Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2006年11月

2006-11-30 | Weblog-Index



皮膚感覚のフマニタス [ 雑感 ] / 2006-11-29 TB0,COM2
自尊心と公共心を駆逐 [ 雑感 ] / 2006-11-28 TB0,COM2
嫌気がさした衣装 [ 雑感 ] / 2006-11-27 TB0,COM4
再び安全なゴム使用の話 [ 雑感 ] / 2006-11-26 TB0,COM0
ゴム使用を倫理的に拡張 [ 生活 ] / 2006-11-25 TB0,COM0
大芸術の父とその末裔 [ 音 ] / 2006-11-24 TB0,COM6
理想主義の市場選抜 [ ワイン ] / 2006-11-23 TB0,COM0
神をも恐れぬ決断の数々 [ マスメディア批評 ] / 2006-11-22 TB0,COM0
古くて新しい赤い賄賂 [ ワイン ] / 2006-11-21 TB0,COM0
エルザの夢の無い決断 [ 文化一般 ] / 2006-11-20 TB1,COM0
已むを得ないお買物 [ 文学・思想 ] / 2006-11-19 TB0,COM2
店先で花開く四方山話 [ 試飲百景 ] / 2006-11-18 TB0,COM2
温暖化への悪の枢軸 [ マスメディア批評 ] / 2006-11-17 TB0,COM2
フリーセックスのモナーキ [ マスメディア批評 ] / 2006-11-15 TB0,COM6
ラビの帽子のような野菜 [ 料理 ] / 2006-11-14 TB1,COM7
そのもののために輝く [ 生活 ] / 2006-11-13 TB0,COM4
トロかアナゴかシラーか [ 料理 ] / 2006-11-12 TB0,COM2
日曜の静謐を護る [ 生活 ] / 2006-11-11 TB0,COM2
行動形態不審の敵を一掃 [ 生活 ] / 2006-11-10 TB0,COM0
季節柄現れるもの [ 暦 ] / 2006-11-09 TB0,COM2
追懐の怒りのブーレーズ [ 音 ] / 2006-11-08 TB0,COM4
断層を隔てて比較する [ 試飲百景 ] / 2006-11-07 TB0,COM0
市井の声を聞いて改良 [ アウトドーア・環境 ] / 2006-11-06 TB0,COM0
歌劇の谷町、西東 [ 文化一般 ] / 2006-11-05 TB0,COM0
ワイン三昧 第五話 [ ワイン ] / 2006-11-04 TB0,COM0
欧州からみる和食認証制 [ 料理 ] / 2006-11-03 TB1,COM4
今言を以って古言を視る [ 暦 ] / 2006-11-02 TB1,COM0
断末摩の涙の日の様相  [ 音 ] / 2006-11-01 TB0,COM0
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皮膚感覚のフマニタス

2006-11-29 | 雑感
(承前)豊かで無い文化を論う事は易い。しかし、豊かな文化を具象するのは難しい。なぜならば、具象化できるものは豊かさそのものではないからである。

例えば、高級自動車の評価において、移動時間を縮め経済効率を高めることは重要ではあるが、これは豊かさとは無縁である。確かに、馬車を使っていた時代からすると時間辺りの移動距離は飛躍的に伸びて、遥かに安全快適に旅行出来るようになった。しかし、こうした文明の進化は必ずしも豊かさと認知出来ることだけではないことに多くの人が気付いている。

それは、豊かさ若しくは繁栄と云うのは、一義的に感覚をもって感じる文化に含まれるものであるからだ。自動車においても移動時間と居住快適性の反比例する二つの要素が、その質と量を形成している。

文化を感じるのは、皮膚感覚であり、視覚であり、聴覚であり、味覚であり、臭覚である。それらが脳によって総合されたところに、文化が存在する。

故に、文化的な豊かさの追求には、ラテン語における「フマニタス」が基礎となり、ルネッサンス以降は詩人ペトラルカに代表されるようなそうした思潮において、パイデイアと呼ばれるような教育が重視される事になる。そもそもその語源は、ローマの賢人マルクス・トゥッリウス・キケロの「フマニタス」において、動物とは異なる人間の可能性と限界を意味したと云う。

個人の覚醒と自立を促すフマニスムは、社会政治的にも中世の教会からの自立と為政者からの解放へと連なり、それは啓蒙主義へと引き渡されて、富が追求されるようになる。そこに、消費を基礎とした経済と広義の環境を優先させた文化の葛藤が生じる事になる。

そうしたなかで、我々覚醒した近代人はルネッサンス以前へと逆行することは不可能であり、何人も同じ過ちを繰り返す必要は無い事を学ぶ。感覚を磨いて、自らが置かれている環境に気を巡らせて観察しなければいけない。そこにあるのは、ジェンダーの研究者等が論ずるような全身で感じる文化であるかも知れなく、もしかすると冷静沈着な知的に研ぎ澄まされた文化であるかも知れない。

肉体とその情報処理が全てであることには、少なくとも相違無い。抽象的な処理も具体的な五感の経験を基礎としている。言語はただその一部でしかないと云える。

先日、北ドイツで学校ジャックがあったようで、嘗て学校で発砲大量銃殺事件などが重なったので武器だけでなく、今度は残酷なコンピューターゲームが禁止された。人肌感を失い、人間性を未発達にするゲームソフトやアニメーションは、その無感傷のサディスムとマゾヒスムと云う点で、国際証券市場の投機行為に等しい。

人間の六感の衰退は、人々を市場システムの中で奴隷化して教育する。現在の殆どの社会問題の元凶は、何も百年近く前の社会学者の言葉を紐解くまでもなく、如何に文化的に、そのものを乗り越えて解体して行くかが課題となる近代社会の特質にあるのは云うまでも無い。(終わり)


写真:先の大戦中プロパガンダとして使われた石炭自動車とシュマッハーがルマンで乗ったマクラーレン・メルセデス。

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自尊心と公共心を駆逐

2006-11-28 | 雑感

(承前)食事会も終わり、帰りがけに立ち話をしていると、秘書研修をしている女性が、秘書の対人の接し方を学んで来たと話してくれた。敬語に絡んで一度話題にしたが、他者との位置関係を上下に別ける封建主義的な態度は、だれなりと個人的に接して仕事を進める事が出来る環境を阻害する。彼女が云うように、「研修を受けて世界有数の企業社長と普通に接する事が出来る様になった。」というのは正しくて、官公庁であっても命令系統は組織の中での役割でしかない。そうした基本的な姿勢が確立されていないと、組織の中で肩書きの権勢をもって、対人関係を築くことはハラスメントでしか無くなる。

前述の日本通の人は、「日本人ほど機械と合体している民族はいない」のではないかとして、「電車の中で両手で携帯電話を操作して、右から左へとデータを転送しているのを見た。」と云うのだ。なるほど、右手から右腕を通って、肩から脳へと回り、左肩から左へと情報が伝達されるのかもしれない。自己を他者とアシミレーションして滅却することが、組織の中で歯車として巧く機能するコツかに見えるが、そこまでこればチャップリンの映画「モダンタイムス」の域に達するにはもう一息である。

資本家が投機的に経済投資をするのは理解出来る。それでも、マンハイムのベンツ合資会社から、カール・ベンツは手をひいた。製造業者が、特に機械工作など分野においては、現在でも上場して広く資金を集めることなく世界に冠たる製造者として君臨するドイツ中堅企業の気概がここにある。投資家は、なにもハイエナと云われるようなファンド集団で無くとも、製品の品質よりも何よりも当然ながら利益率を追求する。つまり投資を集うことで、ヒューマニティーに基礎を置く物作りの精神は終わりを告げ、そこには自尊心も公共心も存在しない。

そうした効率や利潤の飽くなき追求が、教育や文化を駆逐して、本来あるべき豊かな繁栄は、バビルの塔の瓦礫の上に積み上げられる事になるのである。それでは、豊かな文化とは一体どういったものであろうか。(続く)


写真:合資会社はダイムラー社と合併して、上質で売れる車を作る続けた。アウトバーンが建設されて、高速で安定して走れる車が製造されていく。写真は、その第二世代となる1936年製造のカブリオーレである。
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嫌気がさした衣装

2006-11-27 | 雑感
カール・ベンツの誕生日であった。誰も事前には知らなかった。偶々この日に、昨年移転されたラーデンブルクの博物館を見学した。

もともとマンハイムにて、ベンツ合弁会社としてやっていたのに嫌気がさして、近郊のラーデンブルクに篭って好きな車の製作に集中したようである。マンハイムでは、後にシュツッツガルトのダイムラー社と合弁するまで1200台の自動車が生産された。其れに対してここでは、同族会社として特別な自動車や部品が製作される。結局生産規模は自動車300台であったが、なかには名車と云われる物がある。

その中でもプリンツ・ハインリッヒと名づけられた1910年産のツーリズモは、四気筒ダブル点火で、100馬力を確保している。ここに遺志を引き継いだ技術屋の魂を見る事が出来る。試作者を走らせたマルセデスの覇気に答える男気があったのだろう。

見学を終えての食事の席で、ゲーテとシラーの比較から、市民革命、フランス革命の話へ、またヘルダリンからビュヒナーへと話は移って行った。日本に詳しい男性は、「こうした我々が勝ち取った封建主義から民主主義へと進んだ文化が日本では、開花していないのではないか。」と疑問を呈する。

先日日本からやって来た音楽学生がヘンデルを知らなかったと驚いていたが、少なくともピアノかヴァイオリンか、はたまた管楽器かを練習していればかならずしや出てくる課題曲の作曲家だと思われるので、不思議なこともあるものだなと思った。

先日来のヴィーンの楽団コンツェルトムジクスのメサイア日本公演が大変好評に迎えられているのを聞いて、なるほど西洋音楽の需要においても、音楽技術が他の科学技術や社会機構などと同じように、合理主義的な成果を期待され続けて要求されていたのに違いないと思った。その結果、永く注目されなかったその文化の真髄を今改めて目の当たりにする現象が決して珍しくは無いと云うことでもあるのだろう。

あまりに高踏的で気高い芸術も、庶民的で懐の広い芸術であっても、そのどちらにも共通するヒューマニティーとは、少なくともルネッサンス時代までは立ち返らないといけない。そうした知識的な教育は、明治以降再三に渡ってなされて来た訳であるが、前述の氏が察するように「身についていない借衣装」としても強ち間違いではない。

衒学的な知識から、現代の生活観へと繋がる智恵へと、芸術分野に限らない天才願望や賞賛から偉大な行いや精神の評価へと、価値観を強化していかない限り、そもそも文化や教養などは無用である。そして、誰も衣装を脱ぎ捨てて裸で歩くことはしないのである。(続く)







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再び安全なゴム使用の話

2006-11-26 | 雑感
冬タイヤを散々迷った挙句新調した。まだ少なくとも一シーズンは使えたからである。古いタイヤを売ろうと調べたが、結局は面倒なので断念した。

自動車メーカーの支店が奨めるタイヤをテスト結果などと比べながら注文して、使うのが通常なのだが、前回の場合は事故のためか、保険で支払われたのでタイヤを選ぶ余裕が無かった。

そのためでは無いが、初めからそのタイヤに不満があった。既に、ここでも調べて見ると何回も苦情をこぼしていたが、何よりも車内の走行音が、エンジン音のような感じで不快であった。走行感は、ただの快適感を云うのでは無くて、路面の状態を把握しなければ行けない雪道や凍結面において十分に戻ってくる情報が小まめに入ってこないと、不安が募る。

結局同じメーカーの商品となったが、前回のものとの差が出なければいけないので、マイスターとは何度か電話等で打ち合わせした。どうも、当方が指す苦情は、判っていたようで、前商品が悪いとは認めなかったが、新商品はパターンが異なるので絶対修正されると確認を取った。

通常はこうした、微細な苦情に対して現場のマイスターが把握していることは無いと思うが、態々確認作業を行った様であった。流石にその甲斐があって、雪上での走行はまだであるが、新製品の走行音を含む走行感の秀逸を得る事が出来た。

こうした問題は、エンジン音を抑える車両の開発の末にタイヤのパターンのみで大きく差異が出ることで、今更ながら驚かされる。路面と車両の駆動系を結ぶ唯一つの部分なので当然となのではあるが。それらは、パッシヴセーフティーとして全て走行の安全性に関わっているとするコンセプトが存在する。

Aクラスメルセデスを久しぶりに借りた。オートマチックが七段変則になっていて、滑らかさが増していた。車体のバンクやふわふわの米国車のようなパワーハンドルは良くないが、開発当時よりも他の車種のラインナップが揃い、この車も高級乗車感を追及するようになっているようである。確かにメルセデスらしい走行感は増したが、他メーカーのものとの競争力は上がったのだろうか?しかし、足回りは今一つなで、燃費があまり良さそうでないのには失望した。

本日は、創始者カールベンツの住んだラーデンブルクの博物館を見学する。



参照:
季節間の溝の深さ [ 暦 ] / 2006-10-31
完全自動走行への道 [ テクニック ] / 2005-12-02
バイエルンの雪景色 [ アウトドーア・環境 ] / 2005-11-22
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ゴム使用を倫理的に拡張

2006-11-25 | 生活
避妊ゴム器具の効用が、ヴァチカンの国際専門部会で討議されている。この作法に関しては、1968年のエンツィクリカによって定められている。それによると精子の受け入れを妨ぐ器具の使用は性道徳的に禁止されている。なぜならば生殖行為の根本的表徴は、後継のためにはなされないからである。

なるほど、精子の侵入を防ぐのではなく、受精卵の着床を防ぐ目的で、カトリックの女性が避妊器具を使うのが一般化している根拠はここにあるのである。あまり科学的に理のある解釈とは思われないが、少なくともそれらしい生殖行為が完結すると云うことでは人文的に理があるのだろう。

前教皇パウル二世も「人類の存続について」においてこれを踏襲していた。そしてアフリカのエイズやゴム器具にもこの立場から、明確な禁止を謳わずに現実的に対処していた。

時の大司教ラッチンガーは、教会の固定した人々の性の営みへの見識が非人間的なものと考えられるのを嫌ったとされ、1968年のエンツィクリカを「あまり役立たない」と言明していた。反面、アフリカにおけるおける対エイズ政策はゴム器具無しの伝統的道徳の強化を命じていた。

そして、今回の会議のメキシコのバラガン大司教と米国のレヴァダ大司教のもとで倫理的に審査され、エイズ予防を重要視してゴム器具使用が宗教学的に倫理的意味付けされるであろうと伝えられている。

先ずは、夫婦間でエイズ感染を防ぐために、または伝染を防ぐための緊急性がある場合の使用が、大司教や司教に神学者を交えて真剣に討議されると云う。

ドイツのギムナジウムでは、性教育に付随して幼気な思春期初期の少年少女たちにゴム避妊器具が配られるということを良く聞くが、これは新教的な精子へのプロテスト行為なのだろうか。色々とありそうだが、ご批判を受けても仕方ないので、コメントはこの辺りで差し控える。
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大芸術の父とその末裔

2006-11-24 | 
ピアニスト・アルフレード・ブレンデルは、この十年間で無かったほど、元気そうであった。ミスタッチの有る無しではなくその気力と云い、その集中度は充実振りを示していた。当年七十五歳であるから、現代では高齢とは云えないが、体調によって大分違ってくるのだろう。

ハイドンのニ長調のHob.XVI42ソナタは、チェンバロではなくピアノのために作曲されているとされる。ニコラウス伯に嫁いだエステルハージ家の王女に献呈された二楽章三曲の曲集である。

テーマと変奏に、月並みならば和音が積み木崩しのように潰されるアルペジオが、通奏低音のように繰り返されるでもなく、累積される響きで塗りつぶされるでもない。左手から右手へと受け渡されてかけ合うのは、空間的な音楽的視界の動きを表わす以上に、そのフレーズの繋がり具合からあたかも小枝が風に揺らぎ枯れ葉が舞い上がるような純音楽的な精神の飛翔そのものである。また終楽章の半音階列がプレリュード紛いのように無為を示す事もない。あくまでも音楽を、その動機の扱いと特徴を個性として尊び、明確に奏されるこの繊細さは如何ほどのものであろうか。この曲は、その成功から弦楽三重奏曲としても出版されている。

それは、また後年のイングリッシュソナタの一品ハ長調Hob.XVI52の曲において、ヴィーン古典派の突出を示しているかのようである。つまり、その後の西洋近代音楽の伝統となるソナタ形式における各々の部分のキャラクター付けは、ここでの動機の展開や発展における妙味であり、調性的律動的探索の時であり、ユーモアに富み且つ知的な遊び心に満ちた、ヘーゲル的止揚であり、そして精神の飛翔と智の遊戯からの帰還である。疾風怒濤の嵐を越えて啓蒙精神は、ビーダーマイヤー風の生活感に引き継がれ、ブルジョワージーの教養となっていく。

それにしても、作曲家ハイドンのデリカシーと職人的な技巧の秀逸、趣味の良さとその知的な振る舞いは、聴き上手の貴族に半生をお抱えされた最後の巨匠のそれである。この父ハイドンを継承する者が絶えたのは近代の社会や歴史に証明される。

例えば、この夜休憩前に演奏されたシューベルトのト長調D894のソナタでは、そうした客観から主観へと音楽的視点が大きく移動していて、物理自然の中に存在していた素材があたかもどこかから作曲家の指を通して編み出されたかのような文字通り人文的な姿態を見せる。その精神と形態こそが作曲家兼評論家のロベルト・シューマンがこの曲をしてファンタジーソナタと名づけるロマンティックである。そこでは、大きなダイナミックスの中に音や響きの肌触りが認識されて、既にオーストリア交響文化の粋を現実化している。そこに継承される音楽こそが芸術音楽でそのものある。民謡風な歌心や趣に、若くして世を去った作曲家シューベルトの面影を見る事も出来るが、その庶民的な滾々と湧き出る感性と肥大化された楽曲を思うと、さらに長生きをしていたらと惜しまれる。深深として且つ引き締まったバスの響きに硬質な旋律線を対応させ、弱音の薄い響きにまろやかな高音を這わせたりと、手練手管な最高域のピアニズム的演奏実践をもって、シューベルトの音楽は一点の曇りも無いロマン的心像風景となる。

休憩後にモーツァルトの晩年の作品が取り上げられた。ハイドンセットを書き上げた当時のファンタジーハ短調と、後年友人の死に際して書き上げられたイ短調のロンドである。ある種裏寂れたと云うか、天才少年が大人になり、その時代の難しさにバロックなどを研究しながら、純音楽的な時代の変化に対応しようとあがいてた時期であったのかもしれない。すくなくともここにあるのは、高貴に飛翔した精神の芸術ではなく、地に這い蹲るような大変主情的な世界である。成果を上げる舞台音楽での情感の吐露の深みに至らなかったこの作曲家の数多の作品は、上の偉大な芸術の系譜には含まれない。そして、予期されたように若くして長い芸術家の寿命を終える。

既に故人となったヴィーン出身のピアニスト、フリードリッヒ・グルダがこの曲を得意としていたが、演奏前に「ある種の感情は音楽でしか表わされないものであって、時代や国境を越えて伝達される」と演説している。音楽文化の伝統の知的な部分への反発から、感性の世界で活動を試みた嫌いもあるこの演奏家がこうした発言をして、ジャズとのコラボレーションを試みたのは理解出来る。しかし、そうした主知的な要素である形態と素材無しに音楽美は存在しない。オーストリア交響文化はそれでは成立しなかった。アーノルド・シェーンベルクの云うような「ドイツ音楽の優位」は存在しなかった。

アルフレッド・ブレンデルの楽器は、こうして継承されたオーストリア音楽文化を、明確なアーティクレーションやペダルを使った弱音や共鳴する響きで、現代の大ホール(今回は、数え切れない氏の演奏会体験の中でも音響的に最も精緻を極めた演奏会であったことを特記しておく。)の隅々の聴衆にまで漏れなく伝達する。明晰な和音の底辺を響かせたり多声的に 扱ったり、自由闊達で奔放ながら小節のテンポを維持しながら、上声部の驚くべき微妙なタッチとフーレージングの妙味に、その音楽文化の真髄を聞かせる。ハイドンの作品におけるここに来ての特筆すべき演奏実践は、現代欧州の第一人者である音楽家の辿り着いた境地でもある。

それは、近代精神としてのヒューマニズムの中欧における音楽的発露である。ユーモアの表現として、技法を越えてそれが音楽的に具象化される時、オーストリアの交響文化を中心とする近代音楽が商業化されてその終焉にある今日を如実に反射して映し出す。



参照:
ハイドンのユーモア
音楽の「言語性」とは?(9)
音楽の「言語性」とは?(10)
音楽の「言語性」とは?(11)
音楽の「言語性」とは?(12)
Musikant/komponistより)
そのもののために輝く [ 生活 ] / 2006-11-13
2005年シラー・イヤーに寄せて [ 文学・思想 ] / 2005-01-17
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理想主義の市場選抜

2006-11-23 | ワイン
ドイツ人は観念的で理想主義者なのか?先日ワインを取りに行くと、国内向きのワインと輸出向きのワインを変えて醸造していることを確かめた。

中堅の醸造所であるが、米国や極東を中心に海外には独自の売込みをしている。其処のワインについて、嘗て加糖して糖価を上げるズースリザーヴをしていると指摘を受けたので、どうしても確かめたくなった。

なぜならば、先日も書いたが温暖化現象でそのような必要は、高級醸造所では今時考えられなくなった醸造法であるからだ。該当のワインは国外向きで国内では販売されていない。リッターワインとの比較などから価格設定が出来ないからであろう。それだけ質が低くて、価格が割り高と云うことでもある。

今回、そうした商売の形態を直接醸造所で確かめて、改めて「ドイツワインのマーケッティングは間違っている。不味い砂糖ジュースのようなワインや蜜のような亜硫酸含有アイスヴァインを国外に売りつけている。」とした意見を久方ぶりに思い出した。勿論これらは、不凍液を混入させたような毒ワインでは決して無い。

先方にも理屈はある。つまり、「ドイツ人は理想主義で、添加されたワインや混ぜものワインに抵抗がある。だが外国人は誰もそんなことを考えない。」と云うのだ。

こうして否定してしまえば、何でもありで、限界は無い。コーラ・ワインを造れば良いではないか。そうした質のワインならば、伝統的な栽培醸造に拘るドイツワインなど必要が無い。エコワインの精神にも反する。エコ野菜などにはあまり興味がないが、化学調味料で味の調えられたワインなどは金輪際一切飲む必要が無い。

こうした傾向が改められない限り、外国ではドイツワインなど飲むものでは無い。つまり、国外でまともなドイツワインを入手しようと思えばそれなりに探さなければいけないと云うことである。派手に商業活動をしている大量貿易品ドイツワインの、特に瓶のラベルの製品表示が簡素で分かり易いものには注意しろ!

先日触れた雹の被害は二キロメートルほどの距離内で起こったので、2006年産は意外な地所が比較的良質な可能性があるということであった。
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神をも恐れぬ決断の数々

2006-11-22 | マスメディア批評
親中共の立場を今でも繰り返し発言するゲルハルト・シュレーダー前ドイツ連邦共和国首相。氏の新著「決断の数々-政治の中での私の人生」が25ユーロと高価雑本に拘らず好評発売の様である。特にこの前首相ファンへのクリスマスプレゼントに格好のアイテムである。

中国が、昨日今日で我々が苦労して勝ち得た人権とか民主主義的価値を、そう簡単に共有出来るとは思えないとして、孤立させることなくその経済的価値を引き出して行くのがこの政治家の持論である。

コソヴォ紛争におけるベオグラートの中国大使館誤射?事件の直後1999年に初めて北京へと謝罪のために韋駄天帰りをして、中国で一躍顔となったのが北京との個人的関係の始まりであろうか?現実的対中国政策とは、それなりに実弾が飛び交う密接な関係を指すのであろう。

同著書から最も興味深い、九月十一日後とイラク戦争を扱った章を読む。紐育タイムス2004年5月26日の記事をして、これで私の考えが正しかったことを示していると全文引用している。

つまり、「2002年の何時ごろからか、ワシントンのイラク侵略への口実が、反テロから大量破壊兵器へ変わったのか、私は分からない。」とする一節で、これは我々通常の意識を持った世界市民誰もが不思議に思っていることそのものなのである。

この著書では、まだまだ口外出来ないことがあるとしても、ベルリン政府が不可思議に思っていた事実と後に述べられている九月十一日後の動きを読むと、我々の受け止め方と全く変わらないことに驚かされる。

ベルリン政府は、テロ事件直後から同盟国として親密にワシントンと連絡を取りながら且つ、「1989年以降、国家の完全主権を取り戻した対等の同盟国として、軍事力を含む全ての援助を惜しまない。」として国連管理の条件で2001年11月8日アフガニスタン派兵に踏み切った歴史を忘れてはいけない。

コソヴォ紛争の時もそうであったが、初の欧州外への派兵には出血が伴った。しかし緑の党のフィッシャー外相を含む政府内には、同盟国の危機に際する軍事行動への疑問は皆無であった。

その後、アフガニスタンのタリバンのアジトでVIDEO等が押収されて、ハンブルクを拠点としたアルカイダが指揮する実行犯グループの軌跡が知れることから、ベルリン内務省は安全維持から一歩踏み出して対テロ作戦を繰り広げるに至る。この費用は、三十億ユーロにのぼり保険税やタバコ税から徴収される。

そうした状況で2002年1月の有名な「悪の枢軸」演説が小ブッシュ大統領によってなされる。この時点でハッキリと、米国はイラクへと 先 制 攻 撃 をかけると感じたと云う。そして、シュレーダー首相はワシントンへと飛んで意見を交わすが、ベルリンへの帰還の機上「米国の態度に曖昧さを感じた。」と思い起こす。

そして、翌日にはミュンヘンでブッシュ政権のブラックナイツの一人ポール・ウォルフォウィツ国防副長官とジョン・マッケインが、「同盟国の判断如何に関わらず米国は決断する」としたので、ベルリンの政治的決断の方向は決定的となって行ったようである。

その後、米大統領が5月にベルリンを訪問して、市民の多大な抗議行動から厳戒態勢となるが、連邦議会でのゲスト演説では驚くほどイラク侵攻への態度を軟化させた。そして、滞在最後二日の昼食会などでは、サッカーワールドカップやらの問題の無い案件の雑談に終始していたとする。

そこで、シュレーダー前首相は、小ブッシュ大統領を指して、「その後も何度となく公の場での様子を見たが、神の前に慄くような怯えて正々堂々としない人間性は何時も変わらない。」として、ベルリンで二人だけで接した経験からも、米国とその大統領には親近感を持てなくなったと述懐している。

あの自信の無さそうなおどおどとして浮ついた子供のような大統領の悪霊は、知的新保守主義者と宗教的原理主義者の影響下にあるとしている。欧州からすると米国人は向こう見ずな少年で、その大統領とプレスリーごっこに興じる極東の首相は思考停止状態のただの子供にしか映らない。

それにしても、こうしてみるとG8会議中アンゲラ・メルケル首相の肩を突然揉みにやって来て顰蹙を買った大統領のために、独の対米方針が定まってしまうというのが恐ろしい。

米国政府の政教不分離をイスラムの政治体制と共に非難して、「人類の進歩にそぐわない」としていてこれは快い。この書籍が英語に訳され、各国語に訳される頃にはブッシュ政権の後片付けや同盟国への政治責任追及はどれぐらい進んでいるであろうことか。
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古くて新しい赤い賄賂

2006-11-21 | ワイン
先月パリ市の当時のシラク市長が集めたワインが競り落とされた。五千本の規模で、総額九十六万ユーロの売り上げとなった。一本平均192ユーロとなる。

最高額は1986年産ロマノコンティで、英国のワイン業者が五千ユーロプラス15%で競り落したことは知られている。

次に高額なのが1976年産のボルドーシャトーワインだそうで、一本四千ユーロで百本中国本土の業者が競り落としたようである。

なにもそれは、最高級ドイツ車の最も重要なお客様中共の今日の経済力を示しているだけではない。この記事を読んで、中国通は直ぐにその意味が分かるようである。

つまり、中国でも「暴髪戸」と呼ばれるように成金趣味の、何でも良いから古くて話題のワインに価値を付けると言うばかばかしい下衆で俗物趣味が横行している。ただ、それだけならば馬鹿者と笑い飛ばせるのであるが、その実態は遥かに底深い問題を含んでいるようだ。

中国の業者が喜んで誰も知らない1976年ヴィンテージに高値をつけて、成金趣味を吹かしているのではないことは当然であろう。さて、このワインを中国へと持ち帰ると、文句無しに売れるのである。

なぜかと言えば、話題になったからであって、超富裕層がワインコレクションに加えると言うだけではあまり無いようだ。これらの馬鹿なワインを中国業者から購入するのは何もそうした 良 い 趣 味 のブルジョワー中国人とは限らない。きっと、中国業者は日本企業などへと売り歩くだろう。

なぜならば、こうしたワインこそ北京や上海の党高級官僚へのお土産として最適な賄賂であるからだ。
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エルザの夢の無い決断

2006-11-20 | 文化一般
いよいよ、ベルリンドイツオパーの閉鎖は時間の問題となって来たようである。なにもブーレーズやイスラム過激派がビスマルクアレの劇場を爆破する必要はすらなくなった。アンゲラ・メルケルがドイツ連邦としてこれ以上の援助をしないことを、ベルリン市長ヴォヴェライトが確認して、今後三年間の音楽劇上運営が試される。

ウンターデンリンデンの劇場に続く、コーミッシェオパーの集客率に差を空けられた、旧西ドイツを代表した劇場の存在価値は、著しく低下している。芸術面で見ると、詳しく調べたわけではないが、メシアンの「アシッシのフランシス」やその他の二十世紀オペラが幾らか話題となっていたぐらいで、今更クラッシックなレパートリーにおいてはウンターデンリンデンの歴史の前には影が霞む。また、コーミッシェオパーは、嘗てのクノールオパーのように音楽劇場として斬新な公演をしていると見聞きすると、この面でも到底及ばない。合理的な構造の西ドイツが誇った現代的な劇場は席のクラスに拘らず舞台を堪能出来るとして有名だったが、そうした民主主義的な体裁を問う西側のショーウインドーは遠の昔に叩き壊された。

むしろ、イデメネオ騒動ではないがレパートリーが負債となっているとすら書かれ、首都から片田舎へと逆戻りしたボンの劇場に倣ってスター歌手の削減から取り組むべきと言われている。

個人的に予想すれば、国立劇場は観光客を中心に質の高い保守的な舞台を旧東独の時のように追及して、ガーシュインやバースタインなどのミュージカルを半分ほど入れていかなければいけないであろうし、音楽劇場の方は盛んに実験的な試みをして世界を引っ張って行かないといけない。双方がある程度商業的に成功する事を見越して、現ドイツオパーのアンサンブルは双方のアンサンブルに各々別けられて再配置する事になるのであろう。

ドイツで最も成功して伝統的なミュンヘンのオペラが、高額の入場料にも拘らず集客率が高く、人口当たりの上演客席数が遥かに多いに拘らず、一席当たりの公的助成額が85ユーロと低い。これをベルリンの国立劇場の144ユーロ、ドイツェオパーの165ユーロと比較するとその収益性が明白である。こうした違いはそもそも、その都市の文化的な差異であって、急に是正する事も不可能であり、伝統芸能であるだけに伝統の意味は大きい。

さて、経済的事実を見て行くと、一千七百万ユーロの経費節約で九千九百万ユーロの公的援助で三年間を乗り切っていかなければいけないということになっている。スポンサー等の私的援助があったとしても世界に冠たる特徴を持ちえていない事が、命取りとなりそうである。

先日、キエフ出身の指揮者ヴォルデマール・ネルソンが68歳で死去したようだ。バイロイトでデ・ヴァールトが放り投げたクッパー演出の「ローエングリーン」を成功裏に導いて一躍西側で有名になった。ドーナーニ時代のハンブルクの日本への引越し公演でも、土台が聞いた悠々とした情念的な音楽を聞かせた。当時のハンザ都市ハンブルクは「影の無い女」の公演と共に音楽程度の高い劇場であった記憶がある。
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已むを得ないお買物

2006-11-19 | 文学・思想
なんとか記念日と云うのがあるとすると、一昨日などはちょっとしたそれかもしれない。至極個人的なものをそう呼ぶのである。その日、ネットで注文して手にした書籍は、片や三十年近く関心を持っていたタイトルであり中身であり、片やここ一年ほど気になっていたタイトルである。後者に関しては次の機会に述べる。

前者のタイトルは、トーマス・マン著「魔の山」である。永くその本を入手することなく、立ち読み程度にしておいたには理由がある。これだけ世界中で読まれている本になると、何処でどうしてこのタイトルに出会ったかの覚えは無い。ただ子供時分に応接間の壁面を塞いでいる分厚いビロードのカーテンの裏に潜り込んで、ガラス張りの引き戸の裏の書庫の中へと入り込み、其処で物色した世界文学全集のなかからその大きな本を取り出した記憶がある。

その後、自分の手元において、どれぐらいまで読み通しただろう。印象に残っているのは、サナトリウムの場面であり、空咳の曇った響きや陰気な印象である。おそらくそのときに完読出来なかった原因は、それらの場面の鬱陶しさと登場人物セッテムブリーニの抽象言語がちりばめられた長い台詞ではないかと記憶する。そして読み手が求めるドラマと情感に欠けていたからに違いない。

山の中のサナトリウムの風景や空気を、山岳地帯への憧憬からどうにか読み取ろうとしていたことも事実なのだが、今改めて考えてみると室内の風景とその外部環境とが一向に結びつかなかったように思われる。その雰囲気などは、実際に見学が出来る小説の舞台となったその場所へ行くと云うだけでは分からない。なぜならば、読み手の様々な記憶や体験の寄せ集めが、その空気感の疑似体験であるからだ。

それは、作者トーマス・マンの創作動機と云うか過程でのまさにモンタージュ技法を使ったばらばらの要素を寄せ集める創作活動に依拠している。こうした素材の集積は、形式を与えられて、初めて意味を持ちはじめる。

この小説の会話部分では、特にそうした意味を持って、その環境の磁場や電場に影響された風紋のようなものが出来上がっている。嘗て、こうした部分を読んだときに、見えなかったのがこの風紋のような流れであった。そして、嘗てはそのタイトルから、山岳地帯につきものの重力場である高低ポテンシャルエネルギーしか窺い知れなかったのである。

その当時は、それが言語によるつまり翻訳による解釈を通さなければいけない不都合だとは感づいてはいたのだが、具体的にその「場」の光景を知る由も無かった。多少なりともドイツ語を学習するようになると、こういった大作にも興味を持つ。しかし、同じ作家の作品でもなかなか手に取るのを控えていた作品である。

粗三ヶ月前に、夏の雪に関する引用を読んで、全体の中での位置付けなどが予想出来た気持ちの良さもあり、一挙に全体の見通しが開けて形式上のポイントも見えた気がしたのでどうしても確かめたい気になった。

そして、その該当の一節の含まれる第四章一部「已むを得ないお買物」を約千ページの中から見当を付けてぱらぱらと頁を捲りその四行を見つけると、またそれ以上に全体像が開けるのである。こうした作業こそが、小説や物語の速読のコツでもあるのは、漸く数年前に初めて日本語の小説でコツを会得した経験から判るのである。

その章の物語の運びも、主人公ハンス・カストロプと従兄弟ヨアヒムとのディアローグへと進み、セッテムブリーニとの絡みになるあたりは構成が明晰で大変に理解し易い。また、問題の長い台詞は翻訳の解釈を経ずに「口減らず」の様に流れるものであって、ユーモアと機知に富んでいる。決して解析しながら退屈するものでは無い。

あの冗長でありながら軽みのある台詞のテンポの良さが狂言回しのようになっていて、ゲーテの「ファウスト」などの大見得を切る長い台詞とは違い、その内容に拘らず上擦って滑る饒舌と青年に生まれる言葉の対照がこの大作の魅力となっている。まさに嘗て翻訳されたものが退屈で手ごわいと思われた部分こそが、エンターティメントとなって且つ風刺にすらなっているのに気がつく。その点では、翻訳された文章よりも映画化された演出の方が正しく再現出来ている可能性が強い。

空気感や光、音以外にも五感に訴えるものが予想以上に多い様子で、第六感に訴える場の中で、先ずはその辺りに注意してみたい。文章のテンポ感からして、流れる台詞に対して、そうした行の方が遥かにここで云う已むを得ない「場」を形成しているように思われる。
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店先で花開く四方山話

2006-11-18 | 試飲百景
日常消費のワインを取りに行く。また六リッターほど別けてもらうのである。先日の温暖化の話などをする前に、先客がいた。カールスルーへからのお客さんであったようで、高級ワインを二千五百ユーロほどごっそりと買い付けて、その木箱八箱ほどの山は、男衆が週明けに取りに来るらしい。どこかの奥様であって、息子さんが醸造所に電話をしてきて、物色しに来ると当日の朝電話があったと言う。

なるほど、アドヴァイザーのお勧めに従って、僅かな試飲の後に選りすぐった様であった。アドヴェントからクリスマスにかけて多くの客人を呼んでパーティーをするのだろう。それにしてもドイツ最高級のグランクリュのみが繰り出されるパーティーなどは、残念ながら想像外である。外交筋の例えばベルリンでの明仁天皇の晩餐会でも、これほどのワインは出されない。

当然のことながら個人や会社絡みのパーティーの方が選りすぐられる可能性は無くはないが、会が大きくなるほど多種多様な人種が集まるので、ワインの選定は難しい。勿論料理に合わせるのが先決ではあるが、人数が増えれば好みによっても二種類は用意したい。

また、食事に高級ワインを出すとすると、どうしてもその価値を十分に知らしめることは難しい。しかし、その高級感の主張よりも料理が良かったと思わせる方が重要であろうとも想像する。反対に、ワインに集中する事は料理の味覚にも集中させる事になるのでかなり高級な食事会となる。

英国もクリスマス前のアルコール買い付けははなはだしく、強いリカーが高く山のように積まれている大きな倉庫が一挙に空っぽになると言う。リカーをダースで買って行く英国人には恐れ入る。

グランクリュとプリミエクリュを一種筒試飲する。2005年産のものはまだ開いていないが、大きな期待が出来る。プリミエクリュは、夏前と比べると大分変わってきているが、香りが丸まった分、逆に閉じた感じがするのが面白い。味の広がりがこれから出てきそうである。グランクリュを何れ木箱入りで買ってもよいなとは思うが何時の事になるだろう。

こうした高級ワインは、お呼ばれで出会うのも楽しみではあるが、慈しみながら楽しむ方がどんなにか素晴らしいか。以前は、ダース毎で買い付けしていたが、最近は目星を付けて、よいところを必要な量だけ購入するようになったので、余計にそのお気に入りの一つ一つのワインの熟成や経年変化に注意を働かすようになった。頻繁な買い付けと試飲は、何よりもその様子を観察するために最も参考になる。

こうして今年の収穫に関して、あの6月15日の突然の霰に被害について聞いた。やはり果実の表面が傷ついて表皮が破れやすくなったと言う。8月の寒気も災いして、収穫量はかなり落ちる。例年の三分の一ぐらいと言う。手摘みのセレクションが十分でないところと、高級ワインとの差が大きく出るだろうと予測している。(試飲百景)


写真は2006年6月15日16時撮影
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温暖化への悪の枢軸

2006-11-17 | マスメディア批評
パシフィックの八カ国をこういう風に呼ぶらしい。米国のブッシュ政権の音頭取りで、京都協定への履行の必要性を説いたと七百ページに及ぶ報告書に対して、たった一ページの僅かばかりの言葉によるパシフィック計画書を提出した、ナイロビにおける世界環境会議に参加した枢軸国のことである。

その国家の殆ど半数は人権すら守られていないのと同時に、世界人民の成長と富を固守すべく、経済と資源消費の半分以上を担っている国々なのである。アンチ京都枢軸連合で経済的見地から理性的に判断するのは、オーストラリア、韓国、中国、インド、日本である。報告書を出したニコラス・スターン卿によればそれらは最も経済的問題の多い諸国であり、それ自体が世界市民の生活上最も脅威的と定義される。

なぜならば、東京、上海、紐育、マイアミ、カルカッタなどは先百年に何度も海水上昇による陥没の危機を向かえるであろうとされているからであり、予期される破局で二億人以上が危険にさらされる。

悪の枢軸の首長、米国は世界の20%経済を動かしているのと同時に四分の一の二酸化炭素を排出している。その枢軸国のプロジェクトにはセメントや製鉄などの各産業の技術的取り組みや核エネルギーの合理化や事務所等での低エネルギー化が示されている。それは、昨日今日の話題でなくて散々聞かされて来た、御託を述べる米国の公式見解だと言う。つまり米国は、世界協調して取り組む最も大きな危機(トニー・ブレアー、アンゲラ・メルケル)に対して、テロ行為で戦線を撹乱をしているとする。そこでは最新号のサイエンスに掲載された米国の野心に満ちた新公式や米国の四人のエネルギー専門家のマニフェストが、最新のオゾン集積値と傾向に攻撃をかけているのとしている。悠長に十年も待つことは出来ないのだと言う。

結論は、米国を首長とする枢軸国は、消費生活を見直す欧州の生活意識を粉砕すべく、グローバリズムの推進と技術の進展による経済構造は地球温暖化を助長するどころか、それによって食い尽くされる可能性があるとしている。

閉会後に再び取り上げられることにはなると思われるが、この記事は大変辛らつな批判である。しかし、マクロ経済を脱消費生活から論じる土台に欠けている。西欧が如何に脱消費を図ろうとしても、中国などの無駄の環境破壊を容易に贖うことは出来ない。

この話を昨晩した。「インド人が全てクーラーを持つようになれば」と考えるだけで絶望的である。日本どころか中国南部もそのようになって来ている。この三十年ほどの中の変化である。中国人が一人づつ自動車を保持するようになれば、大変な状況になる。自転車より自動車の方が良いのだろうか?「インド人も先進国までとは行かなくても幾らかは良い生活をしたいのは疑わない」と元BASFマンは言う。そして、「西欧や日本などが犯した誤りを繰り返させないことが大切だ」と言う。

米国は、いずれにせよ欧州に追従する事はない。製品の生産や流通の環境対応性を盾にして、EU一致団結して果たして悪の枢軸と戦えるのか?ブリュッセルの頑張りに期待を抱かせる。

本日はこの時期としては異常に温かった。
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ヴァルシャワ産白ワイン

2006-11-16 | ワイン
地球温暖化は、当然のながらワイン栽培にも大きな影響を与える。ポーランドは、ワイン栽培地域をブリュッセルに申請した。何れポーランド産のリースリングが生産されるのであろうと言うことである。

温暖化の影響で、フランスのワイン産地は、スペインのそれのようになり、ドイツの産地は、フランスのそれのようになると言われている。実際に2003年のドイツの赤ワインは、二十年以上の寿命のものも珍しくは無い。反対に陽の弱さから得られる繊細な酸味が命のリースリングは、今後は今まで栽培されていなかった海抜400メートル以上の地所で収穫されるだろうとも言われている。

温暖化の影響はボルドーにおいて顕著に出ていて、1953、1959、1961年の上質ヴィンテージに対して最近は、1982、1986、1989、1969、1990、1996、2000、2003、2005年といったように豊作年が頻発している。同様に、より気候に繊細なドイツのリースリングにおいても1980代以前の三十年間には豊作年は6回でさらに最高のヴィンテージは3回しかなかったのが、それ以後1988年から2005年に掛けては毎年のように豊作と上質ヴィンテージが繰り返されている。

こうした状況から、多くの高級ワイン醸造所では、かえって糖比重にして一ランクづつ落として醸造出荷している。つまり、以前のようなキャビネットは少なくなり、シュペートレーゼの糖価を持って既に熟成している果実をキャビネットとして醸造している。これは殆どの名門醸造所で行われている方法で、今時糖が足りないとして添加して醸造するワインはよほど異なる市場を狙っているとしか思われない。

具体的には、軽味のあるキャビネットが求められて、シュペートレーゼは重すぎて敬遠される反面、高価な特別なワインの需要も伸びている。しかし、四半世紀も蔵に残して置けるワイン愛好家も殆どいないだろうと言うことでは、そのような糖価が高くアルコールも酸も十分なワインの需要は限られる。

とにかく、ぼてぼてとしたボディー感のあるワインは、赤にしろ白にしろ全く貴重では無くなって来ているのが、昨今のボルドーワインの減反対策とも繋がっている。今後上質のリースリングワインは、ドイツで修行して経験豊富な人手が作るヴァルシャワ産のリースリングになることがあっても不思議ではない。

この話題をワイン醸造所で話した。その醸造所は、軽みのあるシャンパーニュタイプのワインに優れているので、こうした熟成の葡萄で一際高級感が際立ってくると思われる。その反面、質を落とさないために毎年ラインアップに載っている地所のワインを、日常消費ワインとして格落ちさせたりして、品質を保っている。同時にヴィンテージワインを直売する方法にも進んでいるので、商業的にも面白味がありそうだ。
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