(承前)第九交響曲の合唱付きの理解が難しい。それはやはりそのテキストの音化にもあるだろう。それがノイドイツェシューレとされて、それ以前の楽聖の交響楽団の純音楽的な古典的な形式感や内容に対して、より広範な教養的な意思をそこに表現するのが芸術の使命とされたような創作意思を尊ぶ思潮でもあった。評論としてはロベルト•シューマン、作曲としてこの第九が挙げられる。
楽聖のその教養やその学識などは議論されることが多いようであるが、音楽家としてヘーゲル風の弁証法的な論理が同時代人の芸術として徹底している事には間違いない。実際にそのような創作活動の中で、より自らの経験も以っての「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」という言葉の声明がそこに込められる。それがペトレンコが基準にしている初代ビュローによって厭わしく思われた芸術的な立場であろう。
「創世記」からその進展において、中々調性を定めるカデンツァ構造として定まらないことがその進展そのものであり、空虚五度の扱いとして展開され、ティムパニーが調音されて対抗するスケルツォ楽章と既に終楽章での成就が必要とされている。後期浪漫派における交響曲に大きな影響を与えたのも当然であろう。
三楽章においても弦楽と木管の受け応えが、教会のオルガンと群衆のコラールだとした話しも興味深かった。「ミサソレムニス」において、教会を出でて、人々の心に入る為の作品は、18世紀終盤からの中欧における祈りの教会から離れての共同体への意識だとされるものである。終楽章が先にありということでは、それに匹敵する「交響曲」が必要になる。
そして、追想があって、皆が知っている「こんな音ではない」となる訳だ。同時にそれがなんとなく合点がいって仕舞うのでこの楽曲がとても容易に受け取られてしまう反面、よく分からない、ある意味フーガやマエストローソとなるとなにがなんだか分らなくなるものである。
それは、ミュージカル映画「サウンドオブミュージック」で教会シーンなどが出て来るのにも似ている効果しか与えない可能性がある。それゆえに日本などでもあのようなシラーのドイツ語歌詞があまりにも容易に歌われているという原因にもなっているのだろう。それほど難しい詩ではないとも思うが全く容易なものではない。
「エリジョン」なんてギリシャ神話のものであり、その素性まで考えると難しい。理解できる人は少ない。つまりそれによってアレゴリー化則ち寓話化される効果が目されているのである。楽聖もその前でバリトン則ち我々共同体からの視座を作り上げる。
この終楽章のドタバタ感の根本にある構造ではあるのだが、こうした枠構造が理解の困難を極めることになるのではなかろうか。なるほどバロックにおけるオラトリオなどの場合にこそこうした構造が成り立っている。然し現在の演奏会若しくはベートーヴェンの交響曲が頻繁に演奏された20世紀中盤辺りまでの状況を考えると、そうしたバロックの伝統に馴染んでいたような市場も聴衆も殆どいなかった。
勿論当時の楽聖にとっては、こうした悲惨な時代の状況を鑑みて芸術化するにはこうした寓話化によってのみ自らの声明をそこに込めることが叶ったのである。(続く)
参照:
来シーズンの全貌をみる 2025-05-07 | 文化一般
フクシマ禍から蜂の巣へ 2019-09-16 | 文化一般
楽聖のその教養やその学識などは議論されることが多いようであるが、音楽家としてヘーゲル風の弁証法的な論理が同時代人の芸術として徹底している事には間違いない。実際にそのような創作活動の中で、より自らの経験も以っての「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」という言葉の声明がそこに込められる。それがペトレンコが基準にしている初代ビュローによって厭わしく思われた芸術的な立場であろう。
「創世記」からその進展において、中々調性を定めるカデンツァ構造として定まらないことがその進展そのものであり、空虚五度の扱いとして展開され、ティムパニーが調音されて対抗するスケルツォ楽章と既に終楽章での成就が必要とされている。後期浪漫派における交響曲に大きな影響を与えたのも当然であろう。
三楽章においても弦楽と木管の受け応えが、教会のオルガンと群衆のコラールだとした話しも興味深かった。「ミサソレムニス」において、教会を出でて、人々の心に入る為の作品は、18世紀終盤からの中欧における祈りの教会から離れての共同体への意識だとされるものである。終楽章が先にありということでは、それに匹敵する「交響曲」が必要になる。
そして、追想があって、皆が知っている「こんな音ではない」となる訳だ。同時にそれがなんとなく合点がいって仕舞うのでこの楽曲がとても容易に受け取られてしまう反面、よく分からない、ある意味フーガやマエストローソとなるとなにがなんだか分らなくなるものである。
それは、ミュージカル映画「サウンドオブミュージック」で教会シーンなどが出て来るのにも似ている効果しか与えない可能性がある。それゆえに日本などでもあのようなシラーのドイツ語歌詞があまりにも容易に歌われているという原因にもなっているのだろう。それほど難しい詩ではないとも思うが全く容易なものではない。
「エリジョン」なんてギリシャ神話のものであり、その素性まで考えると難しい。理解できる人は少ない。つまりそれによってアレゴリー化則ち寓話化される効果が目されているのである。楽聖もその前でバリトン則ち我々共同体からの視座を作り上げる。
この終楽章のドタバタ感の根本にある構造ではあるのだが、こうした枠構造が理解の困難を極めることになるのではなかろうか。なるほどバロックにおけるオラトリオなどの場合にこそこうした構造が成り立っている。然し現在の演奏会若しくはベートーヴェンの交響曲が頻繁に演奏された20世紀中盤辺りまでの状況を考えると、そうしたバロックの伝統に馴染んでいたような市場も聴衆も殆どいなかった。
勿論当時の楽聖にとっては、こうした悲惨な時代の状況を鑑みて芸術化するにはこうした寓話化によってのみ自らの声明をそこに込めることが叶ったのである。(続く)
参照:
来シーズンの全貌をみる 2025-05-07 | 文化一般
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