羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

気恥ずかしさ

2005年08月26日 10時04分35秒 | Weblog
 戴いたコメントからリンクできる龍村仁監督のエッセーに、Hというイニシャルで、私の手紙が一部引用されていました。すっかり忘れていて、恥ずかしいわぁ~、と思った次第。
 30歳過ぎたら、やたらに手紙は出さないこと、という先達からの言い伝えがあります。このとき40代だったかな、と指折り数えながら、確かに、と頷いています。
 でも、まんざらではない感じはどこから来るのかしら?
 
 龍村監督とのご縁を戴いて17年。 
 あっという間の時の流れに、来し方をふり返ってしまいます。
 この「3分CM 野口三千三」がきかっけになって、先生は、「野口三千三授業記録の会」で、ビデオを中心とした記録を残すことに同意してくださいました。
 歴史に「もし」という言葉は禁句かもしれません。
 でも、あえて「もし、龍村監督と出会わなかったら」といってみると、野口先生の授業記録を残すことは、不可能だったと答えがかえってきます。
 因縁・奇縁・良縁・合縁・悪縁・腐れ縁・結縁・血縁・宿縁・俗縁・離縁・無縁・昔縁、「縁」をあげたら切りなくありますね。人は人とのつながり・関係のなかで生きているってこと!
 野口先生の「唯関係論」は、宇宙論でもありましたっけ。
 
 もう一通のコメントにもなるほど。
 乗り物って、命を預けている物なのだ! 乗り合わせるのも縁ですね。

 「乗り合わせる」で思い出したことがあります。
 野口先生が日常的に乗っておられた都電荒川線は、漢字の権威・藤堂明保氏も早稲田に出講するたびに乗っていらっしゃたそうです。野口先生は大塚で下車、藤堂氏は面影橋まで。お二人が顔をあわせるのは、短い時間のことですが、何時のころからか会話を交わされるようになりました。
「藤堂さん、貞は、きくと訓(よ)むことも可能ですよね」
「え、そうですか。どういうことですか」
「大和言葉の語源をたどってみると、可能どころか、僕としては、きくがいちばんだと思うんです。今度、書いたものを読んでいただけないでしょうか」
「ぜひ、拝見したい」
 そうしたことがきっかけになって、藤堂氏が編纂された『漢和大字典』学習研究社刊には、訓として「きく」が入っています。 
 お二人とも鬼籍に入られてしまっていることに感慨無量。

 今日はこれまで。
 

 
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