大阪万博の跡地に、国立民族学博物館(みんぱく)が出来て、野口先生といっしょに会員になった。
季刊と月刊が発行されていたが、面白かったのは月刊の方だった。その理由は、フィールドワークの途中経過というか、季刊とは異なって研究途上にあってこれから整理される状態の研究を載せていたからだった。
綺麗な論文になる前の、結論づけられない迷いや、試行錯誤が見えるものの方が、学問のダイナミズムが伝わって来るからだ。それだけではなく捨てられてしまうかもしれない情報が混ざりあって、生の現地感がある。
もうひとつ哲学の前衛を紹介する冊子として、渋谷にある「たばこと塩の博物館」がオピニオン誌として委託発行していた『談』が面白かった。
初期のころ、『やわらかさ』というテーマで、野口体操が取り上げられた。
先生にお供して、記憶は正確ではないが市ヶ谷だったか、麹町企画を訪ねたことがある。
この取材によって、『談』という冊子の存在を知った。
その後、どのような経過によるのかは知らないが、アルシーブ社と名前を替えて、佐藤真さんが編集長をしておられる。
たとえばベイトソンの研究、複雑形、非線形論理、多岐にわたって意欲的な内容に、難しいながらも知識欲を満されながら、文化人類学や現象学、身体哲学、そういった分野の世界を垣間みさせてもらえた。
さて、これまでの30年~40年の時間は、あっという間に過ぎた。
その間、NHK・教育テレビと言っていた時代、ビッグ対談という90分の番組があって、野口三千三先生は山口昌男さんと対談をされたことがあった。
月に一回の番組で、前の月の放送の最後で「次回は誰と誰」と字幕に出る。実際にこの録画に関わっておどろいたことだが、その時点では録画は終わっていない。まったくの白紙状態。
で、話を受けてから、ほぼ一ヶ月間、山口昌男さんが同じ局の『人間大学』という12回の教養番組にご出演になった時のビデオ記録とテキストを見直して、大事なところを野口先生に伝え、対談にむけて山口ワールド勉強のお手伝いが出来たことを懐かしく思い出す。
教室での撮影が一日、後日場所を白金の庭園美術館に移して、対談の撮影が終日かけて行われた。
黒塗りの局差し回しの車がご自宅から、撮影場所へ案内してくれた。
「電車で行きますから」
「いえ、先生、それだと途中で何かあったとき、連絡が出来ないので、申しわけありませんが、ハイヤーでいらしてください」
当時は、携帯電話がなかった。ただし、その車には電話があった。
「乗って行かれる方によっては、電話が珍らしく、用もないのにあっちこっちかける方もいらっしゃるんですよ」
運転手さんの話が新鮮だった。
庭園美術館に着いて、「今日は、体操の神様と対談ですな~」と気さくにおっしゃる山口先生を交えて、事前の打ち合わせを行った後、中継車に連なっているNHKのバスのなかで昼食をすませた。
カメラを回すこと半日近く。日が傾いてくるころ、そこまで!となった。
「ここから話がはじまるのに」
二人の感想は一致していた。あとは、ディレクターの腕にお任せとあいなった。
その週の放送ギリギリまで編集作業はかかっていたらしい。オンエア前日になって、無事に編集が終わったという電話をいただいた。
素人にしてみると、まさに神業。一ヶ月弱の綱渡りの作業で、番組が作られていくことに驚いた。
プロの仕事といいうのは、時間との闘いである。撮り直しはきかない。そのなかで限られた時間内に、間に合わせられなければプロとはいえない、というわけだ。
野口先生にぴったり寄り添って、準備し、撮影にかかわり、撮影後は先生に代わってディレクターの方に手紙をしたため、放映後もなにかと連絡をとって事後整理のお手伝いをさせていただいた。
よい勉強をさせてもらった思い出のエピソードである。
先日、Twitterで山口昌男さんがお亡くなりになったことを知り、その後、新聞で追悼記事を読んだ。
おおらかで懐の深い学者らしくない学者さんだった。新しい分野「文化人類学」の扉を叩き、とっぷり浸かって仕事をされた。
学問のトリックスターとは、まさに山口さん自身であり、もしかすると彼の目には野口三千三もまたよい意味でのトリックスターとして映じていたのかもしれない、と思う。
実に、昭和は遠くなりにけり。
深い感慨を覚えつつ、ご冥福を祈ります。
季刊と月刊が発行されていたが、面白かったのは月刊の方だった。その理由は、フィールドワークの途中経過というか、季刊とは異なって研究途上にあってこれから整理される状態の研究を載せていたからだった。
綺麗な論文になる前の、結論づけられない迷いや、試行錯誤が見えるものの方が、学問のダイナミズムが伝わって来るからだ。それだけではなく捨てられてしまうかもしれない情報が混ざりあって、生の現地感がある。
もうひとつ哲学の前衛を紹介する冊子として、渋谷にある「たばこと塩の博物館」がオピニオン誌として委託発行していた『談』が面白かった。
初期のころ、『やわらかさ』というテーマで、野口体操が取り上げられた。
先生にお供して、記憶は正確ではないが市ヶ谷だったか、麹町企画を訪ねたことがある。
この取材によって、『談』という冊子の存在を知った。
その後、どのような経過によるのかは知らないが、アルシーブ社と名前を替えて、佐藤真さんが編集長をしておられる。
たとえばベイトソンの研究、複雑形、非線形論理、多岐にわたって意欲的な内容に、難しいながらも知識欲を満されながら、文化人類学や現象学、身体哲学、そういった分野の世界を垣間みさせてもらえた。
さて、これまでの30年~40年の時間は、あっという間に過ぎた。
その間、NHK・教育テレビと言っていた時代、ビッグ対談という90分の番組があって、野口三千三先生は山口昌男さんと対談をされたことがあった。
月に一回の番組で、前の月の放送の最後で「次回は誰と誰」と字幕に出る。実際にこの録画に関わっておどろいたことだが、その時点では録画は終わっていない。まったくの白紙状態。
で、話を受けてから、ほぼ一ヶ月間、山口昌男さんが同じ局の『人間大学』という12回の教養番組にご出演になった時のビデオ記録とテキストを見直して、大事なところを野口先生に伝え、対談にむけて山口ワールド勉強のお手伝いが出来たことを懐かしく思い出す。
教室での撮影が一日、後日場所を白金の庭園美術館に移して、対談の撮影が終日かけて行われた。
黒塗りの局差し回しの車がご自宅から、撮影場所へ案内してくれた。
「電車で行きますから」
「いえ、先生、それだと途中で何かあったとき、連絡が出来ないので、申しわけありませんが、ハイヤーでいらしてください」
当時は、携帯電話がなかった。ただし、その車には電話があった。
「乗って行かれる方によっては、電話が珍らしく、用もないのにあっちこっちかける方もいらっしゃるんですよ」
運転手さんの話が新鮮だった。
庭園美術館に着いて、「今日は、体操の神様と対談ですな~」と気さくにおっしゃる山口先生を交えて、事前の打ち合わせを行った後、中継車に連なっているNHKのバスのなかで昼食をすませた。
カメラを回すこと半日近く。日が傾いてくるころ、そこまで!となった。
「ここから話がはじまるのに」
二人の感想は一致していた。あとは、ディレクターの腕にお任せとあいなった。
その週の放送ギリギリまで編集作業はかかっていたらしい。オンエア前日になって、無事に編集が終わったという電話をいただいた。
素人にしてみると、まさに神業。一ヶ月弱の綱渡りの作業で、番組が作られていくことに驚いた。
プロの仕事といいうのは、時間との闘いである。撮り直しはきかない。そのなかで限られた時間内に、間に合わせられなければプロとはいえない、というわけだ。
野口先生にぴったり寄り添って、準備し、撮影にかかわり、撮影後は先生に代わってディレクターの方に手紙をしたため、放映後もなにかと連絡をとって事後整理のお手伝いをさせていただいた。
よい勉強をさせてもらった思い出のエピソードである。
先日、Twitterで山口昌男さんがお亡くなりになったことを知り、その後、新聞で追悼記事を読んだ。
おおらかで懐の深い学者らしくない学者さんだった。新しい分野「文化人類学」の扉を叩き、とっぷり浸かって仕事をされた。
学問のトリックスターとは、まさに山口さん自身であり、もしかすると彼の目には野口三千三もまたよい意味でのトリックスターとして映じていたのかもしれない、と思う。
実に、昭和は遠くなりにけり。
深い感慨を覚えつつ、ご冥福を祈ります。
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