羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

母との和解・・・・しみじみ人生を慈しむ

2018年02月09日 19時28分30秒 | Weblog
 母が高齢者施設に入所して、8ヶ月経った。
 本日、午後、訪ねていくと、介護実習の男子学生が、体操を指導しているところだった。
 終わるのを待つ間に、フロア長の方と立ち話をした。

 母には、週に1回の割合で、訪問歯科の「口腔ケア」をお願いしている。
 毎週金曜日が、その日に当たっている。
 フロア長曰く
「意思の疎通がうまくいくようになって、協力的で、自分でも進んで歯磨きをするようになってきた、と喜んでいましたよ。施設ではこれほど人がかわるんですね、と褒められました」
 入所当初には、置いてもらえるのかどうかと心配するほどの乱れ様だったが、最近の落ち着きには驚きさえ感じる。
 みなさんがどれほど真剣に母と向き合ってくださったのだろうか。

 一週間に一度の口腔ケア、2ヶ月に一回ほどの散髪、同じく2ヶ月ごとの年中行事参加、食事や水分摂取量の記録、睡眠、排泄、入浴、体重管理等々、家ではできないケアが功を奏した結果が出てきたようだ。
 体調が良くなったに違いない。
 私もいくたびにむくみのある足をマッサージして、3ヶ月は経つだろうか。
 顔の色艶もよく、声に張りもある。
 耳は聞こえにくいが、視力は問題なさそうだ。

 誰かの目が届く広いリビングに置いてもらっている状況はいまでも変わらない。
 一人になる時間もあるが、ほかの方々がいるときには、その様子も目に入ってくる。
 8ヶ月前にはお元気だった方も、昨年の秋頃から覇気がなくなり、自分で食事をすることができなくなっていく方を数名ほど見かける。
 みなさん母よりもお若い方々だ。

 この施設では、一つのユニットに10人が暮らしている。
 その中で最高齢の母が、日増しに元気になって、残った歯で常食をしっかり食べている。
 ユニットいちばんの食欲だそうだ。
 何と言っても食事をとる意欲と生きることは同義だ。
 自分で、箸を使って口に運び、噛む力がある。これが生きる意欲を生むことは間違いない。

 まず、そこから脱落していく方はお気の毒な様相を見せている。
「あんなにお元気だったのに」
 訪ねるたびに思う。
 人は病で亡くなるのではない。
 寿命で亡くなるのだ、と。

 それがその人に与えられた天寿に違いない。
 どう抗ってみても、こればかりは抗いようがなさそうだ。
 暦年齢は関係がない。
 食が細くなり、自分から食べる意欲が失われ、ロウソクの火が消え入るように、寿命が尽きる。
 それぞれの皆さんの様子を、一人一人見ていると、それでいいのではないかと思えてくる。

 食欲を失わず、生きる気力がみなぎっている方は、周りの人の様子など構わず、自分の命に向き合っているように感じる。
 その一人が母である。
 そして私が話す言葉を、一生懸命聞き取ろうとする。理解しようとする。
 その健気さに、わが親ながら、言葉にならない感慨を抱く。

 あれほど一緒に暮らしたくなかった母だった。
 それでも父が亡くなって16年、蜜な関係を持った。
 そうするうちに、母と娘の関係が逆転して、自然に和解ができた、と思えた。
 そして、今は、徒歩で簡単に訪ねることができるちょうど良い距離のところで、元気に生きていてくれることに、これほどの安堵が得られるとは思いもよらないことだった。

『「有り難い」とは、正にこのことだ』と、しみじみ母と自分の人生を慈しんでいる。

 命が尽きるまで、穏やかな日々を見守り続けられたら、この上なく幸せだ。

 今月27日には、満93歳の誕生日を元気に迎えられそうだ。

 徒然に・・・・
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