羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

静かなるほぐし、その後

2012年01月30日 18時37分45秒 | Weblog
 土曜日のクラスで、はじめて丁寧に「静かなるほぐし」を、時間をかけて行った。
 日曜日は、同じテーマを撰ぶことに躊躇いがあったが、テーマは同じでも色合いを変えて提示してみた。
 両日ともに、感じたことは「静かなるほぐし」は、贅沢なテーマだということが改めて解った。
 自分自身のからだに向かい合う、その方法を前のブログに書いたことを活かしながら・味わいながら行うというのは、日常的にはかなり難しい。しかし、こうした向かい合い方をすることで、開ける世界は貴重な経験である。

 いちばん近いことを挙げると「只管打坐」、世俗にあってもひたすら坐禅に打ち込む時間をもつことに近いかもしれない。つまり、野口体操で選び出した一連の「座位によるほぐし」に徹すること。
 ただしこの行為は、老師を撰ぶように、指導者を撰ばなければならない。教える者にはそれ相当の覚悟が求められる。

 土曜日のブログに書いたことを長期にわたって継続することは、もっと難しい。
 自分と世界の対話、自分と社会の距離感。「只管」という行為は、或る意味で人生を、或る事柄に投げ出すことでもある。お任せする行為であるから安易には入っていけない。
 しかし、自分のからだを「静かなるほぐし」に委ねることは、自分自身によく気づくことである。
 そして対峙した世界や社会に対する理解が深まるところまで到達しなければ、一生を棒に振りかねない。
 よい意味での「ちょうど良い折り合いのつけかた」を身をもって探り、身をもって経験することでもある。折り合いを「距離感」と言い換えることも出来る。「距離を測る」「間合いをはかる」、その感覚を磨くことであると言える。これが、実に、難しい。

 ほぼ15年、徹底して「静かなるほぐし」を行っていたという自負をもっていた。いや、本当にそうかな?自問している。
 ここに身を置くことは、はじめのうちこそ苦痛を伴った。
「こんなことをしていたら、社会人として生きられない」
「自分の人生はいったいどうなるのだろう」
 そうした問を繰り返したこともあった。
 しかし、そこにはまってくると、居心地のよさが感じられるようになる。
 もっと先がありそうだ。もっと豊かな身体を生きられそうだ、と思えてくる。
 同時に自分自身のなかで「ひとり完結」していく穴に嵌まってしまう危険もはらんでいた。事実、穴に嵌まったのかもしれない。そこから這い上がれたのは、野口の死後だった、と今は思う。
 つまり、野口体操の面白さは、ある種の危険をともなう身体との対話でもあった。

 しかし、外の世界ばかりに気をとられ、常に他との競争に身をさらし、他人の下す評価を気にして、本当に生きたい自分を押し殺して生きざるを得ないなかで、時として自分のからだと静かに対話する時間をもつ、たとえば坐禅に只管な自分を得る、そうしたことの意味を実感できたことは確かだった。
 
 そんな中で「野口体操の身体思想を社会化することができないだろうか」という思いをしっかりと自分が受け止めるには、十数年が時が必要だったし、行動を起こすにも時間が必要だった。むしろそうした行動をとることで、どこが間違っているのか、どこが危険なのか、どこに確かなことが潜んでいるのか、を考えるきっかけをもらえた。

 忙しい日常、変化に追いつくだけの日常、変化に追われるように何かにしがみつく日常がある。そこからちょっとだけはずれて、本来の自然さに身を浸し満たす時間を得るということは最高の贅沢であると、今回、土曜日と日曜日のレッスンを終えて、確信した。
 他者とのかかわり、家族との絆を断ち切ることではない。外側に開かれたコミュニケーションを否定することではない。むしろ絆を結ぶために、本来のコミュニケーションをとるために、欠くことができない前提条件であると思う。
 野口の言葉を借りるなら『多様な価値観の究極である“個の自由”を求める営みが体操である』。
 自立した個人があってはじめて他者との本当のコミュニケーションが成り立つのではないか。
「静かなるほぐし」は、私にとっての「只管打坐」であったが、他の誰かにとってもそうあってほしいと願っている。それを伝える教室がある、ということの幸せ。
 そうはいっても、自分自身、まだまだだなぁ~、という深い感慨!に浸ってます。
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