Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

どやしの宇宙の摂理

2008-07-19 | アウトドーア・環境
今月は「どやす」記事から入った。やはり色々考察する事がある。それほどでなくとも自分がどやされた経験はどれほどあるかと考えた。雷オヤジに相当する父親はやはり誰でも最もどやされた相手であるだろう。

しかし、実際は具体例をあまりよく覚えていない。数が多かったのか少なかったのかなんとも云えないが、あまり印象には残っていない。寧ろ他人にどやされた事の方が印象に残っている。その当初は厭な印象を覚えたのは当然であるが、今は懐かしい。本人のいらち*な性格は変わっていないだろう。

その状況を考えれば、その怒鳴った人物の性質や気持ちがよく理解出来るからである。十代のその当時は、なんとせっかちな可笑しな男と思ったのだが、なんとなくその心情が分かるのである。それどころか懐かしく思うのは、彼がどやしてくれたお蔭で自分を取り巻く環境が少なくとも幾らかは今でも見えるからである。

それはどういうことかと云えば、その個人の性格や生い立ちによって家庭の中で口煩く云われていることでさえ、実際は自分の行動が他人にどのような影響を与えているかが分からないからである。謂わば、音の跳ね返らない無饗室の中で幾ら喋ろうが歌おうが暖簾に腕押しで頼りないのである。

特に何気無しにやっていることが、他人にどのような影響を与えているかを知るのは意外に難しい。自覚のない罪である。それが直接な形で感情渦巻くどやしとして反照されることによって、初めて自らの起こした影響を感じ取る事が出来る。

近代社会は、そうした感情的な反照を法秩序の中で、罰として反照する事で複雑化しているが、個人的な次元ではそれでは不十分な場合が多い。そのような感情的な反照を欠き些細な規約が数多く作られる社会になればばるほど、無饗室の頼りなさを感じて大声で叫ばなければいけない。

規約などはそもそも破るために存在するようなもので、自らの行動に対する反照を欠いた社会にあればこそ、出来る限り注目を集める大反響を期待した凶悪犯罪が好まれて履行される。

世界の何処の大都市においても他人への無関心は、その社会の寛大さとしてはかられる一方、自己存在の希薄さへの原因ともなっている。如何に他人と係わるかの方法は様々であるが、最も確実で価値があるのは自己の感情をぶつけることに他ならないだろう。

それがよいかどうかは、必ずや反照として戻ってくるのであり、宇宙の掟はそうしたものなのであろう。そもそも反照のない、ガスの抜けたビールのような、宇宙空間などは考えられない。そのようなものなら無い方が良い。

*関西方言



参照:
スーパーのレジにて (壺中山紫庵)
二つ目のお詫び状が届く [ 生活 ] / 2008-07-01
誤りの自覚と認識 [ マスメディア批評 ] / 2008-06-29
豚とソクラテス、無知の知 [ マスメディア批評 ] / 2007-08-14
春雨じゃ,濡れて参ろう [ 雑感 ] / 2008-04-11
生への懐疑の反照 [ 雑感 ] / 2005-11-15
求められる明快な宇宙観 [ マスメディア批評 ] / 2006-05-25
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