昨日のロココ日和の感興が体に残っている。ユネスコに指定される前から何度となくこの城の庭や劇場やサロンには通った。それどころか門前の向かい側のホテルにアパートを探すために滞在していた事もある。
しかし、なかなかロココの風情を体で感じることは多くはなかったような気がする。その理由は不明であるが、ここ暫らく、ヴィーン古典派のピアノ曲に関心をもっていたことにもよるのかもしれない。
そして、来週は毎年のことながらそれにシューベルトの即興曲を加えたプログラムのリサイタルがあるので楽しみにしている。
先週ネットでCDなどを幾つか注文した。四枚組みで高価なハイドンのソナタ曲集の代替えとして夏前に購入したアルフレード・ブレンデル演奏のモーツァルトとの二枚組みになったアーティスツ・チョイスと呼ばれる廉価CDが大変面白く飽きさせないので、同シリーズのベートーヴェンの二枚組みを注文した。
そこに含まれる本命の最後期のバガテルとゾナーテンのみならず、サイモン・ラトル指揮での第四協奏曲などはネット上で辛らつに批判されているので余計に楽しみである。その書きようが、技術的なことのみならず何も目新しいことをしていないと言う恐らくこのピアニストの最近の演奏会を良く知っている雰囲気なのである。その中期の協奏曲は、「ヴァルトシュタイン」と組み合わされているようだ。
今更、現代の大コンサートホールでシュタインウェーで弾き鳴らされるヴィーン古典派の名曲に何の意味を見出せるものか、と言う問いかけと回答こそが、我々が近代とどのようにつき合うかと言う問いかけへの一つの回答でもあるのではないか。
ハイドンにおけるユーモアや疾風怒濤の芸術はそのクラッシックな佇まいと共に現代人が失った教養を思い起こさせ、モーツァルトの情念に夢想する現代人に知性の喪失をみて、シューベルトのあまりにも素朴な歌にその夢遊病者を見出す。
そしてべートーヴェンについては、この現場の解釈者であるピアニストが1970年の書籍で語るように、「情感を殺すことが古典的でアカデミックな表現であり、それが楽曲に忠実な解釈だとする専門家さえ居る」とする音楽の心理的構造に立ち入る。
その実践面での解説にて、特に注記されるのはソナタにおけるメヌエットからスケルツォへの移行である。前者は、バロックへと遡る舞曲形式でありながらハイドンやモーツァルトにてしばしばその枠が破られて、ベートーヴェンにおいてスケルツォを以って再びメヌエットに返される。
そのスケルツォこそがドイツ語で言うシェルツであることは、イタリア語を共通言語とする西洋音楽の世界ではドイツ語圏から出るとあまり肉体的に意識されていない核心なのである。
シェルツこそは、冗談であり戯れであるのだ。その諧謔こそは、既にハイドンの楽曲にも存在するものであるが、ベートーヴェンにおいて形式的のみならず心理的にもバランスを齎す重要な重しとなっていることを挙げるだけで、上の問いかけの一つの解答となっているのではないか。
ハイドンのピアノ曲全集の楽譜が特売されていたのでこれを注文しようかと思ったのだが、送料無料の金額が合わずに、その代わりの書籍を探しているうちに哲学者ヘーゲルの美学に関する講義集の存在を知り、これを注文する。
ロココの庭園には、コンスタンチノーブルのモスクを模した建造物も存在する。今、ケルンで議論となっているような喧騒は、この秋の深まり行く庭園内には存在しない。それは、ユーモアなのか、戯れなのか、それとも諧謔なのか。それを、ヘーゲル教授の講義を受ける予習としたい。
追記:イタリア語のスケルツォは、語源は兎も角、ドイツ語のそれとは幾らか異なるようだ。
参照:
"Form und Psychologie in Beethovens Klaviersonate" (Programm)
スケルツォについて(Blog: Musikant/komponist)
音楽の「言語性」とは?(13)
音楽の「言語性」とは?(14)
音楽の「言語性」とは?(15)
フモールについて(Blog: Musikant/komponist)
音楽の「言語性」とは?(11)
音楽の「言語性」とは?(12)
しかし、なかなかロココの風情を体で感じることは多くはなかったような気がする。その理由は不明であるが、ここ暫らく、ヴィーン古典派のピアノ曲に関心をもっていたことにもよるのかもしれない。
そして、来週は毎年のことながらそれにシューベルトの即興曲を加えたプログラムのリサイタルがあるので楽しみにしている。
先週ネットでCDなどを幾つか注文した。四枚組みで高価なハイドンのソナタ曲集の代替えとして夏前に購入したアルフレード・ブレンデル演奏のモーツァルトとの二枚組みになったアーティスツ・チョイスと呼ばれる廉価CDが大変面白く飽きさせないので、同シリーズのベートーヴェンの二枚組みを注文した。
そこに含まれる本命の最後期のバガテルとゾナーテンのみならず、サイモン・ラトル指揮での第四協奏曲などはネット上で辛らつに批判されているので余計に楽しみである。その書きようが、技術的なことのみならず何も目新しいことをしていないと言う恐らくこのピアニストの最近の演奏会を良く知っている雰囲気なのである。その中期の協奏曲は、「ヴァルトシュタイン」と組み合わされているようだ。
今更、現代の大コンサートホールでシュタインウェーで弾き鳴らされるヴィーン古典派の名曲に何の意味を見出せるものか、と言う問いかけと回答こそが、我々が近代とどのようにつき合うかと言う問いかけへの一つの回答でもあるのではないか。
ハイドンにおけるユーモアや疾風怒濤の芸術はそのクラッシックな佇まいと共に現代人が失った教養を思い起こさせ、モーツァルトの情念に夢想する現代人に知性の喪失をみて、シューベルトのあまりにも素朴な歌にその夢遊病者を見出す。
そしてべートーヴェンについては、この現場の解釈者であるピアニストが1970年の書籍で語るように、「情感を殺すことが古典的でアカデミックな表現であり、それが楽曲に忠実な解釈だとする専門家さえ居る」とする音楽の心理的構造に立ち入る。
その実践面での解説にて、特に注記されるのはソナタにおけるメヌエットからスケルツォへの移行である。前者は、バロックへと遡る舞曲形式でありながらハイドンやモーツァルトにてしばしばその枠が破られて、ベートーヴェンにおいてスケルツォを以って再びメヌエットに返される。
そのスケルツォこそがドイツ語で言うシェルツであることは、イタリア語を共通言語とする西洋音楽の世界ではドイツ語圏から出るとあまり肉体的に意識されていない核心なのである。
シェルツこそは、冗談であり戯れであるのだ。その諧謔こそは、既にハイドンの楽曲にも存在するものであるが、ベートーヴェンにおいて形式的のみならず心理的にもバランスを齎す重要な重しとなっていることを挙げるだけで、上の問いかけの一つの解答となっているのではないか。
ハイドンのピアノ曲全集の楽譜が特売されていたのでこれを注文しようかと思ったのだが、送料無料の金額が合わずに、その代わりの書籍を探しているうちに哲学者ヘーゲルの美学に関する講義集の存在を知り、これを注文する。
ロココの庭園には、コンスタンチノーブルのモスクを模した建造物も存在する。今、ケルンで議論となっているような喧騒は、この秋の深まり行く庭園内には存在しない。それは、ユーモアなのか、戯れなのか、それとも諧謔なのか。それを、ヘーゲル教授の講義を受ける予習としたい。
追記:イタリア語のスケルツォは、語源は兎も角、ドイツ語のそれとは幾らか異なるようだ。
参照:
"Form und Psychologie in Beethovens Klaviersonate" (Programm)
スケルツォについて(Blog: Musikant/komponist)
音楽の「言語性」とは?(13)
音楽の「言語性」とは?(14)
音楽の「言語性」とは?(15)
フモールについて(Blog: Musikant/komponist)
音楽の「言語性」とは?(11)
音楽の「言語性」とは?(12)
第4協奏曲も含め、ラトルとのものは未聴なので何とも言えない所ですが、件の「目新しいことをしていない」こと、「プログラムの固定化」とかいったものは(昔の落語の名人のように)年輪を重ねた演奏家にとっては「お決まりのコース」でもあって、「決まりきったことを楽しむことの楽しみ」というか、「需要」というものの要求以外にも、やはり「あるべきこと」のようにも思え、非難の材料には当たらないかのかも知れません。(「物故寸前の老人指揮者の特定のレパートリー」、特に「ブルックナーを殊更に有り難がる風潮」が日本にはあるようなのですが、中には素晴らしいものも無い訳ではないにせよ、「弛緩しきったもの」が大半で、いかに「需要」というものが、いい加減であるか思い知らせられます。)
さて、ベートーヴェンの「フモール」で見逃せないのは、いわゆる「カノン Kanon」で、警句に付けられたシリアスなものや、有名曲に関わるものも(「ミサ・ソレムニス」の「クレド」主題とか、弦楽四重奏「第16番」のフィナーレ主題、「第8交響曲」の第2楽章主題など)ありますが、友人の名前にひっかけた「駄洒落」のようなものも多く、しかも「冴えたもの」が少なからずあり、「言語的なモーション」が契機となっているとは言え、器楽的な面でも。ベートーヴェンの「根」について色々と教えてくれます。
それは「おふざけ」というよりは、それこそ、明らかに「教養」によるもので、ハイドンに「同様のもの」が伝わっていないのが残念ですが、これには明らかに共通性が感じられます。
どうしてもどちらかと言えばハイドンの右手左手を思い出してしまうのですが、ご指摘のカノンなどもここの主旨でしょうか。アカデミックにザッハリッヒに演奏しようとしても前後の繋がりがあるためどうしても、ある色づけがされてしまうことが多く、まさにその心理が理解表現できないかぎり「巧く嵌らない」ことが多いように思います。その場合は、「深刻」に挟みこまれたりと、なかなか「あるべく」解放されないと言いますか。
その意味から、確か最後の来日を聞いたことのある最晩年のアラウのベートーヴェンのCDも聞いたのですが、その若々しさに驚く一方あまりにも出来すぎ感もあります。
ブレンデルのアナログ録音は、最後のものと比べて明らかに録音ポリシーの相違もありますが、一般的に「そのような部分」が意外にオープンのままにされているようです。
落語の名人芸に喩えれば、ある種の「機微」は年を重ねてやはり初めて分かると言うのが、最近この辺りのピアノ曲に関心を持ってシックリと来ています。ブルックナーの最後の二つの交響曲にもあるのかも知れませんが、やはり少し違うかなと言う気もします。
弛緩は、一度お話したかとも思いますが、ブレンデルのリサイタルの場合も一時その感がありました。また先日、全曲演奏会の92年から95年のプログラムを集めてみて思い出していたのですが、当時は逆に録音の前の手慣らし的な不明瞭さもあり、録音ほど巧く行っていない曲も多かったようで、その後の再演は明確さが増しました。
来週のリサイタルもその点で、ハイドン以外にもベートーヴェンの最後のAs-Dur に期待しています。初夏のオルドバラでのリサイタルの評判も大変良かったので、音抜けは何分仕方ないですが、嘗てない程の十八番のプログラムで楽しみです。