羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

ピナ・バウシュ 3 「ふゆそな」

2006年04月10日 16時47分03秒 | Weblog
 町の角に大きな看板があって、ヨン様がこちらを向いて微笑みかけてくる。
 そこはパチンコ屋だ。すごい商魂だ。ヨン様も売りだけど、「ふゆそな」という音がなんともいい。なんとなく奥様たちがパチンコ屋に入ってしまう? 狙いかも。
  
「ふゆそな」という音は、とてもやわらかい響きを持っている。
 もちろん「冬のソナタ」の日本語略だ。
 日本語の音感は、四つの音に集約すると、落ち着きがでて同時に懐かしさにプラス親しみが出る。無意識のうちに日本人が魅かれてしまうのではないかと思っている。 

 ところで「ソナタ」だが、クラシックのピアノを稽古したことがある人なら、「ソナチネ」から「ソナタ」には入ることは、胸騒ぎがするくらい嬉しいことだ。「ソナタ」を弾くということは、ピアニストに一歩近づいたような気分になる。
 モーツアルトのピアノソナタ、ベートーベンのピアノソナタ、もちろんバイオリンソナタも名曲がたくさんある。それらを自分のピアノで弾くことが出来るなんて、夢みたい、なのである。

 この「ソナタ」と名づけられた曲は、ソナタ形式を第一楽章にもつ多楽章の曲のこと。
「ソナタ形式」は、まさにヨーロッパの形式だ。まず、第一主題に男性的な旋律とリズム、つまり男性原理・父性原理を高らかに掲げる。緊張感のあるもの、強いものといってもいい。神といってもいい。それに続いて第二主題には、第一主題に対立するように女性的な旋律とリズムを配する。母性というよりも弱きもの・柔らかいもの、神に従う従順な心情だと言える。

 まとめると、男性に対して女性。強きものに対して弱きもの。神に対して従順なる僕。シュパネン(緊張)に対してアップシュパネン(弛緩)。
 対立的な概念・イメージ・存在を掲げる提示部がある。
 次に、テーマの二つを交互に発展させながら新たな要素も組み入れていく展開部が続く。
 そして三番目に、再び第一テーマと第二テーマを再現して、フィナーレへと曲を導く。

 ざっと「ソナタ形式」について書いてみた。決して古典派の音楽家ではないストラビンスキーの作品だが、二項対立の世界観は、「春の祭典」にもはっきりと見られるものだった。ピナ・バウシュの舞台を見てはっきりした。ということはこの舞台を見るまでは気付かなかった。

 ピナ・バウシュの「春の祭典」の凄いところは、暴力的な男性性に対して、弱きものの象徴としての女性性を逆転させ、主体性を歌い上げていくところに「近代性」を見出すことができる。
「神は死んだ」という言葉が、ここには息づいているのだと気付かされた。

 しかし、「ソナタ形式」という理念は、ヨーロッパの理念でもあると知らされた。
 ある人がいった。西洋音楽は「長調(メジャー)」と「短調(マイナー)」の二つのコードしか持っていない二元論の世界だ。
 しかし、インド音楽は、何十ものコードを持つ音楽だ、と。
 ジャズ音楽も同様に、いくつものコードを持っている。決してメジャーとマイナーだけではない、と。
 
 ストラビンスキーの音楽は、メジャーだけでもマナーだけでもないコードだし、拍節さえ変拍子によって作曲されている。しかし、ピナ・バウシュの「春の祭典」を見る限り、そこにはヨーロッパが伝統的に描き出してきた二項対立の図式が、高度な芸術表現に昇華されたものとして描き出されていたと私は感じた。

 もう一度「ソナタ形式」の理念を検証してみることは、西洋文化を理解する上で貴重なことなのではないだろうか。近・現代の作品にもおそらく脈々と流れている一つのヨーロッパがありはしないだろうか? という問いを、この舞台からもらったのだ。

 それに対して「ふゆそな」とう言葉は、日本の音だ。「冬のソナタ」を「ふゆそな」と言ってしまった瞬間に、日本人が顔を出す。
 
 昨日も、ヨン様の笑顔がこっちを向いているパチンコ屋の看板を見つめながら、ピナ・バウシュの舞台を思い返している自分が可笑しかった。
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