Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

カイザー音響への道程

2024-07-19 | 文化一般
承前)モーツァルトフェストの演奏会、カイザーザールではサイドの一列目も空いていた。しかし舞台を高く組んでいるのは知っていたので、後ろの席にした。サイドであるから安い。三ランク目の席であったが、音響を知るためには十分だと考えていた。

当夜演奏された曲は、ヴェーバーの交響曲二番ハ長調から始まるプログラムで、冒頭からバロック楽団の面目躍如であった。ベートーヴェンの交響曲四番と同時代の交響曲とはされながらその曲はモーツァルトの協奏交響曲以上にバロック的な楽器の受け渡しなどがある。この曲を生で聴くのは初めてだったろう。

二楽章の緩徐楽章に数年後の「魔弾の射手」の萌芽があるとされているが、そのメヌエットや終楽章のユーモア感覚がハイドンだとされるように、その響きが浪漫的だとされたのはあまり正確ではない。

そのように断定可能なのは、昨今では決定的な名演とされているバーゼルの室内合奏団をエンゲルが指揮しての上演ではバロック楽器と奏法で激しく荒れ気味に演奏された。つまり、そこでのドイツ浪漫派の萌芽とするその意味合いの認識を新たに得た。

つまりここでもその楽器間の絡み合いはよりバロックのコンツェルタントであって、その妙こそが核心にある。実はその方向でこそシューマンの作品などが評価されるのは、20世紀に実は創作としても試みられて再認識されていた。

当夜の演奏会ではフィンランドのあまり知られていないバロック管弦楽団が演奏して、ヤンネ・ニソーネン指揮でディナー付きのゆえか休憩なしで集中して三曲のみが演奏された。しかしその楽団の名前を何処かで見た覚えがあった。なんと今年のハイデルベルクの音楽祭に出ていたのだ。

ヴェーバー演奏でもとても積極的なプレーが見られて、音楽的なダイナミックスやパウゼの息など思う通りに決まっていた。この曲における協奏的なプレーの面白さとテュッティの受け応えなど、正しく聴きどころはそこにしかない。二曲目のホルンなど必ずしも超一流の演奏が披露される訳ではない。しかし音楽的な演奏における感興とかその歴史的な位置づけとかが示される演奏で、決して大きな管弦楽団を指揮者が指導するような演奏実践ではこういう曲の本質は示されない。

この指揮者とここで弾いている音楽家たちがどうもタピオラシムフォニエッタで仕事をしているようで、共同体のような関係なのかもしれない。それほどアーティキュレ―ションなども共有されているので、実演での指揮の意思がとても演奏に活きていた。

一曲目で若干雑な印象得たのも仕方がないのかもしれない。それはプログラムが進むにつれて、そのアンサムブルのあり方などを観察するとより感じられた事であり、この演奏団体のものになってきていることがよく知れたのだ。(続く
Tapiola Sinfonietta: Beethoven Symphony No. 4 | Musicus Fest 2016 Finale Concert

Ludwig van Beethoven: Coriolan Overture - Shaw: Watermark




参照:
すっきり爽やかな泡もの 2024-07-16 | ワイン
週末の小片付けもの 2024-07-15 | 音
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推挙の為の整理整頓

2024-07-08 | 文化一般
引き続き塗装の準備をしている。塗料はアマゾンでも買える。スプレーが仕上げの艶だしと二本で15ユーロで、送料も5ユーロだから20ユーロで仕上げられる。スプレーを使いたいと考えたが、目張りが大変なことも思い出して考えている。因みに筆塗り用も3ユーロ程高くなるだけだ。

前回の2018年にはスプレーは失敗が怖くて使えなかった。しかし今回は目的も少し違う。極端な話、絵心ある人なら車にアートしてもいいのだ。それでも今の儘放ったらからしにしているように見えるよりは真面な運転手と思われる。

目張りもテープを張ると下が剥げれると元の木阿弥なので、目張りテープを探す。150メートルが12ユーロ程で適当なものがある。室内でも使いたいところはあるのだが、これまた形状が様々で中々難しい。

先ず錆を落とすには紙やすりを使っていたが、油と酢を調合して数時間つけておくと落ちると書いてある。これも試してみると下塗りをしやすくなるかもしれない。

年間のオペラアワードへの推挙を投稿した。結構考えた。先ず新制作で最も印象が強かったのはベルリンのテムペルホーフ飛行場でのヘンツェ作曲「メデューサの筏」である。演出・音楽ともその特別なロケーションを含めて印象に残るだけでなく、その聴衆への働きかけからすればこの制作以上の音楽劇場を経験したことがない。主催のコーミッシェオパーの常連さんの層はよく分からないのだが、現在のベルリン市民の大きな一角に訴えかけたものは大きかったと思う。音楽劇場がこれほどに強い社会性を担えるかどうかの疑いに結論を出して貰えるものだった。ゆえに演出家クラッツァーと指揮者エンゲルの二人は頂点であった。その効果の強さと社会的な広がりは、ペトレンコ指揮のシュテルツェル演出「エレクトラ」などが到底及ぶものではなかった。

勿論音楽祭としてバーデンバーデンの復活祭をそこに加えることも忘れてはいない。そこで年間最高の女性歌手はエレクトラを歌ったシュテムメ以外の誰でもないだろう。男声もフォークトで誰も異論はないだろう。

その点でもニューカムマーとしては、シュトラスブルクでファッジョーリの相手役を歌ったノナーエで、マオイのカナワを引き継ぐとてもいい素材だと認識した。即ち珍しい作品の再演としてその制作の「ポリフェーモ」は外せなかった。そしてそのサンダル映画仕掛けの落ちにした舞台衣裳デザインのアンネマリー・ウッズも推挙した。

また新リリースメディアとしてニールセン作曲「マスカラーデ」のエンゲル指揮クラッツァー演出のフランクフルトでの制作、そして劇場としてシュトッツガルトを推挙。

名前等を確認するためにプログラムを出して調べたが、まだまだプログラムが整理されずに机上に積まれている。これも今のうちに片づけておかないと新シーズンが始まって収拾がつかなくなる。もう少し書き留めておかないといけない件もあってそこでやっと整理整頓となる。



参照:
セカンドでも駄目? 2024-07-05 | 生活
生きているだけでいい? 2023-10-04 | 文学・思想
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知的に働くよしよしな制御

2024-06-30 | 文化一般
日本からのお土産のスパークリングワインが面白かった。山形の高畠ワイナリーという所からのシャルドネのもので、ブルートとなっていて、実際に全く悪くはなかった。炭酸を注入しているだけにしては泡の肌理も細かった。小瓶で一杯づつしか飲んでいないので、その実力とまでは評せないが決して悪いものではなかった。

そういえばそれを持ってきた人が宿で開ける時にコルクを飛ばしていた。その無様さを今は笑うのだが、嘗て引っ越しの壁塗りの手伝いに出かけて打ち上げのゼクトを開ける時にコルクを天井にぶつけて白い粉が上から落ちてきたことがあった。余り人を笑えない。

しかしそういう人が仕事で天秤などを使っていることが信じられなくて訊ねると、デジタル式だという。なるほど身体が不自由でもどのような仕事にでもつけるようになることはとてもいいことだ。

それはいいとして、履いているズボンの後ろが破れていて、下着も半ケツとなっているとなると、これはもうまた異なる次元である。

金曜日の中継は流していただけであるが予想よりも良かった。理由は、ポストモダーン的な中にも知的な制御が効いていた指揮であり、少なくともサロネン指揮等では到底聴けない音楽の引用が作曲家の創作意志としてしっかり聴こえたことである。

ティーレ氏の批評に示唆されるこの作品に作曲家リゲティ個人のアウシュヴィッツとの繋がりやなど本来置かれていた環境が今回の制作に見え隠れしたということにも通じる。その隠してある演出意図がその音楽的な扱いに表現されていたとして間違いないであろう。

最終的には中継映像などを観てみないと結論は出せないのだが、各紙の批評などを読んで、そして録音したものを改めて聴くとその音楽的な狙いがはっきり分析される筈だ。

上の批評ではケントナガノの指揮は他の作品に比べれば、アンサムブルをさせながらの水先案内人としてとても上手に機能していたと成功を語っている。前々音楽監督であったので地元評論家にとってはいいところもわるいところも隈なく知っている筈だ。

木曜日の筋肉の張りは肩周辺に少し残った。それでも大したことはなかった。逆に若干腹などに張りがあるのは嬉しい。先にも言及したが、発汗の感じが変わってきたのと、熱が溜まらなくなっているのと、呼吸を上げずに運動が出来るようになってきたのとの全て関連しているようだ。

発汗に関しては数年前からも夏場には早朝に発汗しておいて、午後を涼しくという配慮はしていた。それでも現在のように汗管が素直に通るような感じは今迄なかったのである。水道管と同じで、管がいつでも通るようにしておけば大きな峠を越えることなく発汗する。同様なことは運動負荷を上げてある水準まで行かないと反交感神経が働かないとか、所謂ホルモンの出方が変わった感じがするのである。子供のころから最も運動に抵抗を感じていた発熱も全く同じ現象であって、運動負荷を落としても運動が出来るというのがとても喜ばしい。やはりゆっくりでも急登を走る習慣つけたのが、少々早く平らな道を走ることよりも皮下脂肪も下げてスタミナをつけるようにしたのだろうか?



参照:
複雑系の大波をサーフィン 2024-05-31 | 生活
ブーレーズの死へグルーヴ 2024-04-18 | 音
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ストーンズで変わる人生

2024-06-09 | 文化一般
祭りの交通閉鎖のこともあり早めに荷物を詰める。既に広場に車を移して、日曜日の朝に制限が解けたりするのを待たずに好きな時刻に出かけられるようにする。出がけに何かを気にしたりするのは嫌である。朝10時に再び閉鎖されるとなると、清掃の7時過ぎからその間までの間隙を縫ってとなる。早起きして更に時を待つとなると嘆かわしい。夜中にも開けてあるようだが、道路にガラス類や椅子が散らばっているだけでなく、人が寝ているかもしれない。

さて、先ずは3mのUSBケーブル、それに付随する差し込み、お泊りセット、一泊であるから何も要らないのだが、次の週にも備える。パンツも、ジーンズにするとは思うのだが、持って行く。ジャケットも入れる。靴が同じだから融通が利く。替えの靴下も必要だ。車のトランクに前日から入れておくのはそれぐらいか。髭剃りは当日に使ってから持ち込む。充電コードは電池が壊れているので先に入れておく。

寧ろアイスバックの方が重要で、ジャガイモサラダを夕飯序に多めに作っておいて、日曜日の夜食とする。ヴィーナーは買わなかったが、ヴルストサラダを作ることにする。火を使わないことになるが、飲み物があればそれで十分だ。その為に地元のヴィラージュを買ってきたが、ちょっと勿体ないか。今晩次第である。

出発前の朝食のサンドイッチはピクニックにして、冷やして持って行く。飲み物はまだ暑い紅茶で良いのではないか。帰宅日の朝も紅茶である。アルザスのスーパーまでは二時間掛からない。

食料品と書類入れは兎も角当日である。詰め忘れたものがあった。二つの小石である。これは、作曲家キャシー・ミルケンスという人のエディケーランフィールドという2021年の作品のスイス初演で必要なものだ。名前のように五億六千年前の化石が採れるフィールドに触発された作品のようなのだが、持って行く石はメドックの先の浜で拾ってきたものなので、時代が違うかもしれない。よく分からない。河原の石と書かれたが、スイスではどうしてもそうなる。アルプスの隆起は比較的新しいのでその半分ぐらいの岩肌であるが、その中には数倍の古さの層もあるらしい。

兎も角二つの小石を叩き合わせて音を出す。その為に持って来いという参加型のパフォーマンスらしい。それならばと、実は大きな石まで岩壁の裾からの可也のコレクションがあるのだが、選んだのがこれである。

穴が開いているものはヒューナーゴットと呼ばれるようだが、これに紐を通して首から下げていくべきかと考えている。ただでさえジャケットが目立って、更に首からおかしなものを下げているとなるとまるでメタルオヤジではないか。メタルならずストーンである。ロックンロールか。

こういうのも一度切っ掛けがあってやると癖になりそうで怖い。首からじゃらじゃら下げて更にピアスでもしだすと人生変わると思う。

これで若い子を連れて歩くと、それだけでその娘は一寸違う子なので、絶対「素人」には見えないだろうと思う。自動車も思いっきり派手な危ない車を注文すべきだったかと思うほどである。



参照:
年間20ユーロの倹約 2024-06-08 | 文化一般
故コール元首相のご愛好 2023-09-14 | 生活
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年間20ユーロの倹約

2024-06-08 | 文化一般
ベットの中で燃料代を確認した。前日までの最低価格が出ていて、更に数キロ走ると1.67とここ暫くでは可也いい価格だと分かった。寝ていられず、走りに出かけることにした。週末は金曜日から交通閉鎖があるので、夕方に涼しくなって安くなったところで一走り序に給油というのは出来ない。すると早めに片付けておく方がいい。

なるほど日曜日の午前中の出発時の価格が安ければそれでも往路で入れれるのだが、それは不明であり、出かけからうろうろするよりもと決断した。さて4セント安ければ、50リットル入れれば2ユーロになる。そこで数キロ往復を計算すると10キロ余分に走るだけで1.67ユーロ消費するので差はなくなる。そうなると近場で給油して早めに走って身体を解しておいた方が良しと結論。

なんとか1.71で給油で86ユーロ。余分に入っていると思うので、これで往復は出来る筈だ。一泊55ユーロだが、夜食を持って行く。あとはエンジンオイルを200㏄ほど足しておけば戻って来れる。帰りの仏スーパー買い物の為にもアイスボックスは欠かせない。

夜食はまたまたジャガイモサラダとヴィーナーぐらいにしておいてもよい。冷やしたリースリングを一本もって行くか。

独放送楽団などの経費の記事を読んだ。一番の批判点はその経費に対して、貢献が出来ていないというものだ。先ず放送する材料にはもうならず、そうした公共音楽の放送時間も縮小されて、各地のARD公共放送局は月水土は持ち回りで同一放送を流す。自己制作のコンテンツがない限りそうなる。抑々新しい商業的に価値の無い作品などを演奏放送する文化事業であったのだが、その使命は20世紀のメディア産業盛んな頃に半減していて、現在は保守的なプログラムで通常の交響楽団などと変わらない興行的な演奏会を行っている。そのような演奏は実況録音や放送の価値など微塵もない。

そして、これらの文化活動に全聴視料の2.2%が費やされている。例えばそれをバイエルン知事の意見のように半減することで、年間で20ユーロ以上安くなる。抑々半分の交響楽団の存在意義などがなくなっているので決して非文化的な意見ではないだろう。

従来の伝統的な交響楽団や座付き楽団がある所では強豪ともなるのだが、そうして状況は都市部であってやはり地方によってはこうした啓蒙活動も重要となる。しかし、それを視聴料で賄うというのは筋違いであって、その存在がとても矛盾している。

独立した楽団で興行的にも成り立っていて、尚且つ世界的な名声と水準を誇っている楽団名が少なくない所での存在意義が問われ続けている。

日曜日に出かける楽団などは世界一規模の大きな現代音楽専門の管弦楽団であって、スポンサーの支援だけでなくて、支援者がしっかりいることが重要である。今迄エンゲル就任最初の演奏会と映画音楽初演と聴いたが、今回は首席指揮者就任初年度最後の指揮で歴史的演奏会場での定期演奏会に出かけることになる。決して安くはないのだが、日曜日に拘わらず結構入ると予想している。



参照:
存在意義の無い大管弦楽 2023-03-17 | 文化一般
とてもいい演奏会とは 2023-02-04 | 音
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猿のように習って

2024-06-02 | 文化一般
承前)金曜日には地元放送局から聖霊降臨祭の録音が流れた。放送交響楽団にデビューしたタルモ・ペルトコフスキーのインタヴューやその指揮演奏会中継録音が流れた。予定されていた録画は未だにアップロードされていない。

改めてマイクで収録した音を流し聞いても印象は全く変わらなかった。寧ろ最初「眩暈」組曲での演奏で、練習時間も十分に取れなかったこともよく分かった。誰も作曲家ヘルマンの曲に時間は掛けないのだろうが、それとは別に下準備して、あり得る注意どころを十分に把握していなかったということだろう。全てにおいて時間不足準備不足しか感じさせない。

何故実力もない者がレーベルと契約を結ぶと駄目になるか?それにはれっきとした原因がある。今回の放送番組を紹介した書き込むにもレーベルDGからの反応があったが、それだけ反響に関心を持っていて、なによりも現在進行中のモーツァルト交響曲全集を売らなければいけない。

その為に指揮者は少なくとも一通りは眼を通してお勉強しておかないといけない。しかし抑々録音が可能な様な演奏は何回か本番で演奏しないことにはものにならない。

だからハイドン交響曲全集などには真面な演奏はなく、真面な忙しい楽団がそのような無駄な作業には関われないのである。指揮者なども既に長い経験の中でたとえばザルツブルクのマティネーなどを二十年も振っていればものになるがそうでなければ殆ど振らされているようなもので、暗譜云々以前の問題である。

そうした企画は録音などの商業的な目的の為になされて、商品さえ揃えれば束で売ることが可能になるのである。キリル・ペトレンコのように恐らくカラヤンらの録音を聴いて学んだことから自らの制作録音拒否へと傾いたのだろう賢さがそこには見いだされない。この北の国からの若者はそこまで推測できるだけの知能が足りないとしか思われない。

つまり何が起こるかというと、あまり関心もない楽曲をただ労働として、それこそ映画音楽制作現場のようにやっつけ仕事で録音してしまうという作業とそうした音楽の扱いがプロとして身についてしまうということでしかない。

そこではモーツァルトの芸術だけでなく天才の心の成長やそうしたその感興とかに思いを巡らす経験も余裕もない。要するに仕事の質が下がっていくだけなのだ。そしてその録音にその質が表れるようになって直ぐに飽きられる。

それどころかライヴにおいて私を含むとても厳しい反応に晒されることになって、折角の名門交響楽団へのデビューも大成功とはならないことにしている。本当は所属事務所だけでなくよく分かっている者が守ってやらなければいけなかったのだが、なぜかそうした環境に無防備に晒されることになっている。

なによりもの芸術的才能はやはり本人の頭脳で、それ以上の才能などはないということでしかない。どうもあそこの流派は子供の時から猿のように指揮を習っていて真面に知能が発達する音楽家には育ちにくいようだ。(続く



参照:
生中継留守録音の心得 2024-05-16 | テクニック
最後にシネマ交響楽 2024-03-01 | 雑感
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発展的な室内楽の場

2024-05-24 | 文化一般
クロンベルクの演奏会の席を押さえた。昨年からそこで一番待ち受けていた演奏会だ。新たにそこに登場するヴァイオリニストのジャニー・ジャンセンがお目当てだ。どのように出てくるのか楽しみにしていたらギドン・クレメルと組むということで悪くはないと思った。

彼女のヴァイオリンはチューリッヒの素晴らしい会場でモーツァルトの協奏曲を弾いたのを聴いたのが初めてだ。中々舞台上での場が華やかで、その演奏よりも華があった。残念ながら指揮者のペトレンコは2021年暮れの初共演からは急遽下りた。その背景はよく分からないが、その半年後には所属タレントは二度とDCHに出さないとユニヴァーサルとの契約延長の物別れとなったと発表があった。恐らくそれに関連した事件があったのだろう。今年も一月前ほどにヴィーンで同様なキャンセルが起きた。

ヴァイオリンの実力とは直接関係がない話しであるが、まだまだこれという演奏は聴いていない。その彼女がクロンベルクで活動するようになったのを知ってとても楽しみにしていたのだ。

なによりもその前提になるのはその新しく出来たカザルスフォールムと名付けられているホールで室内楽ホールとしては画期的である。一流の欧州室内管弦楽団もそこを本拠とするようになったので、現在のシフなどが指揮しなくなって、真面な指揮者がそこで演奏会を行うようになれば大変期待できる。

今回は幸いなことにクレメルとバルティックの彼の楽団との共演でバロックを弾きそうなのでそこそこその実力が明らかにされるだろうと期待している。レートナイトと二つの演奏会込みで二割引きで購入できた。

二週間前の演奏会も良かったのだが、それはアカデミー生との共演の教育的なものだったので、今回は本格的な催し物となる。しかし価格は全く変わらずで。お礼のような演奏会でもある。フランクフルト近郊で優れた室内楽ホールも限られていて、ワイン街道からは寄り道さえしなければ、室内楽に通える距離である。

それも昔の名で出ているのではない超一流演奏家の音楽が聴けるとなると言うことなしだ。先月のハイデルベルクの音楽祭は室内管弦楽となると新しい大学講堂になってそれ程の魅力はないのだが、このクロンベルクのような環境はドイツでもそれ程ないと思っている。

バーデンバーデンでもこれに匹敵するようなものを作るなら応援したいと思う由縁だが、勿論そこで何をやるかが重要で、上の場合は既に30年かけてアカデミーからの土台作りがあったので発展は比較的容易になっている。

現時点の講師陣とレジデンスにしている欧州室内楽団そして、セミナーの方向性などで可能性も様々な方面に広がっている。それほど近所ではないのでアカデミー演奏会に行くことが叶わないので会員にはならないのだが、発展の様子を観察してみようと思っている。
Gala from Berlin 2021 (Trailer)

Gidon Kremer and Kremerata Baltica - Oblivion (Astor Piazzolla) - Tallinn, 14.4.2022




参照:
「愛の宣誓」の口籠り 2024-05-18 | 音
ピアノ付きの演奏会アリア 2022-10-07 | 女
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帰納的に破局を語る

2024-05-21 | 文化一般
日曜日の演奏会の感想だけでも書き留める。SWRがカメラを入れて生中継して本放送も月末にあるので詳細は改めるとして、会場の反応自体も見ものだった。

なによりも、聴衆も期待半ばで出かけて来ていた筈で、通常の地元放送交響楽団の聴衆というのではまたなかった。なるほどそこのロシアの指揮者との比較とかそういう興味から、後任のロート氏を知っている聴衆など、ブーレーズのお誕生日会に来ていた聴衆も少なくなかったであろう。

シネマ交響楽のタイトルの通り、真面な曲は精々リヒャルト・シュトラウス作曲「ツァラストラはかく語りき」程度でしかないと思っても態々出かけてきたのは今最も注目されているスター指揮者とされるタルモ・ペルトコスキ―を一度生で聴きたいという聴衆が多かったろうか。

その意味からすると一曲目の映画音楽組曲は腕試し程度にしか受け留められいなかったかもしれない。「ヴァルキューレ」と「トリスタン」に引用が使われているとしてもそのヒッチコックのサンフランシスコの映像の様には印象に残らない。その映画をもとにヴィーンモデルンで大成功した指揮者エンゲルが同曲を振っていたならば映像を更に創造させるような表情を読み起こしていたかもしれないが、この若い指揮者にはそうした音楽劇場の経験もなく、ハリウッド映画音楽以上のものではなかった。実際にインタヴューで、そうした音楽が交響曲演奏会で演奏されることは敷居を下げることになるので推進するべきだとする一方、その限度はジョン・ウイリアムスと名指ししていたことで、映画鑑賞をホビーとするこの指揮者が考えている事の軽さというものが表されていた。

お待ちかねの「かく語りき」の演奏は、この指揮者が如何ほどに楽譜を読んでいたかが知れるもので、譜面は使っているようだが、全く音楽が入っていなかった。若い指揮者が急に大管弦楽団での仕事が入ると、その客演での練習時間などの限界が明らかだった。指揮以前の問題で、あの天才ペトレンコでも40歳過ぎにしてそのコンサートレパートリーの少なさが心配された事を思い出して欲しい。流石に会場は静まり返って、指揮者への反応も冷たく楽団が座って待っていても予定の返礼も出来ない程だった。

同じ会場で経験した今迄の最低の生演奏であったブロムシュテット指揮ヴィーナーフィルハーモニカー程ではなかったのだが、やはり同じ会場で経験した浮いたエッシェンバッハ指揮の同楽団を振ったシュトラウスプログラムよりも酷かった。

このような演奏で誤魔化そうと思っても真面な聴衆が集う限り不可能であり、来年の復活祭でも売れているがあまりにも才能の無いマケラ指揮の演奏会からその翌年からのマケラ指揮のコンセルトヘボ管弦楽団との復活祭の失敗が予想されたような出来事だった。斜め前の列に座っていた支配の顔を見る気にもならなかったが、少なくともこちらの対応だけはしっかりと見て貰った。

首を洗っておけであった。昨年初めてこの指揮者を経験した時も一緒であったが、ここから帰納的に復活祭の今後のカタストロフが予想されることになる。破局と帰納では辻褄が合わないのだが、先が見えたと本人も感じたのではないか。

一体その「かく語りき」で何が語られたのか。(続く



参照:
全てを食う赤い奴 2024-05-20 | 料理
なんじゃらほい交響楽 2024-05-19 | 音
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北京からの公報の数々

2024-05-15 | 文化一般
北京での音楽祭初日の最終公演の報告が各紙から出ている。共産党紙も四川に迄伝えているところ見れば如何に重要な音楽芸術の意味を其処に見出しているかが分かる。ベルリナーフィルハーモニカーによる上海での興行はここまで扱われるだけの根拠はないだろう。

殆どコピーアンドペーストのような類似紙面であるが、やはりその意味を深読みする。この楽団が中共との関係を持つきっかけになったのは2015年以来の上海での楽員の公演にあって、昨年のハース作「1100のピアノ」北京とヴィーンの音楽祭での公演によって、そして今回の楽団ムジークフォールムの中共初公演となったとある。

上の企画がどのように進んだのかは分からないのだが、大変大掛かりな催し物で、中共向きだったのは間違いない。今回の三曲に一曲アペルギース作曲24の演奏家の為の「音楽的友好の状況」という作品は演奏家が歩き回りながら聴衆とコンタクトを取るというもののようで今回の中共の聴衆た為の作品だとも書いている。

一曲目のフュラーの1986年作「君のところに」ピアノトリオで始まり、ご当地の叶小網による「中華ストローフィ」という曲では何時も知っているその風ではなかったが高度な演奏と書かれている。よほどの中華風の節回しなのだろうか、指揮者エンゲルは世界中の作曲家の新曲を初演していて十分にその独自性に留意している筈なのだが、余程のものなのだろうか。

公式の写真素材を見ると、叶らしき作曲家が練習で指示してのエンゲル指揮の様子が窺える。指揮棒を持っていないのは結構珍しいのでよほどニュアンス付けに工夫をしているのだろうかと感じた。

中共はやはり共産党がしっかりしていて、そのイデオロギーは文化芸術面をもしっかり支配している。それゆえに経済やその他のエンタテーメントの良いことは皆取り入れようとするそれとはまた別に、科学技術などとと同様にこうした新しい波を受け入れて消化しようとする努力もなされている。

選ばれた聴衆にも好評のようで、この楽団にどんどんと紹介して貰いたいという書き込みもある。一番の問題は広い聴衆とその社会が欠損しているのだろうが、音楽芸術的な企画は寧ろ日本などよりも中共などでの方が受け入れられる素地があるのではなかろうか。

エンゲル指揮のムジークフォルムヴィーンの演奏が、そうした様式などを但しく弾き別けていて、より深い理解が為されて演奏されたとある。ピアノトリオを含む僅か三曲の公演であったようだが、シアターピースのような作品も含めて紹介できたのはそれなりの価値があったのは間違いないであろう。

そうした明らかな芸術的な成果がこうした公報によって、証明されていると思われる。



参照:
维也纳现代声音乐团登台,2024北京现代音乐节闭幕, 澎湃新闻记者 高丹 2024-05-14 澎湃新闻
维也纳现代声音乐团全团成员首次集体亮相中国舞台为2024北京现代音乐节闭幕  北京青年报官网 13.5.2024
震撼させる浪漫歌劇指揮 2024-05-04 | 文化一般
時代の耳への観想 2024-04-20 | 音
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肯定的な世代交代の意味

2024-05-13 | 文化一般
15年ぶりにキリル・ペトレンコが金曜日に記者会見をしたらしい。独通信社からその内容が伝えられている。因みにこの間も日本旅行などに際して会見をしていたことは知られているがそれ以外では行っていない。

ベルリンの楽団などに関して、その世代交代が質問されたようで、世界の代表的な楽団でのそれを個人的にはただただ肯定的にしか見ていないと答えている。これは現場の実態を知っている者ならば話すまでもないことであるのだが、評論家や音楽ジャーナリストなどは現場を知らないということに過ぎないだろう。

具体的に、楽団に長きに亘って齎した経験と若い人のやる気を合わせることは豊かにするからだとしている。そこにおいて、歳を重ねた楽員は直ぐにはもしやすると同意してくれないような彼自身のアイデアをも若い人は受け入れてくれるとしている。

ペトレンコは、楽団の民主的な組織運営に関して言及して、楽員を自ら選び自らを律しのあり方はとても素晴らしいと絶賛。意見を求められばそれをするが、決断は楽団自らに委ねられるようにしている。今迄はそれで上手く行っている、楽団は、ベストのみならず則ったものを受け入れて、それが芸術的だけでなく人間的にもその様であることで、彼らを信用している。

昨今の中東紛争が激しくなってきて以来も、インターナショナルな楽団内ではお互いに批判的な論争もなされている。そこで、お互いの視線から客観的で公平な見方が為されるべきだとウクライナ系ロシア人でイスラエルに親族もいるペトレンコは語る。双方からのお互いに敬意を持った対話は続けられなくてはならず、そこでの嫌悪の発言やヘイトは受け入れられない。

管弦楽団は音楽の効果に依る。音楽には力があり、橋を架ける、そういう特別な立場に我々はいる。音楽の対話には建設的な効果があり得る。

新シーズンは8月にブルックナー交響曲五番で開幕する。ベルリンのみならず遣り甲斐のあるプログラムで、多くの若い作品も入れて市場で演奏会を為してきた。ペトレンコは、如何なるプログラムにおいても聴衆の強い支持を感じているという。

客演でもただ単に人気でプログラミングしていないと、我々ベルリナーフィルハーモニカーが勇気を示すことが責任であると、祝祭の聴衆にもそれを求める。8月、9月のツアーでは、ザルツブルク音楽祭、ルツェルン音楽祭そしてBBCのプロムスでペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーを体験できる。それ以外に11月にはアメリカツアーで、復活祭ではバーデンバーデンで、続いて5月にはアムステルダム、ブリュッセル、ケルン、エッセンでそしてクンツェルザウでと続く。



参照;
重要なその視座と視点 2024-05-12 | 文化一般
ペトレンコの日本への真意 2023-10-21 | マスメディア批評
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重要なその視座と視点

2024-05-12 | 文化一般
ブラームスのピアノ四重奏曲は専らシェーンベルクの編曲で馴染んでいて、嘗て言われたように「もう四重奏としては聴けない」の立場に近かった。しかし今回昨年からのブラームスの旅で、ブラームスの視座を漸くえることが出来ていて、そしてこの作曲をシェーンベルクがどのように読み解いたかは手に取るように分かるようになって来た。

なるほど最初の主題が、自分のものでなくて残念と語ったというのもそのもので、ブラームスがそうした目で以って民謡的なものを採取してきたその心眼を表現している。まさしくブラームスの音楽を評価する時のその目である。それはハイデルベルクのレクチャーでも語られていた、ヴィーンの人がそのジプシー的な音楽をどのように受け入れているかの鷲掴みにする音楽文化的な視野である。

それがリズム的にはもはやミニマルとしか考えられないような掴み取りや様々なデフォルメとしても作用していて、音楽伝統をそこに積み重ねていく。全く同じことがシェーンベルク創造であったのと重なり合っている。

日曜日はこれをギドン・クレメルがどのように表現するのか指導しているのかが注目点である。その前に殆ど習作的なインテルメッツェとトリオとまさしくブラームスのそれと重ね合わされていて、こうしたプログラミングを見るにつけクレメルは音を出さなくなっても素晴らしい音楽家だなと思わせる。

そしてマーラーのアダージョにおいての音の選び方と綴り方と、後期ロマン派の作曲家の音楽がここに一つの視座から導かれている。それをアカデミーの若い人たちに身を以て体験させるという教育的な意志とその実践を現場で確認してくるということになりそうだ。

ワインも試飲してきた。いつものように例年通りであるが、2022年の特徴は夏の日照りで養分が足りなくなって、醸造の時のアルコール化で若干の塩化作用を起こしたということだろうか。葡萄の使い方でそれが顕著に表れているものがあって、亜硫酸臭のようなものを皆が感じたようである。勿論それは批判的な官能判断となるのだが、現実にはなんらケミカルが余分に使われた訳でも葡萄が腐っていた訳でもない。

秋にも試飲するのでその時の印象が重要になる。基本的には酸が弱ければそれだけミネラル成分が表に出てくるので苦みや所謂土壌の味を楽しむことになる。だから酸がしっかりしていることがワインの場合には重要で、特にリースリングの様にミネラル風味と酸の配合で楽しむ天然の配合こそが神の雫となる。糖を残さない辛口の醸造をしてこその醍醐味が試される。要するに上の塩化とミネラル風味というのは関係がある。ワインにおいての酸の重要性はそこにあって、それがグラスの中での色合いとなる。

こうした知識で以っ本年のワインの試飲においては注意点になったり、その葡萄の状況をそのミクロクリマの差異から察したりすることになる。言えばこれだけの情報を持っているだけで、どこの試飲会に行ってもズバッと栽培と醸造の奥の領域までに深く入って話しを聞く機会が増えるのである。なにもワインを上手い不味いで語ることが玄人でないのは、音楽などでも全く同じで、傷があったかどうかなどは全く重要な話題にもならないという事だ。



参照:
僕のインテルメッツォ 2024-05-08 | 女
清々するセンスのなさ 2024-02-17 | 文化一般
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震撼させる浪漫歌劇指揮

2024-05-04 | 文化一般
ベルリナ―フィルハーモニカーを振ってペトレンコは中共デビューをする。6月末に四日間の公演を上海で行う。即完売の様である。

それより一月以上前の5月12日にエンゲルも北京でデビューする。アンサムブルムジークフォールムヴィーンを振って、ベアート・フュラーらの曲を演奏する。今回初めて知ったのがそのスイスの作曲家がこの楽団の創立者の一人だったということで、なるほどヴィーン風の楽団だなとは思っても友人らが共演したりでドナウエッシンゲンでも聴いている。

エンゲルも昨年のパリのIRCAMとヴィーンモデルンの開幕公演でこの楽団と大成功をしている。北京の中央音楽学院主催の音楽祭の開幕演奏会のようだが、思いのほか立派な歌劇場で招待客だけの演奏会らしい。さぞかし楽界のお歴々が集まるのだろう。

そこでの指揮者のプロフィールは独自なもので、誰かが公式のそれを取捨選択して書いている。内容からするとマネージメントの作文の翻訳のようでもあり、本人のチェックが入っている感じもする。取り分け「2021年他在蒂罗尔音乐节上以《罗恩格林》震撼了观众。」ー 「2021年エアールのティロル音楽祭聴衆を『ローエングリン』で震撼させる」が目につく。

北京の催し物の主旨からすればヴァ―クナーが大書きされるところに意思を感じる。普通ならばヘンツェの「メデューサの筏」やメシアンの「アシジの聖フランシスコ」、先ず何よりも中共でも最近話題のハースの「ブルートハウス」が大書きされるところだ。

独墺圏では今迄これがプロフィールとして大書きされたことはあまりなかった。やはりバイロイトなどで振らない事にはそれ程大きな出来事とならないからでもあるが、これが大書きされたのは必ずしも中共向けではなくて来る七月のバイロイトの記者会見で何かが出てくる可能性もある。

因みにべルリナーフィルハーモニカーを振っていることになっていて、おかしいなと思ってみていると、フィルハーモニーで振ったことと間違っている。マネージメントのオヤジが企画した演奏会もこうして価値が生じている。

コロナ期間中に一年延びたことからクラッツァー演出「タンホイザー」が2025年に、「ローエングリン」2026年に再演される様だ。カタリーナ・ヴァ―クナーがティロルのそれを観たことは間違いないと思うが、一般的に現行の演出を指揮することはないとすれば、新シーズンにどこかでまたヴァ―クナーを指揮するのかも知れない。あれだけの指揮者に新制作を任せないと勿体無い。

先のインタヴューではっきりした様に、その指揮には独特の符牒があって、更に合わせることに重きを置いているのでまさしくクナッパーツブッシュの再来のようなヴァ―クナー指揮になる要素が解明された。兎に角、ガツンと鳴らさせると、バイロイトの祝祭劇場が震撼の渦に包まれることは間違いないと思う。勿論それの必然な演出がそこで為されなければ意味がない。

ペトレンコもいずれ復帰すると思うのだが、ヴァ―クナー指揮に関してはやはりエンゲルの方が圧倒的な支持を受けると予想している。先ずはその音楽祭の体制がどのようになっていくかに掛かっている。



参照:
ブーレーズの死へグルーヴ 2024-04-18 | 音
幕が閉じてのその熱気 2022-12-25 | 音
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カメレオンの美学的審美

2024-04-29 | 文化一般
先にオーディオについて考察した。今度はオプティカルナ面である。車両の色について感想を聞いて、この色がいいとかの異なる意見を聞くと調べざるを得ない。現時点ではまだ変更は問題がない。しかしボディーの色は結構生産工程では同じ色を集めて流すだろうから早めに決定すべきものだろう。カロッセリーの色塗りは骸骨をクレーンで釣ってプールに浸けて一気に流していく。早く乾いてある程度溜まってくるとシャーシと合わせてバンドに乗るだろう。それが幾つどの時点で貯めっているかで大まかな時期が決まるだろう。

さて今回の発注では無料で選択可能な色は8色あって、その内2色はメタリックが入らない。そして、スタイリングによっては色合いがとても合うというのがメタリックが入らない単色グレーとなっていて、特別価格を取っている。

実は現在の車を発注するときには当時のF1での活躍のシルヴァーがとても売れていて、日本における白と同じぐらいに出ていた。しかし、どう見てもとたん塗りの色で薄っぺらい印象が強かったので黄味が入ったシルヴァーをそれだけの特別価格で選択した。それゆえに最初から少しの傷でも気になって、修理するとなると面倒で高価なことになったのである。即ち小さな傷は修理できなかった。そして錆が出てくるようになればもうどうでもいいことになった。その投資額は確かに特別感でそれだけ見合ったのだが、それゆえに気になるという欠点もあったのだ。

テストカーでYouTubeなどでよくみられるのはアルパイングレーという単色で特に星の無いスポーツカータイプのフェースの黒色に合うということが根拠になっているようで、確かにコンビネーションがよい。しかしメタルが入っていないのに追加価格を要求しているという事は特別な配色で原料も高いのかもしれない。それでも時間が経つと色褪せた感じになってくるのは避けられない筈だ。追加価格でもなくてもそれを選択したかどうかは疑わしい。
Mercedes E-Klasse (2023): Ein weiterer Schritt in Richtung Perfektion | AUTO ZEITUNG

Fahrbericht: Auf eine neue E-Klasse mit Technik und Motor


先ほど上げた写真もメタリックが入っているからこそ森の新緑を反射して微妙な色合いになっている。それどころか、前の記事の写真ではワイン地所で太陽の光を受けてテールランプに沢山の星を輝かせていた。単色の場合には太陽の光以外にそれだけの変化は期待できないであろう。若干カメレオン的な面があって、本当にそうならば、これだけハイテクのテクノロジーが集まった車輛に最もマッチすることになる。所謂アクティヴセーフィティなどの環境の情報を受けての柔軟な反応性を色彩として示す。

音楽における指揮者に関して述べているように今や独自の色を示して自身の特徴を示すことには現代には不似合いなのである。まさしくこれは工業デザイン的にも美学的な考察ともなる。

如何に外界の環境からの情報を反映させるか、それに尽きる。つまり従来の趣向や判断基準では的外れになるという事にも成りかねないことを示している。その意味からここ数年の乗用車のデザインなどにはとても違和感を感じてきたのだが、その美学的な背景が漸く認識できて来た。

今回のコンフィギュレーションの仕方にデザインへの高度な審美眼が表されるのではないかと期待している。恐らく間違いはしていないと思う。
2024 Mercedes E Class NEW | Full E450 Drive Review Interior Exterior Sound

Digitale Weltpremiere der neuen Mercedes-Benz E-Klasse




参照:
オーディオ的考察の叩き台 2024-04-27 | 音
空気羽根で床を上げる 2024-04-25 | テクニック
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ドラマの世界の独立性

2024-04-21 | 文化一般
寒い、山では雪になるようだ。激しいものではないが、ワイン街道でも雹が降る。寒いとは思いながらも雨が上がったので朝から一っ走りする。冬の上着をもう一度着るのは嫌なので裸で走る。陽射しがあると暖かいが、影に入ると秋である。風が吹くと震える。

収穫されるワインに与える影響はなんとも言いかねるが、影響を受ける筈だ。車中のラディオが独公共放送網のオペラ中継番組第一弾に今復活祭にバーデンバーデン祝祭劇場で収録された新制作「エレクトラ」が20時からSWR2をキー局に放送されるとアナウンスしていた。

録画は編集制作されて秋に放送されることは知っていたのだが、ラディオ放送に関しては確信はなかった。その理由に初日にはマイクが入っていなかったように思えたからである。例えば昨年の「影のない女」の中継録音は最終日が生中継され、映像は他日の録音と編集された。今回はカメラは二日間しか入っていなかったので、総稽古時の素材などからも編集されて、音声に付けて制作される。

つまり今回の放送録音はその映像制作の基礎になるものである編集済みである筈だ。しかし、バイエルンの放送協会のサイトには初日の録音となっている。実際はよく分からないが、三日間の特徴は分かっているので、本当に初日の編集無しものであれば、主役のニナ・シュテムメの熱唱とそしてフィナーレの盛り上げ方で分かる筈だ。聴いてのお楽しみとなる。

なによりもマイクでの収録で、実際の視覚でのテキストの理解度をどのように補っているのかなど興味深い点も多い。特に今回は奈落から出てベルリンで舞台上で演奏されたものは一様に喧し過ぎると批判されていたので、全くそのようなことはなかった祝祭劇場での録音も決定版としてとても重要になる。

少なくともあれだけの大規模な管弦楽団を精密に演奏させて、尚且つ声が通るように演奏された例は歴史上ない筈で、昨年の「影のない女」以上に上演の規範となる録音となるだろう。

作曲家のアシスタントの様なこともしていた指揮者のベームがいつものように正確に回顧しながら発していた言葉は、リヒャルト・シュトラウスの楽劇において歌詞が通って理解できることが最大の目的であるというようなことで、その見識はこの作曲家の楽劇が舞台に架かる限りされる限り微動だにしない金科玉条なのである。

そして劇音楽というのは劇場空間という前提があって創作されている。そこに芝居があって劇空間が初めて現出される。

コロナ期間に多くの人が改めてあれほど迄に独立した世界を描いていた音楽も演奏行為という事では聴衆無しには中々成立しないことを身を以て体験したのだが、音楽劇場においてはそこになければ音楽形式ともならないような大きなドラマテュルギーが発生する。



参照:
無意識下の文化的支配 2024-04-04 | 文化一般
音響のドラマテュルギー 2024-04-01 | 音
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何ごとにも事始め

2024-04-12 | 文化一般
ピアノリサイタルのお勉強である。最初はあまり分からないプログラムだったが、調べ出すと可也興味深い。まだ時間があるので更に詳しく見ていくことになる。

流石に二回続けてのプログラム勘違いはないので詳しく見る。勿論演奏者の都合で変更することはあり得るのだが予定プログラムだけを見ていても演奏者のコンセプトが見えてくる。チャイコフスキーコンクールで二位の真央ちゃんを抑えて優勝したカントルフは、放送などでもちょこちょこと流し聴きするだけだったが、今回のプログラムに関連した制作録音などを聴くと放送では分からない演奏をしている。

そうしたマイク乗りが悪いのはどこから来ているのかも興味ある所でそれは実演を聴くことで判断可能となる。但しそのプログラムだけでなくてコンセプトは誤魔化しようがなく、明らかに語り掛ける聴衆層が違うというのは明白だ。抑々大コンクールで優勝しているような演奏家で大物はいない、更にこのピアニストの父親は一流のヴァイオリニストで、それを超えるなどというのは音楽史上殆ど皆無ではないかと思う。

父親の演奏も殆ど聴いていないのだが、印象としてはある程度定着していて、それ以上のものではないのだが、この息子さんの方にはより引っ掛かる音楽性が感じられるのは何故だろうとなる。プログラムの最後に音楽祭の今回のテーマであり、当夜のプログラムを「若者の行い」としていて、なるほどその一番にその書法の全てが表れている。その前にバッハをブラームスが左手の為に編曲した「シャコンヌ」で後半をブラームスで統一している。

そして最初にこれまたブラームスの「ラプソディ」と称した系譜の二曲にこれまた民族音楽採取から入ったバルトークの作品1番の民族音楽とその芸術化書法へとこれまたそれに直接の影響を与えたリストの「雪かき」を挟むとなっている。

こうしたプログラミングは西欧人でもやはり玄人家庭出身の演奏家らしくてその基本的な教養が違うとしか思えない。勿論それを受け取る方にもそれなりな理解は求められるとなるだろう。だからハイデルベルクでのリサイタルの券の売れ行きが完売してしまう日本のピアニストよりも悪い理由というわけではないだろう。客層も市場も異なるという事はあっても、先ずそれ以前にこういう演奏家が今何をどのように演奏するのかという事だけで興味をもつ人はやはり通であろう。

少なくとも録音を聴く限り可也立派な演奏をしていて、決して大コンクールで優勝するだけの人ではないことは確かなのだ。個人的には関心の持ちどころは一体どれぐらいに楽器を鳴らせるのかとかは切符購入の時のありどころだった。

ブラームスのピアノをリサイタルで聴く機会は今迄殆どなかった。理由は分からないのだが、例えばブレンデル演奏などでも殆ど記憶に残っていない。CDではグールド演奏なども聴いてはいるのだが、今回初めてその作曲家の書法そしてその演奏家としての事始めへと関心が向かって初めて、自分自身でピアノを弾くならブラームスは欠かせないなと思い出した。これも音楽祭の冒頭にあったフーバー伴奏のゲルハーハーによる歌曲の夕べも大変影響している。



参照:
とんだプログラム間違い 2024-04-11 | 文化一般
BACHへのその視座 2021-08-22 | 音
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