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Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

計画された第九の神殿

2025-05-09 | 文化一般
承前)第九交響曲の合唱付きの理解が難しい。それはやはりそのテキストの音化にもあるだろう。それがノイドイツェシューレとされて、それ以前の楽聖の交響楽団の純音楽的な古典的な形式感や内容に対して、より広範な教養的な意思をそこに表現するのが芸術の使命とされたような創作意思を尊ぶ思潮でもあった。評論としてはロベルト•シューマン、作曲としてこの第九が挙げられる。

楽聖のその教養やその学識などは議論されることが多いようであるが、音楽家としてヘーゲル風の弁証法的な論理が同時代人の芸術として徹底している事には間違いない。実際にそのような創作活動の中で、より自らの経験も以っての「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」という言葉の声明がそこに込められる。それがペトレンコが基準にしている初代ビュローによって厭わしく思われた芸術的な立場であろう。

「創世記」からその進展において、中々調性を定めるカデンツァ構造として定まらないことがその進展そのものであり、空虚五度の扱いとして展開され、ティムパニーが調音されて対抗するスケルツォ楽章と既に終楽章での成就が必要とされている。後期浪漫派における交響曲に大きな影響を与えたのも当然であろう。

三楽章においても弦楽と木管の受け応えが、教会のオルガンと群衆のコラールだとした話しも興味深かった。「ミサソレムニス」において、教会を出でて、人々の心に入る為の作品は、18世紀終盤からの中欧における祈りの教会から離れての共同体への意識だとされるものである。終楽章が先にありということでは、それに匹敵する「交響曲」が必要になる。

そして、追想があって、皆が知っている「こんな音ではない」となる訳だ。同時にそれがなんとなく合点がいって仕舞うのでこの楽曲がとても容易に受け取られてしまう反面、よく分からない、ある意味フーガやマエストローソとなるとなにがなんだか分らなくなるものである。

それは、ミュージカル映画「サウンドオブミュージック」で教会シーンなどが出て来るのにも似ている効果しか与えない可能性がある。それゆえに日本などでもあのようなシラーのドイツ語歌詞があまりにも容易に歌われているという原因にもなっているのだろう。それほど難しい詩ではないとも思うが全く容易なものではない。

「エリジョン」なんてギリシャ神話のものであり、その素性まで考えると難しい。理解できる人は少ない。つまりそれによってアレゴリー化則ち寓話化される効果が目されているのである。楽聖もその前でバリトン則ち我々共同体からの視座を作り上げる。

この終楽章のドタバタ感の根本にある構造ではあるのだが、こうした枠構造が理解の困難を極めることになるのではなかろうか。なるほどバロックにおけるオラトリオなどの場合にこそこうした構造が成り立っている。然し現在の演奏会若しくはベートーヴェンの交響曲が頻繁に演奏された20世紀中盤辺りまでの状況を考えると、そうしたバロックの伝統に馴染んでいたような市場も聴衆も殆どいなかった。

勿論当時の楽聖にとっては、こうした悲惨な時代の状況を鑑みて芸術化するにはこうした寓話化によってのみ自らの声明をそこに込めることが叶ったのである。(続く)



参照:
来シーズンの全貌をみる 2025-05-07 | 文化一般
フクシマ禍から蜂の巣へ 2019-09-16 | 文化一般
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来シーズンの全貌をみる

2025-05-07 | 文化一般
ベルリナーフィルハーモニカーの来シーズンプログラムが出た。漏れ聞こえたものや他のツアープログラムなどからそれ以上に知りえたのは、一月末の定期公演でのブラームス協奏曲とスクリャビン交響曲3番である。この交響曲はヴィーンでコロナ期間に指揮して中継された。ブラームスの方は、ドッペル協奏曲は既にミュンヘンで演奏して米国ツアーにもしていたが、ヴァイオリニストの選定だけだった。クロムベルクで教えることになったジャニー・ヤンセンが弾くと同時に年間を通してのレジデンスソリストに選ばれている。昨秋にクロムベルクでの「四季」の演奏を聴いたが、来月も出かけるようにティケットを持っている。

その他では、ヴァルトビューネでレスピーギを指揮することぐらいで、ヴィーンで指揮する予定で準備していたものだった。これらが次のシーズンの合衆国旅行に繋がるのかどうかは分らない。

個人的には2月1日の日曜日にハムブルクでの初日があるので、前日ならばベルリンから向かおうかと思っていたが、金曜日で終わるので一日開くので組み合わせる価値はないかとい思った。ベルリンとハムブルクの間で一日過ごすにしても、厳冬期はあまり冴えない。前々回ハムブルクに出かけた時もそのような時期だった。そこまでのプログラムではないということである。

但し、ヨーロッパコンサートのエステルハージ城からヴィーンを過ぎてミュンヘンへと廻って来るツアーも長く、その後にベルリンの定期公演で演奏するようになっている。ベルリンではいつも定期で練習してツアーに出かけるとされて、今でもコーミッシェ―オパー時代の認識でいる聴衆も玄人も含めて少なくないのは、本拠地で名演をあまりしていないからである。則ちデジタルコンサートホールでもまだその真価は十分に示されたことがない。来年は、九月の音楽再再演以外では、改めて機会が訪れるだろうか。

個人的には予定に加えて出かける公演はない。同時に極東などのツアー公演日程が結構あるので、新シーズンはその他の場所での指揮も少なそうである。

個人的にはエンゲル指揮の公演も出かけるので、合わせると結構な数にはなるのだが、まずまずではないかと思う。それでもペトレンコ指揮の演奏会はシーズン全部で8回と復活祭1回の五種類のプログラムで九晩ぐらいになるだろうか。現シーズンが8回、オペラ4回の十一晩よりは少なくなる。

エンゲル指揮は今シーズンは六晩ぐらいだったが、来シーズンは少し増えるかもしれない。合わせると十七晩でそれ以外に数晩となると年間二十数晩ぐらいになるだろうか。それだけでも25を年間で割ると二週間に一度ぐらいのお出かけである。まあ、それぐらいの時間や余裕はあるかなとも思わなくもない。

逆にそれ以上増えると日常生活に影響してくるようにも思われる。室内楽が器楽などの演奏会や芝居に身近で出かけたりはするが、大掛かりな管弦楽団の演奏会に関してはそれ以外は余程プログラムなどに興味があるとかでないと先ず出かけない。音楽劇場制作に関してもより厳選されたものにしか出かけないだろう。時間も掛かり疲れ損だからである。



参照:
貧すれば鈍する連中 2025-05-06 | 文化一般
30年ぶりのアムステルダム 2025-05-04 | 生活
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貧すれば鈍する連中

2025-05-06 | 文化一般
貧すれば鈍するである。ベルリンの文化相が辞表を提出したようだ。文化予算削減の圧力で、この元ドイツェグラモフォンのプロデューサーが音楽関係者らにルサンチマンな感情を持つのは分りやすい。世界中にこうした単純な政治家が増えていて、記事でも書かれるように自らのキャリアの為にありとあらゆるエゴで成果を出そうとするので、抑々そこに議論もなにも存在しない。要するに最初から社会のリーダーの体を為していない連中の一人である。

抑々メディアの世界が20世紀における特にポップスに限らずカラヤン時代の大きな産業として発展したために、その大衆化と商業化と平行していた。そういう所での事業の方法として、契約を結ぶタレントを徹底的に道具化する必要があった。抑々音楽家などが芸術的であればあるほどそうした産業とは馴染まないことを指揮者カラヤンが不明にした事から更なる崩壊へと突き進んだ。

最も典型的な例が、指揮者キリル・ペトレンコへの圧力と妨害である。知る限りだけでも、最初に2015年バイロイトでのバイエルン放送協会の映像化が、その協力前提としてペトレンコ指揮「指環」のDGでの製品化を持ち出したことで、ペトレンコが拒否。その5月には、DGが推していたティーレマンのベルリナーフィルハーモニカーシェフへの期待が裏切られて、ペトレンコに決まったことがある。その時にカタリーナヴァ―クナーがペトレンコをバイロイトの推奨した腹違いの姉のパスキエ女史の立ち入り禁止としたことに対して非人道的な行いとしてバレンボイムらの連名公開書籍での抗議が為された。

全ては圧力をかけることで思い通りにしようとする姿勢は、ベルリンのフィルハーモニカーの定期演奏会にはユニヴァーサル専属タレントを出さないという圧力として繰り返されて、特にそうした商業形態に対抗する形になっていたディジタルコンサートの活動への妨害の湾曲的な方法となっていた。

そして、そのメインスポンサーであるドイツェバンクがなければ既に破綻している事業であり、そこに応援に入ったヴュルト社の社内演奏会場でペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーによる「田園」の公演が今月行われる予定になっている。

ペトレンコに対する圧力は激しく、昨年ヴィーナーフィルハーモニカーを振ってレスピーギ作「ローマ三部作」指揮の定期演奏会では練習にカメラが入って、予めの合意がない儘の製品化を試みたことで、急遽練習を取りやめたとなったようだ。こうした卑怯な不意打ちによって、ペトレンコとヴィーナーフィルハーモニカーとの関係には致命的な亀裂が入ったようで、今後の指揮の可能性がとても薄くなった。

抑々ここでの様にペトレンコに関してSNSで集中的に扱うようになったのは、初訪日の時にもまだまだ危なかったその広報を補う為に意図的に続けて来た背景には、そうした妨害活動があり、それへの対抗策でもあったからだ。今復活祭「蝶々夫人」の録音録画の無いこともブルラットらとの専属契約のDGの妨害で、何人ももうそうした横行を承知しない。

然し、今回ベルリン市の事情ではありながら、メルツ新首相の政権へのお膝元での影響を試みたこうした顔が失脚したことで、その影響を最小限に引き止められた。ガサ問題に関して、ペトレンコ自身の発した「正義は勝つ」という言葉のその感覚的なものはこうした理不尽への対抗心からも生じているのだろう。



参照:
Bye Joe!, Axel Brüggemann, BackstageClassical vom 2.5.2025
アルベリヒは南仏に消えて、 2015-06-14 | 雑感
復活祭初日のお出かけ 2025-04-20 | 暦
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諮問されない音楽事情

2025-04-24 | 文化一般
目を合わせたというフランクフルトの支配人、第九で並びに座っていた。あんな安席にと人違いではないかと思った。「蝶々さん」楽日には、目を合わせてからそのあと大分経ってからもまだ楽屋口からのところで誰かと話していたと思う。それにしても支配人を辞めて何をするのか知らないのだが、ベルリナーフィルハーモニカーには関係しない、ペトレンコともと思っていたが、彼は中欧でアスミクを使い始めた人で、ペトレンコを「パレストリーナ」と「トスカ」で採用していた。それをすっかり忘れていたが、なるほどペトレンコの楽屋を訪ねてもおかしくはない必然性があった。然し翌日が早い中で、一言かけるぐらいでそれ以上のことはないだろうと。するとやはりブルラットらと仕事をするプロジェクトがあるのかもしれない。フランクフルトよりも上の舞台のどこでとなるが、すると夏のザルツブルクの芸術監督にでもなるのだろうか?そうなるとまだまだ招待席を準備させる状況ではないというのもある。あれだけの業界人であるから席を準備させると喧しいというのもあってお忍びというのもあるのか。
Trailer zu »Manon Lescaut« von Giacomo Puccini | Oper Frankfurt

Trailer zu »Tosca« von Giacomo Puccini | Oper Frankfurt


そう言えば昨年一月にフィルハーモニーで楽屋の方の翼から歩いてきたバッハラーを観て、シェーンベルクかと思っていたら、2028年のザルツブルク復活祭の「モーゼとアロン」だった。四年前には確りと準備が進んでいる。歌手陣も重なっているのだろう。そうしたもので、公式なインタヴューでは出て来ないものでも観察していれば分るものも少なくない。

今週末は再びそのフランクフルトの劇場でライマン作曲「ランヴィジブル」第三演新制作第六回公演である。席は凄く余っている。新聞評や口コミで評判が広がったいうことはなさそうである。個人的には演奏の質や弛みがないかなどと色々な関心もあって楽しみにしている。少なくともプッチーニとかそうしたものは今の時点では到底出かけれれないが、ライマン作であるからそれは問題なく、興味のありどころが全く変わる。これで、楽譜をもう一度目を通して細部の重要な点を洗い出しておかないといけない。修正されるべき点とここぞという箇所をチェックしておく必要がありそうだ。もう少し作曲家の胸元に入り込みたいと思っている。望むべくはエンゲルの指導でそのような姿勢がアンサムブルに生じているかどうかである。
»L‘invisible« von Aribert Reimann – intensiv, poetisch, berührend #zeitgenössischemusik #oper


復活祭明けは結構忙しかった。一つは第二祝日にメールが入っていたことで、流石に当日は処理しなかったが、火曜日に片づけておいた。野暮用の様な事でも、それはそれで将来に繋がることもあるだろう。

ドイツでは、アマチュア―音楽家が急増しているとある。1630万人だから6歳以上の市民の21%が趣味で音楽演奏しているらしい。そのメーリングでは、それによる独逸音楽諮問会での課題に関しては言及されていない。然し勿論著作権の問題なしには議論ともならないだろう。

この数字は四年前よりも200万人ほど増えているので急増である。そして驚くことに予想していた圧倒的に多そうな歌手の41%よりも楽器演奏者が81%と倍ほどいるというのである。なるほど祭りの吹奏楽やバンドは盛んであるが、そこまでの割合とは思わなかった。嘗て以上にドイツ出身の音楽家が増える土壌にはなるように思われる。



参照:
復活祭第二祝日の第九 2025-04-22 | 歴史・時事
玄人を教育することから 2025-04-03 | マスメディア批評
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中劇場での音響と視界

2025-04-09 | 文化一般
12月のゼムパーオパーの入場券を購入した。そこのネット予約をするのは初めてだったので、準備をして場所などの検討も付けておいた。よく知っているところは音響も視界も分かっているので、どこを狙えばよいか分かっている。然し、知らない所であると写真とか既存の売れ所の席などを注目しておく。今回は写真よりも先の360度写真に頼った。最後に通常の写真で確認した。音響に関してはそれ程外すことはない。劇場の大きさも1300席ぐらいの中劇場に近い、音響はそんなに変わらない。

今回はティテュス・エンゲルのゼムパーオパーデビューなのでなによりも名門シュターツカペレドレスデンとの仕事ぶりを注視したかった。勿論新制作なので舞台との調和の確認も欠かせない。先の新聞記事にあったように「制作を形作る指揮」である。目的に合わせた席選びでもあるのだが、小さな劇場では視界の点以外はそれほど変わらないだろう。ということで、舞台への視界関しては二の次にした。見切りがあると勿論安い。安いことを求めた訳ではないのだが、安いと文句を言う人は馬鹿である。個人的には宿の方が高めのアパートメントにしたので倍近く払うのが馬鹿らしいと思うだけだ。

さて初めてのネット買いは、10時始まりの一分前に待合室が開いていて、最初の導入の35秒と待合で100秒ほど並んだか。都合がいいのはその当該公演の夜の予約に直接入れるので、殆ど一番ぐらいで入れた ― 因みにシーズン目玉のシュターツカペレ・ドレスデンのシェフのガッティ指揮の「ファルスタッフ」は王のローゲも空いていたのだが、こちらは売り切れていた。州関連のご招待の対象者が違うのだろう。実はいい席がなければそこでもいいかとも思っていた。

先ずどこがどれだけ出るかは、初日定期とかもあるので気になっていた。「ファルスタッフ」と比較して定期つまり常連さんへの出方は決して悪くなく、いい席はやはり売れていた。その後の出方もそれほど変わらないので、旅行者で買う人よりも、地元の数限られて常連さんが安くていい席を選択しているのはよく分かった。先ず間違いないだろう。但し購入後に気になったのは360度写真の縮尺感がおかしいことで、通常の写真で再確認する必要があった。

ドレスデンの市場はミュンヘンの常連さんの十分の一もいない、フランクフルトの数分の一以下である。要するにそれ程のオペラの土壌がないのも分かる。いずれにしても、演出家のカラマンもエンゲルの先生クルティック指揮のグラーツのハースの作品で成功しているので、今回も支配人が二匹目の泥鰌を狙ったのは間違いない。ミュンヘンのマイスター指揮より立派な演奏をして貰えれば成功する可能性が強い。するとエンゲルが常連で登場することになるので、こちらもその心算でいる。

エンゲル指揮のハース作「ブルートハウス」第三演で一躍スターになったヴェラロッテベッカーがクリンゲンブルク演出初演でのハニンガムの歌唱との比較でも楽しみだが、ここを本拠地とするツェッペンフェルトの歌も楽しみである。小さな箱だから一流歌手にとっては楽々であろう。

早速調べると初演の映像と中継録音は残してあった。ブルーレイ化されているのだが、先ずこれで用足りると思う。楽譜もネットにあるので万全だ。編成も大変大きいので指揮者の腕の見せどころでもあろう。



参照:
ドレスデンでの出逢い 2025-03-22 | 文化一般
神聖な炎に焦がされる 2022-06-20 | 女
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おっぺけぺピンカートン

2025-04-07 | 文化一般
新制作「蝶々さん」の舞台組み立ての映像が出ている。そこについている音合わせの序奏練習風景の写真も出ていた。

可也激しい演奏をしていて暴れている。今迄の初日でもその傾向があって、二回目は大人しく調整して、収録日に合わせるというのがいつものことだ。なるほど交響楽団の個性もあるのだが、若干その傾向はスカラ座での初日にもあった。ミュンヘンではそこは上手に収めて来ていた。

楽譜を初めて落とした。先にやっていたかどうか思い出せない程お勉強不足で、一週間しかない。音楽的には素材は絞られているようだが、途中で複雑になってもう一つ把握できない部分が出て来た。

抑々登場人物がSharpは分かってもButtが誰かと思ったらバタフライだった。Goroが誰かと思ったら女衒の様だ。独語では仲人となっているのでどういう人かと考えたが、15歳の娘がいるところが置屋なので、そう呼ばれるものだろう。叔父さんのヤクシデという名がよく分からない。どういう立場の人かは楽譜を見たぐらいではまだよく分からない。鈴木は女友達って書いてあるが、これも意味不明だ。匕首の下りも武家の父親が切腹を申し付けられての遺品のようなものとは知らなかった。

冗長な運びも感じられるのだが筋と細かな音楽の意味づけがもう一つ分からない。但し最期を暗示しているようなところは効果的になされている感じだ。

手元にはフレーニが歌ったシノポリ指揮の制作CD録音がある。上手なのだが上記の細かな意味が分からないというのはその演奏に表れていて、さてお勉強はどうしたものかと思う。何かとても小学生のようなところから始めているので間に合うだろうか。音楽的にはそれほど難しいとは思わないので、それが救いか。

プッチーニの創作過程において、イタリアの日本総領事の奥さんから川上貞奴やらに学んだとか書いてある。貞奴のことはボンの日本学の教授が専門的に論文を纏めているので、その節聞いたことがあるが、具体的にはあまり調べていなかった。旦那は彼の有名な桂文之助の弟子の川上音二郎である。おっぺけぺ節の音二郎だ。ミュンヘンのレジデンス劇場でも公演して大喝采を受けていた。

今回の演出家のダヴィッド・リヴァーモアは長く演出活動をしているようでザルツブルク音楽祭でもお馴染みらしい。オーストラリア生まれらしいがイタリア語で話しているのでそこから移住した家庭なのだろう。興味深いのはドイツで初めての仕事のようで、これまた不思議に感じる。それで「蝶々さん」も初めてだというから一体何をとなる。それでもいつも家庭で歌っていたという。

愛の夢を憧れを潰される、その慈しまなければいけない傷つきやすく壊れやすい愛。蝶々さんは誰からも守られない。その疑心は、愛が裏切られる時にも壊される時にも付き纏うと語る。



参照:
文化政策オッペケペー 2005-10-17 | 文化一般
蝶々さんから黄金へ 2025-04-05 | 文化一般
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蝶々さんから黄金へ

2025-04-05 | 文化一般
今週末は「蝶々さん」のお勉強である。初日が一週間前になって、ベルリナーフィルハーモニカーの本体がバーデンバーデンで音合わせ。このプッチーニオペラは劇場でも生でも聴いたことがないので、端からお勉強するしかない。

抑々プッチーニのオペラで観たことがあるのは、「マノンレスコー」、「トスカ」、「三部作」しかない筈で、良く出来た作品だけで「蝶々さん」と「テュ―ランドット」には機会がなかった。「ラボエーム」も態々行くだけの必然性はなかった。クライバー指揮でも並んでいても敢えて買わなかった。その意味からも今回の復活祭でのペトレンコ指揮そして主役のエレノーラ・ブルラットにそれ程の価値があるのかどうかは分からない。そこに目星をつけたい。然し恐らくこの拐取が第一者で今後何かのプロジェクトがあるのだろう。スカラ座ぐらいで何かをやるのかもしれない。

さて、来年からのザルツブルク復活祭のプログラムが発表された。予定通り「指環」を毎年ひとつづつ上演していくが、演出家はセレブレニコフで、三年目の2028年にはお待ちかねの「モーゼとアロン」が挟まる。先ずは普通に発注しておいたが、2028年に状況ではパトロンになってもいいとも思っている。先ずは様子見である。

最初の「前夜祭」のキャスティングは先ほども日本で話題となったゲルハーハーがヴォータンでデビューするということが目玉になっていて、既に「タンホイザー」でのヴォルフラムに続て、アンフォルタスとペトレンコ指揮であるこそのデビューとなるのだろう。ここにおいて自らが手本とするフィッシャーディスカウを更に乗り越えることになる。その他の歌手は若い人を積極的に採用している。この辺りの制作費削減などバッハラー支配人の腕の見せ所だろう。総体的にプーティン批判の演出家の制作で容易にスター顔見世興行にはならないことは肯定的に受けとって良いだろう。演出家の選択としては大変疑問も大きく、此の侭なら2028年もシュタイヤーがやりそうな予感である。

ペトレンコ指揮はその他千人の交響曲二夜とバーデンバーデンでの五夜六夜の多彩さも量感もない。この点は若干性質が異なっていて、こちらも対処を考える。どちらにせよ春スキー絡みである。

歯の治療は抜糸もしたので、来週に小さな虫歯を治療してとお話しをした。全体の計画として、6月にもう一度レントゲンも撮って、ブリッジなりインプラント治療かを決定するとなった。現在のところフィステルもなくなったので、直ぐに楽になったのだが、10時間程は抜糸の傷が痛かったと訴えておいた。全てが消えて、そして前の方の歯が落ち着いて来るまで、そして新たに炎症を起こさないかどうかなのだろう。現時点での観測ではどちらでも行けるということで、状況が悪ければ誰にでもインブラントを奨めないという事だった。また来週ねということで嬉しそうな顔をしている歯医者の患者も珍しいだろう。マゾヒストかと自ら思うほどだ。

歯医者の為の路上の駐車もいい感じで停めれた。一つにはいつものルートが閉鎖されているために、初めてのルートを走らせるために早めに出かけられたのも大きい。その前に洗濯屋にも寄れて、来週までの仕上げを頼んでおいた。金曜日の12時30分から休みに入るのでギリギリだった。



参照:
蝶々の少女売春の悲惨 2025-01-28 | 文化一般
罰金を避ける時計板 2025-03-29 | 生活
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ドレスデンでの出逢い

2025-03-22 | 文化一般
起床にドレスデンの日程を知った。ゼムパーオパーの新シーズンのプログラムである。新カペルマイスターになって、漸く新支配人の本格的新シーズンである。支配人は、グラーツではペトレンコの下でアシスタントをしていたオクサーナ・リニヴを迎えて成功したノラ・シュミットである。そうした事情からティーレマンを引き継ぐのはその音楽の流れを汲むリニヴと思っていたのだが、MeTooで空いていたガッティ登用となった。それにはシュターツカペレドレスデンという座付き楽団が別の組織となっている事情があった。

そのことが独語圏の中でも名門のオペラ劇場で一流の上演を難しくして来ていた。その事情は変わらないのだが、支配人に期待されているのは芸術的に価値のある制作で上演でしかなかった。ヴィーンの名門のように観光客相手の公演となるとその音楽劇場的な上演の水準低下を招いていたからだった。

さて今回カペルマイスターの十八番のヴェルディ最晩年の作「ファルスタッフ」の10月の新制作に続いて、12月にエンゲル指揮でアブラハムセン作曲「ザスノークイーン」が上演されることになった。新シーズンはミュンヘンでは振らないと知ったので、シュツッツガルト以外ではなにを振るのかと考えていたので、若干の予感はあった。

それでそこのプロフィールに書いてあるように協調作業の事始めのデビューであり、今後のプロジェクトがあると予想している。一つには支配人のグラーツでの仕事ぶりやベルン生まれのとなるとそのスイスコネクションだけでなく、そしてエンゲルにとってはドレスデンは音楽的な故郷であり、私も彼と最初にあったのはそこのノイシュタットだったのだ。要するに我々の仲間内のプロジェクトのようなものでもある。

なるほど、ミュンヘンに出かけることに比較すれば遠く、ベルリンともそれ程変わらないのだが、やはり街が小さいので目的地まで570kmほどで当日に入れる。新シーズンは二月に新制作公演もある600km先のハムブルクよりは遠い感じもするのだが、690km先のベルリンよりは遥かに往復しやすい。9月の音楽祭のプログラムもまだ発表されていない。

9月にはベルリンでペトレンコの翌々日ぐらいにエンゲルが振ったが、今年も12月初日の日曜日にミュンヘンではペトレンコがアカデミーコンサートでトリフォノフと共演する。この4月もフランクフルトのエンゲルとバーデンバーデンのペトレンコが重なる。これはなにも偶然ではなく、興行的に顔見世するのは同じ日時になるということで、分野が全く異なるので競演するという形は今後とも続くように思われる。21世紀前半の音楽芸術のメインイヴェンツである。

そこで、ドレスデンから踝を返して、ミュンヘンに向かう心算だ。前回はベルリンからイザールフィルハーモニーへとエンゲル指揮クラッツァー演出「メデューサの筏」の為にベルリンに滞在してフィルハーモニーでの定期演奏会の翌日だった。

12月であり旅程的にはそれ程確実性はないのだが、例年ならば雪のある時期ではないので、なんとかなるだろうと予想している。前回は9月の日曜日の早朝にベルリンからミュンヘンに向かったのでとても楽だった。寧ろ気になるのはドレスデンに時間通りに辿り着けるかどうかであろうか。



参照:
大喝采のそのゆくへ 2022-06-06 | 女
モンスターのパラダイス 2025-03-07 | 文化一般
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贅沢なルツェルン音楽祭

2025-03-19 | 文化一般
ルツェルン音楽祭訪問の準備である。以前は定期券でクリスマス前に購入していたが、その必要もないということでばら売りを購入する。先行予約ならばよりいい席となるのだが、ばら売りならば適当な価格でと予算は大分小さくなった。

特に今回のように表の開幕演奏会プログラムは一部を替えて極東公演でも演奏されるために直前の壮行演奏会で聴くために、その替えられる楽曲を集中して聴く。今回はアロイス・ツィムマーマンのオーボエ協奏曲となる。ソリストは楽団のマイヤーの為にあまりい大きな音は鳴らない。それを考えて席を選ぶ。

もう一つの裏のプログラムはマーラー交響曲9番で練られた演奏を音響の良い会場で聴けるのがミソである。双方の席をどのように選択するかである。なるほど第九交響曲は前回は同じ会場で故ハイティンクの楽曲最後の指揮をそこで聴いた。その位置は最上階だった。同じような位置でもいいとは思うのだが、もう少しよくてもいいかもしれない。兎も角、アムステルダムのコンセルトヘボーとケルンのフィルハーモニーで二回聴いているので、三回目をどうするかである。

歯茎の膿包から免疫力が落ちている。そうした時の気温が零下となると耐え難い。暖房も薄くしていて、更に口中の具合から食欲はあっても、折からの絶食週間もあって、摂取カロリー量も減っている。手足が冷たくなり、喉や皮膚などの調子も厳冬期のように悪くなる。

陽射しがある時にサクッと走ってくるのだが、辛い。今は早く治療を終えて、心身ともに癒したいという気がする。歯の治療に向かう時はいつも完全に蝕まれている気がするのは自分だけかと思うぐらいだ。

ルツェルン音楽祭の一般発売は今回初めて入場規制の順番待ちシステムが採られていた。ミュンヘンやバイロイトのものに近いが、余程売れるものでないとそうはならないので、大したものである。4分40秒ほど待つことになったが、先日のヴュルトでの少数精鋭でもその時間帯ならば問題なしと思った。

それパイが多くてもそうで、大抵10分を超えると難しくなって、落穂拾いの狩場となる。入場制限数やキャパシティーに拘わらず、15分から17分が限界で、あとは落ちてくるのを待つだけとなるのも共通している。券を確保する時間が15分から30分と様々であるが、その時間は貴重なのだ。

結果ほぼ予定通りの席を確保したが、なぜか昨年よりも出ていなかった面もある。やはりブラームスの方が売れ行きが悪い。ツィマーマンの代わりに日本で「牧歌」が入るのかどうか、なんとも不思議である。320スイスフランは換算すると日本での5万円と変わらないので、たとえ音響が優れていてもやはりそれ程売れないであろう。

なるほど9月初めの中央スイスは気持ちの良いところであるが、滞在費などを考えれば結構な贅沢である事には違いない。マーラーも期待したいが、さてどこまでの費用を考えるかというと、既に300ユーロ以上旅行費を入れて700ユーロ投資しているので、マーラー九番三晩だけで1000ユーロは決して安くはない。



参照:
なんとも不可解な牧歌 2025-02-18 | 文化一般
ルツェルンからの光景 2024-09-11 | 音
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お見事な聴衆へのレク

2025-03-13 | 文化一般
11月以来のアルテオパーだった。ベルリナーフィルハーモニカーの壮行演奏会だった。フランクフルトもその時以来だった。あの時に感じていたのは、警察に車検切れがバレないかの心配だった。既に4カ月経過していたので、場合によっては罰則点が付くところであった。入庫も自動読み込みになっているので、そこでバレないのかとか、不安もあった。事故を起こす様な整備不良ではないのだが、どこかで動かなくなったら万時休すだった。レンタカーや様々な経費も発生するところだった。

交通事情などから予定よりも一時間程遅く入庫したのだが、幸い場所は空いていた。それだけ会場もがら空きだった。総じて半分も入っていなかったので900人も入っていなかっただろうか。

そうした影響もあるのかプログラムも以前の2.50ユーロから上がって3ユーロになっていた。ネットで貰っていたので無理して購入する必要はなかったのだが、バッハの会への強力もあるので、購入した。

然し、会員や定期向けのレクチュアーは満員だった。いつものようにカービッツ氏のもので、実質プログラムアーティストプロデュサーでもあるので、その見識は間違いない。

今回は短い30分ほどで詰め込んだ内容を早口で進めた。そのテムポに付いて、そして四声部でグロリアリパトリをハモらせる聴衆には驚いた。なるほど日頃から合唱団で歌っている人の比率は半分を超えているかなとは認識していたので、上行下行への和声進行が身についているのは分かる。それでもフランクフルトのバッハの会でこれだけラテン語を歌い慣れているとは思わなかった。

ルター教会でもその手の歌唱は可也あるのは分かっているのだが、プロテスタントの讃美歌の下らない精々バッハのコラールようなものしか頭に浮かばないので、吃驚したのだ。これがフランスやイタリアのカソリック圏でなら当然かもしれないのだが、フランクフルトのカソリック比率などは知れていると思っていたからだ。然し今調べると、信仰告白者の比率は70%で可也高く、そこでプロテスタントが13%に対して、なんとカトリックは16%を超えているなど、2011年当時に比較して明らかに比率が大きくなっている。そのような街ではないと思うのだが、確かにドームや司教区など小さくない要因はあるのだろうが、全く認識違いである。

それならばバッハの会も実際には半数ぐらいはカトリック系の会員がいるのかもしれない。すると、バッハ解釈においても決して鈴木のそれのカルヴァン的なそれよりもヘルヴェッへや最近ではピション、以前ならばガーディナーの方へと趣向が向いていたのも分からないではない。中央ドイツとはやはり違うのかもしれない。

その話題と実演実習がなにを導き出すか?それは勿論ピウス五世の典礼改革もあるのだが、グリゴリアン聖歌の流れと、フランドル楽派の音楽優先のスティレアルティコ則ち古い様式若しくは第一作法にあたるパレスティーナなどに代表されるその様式の実例へと話しが流れていくのだ。聴衆の程度の高さ同様に、お見事である。(続く)



参照:
慣らし運転を終えるとき 2025-03-12 | テクニック
寂寥感溢れる心像風景 2024-11-14 | 文学・思想
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十字を切る夕べの祈り

2025-03-10 | 文化一般
フランクフルトからメールが入っていた。火曜日の演奏会のプログラムである。平素は開けないので、いつも入っているのかどうか分からない。今回は大変役に立つ。

ざっと見て、先ず楽団は寄せ集めのようで、ガントのアンサムブルが合唱こそ命であることを再確認する。抑々「マリアの夕べの祈り」は通奏低音以外に何が必要かという最小のものかもしれない。

お勉強に先ずはガーディナー指揮のモンテヴェルディ合奏団のを期待したが、半分以上も聴き通せなかった。理由は色々あるのだが、やはりこの指揮者の独自の音楽性は、今回のプログラムにある通りだからだ。コンツェルトのデュオセラフィムをして、そこだけの祝祭的なミステリアスなオーラと言及していて、このバッハの会で散々指揮したその馴染みであろうか。それはヴィデオを観て直ぐに気が付いていて、まさしくそうした演奏様式が鬱陶しいのである。そうした独自の恐らく英国国教会に流れるあのどんよりした宗教心の象徴に違いないのである。それに一度気が付いて、気になると受け入れがたいものがまさしく氏のバッハ解釈でしかなかった。

そこで移ったのがフランスのピション指揮ピグマリオンの演奏である。これはフランス人で唯一無二のバッハ解釈という認識が我々の会にもあるような気がする。フランクフルトは決してカトリックの都市ではないのだが、やはり受け入れられるバッハとそうでないものは明白にある。
C Monteverdi - "Vespro della Beata Vergine" - Ensemble Pygmalion


基本的にはカトリックの典礼の作法に留意していて、それに準拠するように楽曲の出し方を考えているように思われる。同時にグリゴリアン聖歌の扱い方と楽曲の間を埋めるようにネウマ譜を読んでいるような歌唱が聴かれる。

少なくとも今回のベルギーのヘルヴェッへ指揮のそれは最も親近感があるものだろう。然しそのモンテヴェルディとなると若干記憶に薄い面もある。それでも合唱団が素晴らしく、それには何も代えがたいという認識がある。

さて楽曲を更に調べると、思っていたよりも遥かに複雑なことに気が付いて愕然としている。所謂第一形式と第二形式のその交錯が甚だしく対象化されたり、リズム的な精査がそこにある。ベルギー楽派の人類の遺産であるポリフォニーのを思い出す時にそのバロックにおける創作が如何に大変なものであったかがよく分かる。そして教会がそれを期待していたとなると、ルネッサンスからその後の社会の繁栄を示すことになるだろう。

先週もいつものナッツのパンを購入した。いつもと何かが違った。一つには作りたてだったのでビニール袋で急激な乾燥を防いでいた様だった。温かくはなかったが、若干柔らかい感じであった。

そして何よりも切り目が十字架のようになっていた。若干いつもよりもバランスが違うだけなのだが、十字を切っている様にしか思えなかった。四旬節に合わせたものなのだろうか。職人のやることだから決して偶然とは思えなかった。



参照:
実体感のある喜び 2025-03-09 | 歴史・時事
10時間を超える日照時間 2025-03-06 | 暦
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モンスターのパラダイス

2025-03-07 | 文化一般
灰の水曜日の日暮れ前。気温は摂氏16度ぐらいで全然低くはなかったのだが、洗ったパンツを脱げないほど寒かった。どうも谷筋には早朝の零下の空気が溜まっている様だった。その影響もあってか下りてくるまでに5分以上長い時間が掛かった。

今週末は、モンテヴェルディ作「夕べの祈り」のお勉強とライマン「見えぬもの」の概略を調べておかないといけない。

両方ともちょこちょこと知っている人に合う可能性がつよいのでなにを着て行こうかなどと考える。先建て購入したタイはとても良かった。色合いもとても使いやすい。四旬節の夕べの祈り向きかどうかは若干疑問もあるのだがシャツにとても合っていた。自分自身色合わせが上手になって来たなと思う。若干鬱陶しい感じの天候になりそうなので、前回同様その儘であろうか。

走って帰って来てから隣の車庫の女性に車の色を褒められた。通常のシルヴァーと言ったが、実際にハイテクシルヴァーで将来向きの電気自動車向きの色とは説明しておいた。女性だから色が気になるのだということで、彼女自身は黒のSUVを乗っているのだが、なにも色だけ選んでは車は買えない。25年前に流行った時のシューマッハーらのシルヴァーは色あせた色で嫌いだったで特別色を選んだのだったが、今回は色合いはそれで十分だと感じたのも実際である。ピグメントの内容で実際は原料価格が異っている。

ハムブルクの国立オペラ劇場の新シーズンのプログラムが大きな話題になっている。理由は新支配人トビアス・クラツァーが自ら演出する新制作に注目されるからだ。合わせて三つの制作のようで、先ずは秋に新音楽監督指揮でシューマンの珍しい「楽園とぺり」でエンゲル指揮での「ブルートハウス」で各賞を総なめ下ベッカーが歌う。そして来春に女性を扱ったオムニブス制作、その前の二月にエンゲル指揮ノーベル賞作家イェリネックに書かせたリブレットにノイヴィルトが作曲する「モンスターのパラダイス」初演となる。

エンゲル指揮ではシュトッツガルトの「ボリス」では同じノーベル賞のアレクシェーヴィッチが出てきていたが、一体何人の受賞者と絡むのだと思う。名実ともに世界の頂点での芸術活動となっている。

話題になっているのはその内容がトラムプ怪獣、トラムプゴジラ対プーティンゴジラになっているところで、それを大人のための人形劇風に扱うという音楽劇場だからである。ハムブルクの座付き楽団などの力は分かっているので、今度こそペトレンコ指揮復活祭での「指環」を凌ぐ成果と評価を残して欲しいと思っている。

ハムブルク旅行の予定もあるが、それ以前にイェリックの関連するような作品があればまず読んでみたいと思っている。

ペトレンコ指揮のDCHの昨年の最後の二回の映像は待降節に貰ったただ券でハイレゾで再生した。やはり印象が全然異なる。ブラームの協奏曲以外でもドヴォルジャーク交響曲七番での充実した鳴りやコルンゴールトの協奏曲でのフランクのヴァイオリンもマイクを通してというのはあるがアルテオパーでブラームスを聴いた時よりも大分よかった。



参照:
舞台に合わせた音楽演奏 2024-04-07 | 音
生きているだけでいい? 2023-10-04 | 文学・思想
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残券希少127席状態

2025-03-04 | 文化一般
一年間程画策していた。ベルリナーフィルハーモニ5月の欧州ツアーの入券である。先ずはアムステルダムのマーラーフェストの単売ティケットは開始同時に売り切れだった。予想していた様に20分ほどでなくなる程も出していなかった。主催者側にとってはそこで売れない席を先に売り払うことが目的とされたことは直ぐに分かった。抑々回数券での売れ行きが限られていることは想定されていたからだ。

実際に一番いい席とその次で数十席は余っていた。それでも会場の常連さんが知っている良席はでなかったので、高額になればなるほどいい席から売れるのがよく分かった。同時に最後までまだまだ出てくるだろう。要するに売れない高額企画だった。

その次に狙ったのはケルンのフィルハーモニーでの公演で、これも目星をつけていたお得な席を購入した。出かけたことはないのだが放送やその他の情報からなにも高額な席でなくても会場の良さは味わえるのも分かっていた。

さて最後の三つ目が楽団のスポンサーになった建設資材の製造販売ヴュルト社の本社催し物会場での音楽会である。バイエルンにあるが、それ程大きな会社でもないのでBASFなどの超巨大企業とは違うので、演奏会会場も僅か539人収容の木の壁のホールである。

だから長い期間をかけてその販売状況を研究していた。地元の交響楽団演奏会は定期会員が多くを占めていて、自由に販売する席数も限られていたが、自由販売の場合はなかなか売れないことも確認していた。
Wagner: Ride of the Valkyries | Claudio Vandelli | Würth Philharmoniker


そして月曜11時に発売となった。遠くは楽団のサイトからもリンクが入っていたので、売りに出される数によっては厳しいと予想。時間通りに入室すると写真の様に127席が出ていた。選り好みも出来る状況だったが、予定通りの席を選択で買い物籠に入れた。少し様子を見たが、それで通した。既に3分経過で、殆ど椅子取りゲーム状況になっていたようだ。それを知っていたので、決算した。7分経過で完売だった。

プログラムは中ホールに合わせてモーツァルトのクラリネット協奏曲と先日キャンセルされた田園交響曲である。恐らくスポンサーの関係もあるので、顧客様が招待されるところでペトレンコが下りることはないと思うが、「田園」をここで最初に指揮するのかどうか?

価格は130ユーロと120、110ユーロと三段階で舞台の後ろまである。出る席数が少なければ後ろで110ユーロも甘んじる準備であった。然し、これだけの中ホールでフィルハーモニカーを聴くのだから130ユーロは高くない。ペトレンコが振らないでもその価格は妥当だと思わせる。アムステルダムのそれより遥かにお得なのである。そして、土曜日17時始まりなので、ここから137kmを片道1時間半ほどの走行なので全く問題がない気持ちの良いドライヴとなる。

5月の天気にサンルーフを開けて、田園地帯へと車を走らせて、そして田園交響曲を聴けたならそんなに理想的な演奏会もないと思う。コロナ後にメータ指揮でスイス公演があったのだがその時は若干遠いのと最初に気が付いていなかったので出かけなかった。

ここではペトレンコ指揮は最初で最後かもれないが、会社の演奏会場にとっては歴史的な出来事であるには違いない。



参照:
ほぼ一定の電気使用量 2025-02-15 | アウトドーア・環境
愛おしく美しい一瞬 2025-02-07 | 音
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アンポンタンな人達

2025-02-27 | 文化一般
承前)音楽芸術的にも最低な音楽祭である。それでもフランクフルトに出かけるより近い。復活祭からフィルハーモニカーがいなくなれば、フランクフルトの方が芸術的に上まる。少なくとも毎年11月の壮行演奏会だけでも欠かせない。

バーデンバーデンでは高額の券を買うことはなかった。それだけのいい席はパトロンでもないと入手できないからである。そういうことはどのような音楽祭でもあるが、それだけの内容がなかったので意味もなかった。会場の音響もオペラ以外ではより優れたところは幾らでもある。然し音楽劇場としてはやはり欧州でも優れている。

今回は友の会のご招待だったので無料で一番いい席に座った。昨年の復活祭のブラームスも後半に潜り込んだが、やはり音響は優れている。但し友の会では空いている席が多かったので、如何にパトロンと友の会の社会層が異なるかもよく分かった。要するに平土間に集まる連中が多いのが友の会であろう。所謂スノブ層が多いのだろう。

楽譜を読めない指揮者について言及したが、そうした指揮者や演奏も音楽が分からない聴衆にとっては活躍しているかどうかだけの差でしか評価基準がないのだろう。そういう時にそういう聴者は「好き嫌い」とかいう意味のない基準を挙げるのだが、そこでどこが良かったのか悪かったのかに言及して貰わなければ感想にもならない。

昨年から結構多くの試乗イムプレッションの書き物だけでなくYouTubeもネットで観た。やはりその中でジャーナル的な形を取れているチャンネルもあった。比較対象の数だけならば比較して行かないとその差が見えてこないが、中には特に女性の場合の細やかな印象がとても分かりやすく、比較する迄もなく良く納得できるジャーナルがある。
竹岡 圭とマツダCX-60マイナーチェンジ。新グレード<XD SP>【TAKEOKA KEI & MAZDA CX-60 XD SP】


従来からワインの試飲においても中途半端な知識よりもただ素直に印象を語られて目が覚める思いをすることが少なくなく、出来るだけそうした女性に感想を尊重するようにしている。勿論それを受け留める側の経験や知識があるから何を謂わんとしてどこがポイントであるかが分かるからなのである。

「好き嫌い」というならばまさしくそこを指摘して欲しいのである。それがジャーナルで、特に音楽芸術の場合はそれが本質であることが少なくないのである。音楽ジャーナリズムに何が求められるかということでしかない。

個人的にはバーデンバーデンには復活祭以降、一度だけは出かける。バーデンバーデンの強みである生誕100周年ブーレーズフェストの碑の催し物だ。セクハラ指揮者ロートが幾つか振って、パパーノもロンドン饗を振る。

然し個人的に、プログラムと演奏者を鑑みて、価値があると思ったのはただ一夜のアンサムブルアンテルコンテムポランの演奏会だけである。指揮者も主席のブルーズで日本でも演奏会をしていたようだ。但し「レポン」を座席を替えて休憩前後の二回演奏するというので、興味を持った。日曜日の夕刻のカジノでの演奏会なのでピアニストのエマールが十年前と同じように席替え客席をうろうろとしているだけなのかもしれない。地に落ちている様子を見に行くだけであろうか。(終わり)



参照:
ピエール・ブーレーズの家構想 2017-01-14 | 文化一般
主の居ない打ち出の小槌 2015-01-26 | 音
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キャリアを積む過程

2025-02-24 | 文化一般
ご招待の演奏会、バーデンバーデン祝祭劇場友の会の記念公演だった。500人ほどの会員らしいが、2000人近く入ってシュトラウスの「四つの最後の歌」の曲間全部に拍手が出ることで、一体どういう人を招待していたのかとなる。恐らくバーデンバーデン市民とかが多く入っていたのだろう。挨拶は副会長の連邦最高裁判所の長官だったようだ。玄関前にはベルリンナムバーの青いラムプの車が停まっていたので、それよりも高官がいたのだろう。

五列前にはルップ博士が二列目の人に話しかけていたが、その辺りもミリオン単位の寄付をする人ばかりで大物で、前会長は保守党でコール首相に継ぐ大重鎮のショイブレ元副首相だった。メルケル首相が叩き落とした。それでもバーデンバーデンはペトレンコをザルツブルクに譲らなければならなかった。もうそれで個人的には全く興味がなくなった。ヘンゲルブロックの代わりにエンゲルでも入るならパトロンにもなるのだが、最早無意味である。

さて、前半のお目当てはマンハイム出身でこの秋にヴィーンの国立劇場の引っ越し日本公演で伯爵夫人を歌うハンナエリザベート・ミュラーである。最初の紹介でマンハイム生まれでスパイヤーで育って、マンハイムの音大で戻ったというから、歯科衛生士さんか歯医者の娘さんの様だ。どちらかというと前者の様な感じがする。本人も歯医者になるつもりだったらしい。

彼女の歌はミュンヘンのアンサムブルで歌っていた時に聴いていて、ちょい役で大阪の中村恵美と並んで出ていた。然しペトレンコ指揮の下でも演奏会で歌うようになった。最も印象に残っているのは新制作「リア王」での歌唱だった。その後格下の劇場でモーツァルト主役級を歌うようになって秋の引っ越し公演となっている。

そのようにキャリアを積む過程は期待と共に観察してきて、今回改めて聴くと、昨年同じ様な席で聴いたディアナ・ダムラウとの直接比較になる。すると声も歌唱も全く足りない。なるほどその体格に合わせて発声法などで歌えるようなキャリアを積んできたのは分かる。同時にモーツェルトにおいても特別なコロラテユーラの技能を持つ人とは異なりそれだけでは仕事にならない。所謂超一流との落差は埋めようがない。それでも歌える劇場はあるということだ。

言葉の明晰さやそのディクテーションの確かさや、その他舞台での存在感などオペラの世界はやはりその差が明らかで、秋の日本公演ではマルシャリンを歌うニールントにして超一流大劇場で歌えるような声も実力もない。

これらはモーツァルトからリヒャルトシュトラウス、そこからヴァ―クナへの発展が誰にでもできるものではないといういい例示でもある。

一方で声だけあれば大人になってからでもプロになれる様なオペラ歌手で、多額のギャラを稼ぎ出すのだが、その反面天分ない者はやるだけ無駄な様な職業で芸事である。それでも声もいつまで持つかも分からないので、まるでばくちの世界のようでもある。(続く



参照:
小声で呟やく言葉 2025-02-23 | 生活
奈落拡大計画の実験 2020-06-24 | 文化一般
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