めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

日本における偉い人とは

2018-09-13 13:46:14 | 日本人

消費経済社会に於いては、どんなに能力が有っても技術が有っても
それが経済的価値を生まなければ、なんの役にも立ちません。
今や日本は、小さい頃から高度な教育を受け、多くの日本人が
最高学府まで進むほどの先進国家と成りました。
しかしながら、博学の日本人が、様々な技術を身に付けた日本人が
その力を発揮する場が有りません。

と言うよりも、そういった高度な技術や能力を身に付けた人達を
受け入れる社会の懐が小さくなっているのです。
就業者の能力や知識、経験と言ったものよりも、如何に、人件費を
安く抑えられるかが、社会が求める人間像となっているのです。

とかく高学歴であったり高度な技術を持つ人は、高収入を求めやすく
会社にとっては大きな負担と成りますが、知識や技術を必要としない
一般職に於いては、必ずしも、その能力を必要とせず、多くの企業は
人件費を下げる為にも、海外からの安い賃金労働者を受け入れがちです。
このため、近年、巷の大手コンビニの店員は、殆どが外人です。

多くが東アジアの発展途上国からの出稼ぎであり、地方に於いても
中小の企業の下請けを支えているのは、殆どが海外からの出稼ぎ労働者
であり、日本の若者の働く場が益々少なくなっています。
企業にとっては安く雇えることはメリットかも知れませんが、日本の産業を
海外からの労働者で支えて行くと言う事は、今後の日本社会にとっては
企業を発達させても、高齢化が進む我が国の問題を更に難しくしてしまいます。

今や、日本は、一部の大手企業が、日本経済を牽引しているとも言え、
その力は、日本企業の総企業利益の80%を超えます。
経営難に喘いでいる企業が多い中、一部の大手企業が大半の収益を得る社会は
決して国民にとって相応しいとは言えません。
経済格差は、子供の頃から存在し、教育も社会も、全て、この一部の豊かな人達を
守り育てる為に有ると言っても過言では有りません。

日本は、独裁者に依る国家とは言わないものの、国の経済を握る大手企業の
独裁国家とも言えるのです。
企業経営レベルの高さに応じて、社会生活レベルが決まるとも言え、
子供達は、如何に、経済的豊かな暮らしができるかが、未来の夢と成っています。
如何に、富裕層に成れるかが一番の問題であり、その為には、要求される条件
つまり、日本社会い於いては、如何に優秀な成績を収めて学校を卒業するかであり
人の事は構っている暇は有りません。

今の子供達は、学校で習うこと以上に、塾や大手教育機関による学習に注目します。
学校で習うべき人としてのモラルや心の成長を促す様々な行事は、何の価値も感ぜず
子供だけでなく、親たちも、子供の将来に夢を託す世の中と成っているのです。

しかしながら、生活格差の広がりは、富裕層と生活困難者との間に、様々な溝を作り
安全平和な社会を危うくする可能性が高いのです。
アメリカ等の格差社会になると、成功者たちは、まず第一に、セキュリティの整った
地域に住んだり、外部からの侵入を阻む強固な邸宅に住む傾向が有ります。
自分達と一般の人達に一線を置き、常に安全対策を怠りません。
日本に於いても、高級住宅街に作られる新たなる邸宅は、家の周囲には見上げる程の
強固な塀で囲まれ、住宅自体も、外からは全く伺い知れない程の窓の少なさが印象的です。

多くの消費物資を売り込み、膨大なる利益を上げる企業は、あらゆる手を使って
消費を促し、膨大なる資産を守る生活をおこなっています。
同じ日本人であっても、既に、彼らは、一般庶民とかけ離れた生活を行っていて
常に選ばれた人として日本を牛耳っているのです。
多くの人が潤っていた高度成長期と違って、ほんの一部の人達は、高度成長期以上に
私腹を増やし、殆どの国民が生きる事に苦慮している国が、平和で幸せな国である
はずは有りません。

消費社会に生きていく為に、多くの支出を強いられる日本社会に於いて、生活するために
必至に働こうも支出に追いつかず、生活が破綻してしまったり、店舗を閉鎖せざるを得ない
中小の企業や店舗は数知れません。
国民を豊かにする為の政策は、現在の消費経済社会のピラミッドを維持するための政策であり
豊かな人達を基準にした政策の為、世の中が一向に豊かに成れないのです。

この事は、我が国の環境対策とよく似ています。
海や川を綺麗にすると言って、ゴミや油を無くし、透明度の高い水辺を作ったからと言って
生き物達は一向に戻って来ません。
時たま、多摩川にアユが戻って来たと言う環境が良くなったと言うパフォーマンスは有りますが、
川や海の生き物の生態系が元の様に良くなった気配は全く無く、ただ、外見的な透明度だけを
基準にした、まるで、プールの様な無生物の水辺の環境を作っています。

環境基準は、水質基準を、企業側の考えを元に決めたものであり、生き物達にとって都合の良い
水界ではないのです。
魚達が生きていける汚染レベルと言うのは、魚が食べるプランクトンに取っては生きていける
基準に程遠く、更には、卵からかえった稚魚たちにとっては、死の海といえるのです。
金魚鉢に、浄化水を入れ金魚を飼うパフォーマンスは、人間のエゴの象徴でも有り、
本当に生き物達の環境を良くしようとする気持ちは毛頭ないのです。

川や海は、水辺がコンクリートの護岸で固められ、山や陸からの栄養が全く流れ込まず、
プランクトンの増殖が出来ません。
つまり、貧栄養状態の海や川が多いのです。
栄養の無い海や川には、食物連鎖の底辺であるプランクトンが育ちません。そしてそれを食べ
育つ稚魚や小魚が育ちません。そして、われわれが食べる大型魚も減ってしまうのです。
しかし、そんな状況でも、商業的に価値のある魚を乱獲しているのが日本漁業の現状です。
ちょうど、国民には豊かな生活を与えず、様々な物を売りつけ、膨大なる利益を得ている
日本を牛耳っている方々と同じです。

メディアを使って、日本は豊かな国であるかのようにアピールする様は、金魚を浄化水に入れ
自慢げな顔を並べる企業関係者と同じです。
私達国民は、一部の富裕層の為に有るのでは有りません。
誰もが、民主主義の考えに則て、安全で平和な国で、苦しむことなく生きたいのです。
それを実現するのがリーダー達の役割なのですが、現実は、国民の利益を如何に吸い上げるか
と言う事が彼らの命題と成っています。

国民生活は、単なる市場でしか有りません。
たまたま、リーダー達は国民の間から利益を得ようとしていますが、これを海外に求めた時
これまで幾度も繰り返された戦争と成るのです。
しかし、その惨事の犠牲と成るのも一般国民である事はあきらかです。
有事の際に、身の危険を感じるのは、庶民であって、この時とばかりと、商魂たくましいのが
この国を動かしている方々なのです。

人間の集団である国家は、そもそも、多くの利益をえるが為に国民を有しているのですが、
国が存続する為には、国民全体が豊かでなければ成りません。
私達が、海から食料を得る為には、魚介類が育つ環境が豊かである事が重要な様に、
国民から多大な利益を得たいならば、それに匹敵した豊かさを国民に与えるのがリーダーの義務です。

所が、環境問題と同じく、魚を乱獲するだけで、育てる環境を作らない様に、人間社会に於いて
一部の人達の利益ばかりを優先した社会は、いずれ、頂点にいる人達も、生きてはいけません。
健全な国民生活が有ってこそ、豊かな人達も安心して生活できるのです。
生活が豊かに成れば、身の安全を図らなければならないと言う事は、既に、人間として平等の精神が
失われていて、暴利を貪って来た事に因る報復を恐れていると言えるのです。

アメリカの銃社会は、この、一部の人達だけの豊かさを築いて来た結果であり、常に、身の安全を
量る為に、銃を持たざるを得ないのです。
人が人を信頼できなく成ったら、人間社会は崩壊します。
今や、東京は、世界で最も人口が集中している国に挙げられます。
人が集まると言う事は、そこに多くの利害関係が生れ、対人関係が活発と成ります。
しかし、人が多く集まっても、互いに、合い入れず、自分の事だけを考えて居たら
至る所で争いが起こります。

しかし、日本に於いて、多くの人が集まるところで、常に、争いが生じると言う事は無く
逆に、様々な文化が生まれ、文明が進化して行きます。
これは、人々が不満を持たず、全ての人が幸せであるとするのは、早計です。
殆どの人が、社会に対して大きな不満を抱いていて、それ程にも多くの人の中に
信頼を置ける人が殆どいないのです。言わば、全員が、敵でも有るのです。
しかし、滅多な事では、争いは起こりません。

それは、日本では、子供の教育に於いて、消費生活レベルによって人間の地位や価値が
決められると教えられるからです。
どんなに不満があろうが、自分より成績が良ければ、社会的身分が高ければ偉いとする
暗黙の了解があるのです。
その為、常に、自分より上の人がいる可能性を考え、巷では、誰もがトラブルを起こさない様
気遣っているのです。

しかし、これも、多くの庶民の間であってこそ成り立ち、日本社会を牛耳るような立場になると
突然、態度が変わるのが日本国民の本性です。
つまり、身分が上に成れば、我儘が出来ると言う、子供の時からの教育に依る考え方が
大人に成って頭をもたげて来るのです。
常識では考えられない行動や言動を行う地位の高い方々は、自分の社会的地位の高さを利用して
子供の様なわがままな態度に出るのです。

あんな立派な政治家が、企業のトップが、学校の先生が、と様々な業種のトップの方々の醜態は
日本国民が受けて来た子供から大人への教育の現状を示しているのです。
例え、社会的に地位が高く成っても、自分が豊かに成る事しか考えず、自分の部下や下と見なす
社会的に地位が低い方々の考えが解りません。と言うより、成績の悪いこの事を考えた事は
一度も無かったからです。

つまり、成績で、自分の価値が決められて来た人生を送って来た事から、低い成績の人の事は
考えられず、自分の世界とは別と思っているのです。
集団で生活すると言う事は、全ての人の其々の個性を理解すると言う事であり、学校教育の
一番大切な部分でも有ります。大人に成って、社会人になっても、沢山の人々に対する感覚は
自分の考えとは全く違う人達と対等に理解し合う事が大切です。
しかし、社会的地位を増した方の自己満足や自己中心的な考え行動が目立つのです。
今や、日本において、人間として多くの国民を納得させられる人はいないと言う事です。
何かをしたり訴えたりする時は、その人の人間性と言うより、社会的な地位や身分が
力を持つと言えるのです。
つまり、どんなに人間的に優れていても、社会的価値が無ければ、認められない
と言うのが、国民を悩ませ、多くの若い人達の未来を摘んでしまう事に
成っているのです。