羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

造化にしたがひて四時を友とす

2006年09月15日 20時30分02秒 | Weblog
 涼しくなった。
 今日は、午後からたっぷり時間をとって、図書館に入り浸った。
 おかげで調べがほとんどついた。
 アマゾンで古本を落札してもよかったのかもしれないが、図書館で本を選びながら、調べることにした。正解だった。

 天地自然にのっとり、天地自然に帰一せよ。
 風羅坊芭蕉の『笈の小文』を調べに行った。
 あの有名な書き出し「百骸九竅の中に物有。かりに名付けて風羅坊といふ。誠にうすものゝかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。……」
 また、こうも云う。
「造花にしたがい、造花にかへれとなり」
「造花」とは、老荘思想における造花をさす。「造花」は、「造化」。つまり万物を創造化育(天地自然が万物を生じ育てること)するもの。神または自然。
 
   旧里や臍の緒に泣くとしの暮

 芭蕉十三歳で失った父親の三十三回忌法要のために、故郷に戻った芭蕉が、兄から臍の緒を見せられて、さまざまな感慨が胸に迫って涙する年の暮れ。
「ふるさと」「臍の緒」「年の暮れ」とくれば、当然、来し方を振り返って感無量の芭蕉が、実体としての故郷に、天地一体・万物同根をストレートに詠んだ句。
 造花にむせび慟哭する芭蕉。御歳・四十四。春を迎えれば四十五になる。俳諧宗匠として認められ、暖かく迎えられた故郷であった。

 原稿にこの句を取り上げた。読み違いがないかを何冊かの本で調べたかったのだ。
 もうひとつ、「素直・素朴な感覚で天地自然の大本に遡って自然に貞く、つまり自然直伝」を基本姿勢とする野口体操と、相通ずるものを感じていたが、その点も確かめたかった。
 
 いずれにしても『笈の小文』冒頭の風雅観によって、「風雅の道」とは厳しいことを改めて知った。
 
 神無月の初、空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して
    旅人と我名よばれん初しぐれ

 貞享四年十月二十五日深川の庵を西へと出立した。
 ちなみに貞享四年とは、1687年、江戸前期である。
 
 それから七年後、「造化にしたがひて四時を友と」した芭蕉は、土に還っていった。

    旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
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