「野口体操の会」発足のために、4月1日に総会を開くことを決めたのは、昨年の秋のことだった。
19年前のこの日、満開の花に囲まれた上野・寛永寺で、野口三千三先生と永久のお別れをしたのだった。
総会のために、何かよい企画はないものか、と思案した。
思案という言葉はいらないくらい、すぐに思いついたのが、今回の企画案だった。
まず、寛永寺で野口先生の墓前に会発足の総会を開く報告をする。
次に、寛永寺・根本中堂に立ち寄ってから、東京藝術大学体育館の前を通り、音楽学部に残っている「旧体育小屋」を見学する。
そして総会をひらく食事処まで上野公園をそぞろ歩く。
以上が、最初の案だった。
晴れた空に満開の桜をイメージして、いさかか極楽トンボ過ぎる私だった。
さて、最初に予約をした先方から、30数名の人数には対応できない、と断れたときから風向きが変わった。
慌てて次なる場所を予約したものの、総会にふさわしい雰囲気ではなかった。
さらに、旅行会社の添乗員に自分を重ねてみた。
「大人数を間違いがおこらないように、誘導するにはどうしたらよいのか」
雨が降ったらどうしよう。風が吹いたらどうしよう。
年長の方は90歳を超えていらっしゃる。
添乗員はともかくとして企画責任者としても、皆さんを路頭に迷わすわけにはいかない。
「お墓のある第二霊園とは目と鼻の先にある藝大の体育館をお借りできないか」
そう思い立って、恐る恐る存じ上げていたその筋の方に、相当に悲痛な覚悟をし、命懸けの思いで、一文字一文字に思いをこめて二日がかりで手紙を書き上げた。
数日後に電話で伺った。
無事に貸してただけることになった。
思わず、上野方面に向かって手を合わせてしまった。
我に返ってみると、あれほど命を懸けた手紙を差し上げなくても、三十数年つとめあげた野口三千三のために、また「野口体操の会」のためには、問題なくお借りできるに違いなかった、と思えた。
お墓参りをしたい、体育館も訪ねたい。
そうした思いは、野口体操が藝大で生まれ育った、その古巣に寄せる「帰巣本能」に違いない。
実際に、皆さんをそこにお連れできる嬉しさは、言葉にならないほどであった。
まさに巡礼である。
話は、当日のこと。
12時20分過ぎには、全員が無事に体育館に入場した。
わーっと声が上がった。
声の方に振り向くと
「これが、サーカスの玉乗りの玉!」
どどどっ、と窓際にあつまって、興奮している様子が目に飛び込んで来た。
いくつものバランスボールの真ん中に、サーカス玉は鎮座している。
野口先生が敗戦後、まだ混乱がおさまらないうちに、サーカス団に通いつめて、玉乗り曲芸師と仲良くなってつくってもらった玉である。
野口体操の私たちにとっては、感動、興奮、全身が沸き立つエネルギーを引き出す「もの」との遭遇であった。
因みに、『野口体操入門 からだからのメッセージ』現代文庫 2015年版 第一章を改訂した20頁〜にこの話を書いたのでご参照ください。
意味深いため息をつきながら、つくづくと思う。
最初の食事処に断られなければ、この玉との出会いはなかった。
最初の食事処に断られなければ、「野口体操の会」第一回(創立)総会が、先生ゆかりの藝大体育館で行う事はなかった。
何が幸いするのか、最後までわからない。
その上、天候まで味方してくれた。
底冷えの真冬の寒さのなかで咲きかかった花は、身を縮めてひっそりとしていた。
決めてしまったのか花見に出かけて来る人はいたけれど、満開のような混雑ではなかった。
幸いである。
青空にも爛漫の春にも出会わなかった。それだからおせおせの時間のなか、なんとか懇親会の予約時間に大きく遅れる事なく全員が無事に到着できた。
そういえば野口先生は否定用語を肯定用語に解釈する名人であった!
これを天の采配といわず、なんと言おう!
当日、何かと細やかに面倒を見てくださった管理室の方に、後日、お礼のメールを差し上げた。
そこに何気なく玉の由来を書き添えた。
《 ボールのお話は、始めて聞きました! 今まで何のボールなのかと、不思議に思っていました。そのようなゆかりのボールだったのですね! 今後も体育館で大切に保管していこうと思います 》
今でも十分だけれど、これからは、『野口三千三 ” 伝説のサーカス玉 ” 』として、もっと大切にしていただけそうだ。
あれもこれもすべては、お断りの賜物である。
ニュアンスの違いは多少あるけれど『禍いを転じて福となす』
本日は「野口体操巡礼の旅」から「伝説のサーカス玉」の一席でした。
つづく
19年前のこの日、満開の花に囲まれた上野・寛永寺で、野口三千三先生と永久のお別れをしたのだった。
総会のために、何かよい企画はないものか、と思案した。
思案という言葉はいらないくらい、すぐに思いついたのが、今回の企画案だった。
まず、寛永寺で野口先生の墓前に会発足の総会を開く報告をする。
次に、寛永寺・根本中堂に立ち寄ってから、東京藝術大学体育館の前を通り、音楽学部に残っている「旧体育小屋」を見学する。
そして総会をひらく食事処まで上野公園をそぞろ歩く。
以上が、最初の案だった。
晴れた空に満開の桜をイメージして、いさかか極楽トンボ過ぎる私だった。
さて、最初に予約をした先方から、30数名の人数には対応できない、と断れたときから風向きが変わった。
慌てて次なる場所を予約したものの、総会にふさわしい雰囲気ではなかった。
さらに、旅行会社の添乗員に自分を重ねてみた。
「大人数を間違いがおこらないように、誘導するにはどうしたらよいのか」
雨が降ったらどうしよう。風が吹いたらどうしよう。
年長の方は90歳を超えていらっしゃる。
添乗員はともかくとして企画責任者としても、皆さんを路頭に迷わすわけにはいかない。
「お墓のある第二霊園とは目と鼻の先にある藝大の体育館をお借りできないか」
そう思い立って、恐る恐る存じ上げていたその筋の方に、相当に悲痛な覚悟をし、命懸けの思いで、一文字一文字に思いをこめて二日がかりで手紙を書き上げた。
数日後に電話で伺った。
無事に貸してただけることになった。
思わず、上野方面に向かって手を合わせてしまった。
我に返ってみると、あれほど命を懸けた手紙を差し上げなくても、三十数年つとめあげた野口三千三のために、また「野口体操の会」のためには、問題なくお借りできるに違いなかった、と思えた。
お墓参りをしたい、体育館も訪ねたい。
そうした思いは、野口体操が藝大で生まれ育った、その古巣に寄せる「帰巣本能」に違いない。
実際に、皆さんをそこにお連れできる嬉しさは、言葉にならないほどであった。
まさに巡礼である。
話は、当日のこと。
12時20分過ぎには、全員が無事に体育館に入場した。
わーっと声が上がった。
声の方に振り向くと
「これが、サーカスの玉乗りの玉!」
どどどっ、と窓際にあつまって、興奮している様子が目に飛び込んで来た。
いくつものバランスボールの真ん中に、サーカス玉は鎮座している。
野口先生が敗戦後、まだ混乱がおさまらないうちに、サーカス団に通いつめて、玉乗り曲芸師と仲良くなってつくってもらった玉である。
野口体操の私たちにとっては、感動、興奮、全身が沸き立つエネルギーを引き出す「もの」との遭遇であった。
因みに、『野口体操入門 からだからのメッセージ』現代文庫 2015年版 第一章を改訂した20頁〜にこの話を書いたのでご参照ください。
意味深いため息をつきながら、つくづくと思う。
最初の食事処に断られなければ、この玉との出会いはなかった。
最初の食事処に断られなければ、「野口体操の会」第一回(創立)総会が、先生ゆかりの藝大体育館で行う事はなかった。
何が幸いするのか、最後までわからない。
その上、天候まで味方してくれた。
底冷えの真冬の寒さのなかで咲きかかった花は、身を縮めてひっそりとしていた。
決めてしまったのか花見に出かけて来る人はいたけれど、満開のような混雑ではなかった。
幸いである。
青空にも爛漫の春にも出会わなかった。それだからおせおせの時間のなか、なんとか懇親会の予約時間に大きく遅れる事なく全員が無事に到着できた。
そういえば野口先生は否定用語を肯定用語に解釈する名人であった!
これを天の采配といわず、なんと言おう!
当日、何かと細やかに面倒を見てくださった管理室の方に、後日、お礼のメールを差し上げた。
そこに何気なく玉の由来を書き添えた。
《 ボールのお話は、始めて聞きました! 今まで何のボールなのかと、不思議に思っていました。そのようなゆかりのボールだったのですね! 今後も体育館で大切に保管していこうと思います 》
今でも十分だけれど、これからは、『野口三千三 ” 伝説のサーカス玉 ” 』として、もっと大切にしていただけそうだ。
あれもこれもすべては、お断りの賜物である。
ニュアンスの違いは多少あるけれど『禍いを転じて福となす』
本日は「野口体操巡礼の旅」から「伝説のサーカス玉」の一席でした。
つづく
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます