不安を取り除いてくれるのは、人の気持ちである事を
現代人は忘れがちです。
経済発展を遂げた日本であっても、国民の不安は
消え去る事無く、年々増していると言っても良いです。
風雲急を告げると言っても良い程に、国際情勢には
不穏な空気が漂っていて、我が国の立場も、極めて
微妙であり、将来、世界で如何なる状況に立たされるのか
全く予想が立ちません。
世界における日本の在り方の問題も有るのですが、
日本に住む国民の、日本人としての在り方に、
誰もが不安を抱き、これと言って明るい未来を
確信できる人は少ないのが問題です。
一体何のために働いているのか、経済的に豊かと
なっても、不安が消え去る事は無く、日本国民は
一応に日々難しい顔をしています。
この事は、経済的なレベルに関係なく、日本人は
共通の不安を抱いていると言え、それは、社会に対する
不信感に他なりません。
自分を取り巻く人々に対しても、社会生活を行う上での
やり取りは有っても、その存在価値は、街中を歩く
赤の他人と何だ変わらないのです。
この事は、集団における孤立化の高まりを示していて
例え人々で溢れる大都会に住んでいたとしても
誰もが、自分の存在を認めず、自分自身も周囲の人を
まるで空気の様に感じているのです。
文明が高度に発達し、個人的要求が、他人を介さなくても
ネットを通せば何でも思い通りと成り、便利に成った一方
個人としての生き方が、誰にも評価されず、果たして
正しい判断であったのか行動であったのかが、自己判断で
行わなければいけない事に、他人から余計な事を言われない
というメリットの反面、自分の行った事が正しかったのかの
判断が出来ず悩むのです。
私達は、日頃、自分一人の考えで生きている様に見えて
常に第三者の評価を判断基準としています。
その為、世の中の動向や流行に敏感で、それに準じて
生活方式を変えている事が多いのです。
テレビなどのマスコミからの情報に左右されやすく
自分の行動を決定しているのは、様々な社会評価である事は
とても多いと言えるのです。
日常生活のみならず、仕事に於いても、周囲の状況に対する
自己判断である事が少なく無くて、何でも自分で決めている様で
実際は、多くの社会評価によって、自分の行動や考えが
決定される事が多いのです。
しかしながら、何でも手に入る現代社会は、思い通りになると
思える一方で、自分の行っている生活や仕事に対しての
評価が得られず、果たして、自分の生き方考え方が正しいのか
判断に苦しんでいる人は、世代を問わず増えているのです。
中には、何をしても思い通りになり、思い通りの生活が出来ている
と思っている人もいますが、その思い通りに生きて来れた事自体が
果たして正しかったのか、例え成功者と言われても、大きな不安を
抱く人もいるのです。
多くの方が、何をしても思い通りに成らず、苦労して人生を歩んで
いるのですが、誰かに道を阻まれたり、批判されたとしても、
いかなる道を歩めば良いかというアドバイスは得られず、
単に、社会評価を得ただけで、何だ進展はしていないのです。
多くの人と人との関わり合いは、利害関係は有っても、対人的な
相手の心を左右する関係では有りません。
つまり、誰もが、個人的な利益には関心は有っても、他人に対しては
出来るだけ立ち入らず、単なる社会評価しか出来ないのです。
それは、現代社会の特徴であり、誰もが、被害者にも加害者にも
成りたくないとしているからです。
小さい時から、他人より秀です事を良しと育てられて来た事から
自分の利益に成らない所で、人と関わらない様になっているのです。
まるで評論家の様に、理路整然と、批判する人は居ても、それが
相手の生き方考え方に対する考えではなく、世の中の通念として
話す事しか出来ないのです。
人の気持ちを考えるよりも、自分の身の安全を図る事が第一であり
目の前の人が溺れていても、手を差し伸べないで、何故そのような
状況になったのか、溺れている人を窘める事が先に成るのです。
何も考えず、まず、手を差し伸べ、助ける事が人間として先決です。
しかし、人としての優しさが持てない現代人が多いのです。
つまり、対人的な教育が成されず、人と競い打ち勝つ事しか習わず
人の気持ちを感じる心の成長を怠って来た事に因るのです。
これまで、自分を助けて来たのは、自分自身を高める為の努力であり
人とは関わらず成長して来た事で、様々な場で、人と関わる術が
解らないのです。
対人的トラブルが有ったとしても、その解決法は、常に自分の関わる
情報でありネットワークであり、その時に相手との関わり合いは
第三者の客観的判断に任されます。
極めて冷静に処置が成されますが、自分の感情は、全く相手とは
繋がる事無く、相手の心情も客観視でしか出来ません。
あらゆる対人関係がビジネスワークの様に、情報処理になって
益々、対人関係が希薄になって行きます。
同じ利害関係をもって組織で働いていても、自分の役割として
その場にいるのであって、周囲の人は、街を歩いている人達と
何だ変わらないと思っている人が増えています。
しかし、自分の処理能力を持って、あらゆる仕事を熟したからと
言ったとしても、その評価は、自分の心を満足させなければ
具体的な労働力では満足できないのです。
しかしながら、多くの仕事を行った事の評価は高いとしても
それを行った個人の人間としての評価は無いのです。
つまり、社会的経済的評価は、人間評価ではないのです。
人は、自分自身の価値観を認められて、この世に生きている意味を
感じられるのです。
どんなに豊かな生活をしても、膨大なる仕事をこなしたとしても
人間の価値として誰も認めてくれなかったら、その寂しさは
はかり知れません。
現代社会に於いて、日本人の多くが、自分の頑張った事に対しての
心への評価や労りを感じられず、常に、何のために頑張っているのか
心を痛めているのです。
日本社会は、何かにつけ人を批判する事は長けても、人の気持ちを察し
癒す力を持っている人が非常に少ないのです。
人は、お互いに、生かし生かされ、癒し癒されて、生き甲斐を見つけます。
どんなに社会的に地位が有る人であっても、個人的な心の中を理解し
他人から癒されなければ、自信をもって生きていけないのです。
どんなに辛い事でも、誰かの為にと思い、誰かが自分の事を信頼して
いてくれると思うからこそ頑張れるのです。
しかし、信頼してもらう為には、他人を信頼する事が出来なければならず
自分の気持ちだけを癒そうとする事から、他人から無視されると
言えるのです。
現代人は、人の気持ちを察し、その人の心を癒す術を持ってない事が
いつも孤立して、寂しい人生を送る原因ともなっているのです。
社会的地位のある方や、政治家が、人の上に立ったとしても、
多くの国民を喜ばせる事が出来ず、自分の欲望の果てに詰まらない
不祥事を起こしたりするのは、たとえその道のプロであったとしても
人間としての価値は、下手な言い訳と保身の言動行動で、誰もが
呆れかえる事からも解ります。
とは言え、彼らだけでなく、日本人は、経済的豊かに成ったにせよ
人間としての大切な成長を忘れて来た事は事実です。
自分さえ良ければ、他人よりも豊かな生活をしさえすれば、
幸せな人生が送れると教えた側も習った側も、ともに寂しい人生を
歩んでいると言えるのです。
どんなに豊かな生活をしていても、しょせん人間は、パンツを履いた
猿に過ぎないのかも知れません。
ただ問題は、お腹いっぱい欲しい物を食べたとしても、それ以上、たとえ
他人の物でも手に入れなければ気に要らないのは猿以下とも言え
お互いの気持ちを察する事が出来なく成れば、核ミサイルのボタンを
押したくてうずうずしている連中と何だ変わらないのです。