Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2018年4月

2018-04-30 | Weblog-Index


完売演奏会のティケット 2018-04-30 | 文化一般
お手て繋いで夜道を行く 2018-04-29 | 歴史・時事
欠けた一片への想い 2018-04-28 | 歴史・時事
客演で残る指揮者達 2018-04-27 | 文化一般
再びルクセムブルクへ 2018-04-26 | 文化一般
白いモスクが名物 2018-04-25 | 生活
「ベルリンの笛吹き男」 2018-04-24 | マスメディア批評
舗装の凄まじい衝撃 2018-04-23 | アウトドーア・環境
隠れ練習、お前もか? 2018-04-22 | 文化一般
オペラ劇場ってところ 2018-04-21 | 文化一般
ポッペアに追い込まれ 2018-04-20 | 音
隠されている問題 2018-04-19 | BLOG研究
華為製品を買い物籠に 2018-04-18 | テクニック
ツルツルピカピカに 2018-04-17 | 文化一般
偉大なるマルクス様像 2018-04-16 | 文化一般 TB0,COM2
「ポッペアの戴冠」再会 2018-04-15 | マスメディア批評
解像度が高まると 2018-04-14 | 音
面白くて、目が虜 2018-04-13 | 文化一般
ブラインド聞き比べ 2018-04-12 | マスメディア批評
激しく咳き込む 2018-04-11 | 生活 TB0,COM2
ナインのはそこやで~ 2018-04-10 | 文化一般
再考察ルツェルンの宿 2018-04-09 | 雑感
I love „Made in China“ 2018-04-08 | 生活
全力を以ってあたる 2018-04-07 | 文化一般
夕刻が恐ろしい 2018-04-06 | 生活
手先が震えて駄目 2018-04-05 | 生活
待望される復活明け 2018-04-04 | 文化一般
MP4映像よりWAV録音 2018-04-03 | 文化一般
似た様な感覚の人々 2018-04-02 | 暦
オペラ座の怪人は何処 2018-04-01 | マスメディア批評
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完売演奏会のティケット

2018-04-30 | 文化一般
ルクセムブルクからティケットが届いた。昨年来熱心に郵便でDMも新シーズンの案内も送って来ていたが、前回は自分でプリントアウトしたので、あそこの券を見るのは初めてだ。選択の余地が無かったので3ユーロを強制的に徴収された。そにティケットを見て作曲家アデの名が入っているので驚いた。ウェイン・オカーンとかいう作曲家のオルガンのための協奏曲が演奏される予定であるからだ。管弦楽団のホームページを見ると、三月の第二週にドンファンとシューマンをバーンスタインと演奏していて、五月の第二週にエレーヌ・グリモーとのブラームスが演奏される。アデの曲は無いので、変更はないのではなかろうか。ネット放送はその三月のラフマニノフの二番の演奏会が流されるが、これも楽しみだ。来週はシューマンの回になるのだろう。グリモーの弾くブラームスの放送は本番を聞いてから後になりそうだ。

ルクセムブルクへの誘いはオーボエの渡辺君があそこで吹いていた時に何回かあったのだが、二時間の行程は中々克服できなかった。それでも最近は毎年のようにザールへと向かうことがあったのでその距離感が近くなっていた。そこに評判が高いながら聞き逃していたクリーヴランド管弦楽団がやって来て、それも「女狐」を演奏するという事で、その機会は逃せなかったのだ。ヴィーンは遠過ぎるから当然だ。

そして一度車を走らせば二度目からはどんどんと慣れてくる。距離時間からすれば馴染みのルツェルンよりも近く、一昨年のボンよりも近いぐらいだ。その会場もほぼ同距離のフライブルクよりも良かった。海外の管弦楽団が安く聞けるだけでなくて、ドイツ国内では無いプログラムや公演が提供されている。距離感からすれば、凝りもせずに案内を寄こすなと思ったが、フライブルクやボンと比較すればさもありなんだ。

今回はデュッセルドルフとの比較になったのだが、こちらの方に利点が沢山あった。その予約をしてから上の渡辺君からメールが入っていて、デュッセルドルフ近郊でのサロンコンサートの案内だった。のりこえネットのフクシマ援助基金へのチェリティ―コンサートになるようで、主催の辛女史が来るのかどうかは知らないが、これまたちょっと残念だった。デュッセルドルフのコンサートの方に行っていたら、こちらも一泊で兼ねれたかも知れなかった。前回もミュンヘン行があって行けなかったのだった。基本的には泊りがけでコンサートやオペラなどには行くことは無いのだが、上手く組み合わせられたら泊まり込みで組み入れることはある。

ドイツの朝鮮人というと現在はその企業が集まるフランクフルトが有名だが、ミュンヘンの座付き管弦楽団の金さんの様に日本人コロニー若しくはゲットーのあるデュセルドルフ出身の人が居る。良く考えてみれば、ドイツの朝鮮人で最も多いのはボンから以北西に住む元炭鉱労働者の家族だろう。その次に昔からいたのは北朝鮮からの東ドイツへの移民であると思う。最近は数として企業関係者が増えてはいるだろうが、もともといた朝鮮人はそんなところだろう。だからデュッセルドルフ以西のノルトライン・ヴェストファーレンというのは、所謂人口密集地域であるのは炭鉱から重工業が発達したからだったが、今はその双方とも斜陽となったことで、労働失業率も高い地域となっている。レーサーのシューマッハ―などの家庭がその典型だ。そうしたところだから文化的に意味のある都市はケルンとアーヘンぐらいなものだろう。

その北のドルトムントでのべルント・アロイス・ツィムマーマン生誕記念演奏会の生中継の一部を聞いた。この企画の特徴は通俗名曲にそれらの曲を挟むようになっているプログラム構成で、ツィンマーマンの分極化の特徴としての企画としては理解可能だが、どうしてもドルトムントなどの舞台を考えると苦肉のプログラム構成という感じもしないではない。バーデンバーデン新支配人スタムパの仕事だから気になるのである。中継では先日その書籍を購入した娘さんのベティーナ・ツィムマーマンが出ていて曲に纏わるエピソードを話していた。とてもいろいろなことを家庭内で見聞きしているのだと改めて思った。但し会場の雰囲気は何となく一部の熱狂的なファン層が全体の会場の雰囲気の中に浮いていたような感じで、やはり地方都市の企画ものという感じがした。それからするとやはりバーデンバーデンとかダルムシュタットとかはエリート層が充実しているだけでなく、大衆が全く違うと感じる。



参照:
再びルクセムブルクへ 2018-04-26 | 文化一般
全力を以ってあたる 2018-04-07 | 文化一般
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お手て繋いで夜道を行く

2018-04-29 | 歴史・時事
一日中韓国JTBCの中継を仕事をしながら流していた。日本のTV朝日が最も大掛かりな外国からの取材陣だったようだ。晩餐後の式典がまた注目された。アリランをジャズアレンジしたものをピアニストが弾いて、背後にはその日の重要な握手の映像が映写されるというもので、とても気が利いていた。費用も掛かっていた。こうなるとオリムピックではなくて、その映像の価値は世界に知らしめる以上に会談の場を感覚的に定着させる意図がある。つまり通常のイヴェントのそれを超えた表現が計られていた。韓国の映画などは金大中政権下で本格的に振興されたという事だったが、なるほどこうした出来を見ると優秀な人材やノウハウを集約させているのが分かった。つまり演出がしっかりしているという事で、決して形から入って時間を埋めるというような低級なものではなかった。

つまり二人の会見の主役の長い一日を描いているもので、当事者がそれを成果としてどのような気持ちで眺めたか?一部の映像は昼休みの各々の作戦会議でも少なくとも本人が全てを確認できるような時間はなかった筈で、初めて映像として客観視するような形になっている。謂わば一日スキー場で滑っていてその様子を食事後に観て、ああだったこうだったというような感じに近い。そこには間違いなく主役である二人の視線つまり主観と、こうしてカメラが捉えた客観との差異が生じている。同時に客観的な視線としても各々の中に世界が見たことつまり現実が定着するという事になる。

こうした定着を試みたのがその演出の主旨であることは確かで、政治の世界においてこれはとても面白い試みだと思った。それ以上に関心を引いたのは二人の奥さんを両サイドにした二人の主役が暗闇の中で固く手を握っている光景である。一部には気持ち悪いほどとの感想を見かけたが、たとえ身体コンタクトの多い朝鮮民族とはいっても確かに通常ではないだろう。勿論この伏線は、最初の出会いでの北側へ渡る時に金が文の手を取ったことである。この経緯は、文が問いかけをしていることから、ある程度南側が計算したものかもしれないが、手を繋ぐとは誰も思わなかったかもしれない。咄嗟の行動ではあるが、手を繋ぐことで全ての不慮の事態を防ぐという配慮が無意識にあったのかもしれないが、この手を握る行為は南側で昼休みまでに解析されたのかもしれない。それを受けての暗闇での御手て繋ぎとなったのだろう。首脳同士の外交においてはこうした身体的なコンタクトがここ暫く話題になっていて、欧州を引っ張るマコンがトラムプにキスしたことや、同じようにメルケルにトラムプがキスしたことなどが映像的に定着している。


それにしても流石に南鮮である。金正恩の生い立ちや情報の解析から大統領へとアドヴァイスが行われ、それをしっかりとやり通す文の手腕に感心する。また北鮮では私が書く様に歴史的な成果を強調したようだが、一体行間を読み抜く国民は真実をどのように分析しているのだろうか。金政権にとって大切なのは、強面の恐怖政治をしなくても本当の支持を人民から獲得することで、今後大きな守旧派勢力の反発にあうことを考えればとても重要なのかもしれない。金への印象は、やはりスイスのフランス語圏で教育を受けただけにトラムプなどとは比較にならないほど西欧的な合理性を持っているという印象だ。そのを裏打ちする様に、最新の調査では、ドイツの半数近くの市民は「トラムプの方が金より遥かに危ない」と答えている。

金曜日にテレコムから電話があった。先日の電話回線変更に伴う、電話番号の移動を質問したからだ。結論は可能という事で、一度だけ手数料10ユーロを払えば、あとは従来の電話回線を解約しても新しい回線で使えるようになる。一番助かるのはFAX番号として使っていて名刺等に明記してあるそれを訂正しないでも済むことだ。誰もFAXなどは使わないが、嘘は書いておけないので苦慮していたのだ。これで完璧に一回線はIP電話回線になって、インターネットも最も早い回線に入れる。もう一つはデジタル電話を使っているので、そのまま使っておく。何れ更なる圧力が掛かって、いずれは廃止という事になるのだろうが、お詫びかなんかで有利な状況になるまで居座るつもりだ。その間に使い勝手の違いなども審査できる。そして説明通りFAX番号が入っていた回線の契約解除を申し入れた。二週間ほどFAXは不通になるが何ら問題は無い。

ブラームスの協奏曲一番とシューマンの交響曲四番の楽譜を落とした。特に前者は分厚く響くだけのごつい音楽でしかなく、ブラームスの音楽としてもむさ苦しい音楽なのだが、昨今のキリル・ペトレンコ指揮のドッペルコンツェルトや第四交響曲を聞く限り、明らかに演奏の質が問われる曲となるだろう。あまり知らないがグレモーという人がそんなに暑苦しいユダヤ風の音楽をするわけではないだろうからネゼ・セガン指揮のフィラデルフィア管弦楽団の腕の見せ所だと思う。シューマンもその楽器編成など様々な問題があるので、何処までの演奏が出来るのかなど興味が尽きない。

キリル・ペトレンコが凝りもせずにヴィーナーフィルハーモニカー定期に登場して四番を振るらしいが、あれだけの指揮に対応してヴィーナフィルハーモニカーがどこまで弾けるのかは疑問でしかない。ヴィーンのマネージメントの関係で引き受けているのだろうが、時間の無駄ではなかろうか。東京でもこの楽団のティケットの売れ行きがもはや芳しくないようだが、私もバーデンバーデンのシーズン初日を購入していない。22ユーロならば大抵は行くのだが、ブロムシュテットでのブルックナーの七番はゲヴァントハウス管弦楽団で名演を聞いたのでもう沢山だ。メスト指揮の五番なら購入していたかと思う。不細工なティーレマン指揮のシュターツカペレの演奏の耳を洗い流したいからだ ― 19ユーロだったかしら。そのゲヴァントハウスはネルソン指揮で「悲愴」や「ブラームス」の四番なのでこれも耳を汚したくないと思った。名曲コンサートなんて一度名演を聞いたらあと四半世紀は行く気がしない。要するに訳の分からない一般大衆に売りつけるだけのプログラムなのである。



参照:
欠けた一片への想い 2018-04-28 | 歴史・時事
そろそろ詰めよう 2018-03-27 | 雑感
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欠けた一片への想い

2018-04-28 | 歴史・時事
歯が欠けた。誰かに殴られた訳では無い。食前に、開けたザールの2016年産アルテレーベンに、残っていた角白ごまパンを齧っていた時だ。何か異物感があって、歯に挟まる感じがした。異物が混入していたのかと、通常あり得ない個人マイスターパン屋なので、材料に固い欠片が混入していたのかなと思った。急いで弛緩歯ブラシやら糸やら爪楊枝を総動員しても外れない。弄った部分から出血して指についたりしたが、若干そのような味覚が感じられた。鏡を見ても分らない。左の上の奥から三本目ぐらいだ。そこは丁度この二三年歯医者で炎症を起こしているとレントゲンを撮られたところでもある。

そして指で内側を弄っていると写真の小さな欠片が取り出せた。この米粒の欠片状のものが異物かと思ってみると歯が欠けていることに気が付いた。そしてそれがあった歯の内側が割れてぐらぐらとしている。分ってきた。レントゲンで写っていた歯の根元からの血流が走っているところで、その内側と外側で崩壊したようだ。親知らずを抜歯をしたときに崩壊するとかしないとかの事を思い出して合点が行った。根元が炎症を起こしていたので、簡単に全体が抜けるのでは無く、先ずは崩壊したようだ。しかし虫歯などの時にありがちなおかしな味もせずに、驚くことには外側は結構しっかりしている。

先ずは左側では折角の食事は叶わなかったが、右側で食して、無理してぐらぐらしているのを抜かずに置いた。先ずはこの内側がその内抜け落ちてしまうだろう。状況を観察していると出血もあまりないようで、歯茎もそれで炎症が激しくなった様子もない。そして面白いことに今までこの時期に炎症で何度か苦しんでいた訳だが、その時の外側の感じとは違って内側が痒い。なんとなく、いよいよあの炎症感ともそろそろお別れという感じになってきた。

恐らく内側のぐらぐらが大きくなって行き、丁度岩石が割れてその崩壊が合わせ仕掛けの様に簡単には外れない感じが続いて、内側の欠片が綺麗に抜けて仕舞うだろうと思う。その時も外側がしっかりしていれば、もう少し使えるかもしれない。もししっかりしたままならば、一度歯医者の予約を取って、可能性を考えて貰おう。外側がぐらぐらしてくるようならば、いよいよ放棄である。どちらにしてもこれで歯医者を避ける意味も無くなり、一度見せに行こうと思う。ある意味、肝心の炎症はここ一年ほど収まっていて、特に新しい電動歯ブラシを購入してからは炎症が酷くなることは無かったのだ。これでもう直ぐ気になっていた炎症とお別れすることになるのだろう。

時差の関係で板門店からの午前の中継は観れなかったが、午後は一部観れた。感動させた。分断中の南鮮も東西ドイツも知っているが、1989年のあの時よりも今日の方が遥かに感動した。理由はハッキリしていて、ドイツの統一以上に朝鮮民族の分割統治からの解放を心から期待するからである。ドイツの場合は民族として分断されても立派にやっていたが、朝鮮民族は列強に分割統治されている限り永遠に民族の悲劇から逃れられないと思うからだ。同じような憐憫は日本民族にも感じる。

朝鮮語は解しないが、戸外での会話などを中継で観ていると、金の方が積極的に話しており、その後のスピーチを見ても文が韓国人らしくなく落ち着いた知的なしゃべり口で感心した。ここまでお膳立てをした文の政治家としての実力も感じた。なるほど文大統領を信じてのこれまた勇気ある決断を金もしたのだろう。普段は他人から指示を受けるようなことのない独裁者が第三者の司会を聞く態度などに神経質なものを感じるが、若くダイナミックでオープンな指導者には違いないと感じた。その態度はどこか中小企業の三代目のような感じはするが、数字などもしっかり頭に入っていて国事が細かく話せる政治家のようだ。夫人の立ち振る舞いも同胞人のパーティーなのでとても柔らかい表情で会話をしていて、洗練されていて驚いた。

この先どのようになろうが私利私欲を捨てて、政治家として民族の解放という事を優先させた二人の政治家の功績に違いない。北朝鮮の思惑通りに南鮮の人々の心も北朝鮮の後ろにつく、合衆国の思うようにはもうならない。ここまでで金の指導者としての世界の評価は定まった。私利私欲に固執するトラムプや安倍などとは比較にならない大物である。

北朝鮮の非核化に関しては、安全保障の面から困難とされていたが、今回の南北の一体化が進むともはや北に他国が軍事行動を掛けることは考えられなくなる。南との相互関係が北の安全保証に寄与するという事になるのだろう。ゴルバチョフの政治をして政治学者はあり得ないと批評したが、民族の解放という悲願の前で捉われないナイーヴな政治をする可能性がこの若い指導者にはあるのではなかろうか。



参照:
オフラインの年末年始 2015-01-01 | 暦
二人の阿保のミックス 2014-01-06 | マスメディア批評
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客演で残る指揮者達

2018-04-27 | 文化一般
ベルリンからの中継を見た。2018年/2019年シーズンスケデュール発表だ。サイモン・ラトルは関係なく、キリル・ペトレンコもまだ就任していないから、ツェッチマン女史が主役である。それでも新体制への流れが見えるか期待した。特に若手の無名の指揮者が登場という事で指揮者の陣容も興味深い。勿論チェリビダッケが務めたように新体制になったらオサラバの人も出て来るとは思うが、ペトレンコが振らないプログラムで誰を起用するかなど、その死角を埋めるエンタティメントな指揮者として誰が起用されるのか?つまりジルフェスタ―コンツェルトの指揮とか、ツアーでの指揮者など注目点はある。そうした便利屋さんは今後とも必要になるからで、メディア産業としても注目される人材だろう。

結局期待された無名のニューフェースは無くそれに代わるのはパーヴォ・ヤルヴィとミヒャエル・ザンデルリンクとヤクブ・フルサであった。個人的に知らなかったのはカールディスというギリシャ人で、ミュンヘンで「フィガロ」を振っている。フランクフルトでも振っているので注意をしておこう。そして今後とも新体制でお付き合いをするというのはヴラディミール・ユロフスキーという。ラトルがやっていたプロジェクトの一部はヤルヴィが受け持ち、エンターティメントでは予想通りでデュダメールのお勤めだ。それどころか客演として残っていくのは、腕のあるネルソンス、ソキエフなどで、その他は昔の名前で出ている指揮者のようだ。

一番興味深かった話は私が下種のヴィオリニスティンと呼ぶパトリツィア・カパツィンスカヤとキリル・ペトレンコがヴィーン時代の楽友とは知らなかった。ちょっと見には若く見えるのだが結構歳いっているのだろうか?そのようなことで彼女が来年だけでなく結構ベルリンで活躍しそうだ。ちゃっかりとマルリス・ペーターセンが登場している。明らかにペトレンコの息も掛かっている人選となっている。ジルフェスタ―コンツェルトはバレンボイムで、ヴァルトビューネもソキエフにやらせているのも興味深い。

そして注目されるのは開幕シリーズにベルリンのシュロースでの一晩を入れたことで、エーリッヒ・クライバーが始めたようだがフルトヴェングラーもそこで指揮をしたというから新たな名物になりそうだ。将来的にもヴァルトビューネは振らなくても、再建の寄付も兼ねたこちらを振る方が価値があるだろう。

ペトレンコ指揮のプログラムは三種類で13夜となるようだが、正確にはチァイコフスキー五番にシェーンベルクとランランのベートーヴェンの二種があるので、全四種となる。ランランはカムバックという事になっていないのか? ― ランランとの一晩はバーデンバーデンエクスクルシーヴとするとあれは招き猫だろうか。またルツェルンで売れ残っている方のワンとのプログラムは中継されるようだから、これまたその演奏の質が期待されるところだ。いずれにしてもシェーンベルクのプログラムの方はまだまだ話題になるだろう。

ジョージ・ベンジャミンがレジデンス作曲家になるのはそれほど悪くないだろうか。またメディアとしてArteが制作協力に出てきたので、これも特にバーデンバーデンとの関係で注目される。



参照:
隠れ練習、お前もか? 2018-04-22 | 文化一般
演奏会発券当日の様子 2018-03-07 | 雑感
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再びルクセムブルクへ

2018-04-26 | 文化一般
火曜日辺りから眼の周りが痒くなってきた、同時に治りかけていた気管支が刺激されてきた。花粉症の季節である。先ずは眼を塩水で消毒したいが、この一週間ほどを乗り切れれば薬を買わなくても大丈夫だと思う。昨年は感じなかったので、やはり毎年植物事情が違うのである。

フィラデルフィア管弦楽団公演のティケットを押さえた。一年前には関心も薄く、数か月前までは計画が立たなかったので、行けるかどうかわからなかった公演である。そもそもクリーヴランド管弦楽団を聞くまではその必要性も感じていなく、次の欧州演奏旅行の計画も全く知らなかった。それでもメトロポリタンで指揮するナゼサガンの能力も放送で分かり、一昨週に現地からのライヴ放送ストリーミングを聞くと、これを聞くことなしには現在の管弦楽団の頂点については語れないと思った。

今回の欧州旅行はブリュッセルから始まってヴィーンで終わり、そのままイスラエルに向かうというもので、時差などからすると最初の方の公演はコンディション的には不利だとは思いながらも、一番近くではルクセムブルクで演奏するので、これは昨年のクリーヴランドでの経験からして外せないと思った。ルクセムブルクまでは二時間ほどの道程なので決して近くはなく、もう一つの可能性としてデュッセッルドルフも調べた。会場は見本市会館のようなドームで癖がありそうだが、それ以上にその価格設定が気に入らなかった。真っ先に購入しても安くて75ユーロであるから、ルクセムブルクの真ん中の価格帯である。これは幾ら音響が良いとしても外れが怖い。その点ルクセムブルクの会場はこじんまりとしていて、なによりも価格設定が商業的ではない。流石にルクセムブルク公国の重要な文化施設での公演である。また、前回の経験からルクセムブルクの聴衆の質にはそれほど感心しなかったのだが、デュッセルドルフと比較すれば決して悪くはないであろう。そこの街並みは綺麗かもしれないが、上流のマンハイムの方が文化程度が高いぐらいの商業都市でしかない。

勿論そこから回るエルプフィルハーモニーでの二日間公演は最も良かっただろうが、クリーヴランドは抽選で落ちていたが、こちらは上のような事情から申し込んでいなかった。ルクセムブルクからパリに回って、デュッセルドルフ、ハムブルクへの行程の二日目である。操作を間違って、第一希望の45ユーロ席を逃しそうになって、75ユーロを探してもあまり良席は見つからなかった。クリーヴランドの時の売券状況とは全く異なり、殆どは定期会員か何かに売り切れていた。要するに75ユーロでも前から二列目とか最前列の残り物だけだった。結局そうこうしているうちに45ユーロが入手可能となって後先考えずに購入した。そして座席を調べるとそれほど悪くは無かったようだ。

サイドの四列目の天井桟敷で、会場に慣れていないとその状況が分かり難かったので敬遠していたのだが、そもそもサイドは嫌いではないのでそれほど悪い選択でははなかった。寧ろ正面の奥の残り一席よりも良かったと思う。やはり小さな会場でも奥は距離が遠い。天井桟敷の問題はヘッドスペースがあまりないので音響的にはどうかなとも思うが、楽団も大きな強い音が出て、プログラムも分厚い響きになるので、視界が効いて分離があれば問題が無い。平土間二列目よりは良かったと思う。

そもそもこの売れ行きには、なるほど地味なクリーヴランドに比較すると派手なフィラデルフィアの知名度とピアノを弾くグレモーの人気もあるのかもしれない。私には興味に無い奏者であるが、今回そのピアノを初めて聞くことになる。一体神経症のような人がブラームスの協奏曲一番をどのように弾くのだろうか?まだ一月あるので、シューマンの四番とブラームスを勉強する時間はある。

今回入手した席からの3D映像ををスキャンした。座ってみなければ分からないが、なぜか三列目が天井桟敷の四列目よりも奥深くなっていて、視界も音響もあまり思わしくない感じだ。他の劇場などではロージュに当たるのかもしれないが、それほどお忍びで出掛けて座るという感じでもない。兎に角、楽しみだ。

金曜日の公演なのでその晩ザール辺りで宿泊して翌日試飲をして帰るのも難しい。最小限口に含むぐらいならば演奏会前に立ち寄ることも可能だろうか?帰りは午前様になりそうなので、早くても昼過ぎの出発でピクニックの用意をしていくぐらいか?ワイン地所でピクニックしてからルクセムブルクだろうか?少なくとも試飲のために数本は持ち帰れる。



参照:
似た様な感覚の人々 2018-04-02 | 暦
ナインのはそこやで~ 2018-04-10 | 文化一般
細い筆先のエアーポケット 2017-11-03 | 音
解像度が高まると 2018-04-14 | 音
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白いモスクが名物

2018-04-25 | 生活
マンハイムのメーカー支店に出向いた。本来ならばサーヴィスも兼ねて夏タイヤに履き替えるところだったが、サーヴィスのアポイントメントは五月になった。その前に摂氏30度に至ろうとする天候では冬タイヤを脱ぐしかなかった。それだけに出向いた。30分ほどで終わる筈だが、またマイスターがやってきた。昨年冬タイヤを付けた時と同じ状況だ。「またか」と吐き捨てた。やはり今頃になって前輪のサイドが擦り減っているので交換しなければいけないというのだ。前回は釘が刺さっていたのを見つけて、在庫のある新しいタイヤを購入して換えさせた。出直すのが面倒だったからだ。今回は先の状況からもう一度訪れるので全く問題は無かった。だから高い夏タイヤを注文しておかなければと言われても「高いものは買わない」と断った。

そもそも場所はあっても金を払ってタイヤを預けているのは安全性のためにそのために清掃してチェックしてもらうことが目的で、「専門家なら最初から気が付いていて報告しておかなければいけなかった」と、工場内ではっきり言った。前回の見逃しは認めたが、「そもそも最初は溝しか計らないことになっている」のでと弁解する。事情は分かっている。その作業をするは本当の見習の資格の無い連中なのだ。要するに徒弟がやる仕事だから専門家のそれではない。パーソナルを抑えるのは小株主としては反対はしないが、やはりこのシステムは間違っていると思った。「今後はこんなことが無いことを期待する」と執拗に言っておいた。

なるほど距離を走る車ならば溝だけをチェックしていれば事足りるのかもしれないが、私の様に廃車にするまでに出来る限りランニングコストを圧縮しようと意識していると、アウトバーンでのカーヴでのチビリが先行したのかもしれない。空気圧の関係もあるだろうが、運転方法でも変わってくるだろう。それだけ最近はブレーキと燃料を節約してカーヴでスピードを落とさずに走っている。

ネットで昨年購入したものを見ると少しだけ高くなっている。まだ時間があるのでもう少し安くならないか観察してみよう。支店で発注すれば一本160ユーロだが、ネットでは100ユーロ以下で購入可能なので、二本で120ユーロほど安くなる。あとはサーヴスの時にもう一度重ねてタイヤ交換費を取らせないように最初からマイスターに忠告しておかなければいけない。最初から、タイヤにではなくて、マイスターに釘を刺す。

マンハイムの支店で話をしているといつもそのマネマーに気が付く。なぜ方言に気が付くかというと自分が住んでいるワイン街道とは僅か二十数キロの距離しか離れていなくても、ライン河を隔てて州も違うから、文化が異なるのだ。最近は自分自身も分からなくなってきているが、どうもプフェルツァーに慣れ親しんでしまって、その方言域に含まれてきているようなのだ。

マネマー方言も特殊だと思うが、あれはやはり漁師言葉が入っているような感じがある。それに比べるとプフェルツァーの方が軽さもある。ハノーバー当たりの言葉をNHK語とすると、バイエルン方言は京言葉だ。するとその植民地のようなプフェルツァーは奈良方言のような感じだろうか。クーアプファルツであるマンハイムは大阪弁だろうか。ハイデルベルクのあるベルクシュトラーゼ辺りは神戸弁となるだろうか?バイエルン方言とは全く違う訳だが。

写真は先日ナチョナルテアターに出かけた時に車中から撮った連邦共和国最大のモスクである。建造されて何年になるか知らないが今やマンハイムの名所になった。マンハイムからモスリムをの除いたらドイツ有数の大都市が成立しない。劇場でも思ったが、住みたくない街である。最初に旅行で中央駅を通過した時と今もその気持ち全然変わらない。あの何とも言えないガサツな感じは、丁度大阪の南とも似ているのかもしれないが、南は独特の面白味がある。マンハイムにはそれが無い。

名物で思い出したが、マンハイム名物は岩おこしでなくて、マネマートレックと称するウンチを模倣したお菓子だった。嘗て汚物を窓から投げた街中の道路にこびり付いている形状を模倣してある。こんなものを名物にしている町はそんなにないであろう。



参照:
オペラ劇場ってところ 2018-04-21 | 文化一般
マンハイム、対岸の火事 2016-10-19 | 雑感
汚物形状の市民の銘菓 2007-01-19 | 暦
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「ベルリンの笛吹き男」

2018-04-24 | マスメディア批評
フィラデルフィアからの放送を聞いた。期待していたが残念ながらその指揮者のファンには嫌なことを書くしかない。前半は古い自作のフィラデルフィア初演だったので、カール・サンドバークの詩に基づいて作曲されて、それに続いて演奏されており、楽曲としてはその時代や場所を考えるとそれほど悪くはないものと感じた。要するにこのティルソン・トーマスという人は、作曲家や指揮者であるよりも文化人であるのだと分かった。

それは休憩後の悲愴交響曲の展開部に入るまでにはっきりとした。なによりも指揮者として拍をしっかりと刻むことが出来ないようだった。要するに指揮者として明らかに二流で、なるほど欧州では殆どお座敷が掛からない理由が分かった。それでも世界の頂点にある楽団が出す展開部の音に楽譜を捲りながら耳を傾けた。やはり盆暗指揮者だとどんな管弦楽団が演奏しても駄目だと分かった。結局個別のバス―ン奏者ダニエル・マツカワなどの一節が注目されるだけだった。逆にまだまだとは思っていながらも、ペトレンコ指揮のフィルハーモニカーの響きを思い出して戦慄した。

特に指揮の世界ではここ二十年ほどの若手の趨勢は著しいものがあって、私などは指揮の技術などにはそれほど関心が無かったのだが、もはや業界ではその域に達していない指揮者は相手にされない。その意味からも現在日本の管弦楽団を指揮している人物ではパーヴォ・ヤルヴィぐらいしかその域に達している指揮者はいないのであろう。個人的にはあまり評価していないが、日曜日に放送された「ドイツェレクイエム」も評判が良かったようで、チューリッヒのトーンハレでの就任などいよいよ一流領域でのポストに就いて来ていて注目されている。ベルリナーフィルハーモニカーとの演奏旅行も当然なのかもしれない。次の日本公演はこの指揮者が帯同か?

ベルリナーフィルハーモニカーでのプログラミングで様々な記事が出ていて、自分自身4月13日のヴィデオもまだ落としていないので、プロコフィエフ以外の「演奏会評」は書けていないが、ドイツ放送ラディオでの注釈がなかなか面白かった。それは「キリル・ペトレンコがハ長調に拘っている」というプログラミングへのコメントで、フィルハーモニーでペトレンコ指揮で演奏された多くの曲がこの調性の響きで書かれている。それをしてペトレンコの音楽的な趣向だというのだが、その結論はあまりに短絡的だ。私などはこの天才指揮者の音楽を理解するために彼の考えそうなことをいつも想像しているのだが、するとそれは「教育的な配慮」となる。

まさか十分な教育を受けた楽士さんたちに変化記号の無い楽譜でおさらいして貰おうという訳ではないだろうが、彼がそのスクリャビンを指揮する際にインタヴューで語っていたことを思い出す。当時ペトレンコは同曲でシュターツカペレドレスデンなどを客演して回っていたので、「フィルハーモニカーでどのように響くか楽しみだ」と語っていた。つまり楽団固有の響きと楽曲の関係に興味を持っているのだ。そこからすればハ長調で以ってフィルハーモニカーの独自の響きへの認識と練磨への暗示になっているとしか考えられない。正しくピエール・ブレーズがこの楽団の最大の特徴で強みだとしたことに相当していて、どの方向に楽団が向かうべきかを示唆している。

この推測は当たらずとも遠からずだと思うが、音楽ジャーナリズム挙って「一体キリル・ペトレンコは我々を何処に導いていくのだ」とまるで「ハーメルンの笛吹」のように不安がっているのだが、ジャーナリズムの仕事として一つ一つの現象を丁寧に客観的に整理して提示して行くことしかないのである。それは一夜の演奏会においても一曲の演奏にしても全く同じことでしかない。ジャーナリストはジャーナリズムに徹するべきだという事を改めて明記しておきたい。



参照:
解像度が高まると 2018-04-14 | 音
ナインのはそこやで~ 2018-04-10 | 文化一般
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舗装の凄まじい衝撃

2018-04-23 | アウトドーア・環境
約束があったのでダイデスハイムまで走った。この時期は例年ならば家にいないが、今年は時間が無くてアルプス行も計画不可なので、精々走るぐらいで運動能力をキープするぐらいだ。だから折角普段は走らないルートなので、山登りのコースに入って高度を上げて降りて行くようなコース取りをした。理由は運動量だけでなくて朝から強そうな陽射しと、ワイン地所の舗装道路で膝を痛めるのがいやだったからだ。それに荷物を背負っているのでそんなに早くは走れない。それでもよくあの急坂を登った。まあ、トレイルランニングとなると水など最低の装備は持参しなければいけないので、なかなかなれないと厳しいなと思った。高度が低いから可能だが高高度になると厳しいだろうなと思った。

結局土地勘があっても林道などを走っているうちに方向感も失って、若干遠回りして約束の時刻に間に合わないような状況になってきた。一時間もあればと思ったが一時間半ほど走っていた。その割に距離が全く出ずに軽く超える筈の10㎞に至っていなかった。林道だけならば下りでもスピードが出るのだが、フラフラでリュックサックを背負て登山道を駆け下りてもスピードが出せなかった。街に出て舗装道になると更に辛く、後ろから若いお兄さんが倍ぐらいのスピードで追い抜いて行った。汗だくだ。そして約束の日程を一日間違っていたと気づいて、10分の遅れではなくて24時間10分も遅れていたことに気が付いた。

何とか涼まして貰って帰宅したが、帰りは計画の様に山には入らずに最短距離をワイン地所を通って戻ってきた。嘗てはその間を重い靴を履いて一杯引っ掛けて帰って来たりしていた。十年ほど前のことで、それがトレーニングだと思っていたころだ。流石にその距離感も走行時間も当時とは違って簡単に歩けたが、足が疲れたのは舗装道路のお陰だった。なるほど舗装道路は天候に拠らず歩き易いのだが、足への衝撃は甚大だ。車で移動するようになると足腰が弱るとか言われるが、舗装道路を歩く方が体への負担が大きく、非舗装道路の歩行と車の移動を心掛けた方が健康的であると信じるようになっている。勿論靴によって衝撃を軽減することは可能だろうが、どんな靴を履いていても舗装道路の衝撃は凄まじいと思う。

昨晩も三時間ほどしか眠れなかった。これだけ運動すればぐっすりと眠れるだろうか。腰が張っているのが気分が悪いが、気管支の炎症は更に改善されてきた。夕刻には再びフォラデルフィアからのコンサート中継を聞いてみようかと思う。クリーヴランドからのマーラーの交響曲9番もヴィーンでの6番もよかった。オーケストラも世界の頂点に至るとよほど指揮者が盆暗でない限り素晴らしい音楽を奏でる。フィラデルフィアは嘗てバーンスタインのアシスタントをしていたティルソン・トーマスが指揮者のようだが、どれほどの演奏をするのだろうか?楽しみである。



参照:
無花果の木陰の冷麦酒 2006-07-09 | 料理
体解しのジェラートとビール 2009-06-01 | 生活

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隠れ練習、お前もか?

2018-04-22 | 文化一般
キリル・ペトレンコの年末年始のスケデュールが出てきた。連邦共和国ユールオーケストラとのツアーのようである。ミュンヘンでのオテロ上演が12月21日までだから、年末年始に練習に入るに違いない。全くこの楽団との関係は気が付かなかったのだが、2009年の同じ時期にオネガーの「パシフィック」、タンの「ペーパーコンツェルト」、ストラヴィンスキーの1910年版「火の鳥」で、ツェレ、エッセン、シュヴァインフルト、ヴィーン、ベルリンと回っている。

今回のプログラムは、バーンスタインの「ウエストサイドストーリー」、ウィリアム・クラフトのティムパニ―コンツェルト、ストラヴィンスキーの「春の祭典」となっている。本人のコンサートプログラムの拡充も兼ねているのだろうが、イスラエルからストラヴィンスキーが続いていて、とても期待されるストラヴィンスキーである。

メディアではなにも分からない記者が、先日のベルリンでのプログラムを称してフルトヴェングラーへの回帰と語っていたが、ペトレンコの脳裏にフルトヴェングラーなどが浮かぶ筈がない。今まで最も意識していたのはカラヤンとアバドぐらいだろう。クラシックモダーンの充実は当然であり、取り上げる曲取り上げる曲が決定的な演奏実践になって行くとは思われるが、そのこと自体は話題になることではない。

今回のベルリンでのプログラムに関しては、SWRが今後のバーデンバーデンでの祝祭に関連して、上手な売り方への提案をしていたが、反対にどうも新監督就任を気持ちよく思っていない一派からはこうした満席にならない状況への非難めいた発言が出ている。実際にルツェルンでの同プログラムも大変苦戦しているのは事実でベルリナーフィルハーモニカーのコンサートがルツェルンで売れ残っているのを知らない。せめてアボにはこちらの方を乗せるぐらいにすればよかったのではないかと思った。しかしその通向きプログラムだけに原因があるとは言えないのは、大名曲でありながらあまりにも鳴らないシェーンベルクの協奏曲のプログラムもあまり動きは無い。一方ランランの方は舞台から遠くの席残り数十席となっているが、これもそれほどペトレンコのバーデンバーデンデビューの時とそれほど変わらないので、希望者が復活祭の二回目の演奏会に集中してしまった帰来がある。よって、シェーンベルクの方はいづれ可成り話題になってくると思われるので、寧ろランランの計画されているキャンセルで、最後の最後まで動きがありそうだ。

これに関連して興味深いのはBBCのプロムスが今後ザルツブルク、ルツェルンの後に入ってくるようで、再来年には隔年のブカレストのエネスコ祭りが入ってくるとすれば、もう一件ぐらい欧州のどこかのフェスティヴァルが組み込まれそうな気がする。勿論ワンの弾く方のプログラムの売れ行きは悪いだろうが、これもツアーが動くうちに変わってくるかもしれない。ペトレンコのコンサートプログラムは、演奏家だけでなくて、ジャーナリストや聴衆が試されているようなところもあって、なるほどSWRが言う様に教育を考えていかなければいけないのだが、それこそ音楽ジャーナリズムの使命で仕事だと思う。キリル・ペトレンコ指揮バイエリシェスシュターツオーケステルの申し出を無名の指揮者として断ったBBCのようだが、流石にフィルハーモニカーの申し出は断れなかったようだ ― 如何にBBCの担当の連中が業界の人でないかが分る。一晩ぐらい売り切れなくても文句も言えなかった事情も分かる。要するにツェッチマン女史は二回セットでしか売らなかったのだ。そこに指揮者のコンセプトも見え隠れしないか。ツアーの最後で演奏の質は上がるだろうがあの会場や聴衆ではあまり期待出来そうにもないのも現実だ。

ランランがルツェルンでのカムバックを楽しみにしているとのテュイートをしているのを見かけた。その真意は分からないが、本当にカムバックするとなると、その先のペトレンコとの協演まで組み込まれていることになり、彼のキャンセルは腕の負傷よりも他の原因という事になる。所謂隠れトレーニングという可能性も否定できない。まともにランランのピアノを聞いたことは無いので確信は持てないが、技術的に修正することでまともに音楽が出来るようになる可能性はあったのだろうか?もしそういうことがあればペトレンコとの共演も実現することになる。ワン自体も見る限り以前よりも苦労しているにも拘わらず批判が高まってきていることを考えるとなかなか容易ではないのだが、もしランランがとても器用な人であるならば技術的にも音楽を手を入れることは可能なのではなかろうか?



参照:
ランランは引退するか? 2017-10-19 | 雑感
演奏会発券当日の様子 2018-03-07 | 雑感
先の準備を整える 2018-03-16 | 生活
2019年復活祭の座席確保 2018-03-21 | 文化一般
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オペラ劇場ってところ

2018-04-21 | 文化一般
これを書こうとしたら、二回目上演の朝の新聞に一週間前の初日の評が出ていたのに気が付いた。今まで出す紙面が無かったのだろう。マンハイムの音楽劇場はどんなゲストの楽団が入ってもその程度は変わらなかった。つまりドイツの二流どころのその音楽的な演奏程度が良く示されていた。二流というのはその給与体系から両シュターツカペレやミュンヘンの超Aのその次のAクラス給与に含まれる。つまりBクラスもある。歴とした二流である。ドイツに移住した節には「オペラ劇場があるところに住みたかった ― 日本には存在しなかった」というような事をマンハイムの語学学校で例文にしたことがあるが、上のクラスとの差は分からなかった。そしてマンハイム程度では音楽の分かる耳効きには耐えられないことが直ぐに分かった。そしてザルツブルクなどのスーパーオパーを経て、ミュンヘンで本当のスーパーオパーに慣れ親しんだ耳で四半世紀ぶりにマンハイムに戻ると余計に耐えられなかった。ゲストの古楽楽団がシュツッツガルトから訪れているのにも拘らずである。

出掛ける前には、フランクフルトの我々のバッハコンサートで様々な欧州のトップクラスの古楽楽団を招いたことから、四半世紀前の録音などからすれば遥かに優れた演奏が奏される期待をしていた。その希望は昨年末に訪れたロココ劇場でもそれほど裏切られなかった。しかし今回は弦の音調も合せずに前半を通してしまう野蛮さには我慢がならなかった。そのような指導者であるからリズムもしっかりとれないのが示すように、舞台への指揮も全く出来ていなかった。要するに音楽的準備が出来ていない。勿論イタリア語の叙唱であるからドイツ人には難しいのだろう。だから余計にパッサカリアの出し方だけは見事でルネ・ヤコブスやアーノンクールでもなせなかったような明晰に驚いた。基本的には恐らくナポリ版で精々四声の扱いで、デュプレの曲などを交えてモンティヴェルディ指導とは関係なく本当に挿入曲を入れたセンスは決して悪くは無かった。
»Die Krönung der Poppea« von Claudio Monteverdi


我々音楽愛好家には下手な演奏に我慢できない。勿論音楽は技術だけではないのだがアンサムブルとなると最低のことが出来ていないと話しにならない。我々がオペラ上演には何も期待せずに、態々出かけないのは、それを聞いていられないからである。しかし、ミュンヘンで経験したことは指導者がしっかりしていて超一流の歌手を集めればある程度の上演が可能になることであり、どうしてもそれをオペラ上演の基準とすると更にその差異に我慢ならなくなる。出来る人は十二分の練習の上に更に舞台への指揮まで細かくするのを思うと、如何に方や天才コンサート指揮者とはいいながら、通常のオペラ業界で棒を振っている人の職業は全く異なるのを知らされる。

ガイダンスの席で一緒にベルリンの国会に行った知り合いの夫婦に出合ったが、SWRの記事を読んでいた。私もそれで出かけた訳だが、これであの連中ならばシュツッツガルトに就任するカラヤン二世君を絶賛しかねないのも合点が行く。要するに文化波とはいってもそこで書いている一部は全く音楽のドレミも分かっていない連中なのだとハッキリした。音楽的にあれで満足すると書いたらもはや音楽について一言も書く必要が無い。

そして私が今回ロージェを独り占めして30ユーロであったが、ミュンヘンでのそれとの価値の差は大きい。私の場合はミュンヘンへの往復で80ユーロ駐車料金最低14ユーロにプログラム代が掛かるので、マンハイムへの全て合わせて15ユーロほどとは大分違う。それでもやはりマンハイムには芝居訪問だけにしたいと思った。ミュンヘンに住んでいるのとマンハイムではこれだけの違いがある。それだけ聴衆の質も違う。その点も今回確認したかったことで、バーデンバーデンでのその評価の資料にしたかったのだ。

それでも新聞にあるようにその公演自体は音楽的な価値を差し引くと音楽劇場としての価値はやはりダルムシュタットやハイデルベルクよりは上だった。流石に名門シラー劇場の素地がある。そのヴェネツィアの水を張った舞台は音響的な悪影響が多大で二幕だけは水が無く落ち着いていた。要するに音楽劇場の演出としては非常に不味かったが、芝居の舞台としては決して悪くは無かった。そしてポッペア役のニコラ・ヒレブラントはザルツブルクやミュンヘンでも歌っているように最後をピアニッシシモで歌い熟していて技術的にもまだ先のある人であることが際立った ― 愛の二重唱を歌いながら子供をムシコロの様に二人で絞殺した情景の後で。その他バリトンのバルト―ス・ウルバノヴィッツや、ご当地で人気のマレーべル・サンディなど何人かはある程度の水準の人が居たが、なるほど嘗てのマルクス・アイへなどがミュンヘンに行くと声が無いと批判されるのが分かるような陣営だった。あの程度の会場であの声ならば到底ミュンヘンでは難しいという人が殆どだった。合唱団の声のトレーニングもやはりミュンヘンのそれとの差は明らかだった。

さてもう一つの興味であったのは二十年ほど前に新装なったオペラ劇場である。購入したのは上から四番目のクラスだったが、視界も写真の様に良く、一部上手が切れるぐらいだった。テロップも見やすく、近代的な劇場としても悪い方ではない。なによりも1156席よりもコムパクトな感じで小劇場と同じコンセプトで平土間が傾斜付けられていて悪くはない。音響はこの大きさならばともう一つ上を望みたいが、少なくともマンハイムのあの座付き管弦楽団には以前の劇場よりも明晰さが増したので悪くは無かっただろう。建築素材などは安物の公団住宅や二等客車のようでマンハイムらしく安物臭い。それでもあそこであの「パルシファル」がやられるのかと思うとうんざりするのも正直なところである。よほどしっかりした指揮をして貰わないとどうしようもないのは変わりない。ある意味、視界も音響も、倍もあるバーデンバーデンの劇場のそれは可成り奇跡的な成功例であることを改めて確認した。




参照:
「ポッペアの戴冠」再会 2018-04-15 | マスメディア批評
偉大なるマルクス様像 2018-04-16 | 文化一般
ツルツルピカピカに 2018-04-17 | 文化一般
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ポッペアに追い込まれ

2018-04-20 | 
何時もの様に追い込まれた。「ポッペアの戴冠」の準備はまだまだだ。最後の最後に版の選択など細かな具体的な事項に目が行くかどうかわからない。それでもどのような取捨選択がされて、現時点でのモンテヴェルディ解釈の一端を垣間見てみたいと思う。ルネ・ヤコブスの録音もシュヴェツィンゲンのロココ劇場での公演も20世紀を否世紀末を代表する演奏実践なのは違わないが、それならばそれから四半世紀経った今、それがどのように発展解消されているのか?

例えば二幕のマドリガル風の音楽構成は正直音楽劇場のドラマ的発展が無い限り少なくとも我々の耳には退屈でしかない音楽となっている。その理由は、特にルネッサンスの対位法の音楽に慣れた耳にはあまりにも単純に収まり過ぎていて、マドリガールと特定しないでも復古的なルッソーのその和声の重力に辟易するのとよく似ている。それらが北ドイツに移植されるとシュッツなどの嘆き節へとそして中部ドイツのバッハ家族へ流れていくことになる。蛇足乍らそこに20世紀の大衆音楽となったカラヤン指揮の管弦楽などの和声の響きと同じく、あまりにも当然過ぎるように収斂してしまう単純さへの嫌悪に近いものを感じる。

Monteverdi - L'Incoronazione di Poppea, Schwetzinger Festspiele, Trailer [Arthaus Musik 102304]


ルネ・ヤコブスの表現自体は、当然のことながらその和声的な重力感を伴った繊細へと表現の方向を定めてはいるのだが、如何せん基本となるマドリガール自体がそのように書かれている限り、そうした冗長さは避けがたいかもしれない。上のような理由からモンテヴェルディの今日的な意味合いをマドリガールに見出すのは難しいのだが、オペラにおけるやはりその劇場表現媒体の基礎としての関心は変わらない。なんといっても久しぶりの生公演に接してみないと語れないことは沢山ある。

あとどれほどの時間があるかは分らないが、学術的な検討や解釈によって導きされるその残された楽譜や台本からの解釈の余地はそれなりにあるようで、どうしてもその一貫した演奏解釈の肝心な所だけは準備しておかないと皆目解らないと思う。

それでもCDのノートにもあるように、残された楽譜の読み方は重要で、ヤコブスが叙唱におけるリズムの訂正などについて触れている点が重要だ。つまり氏の経験からモンテヴェルディがテクストから逸脱する記譜をすることは殆ど無くて、二カ所のドラマ的な肝心な部分を除いて、この「ポッペア」でおかしい点は間違いなく他の人によって記譜されていて、その他の人によっておかしなオブリガートなども付けられている箇所は訂正したとある。

これは歴史的な演奏実践の場合に良くなる点であるが、少なくとも何らかの楽譜が残っていて、その楽譜がいい加減なものとすればそもそも歴史的な価値などは無い。あるのは装飾とか、現実の楽器やその機会に合わせた時代考証などであって、最初の物はそもそも歴史的に継承されているものでもありあまり問題は無く、寧ろ叙唱などの自由度の重要性が器楽的な通奏低音のそれに勝ることは当然のことである。勿論、ヤコブスの書く様に、カストラートが現在はいないという事の方が音楽劇場表現には頭の痛いことであることは言うまでもないだろう。

朝一っ走りした。短い坂上がりコースだったが、最初から普段の感じに近づいた。息使いも普通になってきた。少なくとも前回とは大違いだ。まだまだ早くは走れないが、掻く汗が気持ち良いものになってきた。これで劇場でおかしなことにならなければ嬉しい。



参照:
ツルツルピカピカに 2018-04-17 | 文化一般
偉大なるマルクス様像 2018-04-16 | 文化一般
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隠されている問題

2018-04-19 | SNS・BLOG研究
比較的早い時間に走った。折り返し点で汗を掻いた。陽射しが充分だ。まだまだ本調子ではないのだが、前夜も煮豚のスープにニンニクとショウガをおろして、コラーゲンラーメンとしたので満腹度以上に効果があった。気管支の炎症も治まって来ていて、木曜日でのオペラ公演中の鼻水と咳は何とか抑えられるかもしれない。しかし、のど飴だけは忘れてはならない。

そのような塩梅で「ポッペアの戴冠」を水曜日中に最後まで通しておかなければいけない。天気が良く摂氏27度ほどまで上がりそうで、Tシャツの生活が始まった。まだ風が冷たいので半ズボンは必要が無いが、気持ちの良い季節になった。そのお陰で窓を開け放って仕事することになる。すると流石に市の役所前に住んでいるので町が騒がしい。週末にも反対側のシャンペン工場でお祭り騒ぎの喧しい音楽が流れていた。あれは音楽というよりもただのリズムボックスの野蛮なものでしかない。今回ノイズキャンセリングのイヤーフォーンを購入する心算なので、自宅でもワイン祭りの時にどれぐらい効果があるのかと旅行時以外の使用の可能性に気が付いた。あのリズムボックスと喧噪がどれぐらいキャンセルされるのだろう。キャンセルされて圧迫感があると生活にならないので適当に音楽を聞けるぐらいの感じが良い。高等な耳栓替わりである。

ネットで様々な音楽に関する話題が飛び交っている。エルブフィルハーモニーでのカーネギー公演への壮行演奏会のクリップが上がった。最初に上がった時には二時間もしないうちに消去された。どこが問題だったのかは調べると分かった。見出しのテロップの演奏会の期日が23日のところが24日と間違っていたのだった。その映像の鮮烈さと座付き管弦楽団らしくない分析的な響きが聞ける貴重なヴィデオである。会場が違い、管弦楽団の並び方も違い、楽員がお互いに目が効くので、全く違う指揮捌きと演奏が出来たと話題の演奏会であった。なるほどこの鳴り方は今までこの座付き管弦楽団が経験したことが無いアンサムブルとなったことが分かる響きである。一体地元のハムブルクの管弦楽団はどんな響きを奏でているのだろう?
Kirill Petrenko and the Bayerisches Staatsorchester: Tschaikowsky's Manfred Symphony (Clip)


日本の音楽評論家と名乗る教授がお話しにならない音楽会の感想を書いている。益々日本人の教養や学術的な程度が落ちてきているのを感じさせる。吉田秀和の文化勲章でさえ可成りスキャンダルなものだと思うが、まだ彼の場合は自身はただの物書きだと自己弁護していたので救いようがあったが、少なくとも学問をする者が非科学的な思考でなぐり書きをしているのが日本の文化で芸術の程度である。

しかし、フランスでもドイツでも音楽芸術特にオペラ上演に関してはあまりその程度は変わらない。フランス人でヴァンダラーと名乗る人の書いたもので分るのだが、特に注目したのは「バーデンバーデンの聴衆」について触れた部分だ。その聴衆の質で容易にザルツブルクと比較されているが、なるほど夏や復活祭の音楽祭とバーデンバーデンの都市圏の地元民とは大分違う。

しかしここにもう一つの問題が隠されていて、それは日本からの聴衆が経験したことと共通していて初日以降のこのフランス人の経験した聖金曜日と最終の復活の日曜の上演などは初日の地元の人たちは殆ど居らず、もしいるとすればバーデンバーデン周辺で地元の無関心層に捌いたようなティケットを安く購入した人が多かったと思われる。それは初日でも第一幕が終わってからザイテンバルコンのみならず正面のバルコンからも人が沢山消えた現象が物語っていた。経済的には成り立っているようだが、有効入場者数には幾らかの偽りがある感じさえするのである。

La question des productions de Baden-Baden se pose à plusieurs niveaux, aussi bien artistiques qu’économiques et sociologiques. Le public du Festival de Baden-Baden est moins habitué que celui de Salzbourg aux productions un peu décoiffantes.

もう一つの問題として、今シーズンで勇退するメーリッヒ・ツェブホイザー支配人の責任について触れているが、これはある意味正しいのだが、つまらない演出に金を掛けるぐらいならば適当にした方が良いだろうという言い訳も成り立つ。大問題はその芸術的コンセプトを描くことの出来るような人物ではなくて、なにはともあれ破産した劇場を今後の可能性を期待出来るほどまでに経済的に立て直した功労を語るべき人物である。

Enfin au niveau artistique, l’énormité du théâtre et du plateau déterminent des choix, mais le directeur artistique, Andreas Mölich-Zebhauser qui n’a jamais été trop intéressé par la question scénique. Baden-Baden est un Festival d ‘ « events » où les mises en scènes trop problématiques ou idéologiques ne semblent pas trop bienvenues.

その他のアコースティックやラトルのオペラ指揮に関しては態々触れるまでもないことだが、結局ヴァークナーの音楽劇場作品に関してはそもそも音楽劇場効果を期待していく人間の方に落ち度がある。本当にその効果を信じている人が居るのが不思議でたまらないのである。セリフ芝居を音楽劇場と比較すれば一目瞭然であるが、どうしてこうもヴァークナー愛好家はなんとも非理知的なのだろうと感じるだけだ。要するに音楽だけでなくて劇場空間もよく理解出来ていない人たちなのだ。



参照:
ツルツルピカピカに 2018-04-17 | 文化一般
「ポッペアの戴冠」再会 2018-04-15 | マスメディア批評




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華為製品を買い物籠に

2018-04-18 | テクニック
プライムシートという無料でデジタルコンサートホールを聞けるサーヴィスを試してみた。デジタルコンサートホールの音響面を担っている日本の企業体であるから日本国内限定無料なのだろう。我々音楽ファンにとっては動画はどちらでもよいことの方が多く、ハイレゾリューションで無料で聞ければあとはトレイラーだけを見ていればもう要らない。試してみるとやはり重かった。少なくとも現在の私のスピードでは少しだけ音を聞けたぐらいであとは流れなかった。今回は断念するしかないが、八月のベートーヴェンプロはこれで聞いてみたい。

そのためにこちらの環境を整えるべく、昨年二月から懸案となっていたグラスファイバー回線へと移行する手続きを取った。机周りだけでも三種類の電話回線と少なくとも五つの電話番号があるので、これを整理するのも目的だったが、その支払元など様々で複雑だったのだ。どうも一つの番号は廃止にしないことには、回線数を減らすことは難しいようで、先ずは新しい契約についてくる新たな二つの番号が増えて、全部で七つの番号になる。最初半年は割引価格なので、それが切れるまでにもう一つの回線を解約すれば事実上月々の全支払額は殆ど増えない。

なによりもインターネット回線が二つになることで偶に起こる「音信不通状態」を避けることが可能になるだろう。そしてなんといっても毎秒27.9MBit以上のダウンロード、2.7MBit以上のアップロードが保証されるために、現時点での大抵のネットでのコンテントは問題なく落とせる筈だ。今回は間に合わなかったが、今まで遅れたのには最初の導入時期のよりよいお得なオファーを躊躇させた原因は他にもあったからだ。なによりもそれ用に準備されているルーターの評判が悪く、飛びにくいという事だった。

グラスファイバー化を果たしても現在使っているデジタル回線は維持するためにルーター二機がWiFiを飛ばすことになって猶更その性能や安定性が問われた。しかし評判は散々だったので、そのモデルが一掃されるのを待っていたのである。独テレコムのやることであるから、その予定数を導入時期のお徳用パックで捌いてしまわない限り、それに代わる機種に力を入れない。漸く、通常にルーターと一緒に注文して、月々賃貸料払っても新モデルが主力になってきたことを確認した。要するに少々安くても旧モデルは御免だったのだ。そして今回新モデルの賃貸料金が5ユーロ弱になっていて、アマゾンで購入すれば115ユーロなので二年も掛からずに償却可能となる。つまり買いだった。これで決心した。

これで上の速さならばデジタルコンサートホールもその他の生中継映像も少なくともこちらの速度でその質に制限が掛かる事は無くなる。室内のWiFiに関しては従来通りで使えるが、NASは新しい方がDLNAとも上手く使える可能性が高い。するとどうしても従来のルーターで構成しているWLANの方はサブのシステムになってくる可能性が高い。そこまで新システムがよいならば万々歳だ。そしてなんていうことは無い、メーカーは華為なのだ。流石に信頼おける独テレコムの選択だ。

最後までの問題はFAX専用にしている番号が移せないようなので、FAX番号が変わることになることだ。平素からその番号を使っているのは必要のない宣伝目的の業者なので全く問題は無く、もはや仕事でFAXを使う人は殆ど居なくなっている。少なくとも電子メール化している。個人的に最大の問題はその番号を印字してある名刺と便箋がまだまだあることで、便箋の方は印字で変更してしまえばよいが、名刺の方は少なくとも線で消さないと不親切かもしれない。大抵の人は電子メールか電話をする筈だが。携帯電話の番号もいれていないのでこれも手書きで加えることはしばしばあるのだ。勿論契約を解消する前にもう一度だけ番号移転も相談してみたいとは思っている。



参照:
Accept 華為 or 羽佳!?  2018-02-23 | 雑感
I love „Made in China“2018-04-08 | 生活
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ツルツルピカピカに

2018-04-17 | 文化一般
久しぶりに煮豚を取ってきた。前回は謝肉祭時期であるから二月程ぶりだろうか。とってもそのようなものを食する元気は無かったが、ここに来て全快への道を歩んでいる。それでもまだ口がおかしく、ざらざらしたりするので一週間投与した抗生物質の副作用が出ているのかもしれない。

久しぶりに峠を攻めてやはり疲れが残った。特にどうのこうのというわけではないが、インフルエンザの影響がぶり返したような微熱感などが残った。決して悪くはなっていないのだが、まだまだ元気がない。そこで煮豚を食することにしたのである。なんといってもコラーゲン満載で、これだけで口の中のざらざら感や肌乾き感などが一掃される筈だ。東洋医学的な効果をそれほど信頼しないが、この煮豚の効果だけは普段から実感しているので間違いない。これで精がついて全身がツルツルピカピカになってくれると嬉しい。

「ポッペア」のお勉強は奥が深い。ザルツブルクでのプログラムを見つけた。演出はユルゲン・フリムとあった。あまり記憶にはないが比較的分かり易い舞台だったと記憶する。1990年代初めのプログラムを見ていると全く覚えていないコンサートやオペラが次々と出て来る。如何に記憶に無いか、如何に意味の無い催しだったが、それも記憶に無い。しかしざっと見ると、今のような念入りの準備どころか、自身の好みとか目的がハッキリしておらず、ただ有名で定評のあるような出し物と演奏家の催し物に通っているようで、逆に特殊な目的を定めて出かけたものは記憶に深く残っている。要するにミーハーまでは行かなくても、一種のクラオタ的な思考がどこかにあったのかもしれない。勿論プログラムを見ると微かに思い出すものも少なくはないが、全く思い出さないものもあってがっくりする。あの当時はその上に開演前にアルコールを飲んだり、休憩時に飲んだりしていたものだから全く残らない。時間と金の無駄だったと反省する。要するに、「俺はあれに行っていたということを自慢する程度のバカな行為」をしていたという事になる。浪費以外の何物でもない。

残念ながら当時のザルツブルクのプログラムは、マルティン・ヴァルサーの手記が載っている位でそれ以外はあまり資料的価値が無い。歌手もマックネールとかぺトラ・ラングとかクルト・モルとかが歌っているが、プロフィールも載っていないのでその当時のそれも分からない。変なプログラムだ。

それに引き換えアルモニアミュンディのCDのブクレットは情報満載だ。なんといってもルネ・ヤコブスによる楽譜の読み方の論文がとても興味深い。それによると二種類の手書きの譜の系統があって、ヴェネツィアでの上演、ナポリでの上演に纏わるもので、二通りに別れるらしい。いずれにしてもそこでの器楽的な音楽はシムフォニアとリトネッリに限られて、通奏低音を伴った音楽によるドラマであることには変わりない様だ。そして、そこで演奏させる器楽曲はモンテヴェルディの指導の下で各人に作曲された器楽曲となるから、先日のSWRでの当時の常套として様々な器楽曲がという事がこれに当たるようだ。

ブックレットにおいてもその著作権の捜査は音楽学者に委ねるとしているので、まあ「様々な曲が挿入されたという言い方」は、何も適当に取捨選択して挿入するという事ではないという事だろう。そして当時はまだ座付き管弦楽団という楽団が存在しなかったとなれば、当然今回のマンハイムでの公演の様に二本づつの楽器編成が正しいとなる。ヤコブスは中声部に当たるヴィオラを書き加えているようだが、マンハイムでも同じような様子だ。

そしてヤコブスに言わせると「当時の劇場は500人規模だったことを考慮すれば、現在の劇場は大き過ぎる」となるが、マンハイムは1156席あるらしい。ロココ劇場の二倍である。但し古い劇場とは違って響きはよいかもしれない。奈落の深さなど色々と考慮する点はありそうだ。



参照:
コラーゲンをたっぷり摂取 2016-04-13 | ワイン
「ポッペアの戴冠」再会 2018-04-15 | マスメディア批評
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