めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

生徒も先生も苦しんでいます

2014-06-24 15:56:44 | 日本人

昨年数十年ぶりに大学の寮で一緒だった仲間たちと会いました。
20代前半の、夢や野心に溢れた友たちも、過ぎ去った月日の長さを
その姿に見ることが出来ました。

ロングヘアーで未来を熱弁していた彼も、艶やかに光る頭にその面影は無く、
スポーツで成らしたイケメンの彼は、すっかりメタボで横幅が目立ちました。
憧れの女子は今では孫の世話をする年齢、彼女たちの母親が出席したような
不思議な情景でした。

そんな中で、教育関係に仕事を求めた仲間たちが、今では教職をリタイヤしたり
校長に成ったりで、人を育てる素晴らしい人生を送ったのでは、と多少なりとも
羨ましく思ったのですが、実際は外から思うよりもはるかに複雑で苦痛に満ちた
教職であったことに驚かされました。

私達が若い頃よく見た番組には、熱血教師が学園を変えていくと言うストーリーが
定番でしたが、そんなことはまず不可能と彼らが言っていたのが心に残ります。

最近の国が提唱する教育方針は、増々教師にとって苦しい立場を作っている様で
生徒を守ると言う為に作られた教師の指導方法が、先生を拘束している現状が
気になります。

長い教職の仕事を終えた友が、いかに現実の教育が難しく、ともかく、教職が終わって
ほっとしている事に安心感と現状の不安を感じました。

今、教育の現場で問題になっている事が、家庭内の問題であり、更には社会での
問題である事に繋がっている事に、日本の教育問題の根の深さを感じました。

経済的にも豊かになった高度成長期、更に、バブル崩壊で社会全体が停滞気味の
現在の日本、どちらも根本の問題が解決されずにいる事に日本の未来の危機を
案じざるを得なくなりました。

インターネットの発達と共に、あらゆる通信機器が進歩して、世界中の情報が
何でも手に入る様になりました。知らない事、解からない事は、目の前の人に
尋ねることなく何でも知ることが出来る事が、実は、自分の周囲の人々の情報を
遮断しかねない事を心配してしまいます。

先生に聞かなくても、親や周囲の人に尋ねなくても、自分が欲しい回答は
簡単に手に入れる事が出来る世の中です。
なのに、今の教育は、増々教師が必要でない様に変わってきています。
先生や大人が教えなければならない、ネットでは得られない教育方針が
打ち出されていない事に、先生たちの存在価値を無くす原因があるのではと
思えてなりません。

今や、受験勉強で必要な知識は学校に行かずとも手に入ります。
子どもたちは私達よりもずった冷静で知識を振り回す先生にはシカトします。
はっきり言って今の先生の知識ではコンピューターには敵いません。

先生たちが生徒に勉学の大切さを諭すには、一人一人の持つ知識の
本人たちが成長するための意味を教えなければならないと思います。
つまり、生徒の勉強の価値観と先生の価値観はあまりにも隔たりがあるのです。

私達は生まれた時、誰もが渇いたスポンジのような状態で生まれてきます。
外部からくる情報をどんどん吸収して大きくなっていきます。
大体2~3歳位までは誰でも可愛いものです。
でも、保育園に入り小学校に行くようになると、途端にこ憎たらしくなったりします。
それは、彼らが沢山の知識を身に着け、自分にプラスになる事を選択し始める、
つまり大人への成長を始めるからです。

小さいうちは急速に脳も身体も発達します。それは、ほとんどの物が自分にとって
成長にプラスになると感じているからです。
しかし、小学校の高学年ともなると、必要でないと判断できる、知識だけの
教育が主体になって来るのが問題です。

あんなにも、素直に育ってきたのに、いつの間にか我ままで暴力的な子供が増え
結局社会問題へと発展していきます。
問題は大人の言う事を聞かない子供達ではありません。
子どもたちが学ぶことが彼ら一人一人にどの様に大切であるかを
子どもたちのレベルで考えられない教育方針に在ると思います。

かつては、無理矢理でも学校の授業を受けて勉強しないと大人になれない様な
同じレールに乗っている様な社会でした。
でも、今は、かつての学生の何倍もの知識を持った、しかも解からなければ
世界中から答えを得られる生徒ばかりなのです。

彼らは、大人になる為のハウツーを知りたいのではありません。
自分が生きていくための自分のハウツーが欲しいだけの事なのです。

先生も苦しいですが、生徒も苦しいのです。
それは、先生と生徒がキャッチボールするハウツーが無いからです。
たとえそれを持っていたとしても、今の教育方針では逆にマイナスとなります。

先生や親を師と仰ぐ事は、教える事ではなく育つことです。
幾つになっても習うときは先生であり教えるときは生徒です。
この柔軟性を持った現代の子供たちに即した教育を考え、
生徒も先生も生かされる教育方針が打ち出されれる事を
切に願いたいものです。