教室が終わると、途端にTさんがアッシーくんを買って出てくれた。図書館に寄りたい用事があったが、外は寒いので厚意に甘えることにした。
開口一番「あなたのブログに御嵩の炭坑のことが書いてあったけれど、僕はあの町の東濃高校の出身でしてねー、慣れ親しんだ体育館がある日突然崩落して、沈んだんですよ」とおっしゃる。 それが伝えたかったのらしい。
私より二、三歳は若いから在学中ってことは無いのだろうが、何年くらいの事か聴くことを忘れた。
「実は私、この文章に限ってアクセス数が多いので、恐くなって早く早くと他の事に移ってしまったんですよ」と言って居る内に我が家についた。
Aさんからも、パソコンに「私の町にもあったんですよ」とのメールが入っていた。
万博の頃夫の墓から東名高速道路越しに南を見ると、万博会場用の広い広い駐車場があって、こんなに離れた所にあってもそこまでどうやっていくのと真面目に心配したものである。
次の用途の為だったのか、五年の間に立派な街になった。多くはチエン店で、スーパー、薬品、レストラン、和食処、パン屋などが、戸建ての若者の住居、などとひしめく様相をなしてきた。 長久手南部のこうした発展の次に最近では、日進北部も田園や小高い山を崩して整地整地に明け暮れている。
炭坑のあったと思しきところも平地になった。この広陵だけは、この辺のシンボルだからと思っていたところも、ブルドーザーが入っている。
おそらく市の都市計画の青色図面の上のことであろう。現状保持とか競争地区にしないとか、不自由を偲ばせるとかを律する意思や姿勢が、社会通念として必要だと思う。
俳句 寒禽の弁天池に守られて
“青図”は物を作る製造図にもありましたが、一般には計画図の意味で使われた言葉のように思います。
昨今はパソコンが発達して、図面はCADAMを使ってディスプレイ上で描き、プリントアウトしますから、青一色の図面ではなくなっています。だから 死語 とは言いませんが 過去の言葉 になってしまいました。多分、若い人には通じなくなっていると思います。