Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

「プロシア的」の情けなさ

2018-06-24 | 文化一般
週末は木曜日の初日へ向けての準備である。色々と調べた結果やはりベルリンのフィルハーモニーでの「パルシファル」を批判してしまわないとならないようだ。メトでの演奏は既に批判したので繰り返す必要もない。なるほど演奏会での演奏はバランスが悪いが、管弦楽演奏上の問題点はハッキリする。それほどラトルの指揮がこの曲には向いていると感じたからだ。

それに比較するまでもなくマーラーの六番はやはり駄目だった。そもそもマーラーにおけるテムポ変化などのアゴーギクの細かさは、ご本人の関心とは別にサイモン・ラトルのブルックナーほどには向かない。最終公演二日目のデジタルコンサートも観たが、ラトル指揮フィルハーモニカーの全てを曝け出した演奏だった。メスト指揮クリーヴランド管弦楽団との比較で、合奏が合うとか合わないとか上手いとか下手とかの問題ではなくて、音楽的に勝負にならなかった。後者があまりにも精細に演奏していてメストの演奏解釈があそこまで今日的なマーラー解釈になっているとは想定外のことだったが、そもそも譜読みの精度が大分違う。

ラトル指揮では複雑な個所になるとただ横に流すだけの演奏しか出来ていない。記憶からするとフィラデルフィア管弦楽団を振っていたMeTooのレヴァイン指揮などと同じでしっかりと各声部各音符の音化が出来ていない。多声的とその音楽構造とはまた違うのだ。恐らくラトルが客演でクリーヴランドをフィラデルフィアを振ってもそれほど変わらないと思う。つまり一つ一つの動機などの表情付けがそこではなされていなくて、選抜された箇所のみをプローベで表情づけしているという感じで、そもそもその精度が全く異なる。あの世代はあれで通っていたのだ。それがクリーヴランドの管弦楽団の特徴などではないことは過去のアーカイヴで流されるセル指揮のその楽団の音楽性を現在のそれと比較すれば分ることで、そもそも駄目なリズムとかだけではないところでの多声部での表情付けの細やかさはセル時代には求められていなかったものである。

マーラーの交響曲のような大編成でのその細やかな演奏は嘗て無かったもので、ベルリンでのそれを容易に切って捨てれない理由でもある。少なくとも、ヤナーチェック「女狐」でのその音楽的な実力差はベルリンの方が曲に慣れていなかったからのディスアドヴァンテージだと思っていたが、マーラーでは指揮者も含めてクリーヴランドにそれほどアドヴァンテージは無かっただろう。

二日目の映像を観ていて気が付いたのは当夜乗っていた半数ぐらいはラトル時代の最初から在籍していた人で、可成り年配も多くアバド時代の人が多そうだったことだ。コンツェルトマイスターのスタブラーヴァはクスマウル以降で最もソロを聞きたい人であるが、どうして、徹底できていないのだろう。その中の半分ぐらいは定年も近いようなのでペトレンコ時代にはどんどん変わっていくと思われるが、想定以上に悪かったのは管楽器で、半数ぐらいは変わらないと厳しいと思った。特に木管でこの人というのは限られていて、アメリカのそれと容易には比較したくはないのだが下手である。

駄目な人は直についていけなくなると思うが、そうした競争のシステムとはまた異なるところで「プロシアの管弦楽だ」とか豪語している楽員を見ると、矯正のしようがないと思った。宜しい、その秩序だった文化を指すならば、当然なのだが、そもそも英語でインタヴューに答えるソリストなんて採るぐらいならば、もう少し音質的にも「プロシア的」を徹底しろと言いたい。なにかフィルハーモニカーの「プロシア」と言うのは肯定的には受け取れない。要するに、芸術的なローカリズムや伝統とは違って、感覚的に田舎臭いだけなのである。

エルブフィルハーモニーのサイトを見ると一日経過しても、ペトレンコ指揮のユーゲント楽団だけでなく、ネゼ・セガン指揮ベルリナーフィルハーモニカーの券が残っていた。つまりそろそろ皆が押し寄せる状況が終わって、一段落して来てぼちぼち正常化だろうか。そもそも早々に売れ切れていた世界の管弦楽団シリーズはやくざな主催者のもので入場料金も高いが、ベルリンのそれは良心的な主催者で価格も微妙だった。最低席の15ユーロとか50ユーロとかはお得で、最高額も190ユーロだから、ハムブルクからならばベルリンへと行くのとの天秤が掛けられることになる。私個人からすればハムブルクはベルリンより近いが、フィラデルフィアでなくベルリンからの管弦楽団のために旅行するには遠過ぎる。そもそも録音で聞く限り、評判ほどに若しくはテルアヴィヴほどにはエルブフィルハーモニーは音響が良くないと感じている。恐らく音響修正が必要だろう。



参照:
叶わなかった十八番 2018-06-21 | 文化一般
これからの大きな期待 2018-06-20 | マスメディア批評
細い筆先のエアーポケット 2017-11-03 | 音
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叶わなかった十八番

2018-06-21 | 文化一般
サイモン・ラトルのラストコンサート初日を聞いた。マーラーの第六は十八番にしている。昨年バーデンバーデンで聞いたが、その時の演奏よりは力が随分と入っていた。当然だろう。それでも先週末に再放送された楽友協会でのクリーヴランド管弦楽団の演奏とは残念ながら比較するような演奏ではなかった。なるほど昨年も生でも確認したが、二楽章のアダージョなどとても素晴らしい箇所が続出して、「演奏解釈」自体はとても立派であり、それが演奏実践として成果を上げている。

しかし演奏技術的な事に触れなくても、その細部における音化だけでなく、最強音での鳴りでもラトルのフィルハーモニカーの限界がはっきり出ていた。良くも悪くもラトル時代を代表する演奏だったが、いつになく力が入っていて、可成りリスキーなところで演奏していたのは最後だからでしかない。その全体のプログラムの解釈にしてももはや古風にしか聞こえないのがなによりも問題なのであって、それゆえのラトルの指揮であり管弦楽であったという事になる。寧ろ先日のブルックナーの九番の方が新鮮に聞こえるのである。結局生で聞いたベルリオーズの「ファウストの業罰」やブルックナー四番や「パルシファル」、そして放送では「グレの歌」やリゲティなどがベルリン時代の代表的な演奏だったと思う。バーミンガム時代はマーラーのクック版などの名演が記憶に残っているが、そうした出来はベルリンでは叶わなかった。
Bruckner: Symphony No. 9 (4-mvt version) / Rattle · Berliner Philharmoniker


恐らく、オーケストラトレーナーとしてバーミンガムでやれたようなことは出来る筈も無く、殆どなにも出来なかったのではなかろうか。アバドの時よりはアンサムブルは良くなったのだろうが、それ以上ではなかったという事になる。次期のキリル・ペトレンコが課題曲を出して幾ら練習させても、直ぐに完成する訳ではなく、徐々にメムバーの交代などが完了するまで数年はかかる筈だ。フィラデルフィアやクリーヴランドなどでは絶対聞けない音楽を奏でるようになるまでは時間が必要だ。

それにしても楽友協会でのクリーヴランド管弦楽団の録音はどれほど補助マイクを入れたのだろうか。あれだけ大掛かりな管弦楽団が細部まで綺麗に聞こえるのは合奏の腕だけではない筈だ。ヴィーナーフィルハーモニカーは話しにならないとしても、先日のブルックナーをベルリンのフィルハーモニカーが演奏した録音とは全然異なった。まさしく指揮者の世代も異なり、ラトル指揮の管弦楽と比べると今は昔の趣が強い。当時ラトル以上の適任者がいたかと考えても、もう少し若手では誰が居ただろうか?年代からするとサロネンやヤルヴィなどの世代なのかもしれないが、後者は無名で前者はより古臭くお話しにならなく、彼に相当するような人材がいなかったという事だ。ヴェルサー・メストにしてもここまで偉くなるとは誰も思っていなかった。ラトルが「ランチにカラヤンが呼びに来る」というのは、ブリテン作曲「ネジの回転」ではないがまさしく自身の中にあったカラヤンの影だったのだろう。二日目は、デジタルコンサートやハイレゾ放送などがあるようだ。まだしばらくはラストコンサートが話題になるのだろう。



参照:
運命の影に輝くブリキの兵隊 2017-04-11 | 文化一般
明るく昇っていく太陽 2017-04-11 | 文化一般
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権威の向こう側

2018-06-14 | 文化一般
「メリーウィドー」をざっと観た。予想以上に出来が良かった。ストーリーは、藤山寛美の松竹新喜劇と大差はないのだが、流石にレハールの狙いは決まっている。今で言うとヒット曲メーカーのような渾身の主題と、それを上手く使って全曲を構成している。シュトラウスファミリーのあとの世代としても、やはりその音楽的な力は大分異なる。

参考に通したのは、先ごろ日本で話題となった、ヴェリサー・メスト指揮の2004年チューリッヒ公演らしい。音楽的には、主役ペアーも脇もそれなりで、この辺りの出し物としては充分なのだろう。主役に関してはフランクフルトの公演に期待している。演出はオーソドックスというか、公演の大落ちは、狂言回しの親仁がピットに入り指揮棒を持って答礼に出たメストに踊らせるというものだ。あの面白味の無いメストに踊らせるのが味噌なのだろうが、やはり舞台裏落ちになっているには違いない。そもそもこの手の音楽劇場はレヴューとの境が無いので、態々そうしなければいけなかったことが関心ごとなのだ。その光景を見ると、先日ヴィーンからの報告でその指揮姿から「マリオネット」と称されたように足をしっかりと固定してその両手を前上方で上下させるのを思い出して吹き出してしまった。それにしてもラインダンスになると、見事に足が高く上がっていて、余計に異質感を与えるのがこの人のキャラクターだ。彼のドナウ訛りをしっかり理解していてもこうだから、あの人が指揮台で英語でおかしなことを話していると違和感しか感じない人も多いと思う。同じように見ものだったのは先にも「大蝦米」と紹介したティーレマンの指揮姿であるが、これもシュトラウスファミリーのニューイヤーコンサートを来年飾ってくれる。今から腹を抱えての初笑いが待ち遠しい。
Franz Lehár -"Die lustige Witwe" /The Merry Widow

両陛下がクラシックを鑑賞 立ち上がって拍手も(18/06/02)

Very funny marionette street performer


Renée Fleming - Vilja-Lied - Die lustige Witwe

Street Performance | Mr. Bean Official



そこで思い出したのが初めて座るロージェの「プロシェニウム」自体が舞台の枠組みのことを指すので、劇場空間の舞台とこちら側を分かつ形式としても存在する。上の舞台を奈落まで繋げることで丁度その緩衝空間の境界を脅かすことになる。

SWR2で「独裁と謙虚の間で ― 音楽における権威」と題して、指揮者の其々をアルブレヒト・マイヤーなどを含む楽士さん達にインタヴューを録った番組が流された。先ずはペトレンコに関するところをつまみ聞きした。第二フルートを吹いているハンガリー生まれのアンドレア・イッカー女史が語る。三代の音楽監督に仕えて、ご本人は翻訳家としても活躍していることから、その音楽的な創造性が刺激されないような指揮者の下で廃業寸前になっていたのだという。それがペトレンコが現われて、レパートリーを始めからやり直したという。三回やっても容易に追いつかないようなアイデアが出されて、それを成し遂げる喜びとまたさらなる一歩から積み上げていくペトレンコとの仕事へと駆り立てられることを語る。オペラ指揮者というのは、そもそもコンサート指揮者とは違って舞台とのコーディネーションが必要なので大変なのだが、それを成し遂げるだけでも大変なのに、安定したその演奏実践と演奏に拠っての喜びという事を成し遂げているというのだ。だから、それがあり得るというのならば、「彼の指揮技術や身体の動きは、彼を世紀の指揮者にしている」と断言する。
Meet the Musicians #11: Andrea Ikker (flute)


この話題で付け加えておきたいのは、フィラデルフィアの演奏旅行で見せたネゼセガンがどうも同じ飛行機に乗って旅行していたことだ。これは指揮者としてかなり楽員と危険な関係にあるようにも思え、指揮者の権威がどのようなものであるかに関して、番組の冒頭であった話が浮かぶ。シュトュツガルトからチェリビダッケに付いてミュンヘンで第一ホルンを吹いていた楽員は、「指揮者が幾ら虚勢を張っても駄目なんだ、音楽家なんて普通ではなくてそういう事には感性の強い集団だからね」とご尤もなことを語っている。その意味では若い楽員たちとそのような付き合いが出来ることは若さなのかもしれないが、どこかで事情は変わってくるのではなかろうか。

この番組は一時間もので最後にパーヴォ・ヤルヴィが登場する。ブレーメンでのそれこそ室内管弦楽団との関係なのだが、そこからこの指揮者の本質的な可能性が述べられているかどうかは通して聞いてみて触れてみたい。そして明日は夕方の討論会で、ラトルのあとを観て、「大指揮者の意味」が話される。あのおばさんが一体なにを語るかが注目される。



参照:
業界のダークホース 2018-05-16 | 雑感
音楽監督と至福の生物 2018-03-19 | 音
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プロシェニウムロージェ

2018-06-09 | 文化一般
窓を閉めて就寝した。熟睡してよかったのだが、明け方若干汗ばむ感じだった。先週から半袖にしたのである。目が醒めて、PCを早朝から立ち上げた。朝起きて就寝前の音楽鑑賞が気になりだした。土曜日の過ごし方に係るからだ。

プッチーニ「三部作」の券を購入した。夏のミュンヘンオペラフェスティヴァルの公演だ。その初日公演シリーズは昨年12月に二日目を王のロージェの横で観た。お目当てのヤホの声も弱く、その点で不満もあり、もう一度聴いてみたいと思っていた。先日から夏の二日目の公演の戻り券は出ていたのだが、一日目のものは出ていなかった。流石にオペラ通いの人は歌手にとっての一日目と二日目の違いなどが分かっているのだろうと思っていた。管弦楽は後の方が良くなるのはペトレンコ指揮の特徴だが、歌手はTV撮影ぐらいが入らないとやはり声の出方が違う。

オペラフェスティヴァルの切符は寒い時に並んだのでどれでも買えたのだが、その時は「パルシファル」しか購入しなかった珍しい人間である。先ずは其れを確保して、半額になる分はホテル代の足しにのつもりだった。それでも一枚しか買わなかったので足が出た。7月の計画が立たなかったこともあるが、その後にヤホの「蝶々夫人」の公演予定などを見てもやはりこの「三部作」ほどの魅力は無かった。更にペトレンコ指揮で歌う可能性は先ず今回が最後であり、あの絶妙のピアニッシモはやはりこの組み合わせでもう一度確認しておきたかったのだ。そしてその一日目の戻り券が五枚出た。

三列目正面二席とバルコン一席、後方平土間サイド二席、そしてプロシェニウムロージェだ。最初のは明らかに招待席で余ったのだろう ― 私の発注後、バルコン席と同様比較的早く売れた、そして数時間後には完売。最後のは関係者に配られて、楽員関係者などは大抵そこになるのだろう。今回のはその最上階で、ペトレンコがパスキエ女史を招待する時の下部ではない、だから視界もそれほど良くない割に二つ目のランク価格なので躊躇した。しかし二月に撮った写真を研究すると王のロージュの高さでそれほど高くないことに気が付いた - 実は「パルシファル」初日の座席も比較的似ている視角なので写真を撮っておいたのだ。それどころか指揮者を前から見るような位置でこれは面白いと思った。舞台は映像を含めてその奥も分っているのだから全く構わない - そもそもあのタイムマシーンの中や逆づりシーンは網膜に焼き付いている。上から歌手の言葉が聞き取れれば問題はない。なんでもよいからペトレンコにしっかり指揮して貰えばそれだけで価値がある。兎に角全部で22席しかなく、指揮者に招待される予定もなく、ペトレンコ指揮で売りに出るのは更に限られているので、これは幾ら並んでも買えない席であり決心した。ミュンヘンで購入した最高金額143,50ユーロの券である。今年は計画が立たないという事は逆に短期的に縦横無尽に動けるという事でもある。これはこれで結構楽しみになってきた ― またヴァイオリンは女性陣が引っ張るのか。

就寝前にパリからの「パルシファル」を楽譜を前に聞き始めた。夜更けだったので最初の数十分だったがBGMで流していた印象よりも真面目に演奏していた。少し気になってきたので、思ったよりもじっくり聞かないといけないかもしれない。歌手よりも否応も無く指揮者ジョルダンの手腕を詳細に見ていくことになる。バイロイトの「マイスタージンガー」でガタガタになっていたのでここまで細かく楽譜を読んでいるとは思わなかった。但し、それがどこまで指揮出来ているかが疑わしいのがこの指揮者で、引き続き懐疑の念で聞き進めよう。それでもラトル指揮とも全く違う、丁度ネゼセガン指揮解釈との比較対象でとても良い資料になりそうだ。ワイン祭り中にそれをイヤフォーンで確認できたら幸せだ。



参照:
非パトス化の演奏実践 2018-06-04 | 文化一般
天才も実践から学ぶ 2017-12-28 | 音
ペトレンコ劇場のエポック 2017-12-22 | 音
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管弦楽への圧倒的熱狂

2018-06-08 | 文化一般
エルサレムからの放送を聞いた。これでフィラデルフィア管弦楽団の問題となった欧州イスラエルツアーが終わった。「不安の時代」ではテルアヴィヴでの演奏が最も優れていた。最終日は三千人収容と多目的ホールのためか楽器の繋がりが再び元のように聞こえた。音響の影響で、クラリネットを支える木管群がマスキングされてるかどうかで、会場の良し悪しは其れではっきりした。エルブフィルハーモニーからの放送が今一つな理由は不明だ。演奏自体も残響の程度によって合せているので、その差が良く分かった。会場に合わせた演奏に関しては放送でも話題になっていて、こうしたツアーの特徴としてホームグラウンドでないところに短時間で合わせていく経験が積み重ねられるようだ。演奏の精度も含めてツアー中のそれには限界があったとも思うが、生で聞くとやはり期待通りの演奏をしていて、アメリカを、世界を代表する管弦楽団であることは分かった。昔から放送に乗り難い楽音と乗り易いそれとかが議論されるが、フィラデルフィアサウンドは後者だと思い込んでいたが全く間違っていた。クリーヴランド管弦楽団の時も放送の音質と生のそれには当然ながら差があったが、寧ろそれは「生で確認する」作業に近かったが、こちらの方が「生でなければ分からない」要素が多かった。

その要素としてバスからの積み上げのピラミッド構造とその細やかさはHiFi機器で再生し難いもので、それを重々承知でいい加減な読譜とその音響を作り上げたのがフォンカラヤンの芸術であって、そこにバランスを取ったレガートラインを乗せて世界的なヒットとしたという事になる。奇しくも先日、話題のフランツ・シュミットの曲を録音していたのはカラヤンとジェームス・ラストだったというのは偶然ではないかもしれない。メディア産業が懲りずに目指すところはそうした大衆受けの良い音響の消費活動の促進である。今回の欧州イスラエル公演でのネゼサガン指揮のフィラデルフィア管弦楽は、イスラエルでは殆ど無い熱烈なスタンディングオヴェーションのみならず、ハムブルクでもヴィーンなどでも状況は変わらず熱狂的喝采を受けた。しかしジャーナリズムは文字に出来ていない。その背景はなにかと想像すると、やはり二十世紀後半の管弦楽を批判的に解析出来ていないという事にほかならないと思われる。「カラヤン風」という評があったぐらいだから、ネゼセガンの指揮はその譜読みや打拍が間違っていてもカラヤン世代のような誤魔化しは全くないのだが、そこが確信出来ないまま、より広範な聴衆を熱狂させるサウンドを駆使しているのを目の辺りにして当惑しているとしか言いようがない。

The Philadelphia Orchestra - Yannick in Jerusalem


今まで生で最も多く聞いている楽団がヴィーナーフィルハーモニカーで、その次が頻繁になりつつあるベルリナーであるが、フィラデルフィアにおいては音楽の核になっている中声部や第二ヴァイオリン陣の充実は下から上までの木管群の色彩感と相まって特筆すべきで、コンセルトヘボーの弦楽合奏やゲヴァントハウスのヴィオラ陣などとも異なる中核を作っている。嘗てのオーマンディー時代のオーディオ水準やムーティ時代の精度からするとその録音と生の音響の差は少なかったのかもしれないが、やはりネゼセガン指揮の精度ではそれだけでは済まなかった ― 大管弦楽での室内楽的な合奏を奨励している。

フィラデルフィアのプロテストの呟きなども覗いたが、やはりイデオロギーをそこに感じて、イスラエルをボイコットするだけでは解決しないものへの視点が欠ける気がした。抗議は大切だが、それを含めて何らかのメッセージとして、芸術分野においては特に音楽の情動性が聴衆に、社会にどのように作用していくか、そこが注目点である。ツアーが終了しても本来は様々な予定があったようだが、そそくさと帰宅準備のようで、面白かったのはコンサートマスターのキムがお土産などと語っていることだろうか。「フィラデルフィアは二度とイスラエルには演奏旅行しないだろう」という一方、イスラエルフィルハーモニカーを招待することなど、如何にイスラエルとの関係は複雑で、その管弦楽を何も知らぬ顔で招聘して歓迎する日本人のバカさ加減が浮かび上がる ― 演奏会場の前での抗議すら聞いたことが無い。放送においてもガザとの関係だけでなく今回政治利用されようとしたトラムプの大使館移動問題などが言及されていて、ここでまたどこかの国の首相が嬉しそうにイスラエルを訪問するバカ顔が思い浮かぶ。

個人的には、本拠地ではシューマンで魅力的なインタヴューをしていたユミ・カンデールが乗っていなかったことが残念だった ― 彼女はヴィーンから合流したようだ。そしてなによりもテルアヴィヴからのバーンスタイン交響曲の録音放送の出来だった。永久保存版にしても良いもので、久しぶりにバーンスタインの真価を堪能した。これで漸く月末のための「パルシファル」のフラッシュアップへと進める ― そもそもその音楽が細かく入っている訳でもなんでもないのだが。



参照:
不安の時代の闘争 2018-06-07 | マスメディア批評
エルブのバーンスタイン 2018-06-01 | マスメディア批評
不安の時代に最高の言語 2018-06-06 | 音
「抗議するなら今しろ!」 2018-06-03 | マスメディア批評
尊重したい双方向情報 2018-05-29 | 文化一般
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非パトス化の演奏実践

2018-06-04 | 文化一般
人に紹介しただけでラディオ放送を忘れていた。それでも20時過ぎ始まりなので思い出して、結局最後まで聞いてしまった。プッチーニの「三部作」だ。初日の演奏にはそれなりに物足りなさもあり、生中継の技術的な問題もあったので、それほど重視していなかったのだが、珍しい上演という事で放送も重なり、録音も数種類も重ねてしまった。生中継は不安定乍らその新鮮な音響は録音となるとデジタル録音でも差異が感じられるのだが、問題のORFのそれとフランクフルトのARDアーカイヴからのHR2でも音質が大分違っていて驚いた。但し「三部作」が別けてリストアップされていて三部に別ける放送体制は変わらない。つまりオリジナルの一部の後の拍手はカットされる。やはりORFのネットストリーミングは高音が伸びていない感じで、MP3的な美化が感じられる。歪感が少ない分一寸聞きには如何にもヴィーンの香りとまで感じて、そのナレーションのハリボを噛んだようなヴィーン訛りと共に独特だ。

翌朝にはベルリンからのゲストがそこの楽友協会でラトル指揮で演奏する。前々日にはフィラデルフィア管弦楽団が演奏して生中継されたばかりなので、その差異も注目される。そしてなによりもブルックナーの交響曲9番の四楽章版が楽しみだ。ラトルの指揮はマーラーよりもブルックナー向きだと思っていると同時に、その初演風景をネットで見て、繰り返して演奏する必要を感じていたが、幾らかは手慣れてきただろうか。この版が上手く定着すれば、将来的にラトルのベルリンでの代表的な成果になる可能性があると思う。その可能性を感じている。

週明けになるとワイン祭りの準備で落ち着かなくなる。暑くなるようだから快適さも無くなるが、そろそろ「パルシファル」の復習をしておかないといけない。先ずは四月のパリ公演の中継録音を聞いて録音しておこう。ジョルダン指揮であるからまともに演奏出来ているとは思わないが、その前のメトロポリタンでのネゼセガン指揮との比較になるだろうか。バーデンバーデン復活祭での域には遠いとしても、ここらあたりで一度ガラガラポン混ぜ合わせして、新たなお勉強にしないと月末の初演への心掛けが出来上がらない。正直、もはやペトレンコ指揮のオペラは彼の才能の浪費でしかないと、将来思われるようにしか、考えなくなっているが、それでも「三部作」初日の録音を聞き返すとその徹底した美しさは特筆すべきで、改めて大変なことをしていると再確認する。最後に聞いたのが二月の「指輪」の上演で、それでさえ遣り過ぎと思ったが、「三部作」でのバスの鳴らし方なども徹底している。やはり和声のベースになっていて、対位法的な扱いにおいても歌の中声部を飛翔させるのもその正確さである。

そして夏のベートーヴェンを考えると、先ほどの東京の「フィデリオ」の評判から、まさに非パトス化の枠内での「舞踏の神化」へと想いが募る。現在日本ではクリーヴランドの管弦楽団がプロメテウスと称した演奏会を開いているらしいが、それならばそこで何故この非パトスが囁かれないのかは大変謎だ。そもそもベートーヴェンにヴァークナーの「死による救済」を暗示する点で美学的評価の余地がない。日本における根強いベートーヴェン人気は研究対象だと思うが ― 毎年演奏される第九の不思議と共に、だからどうもオペラだけでなく、そうした市場への支持はサブカルチャー化したもので、ただ単にライフスタイルでしかないと予想される。そこからまた合衆国における管弦楽活動なども関連していく。

そこでベートーヴェンの演奏が如何にパトス化を避けながら大交響楽団で演奏され得るかという問いかけがなされる。一つの方法としてクリーヴランドでやられているように例えばその八番の交響曲などでの軽妙さと洒脱さの晩年の「バガテレ」などに通じる演奏実践もあるが ― その意味からも後期弦楽四重奏曲を取り上げた時点でコンセプトは定まっていたようだ ―、その点で先日のバイロイトでのヤルヴィ指揮の演奏は、その音楽的コンセプトがブレーメンの室内楽団でやるの同一であるとしても、やはりとても大きなエポックを刻むものであったと思う。いずれにしても七月から来年の二月の「フィデリオ」、「ミサソレムニス」までは「べート-ヴェン研究」を続けることになる。アルフレード・ブレンデルのベートーヴェンツィクル以来だろうか。

その傍証として、復活祭のラトル指揮のそれを見れば明らかで、カラヤンの影に怯え続けたこの指揮者が、結局はフィルハーモニカーの特徴である発し発しとしたその演奏形態から一歩も逃れえる事が無かったその演奏実践を挙げれば事足りる。晩夏に演奏される第七交響曲の演奏へと向けてヤルヴィ指揮の功績は過大評価過ぎることはないと思う。それにしてもラトル体制の最後でこれを入れたツェッチマン支配人のアーティストプロデューサーとして才能と人間関係構築の手腕には首を垂れたい。これはキリル・ペトレンコのオーケストラ芸術への新展開へのハードルを大きく下げてしまうような大功績で、サイモン・ラトルとのミュンヘンでの会合でも話題になった課題でもあったのだろう。



参照:
「抗議するなら今しろ!」 2018-06-03 | マスメディア批評
素人の出る幕ではない 2018-05-12 | 文化一般
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プロテスタント的批判

2018-05-31 | 文化一般
エルプフィルハーモニーからの生中継がならなくて残念だった。準備万端整えていたのだが、技術的障害とは想定外だった。そのために一時間の時差を置いてあった筈だ。ラディオ番組の放送時刻もあったのかもしれないが、一時間あればどのような方法でも可能だった筈だ。今時音声データーの精々3GBほどの転送に技術的問題など考えてもいなかった。録音側はNDRが受け持っていたのだろうから、そこに問題があったとは思えない。やはりストリーミングするサーヴァー間の問題なのか。ARD内ならばいつでも使えるサーヴァーがある筈だが、外部なのでそれは使えないからだろう。

録音するだけならば後日の追加放送で構わないが ― NDRの放送日は7月29日である、次の予定のヴィーンも6月1日で同じプログラムだけなので、先ずはエルプフィルハーモニーでの初めてのフィラデルフィアサウンドを聞いてみたかった。こんなことならばもう一つのグレモーのピアノのプログラムの方を流して欲しかった。

一方ミュンヘンではキリル・ペトレンコ指揮でマーラーの交響曲七番が演奏されていた。この二日目を終えてロンドンデビューである。南ドイツ新聞は、プラハ初演でのプローベを語る弟子の指揮者オットー・クレムペラー伝を引用して、シェーンベルクがマーラーに「あなたは私にとってある種クラシッカーだと思っていましたが、どうでしょう、お手本ですよ。」と首を垂れた事に言及している。これを読めば今回の演奏がどのようなものであるかが良く分かる。

先日亡くなった作曲家ディーター・シュネーベルの訃報記事に目を通した。ベルリンを代表する作曲家とはなっていないから、まだ誰が居るのだろうと思ったら、なるほどまだ生きている老人をそこに数える訳にはいかないのだろう。ベルリンにだけでなく、ミュンヘンはおろかプファルツにもと書いてあって、一体どこで誰に教えていたのかなと思った。マインツか?オルテナウのラー出身だとも知らなかったが、プロテスタンティズムの懐疑が心情と書かれている。そもそものその神学における、そしてピューリタン的な偶像廃止への懐疑が、当初はアドルノの影響を受けて「シェーンベルク」で学位を取ったもののダルムシュタットでのセリアルとは距離を置かせるとなる。

キーワードとしてブレンドヴェルクと、建築のファサードの装飾を挙げて、そのオーラを放出する表面とその創作を指す。そこから同時にポストモダーンの形へと流れ込まないのは当然であり、ヴァルター・ベンヤミンの言葉を使って、「目標は、将来へと再び否定されるところのものとなる」とあくまでもプロテスタント的な批判がなされる。ここでその音楽に深入りする前に ― もし夏休みの時間が取れたなら楽譜が手元にあるので、改めて楽曲アナリーゼをしてみたいとは思うが、その演奏の録音を今流して、その成果を再確認している ―、ここでもう一つのキーワードである学究的若しくは逐語的への批判を一考する。

ミュンヘンでマーラーの交響曲七番演奏へのとてもよい批評から、恐らくマーラー解釈のスタンダードになって行くだろうとされる丁寧な動機の扱いの積み重ねだと思われる。その基本にはキリル・ペトレンコの楽譜そして第一次資料への拘りがあり、否定される余地がないものなのだが、この辺りでそうした姿勢にも批判的な視点をも確保していきたいと思っている。述べている通り、もはや歴史的評価の定まったペトレンコの芸術を称賛していても始まらない、面白くもないからだ。可能ならば批判が止揚されるような批判こそを願いたい。その端緒として、その「逐語的な楽譜解釈における批判精神の欠如」が挙げられるのではなかろうか。演奏実践の解像度を上げていくことでしか到達可能でない領域に入ってから、そして初めてその批判領域に入っていくのだろう。

ラトル指揮の最後のツアーへのコンサートの様子が報じられていて、ブルックナーのフーガではラトルが執拗に弦を煽るのに対して、管が付いていけなかったりと通常ではありえないぐらいに最後の数メートルへのひと押し状況になっているらしい。昨年の春の祭典での力のぶつかり合いが引き合いに出されているが、復活祭でのルーティンなマーラー交響曲などを見ると、想定外の力の入り方のようだ。そこで16年前の最初の頃には、「古楽奏法を教えてやった」と語り、管弦楽団を「ビックフット」と笑っていたのだが、ここに来てまるで指揮者が偉大か管弦楽かを示すかのような競演になっていて、若者のための普及などの貢献を通して、彼自身が最後には管弦楽に合わせて「ビッグフッド」になっていると書いている。そしていづれにしても管弦楽は新たなものを求めていて、キリル・ペトレンコ指名への決断こそが、「学究的」な管弦楽育成であるとしている。まさしくその「学究的な」ことこそが ― 「サーカスの猛獣使い」とこれが同義語になるのが「日本の学界」のようだが ―、今後の展開で建設的な批判の焦点になるのだろう。そこで話しの発端へと戻ると、その二つ目のキーワードこそが、「プロテスタント的な言語的定着」であり、その中で一つ一つ正確に熟していくというシュネーベルの仕事ぶりが述べられている。まさしく、余談ながら日本の学問において、たとえそこに漢字的な定着があったにせよ、Akribischと逐語的が結びつかないところであろう。

奇しくもベルリンのフィルハーモニカーの管楽陣と弦楽陣間のアンサムブルの傷に言及しているが、次期体制へと変化していくところが示唆されていて興味深い。フィラデルフィアサウンドなどを照査すると、そうした管弦楽団の原点のアンサムブルの形態や様式などにどうしても関心が向かうのであり、なにもそれは合うとか合わないの問題では全く無しに演奏様式を超えて、レパートリーや管弦楽団の存在意義についての考察となる。



参照:
Im Zweifel stark, Zum Tod des Komponisten und Denkers Dieter Schnebel, Gerhard R. Koch, FAZ vom 22.5.2018
尊重したい双方向情報 2018-05-29 | 文化一般
「ヤルヴィは一つの現象」 2018-05-13 | 文化一般
運命の影に輝くブリキの兵隊 2017-04-11 | 文化一般
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尊重したい双方向情報

2018-05-29 | 文化一般
承前)余話となるが、フィラデルフィア管弦楽団の手元の録音を流している。数は少ないが何枚かはディスクがある。こちらではザヴァリシュ指揮のツアーが最も注目されていたがプログラムがつまらなかった。手元にはその頃録音された初代監督ストコフスキ編曲集がある。ムーティ指揮もあるが、気になったのはショスタコーヴィッチ全集で10番と11番を担当しているヤンソンス指揮の録音だ。少し流して気が付くのは、96年の録音だから現在メムバーとは殆ど重ならないだろうが、この指揮者が振ると急に余裕が無くなってしまう。指揮者自身が心臓に来るのは当然というような鄧小平が新幹線を「後ろから鞭が入っている」と評したように、如何にもソヴィエト文化らしい演奏だ。この水準の楽団になるとこの指揮者には振らすのがやはり惜しい、精々オスロやミュンヘンの放饗ぐらいどまりの指揮である。

その点、現監督のネゼセガンは知的程度も高いようでコミュニケーション能力にも秀でている。なんといっても指揮技術的には優れているので、成長が期待される。反面それだけに目立ちがたりであるのは指揮者の本性で、その指揮に批判が集まるのはその点である。技能的にはギリシャ人のカラヤン二世の方が高いのかもしれないが、フィラデルフィアでのつまらない録音も楽団のためと言うならば理解されよう。そして今回のようなプログラミング作りは、その能力の一つとして十分に誠実さを窺がわせ、舞台捌きも決して悪くはないどころか、広い聴衆に訴えかける力も有している。プロテストについて一言付け加えた前夜に続いての同曲のアンコール「愛の挨拶」までのプログラミングもである。
Yannick Discusses The Philadelphia Orchestra's 2018 Tour of Europe and Israel


今回のイスラエル建国70年ツアーに際して、その抗議活動も含めて、やはりこの活動に注目したい。まさしくコメントされたように、今回のツアー実施への裏表をも全て含めての決断への「尊重」である。この点では、生誕年と言うだけでなく、そのバーンスタインの交響曲「不安の時代」の演奏が先ずは火曜日にエルブフィルハーモニーから一時間時差で生放送される ― 既にフィラデルフィアからは放送されている。この指揮者の音楽的な実力もその限界もある程度は把握出来たと思うが、彼自身が語っているようにバーンスタインは指揮者としての手本となっていて、その点でもこれはこの指揮者の知的な芸術活動に期待するところでもあるのだ ― 至らないまでもその活動は北アメリカからの一つの指標とはなるのではなかろうか。
The Philadelphia Orchestra's 2018 Tour of Europe and Israel preview


休憩後の二曲目は新曲のオルガン協奏曲だったが、これはフィルハーモニーのオルガンも聞けて良かった。そして管が各々にそこに絡む訳であるから、もう一つのプログラム曲「ドンファン」よりも管弦楽団のショーウィンドーとして熟慮されている。編成も大きく、その管の繋がりだけで一聴に値した。またオルガンのポール・ヤコブのペダルテクニックも見ものだった。
2018 Tour of Europe and Israel: Rehearsal Clip from Brussels


さて愈々三曲目のシューマンの交響曲四番であるが、そのままの大編成で、既に書いたようにプリンシパルの奏者などが出て来るのだから、そのサウンド自体にも初めから期待させた。放送であったように大編成でありながら室内楽的なアンサムブルを目指していて、管と弦もとてもよくコントロールされている。まさしく指揮者の腕なのだが、それは上のザヴァリッシュ指揮の録音で全く出来ていないことが可能となっている面で ― メゾフォルテと呼ばれたその指揮者でもとどのつまりカラヤン世代であることを思い起こさせるに十分な脂ぎったサウンドで嫌気がさす。ムーティの方が遥かにおしゃれだろう、しかし日曜日に放送されたラヴェル編曲「展覧会の絵」をネゼサガン指揮で聞くと、現在シカゴとフィラデルフィアではどちらが音楽的に機能的かは明白で、シカゴが苦戦している ― だからキリル・ペトレンコを尊重したのだが、フルトヴェングラーと同じようにベルリンには負けたのである。同時に終楽章では編成に見合うだけに十分なダイナミックスを準備しているのだから、シューマンの交響曲らしからぬ熱さもある。それでも例えばロスフィルのような金管が響く訳ではなく、なるほど欧州の趣味ではそれほど熱い支持は得られないかもしれないが、十分に会場は湧いた。勿論シューマン解釈へである以上に管弦楽への絶賛がその拍手にもよく表れていた。その意味ではより洗練されたクリーヴランドよりは湧きやすいかもしれない。
Rimsky-Korsakov: Scheherazade Op35 - The Tale of the Kalandar Prince


それに関してはやはりフィラデルフィアからのネット中継の効果が大きく、少なくとも奏者の名前や膨大な量の情報がフランコーネの指揮者や演奏者の口から齎される威力は、それが英語であることを含めてとんでもない広報効果となっている。ルクセムブルクに集まった何人がその放送を聞いているかは分らないが、遠来の客にしては身近に感じさせる効果が大きい。つまり演奏会などの催しにしても、こうした双方向のコミュニケーションがインターアクティヴな新たな形で生じる可能性は、まさしくベルリンでツェッチマン支配人などが行おうとしていることなのだ。

幾らかそれに関連して独仏文化TV局ARTEが正式なアンケートをネットで取っていたので返答した。質問項目以外に、「あなたが局長になったら」という問いに、「独仏国境領域での更なるダイレクト中継、最後ではなくてバーデンバーデンの祝祭劇場から、例えば復活祭」と書いたので、局がベルリンのフィルハーモニカーのメディアパートナーになって今後の具体策を出すときの後押しになると思う。兎に角なんでも機会があれば少しの時間を割いてでも意思の表明をしておかないと始まらない。インターアクティヴの形は数があり、文化におけるそれはまだこれからより具体的な成果になってくると思われる。(終わり)




参照:
WRTI To Simulcast Philadelphia Orchestra Concerts In Israel, Germany, Austria (WRT1)
とても魅力的な管弦楽 2017-01-30 | 音
荒野に生えた葡萄 2005-04-29 | 歴史・時事
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ビッグファイヴの四つ目

2018-05-28 | 文化一般
ルクセムブルクでのフィラデルフィア管弦楽団演奏会は私にとっても大きな出来事だった。昨秋のクリーヴランド管弦楽団とはまた異なる体験だった。後者はアメリカのそれとしては変わり種で「細いピンセルで」とホームグラウンドの会場の音響ゆえに決してグラマラスな管弦楽にはならないのだが ― 恐らくジョージ・セルの芸術はそうした環境によって形成さられたのだろう ―、それに反してこちらはゴージャスそのものでフィラデルフィアサウンドとして知られている。要するにビッグ5の中でも最もアメリカ的と考えられているが、私の関心のありどころはそのサウンドにあった訳ではない。

それに関してビッグファイヴの解説をプログラム冊子で試みている。書き手の見解では各々の管弦楽の創立年代を併記すればその特徴が浮き上がるとなる。ニューヨーク1842、ボストン1881、シカゴ1891、フィラデルフィア1900、クリーヴランド1918となる。つまり輸入?音楽のその目的に敵った編成、形態や機能がサウンドを形作っているという事になる。欧州のベルリン1882、アムステルダム1888をそこに並べてみるとどうか?欧州の場合は創作活動の場と演奏実践の場が重なり影響し合うので変化が伴うが、アメリカの場合は輸入文化としてある程度固定される可能性が強い。さて具体的にはどうか。

だからメトで活躍のネゼセガンの指揮への期待でも、エレーヌ・グリモーを聞きたかった訳でも無かった。もう少し複雑で、ムーティやレヴァイン指揮でその録音を聞いていて、最近中継放送で聞き始めたこの管弦楽団の機能性と現在の水準を確認したかった。だからネゼセガンのような力のある指揮者が常任として振っている事が欠かせなかった。その意味でバーンスタイン指揮でしか知らないニューヨークのそれは未だに確認できていない。

肝心の実力であるが、演奏旅行という事で一曲づつ少なくとも管楽器はベストメンバーが配された豪華さで、一曲目のブラームスや休憩後のオルガン協奏曲にはバス―ンのマツカワが出ていなかったので残念に思っていたぐらいだ。ダニエル・マツカワはその楽器の名人のようで、フィラデルフィアからの放送でも最も多く名前が発せられる。だから残念に思っていたが、二曲目よりも編成の小さなシューマンで登場となった。そしてこの名人が吹くことの意味を確認した。この人の名前を知るようになったのは放送を聞くようになってからだが、どうして頻繁に名前が挙がるのかはシューマンを聞けば一聴瞭然だった。この人が入ると管弦楽の響きが変わるのだ。その吹いている様子を見ているとバスラインをコントラバスやチェロなどと一緒に支えている。金管と違うのはその音色で、一吹きすると合奏の弦楽器の音が変調する。

まさしくゴージャスなフィラデルフィアサウンドになる。そして放送で聞き取れなかったのはやはり音の揃ったコントラバスの締まり具合で、キリル・ペトレンコが先頃の「指輪」ツィクルスの特に「ヴァルキューレ」で聞かせたような触れたら切れそうなそれには到底至らなくとも同じ方向であり、クリーヴランドのあの乾き切った音ではないのも、正しくバス―ンが綺麗に重ねているからだ。オーボエのリチャード・ウッドハムズも立派な音が出ていた。フルートのジェフリー・カーナーも良かったが、クラリネットのリカルド・モラーレスがマツカワの横で芯のあるクラリネットを響かすという腕利き揃いだ。モラーレスも ― レヴァインに悪戯されていないのだろうか? ― 、彼らの名前は放送で知っていてもこうして写真とHPを合わせて初めて顔を認識した位だが、それらが一曲目ブラームスでは休憩をしていて、中入りからトリとなると揃ってくるのだから千両役者勢揃いの横綱相撲のようである。

そこからすると一曲目のブラームスの協奏曲では、前日ブルッセルでは「フリーパレスティナ」の抗議行動で演奏を中断・再開しており、この日も指揮者登場前にフィルハーモニー支配人が一言述べたように、聴衆も演奏者も一寸した高揚と緊迫感があった。ネゼセガンに期待される正確な読みと指揮技術はその通りだったが、若干ピアノをマスキングしてしまうぐらいな音量を出していたのは残念だった。メムバーもプリンシパルが若干落ちた編成で演奏していて、音量コントロールが儘ならなかったとも思われない。少なくともグレモーのあのピアノにはもう少し丁寧に合わせてもよいと思った。言うならばそこがこのメトの次期監督が、キリル・ペトレンコ指揮の「ばらの騎士」のカーネギー会場で習わなければいけないと指摘されるところだろう。もう一つ危惧していた二楽章などでの合わせ方は、これはよく辛抱していたと思う。三楽章はピアノもコントラストが付いていたのでとてもうまく運んだ。違う会場で、合わせものを演奏する難しさもあったかもしれない。つまりネゼセガンがそこまでコントロール出来ないのか、若しくはペトレンコのブラームスの様にそこまで合わせようとしないのかの疑問は指揮者に向けられるもので、管弦楽団の技術的な問題とはまた異なる。(続く



参照:
まるでマイバッハの車中 2018-05-27 | 生活
細い筆先のエアーポケット 2017-11-03 | 音
とても魅力的な管弦楽 2017-01-30 | 音
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外国人を叱る統合政策

2018-05-22 | 文化一般
シューマンの交響曲四番のメモを取っている。歌謡形式のような歌の時代風の展開があり、全体像が益々分らなくなってきた。幾つかの版があるので、楽譜を変えてみよう。参考資料のフィラデルフィアからの中継録音ではロマンツェでオーボエと掛け合うソロを受け持った日系のチェロ奏者ユミ・ケンダデールの早口と、監督ネゼセガンのインタヴューで語っていた。三拍子系と二拍子四拍子の関係なども気になってくる。ネゼセガンは、室内楽的な演奏を要求しているようで、方向性は間違いないだろう。しかし実際にその演奏を聞くとさらに細かくキリル・ペトレンコの要求程度まで弾き別けないと管弦楽法の問題は解決しないのではないか。最新の学術的な見解は知らないが、楽器編成とかその楽器の質とかで音量のバランスや音色を際立たせる試みを行っても、まさしくこの作曲家のピアノの曲の様にどのように鳴るかの問題は付き纏う。ヤマハかシュタインウェーか、ベッヒシュタインかの問題ではないと思う。

ナゼセガンののりのりテムポには違和感があるが、そもそもこの交響曲とブラームスの協奏曲そしてエルプフィルハーモニーでは「ドンファン」などを組み合わせたプログラムは指揮者の尊大に見えるような自信溢れるプログラム構成で、こちらもそれだけ準備に怠りない。興味深いのは、フィラデルフィアではシューマンの交響曲に関しては前々々任監督ザヴァリッシュ指揮が演奏史として放送でも挙げられていたことである。しかし故人の演奏では丁度カーターの作曲のようなその魅力的なサウンドが聞かれなかったと思うがどうだろう。

2016年のアジアツアーから香港中継の録音を聞いた。少なくとも一曲目のブラームスの第二交響曲では、日本での評判の程度を裏付けた。2011年に倒産整理、2012年からネゼセガンが就任しているので三年目でのツアーであった。殆どソリスツの移動は無いようだが、少なくとも本拠地での演奏程度とは全然異なる。ヴァイオリンなどはご多聞に漏れずアジア系女性が多そうだ。要するに2016年のツアー公演の演奏程度では世界一のオーケストラではなかった。細かなところまで目が行き届いていないのは指揮者と管弦楽団の息の合い方もあるだろうか。ペトレンコでもベルリンで二三年は掛かると思われる。これらの点もツアー公演二日目で確かめることになる。

先日元号法制化が問題だったことを書いた。そして日本のネットではデーターベースを西暦にするとあった。まさしくこれが我々の主張していた問題で、要するに元号化法案などは似非右翼の日本文化曲解の最たるものだった。やるなら便利性を考えて何ら根拠のない紀元節制定位にすればよかったぐらいだ。連中の主張には何ら根拠がないどころか、元号の文化や天皇の文化的価値までをも政治的道具とする者だったのは分かっていた。早くネトウヨ同様に一掃してしまうべき連中である。

そうした延長線上に外国人労働者受け入れ準備の動きの報道があり、如何に日本には健全な右翼が居ないかが明らかだ。その延長線上には外国人問題が生じるので官僚ごときが決めるものではなく広く国民の合意が得られないと大変な問題となる。それに関して、「外国語しか出来ない外国人を叱るのはヘイトスピーチ」だとの呟きがあったが、そのような議論をしている限りは外国人問題を扱えない。つまり外国人が増えれば問題になるのは必至であり、まさにそれこそがドイツでの政治課題だったのだ。統合化によって、少なくとも国内での乖離や対立を生じさせないことが基本とされる。

そこから更に進むと、自国ドイツの基本文化論議などになって再び危険な領域へと入って行き、いずれにしてもこれだけ精力を使い果たしている移民国ドイツでさえ未だに真面な移民法が成立しておらず現行のものは基本法に抵触している疑いが強い。日本のような人権意識の低い社会では到底移民受け入れなどは不可能と思われるが、ここ二十年ほどでドイツ社会もその意識が変わってきていることを考えれば、絶えざる議論は欠かせないのだろう。

それでも公的にドイツ語ではなくトルコ語を使うことは認められない。先ずは難民も移民もドイツ語を使うことが基本であり、それはメルケル首相の統合化政策の基本であり、社会民主党においても全く変わらない。外国語しか出来ない外国人を叱るのは当然なのである。たとえそれが植民地主義的な背景があろうともである。それともエルドアンの大イスラム主義を許すのか。




参照:
恥知らずの東京の連中 2018-05-18 | 文化一般
五桁ほど違う経済 2018-05-17 | 生活
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恥知らずの東京の連中

2018-05-18 | 文化一般
フランクフルト市立オペラに行くことになった。ティケットを押さえた。36ユーロである。オペラは嫌いとか、ジンタは御免とか言いながら、なんとオペレッタに出かけるのだ。レハール作曲「メリーウィドー」である。もしかするとオフェンバッハも「こうもり」も知らないので初めてのオペレッタかも知れない。昔エディンバラ音楽祭で観たフェタとかスペイン物が一番軽かったぐらいだろうか。勿論ミュージカルなどに金を掛ける人間ではない。

他の公演の追従を許さない選択理由は、見逃せないほどに特筆すべき音楽劇場上演となりそうなぐらいのその批評やその語り口の熱さである。つまり、オペレッタ全盛期のそれらがシェンク演出「こうもり」のそれなどを含めて、本当にそれらの公的劇場で上演されるだけの価値があるのか、つまり反対にヴィーンでの様に観光客に金を落とさせたり、またはミュージカルの様に大ヒットする可能性などの商業的価値が無いので、税金で制作される意義が問われる。

内容に関しては想像するしかないのだが、重要な枠組みとして、オペレッタ自体を上演してそれをお客さんが娯楽とする以上に、初演当時制作された映画を撮る形でもう一つ枠を広げることで、舞台上で描かれる世界が逆に純粋な芝居となっているようだ。この方法は劇中劇の目眩まし効果よりも、例えば科白を殆ど切ってしまうような方法で、更にその音楽創作の直截な効果を浮かび上がらせる効果になっている様。
Franz Lehár: DIE LUSTIGE WITWE


兎に角、劇場に座ってその舞台に細かに描かれる機微を追って行かないと何とも言いかねるのだが、ここ暫くのクラウス・グートの演出は注目される業績を残しているらしく、初日の反響から舞台の完成度が更に期待されるに十分なようだ。そして主役のマルリス・ペーターセンがこれまた絶賛されていて、私が行く上演にも間違いなく出て欲しいと思う。女流指揮者のマルヴィッツも次期ニュルンベルクの監督らしく、とても評判が良い。個人的にも、ペーターセンの「ルル」以外でのオペラ歌手としての力量と、久しぶりに聞くフランクフルトの座付き管弦楽団の響きと1100席ぐらいの劇場の響きなどを、ミュンヘンの経験から再び精査することになる。

ブラームスのニ短調協奏曲は第二楽章になって改めて驚愕した。更にこんなに難しい曲とは気が付かなかった。LPのルービンシュタインの演奏が凄みを増す。演奏技術的な問題ではなくここではそのもの作曲家が弾いているようにしか響かず ― 恐らくヨハヒムから伝え聞いたそのものだと思う ―、若くしてこんな音楽の書けるこの作曲家を見直した。なるほどベートーヴェンのパガテルなどの手本があるとしても、立派である。録音でのメータは管弦楽団の技術程度に拘わらずとても丁寧に打ち合わせ通りに音型を丹念に描いているようであり、三楽章になるとここぞとばかりに老ピアニストに助け船を出す。とても価値ある録音になっているのだが、来週フィラデルフィアがネゼセガンの下で楽譜通り正しく演奏するとこれは大変素晴らしいことになるだろう。但し心配は、グリモーが神経質に弾いていくとなると、そのテムポやその間に指揮者は堪えらずにいつものようにスイングしてしまう危惧が拭えない。ブラームスのシンコペーションとその類似音型など、とんでもないが私には簡単に読み分けられていない。もう少しお勉強しないと何もしないのとあまり変わらない。同時にシューマンの交響曲との関連などがハッキリしてくると、これはなかなか考えられたプログラムであると分かるようになってきた。

フィラデルフィアの今回の欧州・イスラエル公演が紛争の中で催されることになったのは偶然ではなく、まさにこの時に合わせてフィラデルフィアのユダヤ人組織などの協力で企画されたもので、そもそも頗る政治的な活動である。当然のことながら現在のイスラエル政府は人権上大きな問題を抱えていて、北朝鮮政府と互角であろう。イランなどよりも遥かに問題が大きい。だから私が放送予定について紹介した呟きに「セーフイスラエルアメリカン」などのハートが付くのは心外だが、やはりそこからフィラデルフィアでも大きな抗議運動が起きていることなどを知るに至る。交流を閉ざしていけないのは外交も然りである。

狸寝入りをしているのは罪で、それどころか日本人の様にザッカーバークや引退する女流ピアニストのユダヤ人達に好きな様にもて遊ばれているようでは話しにならない。またバイロイトのカテリーナをこともあろうに「フィデリオ」演出に招聘する勘違いを見逃す訳にはいかぬ。まだ2015年から三年しか経っていないのにも拘らず、腹違いの姉であるパスキエ―女史追放への支配権争い劇で、バレンボイムやペトレンコからその「非人道的な行い」に対して声明が出されたことも忘れたのであろうか。そうした企画をする連中はヴァークナー家にすり寄ってそのお零れに与かろうとする下卑た連中に違いない。この「フィデリオ」制作だけで如何に東京の二国が社会センスの無い非芸術的な組織であるかという事が世界に知れた。スポンサーのトヨタは恥ずかしいと思わないか?



参照:
録画録音した中継もの 2017-08-31 | 音
アルベリヒは南仏に消えて、 2015-06-14 | 雑感
カロリーだけでなく栄養も 2017-12-12 | 生活
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「ヤルヴィは一つの現象」

2018-05-13 | 文化一般
レープホルツ醸造所の試飲会だった。今年は金曜日だけが無料なので、どうしても馳せ参じなければいけなかった。それも13時半からのレープホルツの講話に合わせるとなると厳しかった。結局講話を拝聴してから、急いで購入して、更に谷を詰めてオウトレット内履きを買いに行こうとして支払いのカードを入れた。暗証番号を二回外した。これは駄目だと思って、先ず靴を購入して落ち着いてからもう一度挑戦しようと辞退した。三回でカードが使えなくなる可能性があるからだ。金曜日であるから、手元の20ユーロで週末を凌がないといけない。危機一髪だ。

番号を調べるには帰宅するしかないが、車のディスプレーのボタンを押すなどして思い出そうとする。自信がない。醸造所では電話の番号と混同していたようで、全く違う番号を押していたのは分かった。それならば一体どのような組み合わせだったか?徐々に思い出してきたが自信が無い。そうこうしているうちに目的地に着いたので、先ずは靴を探した。

昨年の秋に来た時には見つからなかった冬用と同じメーカーのサンダルがあった。ここ数年愛用だが、やはりその耐久性には限度がある。調べてみると、前々回の茶色を購入したのが2012年5月で、その後に黒色を購入しているので、満六年間で二足使い古したことになる。つまり一足三年もつ。前々回は43、前回は42、そして今回も43の大きさで40ユーロ弱払った。同じように革素材なのだが、裏底のゴムの細かくなったプロフィールがその擦り減り方の床の汚れ方が気になるところだ。しかし先ずはこれで一安心だ。(続く

先日のベルリンでのパーヴォ・ヤルヴィ指揮の演奏会評が面白い ― ペトレンコ指揮に関しては誉めておけば間違いないような風潮になっているので、余計にこうした副指揮者的な演奏への批評がモノを言う。正直何が言いたいかよく分からない下手な文章であるが、少なくとも聞いた内容は比較的把握出来た。シベリウスの協奏曲でヴァイオリンがヤンセンからバティアスシヴィルに変わったのは知っていたが、その批判にルーティン過ぎるとあった。確かブレンデルのお気に入り奏者であったと思ったがバーデンバーデンでのドヴォルジャークの中継を見聞きしても同じ印象だった。安定した弾き振りが持ち味の奏者だからなにを弾いてもあまり変わらないのではなかろうか?それとは反対に管弦楽団が自由に弾いているように聞こえるのがこの指揮者の特徴だと思うが、先日のベートーヴェンは大成功していた。歌手のバカ声がとても邪魔になって癇に障るがヴァークナーも全然悪くは無かった。

ショスタコーヴィッチの六番に対しても決して好評ではないのだが、ベルリナーポストの記者はそのように聞いたとしか分からない。恐らくそのように聞こえたのだろう。逆に日本でこの指揮者が招聘されて - 恐らく、ど派手なフォンカラヤンを除いて、日本の交響楽団が歴史上招聘した最もキャリアの真っ只中にある人と思うが ―、現に活躍しているのが不思議でたまらない。それほど地味な指揮者であり、こうやってオイローパコンツェルトのTV中継があっても、フィルハーモニーで連日指揮しても殆ど話題にもならない指揮者は珍しい。如何に通常の商業ジャーナリズムではネタにならないかのお手本のようなもので、この当該の新聞が次の節で始めているのに全てが表れている。

「パーヴォ・ヤルヴィは一つの現象である。どの管弦楽団も彼を愛している。どの管弦楽団も彼と仕事をしたいと思っている。常任指揮者として戴けないならば、せめて客演指揮者として」と、このジャーナリストも無視出来ない「現象」が一方にあって、そこは悲しいかな業界人でなければ、そのなぜが理解出来ない素人の悔しさがあるのだろう。だから読みにくい文章になってしまっている。

私も一度生で接してみたいと思っている。出来ればバーデンバーデン復活祭登場の前に聞いてみたい。その復活祭といえば、その前にキリル・ペトレンコが第九を振ることが分かった。それもローマのサンタチェチーリア管と合唱である。なぜそこに押し込んだのか考えれば、2019年8月の就任コンサートかジルフェスタ―コンサートで振ることは間違いないだろう。またどちらかはマーラーの千人の交響曲となるのだろうか。

来週には新たなグラスファイバー回線が開通するので、その前にブラームスの協奏曲を勉強しておかないと時間が無くなりそうだ。新しい回線でデジタルコンサートホールも試してみなければいけないからだ。またうまく都合がついたなら先ほど録音で失望したハイティンク指揮のコンサートにも出かけてもよいかと思っているので、時間が更にない。



参照:
キレキレのリースリング 2017-11-11 | ワイン
とてもちぐはぐな一週間 2012-05-19 | 生活
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素人の出る幕ではない

2018-05-12 | 文化一般
先日のサントリーホールでのテロ行為の余波が続いているようだ。袖にいた人がショックを受けているようで、舞台という無防備な所での威力行為はやはりルール違反だ。私の様に社会規範やマナー云々の束縛の嫌いな人間でもこうした迷惑行為を超えた暴力行為は聞き逃せない。

前記の場合はそもそも芸術行為や表現行為とは一切関係ない ― 今やどんな「素人評論家」でも表現するメディアを持っているので、表現法を吟味することになる。しかし直ぐに思い出したのは、舞台演出家で若くして逝ったシュリンゲンジーフの活動で、そのものアクションアーティストが職業である。フルクシスやヨゼフ・ボイスなどを継承する形で活動していたので、映像で暴力沙汰なども残っている。

芸術やその表現に求められているのはまさしく既存の概念を超えた発想や感性であることは間違いないのだが、その現実社会を見渡せば小説よりも奇なるような為政者が権力を掌握していていて、そうした社会通念が通用しない。そのような環境において劇場空間などで現実の限界を問うてみても致し方ないのは疑問の余地が無い。ポストモダーンの20世紀のあれはもはや現在には通用しない。

昨日の車中のラディオの夕方のフォールムの時間は、ベルリンの国民劇場でフランク・カストルフの後任に選ばれた監督の問題が主題であった。その事情は知らないが、月末にはカストルフ演出のヤナーチェックのオペラがミュンヘンで掛かり、中継されるので楽しみにしている。そのカストルフもバイロイトではジークフリートの剣代わりに自動小銃をぶっ放せその合成音をぶち鳴らした。あれは、注意書きが配られたように音の暴力以外のなにものでもなかった。
Exzerpte der Hölle – Frank Castorf über AUS EINEM TOTENHAUS


個人的な体験としては、先の復活祭で指揮者登場の時にか拍手の中で正面バルコンから声が掛かったのを聞いた。「パルシファル」二幕前だったろうか、その(感動した一幕の)演奏が気に入ったよとかなにか肯定的なものだったが、一寸驚いた。オペラにおいては、12月のプッチーニのヴィデオストリーミングでは「O Mio Babbino Caro」で初日のラディオ中継時には拍手が小気味よく行かなかったので、どうも女性のサクラが入って一声掛けていたのを思い出す。日本でも歌舞伎などでは有名であるが、あのような絶妙のタイミングは楽譜を研究していてヴォイストレーニングをしていないと出来ないだろう。ああいうのを聞くと素人の出る幕ではないと思う。そしてミュンヘンの人材は羨ましいと思った。
G. Puccini - O mio babbino caro - Anna Netrebko


いづれにしてもお子ちゃまではないのだから、何かを表現しようと思う者は熟慮の上にその表現の影響や効果を、その社会的な責任をとるだけの覚悟が出来ているだろう。兎に角、そういう恥さらしで無粋な人間が日本からベルリンくんだりまでやって来て恣意行為をするのである。

左の歯の欠けた箇所の残りの歯とその歯茎の調子がとても良い。普通に固いものも噛んでいるが、もう少しで意識から消えそうなぐらいに好調で、あと一週間ほど様子を見て好調が続くならば、歯医者に判断して貰おうと思う。二年間苦しんだのが嘘のように炎症が引いて来ている感じだ。歯学的にあり得ることなのだろうか?関連しているらしい右の鼻も調子よくなって来ていて、このまま治ってくれると健康上の一つの危惧が消える。もう一つ関係は無いが、先週土曜日から金曜日まで走らなかったにも拘らず、左の腸部が痛むことも無く調子が大きく崩れなかった。座業時間が少なかったからかもしれないが、運動不足でもそれほど健康状態が悪化しなかった。涼しくなると肩などが痛むことがあるが、今年は全く使っていないのでそれも無くて助かっている。

昨年のプッチーニの写真を見て思い出した。先日のネットのインタヴューでエルモネーラ・ヤホが私生活を喋っていた内容をである。ツイッター繋がりで気になった訳であるが、同郷の学生時代からの男友達とロングアイランドに住むようになったようで、その彼がIBMに勤めているエンジニーアという事で、なるほど彼女が端末を使いこなしている意味が分かった。そのネット活動時刻も旅行中を除いてはなるほどとニューヨークタイムだと思った。そして彼女が軍人家庭出身だったという事で、なるほどそう言えば昔付き合っていた女性の父親は海軍将校であって、なんとなくその雰囲気に共通点を感じていたのでこれも合点が行った。
Ermonela JAHO dans BUTTERFLY " un bel di vedremo " AVIGNON

Ermonela JAHO the death of BUTTERFLY




参照:
創作などは理解不能 2018-05-10 | 文化一般
明るく昇っていく太陽 2017-04-18 | 文化一般
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創作などは理解不能

2018-05-10 | 文化一般
サントリーホールでテロがあったと言う。それもどうも精神病院から出てきている人ではなかったようだ。やはり日本社会は病んでいると思った。オウムのような連中が出るのだから予備軍は十分に居るのだろう。昨年はベルリンでも同じようにキリル・ペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカー演奏会で恣意的な行為をした日本人が居たという事だった。

そのような自己顕示欲を示す場として音楽会やオペラに集う人は居るのだろう。なるほど日本では所謂フライング拍手というようなものが伝統的になっているのは知っている。しかし私が知っている時期はこちらでのそれと変わらずに場を見ながらというのは少なくは無かった。オペラにおいての特にヴァークナーのそれにおいてのブーイングは世界中同じようでバイロイトを中心に白痴が集う。あの連中のイデオロギーもおぞましいが、それ以上にあの連中が如何に日常生活において満たされていないかが良く分かるのだ。だから現実を映し出す所謂芝居的な現実対比の演出となると、ブーイングで憂さを晴らす。如何にもヴァークナー音楽愛好家なのだ。

そこで名言だ。「知らなかったなどとはいってほしくない。」、最初から分かっているのである。今日のような情報過多の時代に、オペラの演出であろうが演奏会であろうが、行く前から大凡のことは分かっている。その判断が出来る者を通と呼ぶのだ。だから私は、そもそも人の悪口は言わない質であるが、貶すようなことならば態々金を掛けて出向かない。それでも確認のためにティーレマン指揮シュターツカペレに出掛けたがブ-イングするほどではなかった、それに値しないからだ。そして安い券で久しぶりにシュターツカペレを聞けたのは価値があった。どこにブーイングする意味があるのだろうか?だからブーイングする連中は如何に表現というものを知らない者たちであるかが知れるのである。少なくとも表現者が考えていることぐらいは理解するぐらいでないと、創作などは端から理解不能である。

ブラームスのピアノ協奏曲のもう一つの手元にあるディスクは最晩年のルービンシュタインが弾いて、メータ指揮でイスラエルで演奏したものだ。先ず冒頭の動機からして、もう一つのハイティンク指揮の録音とは異なり正確に弾かせている。管弦楽団の質がこれほどに違いながらも、丁寧に譜読みがされていて、特に第一拍の置き方が上手い。ハイティンクとは正反対になっている。ピアノもその意味から充分に話し合ってから合わせてあるのだが、如何せん九十歳近い老人の音色は弱弱しい。しかしそれ以上にこの録音が貴重なのは、ピアニスト自身がライナーノートに書いているように、ブラームスをシューマンに紹介し、この作品を授けられているヨゼフ・ヨアヒムからこの曲のテムピやダイナミックスなどについて直接助言を承けていることだ。

ベルリナーシュロースのシュルターホ-フでのチャリティー演奏会のティケットが月曜日に発売される。1500席であるから、何処の演奏会場よりも少ない。但し野外であるから音響は期待できない。価格は295ユーロ画一だ。再建費用に寄付される。ベルリン在中であったなら購入していただろう。生憎ここからは遠くて往復の燃料費だけでも150ユーロ、そこに宿泊と駐車料金が掛かる。〆て500ユーロでは効かない。夏の終わりに列車で行く気も起らない。その代わりRBBでパブリックヴューイングを流してくれるようだ。これで充分だ。ベルリンの建造物に寄付するほど借りが無い。



参照:
まるでクリーヴランドか 2018-05-03 | 音
客演で残る指揮者達 2018-04-27 | 文化一般
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元号廃止などと昔話

2018-05-04 | 文化一般
昨今は再び新元号と絡んで、その不便さが囁かれているが、私は昭和時に三代も変わると元号は非能率的で愛されないと睨んでいた。しかし私は昭和しか知らないのでその後の展開は知らない。既にあの当時にまだその年号の人が沢山生きていた明治・大正と数えるのが面倒であったので、実感していたのだ。

昭和の音楽会のチラシに元号が記されていない。それどころか西暦も無い。このことで当時の状況を思い出した。少なくとも元号のイメージが悪かった。少なくとも外国の管弦楽団を聞こうとかするような知的階層には嫌悪されていた。天皇制の問題でもあるが、やはり裕仁を許せない人も多かったのは事実だろう。兎に角、高度成長の真っ只中ではそれほど気にする問題ではなかったので、少なくとも元号が法制化するなどというようなときになるまでは曖昧にされていた風潮があった。

そもそもあの当時は憲法改正などというと天皇制廃止のことしか考えなかったので、今こうやって日本を去ったのは当然とも言える。しかしその後日本を観察することで、やはり天皇は日本人には欠かせないと三島由紀夫などとほとんど変わらない考えに至った。どうせ私には関係の無いことである。

メーデーのTV中継に関しての評はまだあまり見かけない。話題になっていると書いたが、その演奏に関してはまだ何ら読んでいない。ローカルなバイロイトなどというオーヴァーフランケンの片田舎で催された催し物であり、総稽古はあったもののプレス関係者も座席数からそれほど集まっていなかったのだろう。そうなると私などは意地でももう少し触れてやろうかという気になる。早速とても珍しいことに、ARDのサイトからMP4を落とした。興味はなぜ上手く行っているのか、その指揮の極意を見極めたい。あれほどに世界指折りの気鋭の指揮者達が振っていてもなかなか出来ていないことがこの指揮者の下で可能となっている面があって、とても気になって来ている。それは主に自由にやらせて、その場のライヴのインスプレーションというところに係っているのだが、ある意味何を犠牲にして何を得たかという事でしかない。いずれにしてもキリル・ペトレンコ時代を先取りするようなフィルハーモニカーの演奏となっていて、あれがペトレンコの譜読みと精度で実現するのかと思うとまたまた身震いしてしまうのである。

パーヴォ・ヤルヴィの指揮は、その指揮者としてのキャラクター以上に、どこまでも渋く玄人向きだと感じた。なるほど当日の演奏会で皆感動したと語っているが、それは音楽的な事ではなくてこの指揮者が今後ベルリンで受け持つファミリーコンサートのような聴衆の感興を超えていないだろう。ブレーメンでの活躍もあまり知らないのだが、やはり地味を絵で描いたような指揮者だろう。同僚にはハーディングが居たというが、こちらの方はまだ客寄せになっていたのかもしれない。

昨年のミュンヘンの座付き管弦楽団に同行したイゴール・レヴィットが態々ヤルヴィ指揮のN饗のショスタコーヴィッチを聞きに出かけていたようだが、私が考えていたような興味とはまた違う興味があったのかもしれないと思い出している。その演奏の放送は聞いたが、ネットでの評価のようにはそれほど感心しなかった。態々聞きに行って詰まらなかっただろうなと思った。地味で地味でどうしようもないとなると余計に興味が湧いて来て仕方がない。

実際に来年からトーンハレ管弦楽団の首席指揮のポストというこの指揮者にとって六十に手が届こうかという齢で初めての一流のポストに就くことになって、まだまだプレス関係も目が醒めきれていないようだ。熱心に追っているのは、キリル・ペトレンコの問題のインタヴューをした元ベルリナーポストの記者で、現在のFAZの音楽筆頭記者ぐらいである。私なども先日のプログラム発表時のツェッチマンの話しを聞いていて、なるほどと思ったぐらいである。



参照:
インタヴュー、時間の無駄六 2016-08-13 | 文化一般
「副指揮者」の語学力 2018-05-02 | 暦
客演で残る指揮者達 2018-04-27 | 文化一般
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