Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2017年4月

2017-04-30 | Weblog-Index


ストックの石突きを購入 2017-04-30 | 生活
天才の白鳥の歌と呼ばれた交響曲 2017-04-29 | 音
遊園地のようなラムぺ 2017-04-28 | 生活
「タンホイザー」パリ版をみる 2017-04-27 | 音
力尽きそうになる石切り場 2017-04-26 | アウトドーア・環境
美学的に難しい話し 2017-04-25 | 文化一般
時間と共に熟成するとは? 2017-04-24 | 文化一般
細身の四年ぶりのジーンズ 2017-04-23 | 生活
なにか目安にしたいもの 2017-04-22 | 雑感
入場者二万五千人、占有率93% 2017-04-21 | 文化一般
フェイクニュースの脅し 2017-04-20 | マスメディア批評
需要供給が定めるその価値 2017-04-19 | 生活
明るく昇っていく太陽 2017-04-18 | 文化一般
殆んど卑猥な復活祭卵の巣 2017-04-17 | 暦
曇天の聖土曜日の騒々しさ 2017-04-16 | 暦
聖金曜日のブルックナー素読 2017-04-15 | 暦
フランスのチーズとワイン 2017-04-14 | ワイン
復活祭音楽祭のあとで 2017-04-13 | 生活
今日か明日かの衣替え 2017-04-12 | 暦
運命の影に輝くブリキの兵隊 2017-04-11 | 文化一般
鼓動を感じるネオロココ趣味 2017-04-10 | 音
あれやこれやと昂る気分 2017-04-09 | 雑感
漸く時差ボケから解放される 2017-04-08 | 暦
オンドラ、東京オリムピック否定? 2017-04-07 | アウトドーア・環境 TB0,COM2
ギリギリの悲愴交響曲 2017-04-06 | 音
価値のあるなしを吟味する 2017-04-05 | ワイン
FFmpeg出力でハイレゾ 2017-04-04 | テクニック
Ich war noch nie in Japan. Das ist.. 2017-04-03 | 暦
購入したDMM社PIVOT 2017-04-02 | アウトドーア・環境
もう一つの第六交響曲 2017-04-01 | 音
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ストックの石突きを購入

2017-04-30 | 生活
「メルケル首相は、二重国籍について、その忠心度は変わらないとして理解を示した」というのが、ニュースで流れていた。当然だろう、そもそもそのようなことが問題ではなくて、寧ろ被選挙権や権利について論じていかなければいけない。移民の子供が通う学校が自ずと定まって来てコロニー、ゲットー化が進んでいる地域もあるらしい。それをいえば地域によって社会層が異なることなど、公立学校の問題なので、CDUなどが掲げる本質を外れる問題で、本当にAfDなどの票田を削れるのかどうかとても怪しい。

マンハイムで買い物をした。序にスポーツ店に立ち寄ったからだ。最後のスキーツアーで失ったものはまだ補充できていない。その一つであるストックの皿を探している。アマゾンで発注したものは合わなくて送り返した。使っているのはエーデルリットのハイキング用のストックで伸び縮みする。だから石付きの部分は細い。

店頭で親仁に残っている皿を見せると、これは扱っている皿とは方式が違うから付かないという。しかし石突きを付ければいけるかもしれないと言うので、地下駐車場にストックを取りに行った。そして戻ってきて石突きのプラスティックを嵌めると、これならいけるということになった。

つまりレキ製の石突きを取り付けると、 送り返した皿もレキのものは全て付くというのだ。10ユーロ足らずのものであるので、早速購入した。皿は、これで夏と冬のシーズンを別けて使えることが分かったので、調べてから選択するということにした。

石突きの重量が片方12グラムで、自身のストックと合わせると240グラムになる。決して軽くはないが、皿は30グラムぐらいだろうか。今まで使っていたものが20グラムなので、やはりできるだけ軽いものが良い。レキのカーボン・ティタンで210グラムぐらいで、通常のもので245グラムぐらいなので、それにどれほど近づけるかである。今まで使っていたのは246グラムとなる。送り返した皿が17.5グラムだった。

夏用の皿を購入しようと探していると、購入した石突きではなく、皿を固定するタイプの製品が見つかった。価格も安く、内径も10㎝から11㎝まで三種類あるので全て試して見ようと思った。勿論重量的に完全に有利になる。その三種類と皿を合わせて発注した。送料込みで15ユーロしない。届くのが楽しみである。ストックのシャフトが225グラムなので、発注した固定プラスティックと皿で20グラム以内に収まれば完璧である。

日曜日は天気が良くなって気温が摂氏20度に至るらしい。夜はフォアアールベルクからキリル・ペトレンコ指揮マーラー交響曲5番の放送録音前半の放送がある。父親がコンサートマイスターをして地元や音楽学校での地縁が無ければキリル・ペトレンコが指揮することはあり得ないのだが、マーラーのツィクルスだけは最後までやり遂げるということで、義理堅く地域奉仕をしていることになる。プロフェッショナルな交響楽団としての力を見せたということであり、とても興味深い。



参照:
多重国籍の奨めと被選挙権 2017-03-15 | 歴史・時事
フェイクニュースの脅し 2017-04-20 | マスメディア批評
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天才の白鳥の歌と呼ばれた交響曲

2017-04-29 | 
承前)一週間後に迫った。モーツァルトの交響曲39番変ホ長調K543が演奏されるコンサートである。この曲は天才作曲家の白鳥の歌と呼ばれていても、ト短調やハ長調交響曲に比較して苦手な曲だったのだ。それ故かポケットスコアも所持しておらず、今回初めて楽譜を見た。そしてなぜこの曲が他の名作と異なるかが初めて分かった。

なによりも曲冒頭の重いアダージョの序奏からして、「ドンジョヴァンニ」でもなく、バロック序曲のようなそれが、所謂BGMとしての現在の消費されるモーツァルトとは違和感があるのだ ― それらを称したビーダーマイヤー風とは異なる。恐らくそういうことだろう。それに関しては改めるとしても、謎解きにあたりそうなものが二楽章にもあった。

この二楽章がこのように書き込まれている作品だとは全然気が付かなったのである。フレージングでずらされるアーティクレーションが考えられないような精妙さを形作っているのだが、正直今まで他の交響曲においての弱音器を使っただけの響きほどに、それが充分には聞き取れていなかったのだ。

試しに精妙な合奏と評価の高いジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団の演奏を聴いてみた。なるほど精妙極まる演奏で、ベルリンで客演した「最後の四つの歌」の録音で感じたリズムの鈍さは全くなく、正確無比な律動を刻んでいて、トレモロなどは笑わせる。だから時計仕掛けのように響きながらも、リタルタンドなどを時間もってたっぷりとかけていて、表情をたっぷりとつけている。先日のペトレンコ指揮のハフナー交響曲での演奏実践を思い起こした。要するに、視覚的な表情をしっかりと定めて演奏させている。ペトレンコが自身を「モーツァルト指揮者ではない」と自認するならば、このユダヤ人亡命アメリカ人もモーツァルト指揮者ではなかったということになるのだろう。

そこでモーツァルト指揮者カール・ベーム博士の録音となるのだ。先ずはベルリンのフィルハーモニカ―とのハフナーの録音も聴いてみた。嘗てこの全集を聴いていても全く覚えていなかった。管弦楽はあまりにもいつもの弦の奏法を重視するばかりに痩せこけた貧しい響きになることが多く、熱心に弾いているのだが、今回のペトレンコ指揮の演奏と比較するとリズム的にも曖昧さがあって、ついていけていない場面もある。しかし、否それ故により本質的な天才の創作を辿れるような演奏実践がなされているようだ。こうした演奏録音を具に見ていくと、来週演奏するヴィーンの座付き管弦楽団でどこまでこうした表現が可能なのかと訝られるのである。

そしてこの39番交響曲は、指揮者フルトヴェングラーやムラヴィンスキーなど所謂モーツァルト指揮者ではない大指揮者が得意にしていた。それはどういうことだったのか?(続く)

Mozart. Sinfonía nº 39 en Mi bemol mayor Kv 543 II-Andante con moto

Mozart - Symphony No. 39 in E-flat major, K. 543

Mozart-Symphony No. 39 in E flat Major(K. 543) II. Andante con moto

Mozart - Symphony n°39 - Cleveland / Szell


参照:
ペトレンコにおける演奏実践環境 2017-03-30 | 文化一般
ハフナー交響曲を想う 2017-03-28 | 音
九月の四つの最後の響き 2016-09-23 | 音 
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遊園地のようなラムぺ

2017-04-28 | 生活
工事終了したバイパスの新しいラムぺを走った。先日開通式典の様子だったが、結局式典が終了していなくて通れなかったのだ。買い物帰りにワクワクしながら突入した。突入というのは真実で、今までドイツ国内否欧州でこれ程急坂のラムぺは見たこともなかったので、勢いをつけて突入したのだ。それでもそのような経験が少ないので、スピード感が分からない。やはり上に駆け上がって右カーヴとなるとブレーキを掛けなければ怖かった。

最初からこのような誘惑を起こす遊園地のようなラムぺなので初事故は間近だと思う。いずれ制限を付けて更にスピードコントロールカメラが設置されると予想する。冬になれば凍結して坂を上がれずに後ろ向きで落ちて来て衝突事故もあり得ると思う。なぜここまでの急坂になったかは分からない。短くしたことでどれほど建設費が倹約できたのだろうか。土地買収で問題があったのか?兎に角、今後とも話題になると思う。

実際にバイパスのその先の降り口ではスピード出し過ぎでカーヴを曲がれ切れずの事故が続出していて、知り合いも事故った。そして今は制限が30㎞になっている。そこが危険なことは自分でも気が付いていたので、さもありなんだ。そして今度のラムぺも間違いなく要注意カ所である。

ドイツの道路はアウトバーンのカーヴのバンク角などとても高度な計算と建築がなされているが、最初はどこも速度制限を設けていない。そして私たちのようなカミカゼ族が確りと問題を起こして、事後に制限がなされる。私自身一体幾つの速度制限を推進させたことだろう。少なくとも、被害妄想気味にそのように考えている。

しかし上の箇所は、恐らく時速100㎞ではとても曲がり切れないと思う。もし曲がり切れないでカーヴの外側に激突すると、跳ね返されて可成りの事故になるだろう。通常の自動車は乗り越えるようなことにはなっていないが、大型のトラックが高速で坂を攻めてきたとなると、橋桁の下に落ちて大事故になるかもしれない。二輪車ならば人間が飛ばされて下に落下するだろうか?一度写真を撮ってみて確認したいと思わせる。

ハムブルクの音楽監督ケント・ナガノが先二週間のスケジュールをキャンセルしたとあった。評判の良かった「影の無い女」新制作シリーズと、なんとエルブフィルハーモニーでの「千人の交響曲」も含まれている。前者もさることながら、後者を楽しみにして遠くから旅行を企てていた人もあるだろう。代わりにイスラエルの指揮者イムバルが振るようだ。個人的には両方とも出かけるまでの魅力はなかったので、アバド指揮の最後のルツェルンでのプログラム変更の時の気持ちと比較のしようが無い。ハムブルクの歌劇場の写真を見て、更に前任地のミュンヘンでの時の写真を見て仰天した。前者は実年齢よりも歳を取っているように見えるが健康そうだ、しかし後者の血色がとても悪い。緑が強調されてしまうことはよくあり得ることなのだが、少なくともマネージャーは修正させるべきだった。あのように不健康な感じなら人気どころか誤解される。ティルソン・トーマスとかそれを売り物にしているのなら兎も角、プロフェッショナルなスタッフのこのような手落ちが解せない。



参照:
バイパス道路区間閉鎖中 2015-11-04 | 雑感
爪先で荷重可能な喜び 2017-03-29 | アウトドーア・環境
曇天の聖土曜日の騒々しさ 2017-04-16 | 暦
詐欺の前に凍りつく聴衆 2012-08-19 | 文化一般
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「タンホイザー」パリ版をみる

2017-04-27 | 
承前)シノポリ指揮のパリ版「タンホイザー」を聴き始めた。案の定序曲から第一幕へとバレーが続き、そして二場に加えて、三場になって羊飼いが「Schauen」と歌うと、ドルチェのイングリッシュホルンを一節書き加えてから、オリジナルへと戻る。更に四場で、重唱からアレグロへとタンホイザーが「Zu ihr」と急き込んで歌う前の12小節の管弦楽が書き換えられている。

第二幕になると、「ゼンガークリーク」の重唱からタンホイザーのソロ部分だけを歌わせて他のパートを落としてしまうのはパリ版でなくてもコンヴィチニー指揮盤でも採用されている。寧ろそれに合わせるようにコーダにおいて、パリ版では激しい後奏に書き換えられていてバランスが取られているのが重要である(譜例)。第三幕のフィナーレでは、第二幕同様の重唱マエストーソの前に女声を膨らましている。演奏自体はやはり聞き通すのが苦痛だ。

ドミンゴの歌うドイツ語よりも、ドイツ語圏でも活躍したアグネス・バルツァの歌にはそれ故に余計に失望するしかない。それを言えばシュテューダーの歌唱も彼女が如何に便利屋として売れっ子になっていたかが分かる歌唱内容で、自己管理が出来なかったゆえにキャリアーを終えたことで歌劇場を訴えても話にならない歌唱である。サルミネンなどを含めて核を作る歌手が歌っておらず、ベルリンでの録音よりも悪い合唱団でこれも話しにならない。

作曲家でもある指揮者は流石に楽譜を読み込んでいるようだが、残念ながらシュターツカペレドレスデンのコンサートで聞いた時のように、音符のシステムの中にすべて音が塗りこめられてしまっていて、明晰な音像が浮かび上がらない。同時に音楽的な表情がイタリアオペラのような歌い込みになっていて、ここぞというときに律動感が暈ける。更に意味不明なアゴーギクが使われて、知的な音楽実践であるよりも情感的な表情付けとなっていて全く感心しない。氏の作曲もそうした塗り込めた音色とベルカント的な表情が聴かれるのが特徴である。

こうして第二幕のフィナーレを聞くと、リズム感が鈍かった筈のコンヴィチニー指揮のそれの方が来たるペトレンコ指揮のそれを想像させてくれて興奮させてくれるだけの演奏となっている。要するに原則がはっきりしていてドイツ的な美しさとなっていたが、このシノポリ指揮には全くそれが無い。第三幕ではよって冗長な面が強調されていて、作曲の問題であるかのように響く。バイロイトでの公演後にレコード会社の要請で自信満々で指揮しているのだろうが、アーティキュレーションやリズムの精査などを練習させるだけの企画になっておらず、市場の評判通りに出来の悪い録音制作となっている。

しかしこのおかげで、一番長いパリ版については大体分かった。先ずは第一幕との和声的連関の詳細を調べて、またパリ版のフランス語上演も参考にすればよいだろう。作曲家がその死の直前まで躊躇した理由もじっくりと見ていきたい。基本的にはやはり1860年版が妥当な選択のように思われるのだが、確かに全体のバランスがあまり良くないようにも感じる。まだ時間はある。(続く)



参照:
細身の四年ぶりのジーンズ 2017-04-23 | 生活
今は昔の歴史と共に死す 2010-03-22 | 雑感
Ich war noch nie in Japan. Das ist.. 2017-04-03 | 暦
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力尽きそうになる石切り場

2017-04-26 | アウトドーア・環境
久しぶりの石切り場である。最近ザイルを組んでいる地質学の二メートルのパートナーからのお誘いだ。職探し中なので自宅にいるので天気が良くなるとお誘いが掛かる。寒い合間に気温が上がることは分かっていたが、お誘いが無ければ買い物の序にボールダーに出かけたかどうか疑問だった。早朝には零下になるとなると、午後に摂氏16度を超えたとしても躊躇する。怪我はしたくない。

時間的に余裕がなかったので、南ファルツの奇岩地帯に出かけるのは断念して、15時30分に石切り場で待ち合わせた。週初めに関わらず流石に比較的多くの人が来ていた。

最初はスタンダードな「マボウディック」六級下から始める。折角だから初めてのパートナーにオンサイトで登ってもらう。自分自身は一度吹っ飛んだところでやはり苦労した。左側に抜けると吹っ飛ぶ可能性が強く、右側のカンテを掴んで失敗する方が良いようだ。以前は勢いで簡単に登っていたが、あの当時の動きはない、それ以上に安定した登りを目指しているからだ。その点上背があるにしてもパートナーの登り方は落ち着いていて好ましい。

二本目は、これまたスタンダードの凹角「テュルガンツ」六級下で、取り付きが厄介だ。走行しているうちに弁護士のトーマスがやってきて久しぶりの挨拶をした。「フィットか?」と尋ねてくれたのは、肩の故障を色々見聞きしていたからだ。彼はミュンヘンの大学で学んだものだからそれなりの経験があり、余計にその故障の酷さを知っているようだ。因みにミュラーカトワール醸造所の顧客でもある。

三本目は、その隣の六級上の「ベルクヴェルク」である。最高の困難度の最初のハーケンから上を掴むところは、流石に二メートルを生かして上を何とか掴んでいた。多くの人は飛び上がるところだ。そしてその上に立ち上がるのに苦労していた。これは逆に大きいのが邪魔していたかもしれない。私はいつものようにザイルの張力を使うことで上を掴んだ。そして今までは苦労したことのない立ち上がりで少し難儀した。これも以前のような動きをあまりしなくなっているからだろう。

四本目は、「テラピーツェントルム」六級上をリクエストで登った。これまた両足を思いっきり突っ張っるのだから、長身が有利なのだ。丁度反対に最も私が嫌なルートの一つだが、その中間位に足を置く方法で誤魔化した。それでも何とかなるという印象を得たので、苦手意識はこれで消えるだろうか。それでも上部で足場を見落として苦しんだ。

五本目は、「ウタ、ウンズィヒトバー」六級下で、最上部のツッパリでのミニオーバーハング越が嫌なところである。足を滑らせると怖い。そこはいつもよりも安定して立てたので、どうも柔軟性が良くなって、突っ張る足が以前よりも安定してきているようだ。それでも乗り換えてからの最後の一手で力尽きそうになった。



参照:
北壁登攀の準備? 2017-02-18 | アウトドーア・環境
オンドラ、東京オリムピック否定? 2017-04-07 | アウトドーア・環境 
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美学的に難しい話し

2017-04-25 | 文化一般
引き続き寒気が居座っている。それどころか週の中半にかけてアルプス圏は大雪になるそうだ。ワイン街道に住んでいてよかったと思う。五月になろうかというのに冬タイヤが離せないなどとはシュヴァルツヴァルト周辺でも住みにくい。

だから、朝起きも辛く、ランニングの方もパンツを履いたままのジョギングペースから抜け出せない。胃腸の調子が完璧ではないのも寒さによる縮こまりが原因しているのだろう。暑いのは嫌だが、典型的な四月の天候でストレスが溜まっている。手足先なども冷えて、まだまだ靴下も必要だ。我慢して暖房を入れないとあとで頭痛がしている。

承前)週末に「タンホイザー」ドレスデン版を流した。そのEMI盤の演奏に関しては改めて付け加えることもなく、正直苦痛になるところも少なくはなかった。それでもその後の補筆やら死の直前まで気にしていた作曲家の逡巡のようなものをそのまま感じられたような気にさせるのである。もしかするとコンヴィチニー指揮のあの鈍いリズム感や演奏実践への配慮などが極一般的なドイツ音楽演奏環境の史実なのかもしれない ― 如何にフルトヴェングラー指揮の芸術が孤高だったかが分かり、本人がSWFで語っていた「指揮の才能があったから」が響き渡る。調べてみると、パリでの補筆で創作のロマンティックな不均衡なようなものに手入れされているようで、ベルリオーズが献呈された譜面に赤線を入れたり、また当時のシューマンの批評、更にどうしようもなかったメンデルスゾーン指揮のゲヴァントハウスでの序曲演奏などに、「タンホイザー」の問題点が歴史的に傍証されている。

そもそもヴァークナーの初期中期のロマンティシェオパーに関心のない者にとって、「タンホイザー」が今ミュンヘンで上演される価値が分からなかったのだが、パリ版での楽劇「トリスタン」の直接的な音楽的影響以上に、ドレスデン版を扱うことで、そこへ向かう衝動のような流れがあからさまになるのではなかろうか?引き続き、パリ版とされるドミンゴがタンホイザーを歌っているシノポリ指揮の録音を聴いてみる。

版に関しても背後事情を調べると、かなり複雑でとても興味深い。これはどうも、先日探していたブライトコップ人民公社のハース版のミニチュアスコアがCD棚に見つかったブルックナー交響曲4番の版以上に、美学的に難しい話しのようだ。

ヴォルフガンク・ヴァークナー博士の書いたものによると、1985年にこの作品をバイロイトでリヴァイヴァルさせるにあたって、指揮者シノポリとドレスデン版を採用することに合意して、要するに1861年のパリ版の前の一幕冒頭のバレーを除いた1860年版を選択したということになるようだ ― 因みにコジマはバイロイト初演にあたって1875年のヴィーン版に1867年のミュンヘン版を混ぜたことになる。するとロンドンでのドミンゴが歌う1988年録音盤は1861年版採用ということになるのだろうか?(続く



参照:
細身の四年ぶりのジーンズ 2017-04-23 | 生活
Ich war noch nie in Japan. Das ist.. 2017-04-03 | 暦
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時間と共に熟成するとは?

2017-04-24 | 文化一般
先日購入したブルゴーニュのサントネー2009年を開けた。色は思っていたよりも濃い目で、タンニンも効いていたが、時間と共に酸化して丸くなって来る。それでも土地柄か、ボーニュのように長持ちしそうなワインである。20ユーロ以下の価格帯からすれば、2009年のシュペートブルグンダーは最早入手困難なので、質的にはそれほどアドヴァンテージもなかったが、寝かしたものの購入価格として安かった。そもそもこの程度のワインにタンニンが効いていても八年ぐらいで熟成の結果はこの程度だ、初めから分かっている。

来月の新演出の練習風景写真などが出て来て焦りだした。あと一月を切った。この週末は1960年の「タンホイザー」全曲録音を聴いている。このように録音を楽譜に目をやりながら厳しい耳で聴くと、殆んどの場合は演奏上の問題しか聞こえてこない。今回もドレスデン版でなければシノポリ指揮のものなども聞いてみようかと思ったが、一方それも気の毒にも思った。

グリュムマーやホップなど名歌手を中心に若手のフィッシャーディースカウやヴンダーリッヒを採用した豪華キャストのEMI録音である。音響もベルリンの座付き管弦楽団の素晴らしい音響と思ってじっくり聞き始めた。そしてのっけから、高名な指揮者コンヴィチニーの鈍いリズム感に呆れた。こうしたオペラ指揮者にありがちに、歌うのがヴンダーリッヒやフィッシャーディースカウとなるとそれに合わせる形で管弦楽としっかりしたリズムを刻むことになる。そこで問題になっているのがグリュムマーで、持ち役のアーティキュレーションにも留意して音程もとっているのだが、充分に楽譜を読めていないものだから指揮者共々とても鈍い音楽になってしまっているからである。

先日のザルツブルクでのティーレマン指揮「ヴァルキューレ」でも、ハムブルクでのケントナガノ指揮「影の無い女」でも同じだが、こうした歌劇場の指揮者などは楽譜を読み込んで、それをしっかりと歌手に歌わせることが出来ないと音楽にならないのである。それをさせるためには管弦楽を完全に掌握していないと話しにならない。戦前は各々の役柄を数え切れないほど歌いこんだ歌手が存在して、それも作曲家の弟子などの薫陶を受けた歌手などがいたのだろう。そうした世界であったのだ、しかし現在のオペラ指揮者が経験を幾ら身に着けても楽譜が読み込めていなければ芸術的な質は一向に向上しない。先日も音楽家に「ミュンヘンに通っている」と話したときに、チューリッヒの歌劇場は何だけどバーゼルとなると出かける気がしないというのは当然だと思う。音楽に興味があると歌芝居劇場などには出かけられなくなるのは当然なのである。

新聞にラインガウの音楽祭のチラシが折り込みになっていた。中を見ると、レディデンスピアニストとしてイゴール・レヴィットの名があった。馴染みはないが、六月六日にミュンヘンからコンサートの生中継があり、今秋東京で繰り返す同じプログラムでラフマニノフを弾き、その前に台北でべートヴェンで共演するピアニストとして見た名前だ。勿論その名前からユダヤ系ロシア人で指揮者キリル・ペトレンコと同じなのであまり興味を抱かなかった。しかし調べてみると、劇場で働いていたピアニストの母親はハイリッヒ・ノイハウスの孫弟子だとある。そして何よりもフレデリック・レジェスキーの曲をCDアルバムに吹き込んでいる。それどころか他のコンサートは売り切れていても、何と作曲家とのデュオコンサ-トは売れ残っていた。このポーランド系ユダヤ人の作曲家とは間接的な付き合いもあり、これはどうしても聞き逃せないと思ってティケットを予約した。正直どの程度のピアニストなのかは分からないが、そのレパートリーなどを見ると、前回ペトレンコ指揮管弦楽団と共演したカナダのアムラン並みに期待できるのかもしれない。

Igor Levit - Rzewski - The People United Will Never Be Defeated! Thema. With determination

Igor Levit - Rzewski's Variations (Gramophone Classical Music Awards 2016)

Igor Levit probt Beethovens 3. Klavierkonzert mit dem Symphonieorchester des BR - BR-KLASSIK

BBC In Tune Sessions: Igor Levit plays Beethoven

参照:
腰が痛くて熟睡できず 2017-01-07 | 生活
反知性主義のマス高等教育 2016-03-21 | 歴史・時事
石灰が効いた引き分け試合 2014-08-10 | ワイン
漸く時差ボケから解放される 2017-04-08 | 暦
Ich war noch nie in Japan. Das ist.. 2017-04-03 | 暦
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細身の四年ぶりのジーンズ

2017-04-23 | 生活
ジーンズを発注した。前回のものは四年前の購買になる。まだ痛んでいないと言われる。それでも流石にオペラの立ち見などに履いていくのは憚られる。良さそうなものをウィッシュリストに入れてからでも半年ぐらいになる。その時よりも3%安くなったので手を出した。サイズが無くなれば一貫の終わりで、今普段着に下している33インチのものから二段階下の31インチなので、長さも含めて、あまり数が出ない。寧ろ売れ残るサイズであり、定価からすれば大分安く、前回の出費86ユーロよりも大分お得になる。色合いは前回ほど好ましくはないが、なによりも新しく、細身で形は改善されるのではないかと期待している。

大きめのジーンズならば、内股の生地通しの摩擦で股ズレもしないので、痛み難いのは分かっている。現在使用中の32インチでも全く傷みが無く、更に腹回りがずる感じがするぐらいで、間違いなく更に小さめの方が都合が良い。先ずは足を通してみなければ分からないが、太ももなどがすっきりとするのではないかと思う。幅でとると、同じ長さでも長目でなくなると思われる。しかしこればかりは更に長目が履ける訳ではない。

五月のミュンヘンは初日シリーズなのでジーンズは履かない予定だが、新しいシャツもあるので気候が良くなってお出かけやデートなどになるとやはり古くさいといけない。更にだらだらしたジーンズは更に暑苦しい感じで良くない。

前日に発注したものが届いた。色は予想よりも濃い目だが、緑がかっているようで、今普段着にしている33インチのものとは違うようだ。冬は暖かそうな感じがするが夏はどうだろうか?上着も若干合わせ難いかもしれない。まあ、送料込み63ユーロなら文句は言えまい。

何よりも違うのは、太ももが絞られて、確りと包まれスリムになっていることで、腹回り以上に効果があるだろう。腹回りはもう一つ下の30インチでも履けるのではないかと思わせる。嘗て無理をして履いていた時とはまだまだ大分余裕があるが、あの当時は脂肪が多かったのでまた意味が違うのかもしれない。走り込んでこれ以上細くなると今度はスーツなどのズボンに困ることになる。目的は脂肪を落とすだけなのでこれ以上細くする必要はない。なによりも太ももなどはこのリーヴァイスのオリジナルフィットでパンパンなのでこれ以下は履けても直ぐに股ズレが起きそうだ。



昨晩、「タンホイザー」新演出の写真が掲載された。注目は、ヴォルフラム役のゲルハーエルに充てられた楽譜がドレスデン版ということで、テクストのあるところはあまり差が無いのかもしれないが、そこにパリ版が付け合わされるということで、管弦楽のパート譜にも付け加えられることになるのだろうか?週末は、ドレスデン版としてネットにあるコンヴィチニー指揮の豪華キャストの録音で調べてみよう。この指揮者は、ゲヴァントハウス交響楽団とのベートーヴェン交響曲全集などで有名だが、障りを流してみるとなかなか良さそうでレファレンス版として充分に使えそうである。



参照:
足を通してみてドキドキ 2013-03-12 | アウトドーア・環境
三年振り新調のジーンズ 2006-12-29 | 生活
ジーンズの裾の綻び 2008-10-29 | 生活
締まりの良いストレートな買物 2009-12-22 | 雑感
伸びる仏印ジーンズを購入 2015-04-09 | 生活
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なにか目安にしたいもの

2017-04-22 | 雑感
ランニングコースの沢沿いは霜が降りていた。駐車場の車も霜取りの痕があった。沢の流れも叢が凍っていたようにも見えた。しかし車の外気温計は摂氏四度である。今年の記録的に暖かい二月の天候のようだ。それでも異なるのは明るさで、春の太陽だった。だから手袋が欲しいほどではなかった。まるで日本の太平洋側の二月に走っているように錯覚した。日本の冬はやはり温かい。相変わらずジョギングテムポの25分30秒で往復した。それでも髪が汗で濡れて寒さに耐えれるような体になった。

居間に暖房を入れた。今シーズン初めてである。冬篭りしていた間は消してあったからで、前日に寝室に暖房を入れて就寝してそれはそれで熟睡できなかったので、階下に暖房を入れてその温もりを一日中利用することでこの数日の寒気を乗り切ろうと作戦変更した。厳冬期ならば風呂場がヒートショックで怖いのでそこに暖房を利かすだけなのだが、春となると東日が入って更にお湯の温もりでそこは暖かい。しかし居間は陽が入っても広いのであくまで充分に温まらない。恐らく南からの陽射しが高くなって奥には入らないのだろう。それに合わせるようにして、暖房を利かすことで最も効果的になるだろうか。

陽射しが差し込まなくなったので夕刻、階段上のサンルームで休もうと思った。そこにもソファーが置いてあるので寝転べるのだが、陽射しが当たらない。窓枠の下においてあった寝椅子はバルコンに移動してある。そこでキャムプ用の椅子をそこにおいてマガジンを開けた。調べ物の目的は違ったのだが、興味深い情報を得た。いつものFAZで御馴染みの音楽評論家女史がバーデン・バーデンのそれに書いてあるものだ。

パリで演奏旅行中のミュンヘンの座付き管弦楽団の稽古を見学していてsehr gutと褒めていたのは知っていたが、そこでの指揮者ペトレンコの発言を書き起こしている。

"Ja, das war gestern sehr gut, sehr gut, ich bin glücklich, danke.
Aber wir könnten, Buchstabe H Takt 5, bitte die Klarinetten..."

「そう、昨日は(ボンでのチャイコフスキー五番の演奏は)とても素晴らしかった、とても素晴らしかった、幸せで、どうもありがとう。
それでも練習記号H五小節目から、クラリネット(重奏)は…」

Stringendoの記号が付いて、アゴーキクが効かされるところであろう。やくざ刈りの一番のおじさんとブロンドのおねえさんの二番が上手く合っていなかったのかもしれない。つまり三度からオクターヴへと重要なクラリネット重奏が響かないことになって、音の凝縮度が変わってしまうのだろう。なるほどこの辺りはボンの公演の記憶では若干バタバタしていた感じであったのを記憶している。

指揮者キリル・ペトレンコは、指揮台の楽譜をいつも熱心に捲っている。モーツァルトの交響曲でも小まめに捲る。故岩城宏之の文章ではないが多くの指揮者は目線を離したくないのと、権威の為にも暗譜するというようなことのようだが、どうもこの天才指揮者の場合は楽譜で演奏上の問題点を確認して記憶の目安にしているようだ。それならば我々でもチェックしておかないと忘れるのと同じで、鉛筆があるかないかだけで、それこそ岩城のように視覚的に記憶しておけば練習記号とも記憶に残しておける。

The European Tour of the Bayerisches Staatsorchester with Kirill Petrenko

参照:
Glückliche Erscheinung, Eleonore Büning (MAGAZIN 2017/1 Festspielhaus Baden-Baden)
管弦楽演奏のエッセンス 2016-09-14 | 音
九月の四つの最後の響き 2016-09-23 | 音
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入場者二万五千人、占有率93%

2017-04-21 | 文化一般
バーデンバーデンとザルツブルクでの復活祭が終わり、各々がその成果が発表されている。先ず前者は25000人の入場者を迎え占有率93%、後者は24000人、95.5%と、どうしても二者が比較される。後者の会員とその歴史から比較すれば、五年目の前者が健闘していることも分かる。後者の大ホールが2179席に対して前者が2500席である。来年は、今度は前者が「パルシファル」で、後者が「トスカ」となるので、その占有率の差が縮まるのだろう。

今年前者で公演された「トスカ」のヴィデオを観た。恐らく、初日などよりも質は高くなっているようだが、基本的な批判点はこの公演でも変わらない。演出や歌手に関しては批評を超えてそれに付け加えることはそれほどないが、演出に関してはバーデンバーデンでの公演の質を体現しているようでこれまた具合が悪い。ベルリンとの協議のやり方は分からないのだが、現監督のオペラ界での人脈から考えるとこの程度のものしかできないのも理解できる。これも次期監督に期待が集まるところで、少なくとも歌手に関してはレヴィン事務所が出て来るので全く質が変わるだろう。しかし最大の問題点は、現監督のオペラ指揮やその在り方で、これは今更なんだかんだ批判してもはじまらない。それがプッチーニとなると、より歌手を充分に歌わせることが出来ないとなると、たとえ立派な管弦楽を清潔にコントロールしてもはじまらないのである ― 改めて次期監督が2011年にフランクフルトで客演指揮した同曲公演の音を聞くと、下手さが目立つ管弦楽であってもその歌の運びなど、プッチーニの演奏に関してもこの二人のオペラ公演での実力における雲泥の差が際立つ。来年は、「五年間の功労に盛大なお別れ公演」として「パルシファル」が公演されるが、演出にも金をかけるようだから、ある程度は期待できる。何よりも音楽的に、通常のオペラ指揮者にとっても難物なので、ある程度はアドヴァンテージを付加できるのではなかろうか?
L'orchestre philharmonique de Berlin en résidence au Festspielhaus de Baden Baden


TOSCA Oper Frankfurt

Erika Sunnegårdh, Tosca Act 3 Excerpt



ハムブルクでのリヒャルト・シュトラウス作曲「影の無い女」新制作への新聞批評が載っている。これまたフランクフルトの「トスカ」と同じくアンドレアス・クリンゲンブルク演出らしいが、ケント・ナガノ指揮の管弦楽団が賞賛されている。あの楽劇で管弦楽団が主役になるというのはやはり問題が大きいかもしれない。以前のフォン・ドホナーニ指揮の演奏でもそれほど目立つことはなかったので、やはりナガノは交響楽的に鳴らしていることは障りを聞いても分かる。同時に最初期から変わらぬように鳴らし過ぎという批判もあるがそれなのになぜか交響楽団ではもう一つ成功していないのが、如何にもオペラ指揮者らしいところだろうか。一流二流とか様々あっても、ティーレマンなどの指揮者にも通じるものがある。
Die Frau ohne Schatten - Richard Strauss



先日公演のあったキリル・ペトレンコ指揮で父親がコンサートマイスターを務めていたフォアアールベルクの交響楽団の演奏会がラディオで聞けるようだ。それもブレゲンツの会場からではなく、モンタフォンの会場の録音が、月末30日日曜日と翌週に分けて放送されるようで、今秋都民劇場で座付き管弦楽団で演奏されるマーラーの交響曲五番とマーラーの歌曲である。ローカル番組の枠組みなので一回のコンサートが二回に分けられるのは、まるで嘗て大阪のABCが大フィルの演奏会をAMで放送していた時のようである。
"O Glück über mir" from DIE FRAU OHNE SCHATTEN - Conductor: Kirill Petrenko

"Falke, Falke, du wiedergefundener" from DIE FRAU OHNE SCHATTEN - Conductor: Kirill Petrenko

"Zum Lebenswasser!" from DIE FRAU OHNE SCHATTEN - Conductor: Kirill Petrenko

"Hörst du mich, Barak" (Finale Act 2) from DIE FRAU OHNE SCHATTEN - Conductor Kirill Petrenko

参照:
REICHLICH ÜBERFRACHTET (BR-KLASSIK)
Ein Klangmagier, der sein Wort hält (Vorarlberger Nachrichten)
需要供給が定めるその価値 2017-04-19 | 生活
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
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フェイクニュースの脅し

2017-04-20 | マスメディア批評
朝七時半のアポントメントだった。タイヤ交換である。だから車中で七時のニュースを聞いた。トップニュースは北朝鮮問題でのフェイクニュースである。空母が北朝鮮向かうと大統領までが語って、北朝鮮に圧力を掛けたのに、実際には反対方向のインド洋へと向かっていたことが知られていたというのである。要するに口だけの脅しだったとなるが、この件に関しては内部での情報の混乱として処理されるらしい。子ブッシュや金正恩などの一貫した政治姿勢とは異なり、このように未熟大統領トラムプの方が一貫性が無いので危ないというのが解説だった。

折からの戻り寒気で、霙も降り、冬タイヤが欲しいと思ったが、それでも夏タイヤの走り心地は抜群だった。地面が温まっているので、気温は摂氏四度であり、週末にかけて早朝は零下になるというが、出かける予定もないので来週になればまた暖かくなるだろう。途上買物も済ませて、九時にはデスクに付いた。

朝のラディオでもう一つ興味深かったのは、今回の国民投票に参加したトルコ人のドイツ人化の問題が危ぶまれていたことに対して、政治信条や民主主義的意識とドイツ化の問題は別けるべきだとする意見だった。つまりドイツでもAfDなどを支持するとんでもない非民主主義的な連中が多く、それはトルコ人でも同じだというのだ。二重国籍が二百三十万人といわれ、彼らが必ずしも非民主主義的な人達ではないという背景も話されていた。

流石に寝室も冷えて来て、布団に包まって寝るのであまり熟睡していない。上掛けを準備するか、暖房を薄く入れるかなど考えるが、陽射しがあると直ぐに暖かかくなるので、完全に切ったままにしてある。



参照:
Alternative facts 2017-02-04 | 歴史・時事
多重国籍の奨めと被選挙権  2017-03-15 | 歴史・時事
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需要供給が定めるその価値

2017-04-19 | 生活
早い春開けから、初めての本格的な冷え込みである。霙のところも多く、霜が降りたり、凍結の心配もあるようだ。走る手が冷たくなった。パンツも脱げないので、真面なスピードも出ない。復活はまだまだ遠い。

そろそろと思って二年になろうかとする2014年雑食砂岩リースリングを開けた。まだまだミネラルを楽しめるほどに開いていなかった。酸が出て、それらしい味筋が楽しめただけで、あと数か月は掛かると思う。2014年産も2015年ほどではないが均衡がかなり強い。レープホルツ醸造所からのお知らせもまだであるが、2016年産は大いに期待できる。

音曲自主規制の関係もあって、流さなければいけないものが溜まっている。先日も数枚のCDをお土産で貰ったので、通してとまでは言えないでも、目ぼしい歴史的な音源などにも耳を通さなければいけない。それに最後に注文した安売りCDも殆んど音出ししていない。

更に復活祭プレゼントでデジタルコンサートの「マタイ受難曲」がダウンロード出来たので一部は流したが、ピーター・セラーズ演出の全体の構図までは確認していない。またバーデン・バーデンからのARTEの中継二種類とSWR2の中継をダウンロード並びにコピーした。これもドヴォルジャークのヴァイオリン協奏曲は何回か流しているが、「トスカ」の方は映像も観なければいけない。仕事でこうした視聴の数を熟さなければいけない人を想うと気が重い。

その点、ザルツブルクの「ヴァルキューレ」は、じっくりと思っていたが二幕、三幕と進むうちにその必要が無いことが明白になって、アーカィヴにはしておいても、じっくり見直す価値が無いことが分かった。なるほどドレスデンのスュターツカペレは慣れたもので、昨年の批判もあるのか、個々が充分にさらっているようで、質は高いが、ティーレマン指揮は節操が無い。第一幕の所謂作曲家が認める俗受けを狙った音楽では裏をかくようにして、テムポを落としてダイナミックスも微妙につけて成功していた。しかし問題は第二幕の長い叙唱に関連する。そこでは気が付かなかったが第三幕のフィナーレなどでそもそもの動機とは異なった節回しで演奏させたりと、恐らくフルトヴェングラー指揮の録音などを模倣しているのだろうが ― 祝祭の公式HPに現芸術監督が沢山のLPを背にカラヤン指揮のLPの解説書を見る写真が掲載されている、適当な変容でこれだけの芸術作品の骨子が完全に崩壊してしまうことをこの劇場指揮者は理解していないようである。フルトヴェングラーの一貫したソナタ形式における有機性の意味付けなどの論文も書いていない者が高度な芸術を模倣しても大衆演劇にしかならない。それにしてもザイフェルトが、その若々しい歌声や姿に、少々鈍い音楽ならば充分についていけるのを示し、ハルテロスとの兄妹の組み合わせも素晴らしく、とてもツェッペンフェルトの芝居も好都合で、ブリュンヒルデ役のカムぺもとても健闘しているが、芝居を作る歌唱を披露するまでの主導権は誰にもない。それによって、情景情景のより合わせのようなまさしくオペラガラの詰め合わせのような、全く音楽的な創作意思を感じさせない、夢のような舞台となっている。そして何よりもシュターツカペレの美しさは格別で、これまた瞬間瞬間に魅了するような全く芸術とは関係のないオペラ上演となってしまっている。全ての責任は指揮者にあることは言うまでもない。ということで、オペラファンやヴァークナー愛好家のようにエンターティメントとしてこのヴィデオを楽しめるのだが、音楽芸術的な価値は皆無である。



参照:
創作の時をなぞる面白み 2015-08-11 | 音
私の栄養となる聴き所 2014-07-14 | 音
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明るく昇っていく太陽

2017-04-18 | 文化一般
先週も三回走った。最後の峠攻めはゆっくり上がった分早く下りれて33分28秒で帳尻を合わせた。このところの不調は四旬節の食事が絶食まではいかなくても肉食が普段より減っているのでもう一つ意気が上がらなかったこともあるのかと思う。菜食でも先日のクライミングのパートナーでありツアースキーのリーダーのように二メートルの巨漢の元気な人がいるが、どうも私の場合は血圧が上がるようでなければ駄目なようだ。

失われたとされていた楽譜が確認されたという。グスタフ・マーラー作曲「亡き子を偲ぶ歌」のピアノ版で、管弦楽版として知られているものだ。「今しがた、太陽が明るく昇っていく」という第一曲で、残りの四曲とは異なって、ピアノ版が失われていたものである。道理でフィッシャーディースカウの全集に含まれていない訳だ。当時のアルマと作曲家が通っていたヴィーンの音楽サロンを催していたコンラート家の娘さんがミュンヘンへと移ったことで、見つかった楽譜もその時に搬送されたとされる。そのノートから、1901年から1904年に作曲されたこの第三曲、第四曲と同時期の作曲とされる ― 第六交響曲に関連して、アルマによって縁起でもないと言われていたリュッケルト詩に付けた曲集である。

承前)三月のペトレンコ指揮のコンサートをベルリンで体験して、それを称して「猛獣ショー」と書いている東京の人がいるようだ。その旨はなんとなく分かる。つまり、ベルリンのフィルハーモニカ―に戦後付き纏っていた高度成長からのイメージが被るからである ― 当時は合衆国のビッグファイヴもレニングラードもどこも同じようなものだった。そこの入団試験を受けたかどうかは知らないが、現在ミラノのスカラ座で弾いている二代目の団員がフィルハーモニカ―を称して語ったことを思い起こさせた。つまり彼に言わせると「そのアンサムブルの在り方や雰囲気が特殊で」と、所謂我々がイメージする戦後の西ドイツのあの雰囲気がアバド時代でもあまり変わらないとした見解であった。どこの交響楽団も、座付き管弦楽団とは当然異なるが、所謂ドイツの合理主義的なものに、これまた根源的な闘争心のようなものが加味された雰囲気である。そうした雰囲気が先入観念を形成しているのだろう。

しかし現実には、先日のバーデン・バーデンでも「冷たい音楽」と評されていることに関してその仲間の音楽家に話すと、モーツァルトの演奏のあとで即座に「楽員は充分に温まっている」と反応があったぐらいである。つまり誰が見ても分かるように、それどころかベルリン初日には緊張した楽員が上手く乗れなかったことを評して「とても人間的だ」という批評もあった位で、思い込みと現実の間には大きな隔たりがある。

芸術的な見解としては、先日のインタヴューで「音楽することと楽曲演奏実践の関係が議論」となっていた訳だが、現監督のそして同時にフィルハーモニカ―の弱点としてもこの問題が立ち覇だかっていて、前者の責任としては正しいテムポを絶えず与えたとしても、それを状況に合わせて、更に音楽作りをしていくということに関してつまり恐らく指揮のテクニックであり、その音楽的才能に弱みがあるということになるのだろう。この問題は、この指揮者のデビュー当時から我々のような熱心なファンは分かっていたのであり、それは将来とも変わら無いと指摘されていた。それでも演奏実践の完成度やそのプログラミングなどを含めて彼以上の才能が居なかったのも事実であろう。そこで、まさしくそこが自由自在の次期監督が選出された訳で ― 一例としてバイロイトでの楽劇「ジークフリート」当該箇所での歌いこみを挙げれば充分である ―、その棒に付いていくことが求婚した側として至上命令なのである。それによって、戦前戦中を引き摺る反作用としての戦後のクールなイメージから抜け出て、例えばフルトヴェングラー時代以前の恐らくニキシュ時代の新生交響楽団の一夜一夜完結するイヴェントであるようなコンサートが出来るようにという目標が設定される ― 例えばペトレンコ指揮コンサートのプログラムは、古典的なプログラム構成で、休憩前に協奏曲などを入れて、力の入れ加減を調整していて、演奏上の注意力などが失せないようになっている。それだけに120%も求められる高い目標が設定されている。「猛獣ショー」とは勿論カラヤンサーカスから観念連想する言葉であるが、実際には甚だしく的外れな言葉であろうことは、この事情からまたその目指すものからも明白であろう。

Kirill Petrenko in conversation with Olaf Maninger

参照:
鼓動を感じるネオロココ趣味 2017-04-10 | 音
運命の影に輝くブリキの兵隊 2017-04-11 | 文化一般
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殆んど卑猥な復活祭卵の巣

2017-04-17 | 
朝からパンを買いに行って、一っ走りしてきた。峠への上りはブルックナーの交響曲四番を頭でさらっていた。それでもまだ四楽章を勉強していないので紛らわしいが、最後のコーダまでなんとなく動機の連結は描けた。交響曲とはこのように作曲していくのだと体感できるような気がした。

なにはさておき四楽章までさらって、時間があれば録音を流して、夕方のバーデンバーデンでのコンサートのネット再放送までに、ザルツブルクの楽劇「ヴァルキューレ」を少し観てみたい。障りだけは聞いたが、指揮者のティーレマンは、テムポを抑え、音量を抑えてマニエーレの極致を行っているようで、これは楽譜を見ながら聞かないと適格な批評にならないと思った。無駄になるかもしれないが、歌手陣も大変健闘しているようで、先ずは観なければ話しにならないと思った。

聖週間は昨週末からの疲れもあって、音曲自主規制としたので、打って変わっての一日中音響漬けは厳しいかもしれないが、砂漠に溢す水のように体に染みていくかもしれない。それでもやはり楽譜を見ながらヴィデオ鑑賞なんて苦痛でしかなく、楽譜も無しに音楽ヴィデオなどを二時間どころか短い一曲も気を散らさずに観ていることなど出来ない。それでもああしたものが売れる市場があるのだから、多くの人は余程気が長くて我慢強いのだと思う。

これを書き乍ら、「ヴァルキューレ」を流しているが、子供の時から乍ら族なのでそれは堪えない。しかし、何か独特の節回しの音楽が流れると気になって仕方が無くなる。独特のアーティキュレーションの根拠はどこにあるのだろうと気になると楽譜を開けてみないといけなくなるから、やはり乍らでは流す価値はあまりない。まるでミュージカルか何かのようで、まるでテムポやリズムが定まらないと気持ち悪い。これを専門家を称する人達は拍を数えているのかどうか、極限の殆んど卑猥なアゴーギクと呼んでいるようだ。まあ、多くの専門家の絶賛を受けた公演であるから最後まで観よう。

パン屋で取って来た復活祭の卵の巣である。一度、写真を上げたことがあるが、毎年のお飾りのようなものなので仕方が無い。勿論、復活祭のウサギと言われるようなものは卵を産む訳がないのだが、ウサギは多産の象徴であることには変わりない。



参照:
満ちる生まれ変わる喜びの日 2010-04-06 | 暦
聖金曜日のブルックナー素読 2017-04-15 | 暦
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