蔵の工事は、ようやく五合目くらいだろうか。
2月末には、ほとんど完成に近い、と言えるといい。
これまで二度ほど、蔵一階の活用を考えたことがあった。
三度目にして、偶然の出来事で、やらざるを得なくなった。
様々な職人さん、ものに関わってくれる人々との関わりの中で、「成りゆき」という言葉の持つ面白さを感じている。
成りゆきに任せる、成りゆき次第、・・・・意図したことではない状況で、変化が生まれ“三度目の正直”が実現しつつある。
なるようになる なるようにしかならない
周りの環境もそろって、今回は、成るように成る ようである。
10年前だったら手放せなかったものも、多少の躊躇感を伴いながらも、思い切りよく“さよなら”が言える。
これが10年後だったら、ものに押しつぶされて、呆然とするに違いない。
明るいため息をついている「今」、という時を挟んで、前後10年という時間は、微妙なスパンなのだと気づかされた。
10年ひと昔とはよく言ったものだ。これが5年では少々比較になりにくい。
時代の変化は10年どころか、もっと短い時間で急激に進んでいる。
としても今回の出来事の「成りゆき」は10年単位でちょうどいいかも。
この言葉の含蓄が、身に沁みる令和二年の立春であった。
さてさて、手元から離れて嫁入りしたものたちも、ほぼ落ち着いた頃だろうか。
残るは、一番の懸案、最後のものとのお別れが控えている。
これも成りゆきに任せてみよう。
この半月ほどに体験したものとの別れを通して、これまで生きてきた道程が透過されるから面白い。
果たして三度目の正直の行方には、どんな色合いの出会いがあるのだろう。
「断つことは 始まること」
野口三千三先生の言葉だ。
御意!