めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

現代社会を牛耳るバブルの申し子達

2018-09-22 12:41:27 | 日本人

若者達が未来の夢を見られない社会、高齢者達が安心して老後を過ごせない社会は
一体何が起こるのでしょう。
今、現実に起きている様々な社会問題は、問題を起こす人達や様々な社会トラブルが
問題であるのではなく、その様な問題を生む環境が成せることであり、戦後日本社会が
国民にとって決して好ましい発展を遂げて来なかった事に因ります。

日本経済社会が創り上げた日本社会は、全ての世代に不安と不信感を与え、ただ
経済的利益を得る事のみに国民の目標を定めた事が問題とも言えます。
戦後、国民が失ったものは、多大な財産だけではなく、人としての豊かな生き方
人を信じる事、他人を思いやる事を失ってしまったのです。

例え、敵国と言え、対戦国の人を憎み、傷つけ殺す事を良しと悪夢の時代を経て
日本人の人としての心は大きく傷つきました。
戦争は、勝敗に関係なく、両国の国民の心に大きな傷跡を残し、その苦しみは、
半世紀以上たっても人々の心に悲しみの思い出として深く刻まれているのです。

しかしながら、過去70年以上に渡って、国が行って来た戦後復興政策は、
まず第一に経済産業を復活させ、世界の先進国に経済的に追いつく事でした。
日本人の生活すべてが、産業を発達させ、経済的に豊かな国に成る事でした。
戦後全てを失った国民は、戦勝国アメリカの様に経済発展を遂げれば、
日本もいずれ、世界の大国に肩を並べるものと信じて疑いませんでした。

まずは、日本経済を支える大手企業から優先的に補助を行い、それに伴い
日本中の企業を発展させると言う、所謂、日本列島改造論が主流となりました。
国民は、工業大国になる事を夢見て、一生懸命働いたのです。

所が、この日本改造計画における国民の力は、常に企業発展の為に向けられ
子供達の教育においても、将来、優秀な企業人となるべく教育が主流と成りました。
誰もが、高度な教育を受けられる社会と成っても、その根幹は変わらず、
国民の努力は、将来の社会での活躍の為に有りました。

子供達は、お互いに競い、少しでも成績を上げ、有名な高校や大学に通う事が
ステータスと成って、子供達の価値は、如何に大人が欲するような子供に成るか、
その為には、周囲の人間の事を構っている暇は有りません。
自分の価値を評価されるのは、成績だけしかない世の中だったからです。
子供たちは、いつか大人に成れば、この努力が報われ、自分の人間としての
価値が認められると固く信じて日々勉学に勤しんだのです。

しかし、高度成長期に於いては、雇用も多く、自分の望む社会の一員として
活躍する事が出来ていたのですが、バブル崩壊後は、その変則的な教育が
一機に国民を苦しめる様に成ったのです。
バブルまでに社会に於いて財を成した人達は、世の中が不景気と成り物が売れなく
なって来ると、若者達への社会への扉を次第に閉ざして行ったのです。

経営が不振となると、自分の事しか考えられない高度成長期の経営者は、
自分達だけが生き残れる様に、一番の経営出費と成る雇用を減らす様に成ったのです。
優秀な成績を収め、最高学府を卒業した多くの若者達は、自分達の生きる場を失い
社会に失望するようになったのです。
日本社会を牽引して行くべき若者を社会が受け入れなくなると言う事は、当然、
日本経済は弱体化して行くのです。多くの企業は、力を失い次々の倒産をし
生き残ろうとする企業は、若者達の力を得る事無く、統合合併を繰り返す事と
なってしまったのです。

現在の大手企業や銀行の多くが、バブル崩壊以降、次々に合併して生き残りを
図って来たのも、日本社会の不健全な発展が、自らの衰退を招いてしまったのです。
今や、若者達は、自分達の未来を企業に託せなくなって、多くの人が、安定した
公務員の職を目指すようになっているのです。
この社会全体を包む、社会の退行的現象は、私達の日本社会が、戦後行って来た
戦後復興に、大きな間違いがあった事を表しています。

高度成長期には、日本中の自然が破壊され人々は公害に悩まされました。
ただ、大量に売るだけに拘り、危険な添加物を大量に使ったり、生産コストを
下げる為に、多くの危険な廃棄物を環境中に垂れ流して来ました。
国民生活を危険にさらす工業発展を黙認し、自分達の利益だけを考えた結果が
環境問題だけでなく、今では、日本国民の心の中まで蝕んできているのです。

バブル崩壊後、地下鉄サリン事件を始めとする、様々な凶悪な事件が起きたのも
多くの優秀な若者が社会に対する不満を募らせた事にも依ります。
尊い命を奪ったり傷つけて自分達の考えを主張する事は、決して許される事とは
言えませんが、高学歴まで努力したものの、社会に対する門戸が閉ざされ、
自分達が学んで来た事が社会で役立てる事が出来ないと思った時、その不満が
様々な形で暴発しているのです。

現代の日本社会は、社会をリードする人達の利己的な考えで創られている事から
若者達も高齢者も、自分達の生きる道を失い、いつも心が晴れないのです。
社会は、日本社会をリードする人達を守る為に作られていて、経済的利益は
常に、富裕層に向かって流れているのが現実です。
例え、優秀な成績で学業を終えても、現在存在する企業の中核の人達を生かすために
自分の能力を使わなければ生きていけない様な社会になっているのです。
その為、ますます、少しでも多くの所得が得られる社会に入る事しか、現代社会で
不安を無くす事が出来ず、若者達の孤立が一段と増しているのです。

日本企業の我儘な企業方針が、若者達の生き方をも我儘な物としてしまっているのが
一番の問題とも言えます。少しでも社会的地位が得られれば、何でも手に入り
我儘が許されるとする機運が日本社会に在るのです。
多くの若者達が、既存の企業で少しでも給料が高い所に就職する事を望むか
ネットを使って、全く新しい企業を立ち上げるかが、若者達の就活と成っているのです。

問題は、この活動や、就職に、人間としての価値や魅力が含まれていない事です。
と言うよりも、人間性豊かな人間になる教育をあまりににも受けていなかったからです。
小さい頃から、生活の全てで、他人より秀でる事を良しとする教育を受けて来た事から
就職に当たっては、その様な採点に関係ない事には注目しないのです。
かと言って、企業は、より人間的に優れた人材を必要とするのですが、これとて、
面接に関する事だけでなく、就職した後の仕事中の応対についても、様々なテクニックが
ネット情報を見れば溢れる程見つけられ、若者が、先輩諸氏を騙す事は簡単です。

しかしながら、いかなるハウツーのテクニックを使ったとしても、やがて、人の心は
ひとりでに伝わるものであり、他人を押しのけて自分の欲望で生きて来た人間は
地位が上がるにつれ我欲がにじみ出て、様々なハラスメントを生み始めるのです。
学校における大人に都合がいい子供の様に、社会に出てからも、上司に都合の良い人間を
演じ続ける者は多く、成績を上げるに連れ、地位が上がるに連れ、我儘な心が頭をもたげ
メディアに取り上げられる様な様々な社会問題を生んでしまうのです。

日本人は、まるで、子供の頃から、好きなオモチャをいつも買い与えられて育ったように
自分の欲望を叶えた時のみに喜びを感じる様になってしまったのです。
経済的に豊かでなければ、その欲望は表に出難いのですが、一度社会的地位を得れば
突然、様々な欲望を果たそうと我儘な行動や言動に出るのです。
例え日本を代表する地位にある方々であっても、平気で、常識では考えられない様な言動や
行動をとるのは、国民からすればもっての外なのですが、彼らにとっては、自分達の生き方
育ち方であり、何の不思議でもないのです。その為、周囲から咎められても一向に反省する
態度を示すどころか、益々居直って保身を図るのが普通です。

自民党内で行われた総裁選挙も、単に、自分達の中のリーダーを党内の人間で決めただけで
他の国会議員も、国民も、全てカヤの外です。
自分達の中での利益を図る極めて利己的な選挙であって、自民党以外何の利益も有りません。
この事は、現代社会における多くの日本を代表する企業における人事と何だ変わらず、
体制を維持するための内部改革の1つに過ぎません。
そう、多くの若者達は、現存の企業の中核と成る事は極めて難しく、企業間における合併も
幹部たちが生き残る為であり、多くの社員がリストラされるのです。

日本社会を担う企業にとって、若者達も高齢者も何だ変わらないのです。
自分達を生かす為の国民の一部であって、如何に無駄な投資を行わないで、最大の利益を得るか
つまり、商売の対象であって、どちらも、人間としての対象ではないのです。
消費者の一部であり、如何に、どちらからも多くの利益を得るかと言うのが前提なのです。
例え福祉産業と言えど、表向きは、高齢者の便宜を図り、豊かな老後を保証するように見えて
その裏で多くの利益が無ければ参入しないのです。

政治家と言う国民と繋ぐ出先機関を使って、高齢者や弱者を守る様に見せかけ、利益の場を
求めている為、本当に国民や高齢者、更には若者達が求めている事が解らないのです。
バブルで良い思いをした欲に塗れらリーダー達が、日本社会を担っている限り
いつまで経っても、子供達は夢を見る事が出来ず、高齢者は、安心して老後を過ごす事が
出来ないのです。