Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2014年4月

2014-04-30 | Weblog-Index


福一に迫るフィールドワーク 2014-04-30 | アウトドーア・環境 TB0,COM0
彼女のお母さんに出会う 2014-04-29 | 女 TB0,COM0
知らなかった奥を覗く 2014-04-28 | テクニック TB0,COM0
一時間38円の贅沢三枚 2014-04-27 | テクニック TB0,COM2
半端でない技術力を理解 2014-04-26 | 生活 TB0,COM0
もうごめん、質の悪い神社 2014-04-25 | マスメディア批評 TB0,COM0
軽く赤いポロシャツを購入 2014-04-24 | 生活 TB0,COM0
復活祭月曜日朝の思い 2014-04-23 | 生活 TB0,COM0
聖週間から復活祭にかけて 2014-04-22 | 暦 TB0,COM0
耐え忍ぶ愛の陶酔の時 2014-04-21 | 音 TB0,COM0
牡鹿搭からカメラを落とす 2014-04-20 | アウトドーア・環境 TB0,COM0
ヨハネ受難曲への視点 2014-04-19 | 音 TB0,COM0
今日はなんとかなっている 2014-04-18 | 生活 TB0,COM0
余りにも素朴過ぎた彼女 2014-04-17 | 女 TB0,COM0
禁止することの容易さ 2014-04-16 | 雑感 TB0,COM0
WIN8.1より優れたWIN8   2014-04-15 | テクニック TB0,COM0
小さなことからコツコツと 2014-04-14 | アウトドーア・環境 TB0,COM0
修正主義と制御付新自由経済 2014-04-13 | 歴史・時事 TB0,COM0
なんともいえないあの触感 2014-04-12 | 雑感 TB0,COM0
成果を出すまで我慢の為所 2014-04-11 | 雑感 TB0,COM0
小日本の皇帝思想 2014-04-10 | 歴史・時事TB0,COM2
十分に解きほぐしたい 2014-04-09 | 雑感 TB0,COM0
一世紀前のカルチャー 2014-04-08 | 文化一般 TB0,COM0
肩が重い、コムパイラ 2014-04-07 | テクニック TB0,COM2
「秩父宮」を通した官僚主義 2014-04-06 | 歴史・時事 TB0,COM0
システム疲労を起こす前に 2014-04-05 | テクニック TB0,COM0
ハイカルチャーの趣 2014-04-04 | 文化一般 TB0,COM2
ハインリッヒVIに一矢 2014-04-03 | アウトドーア・環境 TB0,COM0
脱原発へのクリミヤの影響 2014-04-02 | アウトドーア・環境 TB0,COM0
馬鹿続きのシーズン事始 2014-04-01 | アウトドーア・環境 TB0,COM0
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福一に迫るフィールドワーク

2014-04-30 | アウトドーア・環境
saarweineさんが被曝疲れも無く、福一の二号機から25KMまで迫った。流石にプロフェッショナルだと改めて感心する。まるで何事も無いかのように、福島駅からひっそりとバスに乗って、南相馬市から報告を続ける。既に爆発直後から茨城から横浜を通って伊豆半島まで調査をしたのに始まり、定点観測の軽井沢や那須だけでなく、柏市へとも態々足を伸ばしている。隠れIAEA、隠れCIAだけにしか出来ない隠れ技で、ブログでは鰻の試食とエスニック食しか触れられていないのがこれまたとても憎い。

そういえば一昨年のドレスデン行でも、田舎の駅で下車して、高架通路を通って改札口を出ようとして、町の人に止められるまで水没していることを確認するなど、フィールドワークの情報活動家としては彼の右に出る者はいないに違いない。

地図を調べてみて驚愕しているのだが、今も立ち入りが禁止されている飯館村に近い地域を除いては、女性や子供が街中で普通に暮しているらしい。既に町をあとにした人は少なくないようだが、街中は除洗されたといっても、三週間もいれば空間線量だけでX線の胸部写真を二十枚ほど撮る被曝が強要されている。病気をしなければ一生の医療被曝量に相当する。そこで暮している人がいるのは残酷物語以外の何ものでもない。そもそも放射線管理地区に値するような福島県の三分の一ほどの地域で日常生活をさせるのは違法である。

上流から流れる川の汚染などもしばしば恐ろしい数字になるのではないだろうか?除洗など不可能な飯館村近くの汚染が川を降りてくるのに何十年も掛かるに違いない。河川の汚染はその都度上昇して、生物系に与える積算の汚染は奇形しか生じないレベルのものであろう。

汚染事業は続けられているようであるが、正しく最前線の町が滞在中の原ノ町のようである。先ずは世界的に注目された南相場市役所から数百メートルはなれた目抜き通りの中華料理の試食である。流石である、これならば原子力村の人々に気がつかれず隠密行動が出来る。



参照:
彼らの勇気と行動を讃えよう 2011-06-27 | BLOG研究
金じゃない営みの表現をする 2011-09-11 | マスメディア批評
山本太郎よりも厄介な天皇 2013-11-06 | マスメディア批評
手練手管の質やその価値 2014-02-21 | 数学・自然科学
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彼女のお母さんに出会う

2014-04-29 | 
ブロンドの彼女のお母さんに出会った。予定はしていなかったのだが、挨拶ということではなく、顔を合せさせられたに近いのかもしれない。以前も一度機会があったようだが、面と向かって顔を見合わせるのははじめてであった。

可也母娘仲良しの感じの親子であることは気がついていたので、そうなればこちらも珍しくつっけんどんな娘の態度を横目に母親にぶちまける。

「丁度、恋文を準備しているんだ」というと大笑いしていたが、「送り先をまだ貰っていないし」と迫ると、如何にも「娘のことだからどうにも対応できない」といった迷った感じの表情を見せた。

なるほどご本人も小柄の方だが、その背丈以上に造作が小ぶりなのは母親が更に小柄だからだろうか。予想通り私よりは年上で、十分に老けて若干窶れ気味なので、その点はそれほど違和感は無かった。父親もドイツ男性としては小ぶりであることは間違いなさそうだ。

どうしても母親の服装や雰囲気を思わず観察してしまうのだが、小柄で若干やつれた感じを除けば小学校の先生風と感じた。服装もかなり仕事服で、家事をしたまま車で出かけてきた按配だ。それは基本的に娘などの服装を見ていても感じるシムプルさで、これはライフスタイルと呼ぶべきものだろう。その点、娘はどこか気に掛けているお洒落心があるのは、注目すべきだろうか。

それにしても彼女の態度は初めて見せるそれで、母親と一緒にいるという状況以上に、普段見せていたとても冷静で深読みのそれとは全く違っていた。彼女になにか悪いことをしたわけではないのだが、二週間前の態度とは全く異なっていたのである。状況の変化などの環境も無くは無いだろうが、それ以上に目を合わせることも無いような動揺は見せたこともないものだ。

思い当たることは寧ろ二週間前の方があったのであるが、それは片付いているので、全く理解できないのだ。そして色々と考えると、そのときは最初から彼女の態度がおかしかったので、母親に語りかけたのであり、だからその母親の表情などをじっくりと観察したのだった。

一体何がご機嫌を悪くしたのだ?考えられるのは彼女に後ろから近づいて、彼女が振り返るのを待っていたときに、彼女は私のことを気がついていたに違いないのである。そのときに彼女の中でふつふつと湧き上がるものがあったようにふと感じた。勿論彼女の後姿は分ったのだが、「飛び」つかなかったのがいけないのか?

過去に遡って、思いを巡らすのだが、なにかその積み重ねが爆発したような感じはある。爆発と言っても多くの女性のそれとは異なって非常に抑制されたものなのだが、彼女にしては十分な示唆行為であった。知り合った初めの頃からするととても美しくなった彼女であり、二週間前から腰まで垂らしたブロンドを誇らしげに見せた彼女のその態度は、ディートリッヒの歌にあるような「誇り高きブロンド」そのものだった。

こうなれば機会を決して逃さないように、お母さんに宣言したように恋文を渡すしかないのであろう。彼女の真意は分らないが、そこまでやらないことにはいけないのだ。彼女をそこまで美しくした自負を以って。昨年の同じ頃に「愛しの彼女」の期待を裏切ったのかもしれない。そして彼女は直ぐに妊娠した。ブロンドの彼女が妊娠するかどうかは知らないが、恐らく学業を終える彼女の転機であることは間違いなさそうである。



参照:
耐え忍ぶ愛の陶酔の時 2014-04-21 | 音
余りにも素朴過ぎた彼女 2014-04-17 | 女
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知らなかった奥を覗く

2014-04-28 | テクニック
アヴィラの無料ソフトを使っている。効果の程は分らないが、結構支配力も強そうで、タスクバーの他のタスクをフォルダに入れて無効にしてしまうのには参った。

欲しいのは音量調整のメインを出すボタンだけだが、無いとなると不便なときがある。だから、サウンドマックスと呼ばれるソフトを再インストールしたり試みる。一部のソフトは指定し直すと元通りにタスクバーにアイコンが出たからである。

しかし、メイン音量調整はうまく行かないので、サウンドマックスの機能を試してみたのである、このソフト自体がまた面倒で、結局PCの付属のCDで再インストールすることになった。それが無くても必要な機能は作動したのだが、PC蘇生機能などを使ったりしてもうまく行かない。数時間掛かったが、結局ネットで情報を探し、同様な状況での解決策を見つける。

なにか4秒ルールと言うのがあるようで、それ以上経つと提示されないようだ。アヴィラが動いているときに掲示されてしかるべきスピーカー表示が出遅れて、再びチェックすれば掲示されるのだが、同じようにOSを再稼動させると同じ結果になる。

そこで、LAN機能であるユニヴァーサル・プラグアンドプレーのUPnPの指定を外して、再稼動すると真っ先にスピーカー表示が読み込まれている。これで問題が解決した。こんどはUPnPの機能が気になるのだが、ネットでそれほど複雑なことをしない限り問題なさそうである。そもそもファイアーウォールとアンチウイルスソフトの関係で制限がある。また、ファイアーウォールにてUPnPの指定を外しても結果は得られなかったが、ネットワークコムポーネントのオプションでサーヴィス内容を変えることで結果が得られた。明らかに、ファイアーウォールの機能とは関係ないということを示しているのではないか。いづれにしてももはや現役のOSで無くなったときからXPの知らなかった様々な奥を覗き込むようになるのである。

引き続き新しいMCカートリッジのエージングを続けている。仕事をしながらであるから十分に聞き込めてはいないが、再生の質はとても高く、今までのアナログ試聴の中ではかなり程度が高い。気になっていた時々プレーヤーが立てる雑音も再生音としてあまり影響がなくなっているようで、別室の第二スピーカーシステムでも聞くに堪える。本来ならばアームやターンテーブルを源とする問題であるが、この押さえられた音質のカートリッジでとても巧く雑音も押さえられている。

引き続きPCM録音LPが面白い。購入した節はその中途半端さに迷いながらも安かったかどうしても欲しかったのでLPを購入したのだが、どこか日陰の存在になっていたコレクションである。それが今度の針で鳴らすととても面白いのだ。R・シュトラウスの楽劇もよかったが、バロックの豊かな楽器のニュアンスも素晴らしい。買い控えたといってもこの種のものはざっと二十枚近くはあるようだ。相変わらず録音に不満だったのはブーレーズ指揮ザーキンのピアノのシェーンベルクの録音で、後者のショパンアルバムも録音芸術としては残念であった。

カラヤン指揮の序曲間奏曲集を第一電化製の45回転盤で聞くと、改めてベルリンの管弦楽団の20世紀の大時代性が良く出ていて、その録音とともにデリカットの全く無い殆どショービジネス的な管弦楽にへきへきする。流石にあのままではどうにもならなかったのが後任のアバド指揮の録音でよく分る。それに比較するとプレヴィン指揮のロンドン交響楽団のイマージュなどはとても上手く録音出来ている。

一通りPCM録音LPを聞くとDMM盤などを含めてプレス技術にも気をつけていたLPが多くて、購入しておいて決して損はなかったと改めて感じる。更にアナログ時代の名録音を棚から探してみたいが、今回の投資に見合うだけの精緻な音が録音されているLPがどれだけあるだろうかと少し懐疑的になっている。



参照:
今日はなんとかなっている 2014-04-18 | 生活
一時間38円の贅沢三枚 2014-04-27 | テクニック
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一時間38円の贅沢三枚

2014-04-27 | テクニック
日本へ送った壊れたレコード針の交換が戻ってきた。MCカートリッジというのは針先だけが換えられないので、日本では針交換価格で適当なものが入手できるからだ。そもそもレコードプレーヤーに付いていたオーディオテクニカの製品からその交換でグレードアップし続けて、三回目の針交換となる。

一回目は本社で推薦を受けて他のシリーズからAT33LTDに交換、前回はAT33PTGになり、今回はAT33PTGIIになった。価格も28000円から一万円上がって、38000円になった。流石に考えたが、前回ものの印象が悪くなかったので、落としたくも無いのが心情であり、メーカー戦略に旨く乗っている。そもそも日本では大分昔にこのメーカーのトーンアームやMMカートリッジを使った覚えしかないのである。

自重も同じで前回と同じように取り付ける。若干ケーブルの差込が細くなっている印象だが問題なかった。ただし適正針圧が少し大きくなっているということで、確りと遠心力を調整した。

ネットなどで見ると最初のエージング前は低音が抑えられた感じだということだが、なるほど前回の製品に比較すると明らかに異なる。更に抵抗値なども変わっていて音量も弱めであることも認識できた - よいプリアンプを使っているので全く問題ない。しかし、針をブラシするときの雑音などからして明らかに押さえられた感じの品がよい。

実際に針が壊れる前に鳴らしていたドレスデンで録音された「皇帝ティトー慈悲」を比べると、あれほど張り出していた低音は無くなった反面、遠心力を掛け直したこともあるのか、とても左右のステレオ分離が良くなっていて、レコード盤の雑音もとても抑えられた感じになっている。

弦などの精緻な鳴りは、指揮者ベームの狙ったものであり録音モニター室で聞かれていたものが綺麗に甦っている。エージングの過程は別にしても、低音の鳴り方も、如何にもアナログLPらしい張ったものではなくてとても自然な感じの質を感じるので、どちらかと言えば昨今のハイクオリティーデジタルに近い感じである。

今まで鳴らしたものでは、もともと録音のバランスの悪いものはそれなりに誤魔化し無しに鳴り、良いものはとても判断しやすくなっている。ステレオ定位感も抜群であり、シューベルトの弦楽五重奏曲などもロストロポーヴィッチのチェロ演奏がよく分る。

全体的な抑えられた印象は明らかにクラシック音楽向きの音作りで、前回のタンノイのスピーカーを想起させるような音作りよりは質が高い。そこで、LPの最終期に発売されたデジタル録音LPのベートヴェンの四重奏曲を鳴らしてみる。想像通りとても落ち着いて鳴り、デジタル録音の良さが初めて感じられた。レコードプレーヤー自体が針価格とあまり変わらない程度なので、デジタルメディアほどの細やかさは感じられないが、とても清潔ですっきりした感じが爽快で、恐らくスイスの有名教会の音場が感じられた。

朝晩で時間が無かったので大きな編成の管弦楽はまだ鳴らしていないが、オペラで悪くなかったので判断は低音の支え具合だろうか。トラムペットなどの管の配合の音色も楽しみである。音の立ち上がり感なども優れているので、デジタル的な良さを感じるのだが、さてピアノはどうだろう。

クロード・エルファーの弾くドビュッシーの練習曲を鳴らす。LPの最終的な目標はマスターテープを鳴らすような音とされるが、やはりサー雑音が多いと音像が暈けてしまう。アナログの中域が張った音をして、数寄者は「芯がある」などと表現するが、実際のHIFIとはまた異なる。ポリー二の弾くストラヴィンスキーやプロコフィエフの録音は、なるほどスピード感もあるが、デジタルメディアの精緻さには適わない。

それでも針交換価格を千時間と書かれている寿命で割ると、時間当たり38円も掛かることになる。LP一枚半の演奏価格である。高級ワインを空けてしまうことを考えれば安いのだが、CDが殆ど掛からないことを考えるととても高価な音楽体験である。改めて資料として、ながら試聴のメディアとしてのCDの価値を見直す。



参照:
ストレス開放の収穫 2014-03-29 | ワイン
正夢と幻想の束の間 2008-12-31 | アウトドーア・環境
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半端でない技術力を理解

2014-04-26 | 生活
朝一番で床屋に行った。月曜日が休みであり、火曜日にはアイロン掛けなので、それまでに済ませておきたかった。前回が二月中旬なので二月も伸ばしていたことになる。それでも襟にかからないのは、バリカンの威力だろう。嘗ては鋏で短く切ってもらわないと不満足だったが、最近は散髪屋がいなくなって女性にやらせるとなるとバリカンでしか到達できない技術が分るようになった。

注文していたカメラケースなどが届いた。マントーナ製である。先日落としたハードケースに比べると少し短めで小ぶりなのだが、IXY610Fが上手に収まった。先日壊れた下げ場所もゴムと切れそうなワッカに比較すると、一体化していて同じ素材で縫い付けられているのでゴムのようには千切れないに違いない。更に上辺にそのままカラビナが取り付けられているのでなんら改造は必要なさそうである。ただし、ファースナーがYKK製ではないので、若干不安である。手首ストラップは、キャノンのものよりもニコンのものの方が平織りで滑りにくいのがよいと思った。

木曜日は午後に少し登りに行ったが、とても身体の動きが鈍かった。リードの練習に御付き合いしたので、結局同じところを二回づつ登った。初めての経験である。最初にリードで登って、降りてきて、確保して、最後に回収に再び後続して登る。更に第二ピッチを登って、降りてきて、確保して、再び回収に登る。中間支点も回収と設置は殆ど苦労が変わらないので、登る時間もあまり変わらなかった。

やはりリードで登る難しさとはオリエンティーリングと中間支点の設置に限ると改めて感じた。そもそも登る難しさはザイルがあろうとなかろうと殆どかわらないからで、ザイルを上手に使うためにはリードの方が都合がよい場合が少なくない。

兎に角風邪気味で、精気がなかった。胸も圧迫されている感じで、かなり身体の動きも、注意力も薄れていた。それでもある程度登れてしまうのが我ながら凄い。



参照:
牡鹿搭からカメラを落とす 2014-04-20 | アウトドーア・環境
我が町のエネルギーミックス 2014-02-15 | アウトドーア・環境
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もうごめん、質の悪い神社

2014-04-25 | マスメディア批評
月曜日、谷の奥で登っているときに降られた。量は大したことは無かったのだが、ヘルメットがびっしょりと濡れていた。断続的で、空がそれほど暗くはならなかったので、そのまま登り続けた。風もあったので乾くのも早かった。それでも濡れたようで風邪気味になった。そして今も疲れが残っている。肩から腕の故障からもう一つ調子が悪かったのだが、気管支がやられると更に全身状態があまりよくない。この春はなぜか寒さを感じることが多い。花冷えの日が続いていることも多いが、筋肉増強やら食事やらのバランスが崩れてきているに違いない。

ヤスクニに150人もの国会議員が出かけたとして報道されている。新興宗教に国会の二割もの議員が駆けつける国は珍しいに違いない。それ以上に戦前の国家神道や戦犯合祀を考えるならば狂った国会としか思われない。

新聞には、リベラルや左派の自己批判の議論はもはや公共の場から駆逐されていると、安倍政権成立による国粋主義者の台頭と新聞は伝える。また、エトウセイイチによればオバマの訪日とは関係ないと説明するが、しかし前日にそれが行われたかどうかは疑問だとする。それは昨年の首相の訪問で、ホワイトハウスを失望させ、前例の無いほど公に批判されたからだ。

ワシントンが関係悪化を懸念する日本の近隣諸国では、こうした行いが日本が行った侵略戦争における野蛮行為の賛美として受け取られていて、流石に今回は安倍が内務大臣を使って奉納しただけで自らが出かけなかったのは、それではあまりにもオバマを怒らすと考えたからだと伝える。

官房長官は、半数の閣僚がその中に加わっていたことに関連して、あくまでも個人の立場で行ったものとしていて、そこに「信教の自由を唱えている馬鹿さ加減」がよく表わされている。



参照:
Der böse Schrein genügt, FAZ vom 23.4.2014
奥崎、安倍晋三を撃て! 2013-12-28 | 歴史・時事
見苦しい日本国大使の反論 2014-01-22 | 歴史・時事
修正主義と制御付新自由経済 2014-04-13 | 歴史・時事
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軽く赤いポロシャツを購入

2014-04-24 | 生活
マンハイムに出かけた序でに安売りのTシャツとポロシャツを手に取った。いつも着ているMERUのシャツの襟付きが、19ユーロだからTシャツ17ユーロと変わらない価格になっていた。

クライミングや登山にはこのTシャツを愛用しているのでパジャマに続いて年間最も着ている服装かもしれない。汗をかいても早く乾いてくれるので、寒い思いをそれほどすることもない。なによりも軽くて着ている感じがしないのが快適だ。そして夏は涼しい。

手に取ってみると全く同じ質感のポロシャツで、186GとTシャツの35%ほど重いだけだ。普段は使うことは少ないかと思うが、アルプスなど風の強い場所などで着る場合はTシャツよりも日焼け止めにもかなり効果があるかもしれない。

ネットでは売っていない色合いもあり、取り敢えず欲しかった赤色を購入する。Tシャツの方は今まで五種類ほど購入したが六種類目の赤緑を購入した。ブルーにしようか迷ったのだが明るい色の方が陽気に見えてよい。

〆て34ユーロで、駐車料を2ユーロ加えても、ネットで購入して送料を添えるよりも安い。序でに隣の百貨店に行って、夏の部屋器用の安売り大型ボクサーパンツを探すが、普通の価格でしかなかった。ネットでもいつでも買える値段である。夏の暑い時期は自宅では下着の上に下着を重ねて過ごすのでとても安くついて快適である。流石にそれで買い物のには行かないが、ワインを蔵に取りに行くぐらいはなんとも無い。所謂昔の日本人の猿股感覚である。

ワークステーションからセキュリティーエッセンシャルスを削除してから、不思議なことにプロセッサーやハードディスクが軽くなった。以前は定常状態が50%を超えていたプロセッサーもメモリーまでもが40%程度に落ち着くようになってきている。それほど頻繁に動いていたとは思わないので、もしかするとエッセンシャルス自体が感染していた可能性がある。



参照:
昨日の水がお湯のような今日 2010-07-23 | 生活
新品PCのような軽やかさ 2014-03-16 | テクニック
今日はなんとかなっている 2014-04-18 | 生活
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復活祭月曜日朝の思い

2014-04-23 | 生活
復活祭月曜日は出かけた。出かけなければネットショッピングの準備をしていた筈だ。一つは、先日壊れたカメラハードケースとストラップの購入である。前者は前から目を付けていたモントーラ社のものでカメラの大きささえあえば今回のような事故は起きない筈である。後者はキャノンのそれが無かったのでやはり高価なニコンのものを発注した。これもオリジナルと同じで中国製だろうが、他のその手のものよりは質が高いに違いない。

序に無くなりかけている歯間ブラシを発注した。40個入りで20ユーロのものがあったのだが、それほど使いたくないので、送料無料で24個入り10ユーロのものにした。

それでも上のものを送料無料にするには3ユーロ欠けていた。そこで色々と一時間ほど考えたのだがあまり欲しいものが無い。過去の発注商品を十年ほど遡るが、必要で送料と交換で無料で欲しいものが見つからない。アマゾンでのことだから本がよいのだが、これといったものが見つからなかった。嘗てのように3ユーロの書物が殆どなくなってきていることにもあるようだ。そこで見つけえたのがリノックスのコマンドの便利帳でシェルを拵えるときに便利そうだ。4ユーロということで差し引き殆ど1ユーロで購入することになる。この手のものは全てネットで只で入手できるのだが、見やすく手早く探せるものが手元にあると良いに違いない。

朝早く、日本に電話をした。夏時間であるから一時間近い分だけ電話しやすいのだが。平日や日本の日曜日に電話するのとは異なって、時間も早く日本の平日に電話できるのはありがたい。

パン屋で購入したラムの形のスポンジが面白かった。購入してあったイチゴアイスなどと一緒に食す。因みにドイツで売られている冷凍イチゴは中国からの輸入物であるということだ。



参照:
聖土曜日から復活祭にかけて 2013-04-01 | 暦
クリック、そして口に運ぶ 2009-10-09 | 生活
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聖週間から復活祭にかけて

2014-04-22 | 
聖週間は、月曜日と土曜に走ったろうか。水曜日と木曜日に登って、復活祭日曜にも走った。沢沿い二回に、八キロコース一回になる。沢沿い往復は17分、2800歩の土曜日と八キロコースで13分、2018歩、35分、4100歩、降りてきて53分、7100歩であった。

なによりも足腰に堪えるのは木曜日の疲れと、手を振る右ひじが痛むのでバランスが崩れているからだろう。あまり楽しく走るというのではないが、曇天で出かけて帰る頃になると青空が出てきたのは良かった。

土曜日は、いつもよりは遅かったが、その足で肉屋に向かうと既に行列が出来ていて、三十分待ちという印象で引き返す人が続出した。汗を掻いていて、肌寒く風があったので身体の冷えが堪えたが、出直す気持ちのも無かったので十五分ほど粘った。

九時過ぎなだけにまだ色々とあり、シュヴァールテンマーゲンの玉をイースター卵の代わりに購入した。パン屋ではラムの形も購入したので揃った感じだ。

バーデン・バーデンの祝祭劇場は昨年までと違って、日本からの旅行団らしき人たちやフランス人などの国際的な雰囲気が出てきた。残念ながら、準備期間が短かったためにプッチーニのオペラでお茶を濁して評判も良くは無かったが、ヨハン受難曲の映像は記念碑的な意味を持つだろう。

木曜日に牡鹿塔に出かける前に当地の地場産業の靴のマーケットに立ち寄った。丁度二年前に購入した家履きが壊れたからだ。その時の記事に二年年もって呉れたらと書いてあるので、まあまあだろう。ボンドでくっ付けてもう一つは使えたであろう。そして同じ商品を見つけたが、今度は色違いもあり、メードインジャーマニーが消えている。価格も35ユーロに値引きされているので、同じぐらいの耐久力があれば受け入れられる。今度はサイズを一つ落として42にしてみた。快適性には問題なく綺麗に足が納まった方がサイドの剥がれかけた場所に負担が掛からないかと考えたからだ。生憎気温が下がってきているので靴下がないと寒い感じがするので、冬用の家履きもなかなか片付けられない。

バーデン・バーデン祝祭劇場からの帰り、受難曲のライヴ中継に続いて昨年話題となったザルツブルクでのマーラーの交響曲六番の中継録音が流された。通常の80分台の演奏時間に比較して優に90分を超えるということで全部は聞けなかったが、概ね理解した。一楽章が特に遅いテムポで、そのために二楽章にアンダンテを於いた演奏だが、もう一つ収まりも悪かった。二楽章と三楽章の入れ替えにはここでいとど話題になったことがあるが、あまり成功例ではなかった。遅い一楽章の特徴は、なるほど声部間の対位法的な扱いがよく見えるが、それほど密度が高まった感じがしないのは和声とのバランスの悪さに違いない。だから三楽章のスケルツォも小ぶりになってしまいそれほど感心しなかった。SWRの放送管弦楽団の演奏としてもそれほどで気が良いとは思わなかった。それならばなぜあれほどまでに新聞等で絶賛されたか?やはり存続への後押しと言うことだったに違いない。



参照:
とてもちぐはぐな一週間 2012-05-19 | 生活
耐え忍ぶ愛の陶酔の時 2014-04-21 | 音
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耐え忍ぶ愛の陶酔の時

2014-04-21 | 
いつもの一時間前のガイダンスの主題は、バロックの恍惚であった。つまり、バッハの音楽での動機などの繰り返しは、ミニマルと言うよりも教会のバロック天蓋に見られるような焦点の定まらない効果で、超越性へ繋がると言う考えである。その最適例として、始まりの曲の動機の繰り返しを挙げ、終曲から二つ目の合唱のRUHT WOHLの執拗な繰り返しを挙げた。

さて、その曲が今回のヨハネスの福音による受難オラトリオでどのような効果をあげたか見る前に、前半の山であったWER HAT DICH SO GESCHLAGENでのように、「その状況」をこれほどまでに現実的主観的に感じることは無かったに違いないことを特筆する。

既に弟子ペトルスが大祭司の手下のマルクスの耳を殺ぎ取り、「その時の迫る状況」を避けようも無い必然を皆が感じるかのように、このコラールが響くとき、的確なアーティクレーションで、胸に手を当てたりの動作を伴って歌われるときに、冷静でいられる人がいるのだろうか?

ピーター・セラーズの演出は、先頃亡くなったモルティエー時代のザルツブルク以来だから、十五年ぶりぐらいになる。同じことをやっているに過ぎないが、当時のように其の侭の表現でなくて、洗練されて完成されている。だから、世界で「何が起こるのか起きているか」を知っていてみて見ぬ振りをしている、少なくともそうした意識のある我々の心の中に、ずさずさと差し込んでくるのだ。

そのような状況は、ユダヤ人たちが弾劾する場面においても、だから決して我々の他者の状況ではなくなってしまっている。そしてユダヤ人たちが「法に則って」と叫ぶときに近代の官僚主義がそのものが矛先に立たされる。そして、ソプラノのZERFLIESSE MEIN HERZENでの、全てが為されたあとの彷徨い茫然自失となる光景は、あらゆる大災害の後の光景そのものなのだ。救いようも無い、まさしくヨハネスの黙示録の光景そのものなのだ。それは、大戦の結末であっても、広島や福島であっても、シリアであっても全く変わらない。人々は見てみぬ振りをしてその結末への予感を感じながらも、少しは心を痛めながらも生きているに過ぎないのである。

だからといって、プロテスタンティズムのドグマに従って演出家が回答もどきのものを準備しているわけではない。しかし、音楽は前記の合唱へと向かうのだ。右下がりの旋律はまるで身体をさするかのように何度も何度も繰り返し「落ち着いて、落ち着いて」と慰める。その愛撫によって、陶酔があるとすれば、それはイエスの語った「真実」なのかもしれない。そしてその陶酔は、まさしく身体が感じる感覚なのである。そしてそれはここでは音であり、それを感じる音感なのだ。身体の動きが人々にメッセージを伝えるのと同じように、共通の言葉でありえる物理的メディアに違いないのである。

そこに希望を感じるかどうか。これはこの受難曲の本質に迫る。つまり、聖金曜日の絶望は復活のときまで、聖土曜日まで続く。人々は相変わらず生き続けている。人々は耐え忍ぶしかないのである。時が来るまで、只只管希望を以って、耐え忍ぶのだ。なにかが動き続けている限り、時が刻まれている限りは、それは証明の必要の無い真実であり、そこには神の支配が存在するとするのが一神教である。それがバロックの超越性の環境とすればその通りであろう。

サイモン・ラトルの声楽への対応は、今回の祝祭でのオペラ「マノンレスコー」でこっ酷く批判された。歌を呼吸させないオペラ指揮者として断罪された。しかし、今回の合唱を受け持ったベルリンの放送合唱団の成果は、その動きとともに当日の主役であった。なるほど妊娠の奥さんはラトルの胎児と共に、その姿態を曝しながら今まで以上に立派な歌も聞かせ、キリストのルデリック・ウィリアムスなども決して悪くは無かったが、聴衆に寄り添ったエヴァンギリストのパーク・マドモアーが当然ながら大きな役目を果たした。これほどまでに聖書の内容を現実的な情景として浮かび出させたことは嘗て無かったに違いない。それはこのオラトリオへの依頼目的でもあったのだ。

その内容とは、無駄無く描かれているからこそ却ってとても現実性を以って、尚且つ一般性を以って、普遍性を以ってあらゆる風景へと繋がるのである。そして終曲でも、ヘルヴェッヘ指揮のそれを研究しているのか、とてもスイングさせる - それはガイダンスにあったES IST VOLLBRACHTの器楽と声楽の共演の非時間性つまり永遠性へのアンチテーゼであろうか。その先には、劇場から抜け出た我々の現実の世界が存在している。当日の多くのカトリック系の聴衆は、音楽の陶酔とその愛撫がそのまま我々の血と肉となると、それが受け入れやすいに違いない。ベルリンでの演出を発展させたと言うのはそういったところに違いない。そして、ややもすれば北ドイツ的な耐え忍ぶ感覚は、ここではバッハの中央ドイツを越えて、愛の形に近づいていた。耐え忍ぶ愛である。

ベルリンのフィルハーモニカーはこの指揮者の下でとても賢くなる。恐らくクスマウルなどの始めた古楽演奏の経験も手伝って、現代楽器での表現力と同時に弦などの独自性の融合が完成している。終演後に著名音楽評論家女史がTVカメラの前で「とても素晴らしく流れる弦」と感想を述べていたように聞こえてきた。それでいながら確りとしたアーティクレーションを示していたのが流石にドイツの管弦楽団であり、グルノーブルの古楽楽団のそれとは違っていた。なるほど古楽器の鄙びたそして鋭い純音程の美しさは無いのだが、演出の「現代性」とその音色は決して悪い相性ではなく、なによりも明白な発音は、歌手のそれにもとてもよい影響を与えていた。いつもは流れる字幕テロップは消されたままだったが、それはなるほど身動きで補われて、テロップを読むことでの視覚的な制限を避けるだけでなく、歌手のドイツ語の通りのよさとなっていた。特に英国人のエヴァンギリストのそれが素晴らしかったのは終演後の拍手喝采が証明していた。



参照:
ヨハネ受難曲への視点 2014-04-19 | 音
半世紀の時の進み方 2006-02-19 | 文化一般
馬鹿らしく下らないもの 2007-07-15 | 生活
交響する満載の知的芸術性 2013-04-03 | 音
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牡鹿搭からカメラを落とす

2014-04-20 | アウトドーア・環境
怪我以後初めて大きな壁を登る。肩から肘に掛けての筋も前日のボールダーで痛んでいたので、それほどの成果は期待できずに適当に陽射しの下で登るつもりでいた。それでもなんとなく昨年からの課題を選んでしまった。

勿論昨年からの課題は今年は大分敷居が低くなっている。それでも、その一つ「ボックフェアシュナイデュング」つまり「牡鹿搭の凹角」は、技術的には全く問題ないのだが、ハーケン一つ無く、30Mを一気に登るものなので、墜落の可能性が恐ろしく、更に引き返して来れないルートである。

足元まで行くと想像していたように北東面なのでもう一つ陽が当たらず、肌寒い。それでもそこまで来たからにはと思って自らを鼓舞するのだが、肩の調子に不安がある。明らかに、右手を差し込んで突っ張るデュルファー登りの箇所か右手を突っ込んでのリス登攀が核心部なのだ。

それでも試し試しウォーミングアップ代わりに登り始めると最初の障壁が現われる。そこで時間をかけて中間支点に機械式楔などを設置していると身体が徐々に温まってきた。最初の小さなコブを乗り越えると、腹が決まってくる。それでも用具を節約しながら楔などを掛けていくと、上半の核心部の下に出た。

そこで長いシュリンゲを組み合わせれば、大きな岩角に、命を護ってくれる中間支点を掛けられたのだが、120CM三本では十分かどうか疑問だったので、断念していよいよ核心部に入る。割れ目の入り口になるので下が抉れていて、手がかりも右の壁にある穴と襞である。だからどうしても右手を掛けて引っ張る形になる。痛さは忘れていたが、強く引っ張り続ける自信はなかった。そこで念のために確りとした支点を設置する。二度目の試みもそれほど容易ではなかったが思い切って割れ目の下辺に足を掛けて乗り越える。

なるほどそこに立つと、核心部には赤色のフレンズがどんどん掛かるので、幾つも欲しくなると聞いていたところだと分った。既に下部で赤のヘクセントリックを掛けて - このルートを登るために購入しておいたようなものである -、更に割れ目の入り口にも赤色を使ったので、残りは一つである。適当に最後の一つをかけて、左の壁に手掛かりを見つけた。そこに立って、今度はリンクカムの一つ大きな金色を押し込んでみる。とてもよく効いてくれた。流石に倍の価格の商品である。

更に割れ目上方の左の縁に小さな手掛かりを見つけたのでそこに立ち上がるが、そこから割れ目を抜けるまでは足掛かりも手掛かりも無い。落ち着いて身体を左に傾けながら、右手と右足でバランスを取って、更に大きな青いフレンズを差し込む。綺麗に効いてくれてとても嬉しかった ― そしてザイルが赤く染まっていたので指を見ると出血していた。なぜならばそこからは登りつくすしかないからで、デュルファー気味に二手ほど登ると上部の岩角に手が届いた。そして岩角を越えて上部の穴に頭を突っ込んで、息を整える。

下から笑い声が聞こえるのは下肢しか下から見えなくなってしまっているからである。穴は向こう側に抜けているのでもう少し大きければ其の侭抜けて行きたいところだった。どうもそれも子供の穴抜けでは無いが不可能そうなので、腰の青いヘキセントリックを探る - その時にその内側に挿していたカメラを落としたようだ。そして、その青色を穴の上部にを掛けて、再び穴から上半身を出して、最後の瘤を越える。終了点の立ち木に確保を取る。

カメラを落としたことには気がついていなかったので、相棒がなにかを探しているのを見てまたつまらないことをしていると思っていた。暫く探したあと諦めて登ってくるが、下半部は全く問題なく登ってくる。しかし上部に来て核心部で大分苦労をしていた。そして「ザイルにぶら下がっても楔の回収を優先しろ」と言い渡しておいたにも拘らず、最後から二つ目の容易な青いフレンズを回収してこなかった。全く容易に取れるにも拘らずである。要するに私がバランスを取って設置する姿勢が全く取れていないのである。全くそこを登る技術難度に達していないことを示す。最近毎度のように同じようなことが繰り返されるのは偶然ではないと気がつくようになった。

さて、頂上までは登りたがっている相棒に行かせて、こちらはカメラやフレンズの回収が気になっているので、さっさと頂上での記帳を済ませて、そこに気もあらずで、回収を兼ねて懸垂下降を二回して、地上に降り立つ。カメラの落ちた方向は聞いていたので、谷を降りていく。それ以上は致し方ないというところから上に向かって登ってくると、谷の鞍部のような場所でカメラバックを見つけた。外見は確りしている。そもそも、紐で結んでいたゴム部と吊り紐の二箇所が切れているのは、穴で横にこすったからだろう。発見地点まで殆ど40Mほどの落差であった。

またケースのファスナーの手掛かりが吹っ飛んでいる。徐に開けると痛んではいない。電源を入れると普通に作動する。レンズも出る。ディスプレーも割れていない。写真も写る。モニターも出来る。相棒に聞くと、穴から降ってきて - 恐らくどこかで撥ねたあと、砂地の地面で跳ね返って其の侭鞍部へと吹っ飛んだようだ。自宅で試してみても傷みは全く確認できていない。ケースから外に出ていたストライプなどが痛んでいる感じがするだけだ。兎に角、ケースの効果は天晴れであったが、その吊り部などはあまりに弱すぎた。もっとしっかりしたケースと適当なストライプを探さなければいけない。

凹角は素晴らしい登攀だった。昨年登ったホッホシュタインの「オークの割れ目」と下半部は似た感じで登るよりも支点を設置するのに上手に立たなければいけないのに苦労する、上半部は「火の酒の道」よりも倍ほど長くハーケンが無いので難しい。これが右腕故障でも完璧に登れたので、格下の場所は何時でも完璧に登れる自信がついた。ビッグウォールを登る最低条件だろうか。



参照:
ある程度熟せるように 2013-09-29 | アウトドーア・環境
火の酒ブックコーナーの道 2013-10-12 | アウトドーア・環境
デジタルカメラの高機能 2013-10-06 | テクニック
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ヨハネ受難曲への視点

2014-04-19 | 
ヨハネスの受難曲を聴いた。前回大変失望したグルノーブルのグループを芸術監督のマルク・マンコスキーが振ったものである。本来ならばフランクフルトまで出かける価値が無いのだが、一週間以内にバーデン・バーデンの復活祭音楽祭で同じ受難曲に接するので勉強のために出かけたのだった。

始まりの管弦楽を聞いてこれは価値があったかと思ったが、それは期待が高まり過ぎだった。それほど面白いバランスで管と高弦と通奏低音を鳴らせるのならと思ったのだ。それは、一般的には弦が通奏低音に乗って、管がそこに沿うという形になるのだが、小さな編成でもありそれがこの演奏会を通して独特の通奏低音感覚を示したことは事実であろう。

そして、合唱を用いずにソリストに全てを歌わせる経費削減は良いのであるが、それがコラールの強調としてその表現力として使われるのがこの指揮者の処方箋であったのだ。

しかしそれが何を示すのかは分らないが、この受難曲オラトリオの歴史的な背景をおさらいしておくことが必要であろう。1724年の初演から何回も手が加えられていて、少なくとも四種類の版があるようだ。一般的には最終版の管弦楽も大きくなっている版が演奏されるようだが、手元にあるとても優れた録音でヘルヴェッヘが1725年版を利用している。

大きな相違として最初の合唱

Herr, unser Herrscher



O Mensch, bewein dein Sünde groß

に取り替えられているのに始まって、

Wer hat dich so geschlagen

のあとに繋ぎとして挿入されていたソプラノとバスのアリア

Himmel, reiße, Welt, erbebeが後に省略されている。

ドラマティックな

Zerschmettert mich, ihr Felsen und ihr Hügel

が 

Ach, mein Sinn

と内省的な歌に替えられている。

Ach windet euch nicht so, geplagte Seelen

も 

Betrachte, meine Seel Erwäge, wie sein blutgefärbter Rücken

と替えられている。

Ach Herr, laß dein lieb Engelein 

のあとに続くカンタータ (BWV 23) 由来の

Christe, du Lamm Gottes   

が終曲に残されている。

その他、エヴァンギリストのそれも短縮されているようだ。第二版の変化は、年間を通してのカンタータ集の完成と相前後していることからと書かれている。またその後の版の変化は、マタイ受難曲の影響が大きいとされる。

それは、一つにはピカンデルとの共同作業を通しての受難曲オラトリオとしての芸術的な発展であったとされる一方、伝統的な前任者ヨハン・クーナウのやった仕事から離れていくことを指している。同時に、そもそもの依頼条件である、オペラティックになってはならないという必要条件を満たすための創造的な活動であったことは間違いない。

さて、こうした視点から観察すると、第二版の差し替えは全くされずに終曲のみが付け加えられている今回演奏された版は、何版なのだろうか?それは定かではないが、全体の印象は次のようになる。

具体的にアクセントを強くした運動性の良い現代的な通奏低音に対して、合唱自体もソリスト的に歌われて始まるのだが、そのディクテーションなどがじっくりと練られていなければ全く表現力を持たないことになり、ばらばらの印象しか与えないのである。これが個々の集まりとしての所謂テュルバと呼ばれる聖書に登場する群集以外のコラール合唱の強さを示すぐらいの読み込まれ歌い込まれたものであれば、丁度ヘルヴェッヘのゲントのそれに近くなったであろう。つまりそれは言葉の強さも失い、合唱の表現力を悉く失うことになる。冒頭の合唱で全てを失っていたのである。

その反面なるほど淡々と語り続けるべきエヴァンギリストの伸ばすくだりなどは強調され、ミンコフスキーの身振りなどもどこかオペラ的な効果を見せるものであった。それはそもそもの依頼目的とは異なるものであることは間違いないのだが、そこで態々付け加えている終曲のそれがそのものカトリックのアニュスディであることを思い起こさせた。しかし、そこから導き出される全体像が明白でないのが歯がゆく、失望を強くさせるのだ。

今晩は、生中継されるバーデン・バーデンでのヨハネによる受難オラトリオである。期待するのは、まさしくどのような版を採用するかと言う以上に、ピーター・セラーズとサイモン・ラトルの協調での上の件に関する明白な提出なのである。(続く)



参照:
期待してなかった以上の収穫 2012-03-20 | 音
18世紀啓蒙主義受難曲 2007-03-22 | 音
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今日はなんとかなっている

2014-04-18 | 生活
WIN8のLAN環境はなんとか回復させた。お陰で、ワークグループや登録氏名などがXPとは異なって厳密に管理されることも分った。LINUXの設定のときに役に立つかもしれない。

それが終わってやれやれと思うと、XPが動かなくなった。セキュリティーエッセンシャルスが悪さをしていることは分ったが、壊滅的な症状になった。そこで何とかエッセンシャルズをデインストールした。件の期日以降も未だにアップデートするというソフトの不具合が結局命取りになった。そこで、違うアヴィラのアンティウィールスというソフトに乗り換えた。今後どのように進展するかは分らないが、エッセンシャルスが使えなくなった時点で踏ん切りがついた - エッセンシャルス自体がウィルスなのだ。

肌寒い日であったが、久しぶりにボールダーに出かけた。スーパーの帰りに寄ると今日も誰も居なかった。先日狙いを定めていたアレックスブロックの6bのトラヴァースである。一時はとても不可能と思っていたのだが、痛めた肩に悲鳴を上げながら数度の挑戦で克服した。VIDEOで研究した甲斐があったが、それ以上に足掛かりにチョークで印がついていたので狙いが定まった。VIDEOで見ても複雑なのだが、手掛かりを動かし替えるところが味噌で、素早くスライドをさせて持ち替えるのが難しかった。

大きなルートとは違って、何度も挑戦するのだが、力も尽きるのが早い。結局三ヶ月ほど掛かったかもしれないが、挑戦することで学ぶ技術も少なくなかった。そして技術的な達成感はまた格別である。同時に体幹などが鍛えられるのが素晴らしい。

二月にあった水道の検査結果が出た。問題は無かった。水の検査は飲み水の問題と思っていたが実は違って、バクテリアの繁殖した水が温められて気化するのが最も危険だと知った。ミュンヘンなどでもシャワー禁止の命令が出ることがあって、飲み水以上に検査が必要だというのだ。正しく現代的な水道水の問題のようだ。



参照:
成果を出すまで我慢の為所 2014-04-11 | 雑感
WIN8.1より優れたWIN8 2014-04-15 | テクニック
システム疲労を起こす前に 2014-04-05 | テクニック
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余りにも素朴過ぎた彼女

2014-04-17 | 
いろいろと徐々に片つきつつある。今年に入ってからのことでまだ書いていないことがあった。一月のことだった。これは流石のあの山田洋次でも思いつかなったったシナリオだった。

久しぶりに出会ったのはよかったのだが、あれほど彼女に驚かされるとは夢だに思わなかった。会いそうな気配があったので丁度よい機会だとある会に招待しようかと待っていたときだった。

目の前にあの愛しい彼女が現れたときは、「まさに図星だ」と少々興奮気味だったまでは覚えている。それで、「久しぶりだ」と挨拶してから、間髪入れずに私のプランを披露したのだった。

するといつものように一息入れる感じだったので、「お友達もどうしている」と聞くと、ボンに移ったと言う。それなら最近はどうしているかと尋ねると、下腹を叩いて「お目出度」と言うではないか!まさしくドイツ語で言う「心臓が粉々になる」と言うほかないほど驚かされた。流石にその後は言葉が出なかったが、彼女は落ち着いて挨拶をした。

まさかの展開だった。後で考えてみると合点がいくことばかりだった。二年ほど前に彼女が好意以上のものを示したときにはこちらは十分な対応を取れなかったのである。そして十ヶ月ほど前にこちらの意思をはじめて明らかに示したのだった。そして最後に分かれた時には、先方に全ての判断を任せてしまったのだった。

もしあの時に私が押していたならば、今頃自分の子供が出来ていたかと思うととても恐ろしい。カトリックの家庭なのかどうか知らないが、なるほど彼女の姉も若いお母さんであり、殆ど同じような状況になることは予想がついていたことでもあった。

それにしても、現代のドイツの田舎の村ではないことはないが、都市部での出来事としては考えてもみなかったことである。ふられたから言うように思われたくないが、その素朴な感覚にはやはりついていけなかったに違いない。最初の出会いからして可也強烈であったが、我々の感覚からすると、もう少し社会的なことから様々なエゴや計算などがあるのが普通なので、先進国はこうした少子化社会となる訳だが、彼女の属するような社会であれば決してそのようにはならないに違いない。

厳しい父親は、これでもって恐らくお腹に子供を宿った娘二人を嫁がせることになるのだろう。姉の方はいざ知らず、少なくとも妹の方はまだまだ清楚な感じで、美しい娘であることには変わりなく、とても妊婦には思えなかったのである。なにを急いで妊娠する必要があるのかと思ってしまうのが我々現代人そのものであろう。

彼女は、あまりにも素朴過ぎで、情熱的過ぎたのだろう。典型的な次女タイプであった。そして最後に態々妊娠を知らせに来てくれたのもとんでもなく素晴らしい出来事だった。



参照:
上半身にみあう下半身 2013-12-30 | 生活
美しさへの確信を抱かせる 2013-12-16 | 女
自己分裂の葛藤の日々 2013-10-22 | 女
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