもさもさした風情は半世紀変わっていない。奏者の力量だけでなくてやはり発音の悪さとかアーティクレーションの徹底が儘ならないようだ。恐らく視覚的にも弾けていないに違いない。前夜にタリンからのN響のブルックナーを聴いたが、こちらはまた別な意味で相変わらずだった。矢張り大交響楽団は一世紀掛けても良くなるわけでもない。独逸の地方の座付管弦楽団程度の演奏が中々出来ないのである。それにしてもヤルヴィ指揮のブルックナーで欧州旅行などとはまた大胆なことをする。前回のマーラーの六番でも評価は定まってしまっているのに一体更に酷評を求めて何をしようというのだろう。よくも日本のブルックナーファンが黙っているものだ。決して指揮者だけが悪いのではない。



参照:
久しぶりにキンキンのビール 2015-07-09 | その他アルコール
甘口ビール飲料に要注意 2006-07-15 | その他アルコール
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あまりにも壊れ易い世界

2020-02-23 | 
車中の放送がハーナウでの事件のことを語っている。犯人がどのような精神障害者であったとしてもその考え方が影響された陰謀論であり、その個人的なコンタクト共にAfDそのものだということだ。つまりAfDにも責任があるとされる。政党自体が今回のような暴力事件を起こすわけではないがとなる。要するにその一味であるPEGIDAなどの扇動者であるようなクリスティアン・ティーレマンなどをベルリンのフィルハーモニーに立たせるのも間違いである。これだけはハッキリしている。

承前)前半が終ったところで、エスプレッソでも流し込もうと思った。それが丁度小ホールでのエベーヌ四重奏団の休憩と重なった。到底並んでいられない。諦めて後半に備えることになったので隣人とのお喋りになったのだ。最近は色々な宣伝も兼ねて出来るだけ第三者にも聞こえるように知らない人と話をすることにしている。最終的にはペトレンコの業績からバーデンバーデンの復活祭への誘いへと繋げる。話し相手だけでなくて、その周りにいる人に一人でも復活祭の事を印象付けて興味を持ってもらえればよいと思う。そうした細かな作業は聴衆だけにだけでなくて会場側にも色々な情報を渡すことで盛り上げる事にもしている。意外に口コミ効果というのはSNS全盛の時代だからこそ効果があるのだ。

勿論私自身長い間聴衆がどのように音楽を受け取ってどのように消化していくかということに興味を持ちづづけている。その意味で近隣のみならず聴衆全体の反応を見るためにも天井桟敷席を愛しているのである。勿論安くてそれ以上に音響などがいいにこしたことは無い。その意味からも隣人に「今回は席が大分売れていなかったけど」と語りかけての反応も興味深かった。木曜日であり、このプログラムは矢張り可成り勇気のあるものだと思ったと肯定的に語っていたことだ。なるほど当初はフランクフルトの一曲目は「悲劇的序曲」だった。確かに難しかったのかもしれない。しかしフランクフルトの料金は格安だった。それはドイツェバンクの力がある訳だが、価格だけでは中々は入らないのであり、実際私自身もたった37ユーロで結構いい席を獲得していたのだ。通常その席はフィルハーモニア管ぐらいでも50ユーロはする。だからいいお客さんは皆安くていい席に固まって完売だった。

ラフマニノフ「交響的舞曲」が、どのように響きどのように受け入れられるか。それ以前に前半は中々いい反応は感じられた。まさしく最高額席の聴衆はあまり音楽を知らない人が殆どで玄人は招待席以外にはあまりいない。そしてラフマニノフの一楽章が終って、初めてこの曲を耳にしたのだろう「いい曲ね」と女性が呟いた。それはその筈で、ペトレンコ指揮のラフマニノフはセンチメンタルとは程遠く ― だからランランの演奏をお涙頂戴と熾烈に批判していたのだ ―、センシィティーヴの極致だからである。その当該インタヴューであったようにピアノ弾きとして最も打ち込んでいた作曲家の様で、漸くフランクフルトの公演で弦楽陣もペトレンコの息で演奏できるようになっていた。テムポを保っていてもそのリズムの間は妙を極める。これ程に精巧で感じ易く壊れ物に障るような音楽をベルリナーフィルハーモニカーが演奏できたことがあっただろうか?同時に十艇のコントラバスにしなやかに支えられて、音楽が多彩な色合いを紗のように放つ。それはそれは胸がきゅんとなるようないい曲だ。今回のツアーで待たれていたのがまさしくあのフォンカラヤンも為せなかった音楽の効果だ。この演奏はどのような藤四郎もの心に入り打ったと思う。

いつものように峠攻めの林道を走り乍、「交響的舞曲」を頭の中で繰った。楽譜も思い浮かべる程に頭に入っておらず。無理やり一楽章の八分音符二桁の時計のような冒頭やトラムペットの信号的な動機から入って行った。完全に空っぽになっていたのでどこまで木曜日の感興と共に聴いた重要な箇所を再現できるか?苦労すると思っていた二楽章のヴァルスが、そのリズムを無理やり足取りから刻む事で戻って来た。するとあの弦楽器に出る三連譜の走句などが浮かんでくる。当然のことながらクラリネットなどの木管へと神経の様に渡される早いパッセージへと受け取られる。如何にこの曲がリズム構造とその動機で構成されているかという事が分かり、舞曲としての構想とその交響楽化への流れがこうして自分自身の中で再生される。すると余計に二部のそれが強調されることになり、歌が思い浮かべられる。勿論トラムペットに現れる警句などの意味が全曲の中で繋がってくる。

そしてここでの弦楽合奏はダイシンのソロを挿んで今回特に心を打つ音楽だった。「悲愴」のサロンでの笑い声でも演奏表現においても一つの至芸を聴かせていたが、ここのヴァルスもただ単に壊れやすく感じ易いだけではなくて、ペトレンコの息とその呼吸が管弦楽団に伝わりの光景は、恐らく比較できる指揮振りは小澤征爾のそれぐらいしか浮かばない。そしてテムピをしっかりといつもの電車の運転走行手順の様に保ちながらその間合いの取り方は見事で、当晩に生じた演奏実践でしか無いと思えるほどに絶妙だった。ベルリンから弾き続けて本番八回目でこそ為せる演奏芸術だった。

その音楽自体が、前日からの事件を受けた開始前の沈潜を受けていて、勿論前半の「アラゴアーナ」第三章「サウダージ」の郷愁にも繋がり、ここに来てラフマニノフのこの曲の主題と内容其の侭を受けての演奏だった。「サウダージ」における郷愁こそは近代文明への批判であり、ストラヴィンスキーにおける切り取られたその世界の断章、そしてラフマニノフの些かインティームな観照へと至る。

最終楽章における「怒りの日」への響きの数々は、まさしくピアノの前のラフマニノフに響いたその音響其の侭であって、芸術音楽こそその時の作曲家の聴世界を其の侭を追体験できるものでしか無い事を物語っている。それを通して初めて、あの最後の銅鑼を書き加えた作曲者の意識をも自らのものと出来るのだ。そしてこのフィナーレへの展開を可能な限り注意深くペトレンコの指揮振りからも観察していた。とても細やかな抑制と同時に自由さが均衡していて、初めてベルリナーフィルハーモニカーがペトレンコの楽団になったと思ったところである。そして自らの死を覚悟して書き加えたとされる銅鑼の響きが消えるまで会場は静まり返った。

述べたようにそのフィナーレの音楽運びが嵌ったからでもあるが、もう一つにはこのアルテオパーの音響が各々の楽器を取り分け強調することなく音楽として響かせる音響であり、綺麗に減衰する音響があったゆえに聴衆も耳を澄ましたものと思う。決して残響が長い方がいい訳ではない。しかし、そこに聴かれる空間がある。まさしくハムブルクのエルフィーにはない音響空間であって、ああしたところでは弦楽器も本来の音楽的には鳴らない。音空間特有の音の反照を含めた減衰も音楽の一部なのである。

キリル・ペトレンコがインタヴューで話していた演奏会で聴衆を感情的に動かすことで初めて効果が齎される。その具体性は決してイデオロギーでもない。しかし、今回国内初ツアーのプログラムでの基本軸は比較的はっきりしていた。一つには近代文明批判であり、その心は郷愁でもあった。ビヴァリーヒルズのレストランで共に亡命中のストラヴィンスキーは一度だけラフマニノフと会ったという。著作権やその他の事務的な内容の話しで、芸術的には全く理解し合っていなかった様なのだ。こうして一つの線を引き渡すことにこのプログラミングの意味もあった。ペトレンコとベルリナーフィルハーモニカーが独逸国内に種をまいて歩いたのは共感という事ではなかったか。(終わり)



参照:
こんなことあるのか! 2020-02-20 | 音
稀有に偉大な天才指揮者 2020-02-17 | 文化一般




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意味を持つ裸で無い音

2020-02-22 | 
フランクフルトからマイン河を遡ると次の大きな都市はハーナウである。そこで二桁の人が射殺された事件が水曜日の夜遅く起きた。水曜日中には気が付かなかったが、木曜日には大きなニュースとなっていた。気のふれた陰謀論者がネットで宣言してアラブ系の同じ街に住む住人を射殺して回ったようだ。被害者数も多く、母親を道連れに自殺した犯人が特定の人種を狙ったことから世界的な問題ともなった。それでも敏速にベルリナーフィルハーモニカーがフランクフルトのアルテオパーでコンサート最初に黙想の時間を取ったのは想定外だった。

ペトレンコとベルリナーフィルハーモニカーそしてアルテオパーの共同の声明として、人種的差別や余所者排除への反対を声明して、「我々のやり方でそれを表現する」で比較的長い拍手が起こり、一同が起立した。国歌斉唱ではなく今はカウンターとしての意思表明である。

最初のストラヴィンスキーの三楽章の交響曲も良かった。何が違うかというと例えば弦の主題の意味づけが遥かに進んでいて、それが管楽器などに移される。ハムブルクで聴いた耳からするとこの作曲家特有のクールな音取り乍その特徴は矢張り色合いとなる。エルフィーの音響ではこの音色がなぜ得られないか?理由は音のミックスが上手になされないということだ。音はバラバラに聴こえるだけでは音楽にはならない。そこで顕著だったのが第二ヴァイオリンが反行するところが力んで演奏しないでも綺麗に嵌っていた。木管楽器との混ざりあいは当然のことながら、弦楽陣だけでも例えばヴィオラの音色などが過不足なく出る。

アルテオパーの批判点は、隣に座った在フランクフルトの二つの管弦楽団演奏会に通う人に言わせると独特の反射が嫌なのだとある。それに関してはどこからどのように跳ね返り感があるかは席によって異なる。平土間も上左右から戻ってくるようなものがあり、天井桟敷においてもそれが若干混ざって焦点が定まらない傾向は確認していた。前回匍匐前進で今回初めて座った席である正面バルコンの最前列から数列後ろでも若干感じた暈け感は今回は無かった。敢えて言えば音が丸くなる傾向はあるのだが、例えばギターの音も良く聴こえ若干隠れ気味に座っていても位置も綺麗に特定される。今回の一列目正面はプロアルテなどの定期の金を出し続ける人の指定席なので通常は入手出来ない。その点ではベルリンのフィルハーモニーの前過ぎない席ともよく似ている。因みに隣人はシェーンベルクは良かったがチァイコフスキーは前過ぎてばらばらの印象しか得られなかった語っていた。

二楽章の木管の絡みも素晴らしく音色豊かにミックスされて、更に膨らみがある。それは金管にも言えて、如何にそれによって音楽が可能となるか。三楽章でもそれは顕著で、この晩は一楽章から二楽章へとサウンドチェックで練習させていた成果がよく表れていた。フルートの二人がラフマニノフで賞賛されていたのも当然だろう。要するに音楽の表情がそれまではまだ十分ではなかった。

二曲目のベルント・アロイス・ツィマーマン「アラゴアーナ」においては、シャープなリズムの序曲からそこで響く音楽自体がそもそもエルフィーのような無味乾燥な空間が予期されていたものではなく、寧ろバレーの為の劇場でもあのような音色がリズムとして響きが作曲家にあった筈だ。ケルンの放送局の実験音楽などでの歴史はまだ戦後の事である。実際に初演を指揮しているのがあのギュンター・ヴァントであるからその状況は自ずと知れよう。既に言及した様撥弦楽器でもハープやまたチェムバロやチェレスタなどその音色とそのミックスこそが命で一つ一つの楽器が明白に聴こえることがこの音楽の為の音響空間では絶対ないのである。明らかにエルフィーなどの音響設定はどんなにフラットな音響特性を持っていたとしても勘違いでしかない。

音のミキシングとはどういうものかと言えばサクソフォンでも下から上まで同じように明白に聴こえる事ではなくて、楽譜にあるように必要な音だけが丁度雲の合間に見える富士山の様に刻々と頭を表し、それ以外では音色として不思議な音を醸し出すべきものなのである。一曲目のストラヴィンスキーではないが、この会場ではしっかりと中音域も出てくると同時にコントラバスがハッキリと響き、特にこの曲においては音色のベースを支えている。ベースが確りしているということは上で金管が強奏していても決して突出して聴こえない。当然ながら総奏での迫力が全く異なる。それどころかこの曲のフィナーレに於けるトラムペットの響きは充実した音楽的な艶を放っていた。裸で放たれる音には音楽的な意味合いなどは全くないのである。芸術音楽を安物オーディオファンの様に誤解してはいけない。

何だかんだと、結局エルフィー批判のようなことを書き連ねているが、そのような批判めいたようなことなどはいい演奏を聴いているとどちらでもよくなってくる。寧ろその楽曲にある色合いや主題の表情から、当時における社会批判的なものを敏感に読み取り、音楽表現としていく作業が最も肝心なのである。(続く



参照:
ケルンへ避難の準備 2020-02-21 | 生活
こんなことあるのか! 2020-02-20 | 音


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ケルンへ避難の準備

2020-02-21 | 生活
六月のワインフェスト中の避難のためのティケットを購入した。一週末はケルンへ避難するが、そこで訪ねるのは先ずは初めてのフィルハーモニーである。今回のベルリナーフィルハーモニカーの演奏会もツアー三日目に組み込まれていて、出かけるのを検討していた。しかしハムブルクから帰宅して、翌日は厳しく、更に翌日がフランクフルトなので断念した。エルフィーとケルンのフィルハーモニーを天秤に掛ければエルフィーの方に興味があったからだ。そしてそれほどではないがフランクフルトのアルテオパーよりは大分高価になる。同じ価格ではまともな席は買えなかったのも断念の理由だ。

先ずは、そのフィルハーモニーで地元の放送管弦楽団が演奏するブゾーニの長大なピアノ協奏曲が演奏される。恐らく今年のコンサートの一つの大きな話題だと思う。指揮はペトレンコの代わりにコンセルトヘボーを指揮した常任指揮者のマセラウで、その為一度は券を捨てたことのある指揮者だ。しかし世界的にシカゴなどいいところで振っていて、ベルリンにも出てくる人材なのだろう。ピアノはイゴール・ヨベットで前半のベートーヴェンの幻想曲も演奏するので楽しみである。結局価格が予定よりも上がっていてその週末にも購入したようなカメラ席に近いところにした。

左右の下手の方はいつものように鍵盤を見たい聴衆が買い占めていたので反対側の比較的低い位置にした。合唱団の前方にも座りたく、ピアノに蓋を付けてもなんとかなる位置だと思う。私が購入した後に回りが売れて行った。大体事情通の選び方は同じだと思う。

要するに無暗に高価な席を所望する聴衆は藤四郎が多く、そのような席に座って回りが喧しい、臭いだ何だかんだという中途半端な聴衆が一番馬鹿なのだ。そのような文句を言うぐらいなら天井桟敷を選ぶべきなのである。そして空いている高価な席に移動すべきなのである。

ハムブルクからの帰路、ビスピンゲンのスキーホール拡大工事中の写真を撮った。行きに気が付いていたので車中から上手く撮れた。昨年は気が付かなかったので拡張工事中だから見えたのだろう。北欧の人にとってはアルパインスキーの練習をするには喜ばれるに違いない。

さて木曜日のアルテオパーでの公演はどうなるか?とても楽しみにしている。その前にざっと新聞評などを見てみたが、評者が楽譜に眼を通しているかいないかは見えてくる。今回のプログラムでしっかり取り寄せなければいけないのはツィムマーマン作「アラゴアーナ」であるが、やはり十分にお勉強できていない感が強い。まあ、私の様にショットのネットからサムプルを内職するのも時間が掛かるので大変だ。

興味深い記述は、ベルリンの何日目かは分からないが、ラフマニノフの銅鑼が鳴った後に会場がざわついたのが残念だったというものだ。まさにエルフィーでも同じことがあったのだ。アルテオパーでもそのようになるのか?「悲愴」の三楽章の後の拍手とかと同じように効果があるのか?勿論その前のコーダの音楽の進め方が影響している。

もう一つは「アラゴアーナ」の三楽章「サウダージ」の後の空間認識に関してで、これは放送ではよく分からなかったことだ。ベルリンのフィルハーモニーでもある程度の効果があったとみられる。さて、アルテオパーの音響は如何に?



参照:
伴う技術的な興味も 2019-05-09 | 雑感
こんなことあるのか! 2020-02-20 | 音


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こんなことあるのか!

2020-02-20 | 
最後のエルフィー訪問で聴いたのは以下の三曲であった。

ストラヴィンスキー作三楽章の交響曲
ベルント・アロイス・ツィムマーマン作ブラジル風狂想曲「アラゴアーナ」

ラフマニノフ作「交響的舞曲」

今回の新シェフお披露目国内ツアーの初日であり、それに先立って四回もベルリンの本拠地で本番練習をして準備を重ねていた。なによりも話題性が未だに高いハムブルクのエルフィーでの公演ということで注目された。

個人的な興味もあの容赦の無いホールでどれだけの成果を出して来るかにあった。週末にベルリンからの中継では若干音響的に丸まってしまったところも感じられたからである。その点ではストラヴィンスキーはその印象を払拭するには十二分で、一楽章の主題の再提示で、各ヴァイオリン群が律動的にずらす以外はパラレルに進んでいたところが、反行に出るところは目を見張った。今回は通常配置がこのツアーのプログラムの特徴で、第一と第二群がそこで合わせるのを見ているだけでアッと思った。流石にヴァイオリン群の表現力は世界のトップだと思う。そしてどこまでもシャープにそして切れの良い弦は、放送では中々角が落ちてしまって十分な効果が出ていなかったところだ。何でもない所なのだが、如何にもストラヴィンスキーらしい書法で、個々の響きを聴くだけでエルフィーの美点を満喫した。ここは映像の監督をしていたらペトレンコの満足げな顔と両ヴァイオリンを同時に抜きたいところだ。

二楽章の室内楽的な楽器間の緊張関係も素晴らしく、ここでは二つのフル-トが同じように対位されたりする。逆にここはフィルハーモニーでの方が音に艶が感じられたが、生であったら確かに判断できたと思う。ある意味エルフィーの表現の限界も感じられるところだった。当日無料で配布していたプログラムにはこの曲がハリウッド映画「聖処女」の為に作曲されて使われなかったとあった。初めて知ったが、プログラムやレクチャーの質はその聴衆の質を左右するのでとても大切なのだが、残念ながらここのプログラムの程度はかなり低く、マンハイム以下ではないだろうか?道理でこの楽章だけはヤナーチェックのオペラかの様に描写風の音楽となっている。この辺りからそのエルフィーの音響の特徴で、コントラバス群の響き方などがフィルハーモニーよりも足りないことにも気が付き出した。

三楽章はフィルハーモニーでの演奏よりもコンモートの力感が強調されたのも、実際には会場の音響からのサウンドの調整がそのようにしたかもしれないと感じられた。同時に折角右側に並んだヴィオラ陣も弱く、会場の特徴がこのヴィオラ群とのアンサムブルも作っていて、更にエルフィーでは若干弱く感じられた。

比較的そっけなく場面転換へと進み、愈々お待ちかねの「アラゴアーナ」が演奏される。序曲のリズム構造もとても明晰で滑ることが無く、二楽章も良かったが音の核がエルフィーでは欠け、それをしっかり包む音の内容が無い。若干腑抜けになるのだ。これはベルリンのフィルハーモニーとの差であって、決していい音響ではない。しかしこの曲の今回のハイライトはなんといっても三楽章「サウダーデ」のコーダの漂う音空間でこれは全くベルリンでは為せていなかった音楽表現だった。

四楽章「カボクロ」ではリズム的な明白さはフィルハーモニーよりもあった。如何せんエルフィーではソノリティ―に欠け、これはこうした新しい曲ではどうしても不利になる。要するに音楽の表現に向かないのである。フィナーレもトラムペットに響きにしても折角の表現をしていても色褪せる感は否めなかった。フィルハーモニーとエルフィーでは一長一短があるが、少なくとも二十世紀後半の楽曲になるとベルリンの方が優れているのは間違いなさそうである。ギターの聞こえ方も見事だったので、エルフィーの音響の精々成果には違いない。

さて休憩を挿んで一番期待されなかったラフマニノフである。これが取り分けこのホールにはあっていた。コントラバス群も、「アラゴアーナ」で減らされていたものがもどされて5プルト入って、充実した。しかし、ルツェルンの下手で弾いているような音はしない。練習の時から周りに騒音に消されるような塩梅で、如何にこの舞台の音が発散型かというのがよく分かった。しかしここでは通常配置なので右奥へとヴィオラからチェロの後ろに座する。

そして、ヴィオラも良く歌うのだが、二楽章のヴァルスでもリズム的にペトレンコの棒から自由に膨らまない。恐らくラフマニノフはこのベルリンの管弦楽にとっては最難関のレパートリーの一つだと思う。それを観ていて、これが自由に刻めるようになればミュンヘンの座付との指揮者の関係に近くなっているだろうと思った。しかし、ツアー中に更に進化すると期待させる。

なによりも機能的な和声で下支えされた響きが明澄に美しく響くのがこのエルフィーだと思った。それゆえに三楽章のコーダのアレルヤへまたフィナーレへとの音楽はあまりにも素晴らしく、銅鑼の響きと共に後ろから「こんなことがあるのか」と感嘆の声が上がり曲が終わるまで話し続けていた。まさしく最高価格席に往々に座っている聴衆の典型である。しかし、その純粋で単純な気持ちはよく分かった。



参照:
最後のエルフィー訪問 2020-02-19 | 文化一般
稀有に偉大な天才指揮者 2020-02-17 | 文化一般
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最後のエルフィー訪問

2020-02-19 | 文化一般
草臥れた。前回もそうだったと思う。往路よりも帰路が疲れる。心理的なものではない。片道600㎞ほどの運転で、上りと下りで差があるのだ。ハムブルクへ北海へと下るのは楽だ、その分帰りは南へ上る。その差が運転の疲れとなる。往路は殆ど渋滞は無く、復路はハノーヴァーの北側で閉鎖となりアウトバーンを降りて迂回となった。燃費も更に悪くなった。

幸い往路に波止場の近くで満タンに出来た。道を間違えながらも比較的すんなりと行けたのはタブレットのHereWeGoのお蔭だった。オフラインでもスピード違反しそうになると直ぐにアラームを出してくれた。結局車のナヴィとそれほど変わらなかったが、新しい道に対応しているのでハーフェンシティーへの近道も分かった。しかし夜そこを走るのは怖かった。神戸の波止場でも同じだが、土地勘が無い者が波止場を走ると直ぐに落下事故を起こす。なぜならば波止場は荷の積み下ろしの為になんら段差も無く波止場から港に落ちるようになっているからだ。ナヴィを頼りにどこにでも迷い込むと転落水難死も直ぐそこである。なにもやくざが車に閉じ込めて押し落とす必要もない。要するに渡り橋から直接下りて行くと、桟橋に出てしまうのである。そもそもそれでなくてもそのハーフェンシティーに入る交差点も分かり難い。嘗ては用の無い人が行くところではなかったのだろう。

兎に角タブレットのお蔭で、往復とも写真撮影をされなかったと思う。ついつい州道などに下りて村から村へと抜けると不案内で違反をしがちになるが、警報が鳴りブレーキを踏むだけでなくて注意するようになる。今後はお出かけの時は放せなくなると思う。無料というのが嬉しい。

ホテルへもアウトバーンの降り口からのアクセスも良くて、更にそのまま北上して次の入り口から入れた。帰路は其の侭南から入って乗れた。昨年泊まったところは横にずれていたので距離が近い割りには結構面倒なところにあった。今回もそのリューネブルガーハイデの東端にあたるところである。写真にあったように屋根に緑ははやしていなかったがご近所さんはそのような家並みだった。実際隣の爺さんも巻き割に精を出していた。

娘さんがやっているらしいのだが、お母さんが全て対応した。翌朝庭の掃除にお父さんも出てきていて、「エルブフィルハーモニ―に行ったらしいね」から始まって、そして「昨日はベルリナーフィルハーモニカーだったようだね」まで、全く農家の親仁のような爺さんが知っていた。地元のTV等で話題になっていたのだろう。それには少し驚いた。そして「ホールはどうだ」と意見を求められたので、視覚の聴覚への影響やワインヤード型とシューボックス型の話までし始めてしまった。それどころか、「ワインヤードはトレンドだったけど過去のものになってね」とまで玄人の話しになった。

流石に田舎の爺さんに話しても仕方の無い事なのだが、二回目の訪問で最終判断が出来たということで「それなら価値があったのだね」と言われた。その通りで、もう二度と行く必要もなくなった。詳しい感想は改めてとしても、「今頃あんなホールを建てて喜んでいると歴史的にハムブルクは笑いものになるだろう」というのが私見である。

そのエルフィーの公演内容を見ていても程度は高くない。月曜日も地元の放送管弦楽団の指揮者の日系のアラン・ギルバートも来ていたが、その程度である。国立劇場の方も日系のケントナガノである。最初にハムブルクに降り立った時も何か大阪のようなもっちゃりとした感じを持ったが、何か似ているところがある。やはり商売人が多いということなのだろう。しかし大阪の方は嘗ては大きなパトロン陣が朝日新聞を含めていた訳だが、ハムブルクはシュピーゲル社ではどうしようもない。

聴衆に質はフランクフルトも決して良くはないのだが、双方のオペラ劇場の聴衆を比較してもフランクフルトの方が少し上である。そのように比較していくと、オペラは兎も角コンサートに関してはバーデンバーデンは専門家を含めてとても質が高いことがよく分かる。

そう言えば、エルフィーでのフィルハーモニカー国内ツアー初日のプログラムにはしっかりとバーデンバーデンの「フィデリオ」予約のご案内が出ていた。ハムブルクから皆さんに、今回は熱心そうなお客さんを見かけなかったので直接勧誘することは無かったが、来て頂きましょう。



参照:
エルブフィルハーモニ訪問 2019-01-11 | 文化一般
リューネブルガーハイデへ 2019-01-15 | アウトドーア・環境

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稀有に偉大な天才指揮者

2020-02-17 | 文化一般
土曜日のベルリンからの中継を聴いた。ペトレンコ体制になってからその前の「悲愴」は別として、今回の初ツアープログラムが最も素晴らしい。インタヴューでも話しているように今回は音楽祭を除いては初めてのツアーで、ベルリンで特別に四回も同じプログラムで準備をしている。放送されたのは四晩目で、ある程度出来上っていたかに思えた。

後半のラフマニノフは、まだまだツアー中に良くなると思うが、前半は特に二曲目の「アラゴアーナ」は圧巻だったと思う。放送録音をもう一度流すと、一曲目の三楽章の交響曲と共に若干ベルリンのフィルハーモニーの鳴りに不満はある。生で聴くと違うことは当然としてもその残響感と共に音の粒立ちは最新の名ホールと比べると若干色落ちする感は否めない。

デジタルコンサートホールの前半が終ったところでいつものようにインタヴューが流れた。これがなかなか面白かった。聞き手とキリル・ペトレンコの相性や相互理解の仕方がその面白さにも反映する。楽曲とプログラミングの説明以上にツアーに向かう心掛けとかその意味合いを語らせる前にインタヴュワーがロマンロランの言葉で切り込んだ。苦境にあったロランがボンで開催されたベートーヴェンフェストにて芯から揺すられて蘇生できたというのだ。「そんなことが今ありますかね、そんな人が居たら会ってみたい」と質問されて、キリル・ペトレンコは次のように答えた。

「まさしく私たちの仕事の意味はそこにあります。私たちの音楽が音楽会が、感情的に揺さぶり、そしてどこか肯定的なものを与えて、人々の心を蘇生する。」、

「(想い浮かべて眼を光らせて)個人的にも肯定的なフィードバックを得ていて、聴衆の中に座っている人がそうした力を貰っていると」、

「彼らの人生において、とても辛く様々に苦しんでいて、自分の居場所すら見つからなくて困っている人々が、その境遇に流されて留まる事すらただならない人々が、そこにクラシック、特にべート―ヴェンが救いを与えるというのです。」、

「だからそのために(演奏会で音楽を)私たちは可能な限り集中してやらなければいけないのですよ。」。

こんな立派な音楽家や芸術家の話しを聞いたことが無い。この指揮者が喝采する聴衆へ向ける視線はまた異なる。そしてそのような思いで聴衆から喝采を受けているのである。天井桟敷を見上げたりする表情には愛があることは嘗て日本公演の際の写真を見て呟いたことがあったが、なにもそれは嘗ての若い彼自身に重ねられて向けられた視線だけではなかったのだ。音楽的な天与に恵まれた天才がこれほどの人間性を有していることに驚愕するしかない。

そしてツアーに出て、更に自分たちの出来る全てをそこで示すことで天職がなされると、今回のお披露目国内初ツアーに向けての抱負を語っている。実際最後の抱負だけならば楽団員も「上手に言うわ」で終わるかもしれないだろうが、ペトレンコの自らの職業的な使命感を聞かされると到底いい加減な気持ちではいられなくなる。要するに楽団員も我々聴衆も彼のその貴い精神に魅了される。

ハムブルクへの出発に向けてエンジンオイルの点検をして最低ラインから少し減っている分を足した。少々上だろうが、1200㎞ほど走って帰ってくると最低ライン以下に減っているだろう。まあ、快適に動いて欲しい。少々エンジンと燃えて貰っても仕方がない。天候も氷点下には絶対なりそうにないので洗浄液が凍ることも無いだろう。気になるバッテリーも通常ならば大丈夫だろう。あとはそれ以外の故障が起こらない様にゆっくり巡航運転するしかない。

土曜日の録音もタブレットに入れた。楽譜も入っている。往路の宿までで、最低四回近く聴ける。予定通りに宿に着けば楽譜を確認する時間もある。前半の特に「アラゴアーナ」がどこまで頭に入るか?今回聴いてみて、勿論ボレロのパロディだけでなくて、スペインラプソディーのラヴェルのそれに気が付いた。二楽章に於いてのリズムなどあまりにも立派な演奏なので今まで気が付かなかったことが見えて来た。序曲は単独コンサートピースと組曲との二種類があることも分かった。生演奏で、それもエルフィーの分析的な音響は興奮させるに十二分だと思う。またどちらかというと滲みがちなアルテオパーでのコンサートマイスターのダイシンが率いるラフマニノフはそれをしても聴く価値があることを十二分に確認した。ケルンの音響は分からないが、予想通り通常楽器配置での今回のプログラムには結構いいのかもしれない。ペトレンコはそこまでも考えている指揮者でもある。

体調は気温の差などもあり長い運転を愉しむほどに優れないが、何とか万全といきたい。あとはピクニックの用意だけだ。月曜日の朝はコーヒーとお茶を煎れる以外にはほとんど出来ない。



参照:
ブラジル遠征旅行の土産話し 2020-02-16 | 文化一般
既に感動している音楽会 2020-02-15 | 音


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ブラジル遠征旅行の土産話し

2020-02-16 | 文化一般
また爪が伸びた。前回書いたのが一週間前であるから毎週これだけ伸びることになる。新陳代謝が旺盛だ。ホルモン異常か、抜歯の影響か?以前はそれほど意識していなかったので、三週間に一度ぐらいではなかったか?特に深爪していた訳でもない。

ハムブルク行の用意でHereWeGoを試してみた。車のナヴィがあまり役に立たなくなったからタブレットで使えたらと思ってだ。オフラインでも2GBの独国内版をDLしておけば使える。英語がデフォルトなので英語で指示してくれるようだ。音楽を聞いているときは音は消すが、必要な時に使えればよい。但し声でのコマンドは使えないのかもしれない。無料ではこれ以上求められない。宿まで問題なく率いてくれるだろう。

峠を攻めたが全く音楽的にはならなかった。お勉強する時間が無かったからだ。だから夕飯のことなどを考えていた。どうでもよろしい、それでベルリンからの中継前に作曲家の娘さんベティーナ・ツィンマーマンが手紙等を纏めた書籍「con tutta forza」で「アラゴアーナ」に関する記述部分に急いで目を通した。先に言及した部分も娘さんのコメントとSWRのペータース氏と取り違えていたが、やはりこの序曲に話しが広がる。

先ず序曲とする前にはブラジルの麻薬である「マリウアーナ」と名付けたが誤解が生じると思って変えたという。同時にこの曲も後のジャズを入れたトラムペット協奏曲と同じく娯楽要素として考えていたようだ。

そして複リズムの考えは兵役時代に知り合ったとされるダリウス・ミヨーとの関係で、そのものブラジルものが参考になっているようだ。そして組曲以前に1951年11月にボン大学の公道でブラジル風序曲として初演されている。

直接の切っ掛けは兄弟のヨゼフ・ツィムマーマン博士のブラジルへの遠征旅行の土産話のようで、バレー前全曲も各々の配役のキャラクターに言及している。面白いのは先に触れたまともに指揮していない指揮者でギュンター・ヴァントが名指しで批判されている。有名なのはミヒャエル・ギーレンが「ディゾリターテン」を取り上げたところでの妨害行為であるが、辞めたベルリナーフィルハーモニカーもどうもヴァントの指揮を「壊してやった」というように全く信望が無いのがよく分かる。

最近聞いたニュースで、強制送還しなければいけない不法移民が暴れた場合に銃殺しても良いガイドラインが出たことである。可成りの抵抗をして暴れるようで、通常は電気銃などの使用が許可されているが、それ以上に暴力行為があるのだろう。少し考えれば麻酔などの本人の意思が不明確になるような方法は使えないのだろう。欧州は死刑は廃止されているが現場での銃殺は公共の治安を守るためにしばしばある。そのようなところで地下鉄の改札を強引に乗り越えるフランス人は豪傑だ。



参照:
全力を以ってあたる 2018-04-07 | 文化一般
既に感動している音楽会 2020-02-15 | 音



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既に感動している音楽会

2020-02-15 | 
アロイス・ツムマーマン作「アラゴアーナ」のお勉強を始めた。曲を見て最初の序曲が味噌だと思った。手元にあるツィマーマンの娘さんが資料を整理した書籍でも特別沢山扱われている。理由はハッキリしていて、作曲家が指揮者で先ごろ亡くなったツェンダ―に出した手紙にも明確に述べられていて、「その後のツィマーマンがそこに居ます」と書いているように、戦時中までの多くの自己放棄した作品とは一線を隔しているからだ。

その手紙の中で、今までこの曲を演奏した指揮者はメローディとして捉えていてそのブラジル風の味などで全く肝心な直線的な線が、リズムの音楽としてまたその音色として表現されていなかったとしている。そしてリズムの中のリズムはまさしくこの序曲の動機構造の事だろう。

なぜそれが肝心かと気が付くかは、まさしく音源資料となる演奏などで取り分け苦労しているのを見ても理解できる。要するに上記書籍の監修者SWRのペータース氏が書いているように、フィナーレは始めで決まっているのではなかろうか。確かに下降音形からペトリューシュカのバスライン、更にマーラーの十番様の管の叫びをという内容がどのように活きるか?

ブギヴギ、マーチ、ルムバ、カバクロとそれ風の音楽が間に流れる訳なのだが、飽く迄も音色としている。それが直線的にと、バッハやモーツァルトのカンデンツァと同じで局面が拓けていくのだとしている。そう言えばバルトーク風の経過もある。

木曜日の本番のヴィデオが出ている。ラフマニノフだがコンツェルトマイスターにダンシンが入っていてこれは密なとんでもない演奏が繰り広げられると思った。ツィムマーマンは間に挟まれるぐらいなのだが、これまた作曲者が言うように絵画的な音色となると、先のストラヴィンスキーとそしてラフマニノフとバラエティーに富んでいるように見えてとても目が詰んでいる。

そして予想通り通常楽器配置の演奏だ。ペトレンコが一月に通常配置を取って、何かやるなと思っていたらここに繋がっていた ― 勿論年末のジャズはここでも活きる。今回の国内ツアーは顔見世なのであるが、この通常配置がものをいうエルフィーでの演奏会がセンセーショナルなものになると予測している。この「アラゴアーナ」の序曲でもあのリズム構造を振り切れるのは彼しかいないと思わせるぐらいだ。ダルムシュタットで交響曲を指揮したステファンス程度でもうだつが上がらないのはまさしくそれが振れないからで、ベルリンでユース楽団の方が上手く行っている部分があって指揮者は中々難しい。もう既に出かける前から、それどころか土曜日の生中継を観聴きする前から興奮している。

朝峠攻める前にもう少しどの曲かをもう少しお勉強しておきたい。ジョギングには散歩と違って他の思索は難しいのだが、音楽を辿るのはテムポを取れるので意外と悪くないのである。走り乍ある程度アウトラインを追えるようになれば我々の程度では結構曲が頭に入ってきているということになる。

先日のエルフィーからのコンセルトヘボー演奏会生中継を観ていて、指揮者だけではなくてお客さんの衣裳に気が付いた。韓国人のチョンは有名なヴァイオリニストのお姉さんがいて、自身もメシアンの曲などを初演しているが初めて指揮振りを観た。それはもうどうでもよいのだがその衣裳がなにか安物の背広のようなもので、それも旅行中にボストンバックにでも入れたかの様によれよれだった。なるほど仕事着でだらしないに近い指揮者も少なくないが、これはまた年金生活で金がなさそうに見えて良くなかった。映像は若い新入りのルーリーだけを映していて、なるほど音も立っていていいのだが、そこまでしつこく抜く必要はないと思った。指揮者の姿の毒消しのようなものだったのだろう。あれだけで視聴率を保ったに違いない。

そしてお客さんも普段着のような人が前の方に沢山座っていた。月曜日も高額席でみすぼらしい格好も嫌だが、やはり普段着で行こうと思った。其の侭翌々日にフランクフルトのアルテオパーならいい席へ潜り込むと逆に目立ちそうだ。少しコーディネートを考えてみようかと思う。

そう言えば宿の50ユーロが引き落とされたと通知があった。勿論まだキャンセルして返金もされるのだが、もうそれでいいと思った。現金が要らなければ何ら不都合なことは無い。もう一軒のホテルを直ちにキャンセルしてあげよう。



参照:
タブレットが戻る 2020-02-14 | 雑感
来月曜のタイムテーブル 2020-02-10 | 生活
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