Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2007年07月

2007-07-31 | Weblog-Index



時代錯誤の美しい国の傷 [ 雑感 ] / 2007-07-31 TB0,COM0
安全に保護される捕虜 [ 歴史・時事 ] / 2007-07-30 TB0,COM0
あとの政策への期待薄感 [ マスメディア批評 ] / 2007-07-29 TB0,COM2
次から次へ皹の入る芸術 [ マスメディア批評 ] / 2007-07-28 TB0,COM0
襲い掛かる教養の欠落 [ 雑感 ] / 2007-07-27 TB0,COM0
アトリエのビッグシスター [ 女 ] / 2007-07-26 TB0,COM4
飼料は遺伝子操作済み [ アウトドーア・環境 ] / 2007-07-25 TB0,COM0
茸にかかる放射能汚染 [ アウトドーア・環境 ] / 2007-07-24 TB0,COM5
業界人の視点に一言 [ マスメディア批評 ] / 2007-07-23 TB0,COM0
正当化の必要がある金満 [ マスメディア批評 ] / 2007-07-22 TB0,COM0
極めるとは鈍感になること [ 試飲百景 ] / 2007-07-21 TB0,COM0
とり越し苦労の皮算用 [ ワイン ] / 2007-07-20 TB0,COM0
お国替えの教会税徴収 [ 歴史・時事 ] / 2007-07-19 TB0,COM0
趣味でミクロを宣う文化人 [ 文化一般 ] / 2007-07-18 TB0,COM6
セレンはオリーヴの何よ [ 料理 ] / 2007-07-17 TB0,COM3
ドイツ語単語の履修義務 [ 女 ] / 2007-07-16 TB0,COM4
馬鹿らしく下らないもの[ 生活 ] / 2007-07-15 TB0,COM0
190CM、足47、右頬に傷 [ マスメディア批評 ] / 2007-07-14 TB0,COM2
MAY I HAVE A KNIFE? [ 料理 ] / 2007-07-13 TB0,COM0
いらいらさせる可愛い奴 [ 料理 ] / 2007-07-12 TB0,COM3
研ぎ澄まされた宝石の歌 [ 雑感 ] / 2007-07-11 TB0,COM2
期待十分な独赤ワイン [ ワイン ] / 2007-07-10 TB0,COM6
詩的な問いかけにみる [ 文化一般 ] / 2007-07-09 TB1,COM2
栄枯盛衰に耳を傾ける [ 雑感 ] / 2007-07-08 TB0,COM2
一足先に、夏の黄色い茸 [ 暦 ] / 2007-07-07 TB0,COM7
文化に見合った法秩序 [ 文化一般 ] / 2007-07-06 TB0,COM0
理性を埋める過去の美化 [ 文学・思想 ] / 2007-07-05 TB1,COM0
指定されたラインの名物 [ ワイン ] / 2007-07-04 TB0,COM2
ラトルの投げやりな響き [ 文化一般 ] / 2007-07-03 TB0,COM2
虹の立ち上るところ [ 暦 ] / 2007-07-02 TB1,COM9
おかしな香味の行方 [ ワイン ] / 2007-07-01 TB0,COM0
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時代錯誤の美しい国の傷

2007-07-31 | 雑感
朝刊の第一面二段に安倍の惨敗が載っているが、その横にポーランドの双子が祖国を傷つけたとして社説に嘲笑されている。70歳以上の年配者にしか支持されていないのはどちらのことか?

ポーランドは、その国の成り立ちや現在においても何一つ日本とは共通点が無い。しかし西欧化のレヴェルと言う点では、政治経済文化の多くの分野で共通点を見つけることが出来る、同程度の東欧の国である。

全体主義の共産圏での反政府活動の経験が、この双子の原理原則の無さを責めることが出来なくしているとして、それは東欧圏の反政府活動の共通項であるとする。

「良心無き強権な独裁者の機構に立ち向かって来た者は、その立場になんら疑いも無く、自らの正当性を主張することが許される」と、彼らに共通な個性を定義している。

こうしたことから、この双子の秘密警察の設置や内政や外交に引き起こすどたばた劇が解説される。それでは、こうした個性を、開票後に逝去した元「べ平連」の小田実などに見ると言えば嘘になるだろう。なぜならば、あの不遜でふてぶてしい態度が幾らか似ているとは言っても、身の危険を呈して来た本当の活動家のようには見えないからである。年代も親子ほどに異なるが、少し前に逝去した筋金入りの共産主義者、宮本顕治とはその点でも違うように見えるがどうだろう。小田実は、むしろ現都知事と並べて置くと、その文章と共に、似つかわしい水準のような気がする。

むしろ、上で批判される双子の「時代錯誤」を、本日の紙面構成のように、安倍内閣に見る方が正しいかもしれない。新聞の経済面では、その経済政策を「改革」と唱えながら株式買収防衛策としての持ち株制度を復活させた批判などに、安倍内閣の強い「反動」が示唆されている。

そして何よりも、その巨大な議席数の力で、気が振れたとしか言いようの無い立法化した法案の数々こそが、時代錯誤を示して余りある。

しかし、そうした政権与党に対して、野党の政策も消費税などに拘っているとなると、選挙民へのご機嫌取りではないかとも見える。経済成長による自然増収が財源確保への前提であるのは何処の先進国も同じであり、その方法こそが問われている。

消費税は、欧米の例を見ればわかるように一方的にその課税率が上がるのみで、行き付く所まで上がるのであろう。しかし、それによって、社会保障や社会資本が充実して、蓄えることなく必要で堅実な消費を充分行っていく事が可能な都合の良い循環が起こるならば、それはさらに簡素化された税制の中で正しい直間税率バランスへの有意義な税収手段対策として納得出来るのである。

無駄の無い消費は自然環境への基礎理念でもあり、より良い生活環境への第一歩でもある。生活環境を整えるための社会資本への投資は、社会保障と同様に重要で、堅実な個人消費の大前提であると思うがどうだろう。そこからが、政治であり、経済の舵取りをしていかないといけない所なのである。

少なくともポーランドの片田舎の出稼ぎ労働者の自宅の生活の方が、東京の億ション暮らしよりも、豪華とは言えなくとも豊かであるように見えるのを不思議に思わなければいけない。ライフスタイルによらず、人の豊かな暮らしなどは、些細な喜びとその環境に左右される。パリの裏町で人は幸せと感じる時があるからこそ、グローバリズムによる生活環境の破壊に反対するのである。それは決してルノーの最高級車ベルサティに乗車してシャンゼリゼを滑走する時ではない。

泡立つ相場に憂いながら金の浴槽でシャンペンを飲むよりも、さっぱりと冷えたビールの泡を口角に涼み飲む方が美味いに決まっているのである。あくせく働くよりも、心配事無く休暇を過ごせる方が幸福である。豪華絢爛な庭園よりも小さくても瀟洒な庭を、そうした感覚が研ぎ澄まされる環境こそが「美しい国」ではなかったのか?

ポーランドの双子が他の芝居に忙しくて経済舞台に手を付けていないのは幸いだったとの揶揄は、安倍劇場にも向けられているようである。



参照:
"Schwere Niederlage für Abe", FAZ vom 30.7.07
"Polnischer Anachronismus" von Reinhard Veser, FAZ vom 30.7.07
保護観察下にある休耕地 [ マスメディア批評 ] / 2007-08-01
安全に保護される捕虜 [ 歴史・時事 ] / 2007-07-30
あとの政策への期待薄感 [ マスメディア批評 ] / 2007-07-29
襲い掛かる教養の欠落 [ 雑感 ] / 2007-07-27
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安全に保護される人質

2007-07-30 | 歴史・時事
ポーランドには、まだドイツ軍捕虜がいると言う。ナチの高官ではないが、戦争末期の空爆増えるベルリンのプロイセンの美術館からクラカウへと疎開した美術骨董品である。

ロシアとポーランドは、既に返却などの終わったウクライナや中央アジアの国々とは異なり、この点で強硬な姿勢を示し続けている。国際法上は1907年のハーグ条約での戦利品や略奪の禁止に反するとの原則で、東西の壁が開かれた後の1990年代から粘り強く交渉が続けられている。

特にポーランドの立場は、ドイツ軍がポーランドの文化財を故意に破壊したことを返却拒否の理由としていることから、返却要求されている文化財は人質となっている。

いかにも被害者国ポーランドらしい主張であるが、そのナチに破壊された文化財の内容に触れるとこれまた面倒な話題となることを知っていてのいつもの交渉手段ではないかと想像できるのである。

ベルリンのポーランド全権大使は、「交渉は極秘裏に」となどと言うのを聞くと、イラク派兵やミサイル防衛レーダーの設置なども米国と極秘裏にやったのかなどとどうしても思ってしまう。

またドイツ側は、交渉最初にポーランドのドイツ・カトリック教団の古文献を土産に差し出したに係わらず ― ヴァルシャワはシュレーダにルターの聖書をお土産に持たせたではないかと言うだろう ―、これ以上進めると国際社会での印象を悪くするのではないかとの憂慮もあり、言葉は悪いが「最終的に、呉れてしまえ」と言う風にもなって来ているのである。

しかし、ポーランドの求めているようなEU内での一人前の立場を主張しようとすれば、こうした態度はそれがたとえ国民性とは言え将来にも尾を引くだろう。

古都クラカウには、200億ドルと計上するナチの文化財破壊に対して、バッハやモーツァルトの自筆譜などが人質となっている。

自筆譜と言えば、ヒットラーの50歳の誕生日に軍需産業のフリッククルップティッセン、フォン・ゼーラーを中心としたドイツ産業会がお祝いしたヴァーグナーの譜面が永く行方不明になっている。その時、総統が満足そうに楽譜を捲りながらあれやこれやとコメントする姿が伝えられているらしい。

そこに含まれるのは、初期のオペラ「リエンツィ」や「妖精」に「ラインの黄金」、「ヴァルキューレ」、「ジークフリート」や「オランダ人」の創作過程を追うことが出来る貴重な資料であると言う。特に「リエンツィ」は、現行版の百小節以上に渡る脱落が校訂されているので、その脱落部分を含む手書きの資料で、その校訂が正しかったか間違っていたかが確かめられると言う。「全く違うように響くかもしれない」と、ヴァーグナー協会の校訂者エゴン・フォスはシュトゥンツ氏に語っている。

冷戦時はソヴィエトに持ち去られたと思われていたのだが、未だに出て来ないことから、現在はヒットラーの青年統率者バルデュアー・フォン・シッラッハが ― その未亡人の書物によると ― 南チロルに持ち出したとされている。南チロルのその地域は地理的に連合軍にとって厳しい軍事的情勢があり、当地のナチス将校と降伏交渉が為された所である。

つまり、このヒトラー個人の財産は、こうして行方が分からなくなっている。総統の膝で遊んだヴィーラント・ヴァーグナーは、ベルリン最後の時にも譜面の引渡しを求めたが、「安全に保管されている」としてそれを手放すことを阻んだと言う。



参照:
"Goethe in Krakau" von Konrad Schuller, FAZ vom 27.7.07
在京ポーランド系ユダヤ [ 雑感 ] / 2006-10-08
解体への胸突き八丁 [ アウトドーア・環境 ] / 2007-06-28
自由民主の連邦共和制 [ 歴史・時事 ] / 2007-06-03
役立たずの旧ヨーロッパ [ 雑感 ] / 2007-03-21
強かで天真爛漫な振舞 [ 女 ] / 2007-03-19
迎撃構想の世界戦略 [ 歴史・時事 ] / 2007-03-13
甘い春節の陽気 [ 暦 ] / 2007-02-19
クーリックで祝う謝肉祭 [ 暦 ] / 2007-02-17
三年振り新調のジーンズ [ 生活 ] / 2006-12-29
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あとの政策への期待薄感

2007-07-29 | マスメディア批評
安倍政権の困窮が経済面で記事となっている。各金融機関の見解を掲載している。参議院選挙を控えての見通しである。

年金や頻発する閣僚のスキャンダルと同時にその経済政策への批判と安倍退陣後の政策の期待薄感が述べられている。

最も興味あるのが、数の論理を背景にその内閣の提出した幾多の不完全な法令以上に、国の財政再建が進んでいないことを訴える見解である。2010年までの達成目標に甚だ遠いとすれば、円のアジアでの基軸通貨としての信用にも係わり、市場での信頼性を失っていると言うのである。

現在の世界の準備通貨の三パーセントが円となっていると言うが、現状は国財政の危険域に達していると言われる。既に、対ユーロでは円安の加速は甚だしい。財政再建への見通しは厳しいとする見方がある。兎に角、金利の水準は人工的であることには違いない。

後継候補と言われる外務大臣にしても、その緩和金融策のみならず最大の貿易国対中国への強硬姿勢が危惧されている。

また本日の新聞には、小泉世代と言われる40歳以下の層が、安倍や小沢のような者を好まないとある。特に前者は、合理化改革を強引に進めた小泉の新鮮さに対して、灰色の印象が強いとして、後者も只のキャスティングボートでしかないとされている。

少なくとも表向きは中米間で戦略的な立場を外交の基調とした安倍内閣であったが、米国に擦り寄らない政府は短命との定則通りになりそうである。新聞にもあるように、年金にしても本人の知らないところの過失であり気の毒と言うが、叩けばいくらでも埃が出る政府・政権与党のことであるから、米国に 通 じ て い る マスコミや輩が手を尽せば幾らでも政権交代が可能な基礎構造が出来上がるのだろうか。

面白いと思ったのは、公明党と言う連立与党が、なぜか新公明党と表記されていることで、何時から新たになったのだろう?



参照:
Die Enttäuschung der "Generation Koisumi" von Peter Sturm, FAZ vom 28.7.07
"Japans Ministerpräsident Abe in Not" von Stephan Finsterbusch, FAZ vom 27.7.07
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次から次へ皹の入る芸術

2007-07-28 | マスメディア批評
ドイツ文化の殿堂バイロイト音楽祭の将来を占う公演の新聞評を読む。エレノーレ・ビュンニンク女史によって書かれ、本日の朝刊文化欄に掲載されたものである。

楽匠ヴァーグナーの曾孫の演出デビューは、バイロイトが再びヴァーグナー演出の主導権を採るのに十分に意図され無かったのか?

ナチスの過去を舞台に載せて、戦後の歴史を間違うことなく示したバイロイトにおいては少なくとも開拓的な初の上演ではなかったのか?

従来の惰性を打ち壊し、イコーンは剥ぎ取られ、他の人種は隔離され小道具のように火にくめられる手に汗握る起訴の場ではなかったのか?

遅すぎた昼食と言う無かれ、ナチスに利用されたヴァーグナーの音楽は、今後もこのテーマを抜きの上演などありえないからだ。既に他の次世代の末裔達、ニケ・ヴァーグナーやエファやゴットフリートヴォルフ・ジークフリートはヴァーグナー家の責任問題に対処しているが、監督の父親のお墨付きを以って、初めてカタリーナ・ヴァーグナーが、ここバイロイトの同志を攻撃することを許された。

「フィナーレにおける巨大な人間の像の中で声をあげる金の鹿を見落としたとは、また不愉快で厳しく分別のある靴職人親方ハンス・ザックスが火の中にくめた実行者であったことを、見落としたとは言わせない」

コンヴィチニーがやったような、ノイエンフェルスがやったようなことはここでは嘗てなかったどころか、ヴァーグナー邸のお茶の席で、その本題へと至ることもなかっただろうと綴る。

この喜歌劇とされたその危ない三幕において、ハンス・ザックスの取るに足らない助けによって、ニュルンベルクの師匠達はメタルのコンテナーの中に移される。それらは、明らかにブロンドの演出家と小男の指揮者を中心とするみすぼらしい服を纏った舞台芸術家やデザイナーなどの演出チームの面々なのである。

その若者たちは坂を上がる途上、何度もお辞儀をして、金を徴収されて選別処分されるのである。ここで場内に笑いが起こったと言うが、その次の瞬間、それが祝祭的な火に包まれるとき、そのどよめきは凍えたと報告する。ザックスとその一味は控えめに声も無くハイル・ヒットラーと伸び切らない手を空に掲げた。

インタヴューで既に表明していたように、合唱団の処理を以って、初めて父ヴォルフガンクの信頼を勝ち得ていたと言うこの演出は、実際に舞台から合唱を占め出した。懐古的な全音階が快適な長調の調べとなるナチス・ドイツのオペラとなったのであった。

テンポに配慮した若い楽長のヴァイクルの指揮は情感に溢れ、緊張を欠いたダイナミックスで、ややもするとバランスを崩し、殆どふらふらとしていた。ただ一箇所、三幕への前奏曲のエレジーが褒められる。

寄宿舎の教会では、腸詰や食料が描かれた祭壇に蝋燭が灯されて、美しい芸術の喜びに、12人のドイツ精神の聖人達が張りぼてとして現れる。ヘルダリン、シャドウ、デューラー、ベートーヴェン、シンケル、クライスト、シラー、ゲーテ、バッハ、ヴァーグナー、レッシング、クノベルスドルフである。ハンス・ザックスを除く、千年物の黴の生えたガウンを羽織り職人の育て親たちは、黄色いレクラムの文庫本を手にして、体現した知識を語るのである。それに対して、ザックスは裸足でタバコを煙突のように燻らして若者の息吹く嵐に共感するのだ。

フランツ・ハヴルタにはザックス役は音程が高過ぎるが二幕はそれが成功していたとして、また終幕の「ドイツの親方達への賛美」では声が尽きたのも当然の結果とする。

そして全体の不十分な稽古によるカオスは、第96回バイロイト・ヴァーグナー祝祭開催の特別な意味と価値を散々な結果に終わらしたとする。

この美しい芸術の世界に次から次へと皹が入り、世俗の形態がそのアイデンティティーや形が徐々に変わっていくように、舞台はあれやこれやのスプラスティックで張りぼての頭が命を得る。それは最終的にブリューゲルや馬鹿者においてヨハニス祭が行なわれるように、レクラムの文庫本や靴が雨のように降るのを見たに違いない。

二幕のフィナーレだけが父親を越えたかもしれない景である。そこでは老いた親方が猥褻なカンカンを踊り、リヒャルト・ヴァーグナーの鼻先の石膏を落すのである。

因みに、この批評の題名は、「ヴァーグナーの鼻を携えた道」となっている。

これを要約して読んで、改めて一言だけ付け加える。レクラムの黄色の文庫本が知識や教育を表わしていることは想像されるのであるが、それは上のドイツ精神の聖人のものであると共に、啓蒙主義を具象しているのだろう。そうすると、そこ彼処に散りばめられた意匠は何を意味するのか?

あまりにも大雑把な演出コンセプトは、付け焼刃な知識や固定観念故の結果ではないのか?そもそも基本コンセプト自体がヴァーグナー邸の庭の実りの木の枝のように、定まらず風に揺らいでいるような趣があって、言語による構造主義に対する思潮や批判すらその細部から浮かび上がっている様子は、この批評を読むと皆無なのである。

その鼻先が欠けたとするならば、バイロイトに於ける芸術が継続して存在する意味合いすら危うい。まさにこの点が芸術監督に求められる解決課題であり、優れた演出家などは幾らでもいるのである。ヴォルフガンク・ヴァーグナーが、「エファに後継者としてやらせるぐらいならば一層のこと投げ打ってしまう方が良い」と言うように、その方が良いかもしれないと思わせる批評であった。



参照:
"Weg mit der Wagner-Nase!" von Elenore Büning, FAZ vom 27.7.07
「聖なる朝の夢」の採点簿 [ 文化一般 ] / 2005-06-26
アトリエのビッグシスター [ 女 ] / 2007-07-26
襲い掛かる教養の欠落 [ 雑感 ] / 2007-07-27
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襲い掛かる教養の欠落

2007-07-27 | 雑感
侮辱や蔑みの眼差しが話題となった。見下すことで自らが浮上して、体面ならず自己のアイデンティティーを確立しようとする徒労のことを指す。特に日本語の使い方などを考える場合、この上下関係は興味深い構造を示す。それはここでも、一度敬語の話題として取り上げた。

その節は、封建的な社会通念とそれが歴史の中で人間関係のあり方になるとする謂わば社会学的な考察で終わった。しかし、新聞の日曜版に載った今年のバイロイトのヴァーグナー・フェスティヴァルに関する記事を見つけて、また新たな考察に至った。

そこでは、ドイツで最も有名な黒人タレント・ブランコが語られて、リンクにも張った祝祭劇初日の有名人には、時のバイエルン首相らとともにこのカリブ出身のポップス歌手の顔は欠かせない。つまり、「このタレントのような人種について語れないならば、もはやバイロイトを語れない」と言うのだ。

その人種とは何かと言えば、「リヒャルト・ヴァーグナーについては語らずに、バイロイトについて語る」人種なのである。そこから、ドイツの教育問題である「教養の欠落」に話が及ぶ。その人種にそれを求めようがないが、クライスト全集の完成をバイロイトのチケットを待つ十年間に対比させ、ファウストを語り、ニーチェを考え、トーマス・マンを読んでも、必ずしもバイロイト詣の必要のない事を語り、楽匠ヴァーグナーをひれ伏せさせたショーペンハウワーの言葉「やりたいと思うことが出来るのが人間だが、やりたいと思ってもしないことが出来るのも人間だ」を挙げる。

また、アドルノの「個人の知性の主権を保つため」と、戦後それほど経つことなく「個人的昇華」を頻繁に口角に泡したこの社会学者の口元からこぼれ出るパン屑をそこに見るのである。つまり、それは、取るに足らない下らないものなのだ。

まことの教養と俗物を対比させる者は現代には何処にもいない。それは、啓蒙と近代を対比させるようなものだからだ。それでは、はじめに指示したような人間関係は社会の諸相として示されるものでしかない。否、それは違うだろう。

なぜならば、教養の欠落が問題となる状況こそが、こうした社会の諸相では無く極個人的なアイデンティティーの欠落にその源を発するからである。ある必要最小限の教育しかない友人がある仲間の博士のことを評した。その博士が、またこれは違うニューヨーク生まれの黒人系の仲間のことを「黒」として侮辱したからだと言う。なるほど、そのときはその話がなぜ出てくるのかも判らず、その判断基準が人種差別に対する断固としたイデオロギーとして教育で成し遂げられたものか、それとも人道的で倫理的な歴史社会的な規約から生まれてきたのかは定かでなかった。しかし、今この動機が明白になるのだ。

ドイツにおける教養の問題とは何か?教育問題とは何かと考えると、まさに教養を身につける事はいかに難しいかを悟るのである。特に大衆教育として高等教育がなされる昨今の現象は、その教養の欠落がそのもの教育の欠落へと襲い掛かるのである。そこには、メフィストフェレスもファウスト博士もそれどころか対決も存在しない。

つまり、前述の友人は教育があるに違いない博士に教養を求めたのであり、それが欠如していると直感することで、今度は自己のIDへの自己への問いかけとなったのであろう。勿論、これは彼自身が、恐らく気がついたように、他者へと自己の像を投影させることで、隠しようのないあるべき自己を確認したに違いない。

さて当初の蔑みの眼差しや差別は、その向けられる方向へのヴェクトルとして存在するならば、永遠に相対的な関係として存在するはずである。それならばそれは社会の中でスカラーとして固定化されたものであるのだろうか?

現代のドイツにおいて、それを固定化するものは社会のシステムとして最早存在しない。だから上の筆者は言う。「バイロイトに賛成でも反対でも無い、そもそも初めからどうでも良い、元来そうしたつまらないものであったのだから」とカリブから来た好い加減な奴に遠に先越されたとの覚醒に自己表明をする。そして、黒く暗闇となるまでバイロイトは我々を待てば良いのだと吐き捨てる。

自己のIDを確認する作業は果てしなく遠い道のりである。それは自己で啓く道であるから、そこでは教育は殆ど役に立たない。教養小説と呼ばれるような文学や総合芸術も無意味である。教養は、教育を推進させて、その発想の飛躍によってこそ初めて、学術の抽象性を切り拓く。その逆は非である。

自らの影を他者に反映させて自己にフィードバックさせることなく、硬直化したヴァーチャルな社会や近代の固定観念に拘束されているのでは、教養の欠落を補うのは不可能であるとするのがこの度の結論である。

これにて、俗物主義エリート教育敬語の使用権力者の醜聞への見解の補足説明となれば幸いである。



参照:Man ist doch kein Idiot! von Eberhard Rathgeb, FAZ vom 23.7.07
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アトリエのビッグシスター

2007-07-26 | 
バイロイトのヴァーグナー音楽祭の初日の中継を聞いている。大抵は興味がない。しかし、今年は現監督の作曲家の孫ヴォルフガング・ヴァーグナーの後継者とされる下の娘カタリーナが演出デビューとのことで大々的に広報活動をしているからである。

気にかけないでもどうしても耳に入る。バイエルン放送を聞いていなかったのでその前番組は知らないが、開演間近の15時55分に始まり、予定通り進むのには驚いた。確かに、特に初日は少しでも遅れると入れなくなる。

さらに初耳だったのは、五チャンネル放送で中継していることで、そのように録音されていることをはじめて知る。管轄のバイエルン放送のラジオ音源はお馴染みである。そろそろ、制作物は不可能でも、常時廻っている固定カメラの映像ぐらいネットで流しても良いのではないだろうか。

とは言っても、全体の上演の質は、そのラジオから聞こえる雰囲気である程度は判るもので、今回もその前奏曲からどうしようもないなと思わせるのである。稽古における新聞報道等も、29歳のブロンド娘のヴァルキューレを中心にどうも仲良しムードのチームを思わせるもので、鉄のカーテンを敷いたと言う三幕の演出を待つまでも無さそうである。

子供騙しのふにゃふにゃギャグで、屋台骨がぐらぐらする史上最低水準の上演になりそうだと予想されるのである。

兄のヴィーラントの死を受けて、音楽監督となって永く君臨した弟ヴォルフガンクであるが、今回の娘のデビューが上手く行けば、音楽祭閉幕後に引退を表明してこの娘を後継者に指名するとの噂がある。腹違いの長女のエファも兄の娘ニィケも後継者レースに参加するゆえに、父親と疎遠な長女などは既に「父の死を待ってはいないけど、立候補する」と語っている。

追記1:ネットラジオで幕間に楽屋話を聞くと、ヒーローのヴァルターの新感性と旧い古典的規定を、自らの演出やデビューに措ける新旧世代の葛藤に掛けていることが伺い知れた。それなら尚更、子供っぽい散々な結果となりそうである。

追記2:どうも全ては美術学校の美学生物語となっているようだ。二幕は学校中庭のカフェテリアとアトリエ。

追記3:二幕後にカタリーナ自身の、場末の酒場での様な、濁声のインタヴューが流れる。エファとザックスの関係。「死のマイスター」、「生のマイスター」、「変異したマイスター」。肉体的に大きなマイスター。68年の団塊の世代の転向だろうか。

追記4:サルトルを読むザックス。ポストモダーン化するザックス。過激にモダーンを貫くベックメッサー。全くつまらない。

追記5:終演後、流石にブーイングは膨れ上がったが、それよりも拍手に全く精彩が無い。ブラボーも流石に殆どない。カタリーナに選ばれ招聘されたモーツァルト歌いのハンス・ザックスを責めようとは誰も思わない。

追記6:この記事のタイトルを変更。「ブロンドのヴァルキューレ」改めビックブラザーならぬ「アトリエのビッグシスター」。


LIVE: Bayern4

VIDEO: REUTERS

VIDEO: Probe - Katharinan Wagner (Bayern4)



参照:
メジャー音楽祭の黄昏 (クラシックおっかけ日記)
「聖なる朝の夢」の採点簿 [ 文化一般 ] / 2005-06-26
臨場のデジタルステレオ [ 音 ] / 2006-12-02
エルザの夢の無い決断 [ 文化一般 ] / 2006-11-20
追懐の怒りのブーレーズ [ 音 ] / 2006-11-08
福音師の鬼征伐 [ 文学・思想 ] / 2006-10-14
豊かな闇に羽ばたく想像 [ 文化一般 ] / 2006-08-20
ヴァルハラを取巻く現世 [ 文化一般 ] / 2006-08-17
経済成長神話の要塞 [ 文化一般 ] / 2005-10-13
少し振り返って見ると [ 雑感 ] / 2005-10-08
今年の花火は去年より [ 生活 ] / 2005-09-14
バイロイトの打ち水の涼しさ [ マスメディア批評 ] / 2005-07-24
小市民の鈍い感受性 [ 文化一般 ] / 2005-07-10
伝統という古着と素材の肌触り [ 文化一般 ] / 2004-12-03
コメント (4)

飼料は遺伝子操作済み

2007-07-25 | アウトドーア・環境
農業とは甚だ縁遠い素性であるが、ワイン畑の中に暮らしているとどうしても関心が湧いてくる。

先週末には、北ドイツで遺伝子操作をさせた農作物場が襲撃にあって、収穫が出来ないように荒らされた。相変わらず、遺伝子操作技術を使った農作物への反感は強い。

ベルリンでは、そうした農作物の管理を強化する方向にあり、現在までは隣の畑までの距離を150メートルとしていたのが、それでは花粉などが飛び散りバイオ農業が汚染されるとして、現行の叩き台の倍の300メートルとする意見が保守政党から出されて連立与党で受け入れられ、緑の党などもこれをバイオ農業の隣人に係わらず実施しろと一般化を求めている。この距離となると、ドイツでは殆ど経済性にあった遺伝子操作作物の収穫はあり得ないことになりそうで、農業団体はその実施への事務経費に及び腰で、自由党などと共に150メートルでなければいけないと反論している。

遺伝子操作された作物は、アレルギー源としての弊害や副作用が確認されていて、そうしたもの一般へのドイツ国民のアレルギーは高い。勿論、それらを食品として輸入流通させるにも0.9%を確認基準値と規定していることから、大量生産に走る米国産の遺伝子操作された食品は輸入禁止されている。但し、肥料用に使われる作物のトウモロコシなど穀物豆類類等はこれに当たらない。

実際に、遺伝子操作で作られた乳酸菌や酵母などは、体内に入るとアレルギーのみならず抗生物質効果などを発揮するので、必ずしもこうした一般の反応は「遺伝子操作アレルギー」とは揶揄できないことは確かである。同様に、異質な遺伝子が体内に齎される感染経路として、大気を舞う花粉や性交渉が挙げられているのが面白い。

ミュンヘンのバイオテクノロジー会社の株が、先週末から大きく売られて、四割近くの暴落を見たようだ。前立腺癌治療のための製剤が米国でその効果は認定されたもののその薬品としての認可が難航すると言うことで、十年間に渡る研究資金への投資が危うくなって来ていることからの現象と言う。

遺伝子操作による生産性や将来への期待は変わらないが、こうした研究は実質のない投資市場や産学共同の方法には馴染まないようである。

食料に関しては、見かけだけの質の良い商品などへの遺伝子操作などは不必要なのは当然としても、将来の飢餓に備えてのみ遺伝子操作技術を推し進めるべきで、量より質を重視するならばこうした技術は不必要で全く認めるべきではない。

兎に角、八月初めに立法化される時点で、遺伝子操作された作物による汚染を出来る限りくい止め、そうした作物からの作られた食物は、出来るだけ人の口に入れないような政策を固持すべきである。



参照:
市井の声を聞いて改良 [ アウトドーア・環境 ] / 2006-11-06
化け物葡萄の工業発酵 [ ワイン ] / 2005-12-23
政治的棲み分けの土壌 [ アウトドーア・環境 ] / 2005-09-22
ニューオリンズを聞いたボブ [ 歴史・時事 ] / 2005-09-06
不毛の土地の三つの星 [ テクニック ] / 2005-02-13
現代オカルトのビオ思想 [ 文学・思想 ] / 2007-05-2
シュタイナーのエコ農業 [ アウトドーア・環境 ] / 2007-05-22
市場でなく、自然に合わせろ [ ワイン ] / 2005-09-09
そして白樺が終わる頃 [ アウトドーア・環境 ] / 2006-05-07
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茸にかかる放射能汚染

2007-07-24 | アウトドーア・環境
原子力発電の火災事故の余波は大きい。ハンブルクのエネルギー会社から起したものである。CO2規制から原子力へとの反動がある中で、今回数え切れないほどの事故隠しが発覚したからである。

社長の退陣で済む訳ではない。なによりも、減価償却の済んだ古い核反応炉を使うことによって、利潤を出す経営構造は通じないことを示して、原子力発電は経済的に不釣合いな投資を必要とする利潤の上がらない危険なエネルギー産業でしかない事が判明したからである。

今回の事故も、耐震構造の施されたトランスから火の手が上がるというような事故で、修理箇所の処置を怠っていたことが指摘されていて、こうしたメインテナンス不足や事故隠しは日常化していると言うことだ。

先ほどの新潟での地震による事故もある意味で極似しているようで、いかに原子力発電の運用が困難化を明らかにした。

原子力発電の安全性は、経済性を無視した狂信的な経済感覚を持たなければ維持出来ないようである。古い核反応施設の即時使用中止が議論されている。

初物のもっとも高価な茸シュタインピルツを見つけた。セルビア産らしいそれは半分に切られているので、生しいたけより少し高価なだけである。小さくそれほど味はなかったが、1986年のチェルノブイリ事故の時ならば、こうした茸などは食するのを禁止されていたことをどうしても思い出してしまうのである。
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業界人の視点に一言

2007-07-23 | マスメディア批評
カリスマか、独裁者か、もしくはピエロかと言われるのが交響楽団の指揮者であろう。

スピノラ女史の記事は、大きな写真が八枚、当代きっての指揮者たちの姿に添えて、一言コメントされている。


先ずは、英国出身のベルリンの音楽監督。

― レクレーション係:サー・サイモン・ラトルは、人を引きづり込む楽天主義と教育的陶酔で、火花を発するご機嫌で楽師達を熱狂させる。 

その右には、昔は怒りのと呼ばれたフランスの作曲家出身の指揮者

― 思索親方:ピエール・ブレーズは、美味く出来た古く記号化されたシステムに通じる。いまだ荒れる大きな嵐にもストイックな静けさを護る。

左の二列目には、当代切っての強引な運転のロシア人。

― 理想家:マリス・ヤンソンスは、ひたすら全てを使い切る。音楽劇は、全て彼の顔に読み取れる。

二列目の右は、嘗てのベルリンの監督でマカロニ交響楽指揮者。

― 形而上家:クラウディオ・アバードのベルリンの交響楽団への共生的近親は、しばしば音楽独自のダイナミックからそのあまりにもの深淵までを放置した。

三列目の左は、古楽出身の元チェリスト。

― 野生人:ニコラウス・ハーノンクールは、管弦楽に生の暴力の脅しをもってかのように、正しい表現を強制したいようだ。

その右は、米国出身の欧州人。

― 禁欲家:ケント・ナガノの完成した形のエレガントでほっそりした動きは、楽師のみならず女性の聴衆をひきつける。

最下段の左には、愚鈍なドイツ人指揮者。

― 征服者:フルトヴェングラーの伝統の形式に誓うことで、クリスティアン・ティーレマンは管弦楽団の統制を握るかに見える。

大とりには、南米生まれのピアニスト出身のイスラエル人指揮者。

― エネルギー論者:ダニエル・バレンボイムは、帰来の人生讃者のように、音楽に生きる。楽団の前では自然な表現でありとあらゆる形態を動員する。


ここでは、馴染みの薄くなりがちな、小澤征爾やズビン・メータ、ロリン・マゼールやクリストフ・ドナーニなどが欠けるが、業界人の視点をそのコメントに読み取り、勝手に一言加えて紹介すると面白い。



参照:
趣味や自尊心を穿つ [ 生活 ] / 2006-02-26
豊かな闇に羽ばたく想像 [ 文化一般 ] / 2006-08-20
偉大な統治者と大衆 [ 文化一般 ] / 2005-10-14
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正当化の必要がある金満

2007-07-22 | マスメディア批評
パウル・ザッハーと聞いて、何処かで聞いたことがあると思う人は、二十世紀前半の音楽に馴染んでいる人であろう。

バーゼルやチューリッヒで室内楽団を創立して、自ら指揮を取っていた。何よりもその名前は、二十世紀における音楽の大パトロンとして名を残す。氏によって委嘱を受け献呈された曲は200曲以上に及ぶが、その中には大作曲家の有名曲も並ぶ。

もっとも有名曲は、リヒャルト・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」であろうか?この曲は弦楽曲に関わらず大交響楽団の大指揮者が取り上げていることで知られている。さらに、重要な曲として、バルトークの「弦楽器・打楽器とチェレスタのための音楽」が挙がるだろう。にストラヴィンスキーの「弦楽のための協奏曲 ニ長調」やマルティヌーや交響曲4番のオネゲルなどの作曲家の名前が連なる。

このパウル・ザッハーの人生最高の勝利は、バーゼルのロッシュ社の創立者の息子嫁が未亡人となった暁に知り合って、膨大な財産を運用出来るようになったことに違いない。もともと、父親は運送業の会社員で母親は繕いものをしていた家庭の子息ではあるが、やれば出来るをモットーに音楽に打ち込んでいたのだが、ブルックハールトなどの恩恵を受けるうちに高名な指揮者ヴァインガルトナーの弟子となり、さらにサロンに出入りするうちに、絵を営んでいた未亡人に見初められることとなる。

また、音楽院に付設されたバーゼルのスコラカントルムの創立者としても有名であり、そこで学んだ音楽家の数は数え切れない。最近ではサヴァールやアンドレアス・ショルを挙げて措けば良いだろうか。

また本人の実際の指揮活動は、その委嘱作品の趣味と同じく手堅い新古典主義の演奏様式であったようだ。

スイスの音楽評論家でドイツ評論家賞の現代音楽部門の審査員を長く務めるマックス・ニッフェーラーは、ニキ・ド・サンファルが夫ジャン・ティンゲリのザッハーに宛てた手紙からの言葉を引用して「彼の大家父長的で控えめな雰囲気は、メディチ家のパトロンを思い出させる」と記していることを伝え、そして「金満は、何かをすることで正当化する必要があるとして、そして音楽が仕事だと言うのが常であった」と書く。

トーマス・マンの作品「ファウステュス博士」には、実名の演奏家が何人か出てくるが、指揮者のブルーノ・ヴァルターやオットー・クレンペラーに並んで指揮者としてパウル・ザッハーが登場する。主人公の重要なヴァイオリン協奏曲を初演、1924年にベルンのアカデミーの講堂とチューリッヒのトンハーレで再演をする好意的な人物像として、39章では主要な登場人物と席を共にする。

「人間の内面的な運命を凌ぐ、外面的な権力は存在しない」、「芸術とは、精神の発露として、精神的価値の不思議な仲介者であり、またその創造者は、深い意味において人類の真の指導者である」と、29歳のパウル・ザッハーは紙に記しているようだ。1935年のことである。



参照:"Was du willst, das kannst du" von Max Nyffeler, FAZ vom 29.4.06
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極めるとは鈍感になること

2007-07-21 | 試飲百景
階段を上がって玄関の呼び鈴を押す。午前中に電話をしておいたが、どうも自室へと戻って寛いでいたようだ。出てくるまでに五分ほどかかっただろうか。その間に、従業員と夫婦連れがやって来て、列を為して玄関の前に並ぶ。

入口を探したり、レストランの覗き込んだりしている。面倒な客と居合わせるのはあまり好まない。半ズボンにふてぶてしい態度はいかにも自営業者のような感じもするが、客商売をしているというよりも何とか師などかもしれない。いかがわしい。ワインの試飲に来て人の品定めはしたくないが、その雰囲気はあまり他所では見ない客層なのである。

さて、先代の親仁さんが出て来て、いつものように試飲室へと向かう。早速、約束していたように、2003年産のシュペートブルグンダーを試すが、古い瓶を置いて、新しいものを開けてくれた。

夫婦連れはここでの試飲は始めてのようであったが、座るなり白ワインにするのか赤ワインにするのかと、二人で話し出す。旦那は、赤ときっぱりと言う。

これまた、訳の分からないのに真似をされて手を出されると嬉しくないなと思いながら、試飲を続ける。

素晴らしい色をしている。香りは開けた早々でなかなか広がらない。味は、2002年に比べてタンニンが少なく酸味が高い。因みに、化学的分析値は6.1Gの酸、0.7Gの糖、糖比重106度とあり、それは酸の突出を示している。

あの記念碑的に暑かった夏に、この酸とそれに押さえられたタンニンと更に先日の格落ちのSCと比較しても薄い粘度は一体どういうことなのか?醸造で無く畑仕事の結果の特性なのだろう。するとどうしても、ビオ・デュナーミック栽培の 効 果 を考えてしまうのである。だから親仁さんに言わせると、効果は目に見えていると言うのである。

配合した下草は其々に必要な養分を準備して、ワインは嘗て以上に糖比重を上げていると言うのである。その評価をとやかく言うことは出来ないが、「信じる者は救われるのは真実」なのである。

このワインは、見本市でも史上最高のシュペートブルグンダーと呼ばれたそうだが、酸味が表に出ているのは必ずしも賞賛出来ない。もちろん特別な年のシュペートブルグンダーには相違ないが。包皮の生育や栽培が影響しているのだろうか?

木樽で二年間、瓶で二年間寝かしただけの価値はある。その割りに手ごろな価格であるとも言えるが、偉大なワインを期待する向けのものではない。その分、14.03度(注:換算表からすると糖比重に対してアルコール度が高過ぎる)と充分なアルコールは力強さであるが、反面その透明さに匹敵する繊細さに欠ける。

ふてぶてしい夫婦はこれを特に選んだようだ。力強さがポイントのようである。先日絶賛したものは弱すぎるかと聞いたのだが、どうも印象に薄いようである。そこで気がつくのが、感覚の鈍感である。つまり、極端を求めていくと必ずこれに陥る。そこに至らないものは物足りなくなるのである。すると、その両極にあるもの以外には気が付かなくなるのである。

ドイツの赤ワインは、そうした点からまだまだである。バランスの採れた透明感のある赤ワインはフランスのように作られていない。流石にアルコールが高いだけのものを美味いと言う者は少ないだろうが、土壌の良さと力強さのバランスの採れた偉大なシュペートブルグンダーはなかなか生まれないのである。

因みに、この醸造所のリースリングも、ギメルディンゲン産、ビエンガルテン、モイスヘーレが売り切れ、予約注文のグランクリュ・ホーヘンモルゲンも売り切れていたのである。まだ在庫のあるおかしな香りのリンツェンブッシュの成分分析は、残酸8G、残糖5.4G、糖比重96度と比較的穏やかなものである。
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とり越し苦労の皮算用

2007-07-20 | ワイン
きれたワインを取りに行った。三種類のリースリングを今の時点で改めて賞味して、この先どのように飲もうかななどと皮算用をしていた。

つまり一番廉く手軽なワインを飲みながら、いくらかキャビネットクラスのワインを時々開けて、寝かしておくためにシュペートレーゼを幾つか確保しておこうと言う心であった。

しかし、静まり返る醸造所を訪れると、中から見慣れぬ顔のおなごしが出てきた。手前知ったる他人の家で、これこれを試飲をしようと断わると、なんとその二つは既に売り切れていたのであった。

先日開けて試した本来はグランクリュとなる最も高価なシュペートレーゼは、数ヶ月の内に驚くほど成長した。表現が適当かどうかは判らないが、育ち盛りのおぼこい娘が知らぬうちに、妙な色気を醸し出す肉体に、その清純さが溢れてしまったような按配である。だから、今の時点ではなんともアンバランスでどうしようも美しくはないのである。瀟洒な均整のとれたボディーの清楚感とはならないのである。

そうは言いながらも土壌の特徴とされる豊満なバラのような甘さがあって、なかなか良いなとも思わせてしまうのである。肉感的で丸みがあって素晴らしい。以前の水のような妖精オンディーヌの姿は消えたが、素晴らしい成熟を既に約束しているのである。しかし、今はまだどうしようもなく駄目なのだ。

2006年度産のワインはどれほど収穫出来なかったことか、その前に立ち寄った醸造所では、2006年の全てのプリミエクリュは売り切れていて、グランクリュを待つだけとなっている。今買えるのは以前のヴィンテージのものとなっている。

2007年度もあまり期待出来ない。今からどうしようかと考えてしまうのである。今日は、午前中は本格的な雷空で暗く、午後は青空が出てくると、押し込められるような大気が摂氏20度台の前半の温度以上に蒸し暑かった。
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お国替えの教会税徴収

2007-07-19 | 歴史・時事
先日、公認会計士と教会税について電話した。彼が言うには、ドイツはこれを持つ唯一らしいが、似たものはドイツ語圏を中心に存在するようである。ネットをみると、中世の十分の一税を根拠としているようだが、彼が指すのはビスマルクによる税体制である。

なるほど、ビスマルク時代もしくはそれへと至る19世紀初めのフランスとオーストリアの戦いにおいて、ライン河左岸がフランスへ属すことになった時点で、右岸へのお国替えとなったことを端とするらしい。

つまり多くの選定候は、世俗権を放棄して教会化して行く過程で、従来の大司教区などの支配権と共に、貸与された世俗の支配権は制限されたため、その機能は聖化する一方、経済的な資本の確保を優先させたようである。

そうしたことから、現在も活動するカリタスなどの団体は世俗での教会の福祉活動のための機構として、この時期に生まれている。

政教分離を建前に、両大政党を除く、自由党、緑の党、左翼党は、この税を非難している。実際、先日のカトリック信者の友人夫婦が教会税未納のための洗礼拒否などをみても、この税制度はあまり優れているとは思えない。

さらに、イスラム教会がこれに参加しないため、モスク建設などが歪な形で政治問題化する背景を作っている。

因みに、上の会計士は、68年世代のためか教会から離脱しているので、教会税を支払っていない。
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趣味でミクロを宣う文化人

2007-07-18 | 文化一般
零時になっても暑い。風は出てきたが、まだまだ湿気があり、涼んで眠たくなると言うほどではない。机の前でうとうとするが額に薄っすらと汗をかいて目覚める。そして急に気圧が下がったのか、激しい 小 雨 が数分舞い、頭痛を感じる。

それからすると、先週土曜日の晩に散歩したのは正しかった。数キロも行かないところに、未知のワイン地所があり、同じ地所でも随分と違う場所が見つかるのだ。

特に大きなウンゲホイヤーとか、ヘアゴットザッカーとかは、その端から端まで粒さに歩かないと、その区画間による差は実感出来ない。

例えば、二つ目の斜面上部は、興味深い土壌であると聞いていたが、全体が南東向きの地所もしくは平地なのに対して、そこの一部は南向きの小さな一角になっているのである。それも直ぐ上とサイドが斜面に防がれているので、下から昇って来る風以外には大気を通さないような感じがする。

また、それと同じような向きで、二つ先の小さな谷間にあるのがラインヘーヘと呼ばれる地所で、乾燥し易いのか樹齢の若い葡萄に灌漑用のホースが設置されていた。

そこの谷間に行くまでに、モイスヘーレと名付けられた盆地の山裾を深く廻るような一角があり、その最奥から小川が流れてひんやりした湿気を放出している。そこでは、自転車でやって来て野外でワインを片手に涼んだり、バーベキュウをしている者がいた。夕刻は西日が遮られ早めに日陰になるのを知っているからであろう。


そこから小さな稜を越えると、山沿いに一枚のランゲンモルゲンの斜面が広がる。その斜面の下を支えるようなパラディースガルテンは、次ぎの稜線に遮られて湿気っぽく、川が流れ野外プールへと繋がっている。

こうして村から村へと、地所から地所へと、区画から区画へと歩いてみると、初めてミクロクリマと呼ばれる局地の気象が実感出来る。それも、年間を通してそこで実際に野良仕事をしてみるぐらいでないと、本当のところは把握は出来ないのである。

しかし、ワインのスノビズムの世界では、バーテンダーやソムリエの話しの種としてならば良いが、ワインの通などと称して、厭味たらしくこれをとやかく言う。そのような知識は、一体何になるのか判らないが、そうした知識尊重の俗物主義はワインに限らない。そのようなことを宣うのを恥ずかしいと思わない神経を疑う。脳のデーターバンク化である。

何事も必要な基礎知識や系統的且つ分析的な把握は必要であり、よりよき理解のためには欠かせないが、そもそもそうした知識や方法の蓄積への態度こそが、その信奉者が如何にその世界とは無縁な世界からの闖入者であるかを示している。ソムリエなどと言う職業の見識とそのコンテストで優勝する知識とは別物であり、そうした知識をそつなく身につけるのは、もともと縁も縁も無い闖入者に相違無いのだ。

あとは、個人の好みや趣味の良さと呼ばれるものが大切であるが、それは教養などと呼ばれるものに近く、付け焼き刃の知識とは無縁なのである。それこそが求められる見識であって、無批判なインサイダーに鋭く警句を発し、我々に覚醒を齎すのである。

下らないものや鍍金の偽物を笑い飛ばすだけの見識眼が本物の批評精神であり、批判の対象に迫る素振りを見せるだけで、その向け所と方法の定まらない御仁は、罅の入った贋物の壷を撫でながら、「ああでもないこうでもない」と呟きながら、「これだから良いのだ」、「判るかな、判からねえだろうな」などと言うただの自己満足の趣味人なのである。

「ワインの木樽に残念ながら藁が一本浮いていたようだ」とか、「あのグランクリュの地所は、西日がもう一時間長ければなあ」とか、「あの斜面に朝霧が上るようならばなあ」とか、宣う者こそ文化勲章に値する趣味の良さを持ち得る人なのである。

そうした輩は、一体全体、文化に何を寄与しているのだろう?

それにしても、いつも帰り道にゲリュンペルの地所に入ると突然、空気が変わり、清々しさのような活き活きしたものを感ずるのはなぜなのか。
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