Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

聴衆との盛んな応酬

2019-04-25 | 文化一般
来週頭に招待された演奏会の都合が悪くなっている。当初の予定では、二泊して、演奏会の翌日にゆっくりと醸造所を回ろうと計画していた。それが同行者の都合で夕方には送り届けなければいけなくなったので、午後の試飲が忙しくなった。そもそも試飲せずに取りに行くだけならば、演奏会の前でもよかったのだ。それならば二回に別けて試飲をして、一泊だけで帰宅する案が浮かんだ。すると今度はベルリンからのプレス中継があることに気が付いた。それが終わってからでもよかったのだが、急いで片づけて出かけなければいけない。

計画を直している最中にほかの予定を翌日の早朝にうっかり入れてしまった。これを順延しても、翌日に車で帰るとすれば試飲をゆっくりできない。要するに折角四月に購入できるというチャンスだったが、無理して日帰りも出来ないような状況になってしまった。招待を断って、宿もキャンセルして、翌日の予定に合わせるしかない。ワインは発注だけしてあるので、それ以外はまたの機会になる。

月曜日にバーデンバーデンで恒例の復活祭の収支決算記者会見が開かれて、その模様が報告されている。それによると二万三千人の入場者数となっていて、全てが入場料を十分に払っている人ではないと思うが、ザルツブルクの一万八千人とどちらが水増しが多いか?ランランのお蔭での完売もここに貢献している。しかし重要なのは、辞める支配人の言葉とベルリナーフィルハーモニカー側の見解だろう。

メーリッヒゼップハウザーは語る。「バーデンバーデンでフィルハーモニカーが気持ちよくやっていると見えます。街は、フィルハーモニカーの皆さんを諸手を挙げて迎え、このような大物を迎えて自慢なのです。長い目で見ています。」。

それに対してツェッチマン支配人は応える。「とても歓迎されていると感じ、聴衆との盛んな応酬があり、私たちの復活祭へのパトロンから同様アンドレアス・メリッヒゼップハウザーのチームの多大な支援に感謝しています。特に彼は、過去七年間の調和の取れた協調関係への感謝に値する。新たなベネディクト・スタムパのチームには大きな抱負で持って楽しみにしています。新たな首席指揮者キリル・ペトレンコと共に沢山の予定があります。」。

勿論我々にとっては「聴衆との盛んな応酬」がとても重要なのであるが、先の計画などを漏れ聞き、更にそこから想像するに、2021年以降のことが問題となる。つまり2013年まで計画されているということである。

先ずは、今回の復活祭を振り返ると、支配人が冒頭に話したように三人の指揮者が大きな柱を立てたことは間違いなかった。オテロ、レクイエム、シェーンベルク・チャイコフスキーとなる。最初のオペラではメータ指揮による交響楽団の奈落での解体が大成功して、フィルハーモニカーがブーを浴びるというとても画期的な結果になって、二度目に再構築してきた腕には感服しかない。殆ど意識してやっていたことだったようだ。二つ目の軸は、今後とも如何に聖週間などのプログラムで上手に宗教曲を取り上げていくかととてもいい参考になった。これとオテロの音楽的な関係を見極めるだけでも芸術的な価値があった。偶然にそのようになったのではないだろう。三つめの軸も同じ交響曲を二度続けて公演したことで、これまでのラトル体制におけるプログラムの在り方を踏襲した面もあった。三つともとても音楽的にも高水準で、オテロの演出もこれまでの中で最も話題になるべき出来だった。

ある意味、ウイルソンの演出への天井桟敷からのブーイングももしかすると今までとは毛色の違うオペラ通が混ざっていたのかもしれない。オペラ通にとっては、ラトル指揮の相手は出来ないが、ガッティ指揮ならという層もいたのかもしれない。勿論メータを目指した人は通が殆どだろう。レクイエムのキリエの後の拍手への動きも若干今までとは異なる積極性を感じた。ラトル時代の客層が決して悪かった訳ではないが、彼の指揮するベートーヴェンなどに歓声を上げる向きがいたのも事実で、やはりあの層の比率を圧縮するだけで大分客層は良くなると思う。要するに従来のベルリナーフィルハーモニカーファンというような層である。



参照:
空騒ぎの二重の意味 2019-04-23 | 文化一般
聖土曜日のレクイエム 2019-04-21 | 音
METを超えたオペラ 2019-04-17 | 音
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空騒ぎの二重の意味

2019-04-23 | 文化一般
承前)前日土曜日、「レクイエム」の日に祝祭劇場正面で写真などを写していたら車の警笛が鳴った。何事かと思って周りを見ても誰もいない。その車が走り去った後を見ると助手席に日系の第一ヴァイオリンのじょせいの顔が見えた。ベルリンナムバーであるからフィルハーモニカーの車と分かった。もう一度周りを見回すが誰もいない。その女性の顔をよく映像でも舞台でも見ているが、彼女が私のことを知っている思い当りは無い。そもそも日系のヴァイオリニストとは付き合いが無い。弦楽関係の日系音楽家も他所の楽団の人ぐらいしか知らないので、繋がりをいくら考えても思い浮かばなかった。不思議な気持ちがした。要するに特定できる日本の人の顔は数えるほどしかいないので、舞台などで見ていても意外に身近に感じるということかもしれない。ある意味日本の人の顔をあまり見ないので皆同じに見えてしまう傾向もある。同じようなことは会場内でも、普段は全く見かけない日本人の顔を見ると他人の空似ばかりである。

復活祭日曜日のガイダンスはチャイコフスキーだった。出かける直前にペトレンコ自身が語る五番のライトモティーフのフィナーレでの解決の話しが頭に残り、またボンでの同様に解説を頭に描いていたが、さらに踏み込んだのは四楽章における二つの主題で、特に民族的な楽想自体が、チャイコフスキー自身が語っている発想が、面白かった。つまり何もかも駄目なその人生のなかで、最後の砦のように原始の力のようなものがそこにあるというのだ。つまりここでも重要な要素を果たしていて、これでもかこれでもかと空騒ぎをするのであるが、殆ど強制的な前進あるのみとなるが、ペトレンコの言葉を借りれば「殆ど息が付けなくなって」、嘆きの下降旋律へと向かい、そして運命の動機が今度は長調で出て最後の時を迎える訳だ。そしてその空元気こそがショスタコーヴィッチでも踏襲された二重の意味を持つとされるところだ。

ペトレンコの解説では、一種の沖の水練のように運命そのものに自らを任してしまう解決となるが、ボンの解説で行けば最後に運命の動機で終止する。これに関しては、「月曜日の演奏を聴いてあまりにも美しく終わったのでどうかな」と解説のシマンスキー氏の感想があったが、まさしくこの二重構造や終止がその前のテムポ運びなどで決まるか決まらないかが私がボンで経験した大成功例であり、待ち侘びるところのものだ。やはりミュンヘンの座付管弦楽団のように電光石火のアゴーギクに沸き返り対抗しつつ気絶しそうになって、初めて一息ついてが技術を超えて出来るような限界状況に追い込めるようになるのに二三年はかかると思う ー 要するに無為自然、ニルヴァーナの境地である。

さて、ランランとの初対面からの練習は、ランランが英語で働きかけ、ペトレンコは敢えてドイツ語で返すというような状況だったようだ。ペトレンコも英語で会話するほどの関係を作らないように距離を置いた。当然だろう、あそこまで貶していて知らぬ顔で繕うような二重人格を演じれる男ではない。そして見ていた人によれば、主導権はペトレンコが握ったという。恐らくランランの方も左腕のことで到底プロとして一人前の顔は出来ない。カメラの前だけの空威張りの演技でしかないからだ。通常ならば少しピアノの前で打ち合わせるだろうが、如何にやっつけ仕事にしたか。責任は全て辞めていく支配人にある。その分を返そうと後半楽団と共に全力を尽くそうとしたのは五番の一楽章で見て取れた。あれだけでも満足だ。とは言いながらもベートーヴェンでも何かをやっていたが、正直あの傾向のままでの演奏ならば少し疑問である。モーツァルトほどにも上手く行っていない。勿論伴奏だけでは何も音楽にはならない。そして、演奏後の礼を逸しない若しくは慇懃無礼にならない範囲での扱いや如何にもプロらしい練習風景の報告からも、何とかこれで一件落着をということになる。(続く)



参照:
運命が拓かれるとき 2019-03-11 | 文化一般
芸術の多彩なニュアンス 2019-04-15 | 文化一般
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芸術ゲマインシャフト

2019-04-22 | 文化一般
ここになんでも書くつもりだ。しかしやはり書けないことも無いことは無い。満州のピアニストのランランとキリル・ペトレンコの初共演で最終公演を観てきた。二人の共演は、バーデンバ-デンの辞める支配人が画策したものに違いない。そもそもペトレンコはこの満州人のピアニストを手厳しく糾弾していた。それをインタヴューで語ったものだからそれ以降インタヴューをしなくなった。そのことは初ポートレートの番組でも間接的にしか取り上げられなかった。要するにそれを語るとランランだけでなくてランランを売る市場やその購買者をも愚弄することにつながるからだろう。

しかし、当日の会場の雰囲気や訪れた客の顔つきを見るとピアニスト同様の知的水準の人が少なくなかった。勿論シナ料理屋のおやっさんのような、厨房で下に着ているような服装で来ている人には、それはそれでとその市場の大きさに驚くだけであるが、更に大きな問題は金もあってそれこそピアノでも習っていましたよというような客層である。高学歴で、ある程度社会的にも成功している、丁度新聞の購買層で南ドイツ新聞の読者層などである。彼らの知性と教養と審美眼の欠如がとても痛い。

それゆえにバーデンバーデンに祝祭劇場が建設されて、少しでも芸術や文化の分かる人たちを育成しようとした社会的な構想があったのだ。しかし、シェーンベルクの売れないプログラムの代わりにランランと共演させられ、そして元の木阿弥のような客層に席を売っても仕方がない。

それを考えてかどうかは知らないが、少なくとも後半のチャイコフスキーでそのような人たちをも興奮の渦に巻き込んでくれたその強い動機付けが感じられたことだけは特記しておきたい。偶々隣に座った「ランランとの出会いからプローベ」を観ていた人を、ベルリンの初日でも聴いていて、月曜日の演奏も聴いていたので、「ボンの名演奏ではあんなものではないよ」と初めから牽制しておいた。

そして一楽章が終わったところで指を立てて「これだよ」と教えておいてあげた。つまり一楽章は名演奏だった。二楽章は残念ながらドールが若干音を制御できなかったようで、月曜日には至らなかった。三楽章はある意味弦楽陣の課題が見えてきた ― つまり夏までに直せる。四楽章はまだボンのアゴーギクへとはならなかったが、もう一息で、会場は月曜日とは異なって興奮の渦に巻き込まれた。隣のお兄さんも盛んにブラボーを叫んでいた。彼は、ギリシャ人二世の名前を挙げるぐらいだから、これで少しはその違いが分かっただろうが、ペトレンコの指揮の成果はまだまだこれからで、フィルハーモニカーのやることは沢山ある。

ペトレンコが、ドールを立たせた後、クラリネットを立たせたりは当然で、この日のオッテンザムマーは初めて一流の演奏を聴かせた。最後に弦楽陣の部毎に握手に行ったのはよく分かる。その各弦の第二ヴァイオリンからヴィオラ、チェロ、コントラバスまで見事だった、それほどゲヴァントハウスを恐れることは無いと思う。あれはコンセルトヘボーでもビックファイヴでもどこでもおいそれとは出来ない。間違いなく夏のツアーには一皮剥けると思う。

さて前半に戻るとそれでも流石に、あの左腕を故障してからの演奏で歓声を上げる人はいないと思ったが、まさかと思わせた。少々ピアノを触るぐらいの人ならば、あれはアマチュア―程度であることは直ぐ分る筈だが、それ以前の指がサーカスのように回る程度で熱狂した連中はその僅か一部でしかなかったということになるのだろうか?正直分からないが、素人とか玄人の問題ではなくただの物見高い客なのだろう。

勿論私の周りでは、既に述べたように、休憩前に私が「アマチュア―」と叫ぶぐらいだから、凍ってしまっていたが、逆隣にいた婆さんが終演後に「一回だけ来るなんておバカさんだよ」と言っていたぐらいだから、なんとなく祝祭劇場の常連さんというかゲマインシャフトが出来つつあると感じた。勿論私は「来年は殆ど毎日来るからね」と叫んでおいたので、これまた幾らか影響するだろう。

それでお分かりのようにオペラ劇場だけでなくて通こそは天井桟敷若しくは安くていい席に陣取って毎日のように来るという原則は変わらない。個人的にザルツブルクのパトロンになっていた時も好んで優先的に安い席を獲得したのは、そこに座ることの意味を知っていたからである。ミュンヘンでも、何もこちらから影響を与えるだけでなく、お互いに影響しあって習いあってこそ、初めて聴衆が出来上り、劇場なりの場が完成する。祝祭劇場がいいとか、劇場がいいとかは、音響以外では、その聴衆が作るものが殆どなのである。パトロンで金を出すのも悪くはないが、それだけではいい祝祭劇場とはならないこと、これが肝心なのである。

連日のカウンターで顔見知りになったので、50セント余分に払った。これもそこの従業員を教育して雰囲気作りに必ずなると思っている。何事も一つ一つ教育的配慮を忘れてはいけない。(続く)



参照:
インタヴュー、時間の無駄四 2016-08-03 | 音
時の管理の響き方 2016-09-16 | 音
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イタリアにおける成熟

2019-04-21 | 文化一般
朝一番で銀行に寄って現金を下ろした。土曜日は休憩も無い演奏会だったので殆ど現金は要らなかった。支払ったのは駐車料金とプログラムで8ユーロ、エスプレッソ2.5ユーロ、水4ユーロだけだ。エスプレッソは本日にでも再びダブルで貰うよと話しておいた。屹度眠くなると思う。

朝一番で峠まで走って下りてきた。目覚めると少し寝汗を掻いていて、気温と日射の影響があると思う。だから走らずにはおけなかった。レクイエムでの90分以上の集中は結構疲れた。まだ七十中盤とはいえ、丁度バレンボイムとは一つ違いのムーティは二年前より元気そうで、身体の動きがよかった。あのころは体調も悪かったのかもしれない。それでもバイロイトなどに出るなんて馬鹿なことはして欲しくない。もっとヴェルディの後期の作品を振って欲しいと思った。

公演前のガイダンスでもイタリア音楽における円熟とは簡素化に尽きて、その代表がヴェルディで、フランス料理や香料の洗練に対照させて簡単なアンティパスタなどとの比較としていた。なるほど楽譜で勉強していて感じていたように、限られた素材で如何にがとても明晰且つ精妙な形で表現されていて、楽譜面は簡単そうなのだが一体どうなるのかと思えば、これまた恐らくドイツ風のとても凝ったものだった。あのような演奏はスカラ座では出来ない。なぜならばいつも簡素な表現が身についているからだ。

とても音楽的に充実した聖土曜日の公演だったが、待ち構えているのは復活しないランランである。ベートーヴェンの第二協奏曲が彼にとって弾ける曲であるのは分かったが、左手のパッセージをどのように弾くか見てやろうと思う。全く技術的な関心ではなく、彼自身が一体どのような姿勢で演奏しているかを見届けてやろうと思う。

そもそも即興ピアニストであった自身のための作曲のようだが、やはりモーツァルトとはその独奏も異なる。中々動機の扱い方なども重要で「誰でも弾ける」調子で演奏されたらとても迷惑だ。一体キリル・ペトレンコがどのような顔をして合わせる練習や打ち合わせをするのかととても気になる。怪我の前ならばおかしな言い訳などが無かったかもしれないが、何かそれを繕う様子を想像するだけでこちらまでが腹立たしく思う。

本日の放送が予告されていたキリル・ペトレンコのラディオ初ポートレートが既にオンデマンドになっている。内容を確認しながら、録音準備も進める。車中ではランランのお蔭でベートーヴェンを予習しなければいけない。



参照:
ポートレートの色合い 2019-04-11 | マスメディア批評
貧相なエンタメを嘆く 2019-01-03 | マスメディア批評
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幾つもの山が当たる

2019-04-18 | 文化一般
土曜日に購入したマルサネ2014年を空けた。思っていたよりも酸があり、デキャンタ―もしなかったので広がらなかった。それでも特徴として敢えて選んだ2014年の涼しさが分かった。これでは飲み頃が短そうなので、2015年があったと思うので再訪の土曜日に補填しておきたい。数年寝かしておかないと駄目だろう。タンニンも効いていたから、十年近くはもちそうだ。

兎に角、聖土曜日にはもう一度スーパーウーで買い物をして、復活祭に備える。土曜日に走るか日曜かを考えたが、「レクイエム」は終演も早いので、帰宅後に購入したキッシェで食事を済まそう。翌日朝起きしてパン屋の足で峠まで走って、身体と頭を元へ戻しておこう。昼寝の時間はないだろうが、日曜日は前半が新しく勉強するとしてもピアノ協奏曲二番変ホ長調なのでシェーンベルクほどの神経は使わない。アンコールも「エリーゼのため」だろうから、勝手にしろである。但し楽譜に目を通す時間がいる。

新聞に書いてあったように、そのあとのチァイコフスキーの第五交響曲指揮がペトレンコにとっては、就任前の最後の指揮となる。何かけじめを示してくれるかもしれないが、それよりも重要なのは夏のツアーで第九交響曲とともに、圧倒的な成功へと導くための準備である。月曜日の一回目でいい方向に前進しているのは確認された。

それを含めてこの復活祭の前半を振り返ると、新聞が書くように、訪問者の衣装も祝祭的になりつつあるというのも事実だろう。最初から観察しているが、衣裳とかよりもラトルがあまりにも劇場的な雰囲気が無さ過ぎた。音楽のみならず、やくざっぽさがあまりにもなさ過ぎた。MeTooガッティでも違っただろうが、繋ぎに本格的な切り替えへの任務は果たせなかったと思う。メータでも初日から二日目への豹変にその任務の難しさが滲み出ていたとみる。本来はムーティで、願ってもないメータへの交代人選となったわけだが、初日後に舞台裏では様々な議論などがあったのだろう。フィルハーモニカーが口を揃えてインタヴューで「オペラをやれることが何よりも」なんて、ラトル時代に聞いた覚えはない。

火曜日に駐車場を出たところで「オテロ」の楽譜を調べていると、駐車場から引退も近いコンツェルトマイスターのスタブラーヴァ―が普段着で出てきた。さっと前を通っただけだが不機嫌そうな顔をしていた。個人的なことかもしれないが自家用車で来ていて、何かを車に取りに行ったと思われる。「オテロ」では第二ヴァイオリンを手伝っているようで珍しいなと思って見ている。

また日曜日のムーティ指揮のレクイエムも新聞評を見ると中々の鎮魂の名演だったようで、これも実際に生で体験して、また留守録音での演奏を確認したい。そして、14日中継録音放送云々が書いてあって、その意味が分からなかった。どうも当初の予定を変更して一回目に録音を済ましてしまったようだ。理由は分からない。個人的には二種類の演奏を聞けるのは助かるのだが、事の経過も気になるところだ。ベルリンの方でもムーティ指揮では今後とも演奏される可能性があまりないので少なくとも一つは記録として残しておきたかったと思う。兎に角、録音、実演とも大きな期待が出来るのは間違いない。

復活祭中にこのように幾つもの山があるのは珍しく、毎年何とか一つ当たればの程度だったことからすれば、芸術的に記念碑的な成功だと思う。頑張ってお勉強して準備をしよう。



参照:
シルヴァン・パタイユのマルサネ 2017-08-08 | ワイン
都合のよいアルコール 2017-10-30 | ワイン
METを超えたオペラ 2019-04-17 | 音
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芸術の多彩なニュアンス

2019-04-15 | 文化一般
9時20分過ぎにバーデンバーデンから帰ってきた。オペラと同じ時刻に始まって、予定では7時45分に終わるところが、シェーンベルク後のミヨーのアンコールと最後の拍手で駐車場を出たのは8時15分を過ぎていた。

9割も入っていなかったが、とてもいい演奏会だった。全ては駐車場に下りるところで後ろを向いて女友達に話しかけるおばさんの言葉に尽きる。「よかったね、ファツェッテンライヒで二楽章、三楽章もだけどそれよりも」。この言葉は私の脳裏には浮かんでいなかったが、膝を叩きたくなる表現で、残念ながら彼女に声を掛けなかった。

まさしくこの夜の山場はそこにあって、完全燃焼の演奏ではなかったのであの盛大な拍手の本心を知りたかった。その分、四楽章もベルリンの初日よりもアゴーギク的にもとても抑えられていて、ある意味次の段階に入っていた ー 支配人が楽団が指揮にまだ充分に応えられているとは言えないが、聴きものだという意味である。勿論、日曜日もあり、更に夏のツアーもある。

最後に一人だけ二回も立たせたのはホルンのドールであったということも、その課題を明らかにしていた。三楽章のホルンでもどうしても上ずる方へと音が流れるが、シェーンベルクからとても抑えていて、注目の的となっていた。そして先ずは高く評価したい。

シェーンベルクにおいても明らかに非力なコパンチンスカヤに合わせるためのとても難しい課題を皆がこなしていて、その代表的な立場にこのドールがいたからである。同じ会場で聴いたミヒャエル・バレンボイムのヴァイオリンは協奏曲の主題を提示して主導するだけの力量があったのだが、この女流には無理であった。それをカヴァーする為に如何ほどに難しい弱音などが要求され、柔軟な奏法が要求されていたことだろう。とんでもないがギーレン指揮の放送管弦楽団では叶わなかった精度であった。

チャイコフスキーにおけるニュアンスの豊かさとは、ある意味一昨年の「悲愴」におけるあのヴァルツァーよりも高度な音楽性が要求される。そしてそれを評価する聴衆がバーデンバーデンに集うというだけで幸せに感じる。要するに音楽通であったりする訳で、要するに玄人だ。なるほどベルリンなどの大都市に行けば沢山の玄人が居住していて、音楽会にも来るのだろうが、その分母が異なるこうしたところでの比率はとんでもなく高いと感じた。

玄人とはなにも同業者や業界関係者である必要はない、高度な芸術文化が分かる選ばれた聴衆とも言える。上の言葉でどんな高級紙でも大見出しに出来るのだ。なるほどヴィーナフィルハーモニカーが、「バーデンバーデンの高度な聴衆に、また呼んで貰えることを願っている」というのはなにもお上手で言っているのではない。本当に良い聴衆の前で演奏するのはとても怖いことであるとともに、やりがいのあることに違いない。

チャイコフスキーの第五番交響曲というややもするとこけおどしのような交響曲において、その交響曲の内容を問う演奏、そしてその内容をニュアンス豊かと表現する聴衆、まさしくカラヤンのチャイコフスキーなどで喜んでいたような聴衆ではない聴衆、それどころかムラヴィンスキー指揮の演奏ですら異なる視点で批判できる審美眼を持った聴衆、そのような聴衆はそんなにどこにでもいない。

なるほどオペラにおいてはミュンヘンの聴衆の域には及ばないが、まさしくシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲ほどの抽象的な音楽を聴きに来る聴衆である。スパーオパーが定着するようになればメッカたるだけの聴衆の基礎は既にあるということである。とても嬉しく思った。もう心配は要らない、ベルリナーフィルハーモニカーも音楽芸術を率先していける、そして音楽芸術における更に大きな可能性をバーデンバーデンも提供していけると思う。



参照:
華が咲くオペラ劇場 2019-04-14 | 文化一般
運命が拓かれるとき 2019-03-11 | 文化一般
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華が咲くオペラ劇場

2019-04-14 | 文化一般
バーデンバーデンから10時半過ぎに帰宅した。暫くしてから呟いた。本当に久しぶりの本格的オペラ体験だったと。キリル・ペトレンコ指揮の楽劇などはオペラではないのは当然だが、ザルツブルクで数々体験したものも劇場の本当のオペラではなかった。記憶にあるのはベーム指揮とかシュタイン指揮とか、もしかするとスイトナー指揮のオペラなどを彷彿とするものだった。なにが違うのか、詳しくはメモだけを整理しておいて、もう一度出かける火曜日に楽譜に目を通してからになるだろうか。

終演から一時間以内にネットに上げたジャーナリストがいる。彼によるとメータのあまりにも遅いテムポの指揮に管弦楽も儘ならなく、ブーを浴びる演出でと、批判が躍る。この辺りを扱うことで少し書いておきたい。明日月曜日の準備もあるのであまり余裕が無いからだ。

先ずロバート・ウィルソンの演出であるが、これは現支配人の理想とする目を瞑って音楽を聴くよりも邪魔をしないが更なる「チーズバーガーの多彩な妙味」を出す演出だった。ザルツブルクでの「青髭」などもとてもつまらなかったのだが、まさしくこの記者が合うとする印象主義的な象徴的なものこそがつまらなかったのだ。しかし「オテロ」には力強いドラマと同時にとてもクールさがある。ウィルソンが語る、「一方では静けさと冷たさが無ければいけない」という言葉に表れている。若しくはバーナード・ショーが語る「枯渇しながらもそれゆえに知的である作曲家の作品であり、自らの手法をとても倹約的に尚且つ簡素に経済的に対した」となる。

ウィルソンは北京歌劇や日本の演劇を思わすような所作に触れているが、ああした動きの演出は少なくともピーター・セラーズの表出的な動きよりも評判が悪い。恐らくそうした文化的な背景がこの不評にはあるだろう。前記の「青髭」との一番の差はその表出力にあるのだが、多くは指揮者のフォン・ドナーニとズビン・メータの劇場における表現力の相違と言えるかもしれない。

メータのそれはキリル・ペトレンコでは到底及ばない劇場におけるドラマの表出であり、ヴェルディの創作に内包するものであり、特にお気に入りの作品の細部まで熟知している劇場心である。とても重要な音楽的示唆やその全体の構成の中での起伏の付け方などまさに劇場的な感覚が満載なのだ。それは技術的には歌手や合唱との関係においてもそのようで、細かくキューを出さないで歌手のアインザッツを待っているようなところがある。そもそもペトレンコのように合わせていくと、そうした歌手が見栄を切る余裕を与えない ― 無理して入れたのはNHKホールのコンサートでのパンクラトーヴァだった。そのメータこそが三大テノールの指揮者だったのを思い出せばよい。オペラなんて所詮そうしたものなのである。だからベルリナーフィルハーモニカーの数人がフライングしてしまって、初めてフィルハーモニカーへのブ-イングを聞いた。またそうでなければ、劇場的な雰囲気の中で、その空気を吸った創作の華が開かない ― 夢は夜開くならず、華は劇場で開くである。

それがエンターティメントで留まらないところに劇場の音楽劇場の社会的な価値がある。しかし、バーデンバーデンのように通常の公立歌劇場でないとどうなるのか?これは来年以降も話題となるのであるが、そこにまた違う可能性を見出す。そして、ウィルソンのなによりも素晴らしかったのは、劇場空間を活かしていたことであり、それが劇場での実地の判断で為されたかどうかは分からないが、メータが係っているのは間違いない。少なくとも、二幕の独唱者陣を前後に動かしたり、デズデモナーを後ろでまたは前で歌わせて音響的にとんでもない効果を上げていた。これは正しく昨年まではあまり触れられなかったこのバーデンバーデンの祝祭劇場の稀有の音響を引き出していた。

つまり、そもそも昨年サイモン・ラトルが「パルシファル」を振るにあたって、その抜群の舞台との距離感と音響に触れ、またキリル・ペトレンコも満足したという言及があって急に注目された点で、我々聴衆側でも様々な席を試すうちに得られた結論と合致している。要するにそのピットからの響きの透明さと明白さ、同時に声とのバランスと混ざり合い、また前方で歌うときのその歌詞の明瞭性と後方からの響きの美しさは恐らく過去の劇場には無く、私の知る限りバーデンバーデンにしかない音響の素晴らしさで、まさしく世界のスーパーオパーを上演するにふさわしいメッカだ。

歌手陣は、恐らくフィルハーモニカーの抑えたものであっても劇場のそれに比べるとピッチの問題もあって高域の二人とも厳しかったが、ヨンチェヴァは昨年のミュンヘンでのハルテロスなどとは完全に一ランク上の歌唱だった。フルートのパウに合わせて歌うだけで金を取れる上演だった。スケルトンは予想通り中域でのそれがトリスタンにおけるのとは異なって表情が豊かだったが、その音楽性はカウフマンのその領域には到底及ばない。それでもカウフマンの声質について文句をつけるのだろうか?イアーゴもフィンリーに比較するまでもなく、それほど悪くはないが存在感が十分でなく芝居を作れていなかった。その他の脇役などはミュンヘンには人材があり、選ぶ余裕があり、少年少女合唱も全く質が異なった。(続く



参照:
落ち着かない一日 2019-04-13 | 生活
やはりライヴに来て 2018-12-11 | 音
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ドライな方が上手く鳴る

2019-04-12 | 文化一般
天気がよくなって、放射冷却並みになった。温度差が激しい。しかし乾いてくれると楽器もホールも良く鳴ってくれると思う。特に復活祭初日のズビン・メータの指揮はそれぐらいにドライな方が上手く行くと思う。その意味からはロバート・ウィルソンの演出も十分にドライである。昨年のミュンヘンでの細やかな演出と演奏も良かったが、冒頭のベルリナーフィルハーモニカーの鳴りとマス感にも期待したい。演出も彼のゼッフィレッリ演出のようには歌手もドミンゴではないのでいかないが、クールに進行して欲しいものだ。カルロス・クライバーの指揮はウェットで暑苦し過ぎた。今晩のGPの成果とその報告が楽しみだ。しかし週末には再び崩れて、週明けには強い日差しで摂氏20度へと上昇しそうである。月曜日のシェーンベルクとその翌日の第二回目公演へと続く。

バーデンバーデンのSWRのスタディオを訪れたベルリンのツェッチマン支配人が語っていたが、このシェーンベルクを出さずにチャイコフスキーの五番をハイライトとして挙げていた。恐らくベルリンでの二日目の演奏が上手く行っていたということであり、今回の二回のチャンスで少なくとも一回はそれらを完全に凌駕して欲しい。ここだけのものとして一年に一回の音楽劇場上演の演出と指揮者間の緊張関係やそうしたもろもろを超えての成功に大きな期待があることも語っていた。

彼女がなぜ簡単にオペラと言わなかったか?それは楽劇を意味したのだけではないと思う。もしかするともう一つ先のプロジェクトが進んでいるのかもしれない。勿論ベルリンでのコンツェルタンテ上演との差異を含んだ言葉かもしれないが、期待したいところだ。またフェスティヴァル特有のインターナショナルなコンタクトというものにも期待しているというのも耳についた。

もう一つ、実際にポストについて意外だったのは楽団との関係が建設的に進んでいるということで、これは以前のインタヴューでは楽団の難しさに配慮していたことからすると、上手く行っているという証拠だろう。百パーセントのキリル・ペトレンコへの支持があって、何もかもが上手く推移しているというのが実際だろうか。

カーネギーホールの前でソルドアウトのプラカードの前にデュオのユジャワンとカプサンが一緒に写った写真が出ていた。来年バーデンバーデンで席を確保した同じプログラムの始まりでもあるのでそれを自身の呟きに張り付けておいた。カプサン弟からいいねが入っていた。初の兄弟揃ってのフォローであり、二人ともマメな人だと分かった。一度放送で出来具合を聴いてみたい。

郵便桶に分厚い250ページものチューッリッヒのオペラの年間プログラムが入っていた。ネットで見ていたので関心は無かったが、念のためにもう一度ざっとページを捲った。今年のように捨てたリゲティの作品などもなく音楽監督ルイージは下らないものしか振らない。そのキャスティングなどを見ても現シーズンよりも悪い。昔は金があってオールスターのような印象があったが、その価格を見れば分かるように、ミュンヘンの方が遥かの高価になって実際に比較できないほどのオールスターキャストになっている。次期の指揮者ノセダも先日ネット配信を見たがあまり信用できないタイプだった。

同時に待っていたトンハーレのプログラム発表もワインフェストの時に一晩ぐらいで、今期よりも大分悪い。何よりも監督ヤルヴィのチャイコフスキープログラムにはあきれる。本当に六曲を一気にやる価値などは無くて恐らく録音絡みだろう。それも売れるようなものではないだろうから、評価がよくなければ意外に早く退任になるかもしれない。「フィデリオ」演奏も迷惑だ。11月にフォン・ドナーニがシューベルトを振るが、嘗てジュリーニが振ったのをバーデンバーデンに聞きに行った時からすれば遥かに遠いので動機付けが必要になる。ヤルヴィが盛んに振るために今期のように刺激的で多彩なプログラムが一挙に萎んでしまった。



参照:
ポートレートの色合い 2019-04-11 | マスメディア批評
出来上がりを予見する 2019-04-10 | 料理
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ティーレマンも恐らく失う

2019-04-09 | 文化一般
先日東京の「春祭」から戻ってきたヘイト親仁が何かを書いている。ザルツブルクからで、どうも取り巻く環境が落ち着かないらしい。ティーレマン支持者としては直にインタヴューしていないでも先週の言動から自らも「コブラ返し状態」に取り付かれているようだ。

先ずはティーレマンの発言を引用して自らのクレドを忘れない。「時にはプロイセンらしく、堅持に教育されていて、理想を求め、硬直しない限りにおいての規律をよしとするものである」。結構、そしてこの親仁は未だに未練がましく呟く、ティーレマンが土曜日に初日を迎える「マイスタージンガー」をやるにはやはりプロイセンのフィルハーモニカーだったら、ハンスザックスの言うように「君らには楽だが、僕には厳しいのだよ」と、本当は些か生意気な連中の鼻先にあてていきたいところだったとしている。

私の真似をして楽劇から言葉を抜き出すしているのは良いのだが、「ハンスザックス」と皆から祝福を受けた後の歌いだしの言葉で一体何が言いたいか?どうもティーレマンの権威で奴らを捻じ伏せることで、素晴らしい「マイスタージンガー」が叶ったということらしい。それはそのように思っていても自由なのだが、この親仁の卑怯さはいたるところに表れる。

つまり私が既に纏めたような客観的状況を書き記して、要するにティーレマンは「糞まみれの糞」と罵っていても、情勢が変わることを信じているらしいがと、彼自体がザルツブルクの人たちが得意な陰謀の罠に落ちていて、清浄出来るのだろうかと、また同時に三者の言及として特に魅力の無いバーデンバーデンから高いフィルハーモニカーを取り戻す心算なのだろうかと如何にも客観的な立場にいるかのように書き綴るところである。少なくとも両音楽祭の関係者からするとあまりプレス席を提供したくないような御仁である。

なるほど、「仕舞いにザルツブルクは、高価なフィルハーモニカーも連れ戻せず、ティーレマンも恐らく失うことになる。」とまるでザルツブルクを脅すような書き方をしている。まさしく親仁が一派として書ける最大級の支援の心算だろう。まさしく、上のプロシアへの言及といい、この脅迫紛いの客観的指示といい、支持者がこれで支持されるのがあれだ。要するにバカの一派である。

ローマの第九に対してもう一つ踏み込んだ評が出ている。それによるとペトレンコが戻ってきたのは2013年の「ラインの黄金」以来らしいが、その特徴を「細部に拘りながらも全体像を失わない」と綺麗に纏めつつ、その繊細なペトレンコは、このEUの歌にもなる歴史的な価値のある作品を、決して腰掛にゆったりと座ったり寝そべるようなことを聴衆には許さず、また複雑で身を乗り出す聴衆にも場所を与えず、ふにゃふにゃすることもなく、受け身の態度をも許さず、明確な指示とその強靭なその推進力において、また早いテムポにおいて、ダイナミックスのアクセントに、現代的な譜読みによって一つ一つの音符へと惹きつけるその能力でと皆を駆り立てたとする ― イタリア語の自動独訳なので抄訳からの意訳は試みていない。

「喜びの歌」では、合唱と独唱者が歌う総合的な音の建造物の終わりには、魔法から解き放たれたように、イタリアでは珍しく十分に及ぶスタンディングオヴェーションがなされた大成功が伝えられている。同時にサンタツェチェチーリアのサイトにはその様子を伝えるヴィデオが提供されている。興味深いのは指揮者が一身にブラヴォーを受けていて、私たちが思うような声への反応はあまり独唱者に浴びせられていない。ドイツ語の歌は胸騒ぐものでもないと思われる。三日とも初日を除くと殆ど満席に近かったようで、価格も手頃だがローマでは大成功ではなかったのだろうか。

ベルリンのフィルハーモニカーがメータ指揮で日曜日から「オテロ」の舞台練習を始めた。少なくとも復活祭シリーズとなってから初めての本格的なオペラ指揮者が登場することになる。上のティーレマンは、「ザルツブルクの大劇場ではアシスタントを欠かせないほど、バイロイトに次いで、奈落で演奏するのは難しい」としていたが、オペラ指揮者でもあるメータ氏の感想も聞きたいところだ。恐らくかなり興味を持って仕事をしていると想像する。聴衆側もラトル指揮では全くオペラ通には物足り無く、雰囲気が出なかったが、メータ指揮の楽劇ということで、今までとはまた違う会場の雰囲気が出ると来年へと弾みがつくと思う。先ずは初日だ。



参照:
不整脈辞退を受けて 2018-12-08 | 文化一般
還暦おめでとうの誘い 2019-04-02 | マスメディア批評
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儒教に沿わない男女同権

2019-04-01 | 文化一般
DoItYourselfの老舗ホルンバッハのCMがなぜか話題になっている。発端は韓国人女性が人種差別と声を上げたことのようだ。一体何事かと思ってみると、日本の性の商業化と自動販売機文化が矢面に立っていて、人種差別と感じたのは韓国人だというのが面白い。如何にも朝鮮人らしい反応で、それに同調する日本人も同じ文化圏に属すると如実に見える反応だった。

ブルセラショップ文化を揶揄されて怒るのが日本女性だとすれば、それはそれでそうした性の商業化に甘んじている己の文化を恥じなさいと言いたい。まさしく見ざる聞かざる言わざるの文化圏の恥部が表面化した形になっている。最近はネットを観ていても、西欧文化圏的な視座からの主張を逆張りすることがホワイトハウスだけでなく世界中に伝播している。ポストモダーンの一つなのか、それともシナの台頭の影響なのか、新世界の停滞のなせる業なのかは分からない。勿論イスラム世界の女性への位置づけも関係しているだろう。
Hornbach: ja, ja, jippie jippie yeah

So riecht das Frühjahr | HORNBACH

要するに男女を対等に扱って、ティーンエイジャーの娘がおじさんの汗臭い汚れた下着に春を感じるのが女性差別だというのである。ここにも極東の儒教精神に充ち溢れた女性教育や立場との違和感がその文化圏からの抗議で表面化した形になる。恐らくマルクス思想に洗われたシナにおいては同じような反応は起こらないであろうと思う。要するに男女同権は韓国や日本では感覚的に受け入れられないということになる。

車中の文化波で偶々人種を含む差別意識の話題が流れていた。興味深かったのはそうした差別心は家庭の中で育まれるもので児童期以前に形成されるという研究報告だった。つまり子供自体が移民とか何とかの差別意識を持つのではなく、親などの周りの第三者への態度・言動にアンテナを張っていて、そこから差別意識というものが根づくということのようだった。確かにそれは法とか社会秩序とかのもので理解されるものとは違った層で形成されているとすればまさしくその通りなのかもしれない。だから放送で定義されていたように、その人の教養とか社会的な地位とかとは関係なく差別意識が存在しているというのはとても説得ある分析となっていた。

昨晩購入したアイヴスの交響曲四番の演奏会は本当に楽しみになってきた。今までも生では聞いたことが無く、小澤征爾指揮LPとティルソン・ト-マス指揮のCDしか所持していない。その規模からして今後もそれほど体験する機会は無いのではないかと思う。ケント・ナガノが得意にしているかどうかは知らないが、指揮に関しては問題ないと思う。ナガノは一月の「影の無い女」にしても序でに観劇が叶ったもので今回もそれに近い。私はこういうタレントを相性が良いタレントと呼んでいる。

実はその前に他所も探したのだが、ライプチッヒのブロムシュテット指揮も売り切れていて、ケルンのロート指揮も終わった後だった。オペラもチューリッヒのゴルダ・シュルツぐらいで中々価値があるものは見つからなかった。

Vladimir Jurowski über das Konzertprogramm vom 31. März

今夜はベルリンからの演奏会中継がある。またまた由井小雪ことユロウスキー指揮の放送管弦楽団の演奏会で、先日日本で演奏されたマーラーの巨人交響曲「花の章付」が演奏される。ブラームスとともに自然を持ってくるところがこの野鳥愛好家の指揮者らしいところだが、嘗て小澤がボストンで録音したLPも買いそびれていたので本格的に聞くのは今回が初めてとなる。多楽章制の初期の交響曲として捉えるとしているが、説得ある演奏がなされるのだろうか?

その番組を紹介しておいたらマネージメント会社のIMGがいいねを付けてきた。正直驚いている。なぜならば小さな事務所でも細やかなフォローをするところが少ないからで、偶々かもしれないが、やはり先日の日本公演なども手応えがあったのかもしれない。実際のところ今までもロンドンでいい仕事を取ってきていても本当にブレークしていた訳ではないから、会社の方もミュンヘンへの流れを注視しているのかもしれない。そこで私なんかが由井小雪と囃し立てると事務所が文句を言ってくるかもしれない。少なくともヴィデオや放送でとてもいいメッセージを出していて、そのキャラクターを売り込むことではとても成功しているケースとしても間違いないであろう。



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極東アジア人の心理なんて 2009-06-29 | 文化一般
68年への総括の道程 2008-02-20 | 歴史・時事
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真剣みが加わるお勉強

2019-03-27 | 文化一般
月曜日の買い物は上々に運んだ。先ずはルツェルンのティケット、そして夕刻には想定通り品切れになっていたアマゾンでのルーターが20時間ぶりに再度入荷していた。10ユーロほど安いか、5ユーロほどの差でも返品などもやりやすいのがいい。何よりも週末までに揃っていないと、メイン電話が掛からなくなる。これは困る。その電話機のアダプターもカールスルーへの四年前にメモリーを購入した専門店で扱っていて、殆ど最低料金で最長三日の間に届く。合わせて180ユーロとしないので、独テレコムから200ユーロ集金すれば十二分にもとが取れる。そもそも今回もIPアドレスを増やさずに電話回線をそこに移せば大分月毎の料金が節約できたのだが、敢えてしなかった。最低二年契約の終わりを待って考えるつもりだ。IPアドレスが二種類あることは電話にもネット環境にもやはり大きい。

そうこうしているうちにアダプターが発注したカールツルーへの業者から届いた。発注と同時に発送の準備をしていたようだから流石に早い。以前はアマゾンもそれぐらいだったが、ブラック企業労働で問題になってから叶わなくなった。勿論こうして市場競争力が明白に落ちて行く。支払いだけアマゾンペイを使ったので、結局ペイパルを潰しに来るのだろうか?

車中のラディオがEUのネット内の著作権保護に関する提案に激しい抗議が寄せられて、想定外のことになりそうだ。当然のことながら簡単にネット内のコピーなどを取り締まると検閲と変わらない。そもそもスクリーンショットなどグレーの範囲が広く、そもそもそうした二次利用のようなものを禁止すればリツイートなど存在しなくなる。個人的には自身のPCに落とされた情報は全て自己管理する原則を二十年以上採っているので、そもそもコピーされたくないならネットにアップしないことと言明して止まない。要するにネットビジネスなどは存在しなく、ネットのものは全て公共資産と疑わない。もしEUがここで急ぐようなことがあれば再び海賊党が割拠してくることは間違いない。

さて、四月の復活祭への準備が進む。週末にはベルリンで「オテロ」の稽古に入るようだ。そして夏時間へと変更される。私もヴェルディ作曲「死者のためのレクイエム」を始める。先ずは楽譜を落として、更に音盤のことも考える。参考にしたい音源は決まっていて、ジュリーニ指揮のフィルハーモニア管弦楽団演奏の録音である。先ず何よりも前回この曲を生で聴いたのがこのジュリーニ指揮のベルリナーフィルハーモニカーのフェストヴォッヘでの演奏会だった。記憶に鮮明に残っているのは、あのふにゃふにゃのカラヤンサウンドの管弦楽団がとても音楽的に構築的に鮮烈に鳴ったからであって、それは手元のこのEMI版でも到底適わない。

今回の指揮はムーティで、恐らくデビュー当時からジュリーニを手本にそのレパートリーなどを練っていて売り出したわけだが、こうして老匠となったナポリ出身の指揮者が到底南ティロル出身の指揮者に適わないことは明らかだ。またそれとは異なるエンターティメント性を勝ち得た訳だが、私にはどちらでもよいことである。だからジュリーニ指揮の録音を研究して、ベルリンでの記憶を蘇させるととても厳しい判断になるだろう。しかし恐らく今後それ程聴くことが出来ない指揮者の音楽であって心残すなく準備しておきたい。

また今回演奏されるシェーンベルクとチャイコフスキーのプログラムに三種類のつまり木曜日に続いて金曜日、土曜日の録音録画が流されている事が分かったことで、その三つを比較研究して問題提議をするという仕事が一つ増えた。勿論お遊びではなく大きな物議を醸すこととなるので、真面目に行わないといけない。お勉強に真剣みが加わる。



参照:
電話回線契約破棄の旨 2019-03-26 | 雑感
遥かなるフェアートレード 2015-06-28 | 雑感
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縦の線への疑心暗鬼

2019-03-22 | 文化一般
久しぶりのカールツルーへ州立劇場について纏めておこう。街自体は一時頻繁に出かけており、いつも通過するだけでもない、しかし街の中心まで入るのは久しぶりだった。僅か片道65㎞弱でドアツードア―でも45分程度だ。だから燃料費も往復しても10ユーロ少しで、駐車料金も17時から4ユーロと割安である。そして今回はミキサーの横の安い席を購入したので10ユーロだった。コーヒー一杯とプログラムを入れても30ユーロ掛からなかった。その程度の出費と時間ならなばもっと頻繁に行けるのだが、マンハイムの市立劇場よりも高品質の上演がなされていないとするとその価値は殆ど無い。

この劇場で有名な催し物はヘンデルフェストと呼ばれる比較的歴史のある催しだが、ヘンデルに関しては所謂小楽器ブーム以前から大劇場でも取り扱われていたこともあり、こうした保守的な劇場が催してもあまり関心を呼ばない。時々、話題になるので新聞評やプログラムなどを見るが態々出かけるだけのものはなかった。そして今回その座付管弦楽団を聞いて益々足が遠のきそうである。
DAS SCHLAUE FÜCHSLEIN - Trailer

現在監督は小沢の弟子とされるダスティン・ブラウンというケムブリッジ出身の指揮者がやっているが、二期以上に亘って長くやっていてあの音楽的な水準しか残していないので注目不必要な音楽家であることも確認できた。地元に住んでいる人ならばあれやこれやというのだろうが、我々となると一瞬で判断を下していかないと限が無い。要するに実際に聞かないでも見切りをつけるだけの予測の自信はある。勿論音楽監督自体が棒を振れば拍が決まっていただろうことは容易に想像可能であるが、管弦楽団の土台として全くなっていなかった。大野の頃の方が少しまだましだったかもしれないと考えてもおかしくはないであろう。そもそもあのポストに何年もいることが多くを語っている。
2017 Europe Tour Behind the Scenes Video 9, October 28, Luxembourg City, Luxembourg

さてその音楽的な出来の悪さは承知で出かけたのはアニメーションを観たかったからで、クリーヴランドで長く評判の良かったマルティメディアプロジェクトだった。欧州では一昨年ヴィーンの楽友協会で二三回放映されただけで、今回は二回目だと思う。その時の音楽はメスト指揮のクリーヴランド管弦楽団の演奏で、ルクセムブルクではコンツェルタント形式としてアニメーション無しに演奏された。最初のガイダンスでも話しがあったが、170のセクエンスが切られていて、そのインデックスで演奏の経過に合わせて、次のセクエンスへと切り替えられる。実際に冴えない棒とリズムで演奏されるので、若干繋ぎが唐突な感じがするとことも無くは無かったが、大きな事故も無かった。興味深いのは、年長者向きディズニーなどを印象させる縦のフィルムノイズ線を入れてあるとの説明だったが、これは鵜呑みに出来なかった。恐らくその動く線が無いと、カットの繋がりやスクリーン前との同調で目立ちやすい歌手が顔を出す窓の開閉などが目立ち易くなるのだと思う。この説明には疑心暗鬼した。
The Cleveland Orchestra "The Cunning Little Vixen" :30 spot (Edited by Miceli Productions)

Vixen Opera in Vienna

Cunning Little Vixen dragonfly

制作のユーヴァル・シャローンは昨年のバイロイトでローエングリンの演出者であったが、その制作の映像の制約から余り評価されていない。今回見た印象では、予想していたよりも上の疑心暗鬼を含めて、その演出自体は想像していたほどの価値が無かった。勿論ドイツ語に直してもちっとも聞こえてこない歌手やアンサムブルに大きな責任もあるが、どちらかと言えば演奏を邪魔しない程度のアニメーションであって、その映像表現には限界があった。二拍子系三拍子系の川の流れの動かし方や、前後左右上下への視点の動かし方などは悪くは無いのだが、あまりにも印象だけの表現でまともな構成的な意思は皆無だった。劇場の前にあるトロージャンの木馬の造形ではないが、それ以上の効果は無かった。少なくとも一度見れば十分で、今後とも想像力を働かしてあの映像が目の前に浮かんでくるかどうかは疑問だ。クリーヴランドの管弦楽団が最も聴衆の平均年齢が下がったと言っても、これらを見た子供たちが定期会員になっただけではなかったのか。兎に角、個人的には胸がすっきりしてよかった。

ネットで2020年5月ハンガリーでのベルリナーフィルハーモニカーの公演情報が流れてきた。調べてみるとフィッシャーがヴァークナーをやっている会場らしい。5月6日にマーラーの四番とリュッケルトリーダーをクールマンが歌う。更に調べると5月14日にブリュッセルで、その間の11日と13日がアムステルダムのマーラーフェストとなっている。通常はツアー前に本拠地で三日間の公演がある筈だ。この順番で行くと5月始めか?するとブタペストから直接ベルリンに戻ってくるとは思い難い。次に飛ぶところは、プラハかワルシャワだろうか?兎に角東欧ツアーとなっているのかもしれない。個人的に気になるのは、アムステルダム、ブルッセルと来て、もう一か所行かないかどうかである。更に足を進めるようだと、夏のツアーでは四番が外されるかもしれない。その場合は六番が難しい方のプログラムになるのもおかしい。2020/2021年オープニングが難しい曲となるのだろうか。

もう一つ気が付いたことがある。バーデンバーデンの「フィデリオ」はペトレンコの事務所というよりもミュンヘンのキャスティングと相似になっている。つまり、カムペとカウフマンが出ていないだけで、事実上はミュンヘンと話が付いているとなる。そこで興味が湧くのは、カムペ、カウフマンの「トリスタン」も話しが付いているとなれば、2021年はミュンヘンでなくバーデンバーデンでということも大いにあり得る。ミュンヘンのトリスタン演出は比較的新しいのも問題だった。バーデンバーデンでは2016年新演出だったが、これもラトルの快い了承が得られているとなると十分にあり得る。



参照:
新たな簡単な課題を試す 2017-10-21 | アウトドーア・環境
州立歌劇場でアニメ鑑賞 2019-01-29 | 文化一般
雲の上の世界の頂点 2019-03-21 | 文化一般
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雲の上の世界の頂点

2019-03-21 | 文化一般
昨年のヴィーンでの公演からクリーヴランド管弦楽団の実況録音放送を聞いた。ベートーヴェンプロである。他のことをしていて交響曲二番の頭を聞けなかったが、技術的にも全く良くなかった。会場に慣れていない訳ではないのは、そこでのマーラーの六番などの名演奏を知っているからで、なにをもたもたしているのか分からなかった。不思議に思ったのは本拠地での交響曲八番が名演奏でこんな筈はないと思ったからだ。

次の「田園」は、 それに関する監督インタヴューに続いて始まったがやはりどうも最後までおかしい。更にアンコール前に再びインタヴューでなぜレオノーレ三番を前でなくアンコールに持ってくるかの講釈があった。この件は「フィデリオ」上演にも係っているので今は深入りしない、しかしその演奏も大した演奏ではなかった。

詳しくは細かく調べてみなければならないが、少なくともこの「プロメテウス」というプロジェクトは欧州では通じないのでヴィーンと日本と本拠地でしか演奏されなかったのは十二分に理解できた。同じようなことを指揮者インタヴューで、つまり写実的でなくて詩的とか上手に表現しているのにも拘らず、ブロムシュテット指揮の先日放送された「田園」の演奏の方が遥かに良かった。それも技術的にも興味深い演奏をしていた。大変高アヴェレ-ジに様々なレパートリーをこなす指揮者ヴェルサーメストであるがこんなところに弱点を見せるとは思わなかった。

もう一つはっきりしたのは、フィラデルフィアとその弦楽陣だけをとっても、クリーヴランドは劣るということがはっきりした。今アメリカでもっとも聴衆が若いようだが、その背後事情はよく分からない。しかしどちらにしても世界の頂点で鎬を削る管弦楽団には違いないことを改めて思い出させてくれたのは、カールツルーへ訪問だった。

前回は日本の国立劇場監督大野が監督として振っていた時で、今回が二回目だと思う。生憎指揮は小澤の弟子の現音楽監督の英国人ではなくそのアシスタントのスイス人が振ったのは大ハンディーだが、そしてラトル指揮ベルリナーフィルハーモニカーが演奏してもしっくりいかない難しい曲であることは前提としても、このようなジンタのような座付楽団も久しぶりだった。音取りからして合っていないのだからもうどうしようもない。指揮者が素人でも合奏が悪いとか動機付けが出来ていない以前に、個々人の技術が低い。昨年暮れのマンハイムの座付も悪かったが、「マイスタージンガー」の楽曲に慣れていることもあるのかもしれないが、ここまでは酷くなかった。更に歌手陣も合唱団もマンハイムの方が流石に上だった。唯一ましに感じたのは少女合唱団だがそれでも技術的には知れている。

なるほど前回「利口な女狐」はクリーヴランド管弦楽団の恐らく歴代で最高の演奏を聞いていたのでその落差が大き過ぎる。世界の頂点と底辺の高度差がある。そして日本からここへ態々聞きに来る人がいるということで、日本のオペラのその水準が窺い知れるというものだ。三流から四流言いたい。二流には程遠い。これでも連邦共和国の指折りの州立劇場であり、下から一つ目か二つ目か知らないが、フランクフルト市立劇場よりも遥かに悪い。ハムブルクなどはここからは雲の上で全く見えない。ペトレンコ指揮のミュンヘンのオペラ劇場の水準に慣れて、久しくオペラ劇場の程度の低さを久し振りに味わった。とんでもない税金の浪費である。そんな予算があるなら同じ週内のバーデンバーデンに回せと言いたい。

二人の並んだ写真が飾ってあったが、よくもヴァルトラウト・マイヤーが先週末に歌ったが、それも「エレクトラ」などを芋のごった煮のような座付楽団と歌って恥ずかしくないのだろうかと思う。これならばマンハイムでレオノーレを歌ったカムペの方がまともに見える。



参照:
オペラとはこうしたもの 2018-11-12 | 文化一般
細い筆先のエアーポケット 2017-11-03 | 音
州立歌劇場でアニメ鑑賞 2019-01-29 | 文化一般
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鳥肌マッツァオもう一度

2019-03-19 | 文化一般
バーデンバーデンからのプログラムは届いていない。それでも朝から全部で一人分十枚のティケットを購入した。九枚が2020年復活祭で、一枚が一月のユジャワンとカプサンのデュオコンサート、全部で405ユーロである。今年ルツェルンの音楽祭に五枚ほどで500ユーロ以上払っているのとは半額以下である。ルツェルンが高価なのと、あそこのホールが高い席へと座らせる魅力があるからだ。それに比べるとバーデンバーデンの祝祭劇場はどうせ広いので音響は高価な席でもそんなに変わらない。視界が異なるだけである。それでも昨年の「パルシファル」のように鳥肌真っ青になるような音響に恍惚となる。それを思い出すだけで、ああ、となる。「フィデリオ」ではそのようにはならない筈だが、奈落からの序曲の最初の和音だけでも想像するとぞくぞくするがペーターセンの声を思うとフィデリオ序曲ではなく古い版を演奏するような気がする。レオノーレ一番は無いだろうが二番は演出のコンセプトによればとてもいいだろう。序曲の間に無言劇を始められる ― 序曲の後の拍手無しで進む。

「ミサソレムニス」もなぜかのちに発売となっていたが、間違っていたようで、後で確認すると購入できた。恐らくまた一番乗りだったろうか。これも楽器配置が分からないので、ミュンヘンでやったような近代的配置と見越して、つまり歌手陣は上手から歌うということで席を決めた。外れるかもしれないが、仕方がない。さもなくば真ん中の席で最前列となる。シェーンベルクと違ってそこまでというところである。因みに「フィデリオ」は一日だけバルコンの反対側にしてみた。

後のコンサートは同じようなところに座る。マーラーなどは精々声ぐらいであとはそれほど変わらない。勿論真ん中の方が視覚的にもバランスが良くて満足感は高い。最も研究したのはベナツェットホールでのユーゲント楽団の演奏会だ。これがオペラに続いて高価な席となった。会場が狭いことと、殆ど篤志家向きの演奏会のようなものである。しかしプログラムに載っていないマイヤーの名前が見えたので、運命以外にオーボエ協奏曲でも演奏するのだろうか。モーツァルトだろうか。

これも小さなホールで最前席に出ようかと思ったが、舞台の写真を見ると、平土間に折りたたみ椅子を置いただけなので舞台が高い。すると自分自身が齧り付きでお上りさんのようになる。しかし調べてみるとそんなによさげな席は無い。バルコンも中途半端な感じだ。というか齧り付き三列もバルコンも閉鎖している。結果全部で800人ぐらいの中ホール使用となっている。理由は分からないが、バルコンを使うと不都合なことがあるのか、齧り付きは余程音響が悪いのか?

中ホール使用ということでは、SWRもムジカエテルナも祝祭劇場では皆二千人以下使用となっていて、それが年間で五回ぐらいだから、全部売れても一万人を少し超えるぐらいである ― 第六回のマルティメディアものを見落としていた、最後だけが大ホール扱いだ。需要を大体それぐらいに見積もっている一方、メディアなどを使ってアドバルーン効果もある。特にバーデンバーデンはトルストイ時代からロシア人の湯治場で、昨年もアラブ人に続いて第二の宿泊数だったようだ。つまりエテルナは興業として都合がよい。ゲルゲーエフに飽きた人を呼び寄せる。それだけでなくバーデン・ヴュルテムベルクの人からもコメントがあった。そこにはペトレンコとの比較をしてあって、サクラではなくて熱心な人のようだが、そういう人も含めての需要である。結構なことである。そもそもはサロネン指揮のフィルハーモニアを念頭に置いていたが、サロネンの方にも変化があり、その市場を埋めるように更に安上りで湯治客にも適合するオファーが適っている。ロシアでは高額なので喜んでロシア人も訪れるだろう。

「フィデリオ」初日の一般売り開始時のスクリーンショットを掲示した。平土間にプレスやらパトロンの招待などが集まっているようだ。正面バルコンは普通に出ている。もし私がパトロンなら結局そのままになるが、金をいくら出しても実際に座りたい場所はパトロン席を除くと空いている。ロージェも人気があるが、どうみても最前列とか、視覚重視とかあまり通でないか賢そうでない人が先に購入しているようだ。ミュンヘンほどではないとしてもドイツ有数の金満家も少なくないが、パトロンにもお上りさん的な仲間も多いのだろう。ザルツブルクでパトロンになっていた時も結局は祝祭大劇場の天井桟敷ばかりを余分に購入していた私からすると、 やはりとても違和感が強い。



参照:
2019年復活祭の座席確保 2018-03-21 | 文化一般
復活祭音楽祭ペトレンコ登場 2016-03-19 | 雑感
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愛しい、我が音楽の故郷

2019-03-18 | 文化一般
ミュンヘンからの中継を見た。昨年と比較してそれほど会場には入っていなかったようだ。先に出ていた冊子で内容を知っていたからだろうか。期待された「トリスタン」もロシアオペラもない。がっかりした人もいるかもしれない。しかし、2021年にもプロジェクトがあると語っていた。通常は新制作オペラなのだが、そのような時間があるのだろうか?ベルリンに正式就任して二年目である。2020年秋は日本旅行だろうから全く時間が無いので、2021年夏のオペラフェスとなる。「トリスタン」なら客演指揮者でも仕上げられるということか?

既にその前の3月末から4月5日に掛けてバーデンバーデンで大きな作品を振っていて、4月に演奏会でそのあと5月中旬から7月に掛けてミュンヘンで新制作は可成りオペラ尽くしである。それがロシアオペラとなるとそれはそれで大変だろうが、七年間以上音楽監督で「マクベス夫人」しか新制作を残さないのも寂しい。後任がロシア人だからそうなったのではないと思うが、「トリスタン」以上に残念である。そうなると当然のことながら2020年に続き2021年ヴァルトビューネも客演指揮者となる。振らなくても構わないのだが、一体新任指揮者のベルリンでのお披露目はどうなるのか?

秋の新制作「死の街」初日の日程とその前のアカデミーコンツェルト10月3日までの「我が祖国」に挟まれた期間は六週間もなくて、10月にフィルハモニー定期を振れる時間は無いだろう。9月もオ-プニングに続いて芸術週間ということになる。12月にミュンヘンを終えてジルフェスタ―そして2020年2月に国内ツアーなのでそれ以前に定期でラフマニノフなど、3月にもう一度定期でマーラーの六番?、4月前半は復活祭、5月13日まではマーラーフェストとその前に定期で四番、その後ミュンヘンで「千人」、「ファルスタッフ」の準備、オープニング、ツアー。11月日本旅行?若しくは2021年。

するとベルリンのペトレンコ指揮の2019/2020年シーズンは、オープニング、ジルフェスタ―、2月定期、3月定期、4月復活祭、5月定期となる。「フィデリオ」、「ミサソレムニス」を入れて6種類の新たなプログラムで充分だろう。するとジルフェスタ―のプログラムだけが不明である。それが「ミサソレムニス」になる可能性がある。5月定期のプロは8月のツアーにも掛かるか。

そもそもこうした推測どころか情報さえもその時になれば流れるだけで何の意味もない。しかし本日の音楽監督ペトレンコの会場に向けての画面に向けてのお別れは感動的だった。「我が祖国」に因んでの話しだったが、「ミュンヘンの街の全ての、そして世界にまたとない聴衆の力を受けて、愛されて、その都度自信をもってやってこれた、愛しい故郷で、これを我が音楽の祖国と言わずにいられません。」、ざっとこのように要約できる。約束のように2020年のシーズンが終わったところで記者会見があると思うが、ミュンヘンの聴衆に向かって直接語り掛けるのはこれが最後だった。

コーミッシェオパーでも愛されていたと聞いているが、ミュンヘンの場合はそうした若干イデオロギー的なものとは異なる聴衆であり、必ずしも批判のブーイングが飛ぶわけではないが、オペラに関してはまたとない聴衆であることは間違いないだろう。ベルリンにも素晴らしい専門的な聴衆はいる訳だが、マスとしては決してミュンヘンにあるようなセンシティーヴな反応が無いことも分かっているのだろう。コンサートはオペラ以上に高度な批判が必要となるので、中々オペラのようにはならないということもあり得る。まさしく、あのような方法でのオペラ作りが受け入れられたというのが本人にとっての強い自信に繋がったということである。バーデンバーデンでは徹底的に従来のオペラの枠を突き破って指揮して欲しい。



参照:
音楽監督と至福の生物 2018-03-19 | 音
Ich war noch nie in Japan. Das ist.. 2017-04-03 | 暦
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