羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

現代の下町

2006年01月05日 11時21分37秒 | Weblog
 正月にちなんで、着物の話をひとつ。
 昨日のブログと同じ冊子に、連載「エントロピー 現代と江戸」石川英輔が毎月面白い。
 今月は、第七回目で、「同じものを長く使う」がテーマだった。
 長く使うものとしての「古着」の話だった。
 日本の伝統的な小袖(着物)は、仕立て直しがたやすく、染め直しもしやすかったので、丹精され、着物は古着としての流通にのって、最後まで使い切っていたらしい。
 呉服屋では新しい反物を売り、それを着た人が手放したあとは、仕入れ専門の「古着買い」、「古着仲買人」、仕立て直し専門の「仕立屋」という各職種を経て、古着は流通していた。
 江戸期の話である。
 この時代には、すでに徹底して、無駄とゴミの増えない世の中の仕組みができていた。つまりエントロピーが増えない巧妙なシステムだった。この仕組みを「貧しかった」といって切り捨てる人には、環境問題などまったくわかっていない、と石川氏は書いている。

「時代劇には、古着屋が随分出てきたわね」
 この話を母にしたところ、昔の芝居や映画のシーンを、思い出したようだった。

 わが町にも、昨年の秋に、「箪笥屋」なる古着屋も開業した。
 開店の日に覗いてみた。
 なんだか我が家の「箪笥のこやし」といっているような和服の品々が並んでいた。
 
 そういえば、以前、表参道でみつけた端切れ屋に入って驚いたのは、端切れの値段の高さだった。その値段に劣らず、品物はよかった。極上のものは、タペストリーの材料にもなりそうだった。

 また、茶道では、昔から、古い織物の端切れは珍重され、棗の袋に使われていたりする。
 京都・龍村美術織物の研究所では、この古代裂れの研究を行っていて、数年前には世田谷美術館でも展示を行ったほどだ。
 この例は、ピンからキリまでの、ピンかキリだが、とことん使い切る習慣がなくなった現代の暮らしに警鐘を鳴らしているのが、石川江戸文化論だ。
 果たして、早急に手を打たなければならない地球温暖化・環境問題と、成長・拡大なき社会の時代に、江戸期の智恵が活かされることがあるのだろうか、と思いながらこの連載を読んでいる。

 経済が成長をし続けないと持ちこたえられない社会構造は、産業革命以後で、イギリスでもせいぜい200年。日本では高度成長期以後、せいぜい半世紀の歴史しかないという。
 日本の近代化・欧化政策は、随所にほころび以上の破綻をきたしているのは、明白になった。

「現代の下町風情がある町は、すっかり若者の町になってしまった」
 石川論を読みながら、ジーンズや洋服の古着屋が多いわが町も、まんざらでもないと思えてきた。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 年賀状 | トップ | 氷の粒粒 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事