その昔、北京の前門大街にある「全聚徳」という有名な北京ダックの店を訪れたことがある。タクシーから降りて、数百年の伝統を持つという立派な構えの店の玄関口に近づいて行くと、キンキラ衣装に身を包んだドアマンが近寄って来て、にこやかに僕たちを迎えてくれた。そして、ドアマンに誘導され僕たちが御殿のような建物の中へ入りかけたとき「あ、入口はそっちじゃないんです」と後方から、案内してくれていたK嬢が呼び止めた。
「そこは外国人用です。私たちは中国人用の入口から入るのです」
K嬢には旅行中ずっと「観光向けではなく、素顔の中国を見たい」と言っていたので、あえて「別の入り口」から入るよう配慮してくれたのだ。店は建物の中でふたつに分かれており、個人旅行だった僕たちには、同じ全聚徳でも中国人用のほうで北京ダックを食べる方が体験としては面白いだろうと思ったからだ。
「同じ料理で値段が外国人用の半額以下ですから」
それはいい。ゼッタイにそのほうがいい。
隣で妻も頷いていた。
店の裏手の入口へ回ると、その雰囲気は一変する。表玄関の面影はまったくなく、薄汚れた小さなドアがあるだけで、むろんドアマンなど影すら見えない。
店内に入ると、数組の中国人客がテーブルにいたが、全体的にはガランとしていて、4、5人のウエイトレスが顔を寄せ合ってぺちゃくちゃと話をしていた。みんな若い女性だが、そのうちの1人が僕らを見て急に表情をこわばらせた。その目つきは、間違いなく
「くそッ、せっかく楽しくしゃべっている時に邪魔が入ったわ」…という目であった。
そんな気配を露骨に顔に出しながら、そのウエイトレスはツカツカと僕たちのテーブルにやってきた。
「なによ、あんたたち」
という感じでヌーっと立ち、注文を聞く。
愛想のかけらもない。
K嬢が北京ダックを注文したら、そのウエイトレスは「こっちへおいで」というしぐさで僕たちをテーブルから少し離れた場所へ連れて行き、皮を剥がれて天井から吊るされている何羽ものダックを指さして、「どれにするか?」と尋ねるのである。
そう言われてもどれも同じようなものなので困った。でも、グズグズしてムッとされても困るので、「で、では、あれを…」と、適当なのを指さして席に戻り、座って待っていると、その時である。ビューンと後ろから、テーブルへ何かが飛んできた。
「…ん?」
と、その飛んできたものを見ると、小さな袋に入ったお手拭きだった。ここのウエイトレスのおネエさんは、座っている客の背後からこれを投げてよこすのである。信じられますか?
ウエイトレスたちは相変わらずぺちゃくちゃ雑談を続けている。客などまったく眼中にない様子で、夢中でしゃべっている。それに比べて数組いるお客たちは、とてもおとなしい。店内に響き渡るのは、すべて彼女たちの雑談の声である。
しばらくして今度は「ガッチャ~ン!」というけたたましい音が店内に響いた。またぎょっとしてその方向に目をやると、1人のウエイトレスがお盆からグラスを落とし、割れて床の上にこなごなに散乱していた。
これが日本なら、店側は恐縮してグラスの破片をあわてて拾ってまわるところだが、そのウエイトレスはいささかも動じることなく、「チッ」と舌打ちして、立ったまま、足でグラスの破片を蹴りながら隅のほうへ寄せているのだ。
近くにいた客たちは、見てはならないものを見てしまったように、あわてて目を伏せ、息をひそめながらひたすら食事に集中しようとしている。店内に、異様な空気が漂った。
そんな雰囲気の中で、僕たちは本場の北京ダックを食べ終えた。その雰囲気に圧倒されて、それがどんな味だったのかよく覚えていないほどである(おいしかったことは確かですが)。
驚くほど安い代金を支払ってその店を出たのはいいのだけれど、目が合うだけで何か因縁をつけられそうなあのウエイトレスたちのコワ~イ表情を思い浮かべたら、もう一度「全聚徳」の中国人用へ行くか?と言われても、うぅ、ちょっとためらってしまいますね。
北京でのいろんな体験は、日本では考えられないようなことの連続だったが、このレストランでは、わが人生で最も行儀の悪いウエイトレスたちに巡り合う…という貴重な体験ができたことは、まあ、よかったかも知れない。
それにしてもねぇ、あの接客態度…。
今でも思い出すと、怖い。