羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

蓮の華

2007年08月11日 09時54分59秒 | Weblog
 朝は早い。
 今朝は、日の出前に目が覚めた。
 寝床で聞いた音の様子からして、ポストには、すでに朝刊が届いているようだ。
 外に出ると、薄明るくなりはじめた空気のなかに、家々の玄関灯の明るさが半減して、なんとなく間が抜けているように見えた。昼行灯ほどではないが。

 鼻から息を吸う。
 次第に意識が覚醒してくる。
 そういえば、立秋過ぎから朝の匂いが少しずつ変化しはじめているような気がする。
 それは真夏に向かう気配から、徐々に晩夏へと移ろう気配だ。

 一しきり朝の仕事を終えて、からだをほぐした。東側の雨戸は閉めて、南と北と西の窓から風を入れた部屋で。
 そのあと何気なくブログ「芭璃庵」をのぞいた。
「アッ」
 息を呑んだ。
 目に清涼感が飛び込んできたからだ。
 それにつれて思い出した一説がある。
「私は、それまで、空や杉木立や岩や花をこういうふうには見たことはなかった。それまで私は、光悦という一人の人物として、雲を仰ぎ、花を凝視した。私は、あくまでも雲でもなく、花でもなかった。……私は光悦などではなく、まさに流れゆく雲にほかならなかった。……私は雲であり、花であり、杉木立であった。私はそうした兄弟たちに囲まれ、兄弟たちと共に生れ、共に生き、共に消えていく存在だった。私は、自分のなかでながいこと、しこっていた<死>が、その瞬間、ふと、なごみ、溶け、軽やかにゆらぐのを感じた。……」
              『嵯峨野明月記』辻邦生より
 
 嵯峨本の由来にかけて、芸術家たちの思いをかれらが生きた時代のなかに深く描いた名作である。
 
 ブログには「御施餓鬼」と題がついて、花の写真が鮮やかだった。
 蓮の華の色と形に、生命がうちに潜める「死滅と蘇生」を、澄んだ音色の音楽のように私は貞いた。
 蓮の華は濁世の此岸に、彼岸から遣わされた清めの花に違いない。
 
 家々に灯される盆の灯明が、死者を導くときも、もう間近い。 

 
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