私の生家は岐阜の中濃である。
結婚前職場の仲間に誘われて大日ヶ岳までスキーに出かけることになった。
上司の二人と後輩の女性との四人だったが、当時失恋にめげていた私は出かけるのが、おっくうだったせいで、家の裏を走る越美南線の約束の時間の列車に乗り遅れてしまった。
一つ後のジーゼルで北濃の駅についてからスキーを肩に、2キロの雪道を歩いて登って行った。道野辺の木々は樹氷が旭日にきらきらと照り映えて美しく清浄であった。
当時昭和二十年代は未だスキー靴ならぬレインシューズがまかり通っていて私もスキーこそ妹の買いたてを借りて行ったが、靴はレインシューズであった。
銀世界の中をゲレンデに着くと職場の仲間は「よく来た、よく来た」と喜んでくれた。
男性の一人と後輩のKちゃんは信州の出の人なので、スキーはお手の物で右に左に滑べりまくりクリスチャニアまでこなしていた。
私はリフトの順番待ちがまどろっこしいので、横向きになりスキー板を雪に斜めにつきたてて登っては滑っていた。麓の貸しスキー屋は繁盛していたが、スキー場には山小屋もなくて、お昼はおにぎりだったかお茶はどうしたのか、さっぱり覚えていない。
そんな私をめがけてサングラスの男性がさーっと滑って来て止まった。見るとこの会社へ就職する前に通った算盤塾の先生であった。
帰る頃になると時々吹雪いて来る雪が根雪に積もって道が固くなるので、こわごわ苦労をしていたら横を通り越していく、高校時代の先輩の二人づれの男性の一人がスキーの板と板の間に自分の板を入れて後ろから私を抱きかかえて駅迄滑り降りてくれた。
思わぬ助け舟にあって仲間にも追いつき、終列車にも乗り遅れずにすんだ。
就職して三年の間に算盤塾の先生は私の卒業した高校の先生になっておられた。いつの間に撮られていたのかセーターにショーちゃん帽子でストックの写真をパネルにして仲人さんを立てて結婚の申し込みをして来ていた。
にべもなく断り、見合い結婚で名古屋へ来てしまったが、失恋の落胆とは裏腹にけっこうゲレンデでは齢相応の華が咲いていたのだなあと今になって思うのだが、その方ももうこの世には居られない。
俳句 煤逃げといかぬ一人の侘び住い
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「残念至極」です。
男性は、終世は、”忘れられない人”で、
あったことでしょう。
雪国育ちの私には、こんな素敵な思い出はありません。
今のように、除雪車のなかった時代でスコップで除雪、除雪の日々でした。
従って、春の瀬音は天からの最高の贈り物でした。
春めきて瀬音聞きつつステップす