小学校2年生のときに、父が交通事故で大怪我をした。肋骨が3本折れて、肺にささった。もう少しずれていると、肝臓に刺さって助からなかったといわれた。大手術だったが命拾いをした。その病院は辻堂だった。
それから1年もたたないうちに、父は胃潰瘍の手術をした。現在、国際医療センターで、当時は国立第一病院だったと記憶している。(この第一か第二かは、ちょっとあいまい)。前身は陸軍病院で、新宿の戸山にあった。つまりそこが現在の国際医療センターになった。
私が3年生になったとき、住んでいた新宿の家を手放すことになった。しばらく母方の実家の離れに親子三人で身を寄せた。やせ細った父は、病後のからだをやっと引きずって生きていたような思い出がある。その家は、もともと戦前に祖父が別荘とした家だったらしい。戦時中にそこに家族の一部が疎開していたところだった。そばに多摩川があった。
当時、夏の夜は新宿でも多摩川でも蚊帳を吊っていた。その蚊帳をいつまで使っていたのだろうか。小学校3年生時点で、記憶はプッツリ途切れてしまっている。
話は変わるが、先日、『月刊・原子力文化』(日本原子力振興財団)2月号を読んでいた。
石川英輔「江戸のホモ・サピエンス 第五回」-江戸の鳥たち(一)。
実は、その記事を読みつつ、蚊帳を使うことがなくなった東京の暮らしに慣れてしまった恐ろしさを痛感したのだった。
その記事によると、江戸時代にタンチョウはどこにでもいたそうだ。もちろん江戸の町中でさえ見かけたのだという。
要約してみよう。
日本橋から五里(約20キロメートル)以内、そして郊外も禁猟区になっていた。当時の日本ではタンチョウに限らず狩猟一般を禁止・制限する藩が多かった。 徳川将軍の鷹狩は朝廷に献上するためにタンチョウを捕獲した公式行事だったそうだ。記録によると年平均の捕獲数はわずか1・02羽に過ぎなかった。タンチョウの生態にはまったく影響がない数字である。
タンチョウが絶滅しそうになった原因は、狩猟が解禁になった明治維新にあると筆者は指摘する。
将軍の「鷹場」は現在の東京23区内。東は稲毛、葛西、小松川、深川。北は岩淵、千住、島根(現・足立区)、王子。西は高田、中野。南は品川、麻布、牛込あたりに及ぶらしい。
この地名を読んだとき、思い当たるふしがあった。新宿で生まれ育った母は遠足で井の頭公園に出かけたという。私も、幼いころの記憶では、中央線に乗って新宿を、西に向かって出ることはめったになかった。中野から先は田舎という感じを持っていた。電車に乗るといえば、中央線は東京駅に向かい、山手線は内側がほとんどだった。都心に出かけるという言葉が新宿でも使われていた。当時の都心は、日比谷や丸の内、銀座のことを指していた。
江戸のタンチョウに話を戻そう。
早稲田鶴巻町では、小石川で放し飼いにしていたタンチョウが住み着いてしまったので、番人をおいて世話をさせたのだという記録まで残っている。
つまり江戸の町中でもその周辺でもタンチョウはどこにでもいる鳥だったというわけだ。
むしろ将軍家の「鷹場」は、環境保全地域として機能していたらしい。大型のタンチョウが生きられるだけの食べ物が十分にあったことがそのことを証明している。
朝廷に献上するタンチョウが確保できないと政治的に困るという理由から、幕府は農民に対して鷹場全体の徹底的な環境保全を命じていた。
当時の人々は環境を守るために「なにもしない」という発想を知っていたのだそうだ。
多様性のある自然界を維持することは、現代にあって非常に難しくなっている。
著者は書く。
「ホモ・サピエンス以外の動物を出来るだけ排除して成り立っている東京と、タンチョウのような大型鳥類までが雑居している江戸は、同じ場所に同じ日本人が住んでいるといってもあまりにも異質すぎて、別の世界としか考えようがない」
今ではヨドバシカメラに象徴されるような店が立ち並ぶ、かつて私が生まれ育った新宿の夜は、遅くなってからも昼間のように煌々と明るい。南口を初台方向に向かって甲州街道を一つ内側に入った場所にあった我が家の庭には、鳥小屋も砂場もあった。枇杷の木・無花果の木も数本、イチゴや青菜までも栽培していた。
もちろん蚊帳は必需品であった。
1958年(昭和33年)だ。約半世紀といえば、相当に長い時間かもしれないが、江戸から比べれば、人類の誕生と比べれば、短いとしか言いようがない。
しかし、とりわけ戦後の変化はテンポが早すぎる。人間のからだ(野生)を置いてきぼりにしているのだと思えてならない。
我が家の「蚊帳」はメモリアルとしてとっておきたい心模様を、この記事に重ねている自分を感じている。
それから1年もたたないうちに、父は胃潰瘍の手術をした。現在、国際医療センターで、当時は国立第一病院だったと記憶している。(この第一か第二かは、ちょっとあいまい)。前身は陸軍病院で、新宿の戸山にあった。つまりそこが現在の国際医療センターになった。
私が3年生になったとき、住んでいた新宿の家を手放すことになった。しばらく母方の実家の離れに親子三人で身を寄せた。やせ細った父は、病後のからだをやっと引きずって生きていたような思い出がある。その家は、もともと戦前に祖父が別荘とした家だったらしい。戦時中にそこに家族の一部が疎開していたところだった。そばに多摩川があった。
当時、夏の夜は新宿でも多摩川でも蚊帳を吊っていた。その蚊帳をいつまで使っていたのだろうか。小学校3年生時点で、記憶はプッツリ途切れてしまっている。
話は変わるが、先日、『月刊・原子力文化』(日本原子力振興財団)2月号を読んでいた。
石川英輔「江戸のホモ・サピエンス 第五回」-江戸の鳥たち(一)。
実は、その記事を読みつつ、蚊帳を使うことがなくなった東京の暮らしに慣れてしまった恐ろしさを痛感したのだった。
その記事によると、江戸時代にタンチョウはどこにでもいたそうだ。もちろん江戸の町中でさえ見かけたのだという。
要約してみよう。
日本橋から五里(約20キロメートル)以内、そして郊外も禁猟区になっていた。当時の日本ではタンチョウに限らず狩猟一般を禁止・制限する藩が多かった。 徳川将軍の鷹狩は朝廷に献上するためにタンチョウを捕獲した公式行事だったそうだ。記録によると年平均の捕獲数はわずか1・02羽に過ぎなかった。タンチョウの生態にはまったく影響がない数字である。
タンチョウが絶滅しそうになった原因は、狩猟が解禁になった明治維新にあると筆者は指摘する。
将軍の「鷹場」は現在の東京23区内。東は稲毛、葛西、小松川、深川。北は岩淵、千住、島根(現・足立区)、王子。西は高田、中野。南は品川、麻布、牛込あたりに及ぶらしい。
この地名を読んだとき、思い当たるふしがあった。新宿で生まれ育った母は遠足で井の頭公園に出かけたという。私も、幼いころの記憶では、中央線に乗って新宿を、西に向かって出ることはめったになかった。中野から先は田舎という感じを持っていた。電車に乗るといえば、中央線は東京駅に向かい、山手線は内側がほとんどだった。都心に出かけるという言葉が新宿でも使われていた。当時の都心は、日比谷や丸の内、銀座のことを指していた。
江戸のタンチョウに話を戻そう。
早稲田鶴巻町では、小石川で放し飼いにしていたタンチョウが住み着いてしまったので、番人をおいて世話をさせたのだという記録まで残っている。
つまり江戸の町中でもその周辺でもタンチョウはどこにでもいる鳥だったというわけだ。
むしろ将軍家の「鷹場」は、環境保全地域として機能していたらしい。大型のタンチョウが生きられるだけの食べ物が十分にあったことがそのことを証明している。
朝廷に献上するタンチョウが確保できないと政治的に困るという理由から、幕府は農民に対して鷹場全体の徹底的な環境保全を命じていた。
当時の人々は環境を守るために「なにもしない」という発想を知っていたのだそうだ。
多様性のある自然界を維持することは、現代にあって非常に難しくなっている。
著者は書く。
「ホモ・サピエンス以外の動物を出来るだけ排除して成り立っている東京と、タンチョウのような大型鳥類までが雑居している江戸は、同じ場所に同じ日本人が住んでいるといってもあまりにも異質すぎて、別の世界としか考えようがない」
今ではヨドバシカメラに象徴されるような店が立ち並ぶ、かつて私が生まれ育った新宿の夜は、遅くなってからも昼間のように煌々と明るい。南口を初台方向に向かって甲州街道を一つ内側に入った場所にあった我が家の庭には、鳥小屋も砂場もあった。枇杷の木・無花果の木も数本、イチゴや青菜までも栽培していた。
もちろん蚊帳は必需品であった。
1958年(昭和33年)だ。約半世紀といえば、相当に長い時間かもしれないが、江戸から比べれば、人類の誕生と比べれば、短いとしか言いようがない。
しかし、とりわけ戦後の変化はテンポが早すぎる。人間のからだ(野生)を置いてきぼりにしているのだと思えてならない。
我が家の「蚊帳」はメモリアルとしてとっておきたい心模様を、この記事に重ねている自分を感じている。
昭和33年は1958年です。
(ささいなことですが、、、)
今後もよろしく。
おっしゃるとおり消極的でも、知恵は素晴らしいですよね。
平成と西暦(2000年以降)の差は12です。
私は自己流で「1ダース」と覚えています。
今まで本を書くときには、「暦」の表紙裏にある年齢早見表を参照していました。
昨日は、それが見当たらないままでした。昭和は25、平成は12・一ダースという数え方に早く気がつけばよかった。ありがとうございます。