木下順二、山本安英、両者の本を読んでいると、巻末にあるそれぞれの年表は素晴らしい、と感心している。
年号は、「西暦」と「和暦」がきちんと併記されている。
ある時代に、その人とその周りの人間が、どう絡んで・どう生きたのか、という関係と足跡が、そのことによって明確になっていく。
そして、大いに助けられるのである。
それに倣って、野口三千三の年表を作り直そうと、今、取り組んでいる。
下の写真はメモ段階
以前から薄々感じていたことだけれど・・・・。
第一「体育(体操)界の本丸」15年間
敗戦を挟んで
第二「芸術(演劇)界の本丸」15年間
先の15年間を踏まえた「芸術(表現)の基礎としての体操」と本人は自称しているが、通して見る30年のあゆみ。
それらを踏まえて
1967年「現代の眼」『体操による人間変革』
1972年『原初生命体としての人間』
『哲学する身体』の境地に達した『野口体操』へと歩みを進める。
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これを書いていた昨日、客人を迎えた。
翻訳家である彼女の話から、英国(オックスフォードとケンブリッジ)と米国における「スタニスラフスキーの受容」について貴重な示唆をいただいた。
その視点から、日本の受容の特徴を考えてみた。
そのことについては、今は、置いておくが、野口三千三は日本における「スタニスラフスキー受容」の中心にいたことから、自然と「本丸」という言葉を年表に書いてみた。
すると どうだろう。
一人の人間の一生が、今まで以上にリアルなこととして、私の中で立ち上がってくれた。
「野口体操」は、16歳から46歳までの30年間に、体操界と芸術界という二つの本丸にあって、それを土台にした独自の前衛体操としての「野口体操・人間変革」身体哲学への道へ歩みを進めたことが明確になった、と言いたい。
戦前・戦中までをリセットした、という野口自身の言葉に嘘はないのだろう。
けれども、そう簡単に前半の人生をリセットすることはできない。
「三千三伝」を書き続けながら、本を読み、人にあって話を聞くうちに、そう思う気持ちがより強くなった。
その一つの証明は、1961(昭和36)年「藝大テキスト」だ。
本人の意識と無意識が交錯した道筋を、行間に読みとることをしなければ!
ここがその後のターニングポイントとなってくるのだろう、と今は思っている。
「芸は一代」のもの、とも。
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